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今週の一枚(2014/03/24)



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Essay 663:死ぬな!

 リスク管理=切り捨てる「鬼の心」の予行練習  

 写真は、先週 に引き続き、ポルトガル人の町Petersham。

 撮影時刻を変え、場所を100メートルほどズラすとこう見えるという。



 さらに、上の(大きな写真)の撮影位置から、クルリと右後方を振り向くと、こんな感じに見えています→
 撮影時間差は5秒位です。上の写真だと、商店街が建てこんでいて、車がたくさんいるようだけど、実際にはこんなもんです。

 写真やビジュアルというのは面白いもので、バラバラに見せられたらまず同じ街だとは思えないでしょう。
 「それが何か?」というと、別段他意はなく、単に「面白いなあ」と思っただけなんだけど。もっともらしい教訓を導くならば、「情報」って難しよなって。

 だってさ、それぞれの写真は「100%正しい」んだけど(改変を加えてない)、この3枚を見て同じエリアであると理解することはほぼ不可能なわけだし、仮に撮影位置が正確に分かったとしても、このストリートのリアルな空気感はわからんでしょう。比較的取っ付き易い写真ですらそうなんだから、これが図表や数値データーやら文章情報だけだったら「本当のリアル」に肉薄するのがどんだけ難しいか!です。もう「不可能」といってもいいかも。よく議論される経済データーなんかも、多分これと同じことなんだろうなって。

 思うんですけど、情報収集というのは全体の30%くらいに過ぎず、あとの70%は得た情報をどう「読解」「解釈」するか、その分解・解析・洞察・統合能力ではないかと。



 Essay 658:ネタの蔵出し21本から引っ張ってくるのも飽きてきました。毎回見てるうちに自分で飽きてしまって(笑)。
 今週は、ちょっと違ったことを書きます。



 毎週、こちらに来る皆さんにレクチャーしている部分ですが、オーストラリアや海外生活における心構え、特にリスク管理に関してですが、守るべきオキテはたった一つ。「死ぬな!」です。


 とにかく、死んだらアカンぞ!と。
 自分の命こそが最高・最大の価値であって、それだけだと。

 「そんなの当たり前じゃん!」って思うでしょう?
 でも、それって単に「当たり前だ」と思ってるだけのことで、ホントにわかってんの?

 「絶対死なない!」という大原則から、
   どういう派生原理が生じてくるか?
   具体的にどういう行動指針が生まれるのか?
   そこらへんを徹底的に詰めて考えたことあんの?
   そして日常においてちゃんと実践出来てるの?

 とまあ、挑発的にアオったりするわけですが(Hey, Hey, C'mon, Guys!  なんちって)
 そのあたりが今週のお題です。

リスク管理の本質=切り捨てる「鬼の心」の予行練習

優先順位〜百点満点なんて無理

 リスク管理(ないし事物処理一般)のコツは、優先順位をつけることです。絶対守るべきものはどれで、いざとなったら切り捨てても良いのはどれか?予めその序列をつけておくことだと思います。

 そりゃ100点満点取れれば良いですよ。万事順調、理想です。目指すべきです。
 でも、お聞きしますけど、あなたは今までの人生で「百点満点」って何回くらい取ったことがありますか?
 満点と形容してよいだけの「完璧!パーフェクト!」って状況になったことがどのくらいありますか?

 そんな100点満点!なんて滅多にないと思うのですよ。86点くらいで他愛なく満足してたりするもんでしょ。
 100点とか完璧って難しいんですよね。だからそんな難しいものをスタンダードにしてしまう点で既に間違っているんじゃないのか?

 最終的な「目標」と、個々の現場における「基準」とは全く別物であり、それをゴッチャにしてはならない。ついついやりがちなんだけど、それって実務において最も避けるべきことでしょ。

 「100点は(滅多に)取れない」というのを大前提にするならば、次に問題になるのは、失点しても良い部分はどこか?です。何を優先させて何を劣後させるのかという優先順位。いざというときに、何が自分に取って一番大事なことなのか、何が相対的にどーでもいいことなのか。

 そして、「死なない」というのが第一順位に来るならば、いかなる場合もこの第一価値が守られるかどうかをまず考えるべきである。それに比べれば第二順位以下はいざとなればタメライなく切り捨てよ、切り捨てられるように心の準備をしておけ、ということになるかと思います。

第二順位以下を切り捨てる

 ずっと前に、アメリカの自動車免許のA級ラインセンスを持ってる人とお話をしたことがあります。いわば運転のプロ試験ですが、「すごいな」と思ったのは、「運転中に外部から銃で狙撃された場合にはどうするか?」等と、ものすごい状況を想定している点です。そんなのが試験に出ると。なるほどアメリカだったらありうるよな。

 そして、もっと凄いのは「まず助手席の人間(運転者以外)を先に犠牲にしろ」と教えている点です。なぜなら運転者が撃たれてしまったら、その車はコントロールを失って全員死ぬかもしれない。ゆえに運転者こそが最後まで生き延びねばならない、それ以外の人間を先に犠牲にしろ。銃にかぎらず、スピンなど車のコントロールが危機的になったときでも、まず助手席側をぶつけるようにせよ、と。

 徹底しているでしょ?リスク管理というのは、まさにこの優先順位であり、それを平時において考え、咄嗟にそれが出来るように訓練することであると。

 これを実際の日々の生活に当てはめていけば、第一順位を自分の命だとすれば、自分が死ぬことを避けるためには、他のどんなものも犠牲にしろ、一瞬たりともためらうなってことです。もし、第一順位が自分の命以外(自分の子供)であるならば、それを守るためには(以下同じ)です。

 つまり、なにかを「大切にする」ということの実践的な意味は、それ以外のもの(価値的に劣後するもの)を「ためらいなく切り捨てろ」ということです。

リスク管理とは鬼の心

 「大切にする」というだけだったら、ギュッと抱きしめ&頬ずりして可愛がるかのようにイメージがありますが、それだけではない。それだけだったらヌル過ぎて実戦では使えない。

 現場で使えるためには、大切なもののために「他を平然と犠牲にする鬼の心」を鍛えることだと思います。自分の子供が一番大事で、それを救うために必要ならば、ためらわず自決せよ、自分の配偶者や親兄弟であろうとも見殺しにせよと。ましてや自分の家屋敷やら、財産やら、社会的地位なんぞ一瞬のためらいもなく切り捨てろ、それが出来るか?です。

 まあ、そんな極限状況が日常的にあるわけではないのですが、この厳しすぎる「究極の選択」を常日頃から考えておくことでしょう。今「ためらいなく」って書きましたけど、いざその現場に遭遇したら、普通の人だったらまず躊躇うでしょう。幾ら一番大事な命を守るためとはいえ、(それよりは劣後するとはいえども)愛する人を崖から突き落とすようなことが出来るわけがない。「どうしよ、どうしよ」と決めかねてウロウロしているうちに共倒れで全滅してしまう。二兎追うものは一兎をも得ずで、何もかも助けようとして全部殺してしまう。それじゃダメだから、平時において死ぬほど辛い決断をしておき、リスクの状況に応じて「予行練習」をするなどして備える。

 まあ、平和な日常生活においてこんなこと言っても、笑っちゃうくらいリアリティのない話だったりするでしょう?「極端なんだよ、話が」てな感じでさ。
 まあ、極論なんだけどね。でもさ、そうとばかりも言えないんじゃない?

津波てんでんこ

 例えば、3年前の東北地震のあとに紹介されて、ご存知の方も多いかと思いますが、とある地方では大津波があったときは「津波てんでんこ」という古くからの言い伝えがあったらしいですね。津波が来たときは、各自がてんでバラバラに逃げろ、家族や友達の安否を気遣ってはならぬ、探しにいってもならない、まずは自分一人が助かるように全てを捨てて全力で走り、1メートルでも高地に登れと。

 これ、非情のようでいて、とっても合理的です。探している数秒すら自然の脅威は待ってくれない。そんなことして共倒れになるくらいなら、ありえないくらいエゴイスティックに振る舞え、と。それぞれが自分だけ助かるように動いた方が、結局は救われる人命の数は増える。それが最良なのだと。

 しかし、そんなことを突然の危機状況で咄嗟に思いついて&決断して&実行することなんかできっこないです。自然の情として家族を探すだろうし、また親兄弟を見捨てて逃げたらあとでどんな非難をされるかと躊躇うでしょう。しかし、そのタメライが命取りになる。だから、そうならないように、最初から「てんでんこ」というシステムにしてしまえという。なるほど、古くから生きるか死ぬかの環境を生き延びてきただけあって、平和ボケしてないです。リスク管理についてよく考えぬかれています。実際にこの言い伝え通りにして助かった人が沢山おられると言いますし。

 だから一概に笑うべき極論ってわけでもないと思いますよ。

母体を助けますか?

 あるいは出産・分娩の際に帝王切開など緊急事態になったときに、赤ちゃんと母体とをどちらを優先して助けるか?という究極の選択が普通に出てきますし、事前に話し合われることもあるでしょう。そういえば、僕の場合(自分が生まれるとき)も12時間の難産だったらしく、まず母体優先ということで、ワタクシは劣後されてたらしいです、リストラ予備軍だったのね(笑)。いや、それについては1ミリも異論はなく、当然じゃと思います。

 (ちょい余談ですが)ところが99%ダメと言われていたにも関わらず、「憎まれっ子世にはばかる」の例えのとおり、しぶとく生まれてきたのが自分なわけで、これが僕の人生観の根幹の一部をなしています。つまり「運は使い果たした」ということです。この先、どんな不運に見舞われようが、乗ってる飛行機が落ちようが、バスが谷底に転落しようが、通り魔に襲われようが、「ま、しょうがないんじゃない?」と思おうと。五体満足で生まれてきただけで丸儲けですからね、これ以上望んだらバチがあたる。だから、人生においてもラッキー狙いは一切やらない。宝くじの類は、生まれてこの方一度も買ったことはないし、受験などで神頼みをしたこともない。何をするにしても「成功して当然」というところまで積み上げろ、イチかバチかだったらまず負けると思え、「最悪で当たり前」というのがデフォルトの想定になってます。まあ、それから思うと、恵まれすぎるくらい恵まれているので、「おい、いいのか?」くらいに思ってますが。

 話は逸れましたが、極論というほど実は極論ではないってことでした。

 さらに、そこまで極端な事例ではなくても、そのエッセンスを希釈していけば、以下のように日常生活のリスク管理に役に立たせることが出来ると思います。
 

命を大事にすることの意味

リスク査定が甘い

 時間に遅れそうになって焦って走ってます。道路の向こう側にバス停があって、早くそこまでいってバスに乗らないと間に合わない。すると、向こうからバスが走ってくる。横断歩道までいって、信号が変わるのを待っていたら、バスが行ってしまうかもしれない。そこで、あわてて左右を見て、「よし、大丈夫だ」と思って車道を突っ切って渡ろうとする。

 これは僕の日常でいつも皆さんにレクチャーしている設例です。「ダメよ、そんなことしちゃ」って言ってるのですけど、そのココロは「死ぬな!」の大原理に反する点です。

 そんな車道を横切るだけで大袈裟な、と思われるでしょうが、それはリスク査定が甘いと思います。

 特にオーストラリアの場合、以下の点を考慮にいれるべきです。

 第一に、車両の運行スピードが早いことです。シドニー市内は大体60キロくらいですが、そんなに誰も彼もが馬鹿正直に守っているわけではなく、自分で運転したらわかりますが、80キロくらいすぐに出てしまいます。結構早いんですよ。全体に風景が大作りだから、日本ほどチャカチャカ風景が変わらず、そんなに出している気がしないのですが、実は出ている。

 80キロで走行している車道を横切る、それも片道3車線両側合わせて6車線の大通りを突っ切るというのは、日本でいえば高速道路を徒歩で突っ切るくらいの冒険だったりします。僕もオーストラリアに来た頃、これで一回死にかけましたが、誰でも一度くらいは経験あるかもしれません。とにかく車がやってくるのが想定外に早いのです。遠くにいるから大丈夫だと思って渡り始めたら、あっという間に目の前に迫ってきている。怖いですよ。やったことない目測というのは間違えるリスクがあり、それがこんなに恐いものだとは知らなかったです。また、対岸までの距離が意外と長い。すぐに渡り切れるだろうと思ったら、なかなか進まない。そうこうしている間に、20トントレーラーが怪獣のように突っ込んでくるわけで、恐怖です。

 第二に、オーストラリアのアスファルトは滑りやすい。特にペイント部分がそうです。多分道路の品質が違うのだろうし、そんなにお金をかけてないんだと思います。スニーカー履いてても、おもわずツルッと滑ります。もう何度コケたことか。また、日本よりも重量級の車両が異様に多いのですぐにボコボコに陥没してて、この穴ぼこに足を取られてコケる。

 ということは、迫り来る怪獣トレーラーを睨みながら必死で走ってるとき、コケるって可能性もあるわけです。それで足首とか捻挫したら、もう目も当てられないです。動けないまま絶望的に迫り来る自分の死を待つという、そういう死に方だけは避けたいですよね。

 オーストラリア人はスポーツ優秀で運動神経バツグンですから、時間&空間把握能力が凄い。彼らにしてみれば、これは間に合うとか間に合わないとかいう判断が正確に出来る。また、バランス感覚がいいから、頼りなくセンターラインにボツンと立って、両側ビュンビュン車両が通過するのを涼しい顔をして待っていることもできる。僕もそういう状況になったことがありますが、大型車両がきたら吸い込まれそうになるし、バスが連続で数台通り過ぎていくときなんか、もう生きた心地もしません。こっちの人は、おばあちゃんでも平気な顔してやってたりするけど、バケモンかと思いますね。うかつに真似をしないように。DNAが違うんだわ。

 こういうリスク査定が正確に出来ているか?ってことです。
 これは別にオーストラリアに限ったことではないです。日本であれ、どこであれ通用します。
 歩いたり走ったりしたらコケることもあるのだ。階段だってコケることがあるのだ。ホームに立ってたら、急に立ちくらみがおきて、そのまま線路に転落して轢死ってこともありうるのだ。

 もっといえば、これは法曹界に入るときに都市伝説的に伝えられましたが、「ホームの一番前に立つな」です。後ろから突き落とされるかもしれんし。なんせどこで逆恨みを買ってるかわからない仕事ですからね。「いつ殺されても不思議ではないくらいに思え」です。次に、「満員電車では、吊り革は両手で持て」というのもありました。誰かを陥れて社会的に葬るには性犯罪(痴漢)が一番簡単です。何にもしてなくても濡れ衣で痴漢にさせられるリスクは常にある。あれはもう水掛け論だし、そういう騒ぎになっただけで致命的です。潜在的に敵がいる立場であるなら、間違っても痴漢にされることのないように、両手は常に上にあげておけ、誰からも見えるようにしておけ、と。

 ここまで言えば思いつく人は思いつくでしょう、「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」「瓜田(かでん)に履(くつ)をいれず」という故事です。李というのはスモモで、果樹です。果樹園で頭の冠を直していると、遠目にはまるでスモモを取ろうとしているように見える。瓜田は瓜でスイカのように地面になってますから、ここで靴を履いたりしてると、まるですいか泥棒のように見える。要するに「まぎらわしい真似はするな」ということですね。どこでどう冤罪になるかもしれないので、そういうリスクは常にわきまえておけです。

 これはビジネスの実務でもいろいろ出てきます。男性上司であれば、個室などの閉鎖空間で女性社員と二人きりになるような機会は出来れば避けて、オープンスペースや第三者と同席するようにするとか。公務員であれば、たとえそれが高校の同級生であったとしても、出入りの業者とプライベートで会うようなことはするな、とか。どこで躓くか分からんのですよ。そのあたりのリスクの査定が正確にできているかどうか、です。

平然と切り捨てること

 次に、そこまでリスクを背負って何を達成したいのか?
 焦っていてバスに乗りたい、時間に間に合わせたい、では何のために?時間に間に合わないとどんな不利益があるのか?どんな悲惨な運命が待っているとしても、死ぬよりはマシでしょう?

 で、通常の場合は他愛のないことが多いです。
 別に急いですらいなかったりもする。ただ、あのバス中々来ないから、一回見逃したら又30分くらい待たないとならないし、それがイヤだから焦って乗ろうとするという程度だったりするでしょう?

 大体ですねオーストラリアに来たばかりの皆さんに、そんな命を賭けても悔いなし!って超重要な商談があるわけでも、国家の浮沈をかけた条約交渉があるわけでもない。はたまた悪漢に拉致された恋人が死にかけているとか、日没までにお城に戻らないと親友が処刑されるとか、そんなドラマチックなこともないです。せいぜいが学校やバイトに遅れるとか、シェア探しのアポに遅れるとかその程度であり、それって命を賭けてまでやらねばならないことか?と。

 というわけで、「死ぬな!」のオキテを守るための実践的なやり方としては、「平然とバスを見送れ」です。「平然とまた30分ボケーッと待て」と。つまりは「平然とチャンスを見逃せ」です。目先の小利益でアタフタすんな、と。

 とはいつつ、全くクルマが走ってないガランとした道路だったら渡って良しですよ。具体的な「安全基準」は「3回コケても大丈夫」くらいかな。せめてそのくらいの安全係数をとっておけと。それが、ささやかな日常の、しかし「命がけの仕事」の心構えではないか。

精神失調〜パニックが一番恐い

 事故や不幸というのは、運命的に避けがたいものもあるでしょうが、多くの場合は自らみすみす招いています。
 パニックになっているときや、ちょっとした油断をしている時、つまりは精神的に逼迫している時、あるいは弛緩している時(飲んだくれてゴキゲンになったり、何かに夢中になっているとき)です。精神の平衡が失われているときといっても良いです。

 だからこそ「平常心が大事」と言われるのですが、さてしかし、「ヘージョーシン」と念仏のように唱えていたって平常心が磨かれるものでもないでしょう。

 では、どうしたらいいか?どういうときに平常心が損なわれるのか、そのパターンを類型化し、それぞれに対策をたてるべきでしょう。

 まず第一に避けるべきはパニックです。
 この話は何度も書いているので耳にタコの人もいるでしょうが、すごい大事なことなので何度でも書きます。自戒を込めて。

 僕の前職の弁護士時代にやってくる人は、やれ財布を落としただの、デジカメが壊れたレベルの不幸では来ません。もう一家心中するしかないとか、誤って人を殺してしまいましたってレベルの大トラブルです。でも、なんでそうなったのか?を聞いていくと、おおむね共通するパターンがあります。最初に普通の小不幸がやってきて、そこで頭をポリポリかいて「やれやれ」とスルーしておけば良いものを、異様にテンパって、異様にパニックになって、招かなくても良い大不幸を招くというパターンです。不幸というのは99%は「自滅」だといいますが、自分からわざわざ地獄の釜を開いて二番底にあーっ!って落ちていっている。

 ここで個別に、遺産分割をするときはとか、手形の裏書をするときはとか個別事例をあげつらっても専門的すぎるので割愛します。いくらでもネットで書かれてます。もっと一般的で、今日にでも使える話をします。

交通事故がダントツに怖い

 僕ら=日本やオーストラリアくらいに整備された社会に住んでいる人間が、もっとも陥り易い大不幸は何か?といえば、交通事故にトドメを指すと思います。殺人などの重大犯罪なんか確率的に滅多に遭遇するもんじゃないです。あなたの直接の知り合い、あるいはさらにその知人(「友達の友達」ってやつ)で犯罪で殺された人っていますか?そんなに居ないと思います。「今から5分以内に誰かに殺されてこい」と言われても、そうそう殺してくれる人に出会えるものでもないでしょう。

 しかし、5分以内に簡単に死ねる方法ならあります。交通事故です。そのへんの車道にいって飛び出してくればいいです。あるいは目をつむって5分間運転したらいいです。かなりの確率で死ねますから。大体、殺人の多くは顔見知りの犯行であり、「痴情のもつれ」「鬱積した怨嗟」「ストレスと精神錯乱」とか、実行までに至る精神的な準備期間がやたら長い。そうではない、インスタントで偶発的な通り魔殺人は珍しいからメディアでガンガン報道されるけど、メディアに出るという時点でもう絶対的に「珍しい」わけで、新聞の三面記事読んでリスク管理を考えるというのは、非常に危ういし、もう立案における自殺行為だといいたいくらいです。本当に恐るべきは、もっと身近にあり、もっと地味なものでしょう。

 日本の統計でいうと、日本も高齢化なんだか不景気なんだか、だ〜いぶ平和になったようで、かつて大雑把に覚えていた年間殺人件数や交通事故死者も今調べてみたら激減してます。2012年に他殺被害者数は383人(出典はココないしココ)、交通事故死者は4373人でした(出典はWiki)。もっとも、交通事故死者は、ご存知のように統計のズレがあって警察の統計では事故後24時間以内に死んだ場合に限定してます。他にも30日以内とか、厚労省では1年以内で、ここまで広げるともう3000人くらい増えるようです。負傷者は2007年まで100万人の大台、2013年には78万人まで下がっています。いずれにせよ、他殺400人弱に対して、交通事故死はその10-20倍、負傷になるとケタが2つ違う。

 ここで僕は一般犯罪リスクを軽視せよ言ってるわけではないです。それはそれで大事。ただ客観的なリスクを、恐怖や先入観なしに、そのまんま捉えてバランス感覚を養った方が、現実生活ではご利益があるんじゃないの?と言ってるだけです。クルマというのは気をつけても気をつけ過ぎるということはない。なんせ、車とマトモに喧嘩したら即死、ないしは一生首から上しか動かせないような辛い身障者生活が待ってます。軽いやつでも鞭打ち&不定愁訴というQOLがドカンと下がる日々がある。あまりにも日常的な危険である割には、あまりにも失うものが大き過ぎる。

 刑法の理論に「許された危険の法理」というのがあります。自動車のことですけど、客観的なボリュームでいえば、国民の生命身体に最大の危害を及ぼし続けているのは、戦争でも、暴力団でも、食中毒でもなく、自動車運行です(放射能は論者による)。毎年100万人単位で国民を殺傷し続けているキリング・マシーンのような超危険なものを、なぜ刑法が許しているのか?人喰い虎がそこらへんウヨウヨ歩いていて、毎年100万人が襲われて負傷してたら大騒ぎでしょう?一頭だけでも大騒ぎなのに。なんでクルマだったらいいのだ、なぜ違法ではないか?事故が起きてからでは遅いではないか、凶器準備集合罪のように実害がなくてもその危険があれば犯罪になるのだから、クルマなんか全部禁止すべきだろって立論もあるわけです。

 これを論破、というか「言い訳」みたいにヘナチョコに適法化する屁理屈が「許された危険の法理」です。「現代社会に必要不可欠だから」という言い訳だったら足りなくて(「じゃあ金の為なら人なんかいくら殺してもいいんか?」と反論されるから)、そこで「事故防止のために最善を尽くしている条件付きで」というのを出してきてクリアしようとします。が、これとて100万人近い実害がでているなら、どこが「最善」じゃい?とも言えるわけですね。ぶっちゃけ本音を言ってしまえば「100万人くらい傷ついたって、まあしょうがないよね、というのが国民の合意だから」というあたりになるでしょう。純粋に理屈でいえば、凄いことやってるんだよね、僕らは。猿や宇宙人から見たら「阿呆か」と思われるだろうな。

 ここでまた余談ですが、単純に死者数だけいえば、年間3万人以上の犠牲者を出している自殺こそがダントツのリスクでしょう。なんせ他殺者数の100倍近く、交通事故死者の数倍〜10倍なわけで、今の日本で自分の生命の最大の危害者は他ならぬ「自分」であるというスゴイ話になってます。さらに、餓死者については50−2000人まで論者によってバラつきがあります。このあたりを言い出すと話がどんどん逸れるのですが、一つには年間十数万人におよぶ変死者の分類作業の問題があります。最終的な死因が栄養失調による衰弱死だったら餓死で、分かりやすい自殺方法を取れば自殺カウントとか。でも最終死因でカテゴライズするのは無理があるでしょう。即身成仏みたいに自らの意思(てか生きる意欲が溶けてきて)衰弱死するような場合もあるでしょうし、衰弱していく過程で肺炎などにかかって普通の病死になってる場合もあろうし、転落死なんかそうですけど自殺なんだか事故なんだかわからないって場合もあるでしょう。

 だから最終的な死因だけで論議してても、やや虚しい気がします。全部ひっくるめて「窮乏死」とでもいうべきなんですかね。「追い詰められて」「何をやってもダメな気がして」「死んじゃおうかなあって気分にさせる」という全体の雰囲気やら構造なのかもしれません。こう言うと話がボケる一方で良くないんでしょうけど。でも、「生きてて楽しくない」となった時点で既に危険水域なんかもしれません。まあ、でも、今回は「リスク=意思に明瞭に反して生じるトラブル」ということに限定して話を進めます。「その意思自体がヤバくなる場合」については別領域であり、過去回で「カウンセリングのススメ」など書いてますが、そっちの方が大事なんかも、です。
 

パニックによる不幸の二番底

 さて、話は戻って交通事故ですが、普通はそんなに交通事故に遭うわけもないです。左右の安全確認をしていればまず大丈夫でしょう。でも、それをやらない時がある。パニックになったときです。財布を落としました!クレジットカードをさっきの店に置いてきてしまいました!ここでパニックになる。一刻も早く!という焦りが、注意能力を異様に低下させる。人間パニックになると、ちょっとばかり気が狂うんですよね。パニックになってるときは、赤信号と青信号を全く取り違えて、全速で赤で飛び出してドカンというアホみたいな事故は本当にあります。

 逆に自分で誰かを轢き殺してしまうかもしれません。勝手に自分で塀に車をぶつけて、ボディを凹ませて、精神的にさらに強烈に凹んで半泣きになりながら前に車を出したとき、ブイン!とダッシュさせてしまったところ、たまたま車の前に幼い子供が歩いていて轢き殺してしまった、とか。パニックになってるときは、最悪に注意力が落ちてます。「あ!」と思った時には手遅れです。

 「事故」というのは、普通だったら絶対起きるわけがない事象のことです。いつもの注意力だったら絶対避けられた、間違っても事故なんかするわけない。しかし、その時に限って注意力が異様に下がっている。なぜか?多くの場合は、その前に少不幸があって、それでパニックになったり取り乱したりするからです。柔道でいえば、「投げ」に入る前に「崩し」という工程があるようなもの。そこで過剰に、過敏に反応するから、どんどん事態はヤバくなり、リスキーになっていく。

パニックにならないための対策

 だとしたら二番底不幸を避けるためには「パニックにならない」という準備が必要です。

 そのためには、なぜパニックになるのか?の心理を分析したらいいです。なんでそんなにガビーン!となって精神がアップアップするのか?それは、いま直面している事態が、自分の管理能力を超えるからでしょう。海で泳げない人が背の立たない沖まで来てしまったような、コントロール不能状況が人の精神を逼迫させる。

 じゃあ管理能力を強化すれば良いわけで、それこそが王道なんだけど、王道というのは異様に時間がかかるという欠点がある。そんなの一朝一夕にはできません。長い長い人生経験を積んでいくことで「そのとき、○○、少しも慌てず」というタフでクールな人格が出来上がるのであって、今日明日には間に合わない。

 では管理能力が今と同じくらいヘナチョコだとして、尚も手段はないか?あります。
 パニックの本質は「予想外の出来事」「あってはならない悲惨な事態」に遭遇している点にあると思います。想定外すぎるから、咄嗟にどうしたらいいのかわからない。そこで精神にうろをきたす。だとしたら「想定外」を「想定内に」にしてしまえばいい。つまり、あらかじめ想定しておくことです。そして最初から腹を括っておくことです。「ま、しょうがないよね」と思うようにしておく。

 その場合、冒頭に戻って、一番大事な価値序列は自分の命なんだから、まずその確保を第一にして、それが保全されたという確証がない段階では、あとはタメライなく切り捨てること。

 簡単にいえば、「死ぬこと以外はトラブル(不幸)ではない」くらいに思っておくことです。

 コトが起きてから慰めにそう思えってことじゃないですよ。まだ何もない段階、常日頃から、つまり「今この瞬間から」そう思っておけ、と。「津波てんでんこ」のように平常時にそう思い、そのシステムを常時作動させておけ、と。

トラブル確率論

 なぜなら死(or重大な後遺症)以外のトラブルというのは、普通に沢山生じるからです。これはもうどうしても生じるし、避けることは不可能です。毎日公園を散歩してればいつの日か犬のウンコを踏んでしまうこともあるでしょう。傘を忘れてズブ濡れになる日もあるし、他人の褒められる日もあればケナされるときもある。

 こんなの生きてれば絶対生じます。しかし、その都度にガビーンとなって、号泣して取り乱して、精神にうろを来して、夢遊病者のようにふらふらと車道に飛び出していたら、命がいくつあっても足りません。にわか雨にふられては錯乱し、犬のウンコを踏んだら天を仰いで号泣し、駅のホームの自販機で「あたたか〜い」と「つめた〜い」を間違えて押してしまったら呆然自失として、ふらふらとさまよってホームから落ちてたら、リスク管理もヘチマもないです。

 これらは冗談めかしていってますが、もう少しノッチ(目盛)を上げていけば、リストラされたとか、受験に失敗したとか、フラれたとか、軽い物損事故を起こしたとか、子供が万引きで補導されたとか、配偶者の浮気現場を目撃してしまったとか、職場でハブかれているとか、自分のブログが炎上したとか、いろいろあるわけですな。

 でも、これも同じことで、そんなんでイチイチ反応して、車道にふらふら彷徨い、とかやってたら命がいくつあっても足りませんぜ。

 ものすごい不幸が自分にだけ襲いかかっているような気がするけど、錯覚ですわ。そんなん誰でもそう。

 大体において、ロングスパンにすればするほど個人差というのはなくなり、また運の要素というのも減少し、しまいには単なる確率論になる。誰であれ似たようなトラブル遭遇確率になる。これも何度も書いていることで、統計学でいうところの「平均値への回帰」やら「大数の法則」ですけど、スパンが短ければ運の要素が強いが、ロングレンジで考えれば運なんて要素はない。今日という一日だけのスパンでみれば、やたら信号運が良い日もあれば、やたら悪い日もある。しかし一生スパンにしてみれば、「全人生においてやたら赤信号にひっかかる人」とかそういう認識はしない。大体誰もかれも似たり寄ったり。あるいは「今年はよく赤信号にひっかかった年だった」とかいちいち思わないでしょう?純粋に運の問題であれば、それは均していけば純粋の確率の問題であり、特に運の良い悪いもないです。

 生きていれば誰だって、テキトーに良いこともあるし、悪いこともある。ケータイを無くすこともあれば、財布を落とすこともある。職場の人間関係が煮詰まるときもあれば、階段を踏み外して足を捻挫するときもある。災害は忘れた頃にやってくる。NHKの集金人も忘れた頃にやってくる。皆同じ。

処方箋〜瞬時にあきらめろ

 確率的に誰でも遭遇するような不幸/トラブルは、これはもうしょうがないのだと「あきらめろ」です。そりゃ、事前に注意して避けられるものは避けたほうが良いですよ。しかし、どんなに注意してどんなに万全を尽くしていても、起きるときは起きるわけだし、だからこその事故なんだし。

 問題は、このあたりの誰でも食らう「少不幸」に取り乱して、パニックになることです。
 ここが勝負の剣ヶ峰で、ここでパニックになると、滅多に誰も出くわさない真性の不幸に転げ落ちていきます。地獄の釜が開いて不幸の二番底が待っている。それこそが恐い。

 ということで、なんか「きゃー」という事態に遭遇した時は、

 @、まず「死ぬな」の大原則に忠実に、生命の確保に全力を尽くせ
 A、それ以外については、ためらいなく切り捨てろ、すなわち「しょうがないよね」で「瞬時にあきらめろ」


 ここで、どれだけタメライなく切り捨てられるかです。何が起きても、確率的に起きるべきことが起きただけ、それがたまたま今、こういうカタチになって現れただけと瞬時に喝破し、理解する。iPhoneなくしました、財布をスられましたというときに、「なるほどね〜」「ほう、そうきますか」くらいに思っておけと。仮にそういう事態が生じなかったとしても、確率の神様はうんざりするほど公正だから、必ずや別のカタチでまた生じる。iPhone無くしました!という現実を、「タイム!今のなし!」で将棋の待ったのようにやり直しできたとしても、その代わりに生じるのが「片足切断」かもしれないわけですよ。絶対逃れらないなら、iPhoneごとき、手に負える領域で済んでくれた方がよっぽどラッキーです。

 なお、「切り捨てる」とか「諦める」とかいう表現がキライならば、「瞬時に立ち直る」「冷静さを失わない」「平常心をキープ」という美しい表現にしても良いです。しかし、美しい表現というのは、往々にして具体性に欠ける。パニックになってるときに「冷静になろう」とか言っても、そんなに簡単にはいかない。そうなれないからこそパニックなんだし。本気で命を守りたかったら、こんな美しいけど毒にも薬にもならない言い回しでお茶を濁すのではなく、もっともっとカドが立つくらいエグく、生々しい表現にした方がわかりやすいし、緊急時のインストラクションとしては使えるということです。

 家に帰ったら自宅が全焼してましたという、ムンク顔で絶叫したくなるような事態が起きた時も、「あっそ」と受け入れろ、遅滞なく切り捨てろです。だって、そこで嘆き悲しんだって事態は改善されないし、何度も書いているようにパニックになってるときは危機管理能力が最弱になってるから、さらに取り返しのつかないことをやりかねない。自宅が全焼する以上のことなんかあるか?といえば、ある。焦って助けを求めるためにクルマを急発進させ爆走させていたら、人を轢き殺してしまったってこともあるのです。「これで終わりと思うなよ」「二発目が来ると身構えろ」です。「トラブルはダマになってやってくる(猪木談、、らしい)」です。一発目に嘆き悲しむなんて、英語で言えば「ラグジュアリー(贅沢)」です(こういう表現をする)。一発目に泣いてるヒマがあったら、二発目、三発目に備える。

 起きてしまったことはしょうがないんだから、それをそっくり呑み込み、それを前提にして最善の事後処理を考えなければならない。やらねばならないことは山ほどある。錯乱しているヒマなんかない。氷のように冷静に計算し尽くさないとならない。客観的にはそれが一番良いに決まっている。

 ならばそうなるように常日頃から備えるべしです。

価値あるものをチェリッシュする〜価値倒錯を起こさない

 第二順位以降を切り捨てるというのは、第一順位の最高価値をちゃんと認めるということと表裏の関係にあります。この世界に自分が生きているということが、どれだけ価値あることなのか、どれだけ得難い、ありがたい、素晴らしいことなのか、ヒマさえあればちゃんと思っておく。"cherish"という英単語がドンピシャですが、「自分の所有するものの真価を認め、誇りに思い、愛情を注ぐこと」です。ちゃんと価値あるものを、常日頃からチェリッシュしておくこと。もう「ドタマにぶち込んでおけ」くらいの感じね。

 全財産無くなったっていいんだわ(よかないけどさ)。どうせ生まれてきた時は何一つ持たず、死んでいくときもまた何一つ持たずに帰っていくんだから、財産とか資産とかいってもどれもこれも一過性のものでしかない。本当の資産目録に記すべきは、@生命、A親からもらった身体、そしてB時間くらいでしょう。その次にC「大切な人」かな。そんなもんでしょ?他に何がいるんだ?

 ここが心胆レベル、RAMではなくROMレベルに刻み込まれてないと、どうでもいい下位レベルの雑魚キャラ価値に一喜一憂してしまう。「ヘボ将棋王より飛車を可愛がり」と言いますが、価値倒錯が起きる。人間なんて馬鹿だから、気をつけてないとやっちゃうんですよね。第一価値キャラって、当たり前すぎて意外と魅力に乏しかったりするんですよ。マンガでもそうですけど、主人公よりも個性あふれる優秀な脇役キャラの方が魅力的に見えたりもする。だからつい迷う。浮気しちゃう。

 また下位価値レベルの方がスケールが小さいから、チョコチョコ小細工ができるし、戦略的・ゲーム的に楽しいから、つい夢中になっちゃうという。大事なのは恋人なのに、「恋人を迎えるディナー製作委員会」活動の方に夢中になって、相手が早く来すぎたり、遅れたりしたらメチャクチャ腹が立つ。これぞという一品に期待通りに反応をしてくれないと、これも腹がたつ。でもって雰囲気ギスギスしてきて、この味がわからないなんて「あんたには猫に小判」とかつい言ってしまって、関係悪化、そして破局、、、何やってんだかです。

 阿呆の定義はいろいろあるけど、「下位階梯にある事象の去就に影響されて、上位階梯の価値判断を誤ること」といえるかもしれません。ぶっちゃけいえば「どーでもいいことに取り乱して、大事なものを失うこと」です。

 そして、第一順位とそれ以外だけではなく、第二順位と第三順位、第八と第九のように、これも暇な時に序列をつけておくといいです。腹を括るための格好のトレーニングになりますから。

その他 

 精神の平衡を欠いている状態としてはパニックが一番恐いけど、それに尽きるものではないです。ストレス耐性の限界にきて、イライラしていて集中力を欠いている場合もあるでしょう。また不快系ではなく愉快系もあります。泥酔して多幸感に満ちあふれて、お馬鹿なことをやってるときもそうです。

 このあたりをやってると、ネタ出しで出てきた「「うざい」が口癖になってる人とは付き合うな」という話にリンクしてきたり、僕が自分の日常生活で自己懲罰としてやっている「懲役十秒」の話とかあるんですけど、長くなるから割愛します。

 ああ、あと、命が一番大事とはいいながらも、命をリスクに晒してまでもやりたいこと/やらねばならないこともあります。リスクというのは避ければ良いというものでもなく、虎穴に入らずんば虎児を得ずで、リスクを冒さないと先に進めないのも世の中ですよね。「リスクの選別」という大事なテーマもあります。これも別の話なので、また。


 
文責:田村



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