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今週の一枚(2014/05/19)




Essay 671:理情分離!〜合理のフィールドと感情のフィールド

 そして究極の目標は「しょーもないこと」  
 写真は、Fishmarketにて、つい先日舌鼓を打ちまくったテイラー(Tailor)。
 Wikiによると正確には違うのだが、ほぼ日本の「スズキ(鱸)」といっても良いかと((スズキの意味は3種あり)「ペルキクティス類(温帯性スズキ類)と呼ばれる主にオーストラリア産のスズキ類と一緒にして、スズキ科( Percichthyidae ペルキクティス科)と呼ぶ場合)。日本のスズキ君の方が顔が獰猛な気がするけど。

 冬場になるとシドニーでも出回ります。スズキといえば島根の奉書焼で、塩を振って奉書ならぬクッキングペーパーで包み、さらにホイルで包んでオーブン30分。超簡単。こっちに住むならオーブン使えると便利ですよ。ローストビーフとか簡単。でもって、スズキ君ですが、これが身が細かくてもっちりしててメチャ美味です。焼き魚の白身では一番美味いかも(バラマンディも意外と繊細で美味いぞ〜中華の清蒸が合う)。

 ちなみに左隣にチラと写っているのは、シイラでしょう。こちらではMahiMahiというが、この際調べてみたら(ネットはこういうとき便利ね)、やっぱそうで、MahiMahiというのはハワイ名前。ポリネシア語で「強い強い」という意味らしい。英語ではドルフィンフィッシュというらしいのだが、そう言うとイルカ食ってるみたいで寝覚めが悪いんだろうな。
 


生物の二大命題


 もっと大きく、もっと速く、もっと高く、もっと強く、もっと多く。
 ある目標を目指して、死ぬほど努力する。
 いかにして最速に。いかにして最大に。

 命題A:たくさんほしい!
 命題B:楽をしたい!

 という、人間の、いや生命の基本命題は上の二つに尽きるし、そのガチンコのジレンマをめぐって生命は燃焼されるのであった。そして最小労力で最大効果をあげるため、人は効率化の権化になり、合理化の鬼になる。

 例えばお金を稼ぐ。
 ダメだあ!こんなチマチマ稼いでいてもたかが知れている!もっとドカンと稼げないか?
 しかし、そうするとリスクもハンパなものでは済まなくなる。いかにしてリスクをヘッジしながら儲けたら良いのか?考えろ、動け、試せ、検証しろ、仮説を立てろ、さらに改善しろ、また試せ、検証しろ、、、この繰り返し。

 かくしてどんどん効率的なマシンのようになっていきます。
 たとえば戦闘機のように、F1マシンのように優れた工業製品は一切の無駄を排除し、機能一点のためにしぼりこまれる。磨きぬかれたそのフォルムは、それ自体が芸術品のように美しい。おし!俺もF1マシンのように生きるんだあ、、、

 なあんて、ここまで極端に考える人は少ないでしょうけど、大なり小なり似たような発想は持つでしょう。

 だれが、最大労力で最小リターンなど求めるものか。
 同じ程度にしんどい仕事だったら給料が高いほうがいいし、リストラされる危険が少なく安定性が高いほうがいいし、年金その他の保障が厚いほうが良いと思う。まあ、誰だってそうでしょう。

 「趣味はなんですか?」と聞かれ、
 「はい!骨折り損のくたびれ儲けをすることです!」と答える人は、あまりいないだろう、と思う。

理の世界

 これらの思考発想の論理背景は、機能であり、論理であり、意味です。
 なぜそれをやるのか?と聞かれたら、その全てが説明できる。なぜなら、それは数学のように「理」という共通のアルゴリズム(演算法則)があるからです。

 片道300円の切符も往復で買うと450円で買える。単純に片道×2枚買うよりも150円も得だ。
 しかし、そのためには条件があって、同じ日に帰ってこないとならない。だから一泊してきたら帰り道はパーになるから却って損である。しかし、これは単純な日常業務であって一泊するようなことはまずあえりえないから、往復切符を買ったほうが得だ。

 わかりますよね。なんで分かるかといえば、その発想が誰でもわかる理屈、合理で貫かれているからです。合理で貫かれている限り、いくら話がフクザツになっても理解可能です。

例えば、、、その1

 例えば、今回の所用は、得意先のお客のところに商品を届けるだけだから長くても30分もあれば済むという通常所見に対して、「本当にそうか?」とさらに突っ込んだ検討が加えられる。このお得意さんはお金持ちの高齢者であるが、つい3ヶ月ほど前に奥さんを亡くして気落ちしているらしい。だから人寂しいかもしれない。大体普通は郵送で済ませるのに、わざわざ「すまんが、持ってきてくれんかね」と電話をしてきたという背景事情から推察するに、誰かと話したいのかもしれない。そうなると30分かそこらで帰してくれないかもしれない。しかも時刻は夕方5時半という微妙な時刻を指定している。仕事もしてないのに何故こんな夕刻に?というと、もしかしたら仕出し弁当でも頼んで密かに歓待の用意をしているのではないか。いや、していないかもしれないけど、「もしかしたら」ということもある。そうであっても、いくらなんでも泊まっていけと言うことはないだろうと思うかもしれないが、ちゃんと地図と時刻表を見ろ。あの爺さんの家は、駅からバスに乗って30分というえらく辺鄙でしかし環境がいいところにあるのだ。確かに電車は夜の11時まで動いているが、駅からのバスが問題だ。特に夕方から夜にかけては、駅から奥に向かう便は帰宅用にでているが、奥の方から駅に向かうバスは7時が最終なんだよ。そんな時刻に駅に向かう人なんかいないし、大体が地元の人は車で移動するから。でもって、「せっかく君のために用意したのに」と悲しそうな顔をされて夕食をご馳走になる、まさかその状況で立ち食い蕎麦のように秒速で食べるわけにもいくまい。ビールなんか開けられちゃって、「○○君はいけるクチなんだろう?」「ま、一杯いこう」なんて言われてしまったらどうする。もうヤバいぞ。最終バスギリギリだ。しかも、それだけ飲み食いして、食うだけ食って「じゃあ」とは言いづらいぞ。最終バスを逃すと、歩くしか無いが、峠を二つくらい超える山道で土地の人以外は迷いやすいからまず無理だぞ。タクシー?そんなもんない。ハイヤーだよ。でもそれを呼ぶにしても携帯なんかつながらないぞ。圏外。爺さんの家の電話を借用しないと呼べないぞ。しかし、爺さんがそうすると思うか?「まあ、まだいいじゃないか」と引き止め、「いやあ、息子の昔の浴衣が残っているから」とか言われて泊まらされるかもしれないぞ。そうなる確率はゼロではないぞ。

 えっと何の話でしたっけ?
 だから〜!往復切符を買えば常に得になると決まったものではないってことだよ!

 ということで、さらに何の話かといえば、どんなに話が複雑になっても、そこには「損得勘定」という確固たるアルゴリズムがある限り、どこまで理屈でトレースしていけるということです。お得意さんのおじいちゃんがなにを考えているかという予想も、終局的には「その日のうちに帰れて、帰路の切符を使うことが出来るか」ということ、「どのくらいの確率で"得"ができるかという綿密な検討」という文脈に乗っかっている。だから話がブレずに理解できる。

例えば、、、その2

 事例をポンと国際的なビッグビジネスの舞台にワープさせても話は同じことです。どこぞの新興国の政府に巨額の融資&プラント輸出案件があり、その決定を行う経営会議ではこんな会話が行われているのかもしれない。

 この衛星写真をごらんください。これは○○国の首都から東に50キロほど離れたジャングルの写真ですが、ここに微かな一条の線があります。拡大します。ジャングルの中の樹木が倒壊し道のようになっているのが分かります。これは何か?です。この写真は2日前にアメリカの軍事衛星で撮影されたもので、これを手に入れるために、当社のアメリカ支社の協力を仰ぎ、いや〜苦労しましたよ、5000万円ほどかかりましたけどね。これをさらに軍事関係の専門家筋に解析してもらったところ、おそらくは大規模な軍事移動があった、大掛かりな機甲師団の移動ではないかとのことです。○国にはご存知のように反政府ゲリラがありますが、その装備は貧弱でテロくらいしか出来ないとされており、○政権は安泰だというのが今回の融資案件の基礎になっております。が、反政府組織がどこかの国の軍事援助を受けて首都侵攻を図っているとしたら話は全く違ってきます。推察するに○国の西隣の△国です。先週あたりから○国西の国境線あたりで△国の大規模な軍事演習が行われて、○国内に緊張が走り、○国の軍備は西にシフトしています。つまり先週から首都の警備は手薄になっているということです。そうです、これが陽動作戦であるという可能性はあります。もし、この一条の線が本当に首都侵攻の軍事行動だとしたら、○国の政権もそれほど安泰とは言えないことになります。どう転ぶか分からない。融資案件の契約は明後日ですが、この進軍のペースで行くと来週には首都に到達します。さてここで、当社の取るべき戦略ですが、明後日の契約日をいきなり延期というのはミエミエですので、やるにはやる。しかし、引き延ばす。単なる引きのばしだと、今度はライバルの○社が有利になってしまいますので、今回の案件にもう一つボーナスをつけてやるのです。○地区のインフラ整備、ダムでも高速道路でもなんでもいいから、そちらにも協力をしたいと。このエリアは現政権の○大統領と腹心の部下の○の出身地であり、このあたりの建設関係の利権は全部大統領一派が握っています。そこをくすぐるわけです。いや、言い方はなんとでもなるでしょう。これもご承諾いただけるならば、契約規模が大きくなり試算をやり直さないとならず、いや必ずや閣下のご満足いただけるプランをご用意いたします、つきましては多少のお時間をとか適当に。この間、政府軍が反政府ゲリラに対して有効な措置を取りうるかどうか、そもそも気づくかどうか、それを注意深く見るのです。もし全然ダメだったら、この政権も先は長いことないかもしれませんし、融資といっても金をドブに捨てるだけってことになりかねません、、とかなんとか。

 これも話が巨大でフクザツになっているだけで、構造そのものは同じです。
 同じ「理」という演算法則に則って話が構築されているから、理解可能だし、検討するのも、反論するのも可能です。理という共通原理がある以上、だれでも参加できるし、千年後にも語ることが出来る。

理と効率の世界のオキテ

 ビジネスとか、実務能力というのは、この種の理の世界に生きていくための「理の能力」でしょう。
 ちゃんと理屈に従ってものを考えていけるかです。それに必要な情報を収集し、緻密に分析検討し、いくつかの可能性をずらっと並べて、しかも一切の感情を排除して客観的に羅列し、その可能性の強弱を検討し、なにがどうなってもいいように、それぞれに限られた資源を分散投資し、コトを進めていくことです。

 それを推進するためには幾つかのオキテがあるのでしょう。

オキテその1〜マシンと最適チューニング

 まず、「理」が求めるまま、マシンのように正確に動けるかどうかがポイントになります。

 Aという効果を得るために必要な労力が100必要だったら淡々と100やる。それは良い。
 しかし、多くの行動(営為、努力)には「賞味期限」や「発酵時間」があるので、3日以内に100やりきったほうがいいのか、一日10づつ10日毎日やった方がいいのか、それぞれに違う。英単語を覚えるにしても、人間の記憶のメカニズム、要は脳内シナプスの生成と増強という物理現象、生化学現象にすぎない。シナプス間に電位差が生じ、回路が通じたとしても、その後放置してたらまた切れてしまう。何度も何度も繰り返すことによりその回路は増強され、あたかも検索上位にやってくるように記憶が確立する。つまりは頻度に応ずるのであって、反復練習が何よりも大事。ではどのくらいの時間をあけて反復すれば最小努力で最大効率を得られるか、それは自ずから決まってくる。なんせ単純な物理現象なんだから、客観的な最適化を図りうる。これを日々の勉強にあてはめて、さて何をどの順番でどのくらいやればいいのか、フィットネスクラブのトレーナーのメニュー作りのような作業になる。

 このようにマシンになりきったとしても、今度はそのマシンの最適化チューニングが問題になります。
 勉強が上手な人というのは、このメニュー作りが抜群にうまい。そんな原理や理屈は知らないのかもしれないが、経験的にこうすれば良いというのがわかっているし、常にわかろうとしている。どうすればよいのか、どうすればより効率的なのか、昨日やったことを翌朝覚えている日もあれば覚えていない時もある。なんで違うのか。どこが違うのか。そんなことを朝から晩まで考えている。ただ闇雲にやらない。

 経営だって同じことで、経営者は経営の最適化を考え、どうすれば無駄を省け、どうすれば最小費用で最大利潤をあげられるかを考える。日本式経営ではそこらへんが甘いのだが(それは実は良い一面でもあるのだが)、世界最先端のキャピタリズムは甘くない。モザンビークにアウトソーシングすれば、社内の年収1000万円台の高給取り達をガンガンとクビにできるのであったら、ためらうことなくバサッとリストラできるのが「良い経営者」と讃えられ、株式総会で投資家に拍手で迎えられる。

オキテその2〜感情を殺せるか

 そして何よりも大事なのは「感情に溺れない」という重要なルールをきっちり守っていることです。

 こと効率に関する限り、最大の敵は「感情」です。大体人間の生理変化というのは、反復継続の一定期間という「時間」が絶対必要で、だいたい3ヶ月と言われますよね。ダイエットにせよ、筋トレにせよ。だからこの期間続けられたらいいんだけど、それが至難の業です。なぜなら感情に邪魔されるからです。「もう飽きた」とか、「しんどい」とか、「1日くらい休んでもいいだろう」「今日はちょっと熱があるからお休みにしよう」、さらには「すごく無意味なことをしてるんじゃないか、人生的にも、勉強効率的にも」という迷いが生じて「こんなことして何になるんだ」とか思っちゃう。悪魔の囁き。

 つまり、全てを構成するベーシックな論理構造=演算法則=アルゴリズムが「理」ならば、「理」の原理に忠実に徹しきれるか、です。そこが分水嶺であり、そこが成功失敗の分かれ目でしょう。勝ち癖がついている人は、これがよくわかっていて、きわのきわで感情を殺せる。モチベーションなんかゼロでも動ける。てか「必要」というモチベーションで十分。それ以上は考えない。

 そして理の世界のテリトリーは、同時に競争原理のテリトリーとかぶってる場合が多く、そこでの原理はシンプルです。「負け犬は死ね」です。こうしている間にも自分よりも効率的な努力をし、自分よりも優秀な奴がいたら自分は死ぬのだ。めっちゃシンプル。めっちゃ厳しい。でも、理の世界、競争原理とはそういうことで、勝つか負けるか、食うか食われるかってそーゆーことでしょう。「皆がんばった」から皆が甲子園に行けるわけではない。一校だけなのだ。

 しかし負け癖のついている人は、きわのきわで感情に負ける。感情を優先させてしまう。つまり感情にそれだけのパワーがあり、治山治水のように感情を統制するインフラが少ないし、また感情統制技術がヘタクソだということになります。だからモチベーションとか言い出すし、多くの場合は怠けるため、負けるための言い訳にする。「必要」以外の理由がほしくなった時点でもう負け組っしょ。

 では、なんでそんなにヘタなの?といえば、絶対なんか理由はあるのであり(本当はやりたくないから無意識にブレーキをかけているとか)、そこから先はココロの問題で、カウンセリングでも瞑想でもやったほうがいいです。つまり徹底的に合理に殉じられないということは、それをやることにとことん腑に落ちているわけではないんじゃない?と。こんなの「なんとなく」やってるだけでは無理だし、やらないと真剣に地獄に落ちるという怖さを身にしみて分かってないという甘さもあるだろうけど、多くは心の底で「吹っ切れてない」ってのが多いと思います。ま、でもそれはまた今回とは別の話です。

非論理〜感情の世界

 以上述べてきたのは、全部「理」の話です。
 生物の二大命題=「より楽に」「より多くを」という大命題に出来るだけ忠実にやろうとする局面です。お金を稼ぐこと、生計をたてること、就職やら仕事やらを成功させること。

 しかし、それすら全人生の局面の半分でしか無いと思います。
 あとの半分は、徹底的に違う原理、「反論理」「非論理」の法則で動く。理の世界では感情は蛇蝎のように嫌われますが、非論理の世界では感情こそが神になる。

 いきなり何を言ってるんだってことですけど、今の人類、今の地球だったら、半分くらいのエネルギーがあったら生命活動は維持できてしまうと思います。「半分」というのも腰だめのいい加減な数字ですけど、だいたいそんなもんじゃないですか?

 なぜって、もし必死にやらないと死んじゃう状態=地球の最適化である自然淘汰が行われ生態系のバランスが保たれている状態だったら、人類の人口はそんなに増えも減りもしない筈です。ところが増えている。もう爆発的に増えていて、わずかな間に30億、40億、、いまでは70億人を突破している。これだけ戦争やら内戦をやって、これだけ犯罪やら差別があって、これだけ危険物質や健康を害する物質が世の中に行き渡って、これだけ鬱になりがちで自殺率が高まったとしても、それでも増えている。もう爆発的に増えている。

 しかも、先進国から見たらありえないようなハードな生活環境、きれいな飲料水自体が入手困難とか、いきなり山賊やらゲリラやらが村を襲撃して家族が虐殺されたりとか、そんな超過酷な状況においてすら人口が増えている。むしろそっちの方が増えている。もう、どんだけ人類強いんだよ、どんだけしぶといんだよという。大体自然状態では寿命20歳かそこらなのに80歳も90歳も生きるんだから、どれだけ生育環境恵まれているんだって話です。

ヒマという危険物質

 それが何か?というと、自然状態だったら話は簡単だったということです。理の世界でだいたい話が済んだ。今日のメシは今日ゲットするしかなく、獲物が3日連続して獲れなかっただけで、もう餓死して人生終わってしまうという。もうスガスガしいまでに超シンプルな状態。このように生命を維持するだけで全エネルギーを使い果たしてしまう環境では、他の動物達のように大自然の偉大なる「合理」の法則(本能)に身を浸し、その赴くままに動けば良い。それをやってるだけで圧倒的な達成感と満足感が得られたでしょう。それ以上は考えない、欲しがらない。第一それ以上考えているヒマがない。

 ところが簡単に生命維持できるようになってくるとヒマができる。ヒマを持て余すようになる。ヒマというのは、野生の狼のように、人間にとっては危険なものだと思います。「小人閑居して不善を為す」といいますが、ヒマになるとろくなことをやらない。小犯罪なり、セコい策謀なり。また要らんことも考えるようになる。行動量よりも思考量が多くなってくると、現実以上のことを考えるようになり、そうなると人間は欲張りだから「こうなったらいいのにな」と考え、「なんでそうならないんだ」で腹が立ったり、虚しくなったり。

 その「ヒマ」「余計なことを考える」ことが、ひいては優秀な哲学を産み、科学を産み、アートを産むこともあるけど、そういう成功例ばかりではなく、ひとり悶々としたり、自暴自棄になったり、酒やドラッグやセックスに溺れたり、セルフ・ディストラクション(自己破壊)に向かったりもする。ヒマやら思考というのは、人間にとって非常に危険な物質だとも言えます。ちゃんとこの危険性を認識して、ちゃんと管理しないと、えらいことになる。

 なんせ、そこまでヒマになることは自然も想定外ですから、本能という形でデフォルトで用意されていません。だから、子孫を作らないのにセックスをするとか、必要がないのに生き物を殺し、それも同族同士で殺し合うという、生物として終わってるような変態行為も嬉々としてやります。変な生き物なんだわね。

 こういった非自然、非合理の領域が、喜ぶべきか悲しむべきか、どべーっと広がってるから、大変なんだわ皆の衆。

感情こそが神

 この生命維持という本来のライフスタイルを超えてしまった余計な部分=ハンパな端切れ部分が、僕らの人生や生活を天国にも地獄にもするのだと思います。

 なんせ基本的にやることないし(だからこそヒマなのだが)、本能による解決もできないから、結局個々人の主観的な満足や、精神的な話になります。客観解がないんだから、主観解にならざるを得ない。しかし主観世界というのは、過去に何度も書きましたけど、地獄の迷宮です。どうにでも感じられるし、どうにもで考えられるから、「こうすれば良い」というのが無い。

 思えば理の世界は良かった(^^)。「いかに楽に満たすか」という絶対原理のもとに客観的な最適解がありますから、あとは頑張ればいんですよね。どんなに過酷な弱肉強食世界であろうが、ルールはシンプルだし、やればやっただけのことはある。「やりゃあいいんだ、やりゃあ」ってのはすごい楽ですよ。

 しかしヒマというハンパな迷宮では、何が正解か分からない。本人が「いいな」と思えたらそれでいいんだけど、その本人が頼りなくて常にグラグラしてるから、今「いいな」「しあわせ!」と思ったことでも、半年もすればブーブー文句言ってるかもしれない。てか大抵言ってるという。常に揺れ動く感情によって支配されているので、解決方針のたてようがない。

 その気まぐれ加減は、まさに神と呼ぶにふさわしい。同じように祈りを捧げていても、ニコニコ豊作をもたらしてくれる時もあれば、旱魃や大地震でこれに報いるときもある。せっせと人柱やらイケニエを捧げても、これがまた効いてるんだか、効いてないんだかよく分からない。しかし、圧倒的。絶対的。もうどうしようもない。

 この非論理世界を統べる感情神がお怒りのときは、どんなことをやっていても楽しくない。いい仲間に囲まれ、収入も不安がなく、美味しいものを食べていたときでさえ、なぜか心にポッカリ穴が開いたり、不安で不安でいたたまれなくなったり、急に何もかもが無意味に思えたり。恐るべきは神の御業よ。「いかなる神に我らは供物をもて奉仕すべき(リグ・ヴェーダ)」ってな感じ。

非論理世界の歩き方

気持ちいい系と楽しい系

 ま、要するに、どういうときにハッピーって僕らは感じるのかな?ってことです。それがわかれば苦労はしないし、そんなの人によりけりなんだろうけど、でも、僕が思うに、純粋に楽しいなってときって、しょーもないことやってるときだと思います。

 精神的快楽やら、幸福感やら、呼び名はなんでもいいけど、そういう状態の時にどう感じているかというと、あらたまって「幸せだなあ」とはあんまり思わないのではないか。まあ、そう思うこともあるんだけど、それって「これがいわゆる”幸福”っていうのね」という、どことなく理性的にあてはめて理解しようという、「理」の要素が入ってるように思うのですよ。「これが本当の仕合せって言うのだろうな」という分析的な、納得的な、「足るを知る」みたいな、ちょい悟り的な感じ。でも、本当に幸福感があるときって、もっと素朴な原感情があるのと思うのですよ。つまり、「楽しい!」「おもしろい!」「うれしい!」「気持ちいい!」という感情です。

 さらに分析すれば、本能が満たされるという分かりやすい場合は「気持ちいい」「うれしい」系が多いでしょう。眠くてぶっ倒れそうなときに、ふっかふかの布団に突っ伏して、「あ”〜、極楽、、、」と思うときとか、温泉に入って身体の隅々まで筋肉や神経がゆるんでくる感じとか、死ぬほど喉が渇いている時に冷たいビールを息が続かなくなるまでゴキュゴキュ飲んで、ぶはーっとやるときとか、大好きな人と布団にくるまってオデコとオデコをこっつんとやってるときとか、これらは本能が満たされるという深い快感があります。それはもう過酷な理の世界を頑張ってきた「理のご褒美」みたいなものです。そして、これらの「満たされ快感」の場合は、「気持ちいい」「うれしい」系だと思う。

 ところが、純然たるヒマ迷宮世界での快感というのは、満たされるべき本能がないから、幸福の原感覚もちょっと違ってて、おそらくは「面白い!「楽しい!」だと思うのです。

 そして仮にそうだとして、どういうときに僕らは面白いと思い、楽しいと思うかというと、突き詰めていくと、しょーもない、くっだらな〜いことをやってるときだと思うのですよ。あんまり意味に満ちた、まっとーなことをやってるときというよりは、その余りの下らなさ、馬鹿馬鹿しさに笑い転げるような感じ。あるいはあまりにも普通になってるから改めてそうは思わないけど、よく考えると、「何が悲しゅうて」「わざわざ好きこのんで」「こんなご苦労なことを」やってる場合です。僕らがムキになってやってること、それはスポーツであっても趣味であってもなんでもそうですけど、別にやる必要なんかないものばかりです。やったからといって何がどうなるものでもないものばかり。

しょーもないことを神は喜ぶ

 例えば、釣りだって、魚が食いたかったら、魚屋行けばいいし、料理屋にいけばいい。それをわざわざ朝の4時くらいに起きて、えっちらおっちら遠方まで出かけ、装備一式にバカにならないお金をかけ、夜明け前にクソ寒い海岸で糸がこんがらがったり、餌がうまくつけられなかったりしながら、日がな一日釣り竿持って、何が楽しいんだ?って話です。おまけに、全然釣れないボーズの日も普通にあるし、外道ばっかりってときもある。フラストレーションを溜めに行ってるようなものであり、どうかしたら高波にさらわれて命を落とすことすらある。

 なにが悲しゅうて、なんでわざわざ、そんなご苦労なこと?といえば、「楽しいから」「面白いから」に尽きると思うのですよ。いや「大自然に親しむ」とかいうもっともらしい理由もあるだろうけど、そんなの後付の理由であり、奥さんに対する「理論武装」でしょう。オーストラリアにやってくるときに「英語を勉強してグローバル人材になる」という後付の理論武装をほどこすのと同じで、そんなの実は誰も本気で思ってないと思うもんね。ただ面白そう、楽しそうなだけでしょ?

 このように、「面白い」「楽しい」という感情を得るためだったら、人はなんでもやります。幾らでもお金を出すし、幾らでも努力するし、しまいには命すら賭ける。そこまで全身全霊で没入してやってることといえば、例えば、魚屋で買えるものを、その数十倍の費用と労力をかけてゲットするという、およそ理の世界からすれば、気が狂ったとしか思えない、愚にもつかない、しょーもないことです。

 F1レーサーだって同じことで、速く移動したいなら飛行機乗れよって話です。それに最初から最後まで同じところをグルグル廻ってるだけで、結局のところ移動距離でいえばゼロじゃないか。そんなもん他人よりも車が速くて、だから何だというのだ?どんなに速くたってヘリコやセスナにすら負けるだろうに。山登りもそうです。頂上まで登ってもどうせ帰ってくるなら最初から行くなよ。格闘技だって、いってみれば暴行、傷害、殺人の技であり、そんなものを身につけても、それを発揮したら犯罪になっちゃうし、そもそも相手を倒したかったら銃器を用意したほうが早い。水泳だって、別に魚じゃないんだから、水の中で泳げなくたって人生に支障ないだろ、万が一乗ってた船が難破して溺れた場合っていっても、そんなの一生の間にどれだけ確率があるというのだ?

 このように、僕らの余暇やらレジャーやらの営みは、「そんなことして何になる?」と言われてしまえば、終わってしまうようなものばかりです。「しょーもない」っていえば、本当にしょーもないことばっかです。

 ひるがえって遊びの天才、幸福の天才である子供達はどうしているか、僕らの子供時代は何をしてたか?です。これが輪をかけてしょーもないことをやってるわけです。「だるまさんが転んだ」とかさ、「そんなことして何になる?」ですよ。「いや、あれは一瞬の動と静の切り替えと、リズム感やバランス感覚を養うのに最適です」なんて考えてやってる子供なんかいないでしょう。カンケリにせよ、かくれんぼにせよ、鬼ごっこにせよ、もう徹底的に意味ないです。

 意味ないんだけど、めっちゃくちゃ面白いよね。前にも書いたが、大学時代の研究室のピクニックで、頂上でカンケリをやろうというお馬鹿な企画をたてたけど、もう超盛りがりましたからね。何人か足がつったり負傷者も出たけど、もう腹抱えて大笑いしました。子供の遊びって、大人になってからやった方が面白いぞ。「大人になっても面白い」のではなく、大人になってからの方がもっと面白い。だってここまで純粋にしょーもないことって、大人になってからあんまりやらないもん。子供は日常やってるけど。

「遊び」は意味が無いほど面白い

 昔から思っているのだが、「遊び」というのは、もう意味がなければないほど面白いです。しょーもなければ、しょーもないほど面白い。下らないことが楽しい。下らないからこそ楽しい。もう消しゴムのカスを集めてビンに入れたりして、それで何をしようというのだ?という。そういえば日本酒のフタを集めるのが流行って、やれ3組の誰それは300枚持ってるとか、いや4組の誰は500枚だとか、しかも珍しい○○を持ってるとか熱く語っちゃあ、「すげー!」とか言い合ってたわけで、なにがすげーんだよ、酒も飲めない、味もわからない小学生坊主が、そんなゴミみたいなものを500枚も持っててどうしようというのだ、ただのアホじゃんってことだけど、「すげー」んだよね。面白いんだ。

 いや、ほんと、しょーもないことをやればやるほどワクワクしますよ。だから、ヒマになったら下らないことしてください。「お前、アホか?」と真剣に他人に言われるくらいのことをするのが良いです。いやせっかくオーストラリアのシドニーに居るんだからさって、シドニー中のバス系統を全部乗るんだとかいって、毎日せっせとバスに乗って、とんでもないところまでバスに揺られて、終点の写真を撮っては、真夜中に帰ってくるとか。で、うれしそうにバス系統図にバッテンをつけて「おし!」とか一人ほくそ笑んでいるという。あるいはシドニー中のラクサ(東南アジアの麺料理)を食べ歩きをするんだとか、わざわざ100キロ離れたブルーマウンテンまでラクサ食べるためだけに行ったりとか。「だ、大丈夫か?」と人に言われるくらいの、理解者ゼロくらいの愚行が望ましいですね。世界人類の70億いても、多分誰も理解してくれないだろうな〜というくらいの。

 こういうバカバカしいことも、やり始めるとムキになったりしますよね。この種の「全部制覇」系ってけっこう燃えます。「○○市内だったら全部」という限定付きでもそれでも「全部」って言いたいというシンプルな願望。全部やったから何だと言うのだ?というと、別に何もないんだけど、でも全部!って胸を張りたいという。お遍路さんだって、パッケージされた全部系でしょう。そりゃ大願成就とかご利益とかあるけど、それも後付臭くて、本当の面白さは「全部制覇の快感」ではないか。なっかなか制覇できないから面白いという。「なんでこんなことやってんの?」という馬鹿馬鹿しさが、日常における非日常(ハレ)を作り、そこにスコーンと突き抜けて青空が見えるみたいな。

 同じように蒐集系の趣味もあります。切手とかさ。使用済みの切手って、もう使えないんだから、世間的に普通に言えばただのゴミでしょうに。でも「集める人」は多いですよね。トイレットペーパーの包装紙を集める人とか(結構デザインが素っ頓狂だったりして面白くて、いい着眼点だなと感心した)。

 こんなのなんでもいいんですよね。ビール飲んでたら、ビールの王冠でオハジキやるとか、テーブルの隅にゲートを作ってその間を通り抜けるように、慎重に狙って、ぴーんと弾いて、やったあ〜!とか、惜しい〜!とか、もうそれだけで楽しい。ビール瓶の上にビール瓶を積み上げて、また慎重にバランスを取って、3個積めたらピースサインで写真撮って、かつて5個積めた奴がいるというレジェンドになって。

 

理情分離  もう徹底分離!

 ということで、いよいよ結論にいきます。

 合理の世界と感情世界とは、もうぜーんぜんアルゴリズムが違います。神様が違う。合理の神と感情の神。これをゆめゆめゴッチャにするなかれ、です。

合理的に働きまくって、非合理的なしょーもないことをする

 死ぬほど努力して、合理に合理を重ねて、マシンのように切磋琢磨して正確に動いて、それなりの地位を得て、お金も得ました。でもって、そのお金と余暇時間で何をするのというと、思いっきりしょーもないことをするのですな。

 昔聞いた話だけど、アメリカの年収何十億のCEO達は、金が貯まったらテキトーにリタイアして、中西部に牧場買って、不慣れな手つきでトラクター動かしたり、牛のフンまみれになったり、自分でビール作ったり。それがしたいらしい。全員がそうってわけではないけど、「これがアメリカだよ」って感覚があるとか。そういえば何かで読んだけど、美味しんぼだっけな、どっかの企業のトップ、それも会長とか偉い人が、なにやら密かにやっている。何か深謀遠慮があるのかと思いきや、料理趣味が嵩じて、自分でベーコンを作っている。そのためだけに軽井沢かどっかに別荘を買って、燻製室を作って、ヒマを見つけてはせっせと通ってベーコン作りに精を出しているという。「買えよ、そんなもん」って感じなんだけど、それが楽しいんだろうな〜。わかるような気がする。

 これは別に偉いさんでなくても誰でも同じだと思うのです。
 めちゃくちゃ合理的効率的に働きまくって、努力して、金稼いで、それで何をやるのかといえば、徹底的に非合理的なしょーもないことをやる。最終ゴール地点は「しょーもないこと」です。逆に言えば、アホとしか思えないようなしょーもないことをやるために必死に努力をするという。

 これは矛盾しているようで矛盾してないです。物事の正しい配列というか。理の世界では理に原理に従い、感情の世界では感情に従う。純粋に面白かどうか、楽しいかだけで動く。

 しかしながら、ともすれば合理と感情の二つをゴッチャにしがちなんですよね。それが不幸の元になるという。

 合理で動くべき局面において、楽しさとか面白さを過度に求めてしまい、それが合理の徹底を阻害し、結局何事もなしえないという不毛さは、既に書きました。純粋になにかの技量を身につけたい、英語が上手になりたい、腕っ節が強くなりたいと思うなら、もう何をどうすればよいか、最速最強のメニュー作りに腐心し、あとはマシンのように実行すべし、です。その過程で、楽しいとか、しんどいとかいう感情は全部シカト。楽しくなくても、つまらなくても別に死にやしない。もちろん楽しく感じるときの方が学習効率が高い場合もあるから、そのときは楽しさを配合しますが、それは楽しいからやるのではなく、目的達成に合理的だからやるに過ぎない。決してそこは履き違えない。

 一定期間に多くのお金が欲しければ、最楽最多の最大効率を探すべきだが、そこにやりがいとか、キツイとかの感情を混入させてはならない。金が入ればそれでいいんだったら、それ以外のことは考えない。キツすぎて続かずに結局効率が悪いならばそれは配慮するけど、その程度。また、いかにすれば効率が良いかを考えている時間すらも無駄という部分もある。これは試験問題を解くのと同じで、どの問題から先にやるのが一番良いか最初にバーっと見て考えろ、とは言います。しかし、その順番決めを考えているうちに試験時間が終わって零点食らってたらアホでしょう。

「もっともらしい意味」に騙されないこと

 逆に感情の神の支配する領域では、「もっともらしい意味」こそが悪魔になります。「こんなことして何になる」とか思ったらダメだし、何にもならないからこそ良いんだから。

 趣味はなんですかと聞かれて、カッコつけて答えたいとか、「わあ、素敵ですね」と言われたいとかいうのは、感情神に対する冒涜です。素敵でなくても、サイテーと人に言われようとも、自分が面白いな、楽しいなと思えるかどうかが唯一絶対の基準であり、それ以外の基準は一ミリも混入させてはならない。これは遊びのコツですけど、遊びの局面でへたに「意味」をもってくると「濁る」んです。濁った分だけ純粋に楽しくなくなるんですな。

 このへん日本人って妙に真面目だから、どっかしらヘタな部分があるように感じます。「もっともらしさ」に弱いというか。

 例えば、「遊びの提案」みたいなTV番組、旅行記とか食べあるきとかでも、「古くからの江戸情緒に触れる」とかさ、「自然の息吹を感じる」とかさ、「社寺仏閣をめぐり、古典に親しむ」とか、「在りし日を偲ぶ」とか、美しい言い回しに騙される部分があるように思います。ここで騙されると、せっかくの旅行が、なんか修学旅行的に色褪せるのですよ。実際の修学旅行だって、「修学」的要素なんか事実上ゼロに近く、多くのは旅館の部屋でのマクラ投げとか、クラスの誰が好きか告白タイムとか、意味なく懐中電灯つける奴とか、怖い話したがる奴とか、自宅からこっそりウィスキーを持ってくる奴がいたりして、先生に怒られて深夜に廊下正座とかさ、そのへんの全然もっともらしくない非日常が面白いわけだしね。

 「何が楽しいか」ということに関しては、これはもう全身全霊で敏感になるべきだと思います。だって、その感性こそが自分の人生のクオリティを決定するだから、金儲けの100倍くらい超真剣になるべきだと僕は思う。

 それこそ株取引や不動産取引における真剣さやら、ミュージシャンがちょっとした鳴りや響きに納得がいかずに何度もトライを続けるように、その見極めが甘いと楽しさがドンと減る。「楽しいけど楽しくない」「楽しいふりをしている」って変な具合になる。だから、もう、精密に、誠実に、なんでこれがやりたいんだろう?何が面白いんだろうを?考えるのではなく、ビンビンに感性とがらせて「感じる」ことが大事だと思います。

国内旅行の面白さ

 例えば、日本の国内旅行が楽しいにしても、「日本の地方都市はどこもだいたい同じでしょ」って言ってしまえばそれまでなんですよね。駅前に歩道橋があって、バスターミナルやタクシー乗り場があって、商店街にアーケードがあってとかさ。観光名所とかいっても、大体は同じ国で、それほど面積が広いわけでもないから、景色的にも似たり寄ったりで、海か山でしょという。でも、そういう大雑把な記号処理してたら絶対楽しさなんかわからないと思います。また、司馬遼太郎の街道をゆく的に、古の○○街道の歴史のなんたらを感じ、、って、相当の知識と審美眼がないとそんなの分からんですよ。ただの普通の田舎の国道であって、街道沿いに「うどん」とか書いてある店があって、、って、よくある風景でしかないもんね。なんたら情緒とかいっても、普通は感じないもん、風景に日常ノイズが多すぎてさ。

 でも楽しい。そういうなんか珍しいものを見たり聞いたりって博物誌的な部分が楽しいというより、「いつもと違うところにいる」というGPS感覚、知らない時空間感覚が、とりあえずときめく。というか「いつもと違うことをしている」だけで既にどことなく楽しいのですね。

 また、JRの列車に乗り込み、窓際の席をみつけてどっかと座り、頬づえついて見慣れた日本の田園風景が流れていくわけだけど、珍しい風景が良いのではなく、珍しくないからこそ良い、そのありふれた感じ、ちょびっと懐かしい感じがいい。稲刈りを終えた真っ平らな田んぼに、意味があるのか広告看板が視界をほにゃ〜っと流れ去っていくのがいい。踏切に接する農道のような小さな道で軽トラが所在なげに信号待ちをしている風情がいい。知っているけど知らない感じ、見たこと無いけど見慣れているというワケわかない宙ぶらりんな感じがいい。

 またそんな風景が延々と続く、興奮と安らぎがないまぜになった退屈感こそがむしろ楽しいって部分もあると思います。でもって、退屈のあまり、車内販売とかきたら、欲しくもないものでも買ってみるとか。ちょっと無駄遣いだよなって思うんだけど、その無駄使い感覚が、子供の頃の放課後の買い食い感覚でちょっと嬉しいという。ビールとチーズ蒲鉾が大好物で、それがあったりすると嬉しかったりするんだけど、そんなに好きなら毎日自宅で食ってるのかというと実は食べてない。旅行にいくときだけ好物になるという。その変な感じが楽しい。すっごい微妙な楽しさなんだけど。

 そういえばJRの車内で飲むビールって、実はそんなに美味しくないです。ビールが美味しくなる条件である、炎天下→冷たいびールという温度&環境差もないし、気持ちのいい居酒屋さんの盛り上がる空気感もないしね。でも、その美味しくないビールを飲んでいるのが、なんか妙に楽しい。そもそも真っ昼間っからビールを飲んでいるという微かな背徳感が楽しい。非日常の変な感じを楽しんでいるというか。これもすごい微妙な楽しさです。

大雑把な記号処理をしない

 だから思うのですが、単なる一泊二日の国内旅行でも、こういった細かな楽しさが数十数百あって、それらの集積なのでしょう。うらびれた温泉宿のペったらスリッパと地下の卓球台とか。古いトイレの丸タイル床に木製つっかけサンダルのカラコロ音とか、耳に焼き付いてて、今でも脳内で再生できるもん。それらを一つひとつ賞味する。丁寧に包装された小さなキャンディーや和菓子を一つひとつ開いて食べるように。リアルタイムには自然に賞味できているのだけど、あとで考えるときにも一括りにしないこと。これが難しいと思います。あとになると「温泉に行った」「旅行は楽しい」という「お菓子はおいしい」というクソ大雑把な記号処理をしちゃいがちでしょう?これやると、何が本当に楽しかったのかって感度が鈍ると思うのですよ。やっちゃいけない、、ってまで厳しくは言わないけど、もったいないんじゃないかな〜って思います。

 楽しいこと、面白いことって、ドカーンというメガトン級なのもあるけど、でも多くは「ちょっと楽しい」というほこっとした物が多く、日常生活を彩るそういった楽しさに敏感になるのは大事なことだと思います。

 また、過去自分がやってきたこと、あるいは今やってることでも、もっともらしい理屈で、大雑把な記号処理をしたらダメだと思います。大事なものが零れ落ちるから。

混在しても原理は別

 実際に生きていると、これは意味領域、これは感情領域と截然と分割出来はしないでしょう。意味的でもあるけど、感情的な部分もある。つまり第一次的には生計を立てるという意味で仕事をしているけど、でもそれに尽きるものではなく、やっぱり面白さとか楽しさもほしい。当たり前だと思います。

 でも間違ってもゴッチャにしてはならないのは、合理神と感情神のフィールドの原理の差であり、その心構えみたいなものでしょう。

   標語的にいえば、

    合理のフィールドでは感情は妨害要素になる

    感情のフィールドでは意味が妨害要素になる

 ということだと思います。

 実際には二つの原理、要素が混在している場合がほとんどだけど、それは混在しているだけの話で、一つに溶け合っているわけではない。だから同じ仕事でも、これは意味合理ベースなのか、感情楽しさベースなのかで分け、さらにレシピーを考えていくといいと思います。二つの原理があるということを念頭におけば、それほど苦労なく「これは〇〇」って解剖するように分かると思います。

 って書いたけど、もっと注釈を加えたほうがいいかもしれません。なんでこんなことばっか書くのかというと、日常の相談業務がわりとこの種の話になるからです。海外だ、留学だ、ワーホリだ、移住だとか言うのですが、合理フィールドやら「もっともらしい意味」に引っ張られているキライがあって、でも本当は感情フィールドじゃないの?という。それをゴッチャにしてるから悩んだり方向性が見えなくなったりという。感情フィールドが敏感な人、そこに自信を持てる人は強いです。「面白そうだから来た」で終わりですから。僕なんかもそうだったですけど。それ以上に再就職が、、とか過度に悩まない。来たら来たで、独特の嗅覚で勝手に面白いものを探しだして、野っ原の子供のようにエンドレスに遊び続けられるし。

 極論すれば、面白かったら野垂れ死んでも良い!くらい強い人だったら、人生全部感情フィールドで処理できます。そういう人も稀だけど世間にはいます。ほとんどホームレス同然の貧乏アーティストとかそうだし。逆に言えば、ここに自信が持てるほど、合理フィールドはぼちぼちでいいんですよね。ただ、一般論でいうと、合理フィールドでの勝者というか、そこでやるだけやってきた人の方が、合理フィールドの欠落性がよくわかるから、素直に感情フィールドの重要性を理解できるみたいですね。逆説的なんだけど。

 それにですね、日本社会でいわれる「世間体」「他人の目」というのは、実は合理でも感情でもないように思います。微妙にそのどちらも含むけど、本質的にはどちらでもない。パブリシティというビジネス戦略に組み込めば合理であり、チヤホヤされたい!って素朴なスケベ根性だったら感情だけど、そこまでの純結晶になってない。多くは防衛的というか、なんか合理か感情かの腹ククリが出来ないでウロウロしているときの、視界にかかるモヤというか、ハレーションみたいなものだと思います。それは、、、って、あああ、こんなこと書いてたら終わらないから、またいつか。




 
文責:田村



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