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今週の一枚(2014/03/17)



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Essay 662:国会議員を抽選で決めて何が悪い?

 
 写真は、ポルトガル人の町であるPetersham。
 夕陽の照り返しが綺麗です。

 ピーターシャムの大通り(New Canterbury Rd)沿いの商店街の町並みは、古い時代の佇まいを残しており、いい感じで寂れていたのですが、昨今、リニューアルの兆しがあります。ああ、勿体無い。古都保存条例で残しておきたいくらいなんですけど。

 とことで、写真左端のピザ屋さんの看板のキャラが「どっかで見たことあるような」というデジャヴュ感を誘います。なんというか、ゴースト・バスターズ×ミシュラン×出前一丁÷3みたいな感じ。



 また、Essay 658:ネタの蔵出し21本からリクエストのあったお題をやります。まだまだ一杯あるし。

 今日は、そうだな、国会議員を抽選で決めて何が悪いのか?論でもやりましょうか。

 これはシリアスな提案というよりも、もっぱら「頭の体操」です。
 ガチガチになってる固定観念をカーンと叩き割って、物事の本質みたいなものを考えてみましょってコンタンですね。

国会議員抽選論の骨子

 これは簡単で、今、選挙で選んでいる国会議員(市会議員でもなんでもいいけど)を、選挙ではなく純粋に抽選で決めてしまうという方法です。

 細かな技術的なことや内容についても色々あるのだろうけど、ここで念頭においているのは、立候補者の中から抽選でえらぶのではなく、完全に日本国籍を持っている全員を対象に宝くじみたいに抽選をやって一定期間否応なく国会議員として審議&採決をしないといけないというシステムです。

 要するに全くの政治にズブの素人が国会議員になるという無茶苦茶な発想です。

 「そんな馬鹿な!」と思うだろうし、まあそれが普通の反応でしょう。

 でもね、これ、じっくり考えていると、そんなに馬鹿でもないんじゃないか?あるいは、現在の状況がそれに比べて格段に素晴らしいのか?むしろ抽選よりもヒドイことになってないか?ということまで考えが及んできて、「あれ?あれれ」とワケわかんなくなるところが面白いよってネタです。

 予想される問題点と検討を、以下ランダムに書いていきますね。

ド素人に政治が出来るのか論〜「政治のプロ」ってなんなの?

出来るの?

 当然出てくる問題は、「できんの?」です。
 ランダムに国民が選ばれるならば、そこらへんのおっちゃん・おばちゃん、にーちゃん・ねーちゃんが国会議員の先生になるということで、そんな普通の人に難しい国政の舵取りが出来るのか?出来るわけないだろ?という点です。

 これに対する根本的な反論は、もし彼らに(僕らに)難しい政治が出来ないのであれば、じゃあ民主主義ってなんなんだ?ってことです。

 「馬鹿(ドシロート)はひっこんでろ」が正しいなら、彼ら(僕ら)を主権者にすること自体がそもそも間違ってるってことにならないか。しょせん「愚民ども」に政治ができないならば、家畜や奴隷のように、それが言い過ぎなら「二級市民」として単に被支配層として位置づけておけば足り、一切政治に口出しさせない、まあブーブー文句や愚痴を言うのは許すにしても、決定権を与えなければ良いってことになりそうです。

 でも、それって民主主義なのか?

 民主主義というのは「治者と被治者の自同性を担保する政治形態」と定義づけられたりしますが、要するに「自分のことは自分で決める」という「自決」「自治」が根本にあります。自分のことは自分で決められる、大事な自分の人生を、他人(王様や貴族など)に無理やり決められてはならないって点が原点です。

 世界に自分しか居ないなら、自分で決めれば良い(決めざるをえない)。
 数人のグループになると直接話し合いで決めることになる。
 ところが数十人から数百人の規模になると、直接話し合うにしても収拾がつかなくなってくる。そこで細々とした日常業務は執行役員としての「幹事」がやり、大きなことは全体の会議で決めるという、生徒会役員と生徒総会のような話になります。企業でいえば取締役会と株主総会ですね。幹事が「内閣」であり行政府、生徒総会が国会に相当します。ここではまだ直接民主制といってもいいです。

 ところが全体の人数が膨大になってくると全体集会が物理的に開催不可能であり、せいぜい開催可能なくらいに規模を縮小し、参加者も限定しなければならない。そこで総会への参加者を選抜するシステムが出てきます。フランス革命前後の三部会のように貴族階層や庶民階層から代表者を出したり、学校の部活の予算配分のようにサッカー部や書道部からそれぞれ代表を出してもらって話し合うということになります。選挙とは、総会参加者の選抜システムのイチ方法論にすぎません。

 ここまでの流れは特に違和感がないでしょう。
 つまり、出来る/出来ない、アホ/カシコというのは、民主主義の本質的に関係ないのですわ。そういう問題ではなく、自分のことを自分で決められるか / 押し付けられるかの問題です。

 もちろん、個々の現場においては、「誰それはアホだから発言させるな」とか「とにかく優秀な○○さんに全部任せておけばいいんだよ」ってことはあるでしょうけど、制度として最初から決めることは出来ない。年収1000万円以下の人間には口出しさせてはならないとか、どんな基準を設けようとも、それが合理的な選別機能になるとも思えない。その昔は「貴族院(今の参議院)」なんてのが堂々とあったし、年収ではなく納税額○円以上に限るとかいう制限選挙がありました。一番わかりやすいのは「女は口出しするな」という男性オンリーシステムでこれも世界中にあった。それがだんだん「それ、おかしいだろ?」「男が(金持ちが)無条件に賢いとか、正しい決定をするってもんでもないだろ」「結局、わかんないだろ、そんなもん」って話になり、年齢以外に一切の条件を付けない普通選挙になった(受刑者など多少の例外はあるが)。

 ここでのポイントは「馬鹿だからダメ」ってのは、基本的に理由にならない。能力に欠落があるから、自分のことでも自分でも決められないというのは、禁治産宣告を受けるとか、未成年とか一定の例外はあるけど、それを除けば、能力云々と自決権は関係ないです。

分業制の視点〜難しいことは解説させれば良い

 次に、原理はそうかもしれないけど、実際問題そのへんのおばちゃんに難しい国際交渉なんか分かるのか、決めさせていいのかって点があります。自分のことは自分で決められるかもしれないけど、現代社会は複雑になりすぎているんだから、そんなにあれもこれも決めることなんか出来ない。不可能だ。だからそういうのは「政治のプロ」にやってもらうしかなく、僕らは誰に任せたらいいのかという「人選びに(選挙)」に専心すればよいという視点です。

 別の言い方をすれば、なんらかの方法で代表者を決めて、彼らにやってもらうという間接民主制や代議制自治というのは、「人数多過ぎで収拾がつかないから」という@物理的な理由もさることながら、Aこれは一種の「分業」なのだ、という観点です。

 これは例えば、自分のことを決めるにしても、難しい病気や、不動産の購入、法律問題、車の修理、、、など専門知識がないとどうしようもないことはプロに任せる。僕らはただ「誰に任せるか」という「業者の選定」だけをやるわけで、それが選挙であり、それで良いのだという意見ですね。選挙で「選良」を選び、そのエリートさんに政治を仕切ってもらいましょうと。

 でもね、これも説得的であるようでいて、意外とそうでもないのですよ。
 なぜなら、いくら専門業者に任せるにせよ、最終決断は本人がやるでしょ。いくら「先生に全てお任せします」と言ったって、勝手に乳房や卵巣を取られたり、勝手に億単位の契約してこられたりしたら怒るでしょ。そんなことまで頼んでないぞ、と。だから全権委任・白紙委任なんて普通するわけないんですよ。委任するにしても、「こっからここまで」という範囲を指定します(予算○円以下でとか)。それに、インフォームドコンセントのように、いくら難しいことでも、素人に分かりやすく解説して、「どうなさいますか?」と正確に問いかけるのが本当のプロでしょ?

 つまり複雑だとか難しいとかいっても、それは理由にならないのですよ。わかるように説明させればいいだけなんだから。

 それに、それら政策決定が複雑で難しいなら、選挙だって同じことじゃないですか?

 公約とかマニフェストとか、あれは一体なんなんだ?政見放送や公開討論会はなんなんだ?政治や経済評論家やマスコミは何のために存在するのか?難しいことを一般国民にわかりやすく説明し、正しい主権の行使(投票)に役立たせようとってことでしょうが。それができないなら「民意を問う」とか世論調査とか全く無意味になるし、ただの茶番でしかない(ま、そういう側面は大いにあるが)。

 「馬鹿に何を説明しても無駄、馬鹿に決めさせてはダメ」っていうなら、これらの行為はまるで無駄ってことになる。でもそうではない(国民は馬鹿ではない)という建前で物事動いているし、また実際にも馬鹿ではない。ほんでもって、選挙でそれ(=難しいことを解説させて判断する)が出来るならば、一般の国会の審議や議決でも出来るんじゃないの?

 それに選挙なんか、論点は十数項目以上あり、各候補者や政党でそれぞれに意見が微妙に違う中で、「えいや」で誰か一人だけを選ぶという、かなり荒っぽくも難易度の高い選択ですよ。それを仕事をしながらやらなきゃいけない。しかし、国会議員の場合は、一つづつ議決すべき課題が示され、説明がなされ、且つ歳費(給料)をもらって朝から晩までそればっか調べたり考えたりすればよいんだから、選挙よりもよっぽど簡単だろ?って見方もありうるわけです。また、難解な経済知識が必要な金融政策など技術的側面の強いことは行政府のやることで、国会(立法府)のメインの仕事ではないです。国会というのは「日本はこっちの方向に進もう」という、おおまかな進路を決めれば良いのですから。

政治決断は要するに好き嫌い

 また、多くの政治判断、それも重要なものであればあるほど、好き嫌いで決まるものです。価値判断です。

 例えば、憲法を改正して天皇制を廃止するとかというテーマは、複雑な専門知見もあるだろうけど、要は個々人の価値観の問題であり、好き嫌いでしょう。原発ゼロにするかどうかも、技術的には賛否両論あるけど、小泉氏がいってたように、政治の役割というのは大きな方向性を決めることでしょう。専門的な所見や技術的な見解なんか、常に甲論乙駁で、AもBも両方成り立ちうる。

 特に経済問題なんかそうですわ。やれアベノミクスは偉大だとか詐欺だとか、円高がいいとか悪いとかあれこれ言うけど、常に真逆の意見が「識者」と呼ばれる人の中に存在する。彼らは、自分だけが頭ひとつ皆より賢いという感じで、「○○は間違ってる」とか声高に述べるんだけど、全員が正しいってことは論理的にありえないです。結果論でいえば、常に誰かがスカタンであり、長い年月を通してみれば、全く無敗で過ごす人なんかいないわけで(いたとしたら玉虫色でどっちにも取れるような詰まらないことしか言わない人)、全員黒星だといってもいい。

 これは別にクサしていってるわけではなく、専門家っつってもその程度であり、難しい問題になると専門知識が解法のキーになるわけでもない。むしろ、素人を誤魔化す方便として専門知識が悪用されているキライもある。専門知識は両刃の剣です。放射能の危険性なんかもそうでしょう。逆に専門知識を持っていれば100人が100人Aを選択するような簡明なことであれば、最初からそんなに問題にならないでしょう。そう分かりやすく解説すればいいだけなんだから。

 より根本的には、人生、あるいはこの世における「決断」というのは、煎じ詰めれば好き嫌いでしょう。この人と結婚すべきかどうかなんか、過去の離婚事件の判例集やら恋愛・結婚論や体験談を百万冊読んだって答は出ない。だって幾ら読んだところで、出てくる結論は「AもあればBもある」ということに過ぎないんだから。過去のデーターや歴史に学ぶのも大事だけど、僕らは今しか生きられないし、決断は常に真っ白な未来に向かってなされる。そこで大事なのは「意志」であり、意志を生み出す意欲であり、価値観であり感情でしょう。

 原発ゼロにして、多少経済的にしんどい思いをするかもしれないけど、不安に苛まれることのないような未来が「好き」か、それとも多少のリスクは背負いながらも出来る限り物質経済の水準をキープする未来を「いい」と思うかという、つまりはそういうことです。決断というのは、半分くらいはどうしたら成功しそうかという成功率の問題。でもそんなのは半分以下にすぎない(ここを多くの場合勘違いして泥沼にハマるのだけど)。あとの半分は、どうしたいか?という「意欲」の問題でしょう。意欲が強ければ強いほど、成功率なんか限りなくゼロでも人はやりますわ。

 実際の政治課題だって、夫婦別姓を認めるかとか、天皇制で女帝を認めるかとかいうのも、言ってみればスキキライでしょう?「人間たるものかく生きるべし」という「理念・理想」「価値観」がモロに問われるわけで、理念とか信念とかカッコつけて言うからエラそげに見えるだけのことで、要するに好き嫌いでしょうが。「強烈な好き嫌い」を「信念」と言ってるだけ。技術的な問題など、とってつけたような瑣末なことにすぎない。本当にやりたかったら、どんなに鬱陶しいことでもやりますわ。

 個々の人生の集積が国の進路なんだから、本質的な決断要素は、やりたいか/やりたくないか、です。そして、その好き嫌いであるならば、それはドシロートでも出来る。

議員は別に素人でもよい、てか素人目線なのが良い

 現在、日本の政治は選挙で選ばれた「プロの政治家」によって行われている、、ことになってます。
 ほんとに?まずこの時点で嘘じゃないか。タレント、コメディアン、スポーツ選手、作家、あるいは単なる世襲議員とかも「プロ」なわけですか。いったい何のプロなの?

 また、政治家の大きな供給源は官僚だったりしますが、彼らは確かに日本の政治の現実に精通しています。が、それとて専門領域がある。外務省でアフリカ担当だった人が、北海道の林業や託児所の認定基準なんか分かるはずがないのだ。自分の専門分野以外に関していえば、素人に毛が生えた程度の見識しかないでしょう。それに、高い所からみる官僚目線の情報データー&政策が、本当に国民の望むものであるかどうかについては大いに疑問がある。

 だから「プロの政治家」といったところで、何が出来るの?どこが素人と違うの?というと、ぶっちゃけ別に変わらないじゃないかって思うのですよ。そりゃ、かつての自民党郵政族や建設族のように、個々の分野で精通している人達もいるし、「政策通」と呼ばれるプロフェッショナルな議員もいますよ。でも、それを言うということは、政策通ではない議員も普通にいるってことでしょう?そして実際にいるでしょう。

 でもそれでいいんだわ。
 コメディアンや役者がダメだというなら、レーガン大統領はどうなるんだ?

 議員というのは民意に近い点に意味があるのであって、大事なのは一般市民との親和性や同一性じゃないのか。もし、ある政治分野について精通していることが国会議員の議決権行使の条件だとするなら、官僚さんに国会やってもらえばいいわけです。あるいは族議員だって、自分の精通していない領域では議会活動を禁止すればいいし、もっといえば、ある法案の賛否を議決するには、予め試験を受けてパスした議員だけしかYES・NOを言えないってすればいい。

 でも、そういうことじゃない。例えば、ずっと昔、青島都知事のときは、都議会で「ハローワーク」が何なのかも知らないという一般市民以下の常識ぶりだったけど、でもあの人は世界都市博という利権まみれの大会を知事の一存で拒否しただけで知事としての役目は果たしたとも思える。それ以外は全く存在感のない知事だったけど、それで実務は普通に廻っていたしね。

政治のプロ=選挙のプロ

 じゃあ、結局プロの政治家は何がプロなのかといえば、いつにかかって「選挙のプロ」でしょう。これだけは、一般市民の能力経験をはるかに抜きん出てます。もっとも初歩的な辻説法だって、街角でビラ一枚配ったことがない平均的な市民からすれば、とんでもない荒行です。タスキかけて、ビール箱の上に立って、誰も聞いていないのに熱っぽく何かを演説しなければならないというのは、これは誰でも出来るってことじゃないですよ。あなた、出来ますか?その度胸ありますか?

 僕なんかは、もうそれだけで大したもんだと思いますよ。「ザ・選挙」だったかな、ドキュメンタリー映画を見た時も、気象庁の公務員からスピンアウトした一般市民が自民党の公認として選挙に臨む日常風景を、「え、ここまで写しちゃっていいの?」というくらいやってましたけど、大変ですよ、あれ。選挙母体になる各党各地盤の後援会のうるさ型のおっちゃん達に、あれしろこれしろと指図されて、ダメ出しされて、説教くらって、もう体育会系の世界です。

 そうでなくても「世に出る」というのは大変なことで、しょーもないペーペーの弁護士だった僕ですら、ほっといたらあちこにコネだと義理だのができて、忘年会だけでも20も30も増えていき、まともにやってたら12月予算は飲み代だけでも数十万円になる。これが大阪弁護士会会長クラスになると桁が一つ違ってきて顔出ししなきゃいけない会合もやたら増える。宴会トリプルヘッダーみたいな世界で、○時から○○県教育委員異界の会合、マスコミとの懇親会、商工会議所、○○大使館、、、山ほどある。こんな具合にあっちに顔出し、こっちに顔売って人脈広げておかないと政治以前に、「人付き合い」が出来ない。ましてや選挙で当選しようとしたら、数十数百とある団体から支持を取り付けないとならないわけで、並大抵の人脈力ではダメです。

 このあたりは一般市民とは懸絶の差があるのだけど、だけどそれって、国会で正しい一票を投じること、その場その場で正しい判断をすることにとって必須の過程なのか?というと疑問なんです。そりゃ知見を広めるのはいいことですよ。酒の席で各業界の裏話や裏事情を知っておくのもよいでしょう。でも、別にそんなことしなくたって、一定期間真面目に調べて、真面目に勉強すればいいだけじゃないのか。今の国会議員だって真面目に勉強してるのか?国会で居眠りしてるじゃないか?

 結局は選挙なんですよね、彼らの活動の本分は。
 選挙こそが、現在の政治おける本質の重要な一分であり、それはビジネスにおいて利潤を出すか出さないというくらい決定的なことでもあります。企業は、市場に商品を出して、それが売れなかったら倒産するのと同じように、政治家は選挙という市場で勝たなかったら「ただの人」(借金まみれになるから、ただの人以下)になる。

 選挙こそが生命線だからこそ、選挙資金の捻出に年がら年中パーティをやり、どっかの党の公認を得るため雑務を引き受け、煮え湯を飲まされても我慢する。また国会さぼってでも選挙区に帰り、地元の要望を聞きいれる。選挙民への冠婚葬祭、年賀状から暑中見舞い、裏口入学から交通違反のもみ消し、「殺人以外は何でも受けろ」という凄まじい世界になる。かくして幅広い地元の顔役人脈のなかで、絶妙な利権の配分をしては、「これもひとえに先生のお力のたまものです」と言わせて支持基盤を固める。なんでそんなご苦労なことをするの?といえば、それもこれも選挙で勝つためでしょう。

 逆に言えば、選挙で受かることにエネルギーの大半が燃え尽きてしまい、本来の国会議員の職責なんか、どうせ党利党略と党議拘束によって決まるから、頭使わないで右へ習えしておけばいい、タレント議員も一年生議員も要するにアタマ数揃えでしかない。飼い主になる派閥の領袖を選んで、一生懸命忠犬ポチになって汗をかけばいい。でもって、ご主人様がヤバそうになったら、とっとと乗り換えないとならないし、もう忙しいんですよね。国会の仕事なんかやってるヒマはないわと。

 国会議員の仕事は、当選すると十数ある各委員会に配属されて専門部局での法案の詰めとか質疑応答をやること(そして官僚さんに「レクチャー」受けて勉強させられる)、そして本会議で質疑と議決権を行使するのがメインの仕事でしょう。ちなみに「法律を作る」のが仕事だとされますが、実際には自分らでゼロから作るような議員立法は1年にひとつあるかないかで、内閣提出の法案にイエス・ノーを言うだけです。賛否を決めるために、各党が担当者に質問したりするわけですね。

 でも、これも実際のところは政局パフォーマンスに堕している部分もあります。なぜか予算委員会で、自衛隊の海外派兵の問題とか声高に議論してたりして、予算の分配をやってるんじゃないのか?って。要はテレビ映りのいい場面で、バーンと見栄を切れるかどうかという歌舞伎みたいなことやってるだけじゃないのか。

 いや、真面目に質疑やってる局面も多々あるんですよ。でも全然メディアに流れないし、国民の興味も薄い。ほんとは面白いんだけどな〜。例えば、平成18年には「探偵業の業務の適正化に関する法律」なんて議員立法が可決してるんだけど、知らないでしょう?僕も今までしらなかったけど、そういうのメディアで全然やらんよね。

 ちなみに、オーストラリアではケーブルTVの一チャンネルで延々と国会質疑ばっかやってるチャンネルがあります。日本にも国会チャンネルがあり、年額1万円なのが微妙なんですけど。でも、本当いえば地デジになったことだし、TV局認可の利権を叩き壊して、一般のTV受信機で無料で見られる放送局や放送をガシガシ増やすべきだと思いますよ。今の技術だったら数百チャンネルくらい出来るんじゃないの?携帯電話で1億以上の周波数の差別ができてるんだからさ。


 話は戻って、僕らが国会議員にやってほしいのは、真面目に勉強して、真面目に考えて、真面目に法案の審議採決をしてくれることです。ところが、年末の秘密保護法のように、存在自体がギャグみたいな、およそ法律の体をなしていない(その理由は過去回参照)法案なのに、皆さん牡蠣のように押し黙って賛成に一票入れている。与党で声をあげたのは古賀さんくらいじゃないか。そんな馬鹿ばっかり揃ってるわけないんだから、検察や公安に徳洲会マネーその他で脅迫されているか、あるいは次の公認はずれが怖くて何も言えないか。でも、それじゃ本末転倒だろう。まるで選挙のために国会があるかのようではないか。

 だから、思ったのですね、短絡的に。
 要は、選挙が諸悪の根源ではないか?と。いや、本来はいい制度なんだけど、今ではなんだかんだで弊害の方が強くなっている、制度疲労を起こしている。だとしたら、はじめに選挙ありきという固定観念を一回ここで叩き壊したらどうかというのが本稿の主題です。要は「選抜システム」の一メソッドに過ぎないという原点を確認すべしと。

選挙がないことの利点

 純粋抽選でやるなら、選挙という行為がなくなります。大阪市長選の出直し選挙で6億円かかると言われてますが、国会議員の総選挙ともなると相当の費用(ネットで見たら800億円とか)がかかります。まずそれが浮く。次に選挙のうるさい名前連呼がなくなる。

 でも、そんな表面的なことよりも、日本の利権や既得権の構造が根本的に瓦解するという点に大きな眼目があります。

日本の権力構造をひっくり返す

 どこの国でもそうでしょうが、国家の権力の所在というのは政財官(+軍)のトライアングルにあり、強大な資金力とビジネス能力を持つ財界と、強大な行政執行権限・能力をもつ官僚界が大きなアウトラインを描きますが、それは同時に、こうなると都合がいいとか、ボロ儲けできるとかいう不正腐敗の温床にもなる。ただ、彼らだけではそれを国民に強制するお墨付き=正当な権力はない。だからそれをチェックし、正しい方向を模索するのが政治の役目、とりわけ立法府(国会議員)の役目なんだけど、彼らを仲間に取り込んでしまえば安泰です。

 かつての日本では大蔵省と通産省が抜群に強かったのですが、「なぜMITI(通産省)はそんなに強いの?」と、僕もオーストラリアに来た時のエクスチェンジパートナーのピーターから聞かれたことがありました。当時「ノトーリアス・ミティ(悪名高い通産省)」って海外の日本通で言われてましたから。なぜ強いか?通産は日本のビジネスの大元締めだからです。護送船団方式で業界を束ねる。日本がイケイケの興隆期には、積極的にリードしていた輝かしい時代もあったけど、だんだん利権保護のために非関税障壁をせっせとこしらえたり、鬱陶しい新規参入を拒んだりという財界の守護神として動くようにもなるし、財界もそれに報いて高額の報酬で天下りを迎え入れた。政治家も財界や各企業から政治献金を受けているし、その意向にそって動くわけだから、通産との太いパイプは大いにものを言った。

 また、大蔵は予算編成できるからさらに強力。もともと日本税制の中央集権体制からして、一旦全国の税収は中央に集められ、地方は自力では貧乏で死ぬように作っておいて、中央に忠誠を示せば補助金その他で助けてもらえるという凄いシステムになってるから、政治家の役割は中央の金庫から金をぶんどってきて選挙区に配る「福の神」役です。だから政治家は通産と大蔵にはお世話になるし、彼らを敵に回したらやっていけない。政治献金も入ってこないわ、各企業の組織票も動いてくれないわ、地元にお金を持って帰れないから選挙民から愛想尽かされるわ、もう死ぬ(落選)しかないです。

 逆に、官僚も政治家が動いてくれないと、思うような政策も国会を通らないから、国を動かせない。あれこれ「ご説明」にうかがっては政策への理解を深めてもらうし、言うとおりに動いてくれる政治家は重宝される。財政破綻ですよ、外国人投資家に愛想つかされて日本国債が暴落したら終わりですよ、だからポーズだけでも消費税を上げないとダメですよといい、「おう、そうか」と言ってくれる政治家を応援する。

 うざうざ書いたけど、これらは旧来の図式で、今は多少違ってきているかもしれませんが、まあ日本でまともに社会人やビジネスマンやってるなら、当然知っておかねばならない日本人の常識でしょう。

 これらの三位一体みたいな権力構造が、良い意味でも悪い意味でも日本社会を特徴付けていた。抜群の安定感を誇り(年がら年中クーデーターが起きるわけでもなく)、しかし、何かを抜本的なことをやろうと思ったら、あちこちの顔を立てたりシガラミに気を使ったりしなきゃいけないから、もう10年かかって3メートルしか進まないという話にもなる。そして誰も儲からない、利権が生じないような案件はほったらかしにされる。

 ところが、国会議員がただの抽選になって、選挙がなくなるとどうなるか?
 財界や官界が思うように政治を動かせなくなるということです。狙いはそこにあります。

 政治家というのはプロで一生やってるからこそ、実力もつくけど、シガラミも出来る。てか、政治家の実力=シガラミですらある。各業界や官僚世界と深く関係し、持ちつ持たれつでやるからこそ安定的に選挙に通る。安定的に地位を保てるからこそ、「○○先生にも話を通しておかないと」と周囲が気を遣うようにもなるし、発言力も大きくなり、それがすなわち権力の大きさにつながる。

 そういうことが出来るのは、登場人物がある程度固定されているからこそです。そこにずっとその人がいてくれるからこそ、せっせと献金したり、融通しあったりして「末永く」「良い関係」を築けるわけですよね。でも、単なる抽選で突如として登場し、一定期間したら又居なくなってしまうんだったら、そういう関係は築けない。つまり癒着が出来ない。

 これは抽選制の個々の内容にもかかわりますが、例えば、任期は1年に限定し、且つ全ての案件に精通して賛否を問うのは難しいから、これまた抽選で配転された法案審議と質疑だけをやればよいとすると、官僚も財界も、日替わり弁当のようにランダムに登場してくる国民議員に説明して理解を得ないとならなくなるわけです。もう毎日が選挙みたいな世界です。「そこはひとつ先生のお力で」みたいな根回しも出来ない。選ばれた新議員を取り込もうにも、仲良くなった頃には居なくなってしまう。これもせーので年一回選ぶのではなく、各月ごとに順次入れ替え制度にしていったら、本当に年がら年中顔ぶれが変わるから、利権構造を築くことがますます不可能になるでしょう。

 するとどうなるか?
 もう正々堂々と、法案の正当性や合理性を馬鹿正直にプレゼンして理解を深めてもらうしかない。それも、ランダムに出てくる「国民」にです。だから一般国民にわかるような言葉で解説し、説明し、その理解を得ない限り、先に進めない。派閥工作や、政局や、あれやこれら裏で羊羹が乱れ飛んだりって方法論では動かない。ええこっちゃないかってことです。

補充 

キミは同胞を信じているのか?

 ま、そうはいっても、国会議員を抽選で決めるなんて「いい加減」なやり方に賛成する国民は少ないでしょうね。なんでイヤなの?というと、冒頭に書いたように、そこらへんのオヤジやオバハンなんかに国政を任せておくのが不安だという点が大きいかもしれません。

 もちろん、とんでもないアホが抽選で選ばれてしまうかもしれないです。でも、普通の市民も選ばれるでしょう。数でいえば、これは純粋に確率論だから長期になるほどに平均的なところに落ち着く。つまり、平均的な日本人が国政の行く末を決めるわけなんだけど、平均的な日本人にそんなことが出来るのか・出来ないのかですよね。逆にいえば、あなたは同胞のことをどれだけ信頼しているか?です。

 楽観的な僕は、結構信頼してますよ。日本の外に出て思うのは、日本で一番強いのは、いわゆる市井の普通の日本人のレベルの高さです。末端従業員や町の通行人のレベルの高さで、これは世界的にみてもかなり高水準だと思う。天災や騒ぎがあったら、いきなりルーティング(商店を襲って略奪すること)も起きないし、危機に臨んでも尚も秩序を重んじる。また、日本の平均的な教育水準は馬鹿高いです。こんなに誰も彼もが大学に行く国は少ないし、また末端労動者であっても国政とかビジネスとか自腹切って本買って勉強しているし、雑誌の特集にもなる。ほかの国は教育制度がそこまで浸透してなかったり、旧来の身分制度が残っていて、労動者階級は一生ワーキング・クラスで、工場で働いて、パブでおだをあげて、女の尻をおっかけたり、贔屓のチームを応援してればそれで人生いいのさって感じもあるわけです。日本人はそのあたりが異様に真面目だし、水準高いです。

 逆に、日本社会で上にいけばいくほど国際水準からはかなり落ちてくる。大卒者の学力や人間力のレベルは世界の同じクラスに比べたらお話にならないくらい低いし、政治家も経営者も世界レベルになるともう桁が違うといっていい。だから、「そこらへんのおっちゃん」といっても、そこらへんのおっちゃんこそが凄いんだよって思うのですよ。

 また、非常によく勉強して活動しているプロの議員さんがいたとしても、党議拘束や党利党略、さらに政局のあれこれでろくに自分の意見を言えないのと、素人の一夜漬けの勉強なんだけど、どこにも利害関係がない人間が下す判断と、どっちがどうとも言えないんじゃないか?って思うのです。

 尚もタメライがあるとは思います。そんなことをしたら、ポピュリズムの天下になって、景気のいい話や威勢のいい「わかりやすい」議論になって、国がメチャクチャになるのではないか?という懸念ですね。そこらへんのおっちゃんに任せていたら、床屋政談のまんまの衆愚政治の極致にいってしまうという。

 だけど、「そこらへんのおっちゃん」がダメだったら、遅かれ早かれその国はダメになりますわ。
 民主主義というのは、その国の平均的国民以上の政治はできないし、それ以下でもない。それが民主主義の良いところでもあるし、限界でもある。

 それにしびれを切らして、どっかに「スーパー名君」みたいな人がいて、バンバン独裁してくれないかな〜なんて願望も出てくるのだけど、それはあえて言うけど「愚か者の夢想」ですわ。そんな名君なんてこの世にいないし、自分以外の「誰か素晴らしい人」に「やってもらう」「導いてもらう」というのは、言葉を変えれば奴隷根性以外の何ものでもない。この社会を良くしようと思えば、てめーが頑張るしかないんだよ、他人にやってもらおうなんて横着かましてんじゃねーよ、結局社会の構成員の平均値を高めていくしかないんだよってことを、この際、骨の髄まで理解したほうがいいと思うのですよ。

 ポピュリズムに踊ったら踊ったで、この際徹底的に痛い目に遭って学んでいくしかないんじゃないか。大体、今だって似たようなものではないか。マスメディアは、大本営さながらに鉦や太鼓をカンカン鳴らして提灯記事書いて、選挙誘導やら世論操作をやってるんだからさ。でも、今のままで学ぶのは「人選びを間違った」「マスコミに踊らされた」という学習項目しかない。しかもやりなおしの機会は数年に一回の総選挙しかないから、その頃にはまた忘れて、また同じ過ちを犯す。進歩がないじゃん。

 だったら、自分らで全責任ひっかぶって決断し、もっと深く、もっと頻繁に学んだ方が、結局はポピュリズム対策になるのではないかってことです。別の言葉で言えば、代議制自治やプロ政治家制度は、依存心やら、それと表裏一体の他罰性やら、甘ったれた被害者意識を生み、その弊害の方が強いのでよろしくないということです。

 シニカルに言ってしまえば、今の「民意」とは、要するに自分の支出が増えるか減るか、自分の生活が楽になるか苦しくなるかに一喜一憂している「だけ」と言えなくもない。てか、アホな公約とか見てても、意図的にそっち方向に向かわせているようにすら思える。「民衆にはパンとサーカスを与えろ」というのは古代ローマの言葉ですが、サーカス(オリンピックとかさ)を与えられては熱狂し、パンを取られたら(消費税があがったりさ)怒るという。そんな茶番をいつまでやってんの?馬車馬の調教みたいな「飴と鞭」で動かされるだけだったら未来永劫に家畜のまんまでしょ。

 でも日本人は馬鹿じゃないし、自分の取り分減らしても助けるべき人は助けようとはする。3年前の震災の義援金や、「なにかしなきゃ」と居たたまれない気分になった。その気持は嘘じゃないだろ?大多数の人はわかっているんだと思うよ。税金減らして年金が増えるなんて、魔法のビスケットみたいな手品はこの世にありっこないって。馬鹿でなければ誰だってわかるさ。小泉改革のときだって「痛みを伴う」というフレーズにリアリティを感じたんだし。

 「パンとサーカスだけで満足してしまう他愛のない存在」にさせられるか、それとも一つ失敗しては一つ確実に賢くなっていくか、そこが分かれ道でしょう。もうぼったくりキャバレーの呼び込みみたいな(○円ポッキリ的な)、嘘くささ満開の公約に律儀に毎回騙されてないで、「じゃあ、お前が決めろ」って無理矢理にでもやらされたほうがいい。来月になったら自分が抽選で当たって、議員先生になっちゃって、全責任ひっかぶって何かを決めないとならないという潜在的な緊張感があった方が良いってことです。

 結局、この問題は、あなたは日本人同胞に対してどれだけ絶望していますか?という問いかけでもあります。絶望度が強ければ強いほど、彼らに直接舵を握らせるなんてとんでもないってことになるでしょう。だから「立派な政治家」の先生にやってもらおうってことなんだけど、その「立派な先生」ってどこにいるのよ?結局、一般国民が愚民だとするなら、国政に関して一切決定権を与えるべきではなく、当然選挙権も持たすべきではなく、ましてや被選挙権(立候補)なんか認めるべきではない。そうなったら、じゃあ、誰が国会議員をやるのさ?仮に百歩譲って「立派な人」が立候補したとしても、当選するかどうかは愚民どもが選挙で決めるわけだし、選挙になればあれこれ不正も出てくるわけだから、立派な人ほど当選しないって矛盾も出てくる。

 それに立派な人になればなるほど政治家なんかやりたがらないって部分もあるわけですよ。あんなさあ、街宣車の上に立って名前を連呼してさあ、出来るわけもないバラ色の公約をいけしゃあしゃあと絶叫してさあ、受かったら受かったで頭数揃えでしかないんだから、ろくに意見も言わせてもらえないって現状で、心ある人がどれだけ政治家を志すというのさ。だったら、ランダムで僕らの同胞に年間500人、各月50人づつでも送り込んで赤絨毯踏ませた方が良くはないか?と。

抽選だからダメなわけではない

 裁判は抽選でやってます。アメリカの陪審制度、日本でも裁判員制度が導入されていますが、あれは抽選です。検察審査会も抽選です。それでまがりなりも廻っているではないか。

 そりゃ難しい法律上の争点や判断はプロの裁判官がやりますけど、事実認定はプロも素人もあんまり関係ない。例えばある事件の事実認定でも、窓ガラスが割れるほど大夫婦喧嘩をして、捨て台詞を残して家を出て行った妻が、30分後にまた戻ってくるなんてことが普通ありうるか?というような問題設定になるのですよ。戻ってきて、また口論になって夫を殺害したのか、それとも戻ってこずに、別人がたまたま空き巣にはいってもみ合いになって夫が殺されたのか?みたいな事件。そこで「あれだけの大喧嘩をして30分くらいで戻ってくるか?」が争点になる。「いやあ、30分は短すぎるだろ、気が落ち着くにはもう少し時間がかかる」「いえいえ、そういうことってありますよ」って。あなたならどう思う?そしてそう思う根拠は何?といえば、これまでの人生経験なんですよね。それっきゃない。この点に関しては、難しい司法試験の勉強をしていた奴のほうが、女心に精通しているってもんでもない。だから素人でも事実認定はできるし、素人の方がよく出来るって部分もあるわけです。

 裁判の事実認定と、国会議員として国政の判断をするのは全然違うという意見もあるでしょう。そりゃ違いますよ、対象は。でも難易度はどうか?ある意味では一つの法律の内容を審議するよりも、全人間力や洞察力を試される事実認定の方が難しいですよ。

 それに比べたら法律作るほうがまだしもとっつきやすいとも言えます。大体どんな問題でも、賛成意見と反対意見を各丸一日くらいじっくり説明され、あとは現場を訪問して皆の話を聞いたりしていけば、おおよそのところはわかります。大事なのは価値判断ですし、その価値判断をすれば良い。こういう状況におかれた人は助けるべき・助けなくても良いと思うか、助けるにしてもどの程度までにするかとか。求められているのは、日本人の平均的な、あるいは総体としての常識であり、価値観でしょう。

 ところで、僕がなんで抽選制を思いついたのか、その原体験があります。
 交通事故で検察で不起訴になってしまった案件ですが、その結論に被害者の親御さんが納得できなくて、検察審査会に申し立てをしました。これはかなり難しく、現場に残された擦過痕やブレーキ痕(スリップ痕)から制動距離などを逆算して、被害者・加害者の位置をシュミレーションして、決定的な矛盾があるとか、その種の話です。確かに、調べれば調べるほど捜査不十分であり、「おかしいぞ」という疑惑は深まる。だけど、そんな複雑なことを一般市民の寄せ集めである検察審査会の皆さんが分かってくれるかどうか?と。

 検察審査会の当日、僕らも出頭しましたが、会議には当然参加できず、ただ親御さんだけが「よろしくおねがいします」と簡単に挨拶しただけだったと記憶してます。でもって、所在なくボケーッと待ってたのですけど、休憩事件になったときに、審査員の市民の方々が出てきて一休みしていたのですが、なんかもう憔悴した顔で「いや〜、難しいですな」って言っておられた。その表情、そのオーラが、かなり真剣に考えてくださっているようで、ほっとした思いがあります。まあ、人が一人死んでるわけですから、おちゃらけてやる人はいないでしょうが、でも、やっぱりその場に立たされたら誰だってちゃんとシリアスに向き合うんだなって思った。

 結果は、僕らの意見が通って「不起訴不相当」。もっと捜査をやり直せって結論を出してくれました。え?と想いましたよね。よくぞあんな複雑で難しい案件を、的確に問題点を把握して疑問を出してくれたもんだと。

 まあ、その記憶が原体験になってるわけですが、他にもあります。住民集会とか、いろいろな会合とか、個々の受任でもそうですけど、僕らはいわゆる一般市民の人達と接するわけですが、一般市民の理解力の優秀さというのは、大したもんだと思います。ちゃんと過不足なく情報をさし上げて、問題点を整理してあげれば、概ね理解してくれる。理解してないのは、ひとえに前提となる情報が正しく伝わってないときでしょう。

具体的には

 これは単なる頭の体操で、真面目な立論して言ってるわけではないのですが、一応書いておくと、これを実現するには憲法を改正しないとダメっす。もうそれだけで無理目なんだけど(笑)。とりあえず前文「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者」ってところ、7条の天皇の国事行為4項の総選挙の施行を公示、15条の普通選挙は、選挙一般を禁止するわけではないからイキでいいか、でも国会の43条「両議院は、全国民を代表する選挙された議員」は変え、以下47、54、70、79あたりも。まあ、こんなのが技術的なことだけど。

 でも、そもそも議員内閣制がありえなくなるので、大統領制や首相公選制に移行するしかないですね。選挙は親玉を選ぶだけにする。選ばれた首相なり大統領が、自分の権限で任命して組閣し、いちいちランダムな国民の代表である国会に説明して理解を得るってことになります。もっとも、そうなると行政側だけの一方的な説明になってしまうから、反対意見のプレゼンの場も十分に保障しなきゃダメでしょう。まあ、そのあたりはおいおいっていうか、なるわけないから考えなくてもいいんだけどね。

 ときに政治家というのは別にプロの国会議員でなくても、それなりの見識と影響力があれば誰だってそうだと思うのですよ。政治家=代議士っていうのは固定観念でしょう。選挙で白手袋をしている人だけが政治家だというものではない。すごーい理念的なことをいえば、民主主義においては、全員が政治家であらねばならないとも言えます。

 なお、より実現可能なやり方としては、参議院だけそうするという手はありますし、衆参を問わず、30%の議員は抽選で決めるというやり方もありです。要は、ランダムに民意がダイレクトに反映する場を作ったらどうかってことです。

 国会内部で、シガラミにとらわれない素人集団が出現するわけです。彼らがどう動くかで物事が決まる。しかも一枚岩で動くわけではなく、個々の判断で動くから、野党と合意ができれば法案が通るという全体処理が出来ない。イメージとしては、オーストラリアで与野党伯仲のときは、インディペンデント{無党派)の議員の去就がキャスティングボードを握るわけで、それが民意との連結点になったりするような感じですね。

 政党政治というのは、ともすれば人数パワーゲームで白黒つける荒っぽいことになってしまうので、その修正要素はいるだろうってことです。小選挙区制にして二大政党制にしちゃったわけだけど、政権交代が日常化したようなので、また中選挙区に戻してもいいかとは思いますが。もっともランダム要素を入れるほど「政局の安定的な運営」は損なわれるわけですが、その「安定的な運営」とやらがクソだったりもするわけだから、どっかに風穴開けたいなって趣旨です。

 要は4年に一回の択一式の選挙だけでは民意を伝えるには足りないんじゃないか?というのが問題意識です。
 そして、きわめて素朴な疑問なんだけど、「民意」なんて毎日問うてもいいんじゃないの?って。



文責:田村



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