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今週の一枚(2014/04/14)



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Essay 666:「運」と呼ばれる不均一なクラスター

 〜ドツボ海峡へろへろ航海夜話  
 写真は、Cityのスーパー(Woolworth, Townhall店)。
 今週の金曜日からイースター。ということで巨大販促ウサギが鎮座しております。


ドツボ海峡航海日誌


 先週「腰痛が〜」って書きましたが、腰痛は徐々に回復しつつも、今度は毎度おなじみの偏頭痛に憂鬱なときを過ごし、やれやれやっと軽くなってきた思ったのも束の間、今度は歯痛になってしまいました。神経が炎症起こしているっぽくて、ズッキンズッキンする。歯痛は夜寝るときにキツくなります。寝入りばなにウトウトしては痛みにたまりかねて起き、慌てて水を口に含んで冷やして〜を二晩ほど繰り返してました。

 「トラブルは週末起きる」というマーフィーの法則は正しく、係り付けの歯医者さんに電話するも週明けまで予約はとれず。もうこの痛みが取れるまで人生早送りにして「そして数日が経った」というドラマのナレーションみたいにワープしたいのだが、そうもいかず。

 ほんのちょっとだけですが、腰痛・頭痛・歯痛の3つが同時に生じたときがあって、こんな大相撲の三役揃い踏みのようなことは記憶の限り初めてです。これはきついです。QOL下がりまくりです。

 尤も、面白いもので、腰が痛いよ〜ってシクシクやっていたんだけど、新たに歯の痛みがフィーチャーされると腰痛も霞んでいくのですね。「それどころじゃない!」って感じで。いや客観的には腰痛も現存しているし、確かに痛みもあるんだけど、主観的な注目度は薄れていく。

幸不幸のマックス容量と配当比率

 多分、幸福も不幸も個々人には「マックス容量」みたいなものがあるんでしょうね。不幸度100マックスだったら、不幸度50と不幸度80が生じても単純加算の130にならないで100にとどまる。

 その100の内訳は、不幸の内容に応じて担保物件の配当みたいになる。(1)抵当権タイプで第一順位の不幸が仮に80だったとしたら、80がまず全額を取り、残り20を第二順位の不幸度(50)が取るか or (2)按分比例タイプで、100の不幸を80:50の比率で割るか。どうも歯痛がきつい時は(1)で頭の中は歯痛ばかりになって親の総取り状態になり、小康状態になると(2)のどっちもそれぞれに痛いってなるような感じ。

 ということは、リストラ+離婚+交通事故+家族の死去+冤罪で逮捕+家が全焼という大きな不幸が同時多発に生じたとしても、主観的には容量リミッターがかかって100止まりになるんじゃないか?そこまで精密ではないにせよ、1000とか1万とかにはならないで、せいぜいが150とか200止まりではないかと思われるます。逆にいえば、何もない平和な時期では、客観的にはしょぼい不幸(不幸度15くらい〜上司に怒られたくらいの)であっても、それが不幸度100容量を丸々使うからフルに不幸な気がする。15のものが100くらいに増幅されて感じるのでしょう。これがいわゆる「しょーもないことにウジウジ悩んでいる」状態になるわけですね。

 多分これは幸福でも同じことで、成功して億万長者になって+ノーベル賞貰って+ベストセラー作家になって+オリンピックで金メダル取って+世界各地に自分の銅像が立つくらいのカリスマになったとしても、マックス100は100のままなのでしょう。せいぜい200止まり。つまり夢がかなって「やったー!」ってなる筈だったのに、意外と「あんまりうれしくない」ってことになる。人々の嫉妬パワーで呪殺されるくらい何もかも恵まれていたとしても、実は本人はそれほどうれしくない。子供の頃にチャリンコ買ってもらったときの方がもっとうれしかった、という。

ドツボ海峡

 などと考えていると、郵便受けには不幸の手紙=家賃の値上げ通告が、、、あ”〜!

 ただでさえ僕にとっての4−5月というのは、車検はあるわ、税金四半期の納付期限もあるわ、3ヶ月毎の恐怖の電気料金(こっちは日本よりも高いぞ)も請求月だわで、とっても物入りな時期です。普段でも、まるで難破しそうな船で必死にバケツで水を掻きだしているような、「も、もうダメです!」「諦めるな!頑張んだ!」ってやる時期です。船の墓場の喜望峰沖みたいな危険水域を、腰痛へっぴり腰でヘロヘロ〜と航行中という、よりもよってこの時期に、歯医者かよ!って。へたすりゃ十数万円いくぜよ、泣きっ面に蜂とはこのことだという。

 もう、トラブルのオールスターみたいなもので、なんなんだ〜!?という。

 そういえば、ここんところやたら天井灯が切れるのですね、「わあ、ここもかよ!」って。
 なんか今「そういう時期」っぽいです。

 まあ、ね、別に家族が事故に遭いましたとか、破産しましたとかヘビー級のことではないし、普通にあって当たり前のことばっかなのです。大したこたあない。でもね、ここまでシンクロして固まるこたあないだろうってボヤきたくもなります。

 今から思うに、先週の皿を割ったというのが「ドツボ海峡」に入る前兆だったようですね。あれは天の声だったのか。「覚悟しいや」という。

 しかし、これで終わりと思うなよ、ですよね。雨降ってるし、バッテリーとか上がってたりしてね。あ、言ってたら怖くなってきた。チェックしてこよう。→してきました、大丈夫でした。


 ま、でも、こんなの別に大したことじゃないです。日々平和だから容量マックス使って、平和的な出来事がトラブルに見えているだけでしょう。そりゃ財布も身体も痛いけど、痛いだけっちゃ痛いだけです。死ぬわけじゃなし。それに解決の目処も段取りもついているわけです。仕事のピンチ!に比べてみたら、屁みたいなものです。

 例えば、今こうしている間にも、どっかの新興国に工場を進出した日本企業があり、現地の責任者として赴任しておられる方もいるわけです。でもって工場の労働者が賃上げを要求して大騒ぎになってます、あ、飯場に火を付けられました、燃えてます、警察に電話してもヘラヘラして取り合ってもらえません、あ、本社から納期までに絶対間に合わせろよと矢の催促です、事情を説明しても「何とかしたまえ!」で終わりです、ほんと何とかしないと日本に帰して貰えなそうな雰囲気です、もうこれは島流しです、俊寛です、あ、事務所のガラスに石が投げ込まれました、皆大丈夫か?怪我はないか?早くガラスの破片を片付けろ、危ないから、、、大変です!今テレビで首都でクーデターが起きたってやってます、大通りを戦車がキュラキュラ動いてます、空港閉鎖です、港湾はどうだ、出荷できるか?今確認中ですけど、無理っぽいです、あ、また石が投げ込まれました、もう逃げた方がいいかも-----みたいな状況に比べれば、ワタクシがごとき、スキップして口笛吹きたくなるくらい牧歌的なものです。

 、、と海外のクーデターまで持ちだして気を紛らわそうにも、痛いものはやはり痛いのであった。
 あー、くそ、鬱陶しいぞ、立ったり座ったりで思考がまとまらないぞ、しかし、こんなときに俺もよくこんな駄文を書いてるよな。でもこの「浮足立った文体」も面白いな、今週はこれでいってみようか。

 さて、牧歌的にピンチなわけで、ヘロヘロしながらもクリアせねばなりませぬ。
 気を取り直して、、、なんか気分は「ワンアウト満塁」くらいでしょうか。
 ノーアウト満塁ほど絶対ピンチではなく、ツーアウト一塁ほど普通でもない。なんかトラブルが起きるたびにランナーが溜まってきて、もうファーボールもデッドボールも許されないよ、外野フライでも一点取られちゃうよって感じ。丁寧に低めのコーナーをついてしかない。ゴロを打たせてあわよくばゲッツー狙い。セットポジション。じっとランナーを見て、足があがった。第一球。ボール。外角低めボール一個分外れました、、てな感じで淡々とやっていくっきゃないでしょ。「たんたん」って音が聞こえてくるくらいに淡々と。

 野球でもそーゆーことが起きるように、生きていてもそーゆーことはある。それが今だと。

 あの皿が割れた時から、それは始まっていたのだ。
 って、ほんとか?

「運」を信じますか?

 唐突ですが、あなたは運を信じますか?

 他人様に聞く以上自分の意見も言わねばならないけど、僕はそんなに信じてません。前にも書いたように、大数の法則なり数学的確率や自然のばらつきはあるけど、そんな宿命的な運勢みたいなものは信じないし、また日々の生活でも運が良かったとか悪かったとかはあまり思いません。

 僕の親父は運勢鑑定の資格を幾つか持っててプロみたいなものなんだけど、それによると僕はあれこれ紆余曲折ありつつも、晩年になると位階人臣を極めるそうです。本当かよ?HOW?って、そんなジジーになってから偉くなりたくもないですけど。ただひとつ気に入っているのは、推命かなんかで出てくる自分の生まれ持った宿命星が「風の星」らしいという点です。この星の人は、生まれた場所から遠くへ遠くへいき、遠ざかるほど幸せになるらしい。これは実際に合ってるので、気に入ってますけど。

 もっとも、気に入ってるだけで、この種の運勢・運命・宿命みたいなものはあんまり信じているわけではないです。

「運」と呼ばれる不均一なクラスター

 が、「運」と呼ばれる現象はあると思います。
 白黒オセロを放り投げれば、順序正しく白黒白黒と出るわけではなく、白白黒白黒黒黒黒白白と黒やら白が固まって出ます。そういう局部的に不均一なクラスターが生じる。大局的に見れば白黒50:50なんだけど、ミクロで見たら波が激しい。これは経験的にもそうです。「ナチュラルなバラつき」ですね。

 このナチュラルでランダムな現象を、「こうなってくれたいいなあ」という主観的な願望色眼鏡をかけて見ると、お馴染みの「ツキ」と呼ばれる現象になります。パチンコでも麻雀でもトランプでも「今日はついてる」「ツキに見放された」とかやってます。

 そういう現象があるという以上に、それに「どう取り組むか」がポイントだと思われます。
 イケイケの時期もあれば、ダメダメの時期もある。どっちでもない一勝一敗一引き分けみたいな凡庸な時期もある。一つはその見極めであり、一つはその見極めに応じてどう動くか?


 ギャンブルが強い人というのは、この見極めと行動が上手なのでしょう。

 赤銅色のベテラン漁師が潮の流れを見極めたり、苔むしたマタギ猟師が「午後から一雨くるな」と山の天気を見切るのは、まだわかります。長年の経験によって膨大なデーターベースが頭のなかに出来上がっていて、「こういうときはこうなる」というパターン認識ができるし、精度も高くなる。だからこれは知識や技術の問題に過ぎないと言えます。

 しかし、競馬や麻雀、株やビジネスになってくると、知識技術部分と純然たるギャンブル部分とが混在してきます。いくら理詰めで考えていっても、最後の最後は「えいや」で虚空をジャンブする必要がある。こういう商品が売れるとか、相場が上がるとかいうのは、後付の理由だったら幾らでもいえるけど、事前にはわからない。結果論で言って良いなら誰でも神様になれる、後出しジャンケン誰でも勝てる。肝心なのは事前であり、未来予知です。ある程度はわかるけど、不確定要素や未知のファクターがありすぎて、本当のところはわからないから、最後は直感勝負になる。

 そして、丁半賭博なんか典型的だけど純粋ギャンブルの領域があります。これらはもう純然たる偶然でしかない。
 「今日は湿度が○%だから丁だ」とか「ナスダックが急上昇しているから半だ」とかそーゆー補助知識が全く使えない。本当に純粋に運だけ。運と呼ばれる不均一なクラスター、ランダムな自然現象とどう付き合うかです(なおイカサマを見抜く技術なんてのもあるけど、ここではそういうのは除外します)。

 「よし、今日はいける!強気で攻めろ」とかいう判断が、一体どこから出てくるのでしょうか?
 今日は好調に勝てている、丁丁丁と連続丁で3連勝した、さあ次も丁か?いやそろそろ変えて半か?こんなの分からんですよ。分かるわけがない。でもそこを「分かる」のがプロのギャンブラーなのでしょう。


 しかし、本人にも説明は出来ないでしょう。正真正銘の直感、第六感、皮膚感覚としか言いようがないのではないか。その種の感覚をギリギリに研ぎ澄ませていく。しかし、どうやって?

 一応、これらにも過去の経験データーベースがあるのでしょう。でもその内容は「不思議とそういうことがある」「なんだかわからないけど、○○のときは○○にするといい」という迷信と五十歩百歩のものだろうし、対策といっても、様々な「ゲン担ぎ」や「ジンクス」です。「ヒゲを剃ったらツキが落ちる」とか、「家の敷居は右足でまたぐ」とか、「いつもと違ったことが起きた日は大勝負は避ける」とか、わかったようなわからないような、結局わからないんだけど、そういう世界です。


 ちなみに、似て非なるものに、受験技術で、「選択問題で、消しゴムをかけて解答を変えると大体間違える」というのがあります。最初の直感一発で選んだ方が正答率が高い。しかし、読み直せば読み直すほど、その自信が揺らぐ。あれ、まてよ、こっちの方が正しくないか?だってそうだよね、確か○○は○○だったし、、とかになるんだけど、そこは敢えて変えないのが吉。あからさまにミスが見つかれば別ですけど、「なんとなく」レベルだったら最初に見た時が一番バイアスがかかってなくて、手持ちの全知識でフラットで見えているから正答率が高い。

 しかし「見直し浮気」の場合は、なにかに小さなポイントにひっかかってる場合が多い。「あれ、待てよ、○○は○○じゃなかったかな」とか、それはそうなんだけど全体の文脈や正誤に関しては大した問題ではない枝葉に気を取られてしまう。全体のバランスが悪くなってる。でもバランスが良いときって、なんでそれが良いのか確定的な根拠が無いんですよね。「しっくりくる」などという曖昧な正解感でしかない。だからじっくり考えれば考える程グラついてきて、なぜそれが良いのかわからなくなる。反対にバランスが悪い時ってその部分だけは鉄板に正しく思える。そこだけ見てたら絶対これしかないように見える。でもそれはそこだけしか見ていないからそう思えるだけで、もうその時点で狂っている。だから、最初のフラットな目で見たものにせよというのは一理も百理もあります。これは受験に限らないし、これだけで一本書けそうだけど。

 ということで、選択問題回答法は、これはこれでちゃんと理屈があります。
 でも、丁半博打はそんな理屈はない。だから、分かるはずがない。しかし、分かるはずもないものを何故か分かってしまうかのような不思議な人々(ギャンブラー)がいます。

ギャンブラーの秘訣

 でもね、ファンタジーを壊すようだけど、ギャンブラーだろうがなんだろうが、確率は確率で、彼らだって負けるときは負けると思います。そんなに常に勝ってるわけではない。にも関わらず、常に鴨が葱を背負って歩いている博才ゼロの僕のような「お得意様」もいれば、それで生計を立てられるくらい常勝の人も一定数いるわけです。

 彼らが上手な秘訣は、徹底的に感情を殺せる意志の強さ、だと思います。
別にプロじゃなくたって、「今日は何をやってもダメ」と誰でも分かるような局面があります。全然勝てない。裏目裏目の裏街道だし、たまに勝っても安目ばっかりで儲けが少ない。こんなときはとっとと辞めればいいんだけど、素人はそこで頑張っちゃうのでしょう。なんで頑張るのかというと「希望的観測」であり、「感情」でしょう。「そろそろ一発逆転だ」とか威勢はいいんだけど、所詮は「こうなったらいいな」という願望であってリアリティからは逸脱してきている。また「せっかく来たんだから」「彼女の前でいいカッコしたい」とかそういう「邪念」も入る。

 要するに「エンジョイしたい」「楽しみたい」と思った時点で、もう純粋な勝負眼は曇っているのでしょう。

 僕は博打がド下手なのですが、あるときなんで下手なのか?を考えていくにうちにすぐに解りました。要するに「楽しみたいと思ってる」という点です。僕の断然そのタイプで、麻雀でもなんでも役満上がった快感、一発逆転サヨナラの爽快感を味わいたくてやっている。どれだけ快楽に酔えるかがポイント。だから勝負どころの判断でも、勝てるか勝てないかの無味乾燥な確率論よりも、この状況で「どうやって楽しむか?」という発想になる。だから確率的にはダメダメな方向にばかり進むので負けてばっかりになる。

 大体「おおっ!」と心が踊るのは、滅多にないことが生じた時です。麻雀の高目の役もしかり、ポーカーのフォアカードもしかり、競馬の大穴狙いもしかり。滅多に生じないことが、なぜかそのときに限ってタイムリーに生じるから「おおお!」というドラマチックな感動を呼び、カタルシス快感を得る。非日常的な「ハレ」の快感です。ということは、そんなものを求めていたら「絶対に」勝てるはずがないんですよね。だって「滅多にない」ことは文字通り滅多にないし、負けて当然の局面は負けて当然なのだ。その圧倒的に分が悪いミラクルみたいな部分にロマンを感じるというアプローチをしている限り、そりゃ確率的に勝てるはずがない。あったり前のことです。

 ここまでわかった時点で、決定的に向いてないと分かりましたが、じゃあ勝てるように心を入れ替えるか?というと、そんな気は全然ないです。麻雀でも、地味にシコシコとメンタンピンで手作りをするなんて「ロマンがない」と思ってしまうのですね。ココは譲れないね(^^)。それって地味に勉強して、安定した就職先を探して、定年後の年金を計算して、、みたいじゃないか。もちろん実人生ではそれはアリだろうし、ロマンばっかじゃ食えないのは分かる。でも、だからこその「娯楽」でしょうが。その娯楽である麻雀で、何が悲しゅうて又ぞろ似たようなことをイジイジやらなならんの?と。面白くなければ娯楽ではない、サプライズ的に楽しくなければハレではない。

 そんなワケで、麻雀でもなんでも「お金賭けないならやるよ」と言ってたら誰も誘ってくれなくなりました(^^)。だってお金なんか働けば普通に入ってくるし、珍しくも何ともないじゃん。勝って儲けてもそんなに嬉しくないです。それより「ありえないことが起きる」という感動快感の方がずっと楽しいと思ってしまう。

配合比率

 ギャンブラーの人たちは僕の真逆でしょう。人間離れした鋼鉄のような自制心で、当然出てくる人間の煩悩(楽しみたい、儲けたいという願望)を殺せる人たち。あと一歩で役満というときでもヤバイと思ったらベタ降り出来る。そんな超勿体ないことは僕には出来ない。もうフラストレーションが溜まるだけで、やってて全然楽しくないだろうって僕なんかは思っちゃうんだけど、彼らは何の逡巡もなく降りられる。あと一息ってときでも、「あ、やめ」と一瞬にして諦められる。引き際がめちゃ鋭い。表裏一体で攻め際も鋭い。「え、そこまで?」と、ここぞと思えば全財産賭ける大博打に打って出る。

 多分彼らの頭のなかにあるのは、プロだったら当然習得しているハイレベルの技術はさておき、海原のうねりのような、自然確率のランダムな波動だけなのかもしれません。これはこれで凄いことだなって思います。なかなか凡人には出来ないですよ。第一楽しくないんだったらなんでやるの?って思っちゃいますよね。なんか修行僧がストイックであることで自己実現を図るかのように、彼らも一切の個人的感情を排して、虚心に自然確率に向かい合い、冷徹に勝負に徹するというストイックさに自己実現をみるのかもしれません。ま、わからんけど。

 あとは、純然に勝負が好きなんでしょうね。負けたらすべてを失うという、ハラハラドキドキの勝負感覚、生きるか死ぬかのスリリングな場所にいるのが快感なのでしょう。そこで大きな充足を得つつ、あとは目的達成のために、氷のように冷徹に勝ち筋を読み、機械のように感情を殺して動く。僕もその種の物事がキライではないです。でなければ、なんで徒手空拳でオーストラリアなんぞに来るものか。でもそのヒリヒリ感は実人生でやることであって、ギャンブルでやることではない。

 と、ここまで書いて「ああ、なるほど」と思いました。本質は同じなんだ、ただ場面が違うだけで。

 つまり、@ありえないことが起きるハレのロマン快感、A生きるか死ぬかのヒリヒリ快感、B当たり前のことをひたすら地味に積み重ねる作業、この3つ要素があるのだったら、僕は実人生で大きくAを求め、その具現化のためにシコシコとBをやる。でもって@ロマンは娯楽に求める。ギャンブラーの人たちは、博打においてAとBを求める。では@は?というと、そもそも「ギャンブラーという人生」そのものがロマンなんだろうな〜。そういう非日常的なハレの人生を選んでしまえば、もう「仕事」である博打においてそれを求める必要はないのだろう。というか「仕事」というのは本来Bで、感情を極力殺して、目的達成のための最善手を淡々と積み上げていくことですから。そこにストイックな快感が生まれる。てことは、下手くそなくせに娯楽だと思って文字通り「遊び半分(全部)」やっている僕と、上手なうえに仕事に徹してストイックにやってる人とでは、はなから勝負になるわけがないです。

 ちなみに、常識豊かな一般世間のカタギの方々はどうかというと、@ABがそれぞれの局面に配合されているのだと思います。人生や仕事で、生きるか死ぬかのギリギリ快感までは得たいとは思ってないし、仕事においてもそこまで機械みたいなプロに徹するのも良しとしない。だから逆に娯楽である博打においても、僕のように@ロマン満開〜!というアホアホなアプローチはせず、そこそこに勝つための渋い戦略を取る。分散配合ですね。そういうことなんかな、と。

 で、何の話だっけ?

運という不均一クラスターの見極め

 この話でした。
 白黒オセロのランダムゲームで、黒や白がやたら続くとか、適当に混ぜこぜになるときとか、そういうことは実生活でもありますよね。何をやってもダメなときもあるし、「え、うそ?」とばかりに不思議とスラスラ物事が進むときもある。これは経験的にも頷けるし、誰に聞いても程度の差こそあれ、頷いてもらえると思う。

 客観的には、さまざまな偶然と必然の積み重ねであり、因果関係と自然現象の複雑なアラベスクなのでしょう。空の雲がたまたま人の顔に見えたり見えなかったりするように。過ぎてから後を振り返れば、「ああ、あの時期は」と分かりやすい。なんでそうなったのか、純粋に偶然の作用もあろうし、必然の部分もあり、その種の分析は出来る。しかし、その渦中、それもその端緒において「これからそうなる」というのを予知するのはメチャクチャ難しい。てか、本質的に不可能なのでしょう。

 でも、なんか分かる(ような気がする)ってことはありますよね。また、もっと感度を良くしたり、法則性を突き詰めていけば、より正確な予知が出来るのではないかって気にもなります。その気になって推し進めたのが、古代より世界各地にある占術なのでしょう。やれ天中殺だとか、大殺界だとか、上昇宮が火星だからどーのとか、森羅万象を統一的に説明しようとする大理論です。

 「なんかそういうことってあるよね」という僕らの素朴な生活感覚は、意外(でもないか)と強いのでしょう。そうでなければ、多くの雑誌の巻末付近に「今週の運勢」なんてコーナーがあるわけがない。「なんかある」とは皆も思っているのでしょう。でもわからない。だから情報収集として占いを読んだり、凝ったりするのでしょう。

 一方、本当に予知能力がある人もいるらしいです。一種の超能力ですが、ことの真贋や是非はここでは問いません。あるという前提で、それをサイエンティフィックに究めるのは興味はありますが、ここではそういう能力の無い僕ら平凡な市民の話です。「分からないけど、分かりたい」という見果てぬ夢のようなものを抱いて悶々としている我々は、じゃあどうすればいいの、どうしてるの皆?という話。

警戒警報

 僕の場合は、やたら物事が生じるようになった時に警戒警報がでます。一つ一つは生じて当然で、不思議でもなんでもない出来事でも、その発生頻度が普通よりも重なってくる場合。車のドライブに例えれば、いつもの通勤路を走っていて、普通だったら1分に1台しか対向車とすれ違わない道で、1分に3台とか4台とかすれ違うようになったら、「あれ、今日は混んでるな」と思うような感じ。

 天井灯はいずれは切れます。切れても不思議ではない。しかし、キッチンが切れたと思ったら、その翌日にリビングが切れ、その3日後にはバスルームが切れ(実際今回も切れて、前に交換したのがいつか覚えていないくらい稀)って重なってくると、「あ、なんかあるかも」と思ったりします。そういうことってありませんか?家電などの機械系統の故障や、単なる電池切れでもいいけど、なんか知らんけど立て続けに起きるという。これも急激な気象変化が電気回路の接点やらプラスチックの劣化やら放電現象を促進し、、って理屈はあるのかもしれないけど、その機序はともかく、現象として「やれやれ、今度はこっちか」と思うようなこと。

 あるいは、普段だったら起きないことが起きるような時です。生じても不思議ではないんだけど、「あら、珍しい」という出来事。車関係でいえば、例えばパンク、例えばバッテリーの寿命。滅多にないけど起きても不思議ではない。こういうときは、これが単発のものなのか、一連の繋がりの先端部分なのか、意識的に経過観察するようにしてます。

 そういう出来事は、「あれ」という意識を喚起するくらいの頻度で2度生じたらレベル2、3度だったらレベル3という具合に、警戒度があがっていきます。今の僕は、レベル6か7くらいの感じですから、「淡々と低めを突いて」という行動指針になってます。

 皆さんはどうでしょうか?昔ながらの言い伝えの、「黒猫を見ると不吉」とか「下駄の鼻緒を切れたら不吉」とか「茶柱がたったら吉」とかあります。それってどのくらい信じてますか、あるいはオリジナルな「予兆」はありますか。それか「嫌な予感がする」とか「虫の知らせ」とか、本当にありますか?これ、僕は分からんです。実際にもあんまりない。「夢見が悪い」というのはあって、「もしかしたら」と不安になって、安否が気遣われる人に電話したりしたことはありますが、予感的中というのはケースはゼロでした。だからあんまり分からんです。

反転上昇の転機

 あと、これまでダメ運だったのが大底を打ってこれから反転上昇するぞって転換点ですが、こっちの方は何となくわかるような気がします。実践的にいえば、「守りきったら必ず変わる」です。淡々と低目に投げてスリーアウトチェンジになったら変わる。これ、そんな長い期間じゃないです。運のストロークは、数日単位から数年単位であるので一概にいえないけど、恐いのは前に書いたように、ダメダメ続きで気力が萎えたり集中力が落ちて、尾根道から転がるようにドツボにはまることです。それさえ気をつけていれば、日常感覚では3日から一週間くらい何もなければ、だいたい危険水域を離脱したってちょっとほっとします(そこで油断したらダメなんだけど)。でも、指折り数えて計算して、、って感じじゃなくて、なんとなく心象的な色というか空気の質みたいなのが変わるというか、「あ、抜けた」ってのは分かるような気がする。気がするだけだけどさ。

 そんな延々と続くものではない。アウトを3つ取ればいいって感じ。だから、目の前に転がってきたゴロを丁寧に両手でガッチリ捕球し、ランナーを牽制しつつ、一塁に送球してアウト一つ。これをあと二回くらいやるって感じですね。もし、延々とドツボが続くようだったら、それは偶然とか運ではなく、必然であろう。つまり何か他の原因があるハズで、それを探して対処しないとダメだろうと思います。

 スパンが長い物事の場合、例えば負けそうな裁判が途中で勝てそうなっていくとき。あるいはダメ→良いという上昇ではないけど、ある時点を境にこれまでの原則と例外の白黒が反転するとき。例えば、この会社もそろそろ辞めどきかなって真剣に考え始めたとき。あるいは、この人とはいずれ別れるだろうなって、それまでの不満や不安が、心の奥底でカチリと確信に変わるときとか。それは分かると思います。「あ、潮の流れが変わった」って。多くの場合は、何かの出来事によってそう思ったりします。それがどんなに小さなことでも、ラスト・ストロー(限界ギリギリまで荷を積んだ駱駝の背は、最後には藁のように軽いものを置いた時でも折れるという意味)になることはある。

 村上春樹の小説で、ドイツ独自の半ズボンを夫のために買うためにドイツのある店にいった夫人が、夫と背格好が似ている人に着用して貰うのだけど、その夫そっくりの人の姿を見たときに、天啓のように「離婚しよう」と思ったという作品があります。題名は忘れたけど、なんだっけな。短編です。村上氏の作品は、「そういうことってあるよね」というのを見つけるのが実に上手い。どんだけ鋭敏な感覚で日頃から物事見てるんだ?って。

鬼門は新生

 最後に、ダメなことというのは本当にダメなことなのだろうか、ドツボは本当にドツボなのだろうか?という話。

 古来、中国伝来の方位学では、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位を悪い方角とします。鬼がやってくる出入口であり、モンスター・ゲートだから不吉だと。建築なんかでも、家の鬼門にあたる位置をどうするかとか、鬼門の部屋に未婚の娘を住まわせておくと行かず後家になるとか、魔除けになる桃の木を植えなさいとか、京都ではこの方角の比叡山を守りにするとか、あれこれ言われますよね。

 では、なぜ北東が鬼門になるのか。もちろん僕などが詳しく知るわけではないですが、マンガの「陰陽師」に興味深い記述がありました。丑寅というのは、時刻に直したら真夜中です。幽霊が出るといわれる「丑三つ時」も丑の刻(2−4時)を30分づつ四等分にした3つ目、2時30分くらいのド深夜です。森閑と寝静まり、温度も下がるこの時刻は、闇の世界であり、それだけで「彼の国」との通路が開かれるかのような連想になり、鬼などの「あやかし」が百鬼夜行するのだと言われるのでしょう。また、季節にすれば真冬にあたり、転じて端的に「死」そのものを暗示するとか。それを北を子とする12方位に分かれば丑寅は北東になる

 ところで、僕の好きな星野之宣氏の「宗像教授シリーズ」にちらっと出てきますが、鬼のビジュアルがなんで「角が生えて」「虎の毛皮のパンツ」をはいているかというと、艮=丑寅=牛(角)と虎(縞柄)の単純な庶民の連想によるのだという説明があって、「ほお、なるほど」と思いました。本当かどうか学術的に検証してないですけど、でも発想としては面白いと思った。

 で、くだんの「陰陽師」で安倍晴明先生は滔々と講釈を述べられるのですが、自炊したので貼り付けておきます(クリックすると大きくなります)。先生曰くは、陰陽道においては、艮は陰の気が極まるところであると同時に、生と死の継ぎ目にあたり、万物を生み出す起点、再生や変化を意味する。だから必ずしも「悪い」わけではないと。

 なるほどね、万物流転の視点からすれば、最も喜ばしい誕生のちょっと手前は死であり、死というのは新生するという意味でもある。やたら忌み嫌っていても生産性がないぞよ、という発想は腑に落ちました。

 これを転じて今のドツボ運話にあてはめれば、ダメダメ期というのは、自分や自分の周囲を点検し、再生しなさいよと、そろそろリニューアルしないとねっていう兆しであり、現象であると考えたら、必ずも悪いわけではない。歯痛にせよ、それはツライけど、痛いからこそ歯医者さんにいくし、抜本的な対処もできる。腰痛はツライけど、ツライからこそ生活習慣を改めるきっかけになる。

 ダメな状態がいつ生じ、それがクラスターをなして生じるかどうかは運なのだけど、ダメなものが何故ダメなのかはちゃんと原因も理由もある。だから分析もできれば、対処もできる。やりようによってはこれまでのパターンを抜本的に良くすることも可能であり、その意味でいえばチャンスでもある。ピンチのあとにチャンスありとは言いますが、より一歩進んでピンチ=チャンスなのだと。それはしんどいかもしれないけど、常日頃と違った状況に置かれるからこそ、常日頃と違う発想もできるし、行動も出来る。

 と、そんなこともふと考えてしまったのであった。
 でも、痛いぞ。しかし、これも今日まで。早く予約の時間になってくれい。
 その前に空港行ったりひと仕事せなならんけど。
 ガッチリいこうぜ、低目をついて、たんたんと。




 
文責:田村



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