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今週の一枚(2014/01/13)




Essay 653:日本だけではない〜褒めてもらえなかった世代

  最近の英文記事の紹介〜その他メディア論
 (+福島原発、予防接種、Fish&Chips、マンション建築ラッシュ)  
 写真は、Glebe。これで年末年始。季節感なし。
 照り返しがキツいので目が痛くなります。



 海外に住んでいる利点の一つは、これは特に最近のことだけど、日本における日本語情報〜"No Future!"と叫んでたりするのを読んでいると気が滅入ってきたりするのだけど、その偽りのメンタルから逃れられることです。「はあ」とため息をついて、席を立てば、そこは「外国」。もう20年も住めば"外国感"はゼロですけど、でも外国。日本のことなど視界には何ひとつなく、あたかも昨日見た夢のように一秒ごとに脳裏から消えていく。とって代わるのは強烈な陽射し。そして緑と風とあらゆる民族の人々の顔。ほっとしますね。停電のように、ブチッ!と強制全断ちブレイク!が入れられるというのは、とても福音です。もう「気分転換」なんてもんじゃないよね。いきなり「アナザーワールド」なんだから。

 しかし、これと矛盾するような福音がもう一つあります。アナザー・ワールドではないのだというのを知ることです。日本で指摘され、批判され、人によっては悲憤慷慨、地に伏せては慟哭し、天を仰いでは罵詈するような出来事も、別に日本スペシャルでもなんでもなく、世界中にありふれた出来事なのだということです。別に日本だけではないのよ、と。

 こちらに来た時から常に驚かされているのは、海外というのはいかに日本と違うかという点ではなく、いかに日本と同じかであることです。日本に生まれ育って日本でしか住んだこと無かった頃は、無意識的に何から何まで日本は特殊だと思いがちだったけど、日本が特殊なのは全体の数%くらいでしかなく、90%以上は「どこも同じ」「人間だったら大体そう」であるということです。

 それは着いた初日から今日にいたるまで、なにかしら発見があります。「へえ、こっちでもそうなんだ」という。何か問題があるとしたら、それは日本だからそうなっているのではなく、人間だからそうなっていると考えた方が良いし、現在の人類のステージがそうだからと考えた方が良い。

 しかし、まあ、こんな小理屈は後からとってつけたもので、本当はネタ探しに地元の新聞やらリンクやらをたどっていて、面白そうなのをピックアップしていただけのことです。ランダムに選んだそれらを因数分解のように共通属性を括りだして「なんか言え」と言われたら、上のような御託になっただけのこと。

 ということで、いつものように現地の面白ネタを紹介します。

褒める/褒めない世代問題

Faint praise is better than none at all

Richard Glover
  Sydney Morinig Herald (January 11, 2014)

The members of Generation Y have been under attack this week, with allegations they were given too much self-esteem by their parents. Well, maybe. I'll have to get back to you on that - I'm a little busy polishing our boys' soccer trophies for the display cabinet we're planning for the lounge room.
ジェネレーションY世代は、今週、彼等の親からあまりにも甘やかされて育ってきたという批判を受けているようだ。
まあ、そうかもしれない。
この点については、「私は、今、応接間のキャビネットに飾る息子のサッカーのトロフィーを磨くのにちょっと忙しいんだ」とコメントしておこうか。

What I'm sure about is that the previous generation of parents also went over the top - just in the opposite direction. The parents of the 1950s, 1960s and 1970s always acted as if it would kill them to say something positive.
しかし、その前の世代の親達だって、ちょっと行き過ぎのところはあったのは確かだと思う。方向性は真逆なのだが。
1950年、60年、70年代生まれの子供の親達は、自分の子供になにかポジティブのことを言おうものなら、その子を殺してしまうかのように思っていたようだ。

''Hey mum, good news - I scored 99 out of a 100 in the French test.''
''Oh, what a shame. So which word did you get wrong?''
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''But I also got 99 out of 100 for mathematics''.
''I told you you should have studied harder the night before. And don't use the word 'got'; 'receive' is better.''
''Well, mum - what about this? I received 100 out of 100 in history.''
''Don't brag, darling. It's not nice.''
「ママ!聞いてよ、僕、今度のフランス語のテストで100点満点で99点を取ったんだよ!」
「あら、困った子ね。いったいどの言葉を間違えたの?」
「でも、僕は算数でも100点中99点を取ったんだよ」
「もっと前の日にちゃんと勉強しなさいって言ったでしょう?それから、"got"なんて言葉を使っちゃダメよ、ちゃんと"received"って言いなさい」
「うん、あの、これはどう?歴史では100点中100点取ったんだよ!」
「まあ、何を自慢してるの?みっともないわよ」

True, most of us survived this lack of praise - just as we survived the paedophiles, the lack of seatbelts and the daily beatings from the teachers. But amid the criticism of today's parents, could we be allowed the tiniest mocking laugh at the parents of the past?
まさにその通り。我々のほとんどは、親から褒められることなどまずありえない環境で育ってきた〜そう、我々はペドフェリアの魔の手、シートベルトの不存在、そして教師の日常的な体罰という環境でサバイブしてきたのだ。今日の親への批判も理解できるが、しかし、過去の世代の親達に対しても、ほんの僅かな嘲笑くらい許されて良いのではなかろうか。

A generation ago, any form of complaint was banned.
一世代昔には、どのような形であれ不満を述べることは一切禁じられていたのだ。

Witness the conversation between the six-year-old, who has just fallen off his bike, and his aunt: ''Auntie Bronwyn, it's terrible. I've just fallen of my bike and gashed my leg, which is now bleeding horribly.''
''Well, just think what a lucky boy you are to have a bike from which to fall.''
You'll notice: more effort placed in achieving the proper grammatical construction than in fetching a bandage to stanch the Amazon-like blood-flow.
自転車で転倒した6歳の子供が
「ブラウニーおばさん、大変だよ!自転車からコケて、大怪我しちゃったんだ。ほら、こんなに血が出てきちゃって、、」
「おやおや、転倒する自転車を持っているんだから、お前はなんてラッキーな子なんだろうね、そう思わなくちゃいけないわよ。」
ここで読者諸兄は気づくであろう。アマゾン川のように溢れ出る血を止めるために絆創膏をペタンと貼ろうとするよりも多大な努力が、適切なものの言い方を構築するために払われているのだ。

The idea that you were ''a lucky boy'' or ''a lucky girl'' was a theme that re-emerged during dinner. At the time, the evening meal involved a bowl of brussels sprouts, which had been boiled for three months, served with a lamb chop that had suffered nuclear incineration. Hence, the conversation:
貴方が「ラッキーボーイ」「ラッキーガール」であるというテーマは、夕食のテーブルにも再登場することになる。
その頃の夕食ときたら、3ヶ月も茹で続けた芽キャベツと放射能の灰にまみれたラムチョップだったりするのだが、ここで以下のような会話が行われる。

''Dad, can I leave the table?''
''No way. You haven't eaten your brussels sprouts. There are starving children in China who would kill for those brussels sprouts.''
「パパ、もう席を立ってもいい?」
「とんでもない!まだお前の芽キャベツが残っているじゃないか。いいか、中国ではこの芽キャベツを心から欲しがっている飢えた子供達だっているんだぞ」

How exactly this plate of disintegrating vegetable material, barely identifiable, was to be transported 5000 miles north remained a mystery. It was hard, also, to imagine the conversation in Sichuan province when the parcel was opened.
その皿の上にある何の野菜なのかすらほとんど判別出来ない、崩壊寸前の野菜らしき素材が、いったいどのようにして5000マイルの北方に運輸されるのかはミステリーのままである。また、四川省あたりでその荷が開封されたときにどのような会話が行われていたのか、およそ想像することは難しい。

''Honourable father, what have we been sent by our Australian friends?''
''It is four brussels sprouts, dear son - two of them cut in half and picked at by a four-year-old. They appear to have been cooked for a thousand years. We must celebrate.''
「父上。オーストラリアの友達から何が送られてきたのですか?」
「おお、我が子よ、4個の芽キャベツだよ。うち二つは4歳の子供が齧ったあとのようだが。どうも千年ほどかけて調理されているようだ。我々は感謝せねばならないよ」

The kids of boom-time Australia were lucky, but did our parents really need to rub it in that much? The children's film Pollyanna was released by Disney in May 1960, telling the story of a girl who was mistakenly given a pair of crutches for Christmas, but decided to be thrilled anyway.
好景気のオーストラリアに育った子供たちはラッキーではあるのだが、しかし、我々の親達はちょっとやり過ぎだったんではなかろうか。
1960年のディズニーの子供映画「ポリアンナ」では、間違って松葉杖をプレゼントされてしまった少女が、それでも頑張って喜ぼうとしている話が出てくる。

Her reason? The pair of useless crutches, leaning against the wall in her bedroom, would serve as a daily reminder that she didn't need crutches. Hooray! Who needs a doll!
どうやって喜ぶかって?壁に立てかけられた、使うあてもない松葉杖、しかしそれは、自分が松葉杖を使わなくても良い健康に恵まれているのだということを日々教えてくれるのだ。おお、なんて素晴らしい!誰がお人形さんなんか欲しがるものか。

Pollyanna's ''glad game'' was all very well, but it did leave a whole generation of children uncertain whether, come Christmas time, they should ask for a Scalextric slot-car set - or if they would be better off with a polio brace, a hearing aid and some hernia supports. Where's the fun in a racing-car track when you could be celebrating the absence of an inguinal hernia?
ポリアンナの「何でも喜ぼうとするゲーム」は、確かによく出来ているのだけど、その世代の子供達すべてを困惑させもしたのだ。いったい今度のクリスマスで、僕らはレーシングカーセットを望めばいいのか、それともポリオ・ブレイス(歩行用装着器具)や補聴器やヘルニア用の介護器具を望めばいいのか?鼡径ヘルニアに苦しんでいないことを祝う喜びに浸ることに比べて、レーシングカーの愉しみとはいったい何なのだろうか?

It's true that optimism and modesty, as demanded by the parents of the post-war era, are fine qualities. And it's true that we, the parents of today, may have overdone the praise. We have viewed entirely shapeless pottery bowls and adjudged them ''fantastic''. We have held up artwork that, frankly, a dog could achieve with some well-placed slobber, and given the verdict ''genius''. And we have seen our child kick a soccer ball into his own team's goal and yelled, ''Hurrah, good shot''.
楽天性と謙虚さ、戦後の親世代によって求められたこれらの美徳は、もちろんそれなりの良さを持っている。
そして、我々、つまり現代の親世代は、いささか子供達を褒めそやかし過ぎている、という指摘は正しいだろう。
斬新さのカケラもないもっさりした陶芸の器を見て、「ファンタスティック!」と叫んでいるのが我々である。
また、なにかの作品、率直にいって犬が上手にヨダレを垂らしているような愚にもつかないようなものなのだが、それを「天才だ!」と激賞する。
そして、我が子がサッカーの試合でオウンゴール(自殺点)をするをみて、「ナイスシュート!」と絶叫するのだ。

But was the opposite policy as brilliant as now claimed?
しかしながら、真逆にすれば良いってものなのだろうか?

I imagine Einstein emerging from his bedroom: ''Mother, good news, I have just unified space and time in one theory. I'm calling it my special theory of relativity.''
''Albert, Albert, don't get too big for your boots. No one likes a bragger. If the theory is so special, you should let other people say so.''
想像してみよう、寝室から出てきたアインシュタインを。
「ママ!やったよ!空間と時間を一つの理論に収めることに成功したんだ!相対性理論と呼ぼうと思うんだ」
「アルバート、アルバートや。そんな身の丈の余るような大口を言うものじゃないのよ。自慢する人を好きな人はいないのよ。もしお前の理論がそんなにスペシャルだったら、あなたがそう言うのではなく、他の人にそう言ってもらえるようになりなさい」

Or Sir Edmund Hillary, back from Mount Everest: ''I made it, Dad.''
''Well, that's good son, but that's no reason to trample snow into the living room.''
あるいは、エドモンド・ヒラリー卿がエベレスト(初登頂)から戻ってきて、
「パパ、僕はやったよ!」
「そうかい、それは良かったね。でも、だからといって応接室に靴の雪を撒き散らすのは感心しないな。」

I guess both generations of parents just did what they saw as right. Maybe Pollyanna was right: we all need to play the glad game.
思うに、どちらの世代の親達も、その時点で正しいと思ったことをやっているのだろう。
ポリアンナは正しかったのかもしれない。
私達はみな、「何にでも喜ぶゲーム(glad game)」をやらなければならないのだから。

コメント

 この人の文章は面白いですね〜。マイク・カールトン氏の文章もそうだけど、文章を書くにあたって参考になります。ユーモラスな文章というのは、切り込み口が斬新でトリッキーなだけに英文読解でも苦労させられるのですが、昔よりは多少は読めるようになって、個人的にはそれがちょびっと嬉しい。ま、でも、まだまだです。英語習得、てか何事も一芸をマスターするには30年かかると言いますから、僕もあと10年は頑張らんと。いや、むしろ、あと10年ぽっちで何とかなるのか?って不安の方が強いけど。

ユーモアの効用
 この評論で書かれている内容は、実は非常にシビアな事柄だと思います。教育であるとか、自我の形成過程であるとか、最近の意味のない全能感であるとか、モンペア的現象であるか、深刻に書こうと思えば幾らでも書けるし、「なげかわしい」と憤懣やる方なし的に書くのはもっと簡単。さらに「〇〇が悪い」と犯人探しや名指し非難をするのはさらに簡単です。でもって、一般原理として僕が思うに、イージーなものほど誤謬率も不毛率も高い。

 この世の現象のほとんど全てがそうなんだろうけど、夫婦喧嘩みたいなもので「どっちもどっち」なんだろう。どちらにもそれなりに言い分があり、正義があり、それを裏付ける事実がある。そして鏡面のように全く真逆にもなりうる。ゆえに、その昔の哲人は、孔子さんも、同じ頃に生まれたお釈迦さん(諸説あるが一番近い説で孔子よりも15歳お兄さん)も、「中庸が大事」「バランスが大事」と言っておられるのでありましょう。

 二つ(以上)の相対立する価値観の拮抗バランスをいかに取るか。まあ、それだけのことなんだけど、それが難しい。また、そういう主張はメチャクチャ正しいんだけど、穏健すぎてインパクトに欠ける。刺激インフレというか、センセーショナリズムに慣れた僕らにはぬるく響く。そこで、一方の価値観を延長していくと、こんなになっちゃいますよ〜という爆笑事例をこれでもかと羅列することで、その可笑しさを知らないうちに納得させるという高度な技としてのユーモアがあります。

 ユーモアや笑いの要素というのは、ときとしてインテリぶったスノッブな作法と受け取られがちだけど、でも大事だと思います。なぜかというと、人間というのは(おそらくは脳生理の構造上そうなるのだと思うが)、一つのことに集中しているとキューっと視野が狭窄してきて、トリップしてきて、すごい幻想ワールドに住んでしまうと思うのですよ。簡単な例で言えば、夜中に思いつめて書いたラブレターなんかがそうで、そのときは超盛り上がって、ああもう俺はこの世界で死ぬんだみたいにトリップしているんだけど、一夜明けて脳が冷却してから読み直すと「なんだ、こりゃあ」とゴミ箱行きですよね。だから「一晩寝かす」のは大事です。それと同じ効用を笑いは持っています。一発笑った時点で、キューッとなった思考は、一気にふーっと弛緩し、視野が広がる。「ま、考えてみれば、そんな大したことでもないわな」という冷静な判断もできるようになる。そうなるとバランスも取りやすくなるし、歩み寄りもしやすくなる。議論にせよ、交渉にせよ、それがシリアスであればあるほど笑いの要素を入れていくのは、実戦的なビジネスなどのコツにもなると思います。異性を口説くときにも使えるよ(^^)。逆に交渉を決裂させたかったり、ぶっ壊したかったらシリアス一辺倒にいくといいです。

過保護とGlad game
 このグラバー氏のコラムの冒頭で「今週はGenYが非難されている」と書かれているのは、多分、Pressure grows for tougher sentencesという記事について寄せられた投書の意見(Gen Y's selfishness, narcissism main reason for viciousness)についてだと思います。

 「最近の親は甘い」「しつけがなっとらん」、過保護に甘やかされて育つから"spoiled brat"になるというのは、昔から言われていますが、西欧でもそうだし、ここ数十年でも同じです。日本だけではない。結果としてどうなるかというと、社会に出た時に現象としては「打たれ弱い」「ひきこもってしまう」というメンタルの脆弱性の文脈で言われる場合が多い。

 で、興味深いことに、ここがオーストラリアで違うように見えているところで、過保護であるがゆえに自己中的になり、ナルシシズムに浸りやすく、逆に批判されると凄く傷つくまでは同じなんだけど、オーストラリアの場合はここで「暴力的になる」のですね(本当に社会的事実としてそうなのかは知らんけど、そういう意見はある)。あくまでも肉食であって、草食ではないのね。日本でもネットでの中傷罵倒など他者への攻撃性は言われるけどそれはヴァーチャルな世界であって、そのへんの飲み屋で暴れまくっているわけではない。オーストラリアでは暴れている。そこが違う。

 僕の私見によれば、過保護による悪影響は何も生育期間に限ったことではなく、大人になったあとでも微温的な環境にいれば、エゴが肥大化し、精神の自己規律が緩むことに変わりはないと思います。だからこれは世代論ではなく時代論であって、あんま年齢に関係ないんじゃないかと。

 それはさておき、グラバー氏のコラムで「なるほどね」と思ったのは、確かに僕の世代(60年代生まれでグラバー氏と似たような世代)は、親からそんなに褒められたことは無い。絶無ではないけど少ない。冗談めかして書かれている親子の問答も、それほど宇宙の彼方にぶっ飛んでいくほどのトンデモ感はなく、むしろファミリア(親和性がある)なものです。教師の体罰なんか普通にあったし(オーストラリアでもそうだったのね)、なんせ親が戦争世代だからあの頃に比べてしまえば、何でも「ラッキー」なわけです。

 で、それが不幸だったか、イヤだったか、それで人格歪んだか?といえば、あんまりそんな実感ないです。そりゃ口を開けば誰からも「お前みたいな馬鹿は」と言われるわけですが、それがそんなにイヤなわけでもない。誰もが等しく否定されているから、別にそんなに違和感がない。そもそも自分は馬鹿だという結論にさして異論も覚えなかったし、今でもそうですよね。「俺、馬鹿だからさあ」って全ての出発点がそこ。それは身の丈に合わない絢爛豪華な衣装を着せられて、「お前は大切なんだよ」と言われて育つ環境よりも、むしろ心地良いのかもしれない。ボロ着なんだけど、フィット感があるというか。背伸びしなくていいから楽だというか。

 このように「心地よく自我が否定される環境」で育ったとしても、それでも多少は自分を立たせるための自尊心は必要です。でも誰も言ってくれないから自分で思うしかない。必然的にポジティブに考えるようになるし、ボジティブに考えるのが上手にもなる。コラムに出てくる松葉杖の"Glad game"は、わかりますわ。ダメダメ環境でそれでも前を向こうと思うなら、自分で工夫するしかない。ダメであることは単なる出発点でしかないのだから、それはマラソンのスタート地点に立って「まだ1メートルも進んでいない」と嘆き悲しむくらいアホらしいことであり、だったら進めばいいじゃん、ダメだからこそ頑張るんじゃんって自然と考えが進んでいく。

 自分だけではなく全員がそうなのだから、それは「人間なんてさ」という発想につながる。そんなに御大層なもんじゃないだろ、いい加減で、アホアホで、だから愛しい生き物なんだろって世界観にも繋がる。そこには「俺もお前もみんな馬鹿、まあ馬鹿同士仲良くやろうぜ」ってスコーンと突き抜けた明るさがありました。まあ、皆がそうだったわけではないのだろうけど、僕と僕の周囲の連中はそうだったと思うけどな。

 逆にいえば、あんまり「落ち込む」という精神状態がなかったというか、落ち込ないというか。なんせ立ってる地面がゼロメートルだから、これ以上下に落ちようがないのですね。そもそも「落ち込む」という日本語が頻繁に使われるようになったのは、僕の記憶では大学に入ってからくらいかな(80年代以降)。「暗い精神状態」というのは、せいぜい「ノイローゼ」くらいで、そんなに問題だとすら思われてなかったという。これ以上落ちるとしたらもう「人間やめる」くらいの卑劣な犯罪行為くらいしかない。勉強が出来なくても体育がダメでもだからダメとはあんまり思わなかった。てか、「ダメ」の定義が違ったんだろうな。人格否定に繋がるようなシリアスな「ダメ」というのは、今立っている地点がどこかという問題ではなく、どれだけ前に進めるのか、進もうとしているかどうかです。

 このコラム読んでて思ったのは、ああ、確かにそういう(Glad game的な)発想は自分の中にあるなあって。日本経済が破綻して、国民全員ホームレスになったとしても、それだけのことだろ?ってあっけらかんと思ってたりもします。食うや食わずの貧乏であることそれ自体、その地点自体は別にダメだとは思わない。どこの地点にいるかなんてのは、本質的に問題にならない。どうせ馬鹿なんだから(笑)大した地点にはいないんだろうし、人間なんてどの地点にいてもそれに不満を覚えたりするんだから。だから、問題は常に現在地点からどう進むか、どういう喜びを引き出すかだろ?って。何かのスポーツ、例えば野球に興じるにしても、第一グランドでやるなら良くて、第二グランドだったら良くないとかそんなことはないだろう。どこであれ、要は楽しく投げたり、打ったりできたらそれで良いし、それだけだろ?と。

 で、世代論でいえば、そういうダメ=普通という状況に育った世代は、自分でイイトコロを発掘して鼓舞していく技術に否応なしに長けているのでしょう。だからそれは他人にも発揮されて、子供にも「すごいぞ」って言ってしまうんじゃなかろか。他人のいいところを見つけるのは上手。でも、同時に「いま現在地はココです」というGPS感覚とそれをズバリというのは遠慮会釈ないかも。なんせ、貧乏であろうが、落ちこぼれであろうが、別にそれがダメだとは全然思ってないのだから、平気でズバズバ言っちゃうでしょう。

 ここは同じ世代でも人によって違うんだけど、僕個人の中には、ちょっと意識的に小学校の頃の価値観を敢えて変えてないようにしている部分があります。多分、B型気質で他人と比べるという視点をごそっと欠落している性質があるのに加えて、受験生活と合格を経て、留年生の社会的落伍者→エリートの先生という「現在地点の相対性と虚しさ」というのを自分で体感しているからだと思います。アテになんねーよな、かんけーねーよなって。

 おそらくは70年代頃から日本では「地点」にこだわるようになったのかもしれない。地点を守ろうという保守的な感覚といおうか。どこで行ったらどうとか、堅牢にレンガを積み上げるような発想。しかし、それって「万物は流れ、移り変わる」「全ては虚しい」という日本古来の世界観(無常感)ではないと思いますけどね。あの頃から日本人は、ガラにもなく日本人らしからぬ方向に進んでしまい、それが故に現在に至るまでなんか釈然としない感を抱き続けているのではないかって気もします。桜は、その盛りに惜しげも無くパッと散るからこそ美しく、それが故に古来から愛されてきたのではなかったのかしら。


 はい、じゃあ次の論考。今度は硬派です。
 もう英語を読むのも疲れただろうから原文はタックしておきます。

メディア論

Is the media now just another word for control?

John Pilger posted Friday, 10 January 2014
On Line Opinion-Australia's e-Journal of social and Political Debate

→原文(英文)を表示させる

最近、イギリスで、2003年のイラク侵攻で何人のイラク人が死亡したか?という点についての世論調査が行われた。その回答は衝撃的であった。大多数の人々が「1万人以下」と答えたのだ。学術的な調査レポートによると、イギリス政府とワシントン政府によって灯された業火によって死亡したイラクの男性、女性、そして子供たちの総数は100万人である。この数字は、ルワンダの大虐殺と同じである。そして情け容赦もなくまだ続いている。この調査が明らかにしたもの、それは、事物はまっすぐに記録すべき職責を担う人々によって、イギリスに住む我々がいかにミスリードされているか、ということだ。

アメリカのライターであり学者でもあるエドワード・ヘルマン氏は、この現象を「考えられないような事実を普通にしてしまうこと」だと指摘した。彼によると、世界のニュースには二つのタイプの犠牲者がいる。「価値ある犠牲者」「価値のない犠牲者」だ。価値ある犠牲者は、我々西欧社会の敵、それはアサド、カダフィ、サダム・フセインなどの圧政の犠牲者達である。「価値ある犠牲者」は、我々が呼ぶところの「人道的仲裁」の名によって認定される。「価値なき犠牲者」は、我々の懲罰的な力に都合が良く、我々によって雇われた「良き独裁者」の圧政に苦しむ人々だ。フセインは、初期においては「よき独裁者」であったが、彼が増長し我々に不服従になるや、「悪しき独裁者」として認定された。

インドネシアでは、スハルト将軍は「良き独裁者」であった。たとえ彼が英米の助力を得て、おそらくは100万の人々を虐殺しようとも。彼は、東ティモールの3分の1にあたる住民たちを、イギリスの戦闘機とイギリスのマシンガンによって殺している。それでもスハルトはイギリス女王の招きによってロンドンを訪問してさえいる。そして彼がベッドの中で安らかな死についたとき、啓蒙的で現代的な我々の仲間として称賛された。なぜなら彼は、サダム・フセインのように生意気なことはしなかったからだ。

私が1990年代にイラクを訪れた時、イスラム教にはシーア派とスンニ派の二つの教義集団があったが、軒を並べて普通に暮らしており、相互で結婚も行われたし、同じイラク人としてのプライドを共有してさえいた。そこにはアルカイダもなく、ジハド戦士もいなかった。それを我々の「ショックと恐怖」は粉々に打ち砕いた。今日において、スンニ派とシーア派は中東全域でいがみ合っている。断首による大量虐殺と女性への差別はサウジアラビア王朝の財政支援のもとになされている。911のハイジャッカーのほとんどはサウジアラビア出身者である。2010年のウィキリークスは、ヒラリー・クリントン国務長官からアメリカ大使館に送られた連絡のなかで「サウジアラビアは、今なお、アルカイダ、タリバン、アル・ナーサその他世界のテロ組織への中核的な資金援助国である」と書いていることを明らかにしている。しかし、それでも尚、サウジアラビアは我々の大切な仲間なのだ。彼等は良き独裁者である。イギリス王室ですらサウジを訪問している。我々は彼らが望むまま武器を売りわたしている。

ニュースキャスターやコメンテーターが「我々(we)」「我々の(our)」と第一人称で呼ぶときには、我々の政府内における犯罪的な権力集団と一般大衆である我々とを特に区別しようとはしない。我々は全て同じコンセンサスのもとに一括りにされているのだ。それがトーリーであろうがレイバーであろうが、オバマ政府であろうが。

ネルソン・マンデラが死去した際、BBCはデビットキャメロン(イギリス首相)のもとに直行し、そしてオバマに向かった。キャメロンはマンデラの獄中生活25年目に南アフリカを訪れているが、それはアパルトヘイト制を支持するのと同じ意味を持っていたし、直近でローベン島(マンデラが収監されていた監獄)でオバマは涙を拭ってはいるものの、彼はなお、ローベン島に等しいグアンタナモ監獄を支配している。

彼等はマンデラの何について哀悼の意を捧げているのだろうか?英米の支援による長期の圧政に反抗するマンデラの超人的な意思に対して、では明らかにないだろう。それは、不当な白人政治や経済力に対し新興ブラックアフリカのパワーを沈静化し調和点を模索する中軸的な役割をマンデラが行っていたという点にあるのだ。それこそ(黒人層をなだめるという点)が、マンデラが釈放された主たる理由なのだ。現在においては、情け容赦のない経済パワーが南アフリカに新しいアパルトヘイトをもたらしている。南アフリカは世界で最も貧富の格差の激しい国なのだ。これを人々は「和解」と呼んでいる。

我々はみな情報時代に生きている。我々は、スマートフォンを、あたかもロザリオのビーズのように優しく撫で、頭を垂れ、チェックし、モニターし、ツィートする。我々はネットでつながっており、メッセージの海の中にある。そしてそこでのメインテーマは「我々自身」である。アイデンティティこそがツァイトガイスト(時代精神)なのだ。

既に一世代前、アルドス・ハクスレーは「Brave New World」においてこのことを究極の社会統制手段として予見していた。なぜなら、それは自発的に行われるものであり、中毒性があり、個人の自由という幻想によって覆い隠されているからだ。おそらく本当のところは、我々が生きているのは「情報時代」ではなく「メディア時代」であろう。マンデラの記憶や業績のように、メディアの驚くべき技術はハイジャックされている。それはBBCからCNN、そのエコー・チェンバー(反響室)は途方もなく広い。

ハロルド・ピンター氏は2005年のノーベル文学賞を受賞する際、「世界レベルでのパワーによる支配統制、それは国際的な善意、知的で聡明との仮面をかぶり、高度な成功を収めた催眠行為である」と述べた。「しかし」とピンター氏は続ける。「国際的な善意や聡明さなど無いのだ。過去にも無かった。仮にそれがあったとしても無視される。パワーにとってはそんなことはどうでもよいのだ。興味すらないのだ」。

ピンター氏は、合衆国による組織的な犯罪行為、宣言すらしないでなされている抑圧と検閲行為について言及している。それら情報操作は、我々がこの世界の本当の姿を知るための重要な情報を排除している、と。

今日、自由な民主主義は、国家株式会社に人々が奉仕すべきシステムに置換されており、本来あるべき姿にはなっていない。イギリスにおける議会政党は、同じドクトリン(教義)に仕えて、富者に対しては配慮をし、貧者には対決姿勢をとっている。

真の民主主義の否定は、歴史の改変でもある。だからこそ、エドワード・スノーデン、チェルシー・マニング、ジュリアン・アサンジらの勇気は、強大で不透明なパワーに対する脅威になりうるのだ。そしてそれは、事実をストレートに記述する職責を負う我々への実地教育にもなる。偉大なレポーターであるクラウド・コックバーンはこのことを的確に表現している。「公式に否定されるまで、何も信じてはいけない」。

想像して欲しい。もし、彼らが密かにイラク戦争を準備しているときに、政府の吐く嘘が適切に批判され、暴かれていたとしたら。もしかしたら100万人の人々は、今日も生きているのかもしれないのだ。


このスクリプトは、2014年1月2日に放送されたBBC第四チャンネルの「Today」の特別番組でジョン・ピルガー氏のパートを、アーティストでありミュージシャンでもあるP.J.ハーベイ氏が起こして編集したものである。

コメント

 言い出すと長くなるから簡単に。
 これも要するに「日本だけではないよ」ってことですね。
 日本のメディアも「マスゴミ」とか言われているけど、そんなのは日本だけではない。英米においてもそうだし、ある意味では、日本よりも高度で悪質だったりもするのでしょう。

 ただ、救いはこうやってキチンと批判が出てくることで、それも功成り名遂げた大ジャーナリストから出てくる。またそれがBBCという権威的なメディアから出てくることです。前回のメディアウォッチでもそうでしたが、このJohn Pilger氏もWiki(英語版。日本語版はない)によれば、まずは輝かしいと言って良いくらいの活動歴があります。それだけに、またこれだけ世界の中枢に噛み付いていたら当然ながら賛否両論はあります。

 しかしその種の賛否両論は歓迎するところで、誰かが100%正しく誰かが0%なんてことはない。「こうも言える」「こういう事実もある」という相矛盾する事実や情報は、出してもらえれば出して貰うほどよい。証拠資料は多いほど良い。もっともそうなると、話はいきおい複雜を極め、「もう、何がなんだか」になって頭が爆発するのですが、それで良いと僕は思います。

 このイラク戦争の犠牲者100万人説も、コメント欄から、おそらく出処はLancet surveys of Iraq War casualtiesだろうという指摘がありましたが、この研究報告自体、多くの批判があるようです。しかし、それで良いと思います。なぜなら、ドンパチやってる中での犠牲者の数勘定なんか、正確にできるわけがないからです。直接爆弾にあたって死にました、遺体も残っていて収容されましたというわかりやすいものから、社会混乱によって栄養失調になってどっかの村の赤ん坊が死にましたという間接の間接の被害まであるわけです。そりゃ直接確認出来るものに限るというのは、数値の明瞭性は増すかもしれないけど、やられた方、例えばその赤ん坊の母親にしてみれば、そんな数字には納得出来ないでしょう。どこで線を引くかだけど、どういう線をひけば正しいという基準もないし、そもそも線を引くという行為自体が正しいのか?という議論もある。

 だから議論はグッチャグチャになるのだけど、それで良いと思います。こればっかだけど。別に明瞭に回答がでることが良いのではなく、「あそこで何が起きたのか」という実相を少しでも肉薄するところに意味があるのですから。その議論の深まりの中で、例えば、○年○月○日の○地方の○村には米軍の○部隊の○人が赴いて、当時に村には○人いて、、という個別の検証をしていくなかでデテールが浮き上がっていく。

 また、一方では、じゃあフセインがあのまま独裁して方が良かったのか、フセイン圧政による被害はどれだけあったのか、100%侵略というのも偏った見方ではないかという見解もアリでしょう。そんなこと言ったら、フセイン経由で死ぬか、アメリカ経由で死ぬかの違いで、犠牲者はどっちにせよ浮かばれないという救いのない見解もでてくるでしょう。片や第三世界に極悪な独裁者がいて、片や先進国には犯罪的な権力&利権集団がいて、、、って、要するに悪党しか出てこないじゃないかという。そこで、いや、それは悪とか善とかいう割り切りが間違っているのであって、全ては人間の「業」なのだよという「悟り」も出てきたりする。でも、悟ったところで誰が救われるというのだ?という話になって、またくんずほぐれずのバトルロイヤルになる。

 思うに、そういった混沌スープみたいな中から、それぞれの個人はそれぞれの価値観をもとに一つの見解を出していくしかない。待ってれば誰かが正解を教えてくれるなんてことは、無い。それだけは絶対に無い。なぜなら正解の「正」というのが価値判断の結果であり、価値判断とは究極的には「好き嫌い」なのだから、他人に自分の好き嫌いを「教えてもらう」なんてことはありえない。だから結論は各自が勝手に出せばいいことです。そんな他人の心配なんかしなくても良く、まずは自分はどう思うかであり、それだけです。その個々人の判断の集積が民主主義ってやつでしょう。そして、そのためには混沌スープはちゃんと混沌としていないとならない。あらゆる視点や情報、事実、主張がグツグツ煮こまれているほど、良い。それで良いというのはそういう意味です。

Further Study

 かなり長くなりましたが、まだあるんだわ。でも、これは宿題にしておきましょう。
 今回書くために、英文記事をざーっと、2−30程読み飛ばして、面白いなあ、紹介してもいいなと思えたものが沢山あるので、リンクだけ貼っておきます。

The Next Wave(ABC Forign Correspondent 2013年11月05日放送)
 福島原発に関するオーストラリアの最近の特集番組です。最近では海外でどう報道されているのかな?という興味から探しだしたものですが、これが28分もあるビデオで、長さだけではなく内容的にもかなり見応えがあります。

 もちろん全部英語ですが、全文のスクリプトが掲載されているので、辞書を片手に読めばわかります。また、取材した日本人の方々が日本語でインタビューで答えている部分が多いので、そんなに違和感なく見られると思います。

 日本でどういう放送がなされているのか全然知らないので比較するすべもないですが、個人的には新鮮でした。立ち入り禁止区域に入っていく映像とか、娘の亡骸を探しに来てしまう父親、8代続いた福島の農家を継いだ方、特に前途をはかなんで首をつって死んだお父さんを発見してロープを外して、、という生々しい話を述べている部分、また“The consumers assume there is no radiation in the food they buy. What do you say about this? We farmers know better. We feel guilty about growing it and selling it. We won’t eat it ourselves, but we sell it”(消費者の方は安全だということで買って食べている。私達はどう言えばいいんですか。農家は知ってますよ。それを育てて売っていることに罪の意識を感じているんです。だって自分では食べないものを売っているんだから)とか。また、「心配しすぎてはいけない」という反対論として、全然関係ないロンドン大学の教授の話(イギリスでの放射能を研究している)が出てきたり。

 あと、なんで海外のメディアがいいのかというと、別に質的に優れているとかいう次元ではなく、日本の政府や原発村とから「利害関係がないから」です。これがネットの良いところで、どっかの国の話を調べるときに「当事者の言い分」も勿論きくけど、全く利害関係のない第三者の視点もチェックできる。ボクシングや柔道の三人の審判で、出身国を散らして公正を期するようなものです。で、利害関係がないから率直に言うし、この番組に限らず全体の印象として、日本政府やテプコ(東電、TEPCO)に関して、"incompetence"(無能)、"cover-up"(隠蔽)、"lie"(嘘)なんてキツいフレーズがボンボン使われていたりして。

Fukushima leak questions handling of nuclear plant crisis (ABC 7:30 Reprot 2013年09月19日放映)
 これも福島原発ニュースで、汚染水流出問題を取り上げています。これは軽めのニュース特番で7分弱です。スクリプトもあります。

 汚染水のタンクで汚染水漏れの騒ぎがありましたが、当時900個あったタンクをチェックする係は一回に2人だけだから、漏れを発見するまで1ヶ月放置されていたこと、海水を入れているのに、鉄製の素材とゴムだから早晩錆びたりすることが予見できたこと。また漏れの有無を容易に発見するために容量を示すゲージをつけるのが普通だけど、つけていないのがミステリーだとか、東電にこれまでの監視記録は付けているのかと聞くと「無い」というにべもない返事であるとか、、個々の事実がどうとかいうよりも、このレベルの細かさでオーストラリアのプライムタイムで放映されているということです。こっちの人は結構ニュースとか詳しいから、このレベルで「キミはどう思うの?」と聞かれることもあるでしょう。

Fast food chain Yoshinoya to grow rice and vegetables in Fukushima
 これは牛丼の吉野家が福島で独自の農場を作るというニュースですが、この程度のニュースでもこちらでは報道されているという一例として。

US FDA Import Alert 99-33
 これはアメリカの厚生省みたいなところ(Food and Drug Admministration)の行政通達のページですが、放射能の影響で日本から禁輸措置をしている品目が増えたというものです。2013年09月09日通達。過去の規制の経過やら禁止リストが続いて分かりにくいのですが、要はこれまでの禁輸生産地8県だったのを14県に増やすということです。内容をみると、山梨県や静岡県まで入っている。禁止食材も、当たり前なんだろうだけどめちゃくちゃ細かいし、知らない食材もある。”Koshiabura"って何?

 だからなんだ?というと、事故から月日がたつにつれて風化しているのではなく、むしろ注目度や危険視度が高まっているんじゃないかということです。論点は原発ゼロ云々ではなく、それよりも現状の汚染の増大と蓄積。早い話が「どうでもええから、はよ何とかせんかい!」という。個人的な皮膚感覚だから客観性には欠けるのだけど、か〜なりイライラしていて、キレかかってるような気もします。だから今どういう対策をどのようにやっているのか?に関心が向いていて、先週なされた人為的にメルトダウンを起こすという実験研究のニュースも世界中で報道されている("fukushima recreate meltdown"でGoogle検索してみるとドワワと出てくる)。

Fish and Chips What's Really In Our Food (SMH.TV)
 食材関係の話のついでに、オーストラリア・NZでの食の安全性に関する特番です。NZの番組みたいですね。こっちの番組のロック調でスピード感のある部分がちょっと違ってて面白いと思います。内容は真面目で、輸入している魚(BASAという名前の魚)を調べてベトナムの養殖ファームまで訪れて、メコン川の水質やら抗生物質は入れているのかとか聞いてたりします。

 あとはこっちの魚ブームであるとか、フィッシュ&チップスのあれこれとか、エンタメ番組として普通に面白いです。


Vaccine objectors rise as parents skirt 'no jab, no play' law (SMH 2014年01月10日)
 これはたまたま「今日の新聞」から見つけたもので、オーストラリアの予防接種拒否事情です。拒否する人は220万人中3万6320人だから1%ちょいでしかないのだけど、1999年が0.23%だったから伸び率でいえば5倍。予防接種を拒否することを"Conscientious objection”といい、接種をしてないとチャイルドケアには入れてくれないけど、この拒否を登録すれば良いことになってます(children who have not been vaccinated cannot be enrolled in a childcare centre unless their parents lodge documents claiming they object on philosophical or moral grounds or giving medical reasons for their failure to immunise).


Housing: public interest tuned out in city-surburb battle(SMH 2014年01月11日)
 最近、シドニーではやたらマンション建設ブームです。そこかしこにクレーンが林立して、「ちょっと多すぎだろ?」という感じでいたら、やはり激しい住民からの抗議を受けているというニュースです。でも、マンション派も増えていて(特に若い世代や移民は利便性を求めるし)、そのあたりのオーストラリアのトラディショナルな生活様式の変遷と葛藤があって面白いです。アーバン VS サバーバンという。

 人口減少の日本とは違って、こちらにいる僕個人の実感としては、とにかく人が増えて困ってますってのが正直なところです。減っても困るけど、増えても困る。おかげで住宅価格はとっくの昔に"out of reach"ですよね。ウチの近所でも珍しくマンション作ってて、いくらなんかなと思ったら、分譲価格で8000万円だもんね。どってことない2-3LDKでですよ。ま、さっきの話じゃないけど、人間というのはどんな地点におっても、それなりに不満は持つものだと。

 以上です。お疲れ様でした。


文責:田村



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