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今週の一枚(2014/02/17)



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Essay 658:ネタの蔵出し21本

 
 写真は、チャイニーズの街、Ashfield。
 ここも相変わらずいい味してます。料理的にも風景的にも。

 周囲から異様に不釣り合いなピカピカの役所の新庁舎ができているんだけど(写真右端)、そんなこと全く意にも介さず堂々と剥げた看板を掲げているという。

 本文との絡みでいえば、「アウェイもホームもないよ」って部分。むっちゃ強烈なアウェイなんだけど、同時に妙に心やすまるホーム感もある。「地球の庶民の町」って感じ。庶民を自覚する人だったら、一歩足を踏みれた瞬間にもう「仲間」に入れてもらっているという。



 毎週ネタ決めに困るのですが、これから春の進学シーズンで忙しくなることもあり、日頃のネタ帳から、ここでドンと書き出しておきます。

 書き出しながら展開しかけたものもあるし、全然「種子」状態のものもありますが、あんまり深いこと考えずにダーッと羅列しておきます。

 スカスカだから読みやすいとは思うけど、トピックがあちこちに飛ぶから大変かも。


礼儀の意味〜実務的に使える人間関係の呪文

○礼儀や礼法の意味。「礼に始まり礼に終わる」というのは、そのくらい実務的に使える魔法の儀式だから。
 これさえ守っておけば、人間関係メンテナンスの作業量は10分の1に減らせるという、それはそれはとっても便利なお約束。

○これは民族ごとにある筈で、必ずしも日本人が思う「礼」という形になっていなくても、実質的にそれに相当するものはある。
 例えば、英語圏の場合、「名前で始まり、名前で終わる」のではないかと思えるくらい、相手の名前をちゃんと覚えるし、名前を呼ぶことが一種の礼儀になっているような気がする。

○しかし、日本では名前で呼ばない。
 これは以前「言葉の呪術性」でも触れたが、古来、直接名前を呼ぶには失礼とされる。「忌み嫌われている」といってもいい。

 "You"という二人称でも、「あなた=貴方=貴き方向」という方向表示だし、「おたく=お宅=御宅=your house」という場所表示。「相手(相対する他方当事者)」「先様、先方さん(この先の方向に行ったところにいる人)」。

 「あ」「か」="overthere"を意味し、「彼方=かなた」「あなた("山のあなたの空遠く〜")」、「彼」「彼氏」「彼女」も同じ。"opposite riverbank"(川の向こう岸)を意味するのも「"彼"岸」で「ひがん」と読み、死後の世界="あ"の世の意味。春分秋分の日の「お彼岸(ひがん)」の本来の仏教的意味は「悟りを得て向こう岸に渡ること」だったのだが、「死んだら良い世界にいける」という浄土思想以降の日本では、太陽が真西(死後の世界があると言われる)に沈むこの日に、浄土を思い、祖先を思う日となった。いずれにせよキーワードは「彼(か、ひ)」であり「ここでない向こう」という意味でしょう。

 ちなみに、お彼岸といえば、僕の好きなオハギが出てくるが、春分の彼岸には春の花である牡丹が、秋の彼岸には萩の花がモチーフになり、春にたべるのを牡丹餅=「ぼたもち」に、秋が萩餅→「おはぎ」になったらしい(諸説あるらしいが)。

 直接名前を呼ぶのを忌む例は、ほかにも「お上」「上様」「貴様(本来は尊敬語)」という単純に尊敬を意味する「上ベクトル」もある。「殿」「お屋形様」も本来は建造物の意味でしか無い(神"殿”)。

 このように徹底的に名前を呼ぶことを避ける(呪がかかるのでしょうな)日本では、最大級のVIPである天皇は、そもそも名前をもたないという最強のワザを使うのでしょうか。誰であれリアルタイムの天皇は「今上天皇=文字通り”今の天皇”」と呼ばれ、死去したあとに諡(おくりな)をつける。

○しかし、英語圏ではバンバン名前を呼ぶ。名前を呼ぶ(必死に記憶する)のがむしろ礼儀。でも覚えきれなくて苦労するんだ、これが。

国際ビジネスの必須スキル〜Cross Cultural Management

 これらの文化的差異は国際ビジネスをする際には必須の知識とされ、"Cross Cultural Management"という科目が、各大学の経済経営系のコースに組み込まれている。日本の大学では教えているのかな?

 Cultural Etiquette(41頁におよぶPDF)という資料をみつけました。主としてアジア諸国の文化マナーについて書かれています。

 この種のビジネスコンサルタント業は昔からあると思うけど、個人レベルでネットで起業してオンラインで売るとかになってくると、もっと広く需要がでてくるかもしれない。

○ヤンキー力とガリ勉力
 どっちもないとダメな時代になってきたな〜と思う今日このごろ。

 これは面白いから、いつかまとめて長々書きたいです。

○国会議員抽選論
 秘密保護法の審議を見てて思った。
 あんな審議するくらいだったら、国会議員なんかもう抽選で選んでもいいんじゃないの?クラスの図書委員や保健委員みたいにさ。

 抽選というと無茶苦茶に聞こえるかもしれないけど、欧米の陪審員制度というのは抽選でやっている。日本だって検察審査会も裁判員も抽選でやっている。そして抽選だから変な仕事をしてるってもんでもない。

 抽選で選んで、1年くらいの期間限定で仕事して、報酬1000万円くらい渡してあげたらどうか。期間限定だから、派閥作ったり、政局やったり、癒着や利権構造が出来たりするヒマもないし。

 どうせ今の国会議員だって何から何まで知ってるわけもないし。てか、殆ど知らないし。だから官僚の言いなりになったりするのだ。無知すぎて太刀打ち出来ないのだ。「素人がやってる」という意味では変わりないのだ。それに「政治のプロ」といったところで、その内実は、「選挙のやり方」とか、「利権集団の動向を知ってる」とか、「ネガキャンやマスコミ対策に慣れている」とか、いずれにせよ本筋(皆のために議論をして正しい判断を行う)に関係無いようなスキルが多いじゃないか。

 つまり、政治家を通さず、国民(ランダムで誰か出てくるかわからない)と官僚とを直接ガチでぶつけた方が話が早いのではないか?ってことです。

 まあ、そうなると、議院内閣制自体変えないとならないので、とりあえず参議院だけそうするとか。参議院を、法廷の陪審員みたいにして、衆議院で作った法律を(抽選で選ばれた)国民の前で説明させて、彼らが納得しなかったら否決されちゃうという。

 民主主義というのは、常に衆愚性との戦いだと言われるけど、代議制システム(選挙で代表者を選ぶ方法論)が、その衆愚性を蒸留減殺する役割を果たしているのか、それとも逆に増幅させているのかというと、正直いって微妙なところではあるまいか。もしマイナスが多いなら、選挙システムはやめた方が良い。ただし人数の関係で代表者を選ぶなら、一切の不正や利権が入り込む余地がない純粋な抽選で良い。要は「民意伝達システム」でしかないのだから。

 このようなシステムで尚も「政治家」がありうるか?といえば、全然ありうる。別に政治家=代議士である必要はないのだ。皆の問題にコミットメントをし、いささかなりとも影響力を持てば、それはすなわち政治家であるし、それを職業的水準の技術に高められるかどうかである。

 もっと言えば、現代政治においては「政党」というのは賞味期限を過ぎているのではないか。だって、無党派層が帰趨を決めるような選挙が多いということは(大都市、大規模になるほどそうなる)、政党単位で物事が決まっているわけではない、ということではないか。政党単位で決まる選挙というのは、つまりは組織票の戦いであり、組織票形成機能しかないのであれば、それが政党である必要もない。
○神輿は軽いほうが担ぎやすい

 重いと持ち上がらないんだよな。軽い方がいいです。
 しかし、軽いだけにブレやすい。
 また軽いだけが取り柄の神輿が勘違いすると厄介なことになったりするんだ。
○恥はリスクではない

恥をかくことが「リスク」に感じられるなら、それは居場所を間違えていると思うぞ。

アウェイ
 愛国的な主張を母国語で言うのは、鏡に向かって「私、きれい?」と言ってるのと同じナルシシズム。スマトラ語で「スマトラ最高!」といってもスマトラ人しか聞いてないし。未だにアメリカにはKKK団が実在して、ファニーな帽子かぶって「白人最高!」ってやってるけど「珍しい動物」くらいにしか思われない。やるんだったら異教徒百人に囲まれながら一人ぼっちで主張しなきゃ嘘でしょ。その昔の宣教師だってやってたんだから。アウェイで成果をあげてなんぼでしょう。

 こっちでは普通にアウェイの孤軍環境だからスリリングで面白い。それがハードかというと逆に楽です。他の連中も基本的に一人ぼっちで孤軍奮闘しているから。調子を合わせてやる必要もないし、そんな期待もされない。逆に同種族に囲まれた「在郷環境」はイージーなんだけど、それだけに面倒臭い。

 「仲間」というのは居れば良いってもんでもない。多すぎるのも考えものよね。特に単に生まれた国が同じという、あるんだか無いんだかわからないような形式的な基準で「仲間」意識とか言われても、盛り上がらない体育祭での校長先生の挨拶みたいな感じ。

 大体、「人はみんな一人」「群衆のなかの孤独」とかいうなら、そもそも「アウェイ」とか「ホーム」とかいう概念自体が嘘だってことでしょ。友達がいなくて寂しい人が、大風呂敷ひろげて擬似的な連帯感をエンジョイするという「遊び」はアリだと思うけど、それだけのことでしょ。

 自分の部屋から一歩でも外に出たら、そこは全て「アウェイ」であり、地球に居るというだけでそこは全て「ホーム」なのだ。一人ぼっちを極めないと、本当の仲間なんか生まれないように思う。

○「そんなに楽してちゃ、出世はできませんよ」

 とかなんとか昔からよく言うけど、その意味がだんだんズシッと重みを増してくる。
 いやあ、そうだよなあって。

○「うざい」とストレス
 「うざい」=うざったい=鬱陶しい=面倒臭くて真面目に取り組む気がしない=持続的なストレス耐性がないってことか。この種の表現が多用されるようになったのは、それだけ根気がなくなっているってこと?

 不快な状態が続くと、ストレス耐性が枯渇してイライラしてくる。だから普通の行為が異様に面倒くさく感じるし、複雑な処理もできなくなる。トイレに行くのを我慢しているとき、頭痛が激しいときには緻密な作業が出来ない。

 交通事故というのは、安全確認という普通の作業が異様に面倒臭く感じられているときに生じやすい。当たり前だけど。一般に「成功」とは、面倒臭い物事をどれだけ面倒臭がらずに丁寧にやり遂げられるかにかかっている場合が多い。「失敗」「事故」とは、そこで面倒臭がることで生じる。医療過誤とかもそう。

 ということは、イライラしてたり、うざったがってる自分がいたら、今の自分は非常にリスキーな状態にあり、もしかしたら人生の破滅の崖っぷちにいるかもしれないと自覚すると良い。それがリスク管理。また、うざったがってる人に何かをやってもらわない方が良い。検査をすれば見落とされるし、手術をすればミスされる。「うざい」が口癖になってる人には、もう近づいてはいけない。

 また、他者や異物に対するトレランス(寛容性)の減少というのは、いっぱいいっぱいになってる兆候でもある。異物に接するのは体力気力が必要。異物を面白がれる人、職場、集団、社会は基礎体力がある証拠でもあり、体力があるから将来的に発展しやすい。文明開化の頃の日本などはそうだったんだろう。逆に異物を嫌悪するのは体力気力が枯渇している衰弱状態にあり、いずれ衰弱死するかもしれないから、関わらない方が無難。

○「格差」と一次元人
○「老人格差」とか最近言われるが、昔からあったとは思う。
 その昔は、水戸の御老公が諸国漫遊をしている(史実的には嘘らしいが)一方で、楢山節考とかあったわけだし、横丁にはご隠居さんがいたりする。全然違うじゃん。

 でも、それって「格差」なのかな?
 単なるポジションの違いって部分もあると思うぞ。ファーストとサードみたいに。

 そもそも「格差」ってなんだ?
 「いろいろある」というナチュラルな多様性ではなく「許しがたい(合理的根拠がない)差異」として受け止められるもの?合理性はあるけど、そこまで差がつくのはあんまりだという気分?

 西欧は自由社会でありつつ、未だに階級社会である。なにかで読んだのだが、階級社会が一概に悪いわけではない、5スターホテルの客と、3スターホテルの客とでは、それぞれに違った世界が広がり、それぞれに楽しめるように最初から設計されている。妙な屈辱感や欠落感に苛まれることもなく、それぞれの予算で楽しめる。その意味では、むしろよく出来ている。

 もとクラスメートが羽振りよくなって、高級外車を乗り回していられると屈辱感や劣等感を抱いたりするが、皇族がゴージャスな宮中晩餐会をやっていても、別にコンプレックスに打ちのめされることはない。最初から「違う」と思ってたら気が楽なのだ。

 だとしたら結果としての所得の差異だけが問題なのではなく、そこに合理的な根拠があるかどうかである。差異が大きくても、納得できる理由があれば問題はない。より問題なのは、それぞれの人がハッピーかどうかである。誰かアンハッピーな人がいれば、助ける。その大原則だけで良いのではないか。

 というよりも、一元的な幸福像を描くこと自体が問題なのかも。国なり社会なりがハッピーである型紙をつくり、しかも一枚しか作らず、それに何でもかんでも当てはめていこうというモノトーンが問題ではないか。そして、もっとマズイのは、そういう行政システムのありようが、普通の人達のメンタルに浸透し、誰も彼もを同じ物差しで測ろうとする点にこそあるのかもしれない。

 本当は幸福の型紙など100パターンくらいあっても良いのだと思う。金持ちは金持ちの苦悩があるし、社長には社長の辛さがある。それを味噌もクソもいっしょに一元管理しようとするから、所得格差=幸福格差のようにド錯覚するのではないか。ちょっと引いて考えてみれば、馬鹿でも分かる嘘なんだけど、なぜか騙される。小学生時代、親からもらう小遣い(所得)の差で、子供たちの間で幸福格差があったか?

 つまり、なんでも垂直上下に並べて考える(=何でも格上とかランキングにこだわる)、並べられると思い込んでいる、垂直座標軸しか持ってない「一次元人」的な世界観じゃないの?それって、二次元オタクよりも視野狭いんちゃうの?

「保身」ってなんだろう
○「なんでこんなヒドイことがまかり通るのか?」という現代社会の「悪」を突き詰めていくと、かよわい普通人のかよわい「保身」に行き着く場合が多い。

○緊急に手を打たないと多くの人命が危険に晒されるにも関わらず、怒られるのが恐いから黙っている、ひた隠しにするという構図。秘密保護法で守りたいのは「秘密」ではなく「保身」だろ。みすみす破滅しか待っていないのがクリアに見えているにも関わらず、それを言い出す勇気がない。会社の公金を横領して、いつか全てがバレてしまう"X-DAY"を戦々恐々として待ってるような感じ。先の戦争でも、中枢にいる人間には、明瞭な破滅しか待っていないのが分かっていた筈なのに、見て見ぬふりをしつづけた。今の放射能汚染も、気違い染みた財政破綻もそうなのかしらん。

○人というのは、明日死ぬのが明白にわかっていても、今日死ぬよりはマシだと思う生き物らしい。今日動けば幾分かは生存確率が上がるのがわかっていても、「見て見ぬふり」をしさえすれば、100%安全のように錯覚できるし、その甘美な錯覚にすがりたくなるものらしい。目の前に大津波が迫っているけど、見ないふりしていれば、とりあえずあと数分はいつものように暮らせる。で、数分後にはドドドと流されるという。阿呆か?と思うけど、それが人間なんだろう。分かるような気がするが。

○悪い知らせは一秒でも早く知るほうがいい。なぜなら、より有効な手を打てるからである。

○「危機」は対処できる。少なくともその可能性はある。しかし「不安」は対処できない。出来ないから不安なのだ。


断崖絶壁幻想
 オーストラリアでは「なんでも出来るような気になる」のだが、日本に帰るや「何も出来なさそうな気になる」というのは何故か?

 現代社会の諸悪の根源になるかのような「保身」ってなんだろう?人はなぜ保身を図るのか。今いる場所が山頂ピークで、どの方向であれ1センチでも動いたら標高が下がるのか。ならば絶対死守もうなづけるけど、ほんとにそうなのか?そんなに誰も彼もが絶頂ピークにいるのか?その割にはあんまり嬉しそうじゃないぞ。他にもっと良くなる選択肢が見えないだけじゃないのか。

 日本では、実際よりも周辺の風景が恐怖色に描かれているのではないか。見通しのきかない、霧に包まれている空間を、なぜか断崖絶壁であるかのように思ってしまう。だから一歩も動けない。「動くと死ぬ」と思い込まされる。ゆえに結果的に保身的な選択になる。

 オーストラリアでは(というか普通に地球上では)、ここが平地ならば霧に包まれている10メール先も普通に平地である確率が高いと考える。そりゃ断崖かもしれないけど、お花畑が広がっているかもしれない。そんなのわからない。「わからない」なら数学的確率論で処理すれば良いし、同時にあらゆる事態に対応できるようにすれば良い。それだけの話。

 個別の想像イメージはどれもこれも同じくらい根拠ないのだから、悪い想像を100したら良い想像も100するというバランスが大事。このバランスは意識的に保つ必要がある。さもないと、たまたま良い想像を思いついたらやる気がでて、たまたま悪い想像をしてしまうと気力が萎えるということで、結局は偶然によって物事が決まっていくことになり、成功率はがくんと落ちる。だって全ての物事を鉛筆転がして(偶然で)決めているのと同じなんだから、そりゃ失敗するよね。

 また、このバランスが狂うと、為すべきときに為すべき事を行わない百年の禍根を犯す。そっちの方がはるかに恐い。

○景気=変なことをしている人の割合
 景気や経済の本質は、単なる循環量の数値ではないし、効率でもない。
 要は、創意工夫がどれだけ施されたか、その創意工夫の総量にあり、発想の飛躍のその飛距離にこそある。「うわ、とんでもない事考えたもんだな」という「とんでもなさ」性こそが景気の素ではなかろうか。

 本気で景気をよくしたかったら、人々に「ヘンなこと」を考えさせるように、自然と変なことを考えてしまう社会にしたらいいんじゃないかな。超真剣にタイムマシンの開発をやってる人が何万人もいる社会とか、なんか凄そう。近代自然科学の基礎になったのは、中世時代の錬金術の「ヘンな試み」の集積だったというが、タイムマシンが出来なくても、その過程で画期的な新商品くらいは出来るかもしれない。

矛盾をめぐる視野と器量
○ありきたりだが「真理は矛盾の中にある」。しかし、理解力が低い人は単なる矛盾のように感じる。矛盾しているように見える真理をいかに総合的に捉えられるかの勝負であり、視野の広さが求められる意味はまさにここにある。それが矛盾に見えるのは、あなたの視界が狭いから。

○しかし、統合理解しなくても良い、というすごい方法論もある。矛盾をバキバキ踏みつぶしていく力、矛盾をそのまんま呑み込める力。いわゆる人間力であり、器量。これは無気力な人間や、アホがやったら単に諦めたり挫折してるだけのことで意味が違う。その気になったら幾らでもクリアにしていける力があり、またクリアにしたい願望がありつつも、敢えて途中でほっぽり出すこと。

 例えば、恋人や配偶者の浮気が発覚して、土下座しながら「これには深いわけがあって」とか愚にもつかない言い訳を並べられるんだけど、「いい加減なこというな!」「誤魔化すな!」と怒鳴りたいのをこらえて、「そっか、深いわけがあるのか」で一切不問にする。全部ひっくるめてパクっと呑み込んでそれで済ます。一生そのことについては二度と触れない。こんなの並みの人間には出来ない。「大賢は大愚に似たり。」
自由と秩序と平等のロジック操作=価値観は”劇物”
○100%自由にやらせたら秩序もクソもない弱肉強食の超不平等社会になる。自由と秩序、自由と平等は、本質的には矛盾しまくる。これが近代国家論や憲法学のド基礎ジレンマ。

 これをクリアする理屈は、全ての価値は「比べられない」という意味で「平等」であるとする。「等しく価値があるから」ではなく「比較不可能だから」平等に扱わざるを得ないと。数学の解法みたいに、自由から平等を導き出すロジック。そこでは「痛みや制約の平等」というテクニカルな原理で行われているだけで、別にその方が道徳的に正しい等の価値判断でそうしているわけではない、という点に注意。純粋に機械的に、没価値的にメカニカルにやってるだけだという。

 価値観という「劇物」を扱うには、価値不導体である金属のようにメカニカルなものでやらねばならない。でないとグチャグチャになる。政見放送を「一人○分」と均等に割り振るように、一切価値には触れず、機械的に処理する。それが「公正・公平」と言われるための一つの重要な手法。

○最後に残ったのが正解ルート
○選択肢を選ぶにあたっては、迷路必勝法のように、まずダメなやつ、行き止まりのものから先に潰していく方法もある。最後に残ったのが正解ルート。

実践的には「どれだけダメか確認するためにやってみる」という方法論はアリだということ。
一番ダメそうなやつから先に潰していくという、受験の選択問題の解法でもある。
○想像(妄想)なくして行為なし
 「○○したい」「○○になったらいいな〜」と思う。妄想でもいい。その夢想から全てが始まる。

 人間のあらゆる営為や偉業の先端には常に想像力がある。
 想像力こそが行動力の基礎栄養素になる。「妄想なくして行為なし」。
○王になりたい/風になりたい
男の子には二つの矛盾するベクトルがある。「王になりたい」欲求と「風になりたい」欲求。

男論・オス論は面白いからゆっくりまとめて書いてみたい。

例えば、生物学的にいえば、オスの存在意義は、種属保存のための改良行為=DNAシャッフル=つまりは射精の数秒間だけであり、生命時間の99.9999%はヒマツブシに過ぎない。
そう思えば、人類の壮大な「歴史」「発展」「進歩」というのは、全部ヒマツブシの軌跡である。自然界には「進化」はあっても「進歩」は予定されていない。「歴史」なんてものを観念している時点で、すでに生物としては「邪道」なのかもしれない。

○「良い出会い」があるわけではない
 客観的に「良い出会い」があるのではない。
 現象的には、単なる初対面の邂逅、「あ、どうも」があるにすぎない。

 その「素の現象」を自分で進んで解析し、意味付けをし、改良行為を重ね、「良く」していくのだと思う。
 出会いは死ぬほどあるのだけど、気付かずにみすみす棒に振っているものが殆どだろう。良くしていこうという意欲や工夫がなければ、誰と会おうが何も実らないんじゃなかろか。
○大学入学逆年齢制限〜40歳以下は入学不可
○大学の一般教養科目というものを、当時は詰まらなく感じていた。本当は一般教養こそが超面白いんだけど、その知的興奮が分かるようになるには、相当世間を知って、相当ものを考えて、それなりの知的蓄積が必要なのでしょう。暗記メインの受験をやってきた18歳かそこらのガキンチョにわかるわけないよとも思う。わからないのにやったって意味無いじゃん。

だから、一般教養科目は50歳以下は取っちゃダメとか、専門科目も含めて、大学というのは逆年齢制限をしてもいいのかもしれないです。よほど天分に恵まれているか、知的渇望が強いかでなければ40歳以下の人間は入学できないとか。まあ、就職予備校になってる現在の日本の大学には無理なんだけど。

○「死んでこい」が仕事の本質
仕事の本質、特に正社員的なるものの本質であり、もっとも大きな収穫部分は、待遇でも給与でもなく、逃げ場のない舞台に上がらされ、「死んでこい」と言われることかもしれない。

 (主観的には)ありえないようなムチャクチャなタスク(しかし客観的には実現可能な)を押し付けられ、イヤとも言えず、逃げることも出来ず、半ば発狂したようにやるから自分の限界が突破できるという部分はある。

 暴力団関係者が多い殺伐とした、てか屠殺場みたいな、そこに居るだけで卒倒しそうなくらい恐ろしい債権者集会に、新人弁護士がひとりぼっちで置き去りにされるとか。強引に修羅場を踏まされるから、否応なく人間力がつくという。

○プロになるプロセスで一瞬「死ぬ」
 お金の得方(給料や報酬)には二種類あって、一般人には到底不可能なことが出来るという異能技術に対して支払われる場合と、誰にでも出来るんだけどあまりにも面倒臭くて詰まらないことだからお金が支給される場合。前者をプロと呼ぶが、どっかで超人修行をしないといけない。

 不可能なことが可能になるプロセスでは、その通過点で一瞬「死ぬ」くらいの苦痛を伴う。「くそったりゃ〜、死んでやらあ!」みたいな馬鹿パワーで乗り切る。
 単なるブラックとの違いは、そこに大きな教育効果があるかどうかで、教育効果がなければ正社員でも意味がない。ただし、その教育効果は、やらされてる本人には全然わからない。そこがネックでもある。

○自分との距離の置き方
「自分」を大切にすることと、自分に固執するのとは違う。
自分のためにやたらハードな修行を自分に課すのは、我執であり、自分オタクであり、形を変えた過保護である。

ときには、「勝手にさらせ」と自分を突き放した方がいい。
他人との距離の置き方というのは常に難しいものだけど、自分との距離の置き方が一番難しいかも。

○世界海賊党に入ろう。
 ワンピースの話ではなく、著作権の話。本当に「海賊党(Pirate Party)」は実在し、世界40カ国で活動をしている。すでに日本にも結構あるらしい。日本全国で一人一党で政治団体として届け出をしている。

 要するに著作権が時代遅れであるということ。
 僕もそう思う。デジタルという完コピ技術が出現した時点で、「複製権」をそのメイン内容とする著作権は、遅かれ早かれ消滅する運命にあるといえる。既得権者の悪あがきの時期が続こうとも、時間の問題。保護されるべきはアーチストであり、その流通人(レコード会社とかTV局とか)ではない。

 ではアーチストにはどのようなリターンがあるべきか。それを皆で考えたほうが生産的。
 例えば、今考えたフラッシュアイデアでは、各作品に共通番号が振られ、デジタル化されたものにもその認識個別データーは埋設される。デジタル化されたものの複製譲渡は完全自由にする。だから無料でいくらでも本でもCDでも映画でも手に入る。そして鑑賞者は、Facebookの「いいね」みたいに、良い、素晴らしいと思ったらクリックするなどして、ネットで絶賛信号を送る。全世界的にそれを集計し、得られた「いいね信号」の数に応じて、世界機関から印税のように配分を受けるというシステムはどうか?

 共通の元締めは国連傘下のユネスコみたいに超国家組織にして、国連から予算を受ける(加盟料を各国から徴収する)。そうすればあんまり誰の懐は傷まないでアーチストに還元できる。この方式の良い点は、誰でも自由に参加できること。自分で歌って録画したものを国際機関のサイトにアップロードして認証番号を得て埋め込んでもらう。そのうえで、YouTubeにあげておいて、世界中の「いいね」クリックが一定数溜まったら、自動的にお金が送られてくることである。すでにそれに似たことをやってる世界的なサイトもあるよね。これは技術的には可能だと思う。だってアマゾンのアフィリエイトの方がもっと複雑なことをやってるんじゃないか?もっと単純のことを規模を大きくすればいいだけで、それは難しいとは思わない。難しいのは利権と政治だろう。

 また、無料無制限でなんでも視聴できるので、内容を把握した上で良し悪し評価が出来る。ゆえに内容の良し悪しに応じてアーチストの収入が決まるという完全実力制になる。今は、映画もCDも本も、見る前にお金を前払いをさせられるのだが、それって妥当なのか?広告や作られた人気に踊らされて映画館に足を運んだり、ベストセラー本を読んでみたら、詰まらなかった金返せってことも多々ある。

 要するにメディアの流通業者のマーケティング戦略でお金が動く。そもそも出版やデビューという「世に出る」段階で企業の胸先三寸で決められてしまう。彼らに気に入られなかったら(売れそうもないと判断されたら)、どんな作品であろうとも世に出ない。しかし、彼らに人類の文化を決定する権利と能力があるのだろうか?こういう馬鹿馬鹿しいことはやめるべきだと。文化には、本質的にインディーズもメジャーもない。民謡だってお伽話だってもともとはインディーズである。

○マックジョブなら社会主義でいいんじゃないの?

 誰でもできるカジュアル仕事=マックジョブが世界的な趨勢になっている。
 でも、仕事で自己実現するのが難しい時代になっていくなら、別に資本主義である必要もないじゃないか。資本主義の最大の長所は「面白い」ことだと思う。それをカッコつけて「自由」と呼んでるだけのことで、面白くなかったら自由でも嬉しくない。宿題の「自由課題」の「自由」が全然うれしくないように。

 面白くないなら、資本主義にこだわることもない。社会主義でもいいんじゃないか?給食当番や掃除当番みたいな感じで。そうすれば、別に就活や転職に悩まなくてもいいし。詰まらないんだけど、とりあえずお金は入るし、保証はあるし。誰でもいいような仕事に就くために、就活するなんて馬鹿げていると思わないかい?誰でもいいんだぜ?


 いきなり全部給食当番は無理だと思うから、そこは中国を見習って一国二制度の大嘘イリュージョンでやったらどうか。日本のなかに、資本主義日本と共産・社会主義日本とを明瞭に同時存在させる。もともとどっちかわからないような実態だったんだから。

(A)新資本主義日本では、新自由主義万歳の人達、純粋に勝った/負けたを楽しみたい人達が作るリーグ。成功したら報酬は数千万以上だが、明日の保証はゼロ。腕一本で食っていきたい人達の社会。そこでの基本理念は「闘争」。それだけにその競争は徹底的に透明に、無慈悲で冷酷なくらいクリーンになされなければならない。スポーツのように。「神聖なリング」って感じ。

(B)新社会主義日本は、仕事はボチボチで良くて、定時に帰れて、趣味に生きていきたい「釣りバカ日誌」な人達のリーグ。基本、仕事の内容なんか何でもいい。誰でも出来る仕事を、誰でもできるようにキチッとやればそれでいい。給食当番的にやってれば、仕事に関する全ての問題は解決するという社会。

 いわゆる経済特区(orその昔に議論になったホワイトカラーエグゼンプションなど)はAをやろうということでしょう。エリアを区切って、経済リングにするという。でもそんな”全国大会”やインターハイに出れるのは一握りであって、それをやるならその他はBとして充実させないと片手落ちでしょう。とりあえず皆を「生計の苦労」から解放してあげなきゃ。「絶対に死なない」「絶対に食いっぱぐれない」という「絶対」を与えてあげなきゃ。贅沢は無理だけど。

 Aを作るのはそんなに難しくないけど、Bを作るのは難しい。少なくとも中央で統括するのは無駄が多いし、ノーメンクラトゥーラ(ソ連の労働貴族)など共産主義の弊害が出る。共産主義は究極の官僚主義だから。ゆえに組織はできるだけ小さくした方がよく、市町村レベルで出来るようにしたほうがいい。ほとんど全員顔なじみくらいの小規模の方が官僚的になりにくい。

 なお個々人がAにするかBにするかは自由意志で登録し、随時変更可能にする。
 A登録した時点で、一切の社会保障や労働法上の権利は認められない。それは年俸契約の交渉で頑張り、自腹でプライベート保険に入る。その代わり作業割り当てなど公的なうるさい指示からは一切自由になる。でもって、疲れたらBに登録換えをして、ニワトリの世話をしながら鋭気を養う。またやる気になったらAに戻る。



 まだあと10本くらい残っているんだけど、このくらいにしておきます。
 何か展開して欲しいネタがあったらメール下さい。
 「いつもこんなこと考えています」ってことで。



文責:田村



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