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今週の一枚(2014/02/24)



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Essay 659:恥をかくのがリスクに思えるなら、それは居場所を間違えている

 
 写真は、Newtownの消防署。

 「おお、いいこと書いてあるじゃん」って思って撮った一枚。
 もうすぐゲイとレズビアンの祭典、マディ・グラ(発音的にはマ"ー"ディグラと伸ばす)ですが、それについて「火災は差別しない。そして我々も差別しない」と書いてます。うまいな〜。

 ちなみに英語レッスンとしていえば、日本人の好きな"me too"っていい方はあまり使われません。なんでかな、ちょっと子供っぽいのかな。語学学校でも言ってたら訂正されたし。そして、この"So am I"系の倒置法を用います。こんな面倒臭い言い方、受験用に出てくるだけかと思いきや、言う言う、本当に言うんだこれが。でもって、これ難しいんですよ。"So am I"くらいだったら言えるけど、"So does he"とか”So were they"とか"So have I"など、簡単な相槌のくせに一瞬にして時制×人称×助動詞を決定しなきゃいけない。さらに、"neither"なんかついたら厳しい。もう数こなして慣れるっきゃないです。



 前回蔵出しした中から、「恥をかくのがリスクに思えるなら、それは居場所を間違えている」というネタを、乾燥ワカメが水を吸って大きくなるように、復元と展開をさせてみます。

エンカレッジとディスカレッジ

ナイス・トライ!

 英語の現場でたくさんの表現に触れますが、そのなかでも「いい言葉だな」と鮮やかな感動を覚えたフレーズに、「ナイス・トライ!」("nice try")というのがあります。

 カウンター越しにダメ元で交渉するようなときに言われたりします。本当は「AのときはB」となっているんだんけど、BもCも似たようなものだからCにしてくれない?って頼んだりするとき、「いや、それは規定上ダメなんだよ」って断られちゃったりするんだけど、そのときに、笑いながら片目をつむって「ナイス・トライ!」って言ってくれる場合があります。

 結果はダメだったんだけど、そのチャレンジ精神は見上げたもんだし、「なかなか鋭い攻撃だったぜ!」って褒めてくれるわけですね。日本語で言えば「惜しい〜!」って言ってくれる感じ。わかると思うけど。

 チャレンジすることを重んずる社会。サッカーでシュート打って、結果的に外れたとしても、それが良いシュートだったら「ナイス・シュート!」って皆で言ってくれる。

エンカレッジ・ディスカレッジ

 エンカレッジとディスカレッジという英語があります。過去にも書いたと思うけど、ここで「カレッジ」というのは、学校の"college"ではなくて、勇気の"courage"です。そして頭に「エン"en"=増強させる」「ディス"dis"=減殺させる」という接頭辞がつく。

 エンカレッジ社会は、勇気を増大させてくれる社会
 ディスカレッジ社会は、勇気を萎えさせる社会

 一般にオーストラリアはエンカレッジ社会といえるでしょう。むしろ「何でやらないの?」って言われるくらい、チャレンジして当たり前の世界。高校出たら、大学入るのを一年遅らせて、ちょっとバイトして金ためて、世界一周に旅立っていくのがありふれた社会。「○○出来たらいいな」→「実際にやる」までのタメライ時間が短い。短いというよりも「無い」に等しいくらいで、その腰の軽さとフットワークの良さは優秀なラグビーなチームみたいに、毎秒ごとに変わる状況に機敏に反応して、ぶわっと全員が動く。

 以前、「Essay 594:社会の新陳代謝力〜めまぐるしく職を変えるオーストラリアの雇用事情の背景原理」で、オーストラリアでは1年間に5人に一人が転職をする状況になっている(単純計算で5年たったら総取替え)という経済コラム記事を紹介しました。それはオーストラリア人がそうだというよりも、それがグローバル経済のありようであり、業種別の栄枯盛衰がめちゃくちゃ早くなっている。乱戦ラグビーみたいなもので、刻々と状況が変わるから、それに対応しなければならない。で、彼らはそれが出来ている。全員が成功しているわけでは勿論ないけど、少なくと社会全体としてやろうとはしている。なぜできるのかといえば、それは個々人の「動き」が良いからでしょう。勤続20年の業種でも、「あかん」と思ったら、速攻転身を図る。大学にも入り直す。

 なんでそんなにチャッチャと動けるのか?といえば、一つにはチャレンジすることを賞賛する文化背景が遠因になっているのでしょう。なんといってもヨーロピアンの末裔、直系的には世界の海の覇者である大英帝国の血筋を引いてますからね。大航海時代に、アフリカに行っちゃあ原住民にとっつかまって釜茹でにされて食われたり、宣教師が火炙りにされたり、アマゾンに行っちゃワニに食われたりしながらも、まったくひるまずガンガン行く、行く、行く。

 そういう背景があるから、カウンター越しの交渉でも「ナイス・トライ」というフレーズがぽっと出てくるのでしょう。

日本の場合

 ひるがえって日本の場合はどうかというと、ディスカレッジ的なベクトルがややもすると強い。中には有名なサントリーの社訓「やってみなはれ」のように、エンカレッジ風土も多いでしょう。いや、実際問題、細かく見ていけば幾らでもあります。「そんなの、やってみなきゃわかんないだろうが!」という耳慣れた日本語フレーズありますが、それが「耳慣れ」ているということは、ふんだんにチャレンジ局面があるということもある。

 ただ、しかし、トータルでは少ないかもしれない。亀の子のように手足引っ込めて、出る杭にならず、反発も喰らわず、「無事これ名馬」でやっていればいいのさ、それが一番賢いし、最終的なコストパフォーマンスでは最大に効率がいいのさって発想もあるでしょう。またそういう現実もあるでしょう。

 江戸時代には『世の中は 左様、しからば ごもっとも そうでござるか しかとぞんぜぬ』という川柳があるそうです。これっていわゆる「官僚答弁」で、決定的なことを言ってリスクを負うことを嫌う。毒にも薬にもならないことを、深刻な顔してもっともらしく言っておけば人生OKさ!という発想です。「物言えば唇寒し秋の風」ですね。うかつな事を言ってえらい目に遭うくらいなら黙っておけ、と。チャレンジの「チ」の字もないよね。

 このような世間の風潮があるから、就職ランキングでは安定性で公務員人気になったりするわけだし、仕事を辞めてワーホリに行くとか口走ろうものなら、「マジか?」と半ば狂人扱いされる。「あなた、自分の年齢わかってるの?」「敵前逃亡だよ、それ」「日本に帰ってきてどんだけ再就職で苦労すると思ってんの?」「それって、なに?自分探しってやつ?」とかなんとか集中砲火を浴びたりして。わはは、おもしれ〜。それこそ、なにそれ?ですけど。

ちなみに〜ワタシの場合

 ちなみに20年前に僕が弁護士ブッチして、全く何の成算もなく(なんせ海外に行くのが二回目)オーストラリアに行くといったら、周囲の弁護士仲間の反応は、「田村さん、オーストラリア行くんだって?」のあと、口々に「いいな〜」「いいな〜」「いいな〜」「俺もいきたいな〜」でした。もうひたすら羨望されて、「いやあ、それほどでも」ってトンチンカンな受け答えをしてました。それが、まあ、1990年代前半の、バブルが弾けたとはいえまだまだ元気だった日本の風景でした。これが全国的にどこも同じというつもりはないけど、僕が直接体験した一次情報ではそうです。「やめとけ」と言った人は一人もいない。いや、話作ってるわけじゃなくて、本当にただの一人もいませんでした。

 もっとも、これはキャラもあるんでしょうけどね、「こいつには何を言っても無駄」的オーラが出てたとは思うし、万が一↑の赤文字のようなことを言われたら、クロスカウンターで↓こう言い返したと思います。

 「あなた、自分の年齢わかってるの?」←分かってるからこそ(34歳だった)行くんだよ。今やらないともうできなくなる。これ以上先延ばしにすると、一生脅えて暮らすようになりかねない。攻められるときに攻めてゲインを得ておかないと、後で何もできなくなる。今のこの情けない実力と人間力で、一生やっていけると思うほど、そこまで俺は自信家じゃないよ。もっともっと力を得ておかないと。俺が「アリ」なんだよ、「キリギリス」はあなた。

 「敵前逃亡だよ、それ」←もう日本の自分の生活に「敵」なんかいねーよ。勝手知ったる日常ルーチン風景のどこが”敵”なんだよ。我慢しさえすればクリアできるようなものなんか「敵」とは呼ばない。相手にとって不足ありすぎ。「敵」というのは、見たことも聞いたことも、想像もできないようなすげー物事のことを言うんじゃないのか?

 「日本に帰ってきてどんだけ再就職で苦労すると思ってんの?」←再就職ごときが人生の重要課題になるようなフォーマットこそがクソだろうが。大体そんなことで苦労してダメになるくらいなら、どのみちこのまま同じことしていてももっとダメになる。逆に仕事をある程度重要視するなら、仕事というのは自分の「居場所決め」なんだから、マジにやるなら選びぬかなきゃ駄目だし、ワガママ言わなきゃ駄目だし、ワガママ言う分だけ苦労するのは当然だし、苦労しなきゃいけないのだ。そこで苦労しないでどこで苦労するのよ?

 「それって、なに?自分探しってやつ?」←探すまでもなく自分はココにいるよ。ただ自分の性能を自分自身把握しきれていない。「もっといろいろ出来るはず」ってのは生理的、本能的に確信ある。それを試さずに死ぬなんて、そんなクソ勿体無いことが出来るかよ。死んでも死にきれないよ。ところで、あなたは探すまでもなく100%完璧に自分を把握しきってるのか?その自信はどっから来るの?

 この手の言い返しだったら、常に鬱々と考えていたから、機関銃のように、北斗百裂拳のように言えます。もうボタンをポンと押したら、何も考えずにオートマティックに30分くらいは喋れる。「よくぞ聞いてくれました!」というか「飛んで火に入る夏の虫」というか。だから、誰も言わなかったのかもしれないし、結局いう機会はひとつもなかったけど(^^)。

背景構造と価値観

Pursuit of Happiness 幸福そのものではなく、幸福になろうとする行為

 さて、チャレンジや勇気をめぐる社会背景ですけど、問題は個々の局面での差異ではなく、「なぜそうなるか?」という価値構造だと思います。

 つまり、チャンジが賞賛されるとしても、チャレンジそれ自体が価値の源泉ではない。やりゃあいいってものではない。それなりに成算も成功率もあろうし、英語でも"reckless"(無謀)"thoughtless"(浅慮)という表現だってあるくらいですから。

 問題は「何のためにチャレンジするの?」であり、チャレンジが称賛されるのは、その上にあるもっと大きな価値に奉仕するからでしょう。最上位には「ハッピーになる」という価値の皇帝みたいなやつがおって、その下に「幸福になるためにあらゆる試み」がくる。"pursuit of happiness"というやつです。

 ところで、日本国憲法でも「幸福追求権」として明文化されているこの概念は、アメリカ独立宣言の”Life, liberty and the pursuit of happiness“に由来するし、さらにはフランス革命を導いた近代啓蒙思想にまで遡る人類史におけるキーワードでもあります。

 一見もっともらしい言葉で、すっと素通りしがちですが、でもかなり重要なことを言っている。なぜ「幸福になる権利」ではなく、「幸福を”求める行為”をする権利」とまどろっこしいワンクッション置いた言い方をしたか?です。このワンクッションに深い意味がある。

 これは、こうなるとハッピーになれますよ、皆さんココを目指しましょうという「幸福のカタチ」が最初から出来合いで用意されている、という発想の否定です。「幸福のカタチ」なんてもんは無いよって。それは、各自がそれぞれに造り上げていくものであって、外野があれこれ口出しすべきではない。ましてや社会に「こうなると幸福」というゴールが設定されているわけではない。

 だからこそ「幸福でいる/幸福になる権利」と直接定めていない、定められない。その幸福像が人によって違うし。さらにもっともっとディープに言えば、今自分が幸福であるかどうかなんか、やってる本人にも分からなかったりするもんです。ああ退屈だ、詰まらんぞ、俺は不幸だって思いながらも、いざ愛する家族が事故死したら、身を苛むような孤独感とともに、いかに今までが幸福だったのかが分かるように、幸福なんか失われて初めて分かるって部分もある。他人からも分からず、本人でもわからないような「権利」ってどうよ?と。

 幸福が何なのかは、もはや哲学の領域だから置いておいて、僕らが具体的に意識できるのは、「幸福になろうとすること(行動)」です。だから、幸福を「追求する権利」という形で置いたのだと、僕は思います。その昔、このあたりを読んでて「おお、深え、頭のいい奴もいるもんだ」と思ったもんです。

「出来合いの幸福像」がある封建社会

 一方、中世封建社会では厳しい身分社会で、農民・百姓、騎士・武士、公家・貴族、バラモンやスードラなどと、それぞれの立場についてあるべき「理想像」がカチッと決められていたし、その理想になることが、すなわち個々人の幸福とされていた。幸福客観説とでもいうべきか。

 要するに、出来合いの「幸福のカタチ」があった。
 テイラーメイドの「お誂え」ではなく、「吊るしの背広」ですね。

 客観的に幸福のカタチが定められ、ここがゴールですよと明確になっていたら、他人も社会も個人に口出ししやすい。「ゴールまであと○メートル」「方向がずれてるぞ」とか、話が客観だからわかりすい。そこでは、「何が幸福か」という幸福の定義権は個人にはなく、「幸福の追求の仕方」も「ココからソコまで」とルートが見えてるからあまり話題にならない。

 中世と近代の決定的な違いはココだと言われてたと思うけど(諸説あるけど)、絶対的な善とか幸福とか価値があるとするか、そんなものは個々人の価値観によるので決められない/決めてはいけない、という価値相対主義、幸福主観説に立つかです。

幸福主観説と、勝手に頑張る自由

   相対主義(幸福の内容は自分で決める主義)に立った場合、各自が「勝手に頑張る」しかないわけで、その「頑張る」という行為を保証してやるしかないわけですな。「保証」というのは「邪魔されない=自由」ということで、だからこそどこの国の憲法にも「表現の自由」等やたら「○○の自由」が列挙されている。「いい感じで放っといてもらう権利」です。やれ○○しなさい、○○はダメだと頭ごなしに押し付けるのはNGだよと。なんでダメなのかといえば、それじゃ各自勝手に頑張れない、幸福を追求できない、からです。

 ここまで書けばわかると思うけど、だから「ナイス・トライ」とかよく言われ、チャレンジすることをエンカレッジする社会になるのでしょう。なぜなら、トライもチャレンジも「幸福追求」なんだから。それを否定することは、社会の根幹DNA価値観を否定することになる。

 技術的に、Bに行きたいならこのルートがお得よとか、それでは途中で挫折するから○○を先にやっておけとか、そのあたりの技術的アドバイスは幾らでもあるだろうけど、基本、「何をどうやって、どっちの方向に向けて頑張るか」は個人の聖域だから文句を言わない、口出ししない。大事なのはその人はHappiness をpursuitしているかどうかです。そして議論すべきは、個々人が"pursuit"出来るような環境が整備されているかどうかであり、それが政治であり経済であると。そのへんは結構ハッキリしているように思います。

 そして、そうやって各自が幸福になる為にあれこれと、時には堅実にしっかりと、時にはジタバタと見苦しくやってる風景というのは、基本的には素晴らしい風景なのであって、まずそれを肯定的に受け止める。「おお〜、やっちょるやっちょる」みたいなもんで、海水浴場にいって、皆が思い思いに楽しんでる風景を愛でるような感じ。だもんで、砂場に寝そべってたあなたが、「私もちょっと泳いでこうかな」というと、「おお〜、行ってこい行ってこい」「どんどんいけ〜」ってなノリになるのでしょう。エンカレッジ社会の背景にはこういう価値原理があると思います。

封建的残滓

 一方、「あんた、自分で何やってるのかわかってるの?」みたいなディスカレッジ社会の背景にはどういう価値原理があるかというと、「人生はこうなるとゴール」という客観的な「理想像/幸福像」がドーンとあるのでしょう。そこがクリアすぎるくらいに見えているから、目標からズレてるとか、どう考えても回り道とか、アサッテの方向に向かってるとか、そういうことも言いやすいのでしょう。

 ここで、日本がそういう社会になっている、というつもりは実はないです。そうなりそうな論理の流れだけど、敢えてここでは寸止めしておきます。

 だって憲法でそうなってないし、改まって「日本人の幸福のカタチは既にバシッと決まっていて、固定されていて、自分がいくら何をいっても絶対に変わらないんだよ。そういう社会が素晴らしいんだよ、どうだ素晴らしいだろう?」と言われたら、誰だって「そ、そうかな、、」と口ごもると思うのですよ。必ずしもそれが良いとは思ってないでしょ。でも、力強くバーンと反論できるほど強烈な確信があるわけでもない。微妙なところだと思うのですよ。

 だから、畳み掛けるように、以下のように言われてしまうと防戦一方になったりもする。
 曰く「そりゃ個人で自分の幸せを作れたらいいのかもしれないけど、こいつらにそんな事が出来ると思う?できないよ、周囲をコソコソ窺ってさ、列からはみ出ないようにしてさ、「そこそこ」とか「まあまあ」とかいうあたりで満足してるんだからさ。「未来の幸せはキミ次第だ!頑張れ!」とか言われても困っちゃう人が多いんだよ。そういう言い方自体が既に過重な負担で、むしろ酷なんだよ。だから社会の方で「ここがゴールですよ」と決めてやった方がいいんだよ。そのほうが結局悩まなくて済むし、ハッピーになれるんだからさあ。決められない人には決めてやった方が喜ばれるんだよ。押し付けてやりゃいいんだよ。クールに知的に控えめにアドバイスしても、結局決めきれなくて悶々として鬱になるだけなんだよ。だから、カリスマでも権威でも流行でもなんでもいいから笠にきて、メディア使ってワーって大声で「命令」してやれば喜んで従うんだよ、あいつらはさあ。右向けって言ったら本当に右を向くような連中なんだよ。それが世の中のリアルってもんでしょ?違う?」とか言われたら、どうですか?「うーん、確かにリアルにみたらそうかもしれないけど、絶対それしかないって決めてかかるのもどうかと思うんですけど、ゴニョゴニョ、、、、」てな感じが多いんじゃなかろか。

 そこを、「馬鹿野郎〜!辛気臭えこと言ってんじゃねえよ!」「てめえ、日本人舐めてんのか、あ?」「な〜にが"リアル"だ、冗談は顔だけにしろっつーの、この野郎」っつって、飲み屋のテーブルをガーンと蹴り倒せる人は、そうは多くないかも。

 そのあたりの、「いや、まあ、それはそうかもしれないだけど、でもさあ、、あの、、、」みたいな感じ、それがディスカレッジの風景の背景を流れているような気もします。事実の問題としてそういう傾向は確かにあるけど、でもそれが素晴らしいと諸手を上げて絶賛する気にもなれないし、でもそれが現実だって言われたら現実だし、、って、でもでもでも、、で、テーブルをガーンとやれない感じ。

 ちなみにこの種の「現実はさあ」的な論法というのは、論理ではないと思います。いうならば「死の誘惑」で、「どうせ最後には死ぬんだから、今死んじゃえば」的なレトリックでしょ。皆が死んでるからキミも死ねって話なわけでしょ。純粋論理でいえば、皆が死んでる→@だから自分も死ぬ、Aだからこそ自分だけでも生きる、と右にも左にも等価にいけるので、何の論拠にもなってないのだ。ゆえに正しい”反論”はテーブル・ガーンでしょう。死ねって言われてるんだから、馬鹿野郎、冗談じゃねえぞっていう反論、てか「反応」が普通じゃない?死にたいのではなければ。でも、この種の現実レトリック、最近多いような気がする。だけどそれって生命力が衰弱した老人の発想だと思うぞ。頭よりも先に身体が反発しなきゃ嘘でしょ。

恥をかくのがリスクに感じられるなら、それは居場所を間違えている

 さて、そこで冒頭のタイトルの乾燥ワカメに戻ります。

居場所が大事

 上の設例で、誰にどんなこと言われようが、百万人に説得されようが、ガーン・テーブル(以下長いので"GT"という)が出来る人だったら、問題無いです。そういう人は、最初から「恥=リスク」とかあんまり考えないと思います。問題は、GTが出来ない人です。そこまでは世間にメンチ切れない(関西弁スラング、東京弁だと「ガンつける(飛ばす)」、気合一発で睨みつけること、難しい漢字で言えば「睥睨(へいげい)」)。

 こういうGT無理系の人の場合、「私らしく!」って心の底の思いは、かぼそい蝋燭の炎のようなもので、周囲から強い風が吹いたらふっと吹き消えてしまうかもしれない。またぞろ、思いついてはマッチ売りの少女のように火をともすけど、また風が吹いたら、、、

 だから周囲の環境が大事なんだと思うのですよ。「居場所」が大事。皆がみんなウチワをパタパタやったり、扇風機を向けてくるような環境だと、すぐに勇気がしぼんでしまう。中には撮影用の業務用扇風機みたいな超強力な風をゴーッと向けてくるかもしれないし。

 そうではなく、ウチワを持ってない人達。具体的には、「将来的には、○○になりたいと思ってるんだけど、、」と意を決して、しかし蚊が鳴くような声であなたが言ったら、「いいじゃん!」「頑張れよ!」「○○さんだったら、ぜってーいけるよ」「俺にできることあったら何でも言ってよな」って言ってくれる仲間のいる場所を居場所にしたらいいよ、と。GT不足をサプリメントのように補ってくれる環境がいいんじゃないかな。

恥=カッコつけ=防衛的見栄張り

 さて、なんでここで「恥」が出てくるのか?
 恥というのは多義的な言葉ですが、ぶっちゃけていえば「カッコ悪い思いをすること」ですね。

 じゃあ、どうなったら「カッコ悪い」のか。ここで幸福客観説が出てきます。こうなれば幸福、成功という客観的なゴールが出来ている社会では、そこに向かうための客観的なルートも用意されます。東京高裁の裁判官に任命される前に一回札幌地裁に行くとか、どの世界にもルートはある。"出世街道"ってやつね。そこまで決まっていたら、こうなったらカッコいいという美的ポイントも決まりがち。有名な企業に就職できたら「カッコよく」て、誰も知らないところにいったら「カッコ悪い」「恥ずかしくて言えない」と思ったりもする。

 まず第一に、そんなレベルで「恥」を感じるということは、幸福のカタチ決定権を他者(世間)に譲渡している証拠、ないしは兆候であり、それってどうなの?という点です。蝋燭の炎、消えてるんじゃない?

 そうなってくると二次災害が出てきます。なんとか世間基準に合わせようとして汲々としてくる。恥をかくのを怖がって、極力避けようとする状態=「常にええカッコしいをしようとする状態」になる。これが第二の問題点。

 その場合の「カッコつけ」の本質は「嘘」であり「偽装表示」です。本来の実像はこのくらいだけど、それを20%分くらい増量して見せるという。今でもあるのかどうか知らないけど、シークレットブーツのように背を高く見せるような嘘をつく。

 そして、嘘はいつかバレます。そうなると「カッコつけようとして失敗した状態」になって、より強烈に恥ずかしい。世間に合わせて懸命に背伸びしてたらズッコケてしまった、シークレットブーツを履いてるのがバレてしまったとか。こうなると「恥の上塗り」ですな。セコい策謀が暴露して、自分のセコイ心胆すら見透かされ、せせら笑われる屈辱感ですね。

 ここで、思うんだけど、そもそも第一の点で「カッコいい」の判断を他者に譲渡している段階ですでに蝋燭の火は消えていてマズイんだけど、あまつさえ他者に迎合するために嘘をつき、その嘘がバレないかどうかハラハラ・ドキドキするというのは、末期症状だって気もします。
 ここで、「幸福のカタチ」は人それぞれで、世間に合わせるのが私の幸福のカタチそのものだとか、あれこれセコい策謀をめぐらせることが私の生きがいなんだよって人もいるかもしれません。それならそれで「追求」してください。

 そういえば、江戸っ子の美学には「やせ我慢してなんぼ」「見栄張ってなんぼ」それが「心意気」であり、「粋」であるという文化もあります。もっとも、そういう江戸っ子世界の幸福像というのは、あれはあれで結構本物で、「世間がそうだから」という受動的なものではないと思いますね。周囲の賞賛を得られなくても「けっ、これが粋ってもんなんだよ」と一人で主張するし、「野暮天ばっかでつまんねえ世の中になっちまったねえ、お〜やだやだ」とか世間批判もする。(世間追従ではない)「粋に生きる」という幸福観がドンとあるから、幸福追求である「見栄坊」もまた肯定され、そこで健闘すれば仮に見栄で負けてもそんなに馬鹿にされないでしょう。「相手が悪いよ」「いい線までいってたんだけどなあ」とか慰めてくれる。だからちょっと違うと思います。余談ですが。

 でもって、多くの場合は、自分の幸福像を全面的に世間に譲り渡しているわけでもないし、セコい見栄策謀こそが私の幸福追求なんですってことはないでしょう。ありていに言えば、ひたすら馬鹿にされたくないから防衛的にやっているという。

 逆にいえば、なんでそこで防衛しなきゃいけないのよ?てか、そもそも何を防衛しているのよ。そんな方向に物事を考えてしまうような環境、蝋燭の火をつけさせてくれない環境、下らないことで馬鹿にするような連中の場にいること自体が既にヤバいんじゃないの?居場所間違ってないかい?ってことです。

伸びてるときは不格好になるのが当然

 なんらかの幸福のカタチが自分なりに観念できて、それが現状とはちょっと違っているなら、そこに行くなり、自分を変えていくなりするしかない。そこで幸福追求行為が始まる。でも、それはそれまで自分がやったことのない未知の領域に進むことであり、且つ未知の領域であれば当然不慣れで、当然失敗も多々あるでしょう。滑った転んだを繰り返す。外見的にはいえば、滑った転んだ失敗した姿というのは不格好だからカッコ悪いだろうけど、でもそれをしないと前に進めない。

 チャリンコ乗れるようになるためには、何度も何度もコケないとならない。そのコケをカッコ悪いといって避けていたらいつまで経っても自転車は乗りこなせない。これは英語でよく言われることで、喋れないから恥ずかしいとか恥をかくのを恐れていたら(喋らなかったら)、英語は決して上達しない。恥もクソもなく、ガンガン話しかけてなんぼ、話したトータル分数が1万分とか5000時間とか増えるに比例して上達する。奇異な目で見られながら「あうあう」やってるという、カッコ悪そなことをしないと伸びない。

 それは上達ということに不可避的に伴うプロセスだし、誰がやってもそうなる。そしてその行為は人間とし人道に反するか?といえば、全然間違ってない、要するに何も悪くない。ただカッコ悪く感じたり、恥ずかしいと感じるだけのことで、いわゆる「恥ずかしいけど、”恥”ではない」ってことです。

 一方、幸福追求意欲が高ければ高いほど、自然に恥ずかしいとかカッコつけようとかあんまり思わなくなるでしょう。そりゃカッコ悪いのは誰でもイヤだし、どうせならカッコつけたいって思うだろうけど、改まってそれが「リスク」ではあるとは思えないでしょう。夢中になればなるほど、なりふり構わず必死にやるでしょう。もっとも、そういう姿こそが最高にカッコいいんだけど。

 バンドのボーカルでも、高音を出すのは声帯の筋肉を鍛えるしかない、金もコネも無いからボイトレコーチも雇えない。だから大声出して声帯筋トレやるしかない。でも大声なんか町中で出せないし、スタジオ行く金もないから(昔はカラオケボックスも少なかった)、河川敷の鉄道の陸橋の下に行って、電車が通り抜ける轟音時に「わー」「うぎゃー」とか大声で叫ぶ。もう傍から見てたらただの狂人で、下校時の女子高生に「あの人、またいるわよ」とクスクス笑われたりするのだけど、そんなの気づかない。

 語学学校の時のクラスメートに韓国人がいて、こいつが超いい奴で、大学でアラビア語をやり、日本で働いて日本語もベラベラ。だから英語の勉強も熱心なんだけど、LL教室で発音練習やらされているときに、メチャクチャ必死に大声でやるんですよ。もうヘッドフォンしててもそいつの声が聴こえるくらいで、しかもときどき声が裏返ったり、むせたりするから、おかしくておかしくて。皆でクスクス笑うんだけど、でも、「やっぱ、エライよ、こいつ」って皆も思ってた。そんなもんでしょ。

 ということは、もし防衛的に見栄を張ることが日常の課題になっているような状況というのは、本来的な幸福追求は進んでいない、てか幸福のカタチも見えてない、考えるヒマすら無いって状況なので、そういう状況こそがクソであり、且つそういう状況にならざるをえない、その居場所が間違っているということです。

だからやっぱり居場所が大事

 以上の次第で、「恥をかくのがリスクに感じられる」という状況というのは、幸福追求という本道からしてちょっと迷い道っぽいんじゃない?ってことです。そして、だれもかれもが「うおおお、これじゃあ!」って怒涛のGTパワーを持ち得ないでしょうから、だからこそ居場所が大事だろうってことです。

 じゃあ、その居場所はどうやって獲得するんか?というと、また話が長くなるからちょっとだけ。ニワトリ卵の悪循環と好循環はあると思いますよ。そうやってビビってカッコばっかつけてるから周囲にはそういう友達ばっか増えるとか。逆に、一瞬馬鹿にされたり笑われたりするかもしれないけど、必死に「追求」してたら、「あいつ、すげーよ」って必ず思ってくれる人はいるはずだから、自然と知り合いにもなるし、いい仲間が増えるだろう。だから居場所が徐々にできてくる。あ、居場所というのは「探す」というよりも、自ら「作る」くらいの感じの方がうまくいくと思います。

 まずは「旗を掲げろ」ってことですか。「俺はこういう奴です」と分かりやすい旗を掲げると、遠くからも波長の合う奴が寄ってくる。ツッパリ系が好きだったらその種のカッコする(最近もう絶滅したのかな)、そーゆーバイクに乗る。その昔、軟弱80年台にヘビメタのカッコするのはチンドン屋やってるくらい恥ずかしいし、町を歩けばうるさ型の爺いに説教喰らい、恐い人達に「てめ、女みたいなカッコしやがって」と絡まれるというリスクを負うのだけど、それでもそのカッコをする。中島らもさんエッセイに、知り合いが奈良のど田舎でパンクスやってて、毎朝、田んぼの霜柱を踏みながら金髪モヒカン(30センチ)で通勤(どこへ?)してたというけど、「根性」というのはこの「旗揚げ」にこそ見せるべきでしょう。その意味での本道に根ざした、可愛らしいカッコつけは大いにすべきだと思います。恥ずかしいし、恥かもしれないんだけど、でもやるという。それが大事ね。

 敢えていうまでもない蛇足を言いますが、「居場所」といっても、ちやほや自分を甘やかしてくれる場所って意味じゃないですよ。ちゃんと激励してくれる所というのは、ちゃんとダメ出ししてくれる所でもあり、リアルタイムにはむしろ後者が多い。アホボケカスで罵倒の嵐であろうとも、その向かう方向性に自分が納得できたら、そこは良い環境でしょ。どこであれ一流の現場は厳しいですから。それに「ボクちゃん悪くないもんね〜」って甘やかしてくれるのがいいなら、究極の居場所は「ママのおっぱい」ってことになるっしょ。

 蛇足2は、居場所といっても24時間全て整っている必要なんかないです。てか無理、そんなもん。金のためと割り切ってるバイト先の環境なんかどーでも良いのだ。価値的に重要ではない場所の環境なんかどうでもいい。むしろ、どうでもいいことに凹まないメンタル事務処理みたいな能力こそが必要。居場所なんか、一か所整ってたらそれでいい。家に帰れば崩壊してるし、先公はムカつくし、クラスメートは馴染めないし、でも部室に入るとそこには「おう」と仲間がいるって感じ。それだけで十分すよ。最低一つあればなんとかなります。問題は、それが一つもないことです。





文責:田村



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