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今週の一枚(2014/05/12)




Essay 670:「○○人」なんて無いよ

 あるとしたら「その良さ」を知り、血肉とすること  
 写真は、うちの近所のペルシャ料理さんの12ドルランチ。これで二人分(手前の自分のライスは写ってないけど)

 あれこれ説明してくれたんだけど、またココに店のランチ解説があるんだけど、それを見てもよく分からない(^^)。でも、このゴハンが美味しかったですねえ。ピンク色のは多分、「Albaloo Polo: Sweet Cherry & saffron rice」だと思います。ほんのり酸っぱくて甘い「桜飯」です。黒々した物体は、柔らかく煮込んだラムに多分ほうれん草系のベース、隣はレンティル(レンズ豆)のカレーで上に乗っかっているのが茄子です。えらくボリュームがあって、慣れている僕らでも平らげるのに四苦八苦でした。


 隣の席では、ペルシャ系(多分、英語じゃなかったし、店の人とその言語で喋ってたから)のオバサマ達が十数名、女子会をやってはりました。


 ここんとこ、へろりん脱力系が続いたので、今週はちょい固めにしましょうか。
 アイデンティティとか自己規定とかそのへんの話をします。
 最近メディアやネットなどをみると、やたら「日本人として」とか、「非国民」とか、〇〇人とか、売国奴(ぶ!)とか、そこらへんのフレーズを見かけるんですけど、なんなの、それ?って、すごい違和感があります。すげー気持ち悪いです。

 ぶっちゃけ、リアルな人間存在において、「〇〇人」なんてアンデンティティなんかありえないでしょう。そう思いたいとか、そういう自己規定が好きって人はいるでしょう。それはお好みです。お好きになさいませ。でも、客観的にそういう実在的な人間類型があるとは到底思えない。

 それらしきものとしていくつかのパターンが考えられます。いわく「属性」、いわく「心構え」、いわく「法律効果」。

法律効果〜国籍とか

 簡単なものから先にやると、法律効果というのは、Aという法律要件に合致する場合にはBという法律効果が生じるという法学上の定理というか、物の考え方があります。例えば、学割定期を買おうと思ったら「学生という身分」を有しないとならず、「学生」という法律要件(この場合は契約要件)は「定期券を安く購入できる」という法律効果を生じます。同じように「嫡出子」だったら相続の際の相続分がいくらになるとか、刑法上の保護責任者遺棄致死罪の保護対象になるかとか。「日本人」というのは法的にいえば「日本国籍を有する者」であり、その国籍取得要件は国籍法に定められており、それ以上でもそれ以下でもない。そしてその対象身分の決定は、すぐれて政策的&技術的なものです。例えば学割定期の対象となる「学生」には一般の小〜大学生だけではなく自動車教習所の学生も含めるのか、シドニーの英語学校に通っている国際留学生はマイマルチ定期券をステューデント・コンセッション価格で買えるのか、そのあたりの定義の問題は、政策的に決定され規範的(規約の条文)にそう示される。それだけの話でしょう。

 しかし、こんなものが一個の実在的な人間のアイデンティティになるのか?というとならんでしょう。「私は学割定期を買える学生である!」という身分意識や自我意識が、自分が自分であることの中核になるかっていうと、まあ、ならんでしょう。それは嫡出子であろうが、〇〇株式会社と期間の定めのない雇用契約を(従業員として)締結した契約当事者(=正社員)であろうがなんであろうが、同じことです。なぜなら、それは人間の理想的なありようを追求するために考えだされたものではなく、例えば学割だったら、学習者の経済点負担を減らして少しでも学業に専念してもらいたいという政策的配慮やら、全体の経営収支で余裕があるかとか、はたまた学割を設定した方が集客力があるから儲かるというマーケティング的な計算であるとか、「人間存在の好ましいありよう」という視点とは、ぜーんぜん関係ない観点から定められているからです。

血統主義と出生主義〜どっちもフィクショナルな〜

 その意味では国籍法だって全く同じで、どこからどこまでを日本人として日本国籍を認めるかというのは、最終的には政策決定です。国籍には血統主義(日本もそう)のほかに、多くの国では出生地主義などがあります。「親は誰か」を決定的なファクターとしてみるか、「何処で生まれたか」という出生環境(多くの場合はその後の生育環境)を重視するか、それはそれぞれの国の価値観だし、経済的社会的実情に関するドライな考察だし、最終的には政策でしょう。事実、日本の国籍法も、2008年の最高裁の憲法違反との判例を契機に、婚姻準正要件を削除しましたし(血統だけではなく、父母が結婚していないと国籍が取れないという要件を除去)。

 大体、何を持って国籍アリとするかの問題、これは全ての法律・ルールに共通することですが、「ボーダーラインの決め方」というのは、ともすれば技術的になりすぎて、ときとして滑稽ですらあります。それはもう規則というものの宿命なんですけど。例えば、血統主義を貫くなら、将来SF的にイスカンダル星系航路で働いている日本人の子供が、生涯日本どころか地球に帰る(行く)ことすらなく、また日本人の親は生後すぐに死んだため日本語や日本文化を修得する機会すらなく、また興味もなく、てか日本という国の存在すら知らないまま一生を終えたとしても、それでも彼は日本人なのか?その子供や孫はずっと日本人でありつづけるのか?法律上はそうですけど、それって何の意味あんの?という。

 血統主義も当たり前のようでいて、血がつながってるってことが何なのさ?という根本的な疑問もあります。自然科学的にいえば血統とはすなわち遺伝でありDNAの継承であるとしたら、ならば日本人DNAやらアメリカ人DNAなんてあるのか?という話になります。でもこれは無いでしょう。あるなら端的にそのDNAの有無で決めたらいいだけの話でしょ。もともと生物界においてはホモ・サピエンスは一種類しかおらず、他の生物における種や亜種などの微差すらもない。「人種」という概念は自然科学的なものというよりは、民族と同じく社会学的なものだとされます。だとしたら血統を国籍の拠り所にする本質的理由はなにか?です。

 一方出生地主義は、その人間がそこに存在する以上、その環境に適応出来るだけの「装備」を与えるべきであるという発想でしょう。国籍という法律要件によって付与される法律効果は、参政権などが典型ですが、その他にも生存権やら教育を受ける権利やら、その社会環境で生きていくための社会的・法律的標準的な武装でもあります。だからそこに居るかどうか(環境下にあるか)で決めたらいいし、かといって国外旅行に行く度についたり消えたりするのは面倒だから、とりあえず出生地で決めて一生固定させることにしましょうと。その意味では合理的です。が、海外旅行中に母親が産気づいて出産した子が、二度とその国に戻ってこなくても国籍が付与されるという妙な事態にもなります。が、このあたりの滑稽さや不合理は上にも述べたように規則の宿命でしょう。

 なお、さらに実質的な理由を言うならば、血統主義の根拠は、血の継承というオドロなニュアンスのものではなく、親が我が子を自分と同じような環境で育てたい、自分が有する権利義務と同じものを子供に認めさせてやりたいという部分からくるのかもしれません。また、国籍と民族や文化は本来全然レベルの違う問題なんだけど、でも実質的に重なり合ってる場合が多いことから、親がA国の人なら、A的な教育を施す(言語、宗教、食べ物、しきたり)だろうから、同質性があるのだという点もあるでしょう。これは出生地主義も同じで、A国の土地で生まれ且つ育つのであれば、その土地の言語やしきたりがそのままその人間のアイデンティティに深い影響をあたえるだろうし、実質は他のA国人と何ら差異はないだろうから、同じように取り扱うべきだという。

 これらは国籍と実質(民族文化など)とをリンクさせる考え方ですが、実質に踏み込むのだったら日本語を喋れて日本文化に精通する人であれば、一度も日本に来たことがない人でも日本人として認めらたら良いではないかとか、逆にたまたま日本人の子孫ないし日本領土で生まれたからといっても、日本語がヘタクソで、日本史も日本文化もろくすっぽ知らないような奴は除籍したらいいじゃないか、5年に一回の国勢調査のときに全国民に統一試験をやって、不合格者をバサバサ切っていって、国外追放するなり処刑したらいいじゃないかという。これって優生思想ですよね。この実質でいえば、知的障害者など実質共有がハンデ的に難しい人はどこの国籍も取れないことにもなりえます。それでいいの?と。

 いやあ、難しいすね。「形式」で考えていっても、「実質」で考えていっても、いつのまにやら変な話になっていくという。キマリなんてそんなもんすよ。「そんなもん」って限界を学ぶのが法学の本質の一つなんですけど(「擬制=そーゆーことにしておけ」とかいうんだけど)。

 てかね、もともと国家というものが、どっかの誰かの利害打算やら、力関係やら、いい加減な原理や感情やらによって何となくできているので、国籍とか改まって言ったところで、もとがいい加減なんだからいい加減にならざるを得ないです。沖縄だって、ちょっと前までアメリカだったんだから。正確には信託統治で、本土との往来にはパスポート類似の渡航証明書が必要で、クルマは右側通行で、貨幣はドル(58年まではB円というアメリカ軍票)、沖縄に本籍のある人は「琉球住民」という日本人なんだかよく分からない宙ぶらりんな感じであった。「国」というものが、原理的に二義を許さぬ確定的なものだったら、「返還」なんてレンタルビデオの返却みたいな便宜的なことが行われるわけもない。

心構え〜社会的要求水準

 第二に、「心構え」です。
 あるべき理想的な人間類型を想定し、それに自らを近づける、、って抽象的にいってもわからんな、「職業人(プロ)」としてとか「社会人として」とかそのカテゴリーに入りたいなら、最低限これとこれは出来ないとダメとか、「言い訳は絶対に通用しない」「体調管理も仕事のうち」「運不運も実力のうち」とか様々な厳しい条件があり、それを満たすように常日頃から心掛けよう、自己研鑚に励もうというパターンです。まあ、わかりますよね。

 封建社会は出生やら血筋やら宿命的なものが、そのまま終生その人の社会的ポジションになったから、アイデンティティにもなりやすい。「おまえは武士の子だ」と言われて育ち、武士として恥ずかしくないように振る舞おうとするという。

 そこまで大仰なものではなくても、名門と言われている〇〇高校サッカー部のレギュラーであるというポジションが、その人の心構えにつながり、アイデンティティの一部にもなる。僕がやってた柔道では、黒帯を取ったら最後、絶対に白帯には負けられない、負けたら腹切って死ねくらいのプレッシャーがかかったり(勝手にそう思い込んで酔ってるだけだけど)。

 このように多くはケナゲな自己研鑚につながる良い面もあるんだけど、物事はなんでもそうだけど悪い面もある。たまたまヤマが当たって試験に合格したから俺はエリートだなんてお馬鹿なカンチガイをして、でもってエリート意識と二日酔いはなかなか抜けないから死ぬまで大ボケ街道を歩くという。ありがちな。またネガティブな心構えもあります。私なんかダメなんだ、ゴミなんだ、要らない存在なんだという凄い「心構え」が出来てしまって、何かの岐路に立たされる度に、「どうせ私には無理」とか決めてかかるとか。

 しかしね〜、これってアイデンティティなの?自我(自己)意識なの?というと微妙ですよね。
 これは「かくありたい」「あらねば」という理想とか目標ハードルとかであって、「自分が自分であること」とは違うんじゃないか。

 それにこれらの身分的 or 立場的な心構えが、その人の全人格を支配するってこともないでしょう。だって、「レギュラーだ」という自己規定は、レギュラー外されたら崩壊するわけだけど、そうなったら自我が消滅するかというと消滅しない。「落ち込んでる俺」という自我があるわけだけど、でもそれって誰?という。だから本体は別にあるんだわ。

 これらはある特定の領域(仕事とか)に関する、自己目標(なりたい自分)&自己査定(今の自分)がごちゃまぜになったようなものでしょう。部分的にアイデンティティらしき機能ももつけど、そのものではない。「アイデンティティとして利用しようとする」というか。

 ソリッドに言ってしまえば、社会的&立場的に求められる技術水準をクリアしようとすること、に尽きるのではないか。「プロ」と呼ばれたければ〇〇でなければならないとか、音楽でメシ食ってる以上は自分の出す音に責任を持てとか、いやしくも上司たるもの部下から公平を疑われるような言動を取ってはならないとか。つまりは、免許を取って自動車のハンドルを握る以上は安全運転を心掛けなければならないのと同じであり、もっと言えば「給食当番は白衣を着よう」というのと同じでしょう。社会的に当然期待されている要求水準はクリアしようぜと。そして、それがダメダメだったら、およそ○○に「あるまじき」とか、「風上にも置けない」とか、「面汚しじゃ」と厳しく批判される。

 それだけのことであって、アンデンティティ形成に影響をあたえるだろうけど、それに埋没してしまうのはちょっと違うだろうな〜と思います。良い意味で自己研鑚に利用するなら、それは大いにやればいいけど、その社会的技術的義務が、自分というものを決定的に規定しているわけじゃあないだろって気がします。
 

属性

 僕は、生まれも育ち(高校卒業まで)も東京(+川崎)で、その意味では「東京人」であり、「関東人」です。あずまえびす(東夷)ですな。さらに細かく言えば、世田谷など都下の山の手地区にもいるし、深川という下町地区でいわゆる真性の「江戸っ子」に囲まれもしつつ、百合ケ丘など多摩丘陵の新興住宅地にもいましたので、東京界隈の3つのエリアの属性が血に溶け込んでいます(さらに細分化出来ます)。

 ところが大学から34歳でオーストラリアに来るまでは京都&大阪であり、その意味では「京都人」「大阪人」「関西人」です。大阪時代は、住まいは京橋・桜ノ宮・太閤園の裏・銀橋のたもとという「あのあたり」におり、仕事は西天満の弁護士村にいました。京都は、最初は左京の北白川(疎水の近く)で、次に洛中の西陣(薪能で有名な白峯神社の裏手)、そして最後(今も)京都駅の南側という、駅北住人からは「もう京都ではない」と言われている、京都ならではの風情と普通の日本の地方都市風情が融け合ってる地区にいます。

 その間に2年の司法修習時代は、8ヶ月、松戸(馬橋)から湯島に常磐線+千代田線で通うという、いわゆる「千葉都民」的生活を味わいつつ、1年4ヶ月は岐阜市にいました。だから大都市近郊の衛星都市サラリーマン的な味も知りつつ、、日本の地方都市の生活もしりつつ、最初のカミさんの実家が岐阜でも海津郡という地の人でないと知らないエリアだったので、わりと田舎の生活もちょびっと知ってます。

 でもってオーストラリアはシドニーしか知らないけど、それでもGlebeやNewtownというインナーウェストの下北的な面白いカルチャータウン生活もしりつつ、林間学校的なノースのLaneCoveもしりつつ今に至ります(いい加減引っ越したいよ〜、でも他の家賃高すぎ)。オーストラリア生活は、この4月17日で満20年を超え、21年目に入りますから、人生史のなかではシドニーが一番長いです。

 何を長々と書いているかというと、はい、私はナニ人でしょう?ということです。東京人なの?大阪人なの?もう日本の人じゃないの?

 僕の偽らざる実感でいえば、「全部」です。
 その全てが僕のアイデンティティの一部になっています。だから住まいが変わる度にカシャッとアイデンティティ表示が、バスの行き先表示のように変わるわけではない。ただただ積み重なっていく、溶け合っていく、いい具合に発酵していきます。これは誰でも同じじゃないかしらん。


 リアルな人間生活の実在として考えた場合、「〇〇人」として生きていたことは、実は一秒もないかもしれません。今だって、シドニー人としての誇りと自覚とアイデンティティを持って日々暮らしているわけじゃないですしね。東京人とか大阪人なんてのも、僕のなかの実感では全然アイデンティティになってません。これら実質部分がアイデンティティになってないなら、「日本人」なんてのも別にアイデンティティになってません。なってる人っているの?より大きくアジア人とか、「メシに箸を使う文化圏」「漢字文化圏」とか言われても、まあそうなんだろうけど、だから何?って感じ。

 そりゃ、「〇〇方面の人」というカテゴライズはありますよ。京都や大阪に行った当初は「東京の人」という言われ方をしたし、オーストラリアでも「アジア系」「ジャパニーズ」というカテゴライズはある。だけど、それは事実上というか、便宜上というか、そういうトピックやら、そういう次元での話になった、はいここにボーダーラインを引きましょう、この線のこっち側の人と、あっち側の人という話でしかないです。それは小中高と、○年1組の生徒と2組の生徒、1年生と2年生というカテゴリーであり、こんなの状況に応じてチャッチャと変わる。部活においては先輩後輩の差というのは封建社会の身分制のように厳しく感じられつつも、対抗試合とかに出れば「○○高校のやつら」と一緒くたにされるし、自分らでも同じ陣営にしている。

 つまりは、人工的なものであり、線を引いて初めて出てくるようなものです。そんな便宜的な、テンポラリーなカテゴライズが、「自分が自分であること」というアイデンティティになるのか?というと、ならない。一時期それに染まって夢中になっていることはあっても(体育祭で自分の側を応援するとか)、それだけの話。面白いからそういうことにしているという。子供の頃にグーパーじゃんで、ドッジボールの陣営わけをしてるだけのような話。

「日本人」ってなによ?その共通属性は?

 で、話は冒頭に戻るのだけど、メディアやネットなどで「日本人」だの「非国民」「売国奴」だの書いてる人って、なんでそんな具合にものが考えられるのか、不思議です。キミのいうところの「日本人」の実質的内容って何なのですか?発言や行動内容によって、「非」とか「日本人にあるまじき」とか言う傾向があるようだから、単に国籍法上の所定の要件を具備しているか否かという形式的は話ではないのでしょう。ならば、いかなる「実質」があるのか?

 僕が半世紀以上生きていて、対面してそこそこ話した日本人(国籍ないし濃厚な日本体験を有する人)の数は、数千人、どうかしたら1万人を超えると思いますが、彼らに共通して認められる実質といっても、特に思い当たらない。まあ、日本語を喋ることくらいでしょうけど、それとて日本人父母のもと海外で生まれた日本人の方には、日本語で苦労しておられる人もいますから(英語はネイティブだけど)、それとて怪しい。話を在日日本人に限ってみれば、「温泉に好感情を持っている」こと、あと味噌汁について飲めと言われたら飲めるくらいでしょうかね(味噌汁が好きではないという人もいるけど、飲めと言われたら飲める。絶対飲めないって外国人は普通にいるけど)。

 しかしな〜、こんな共通属性、あって無きがごとしでしょうが。それ以上に何の実質があるのよ。真面目で勤勉で優秀で遵法精神に富んでいて、、というのは、一種のステレオタイプだし、事実に反する。だって真面目で勤勉ではない日本人だって沢山いるだろうし、刑務所に収監されている人だって日本人でしょうし、日本の政治家や官僚さんの全てが真面目で優秀で勤勉か?と言われたら、それもハテナでしょう。だから、なにをもって日本人の実質的内容にしているのか、教えてください。できるならば疎明(証明ほど完璧でなくていいから、ごく簡単に)してください。

 もちろん「ありがちな特性」というのはありますよ。中高6年も英語やってながら未だにろくすっぽ喋れないとかさ、細かいところは熱心にやるけど大きな部分はまるっぽ抜け落ちる(祝儀の諭吉の顔の向きには気を使うくせに、何のために生きているのか?という大きな部分では空白であるとか)、その種の個別特性は幾らでもありますし、このエッセイでも山ほど書いてます。面白いしね。でも、それは傾向としてそういうパターンが比較的多く見られるというだけのことだし、またそれは人格に深く根ざしたものというよりは、「Aという環境で過ごせばA的な傾向が出てくる」という一般現象として書いているだけの話にすぎない。「雪国育ちの人は雪に慣れていてスキーが上手な人が多い」「でも意外と寒がりが多い」とかそんなレベル。例外を許さないほど決定的な特性でもないし、また「かくあるべし」という理念でもないし、それを押し付けようというものでもない。全然レベルが違う。ま、言うまでもないことですが。

 もしかして、もしかしてですよ、たまたま何かのトピックで自分と意見の違う人を罵倒するために、日本人じゃないとか、非国民とか言ってるとしたら、それって3歳児とか5歳児のレベルでしょう。あるいは5歳児を躾けるお母さんの叱責レトリックでしょう(そんなことする子はウチの子じゃありません!的な)。もし心底そう信じ込んでいるのならば、その知能指数は凄いことになってるのでしょうねえ。40とか60とか、そんなもん?身障者障害認定受けたら、障害年金もらえるかもね。まあ、そんなことはないでしょうから、思うにちゃんと考えてないのではないかしらん。

 僕の知ってる日本ないし日本人は(correct me, if I were wrong)、何を考えるか、何を信じるか、何をどう表現するかについての自由を持っている。少なくとも建前としてはそうであるという近代市民社会以降の自由社会であり、そこで一人前の社会人たるべきもの近代的自由人としての最低限の知的常識を備えていると思っているのですけどね。要するに何を思おうと、言おうと、そいつの自由ってことです。なんか変なこと言おうものなら、たちどころに粛清されてしまうという、旧ソ連のシベリア送りみたいな恐怖政治に恐れ慄く悲しき人民ってことはないと思ってるのですけど、今は違うのですか?

 もしかして、同調圧力やピア・プレッシャーが強まって、半ば恐怖政治状態に陥っていたとしても、その状況に疑義も異議も呈さず、誰も彼もが意に反する意見に賛同し、自分ではない自分を演じる、そんなマスカレードの仮面舞踏会みたいなのが日本人の「実質」だとするなら、日本人の実質というのは、要するに「根性なし」「嘘つき」「ダメ人間」ってことになるんだけど、それでいいの?僕は良くないし、そんなわけないだろって思うけど。でもって、根性なしで嘘つきこそが正しい日本人という基準から、根性があって正直な人は非国民になるわけですか。それって、帰国子女が英語が上手だから虐めている人格劣等な連中と同じじゃん。その本質は、ひがみであり、嫉妬であり、劣等感を刺激する人を逆恨みしているだけのことでしかない。

 まあ、実際には「いろんな人がいる」に尽きると思います。そういう卑劣な人格態度をとってしまう人だっているかもしれないし、そうでない人も沢山いるだろうし、まあ、いろいろですわ。

 ただ、ここで明らかにしたいのは、1億2000万人もの人間集団をもって共通属性を因数分解のように括りだすのは容易なことではないですよ、てか無理ですよってのが一つ。

 2つ目に、その共通属性として、思想・意見・表現というその人の知的・精神活動の内容を持ってくるのは(○○という考えを持たない奴は日本人じゃないとか)、馬鹿げた発想だという点。それって本質的に人間の心の自由を認めないということでしょ?もし人の心の自由を認めるんだったら、「何を思うか」はカテゴリーの共通属性要素になりえないし、少なくとも排斥原理にはなりえない筈でしょう。こんなの今更言うまでもないクソ当たり前の話なんだけど。

 3つ目に、これが一番ムカつくのだが、議論でも喧嘩でも好きにすればいいけど、やるんだったら自分の力だけでやれよなってことです。自分以外の「皆」とか「集団」やら「国家」やらを後ろ盾に持ってきて、議論・説得する代わりに相手を排斥しようというやり方は卑怯でしょう。ましてや、自分の劣等感やら嫉妬やら原点とした薄らみっともねー卑小な欲望のために国とか僕ら日本人概念を利用するとかされたら、ちょいマジギレしそうです。喧嘩するならてめーの拳だけでやれよ、です。それが出来ないなら押入れの中で泣いててください。

 まあ、悲しいかな3つめの卑怯千万なことを、事もあろうに国家(時の政権)がやろうとしたりするんですよね、これが。だいたい姑息な手ってのは、無能な奴ほどよく使う。有能強力だったら横綱相撲を取ればいいだけだから、姑息な手は使う必要ないけど、堂々と国民を説得する自信がない、、、どころか下手に事実を究明されたら自分らが叩かれるみたいな状況では、この種の姑息な思想統制をしようとします。逆にいえば、こういうメディア支配やら洗脳的なことをやりだしたら、ときの政府や支配者層の「無能宣言」だと思って良いと思います。

 なお、以上3点からすれば、他者を非難する際に「非国民」という言葉は間違っても出てくるわけがないと思います。他者の心の自由を否定し、自分の意見だけが常に正しいというあえりえないくらいの超自己中で、且つ己れの利害のために勝手に「皆」「国」を持ち出して恥じないという、何重にもある関門を突破し、「ありえない」の三乗くらいのスカタンな人でないと、この言葉は出てこないと思います。一生涯に一度でも(明白なギャグや冗談は別として)、この言葉を吐いた人とは、できれば一生お近づきになりたくないですな。間合いに入ってきたら物も言わずに斬りますよってくらいの感じ。

 表裏一体だが、同じように「在日韓国(朝鮮)人」がどうのと、一括りのカテゴリーとして論じる(実質的には罵倒や排斥)人も、「生涯に一度でも」レベルで「えんがちょ」したいですね。これはちょっと大きな声でハッキリ言いたいというか、言うべきなんだろうけど、僕の知り合いとか友人には在日韓国人や中国人も沢山います。狭い経験範囲でのことなんだけど、僕に関する限り、彼らにおいてなにか特徴的な人格特性があるわけではないです。どう考えても客観的には無いぞ。いろんな奴がいるというか、単に個性があるだけで。それを味噌もクソも一緒くたにして罵倒するのは、僕の友達のために異議を言いたい。それを聞いた彼らがどんな嫌な想いをするか。ま、ひらたく言えば、てめー、俺のダチにアヤつけよーってのか?ってことです。上等じゃん。

 てかね、ネットやメディアが便所の落書き状態になってるだけの話で、実際にはそんな殺伐としたことにはなってないとは思います。それは何故かといえば、少なくとも僕に関して言えば、国とか民族とか、なんかよく分からん、ほにゃららした抽象的なものよりも、目の前の一人の人間の実在の方が1万倍強力で説得力があり、大事だということです。だって、あいつも、こいつも、どう考えてもいい奴なんだもんさ。この経験事実は動かし難く、この素敵な経験と記憶と、今もなお存在する現実を、そんなほにゃらら如きに否定されたくないんだわ、汚されたくないんだわ。てめーの世界観は、てめーの手と足で触れたものからつくり上げるもんだし、とやかく口出しされたくないね。僕は、確かな現実にしか興味が無いのよ。確かな現実だけでも無茶苦茶膨大にあって、もう収拾がつかないくらいなんだから、脳内ほにゃららなんぞにウツツを抜かしているヒマなんぞ無いわいってことです。そして、これは僕に限らず、今日も数多くの現実をリアルに生きている人たちにとっては同じだろうと思います。

良さを知ってること 

 さてそんな胸糞悪い話はそのくらいにして、もっと心楽しく豊かな話をしましょう。

 日本各地やオーストラリアを体験し、それらの経験が僕のアイデンティティを形作っているとして、さて、具体的に何がどう「形作って」いるのかを考えます。

 結局、「その良さを知っていること」だと思うのです。
 日本人とはなにか、日本人としてのアイデンティティとは何か?を突き詰めていった場合、「日本や日本に暮らす人々の"良さ"を、体験的にちゃんと知っていて、その良さを維持・体現できる人」だと思います。

日本のタテ軸

 話を極小化したら分かりやすいですけど、〇〇高校出身というのも僕やあなたのアイデンティティの一部になっているでしょう。僕の場合は、東京の墨田区の「下町の進学校」で、進学校という部分よりも、「下町の」って部分にアクセントが置かれ、そこに自嘲と自負が混ざった一種明るい屈折のある学校でした。その本質はなにかというと、どんなにお勉強ができても、「しょせんは庶民」という突き抜けた感覚があって、それが好きでしたね。庶民であることにプライドがあるというか、庶民であるがゆえの自由さを満喫するというか。とにかく堅苦しく権威的なものが大嫌いで、制服もなくて自由服で、体育祭で異様なくらい盛り上がり、学年を通じた「族」があり(1年A組〜3年A組で「A族」を作る)、族対抗で畳16枚分の大立て看板アートを作るとか、そのあたりの馬鹿なカルチャーがあって、それが好きでした。雨天の体育のときは通称「百姓一揆」と呼ばれるボール2個でやる超忙しい滅茶苦茶なサッカーを授業でやってたりして、そのあたりも馬鹿でしたね。東京の昔ながらの下町では「馬鹿」であることがプライドでもあり、アイデンティティでもあったしね。

 それは自分の中にも未だにあるし、その庶民性は次の大学の立命館という、関関同立の中でももっとも庶民的な、庶民的でしかありえないような学校への親和性と続き、さらには弁護士時代も、そして今に至るまで、単に「ロックやってるあんちゃん」的な佇まいでしかない。着てるものも自分の部屋の散らかり具合も、高校の頃とそう変わっておらず、また変わりようもなく、変わりたくもない。だってそーゆー奴なんだから仕方ないだろって。これを「在野精神」っていうのかもしれないけど、そこがもっと強くて「在野」もクソも、この世の中には「野」しかないだろ?ほかになんかあんの?くらいの感じ。難しい試験に受かろうが、年収が数十倍になろうが、別に「あっち側」の人間になったとは思えず、「あっち側なんかねーよ」とクールに醒めた意地と矜持が何となくあるような気がする。

 何が言いたいかというと、ある地域やら組織やらで、何か自分にとって「あ、いいな」と思えるような体験をすると、それが自分の中に栄養分として入っていく。その意味でアイデンティティの一部になってる。だから、逆にいえば、自分のアイデンティティにおけるその部分というのは、「その良さをすごーくよく知っている」ってことだと思うのですよ。「いいな」と思えたからこそ、自分の中に入るわけだしね。

 同じように、各地での居住経験はいろいろな形で自分の中に入ってます。過去にも何度も書いているけど、開発途上の新興住宅地の、やたらだだっ広い空き地で遊んできた体験は、その後のオーストラリアへの親和性につながってます。

 岐阜市での1年4ヶ月の体験は、日本のマジョリティを構成する日本の地方都市での暮らし方、その豊かさと広がりを知るにはかけがえのないものでした。岐阜というのは本当に良いところで、ほとんど地平線みたいに広がる濃尾平野の真っ平らな感じ。堤防沿いの道路を走るとき、やたら至る所にある川とだだ広い河川敷、さらに夕靄がなんともいえない優しい感じ。にも関わらず金華山だけ突如モリモリ隆起している変な感じと、その急峻さの下に長良川が広がってて鵜飼をやっているという、なんか中国の掛け軸みたいな風景とか良かったですねえ。それに柳ヶ瀬という繁華街があってですね、ほんと「盛り場」って昭和風情のある感じで、大都会の盛り場にありがちなキンキンした金属的なオーラがなくて、良かったですねえ。ほんでもって、出来たばかりの近所のレンタルビデオ屋にチャリンコ飛ばしていくわけですけど、道すがら田んぼがあってですね、季節によって青くなったり金色稲穂になったり、バッググランドに夏の入道雲があったり、秋のうろこ雲があったり、それがまた何か日本映画の一コマみたいな感じで、良かったですねえ。という具合に「良かったですねえ」をあと数十個くらい羅列できますし、全部今の自分のパーソナリティの中に入ってます。

 大阪は大阪でまた良くて、その良さを一言でいえば「人間が好き」ってことだと思います。もともとアメリカみたいなプラグマティックな合理的思考に長け、知的明晰性をふんだんに持ち合わせているんだけど、人間好きな部分がそのギスギスを上手いぐあいに丸めている。人間のダメダメな所も愛嬌として捉え、笑いながら肯定する。明晰な知性でダメな部分をあげつらって辛辣に指摘するんだけど(ツッコミ)、でも根っこに愛情があるから「こいつ、めっちゃアホやねんで」と大笑いしているし、言われた奴も笑っている。笑いというのは、人間の本性に根ざしたものでないと生じにくく、且つ人間の本性が意外と滑稽だったりする(ボケ)から笑いが生じるわけだけど、人間という生き物に対する好奇心、その立ち居振る舞いのナチュラルな滑稽さに対する暖かい眼差しみたいなものがある。また、そこまで見えてしまうがゆえに、それらをいかに表現するかに心を砕き、大阪弁独特のおもろい言い回しが即興で出てくる。それは音や音の羅列(メロディ)の玄妙さに対する素朴な好奇心があるからこそ、音楽が成立し、アドリブが成立するのに似ている。大阪弁の本質というのは、言葉遣いの法則性という文法性にあるのではなく、当意即妙のアドリブを個々人がプレイできる瞬間的創作性にこそあるのだと思う。

 こんな調子で、複数回以上訪れ、あるいは一泊以上滞在した日本の各地それぞれに思うところはあり、栄養分になって今もなお残っているものがあります。3年間の遠距離恋愛で足しげく訪れた福井をはじめ、仕事で十回以上訪れた金沢にせよ、鳥取にせよ、津にせよ。今、日本地図を頭に浮かべ、適当に流していくだけで、単なる通過ではなく今もリアルに風景が蘇ってくるのは、旭川、小樽、札幌、支笏、那須塩原、宇都宮、新潟、直江津、蓼科、軽井沢、筑波、館山、木更津、箱根、伊豆、三島、静岡、浜松、伊勢・鳥羽、和歌山、南紀白浜、関西はありすぎるからパスして、富山、輪島、氷見、加賀、福井嶺北エリア全部、敦賀、若狭、天橋立、米子、松江、出雲、山陽にうつって岡山、倉敷、尾道、広島、宇部、下関、淡路、鳴門、高知、高松、九州は北九州、福岡、唐津、大分、別府、宮崎、高千穂、霧島、鹿児島、桜島、川内、串木野、阿蘇、熊本、島原、長崎、五島列島、沖縄本島。これらについては(漏れも大分あるけど)、何か書けって言われたら書けます。もう嬉々として書けます。どこも好き。全部好き。もう一回行きたいと思う。まだ行ってないないところは、地図をみながら「くそお、なんで行かなかったかなあ」と臍を噛む思い。

ヨコ軸

 以上は単なる地名や土地についてですが、これが縦軸なら横軸が日本におけるあらゆる階層、あらゆる職業です。差し向かいでお話した人だけで、それこそヤクザから議員先生まで、医療関係者からジャーナリスト、金融、建築、流通、飲食、教育、IT系、町工場や中小企業、アンケートの職業欄に羅列してある程度の大雑把な分類でいえば、直に話したことのない職業エリアは無いです。プロの漫画家さんとか、農協支配に逆らって自主流通や有機栽培を始めた草創時期の農業関係者とか、NHKのアナウンサーさんとか、人殺したとか覚せい剤とかの犯罪系は仕事で普通に会うし。宗教関係者も普通に。逆に会ってないのは、プロの歌舞伎役者さんとか日本刀の刀鍛冶さんとかですね。日本旅館経営ってのは、父方の叔父さんが箱根でやってるし、ふぐ料理屋は実は僕の生まれた巣鴨の祖母方で、あ、その妹さんが三味線の師匠でえらい人だったな。芸大教授とかは母方の方で、あと警察官で定年後に南方の戦没遺骨回収やってたおじさん、鍼灸師とか。とんかつ屋とか、自動車整備工場とか、ゲームセンターとか、雀荘とかいうのは、全部親父がやってて、手伝ったりしたこともあったし。もうキリないです。

 そういったいろいろな視点から見える日本の風景やら風情やらが横軸その1です。その2は、自分自身の身分ですよね。お金は全部専門書やらギターの弦の購入に充てられ、年に3回しか肉が食べられなかったというスカンピンだった学生時代とか(正確に勘定したわけではないが、多分そんなもん、生協ランチや牛丼すら高嶺の花だったもん)。そうかと思うと、わりと羽振りのいい時期もあったし。もっとも、個人負債3000億円とか、フェラーリ乗っててホームレスになっちゃったとか依頼者層の凄さに比べたら、チマチマした小市民レベルでしかないけど。これらは経済レベルでしかなく、その他、滅多にエッセイでは書かないけど、なんだかんだの色恋沙汰が似たようなボリュームであって、でも子供のころは漫画家になりたくてとか、切り口は無限にあります。

 以上は34歳までの「日本編」で、以後は「海外編」になりますが、日本編だけでもこうしてみたらけっこーな質量があります。僕なんか司試受験をシコシコ25歳までやってたので社会経験が少ない方なんだけど、それでもこの程度はあります。日本で10年おったら、そこそこのものは見聞できるはずです。誰だってこのくらいはあるだろ。

リアルな実在

 で、何の話かといえば、それらが全部全部僕の栄養分となり、血肉となり、アイデンティティになってますってことです。うだうだ七面倒臭く羅列したのは、その具体的な質量をなんとなく表現したかったから。これが冒頭で書いた「リアルな人間存在」であり、これら数千数万はあろうかと思われる、切れば血が出るリアルな記憶群によって僕という人格なりアイデンティティが成立しているわけです。

 でもって、これらを総称して、例えば「日本人」というのですかね。ぶっちゃけ、「はあ?」って感じですよ。
 あのね、これらは本当にリアルな記憶なんですよ。それこそ自分の指とか、自分の肝臓のように自分そのものなんだし、かけがえのないものなのです。それを、一片の条文がどうしたとか、国籍がどうのとか、脳内ほにゃららがどうとかで、一括りにしないでほしいです。変なレッテル貼らんといてください。僕は僕ですよ。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上、何も足してほしくないし、何も引いてほしくもない。

 そして、これは全ての人に共通するはずです。
 結局、アイデンティティというもの、自分が自分であるという実感というのは、おぎゃあと生まれて今の今までどうやって生きてきたかの集大成でしかない。自分が生きてきたもの以上の自分になれるわけがない。

 そして、仮にDNAが限りなく似通っている一卵性双生児であろうとも、生まれて育って生きてきた軌跡も記憶も全然違う。だからアイデンティティもぜんぜん違う。指紋や顔が全員違うように、ひとりひとり全部違う。だからカテゴライズなんか、本質的には無意味でしょう。やるとするなら交通規制やら学区区分のような、便宜上の行政集団処理くらいでしかない。そんなの全然本質ではない。

 かくしてタイトル標記の結論、「〇〇人」なんて概念を定立してどうすんの?になります。座興であれこれ喋るのは面白いからいいですよ。やれ「飲んべ」はいつもこうするとか、「遅刻常習犯」はこう言うとか、「音痴の人」はああだとか、そのあたりの無邪気なカテゴライズや「○○人」論は面白いから全然いいです。

 でも、なにもかもひっくるめて、全てに優越するように「○○人」と一括りにし、あまつさえその考え方や立ち居振る舞いすら特定の方向性に定めようとするというのは、大袈裟ではなく、人間というリアルな存在に対する冒涜だと、僕は思います。おんどれ、阿呆か、何考えてんねん!?って感じ。

 もっかい言えば、アイデンティティというのは、自分が自分だなあって実感することでしょう。
 そして、アイデンティティに関して、人が素朴に求めるのは、「自分が気持よく自分であること」だと思います。
 あるいは「自分が自分であることにもっと気持ちよくなりたい」だと思います。

 それは結局はリアルに自分が通ってきた実体験と実記憶によってしか形成されえない。
 それを脳内ほにゃららの幻覚剤だか覚醒剤で誤魔化そうとしても、結局はフェイクでしかない。背中にマントを羽織ったって、スーパーマンになれるわけではない。そんなの心の底では誰だって知ってると思うんだけどな。五歳児だって知ってると思うぞ。



 
文責:田村



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