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今週の一枚(2013/12/23)




Essay 650:カタストロフィの効用

すべてを失うから、すべてが得られる
 写真は、路地裏的アートのNewtown。美味しいスイカケーキのあるBlackStarというお店のあるAustralia Stです。

 この張り紙をみているうちに”thisoz.com.au"というのを見つけたのでアクセスしてみました。ゲイその他に対する偏見差別をなくそうというキャンペーンの一環として、皆が自分のメッセージを書いた写真をアップするサイトですが、こう書いてしまうと堅苦しくて「ちょっと違う」感じがします。「人権」「差別」とかいう単語の字面が悪いんだと思いますが、言ってる内容は「色々な人がいたほうが面白いじゃん、楽しいじゃん」という融通無碍でカラフルで豊かなものです。教科書的な堅い感じはゼロ。

 ここで、日本は明治や戦後以降の上からの民主主義で、下から自然発生的に盛り上がったことがないので感覚的に通じない、根付いていないという説がでてきそうなんですけど、そんなことないと思うぞ。そんなの言われる前から体現していたと思う。例えば同性愛に対する禁忌意識は昔からないし(武士道の教科書の「葉隠」にもその種のマニュアルがあったというし)、最近の男の娘ブームも自然だし、そもそも歌舞伎の女形(玉三郎とか)は、全然差別もされてなければ、馬鹿にされてもいない。むしろ尊敬されている。ゲイではないけど芸であると。ああいったカラフルで、無茶苦茶にはっちゃけた感じが本当の日本人の豊かさだと僕は思います。だからこのサイトを見てても、すっと入っていけます。

 でもって、皆が自分のメッセージを書いて写真に写ってるんですけど、見入ってしまいます。「いやあ、いいこと言うわ」って感じで、西欧圏でいわれる「自己主張というのはこういうもの」といういい例です。肩肘はらず、大上段に構えず、「僕はこう思うよ」って、それでいて絶妙なプレゼンになっているという。

"My heart is too "BIG" to be restricted by you small mind"(私のハートはとっても大きいから、あなたの小さな心(=アンチゲイとか心の狭い人達の考え)では押さえきれないわよ)
"All Love is Good Love"、あと"All Love is Good Live"ってのもありました。
"Gender is between the eyes, not the between thighs"(性別というのは(見つめ合う)目と目の間にあるもので、腿と腿の間のことではないのだよ)
"The more colours the better, Rock the Rainbow"(たくさんの色があればあるほど素敵、まるで虹のように)。この"rock the rainbow"は「ロック」という言葉の日本語訳が不可能なんだけど、カッコいいです。よく思いつくなこんなフレーズ。音楽のロックと同じコンセプトの単語なんだけど、「レインボーのように素敵にはじけようぜ」みたいなニュアンスを、もう二段階くらいクールに表現した感じ。それに見合うだけのカッコいい邦訳が浮かばない。
”Judging a person doesn't define who they are, it defines who you are"「いくら他人を決めつけてレッテルを貼ったところで、その人達がどういう人達なのかが明らかになるわけではない。それは(そういう決めつけをする)あなたがどんな人間であるかが明らかになるだけだ)。
 きりがないのでこのくらいで、あとは見てください。面白いですよ。



 今から数年以内に、

 ・離婚・死別・一家離散
 ・破産・ホームレス
 ・逮捕・勾留、刑務所
 ・長期入院・後遺障害

 ↑これらのうちから最低一つは経験しないとならないとなったら、どれがいいですか?

 「どれも絶対イヤ!!そんなことありえない!」って扇風機のように首をブンブン振りたくって断固拒否!って人もいるかもしれないけど(普通そうだろうが)、しかし、どれも別にそんなに珍しい出来事ではないです。もし誰もこういう事態にならないのであれば、病院も刑務所も警察も(家庭)裁判所も要らない。そして現実は「要らない」どころか日本全国津々浦々にこれらの施設はあり、今日も膨大な人々がそこで働いている。

 繰り返しますが、全然珍しいことではないです。「よくある話」と言ってすら良い。
 「よくある話」である以上、それがあなたの人生におきても、僕も人生に発生しても、なんの不思議もない。

 「もうすぐ年明けだというのに、なんちゅー縁起でもないことを書くんだ?」ってお叱りをうけるかもしれません。すいませんね。でも、「縁起でもない」と忌み嫌うほどの超絶的にレア凶悪な出来事ではないと思います。本当に「縁起でもない」のは「(自分の)死」でしょう。死んでしまったら何もかもおしまいです。頑張ってリカバーするとか、何かで代替するとか、そういう手段は100%ありえない。

 それに比べれば、上記のあれこれは、そりゃ人生史において大きなクライマックスになるでしょうし、起承転結の「転」にはなるでしょうけど、別に死ぬわけではない。生きてさえいるのであれば、なんぼでもやりようはある。

 さらに進んで、のけぞるようなことをサラリと言ってしまえば、「一回くらい経験しておくといいよ」と。

 なぜなら、それからが本当の始まりだからです。
 そのあたりのことをちょい書きます。

カタストロフィの効用

回復過程における癒やしと救い

 僕も昔は、あなたと同じく、これらのカタストロフィ(大破局)というか「災いごと」を、ほとんど死に等しい「準・死」、あるいは場合によっては「死んだほうがマシ」くらいに忌み嫌っておりました。「考えたくない!」と。飛行機が落ちるということは理屈ではわかっているけど、自分が飛行機に乗ってる時ぐらいは、そういうことは「考えたくない」と思うのと同じく。

 ところが、実際に間近に見ると、思っているとちょっと違った。もっと長い時間接していると、ちょっと違うどころではなく、180度観点が変わった。「忌むべき」ことから「慶賀すべきこと」になったというか、そこまでいうと言い過ぎだけど、それだけの大きな犠牲を払っているのだから、その見返りもかなりデカイんだなってのが段々わかってきました。

 弁護士業界は因果な商売で、毎日会う人達は怒ってるか泣いてるかのどっちかです。ハッピ〜♪って人はあんまり来ません。ケースバイケースだけど、過去に自殺未遂した人とか普通に来ます。農薬飲んで救急車で担ぎ込まれて一命を取り留めたお婆ちゃんとか。あるいは自殺するまでもなく、このまま空気に溶け込んで消えてしまうんじゃないかってくらい影が薄い人。後ろから死神が羽交い締めにしているというか、顔色なんか真っ青で、幽霊が立ってるんじゃないかとドキッとしたこともあります。みなさん打ちひしがれておられます。

 それが事件がどんどん進んで、徐々にリカバーしていくに連れて、元気になっていかれるのですよ。特に離婚と破産はそうですね。離婚も女性のケース、とりわけ熟年離婚の女性の場合、顕著に元気になります。最初、背も丸まった"お婆ちゃん"状態だったのが、最期には"娘さん”"小娘”と呼びたくなるくらい若返ります。「やだあ、もう!先生ったら!」とキャピキャピしてくる。やっぱり熟年離婚は、世代的に男尊女卑や家制度のシガラミも強いですから、人によっては人生のほとんどを精神的な牢獄にいるようなものなのでしょう。それが段々光が射してきて、自由になっていくわけですから、そりゃあ元気にもなるし、若返りもするでしょう。

 破産も同じで、無責任で悪質な多重債務者もいますけど、そんなの一部で無責任なマスコミの煽りに過ぎない。やっぱりそこは真面目な日本人で、大多数はお気の毒ですよ。中小企業の専務さんも、奥さんが心臓病になり、さらに通院過労がたたって精神に障害を来し、通常業務の他に奥さんの看病と子供の大学進学・卒業の面倒見て、50歳過ぎてから新聞配達までやって頑張ったけど遂には破綻というケースもありました。20年前でもそんなケースはゴロゴロあります。マスコミってマジョリティを全然報道しないんですよね。レアで興味本位のものしか報道しない。「犬が人を噛んでもニュース価値はないが、人が犬を噛んだらニュース価値がある」といいますが、ほんとそんな感じ。大体真逆に考えておけば間違いないってくらい。

 そういう人々は真面目だから、ずるく立ち回れず、貧乏くじを引きまくって(連帯保証人になったり、連鎖倒産食らったり)、刀折れ矢が尽きるまで必死にやりくりして、やりくりして、やりくりして、そしてアウト。もう高層ビルからの飛び降り自殺をスローモーションでやってるようなもので、グングン大地が迫ってくるのを何ヶ月も何年も見続けるというのは、相当なストレスがかかります。それで地面に激突だ、破産だ、もう死んだ!と思ったら、意外と死んでない。「あれ?生きてる」みたいなもので、そこから先は復活の上昇カーブになります。

 これらは自分では処理できない、ほとんど宿命にすら感じられていた巨大で重い「肩の荷」を下ろしていくプロセスと言えます。それも夜逃げのようにコソコソやるのではなく、堂々の正面突破です。必要な事務処理は1円単位でキッチリはじき出し、主張すべきことは過不足無く主張し、下げるべき頭はキッチリ下げる。やった分だけ肩の荷は少しづつ軽くなる。重みに耐えかねて曲がってしまった背骨は少しづつ真っ直ぐになっていく。ここで逃げたらあかんのですね。逃げた分だけ心にシコリが残るから解放されないし、背骨は曲がったまま。

 どんな事件もかならず終わりがあるし、たいていの物事はいつかは解決する。物事がこんがらがって、回復不能になるくらい複雜に小間結びになったとしても、そこに「こんがらがる」という物理作用があれば、それを「ほどく」という物理作用もまたあります。丁寧に時間をかけてやってけば、大抵のものは寛解していく。その過程に大きな癒やしと救いがあります。これが一点。

 

価値観ロンダリング効果

 しかし、本当に重要なのは回復ではなく、新生です。単なる「復旧」ではなく、ヴァージョンアップです。

 このように生きるか死ぬか(死なないんだけど)の出来事を経験すると、自分の本当の価値観がわかるといいます。まあ"some people never learn"だから分からない人も、ヘンテコな誤解をする人もいるでしょうけど、概ね、価値観的には一皮むけます。

 破産も離婚も、カッコ悪いです。世間体が何よりも大事な普通の日本人にとって、「世間に後ろ指をさされる」「笑いものになる」「恥をかく」ことは死刑宣告に等しいくらいの恐怖をもって捉えられます。しかし、赤の他人がそういう目に遭うとなると話は違う。恐怖心は失せ、その代わり好奇心や興味が湧く。ありていにいって「面白い」と感じる。だからこそスキャンダルとして週刊誌やワイドショーでとりあげられる。恐怖と好奇心はオトモダチで、我が身にふりかかるのならばひたすら恐怖でしかなくても、他人にふりかかるのはエンターティメントとして楽しいという。いや、ほんと、「他人の不幸は蜜の味」といいますが、神様から見てたら、僕ら人間ってのはしょーもない生き物なんでしょうねえ。しょーもないからこそ世間体が大事に思えるのでしょう。

 そして、破産など世間体的には死に匹敵するような出来事を体験するということは、同時に、世間体的な呪縛から解放されることでもあります。事ここに至れば、体裁をかまったり、カッコつけたりできません。それゆえに恥辱にまみれるかもしれないが、同時にカッコつけたり体裁つくったりしなくても良くなる。

 この解放効果が平均的な日本人(いわゆる血液型A型的というか)には、メチャクチャ巨大だと思います。

 それは、カッコつけるという手間ヒマから解放されるという事務作業レベルに留まる話ではありません。
 もっと深くて大きな意味があります。これらの辛い体験を通して、自分の価値観が変わることです。

 より正確にいえば、世間体にまつわるさまざまな雑念みたいなものを洗い流し、もともと持っていた自分本来の価値観が浮かび上がってくることです。価値観ロンダリングですね。で、洗い流してしまえば、それから先はかなり本当の自分の人生になりえます。

 それまでは「カッコつける」という第一次目的のために、自分本来の欲求や価値観を無理やり抑えて付けてきました。もちろん人よって濃淡の差はあるでしょうが、誰でも大なり小なりそういうところがある。子供の頃から「良い子」を演じてきたり、学校にいくころには「学業優秀」やら「明朗快活」やら学級カーストの上位をキープするためにあれこれ腐心し、就活でも仲間に自慢できるような有名企業を目指したり、正社員としての地位キープに汲々としたり、結婚しては「やさしい旦那さん」「幸福いっぱいの若奥様」「なんでも話せるさばけた親」なんぞを柄にもなく演じたりもする。

 これは偽善・偽悪双方に生じます。周囲から何となく”期待”されているのに答えるように「不良のふり」「グレたふり」「拗ねたフリ」をしたりもする。中坊がカッコつけてタバコ吸ってるみたいなことを、40歳過ぎてもまだやってる人とか。政治家のなかには真面目な人だっているんじゃないかと内心思っていたとしても、それを言うと馬鹿にされそうだから、一緒になってあいつら全員クソだとか言ったり。金持ちは全員悪党に決まってるとか、チャリティなんかしょせん偽善だとか、なんでも嘲笑すれば良いと思ってるみたいな。いい加減にしろって気もしますね。なにイジけてんだ、このガキは?ファッション・パンクスにすらなれてねーぞって。偽悪というのは偽善以上に寒いし、痛いし、みじめったらしい。

 まあ、それは生きていくための「お仕事」「必要悪」だから仕方がないって面はありますが、でも「演じてる」「そうしておくと何かと便利だからそーゆーことにしておく」という戦略的な意識すらも失せてくるのは問題でしょう。だんだん自分が何をしたいのかもわからなくなり、自分が何者なのかもわからなくなる。あるいはわかってるつもりで全然わかってなかったり。

 「世間体(を気にする意識)」というのは、ごくごく普通に生じる日常感情です。それ自体は、悪いことでも変なことでもない。でも、度が過ぎると病的になる。それは例えば寄生虫のようなもので、最初は部分的だったのが徐々に身体全部を支配され、しまいには脳中枢神経や人格まで乗っ取られる。そうなるともうマトリクスまがいの「世間体ロボット」みたいになっちゃう。本当は自我の中核みたいな部分は絶対に譲り渡してはいけないんだけど、譲り渡さないとやっていけないという「渡世の義理」を錯覚したりもする。

 破産や離婚は、この世間体という寄生虫を除去する格好の機会です。虫下しみたいなものですね。
 ダム工事で発破しかけてドカーン!とやるようなもので、一気にガラガラと話が進む。

 ここで、寄生虫の比喩が生理的にご不快ならば、ガン細胞でも、地縛霊でも、悪魔でも妖怪でもなんでもいいです。物心ついた頃から、背中にべちゃーっと張り付いている気味の悪い世間体という名の地縛霊だか妖怪だかを、一回「お祓い」して落としてもらってくればいいよ、と。よく「憑き物が落ちた」といいますが、そうなりますから。

世間の再構成

 また、世間体の実体も整理されます。
 逆境になった時に、手のひらを返したように冷たくなる人もいるし、疎遠になる人もいるでしょう。逆に、それまであまり親しくもなかった人が、とても親身になって助けてくれるかもしれない。いい選別、いいスクリーニングになりますよ。

 「世間」という名前の人間はいません。そういう社団法人もありません。世間体の内容は個々の人間の集合です。そして、その特定だか不特定多数だかの彼らが自分のことをどう見るかが「世間体」なのですが、一般に世間体を構成してる「多数の人達」というのは、実はそ〜んなに自分にとって重要な人ではなかったりもするのですね。

 例えば電車内とか路上で行き交う人々の目なんてのも世間体の最たるものですが、この人達は単に通り過ぎていくだけの話で、この先100年生きてもほとんど交わることもないでしょう。言ってみれば影絵みたいな、カゲロウみたいな存在でしかない。また、リアルタイムには非常に重くのしかかる上司や同僚やクラスメートなどの存在も、職場が変わったり卒業しただけで、嘘のように消滅します。実際問題、終生関係しつづける人など家族を除けば非常にマレだと言えるでしょう。というか、数十年の長きにわたり良好な人間関係を継続していくというのは、並大抵のメンテ努力では無理でしょう。年賀状だって数年したら面倒臭くなるんだしさ。

 つまりはカゲロウみたいに実体の無いものを後生大事に抱え込んで、地縛霊のように、ガン細胞のように育て上げていて意味あんのか?です。意味ないです。いや、ほ〜んと意味ないですよ。誰だって薄々それはわかってる筈なんだけど、慣性の法則のように、中々それを変えられない。「地球の自転はとめられない」みたいに思っちゃう。だったら、ドカーンと発破で爆破しちゃえばいい。敢えて狙って爆破は出来ないけど、結果的に、副作用的にそうなる事態もある。それが冒頭で述べた「忌み嫌われている人生の凶事」です。

見てないようで見てる

 他人は見てないようで見ています。悪いところだけではなく良い所もちゃんと見ている。

 サラリーマンカルチャーに染まってしまうと分かりにくいかもしれないけど、起業や自営で長いことやってると、一度や二度は会社をコカす(倒産させる)もんです。景気の変動もあろうし、業界の変化もあろうし、思わぬ不運が重なることもあり、これはもう不可避的ですらある。

 で、倒産って話になるのだけど、ここで逃げずに踏みとどまってきちんと後始末をした人は、やっぱりそれなりに評価されます。もちろんお金を踏み倒したりして多大な迷惑をかけるのだけど、しかし、そこに至るプロセスや内容を人はちゃんと見てたりするのですね。怒ったり、縁を切ったりする人も多い中、それでも「頑張れよ」といってくれる人もいる。むしろ、場合によっては、逆境になりながらも頑張って、きちんと礼や義理を尽くしている姿をみて、「うん、こいつは信用できるぞ」「見どころがある」と逆に評価が上る場合もある。そして、どん底から這い上がってくるのを、仕事を回したり、紹介したり、つなぎ融資してくれたりして助けてくれる。

 かくいう僕の弟だって一回破産しているけど、きっちり落とし前つけて、すぐに立ち直れてますし、今では前よりもうまいこと廻っている感じです。そういう話はよくあります。


 順風満帆で景気が良い状態を見てても、他人のことなんか良く分からないです。一番よくわかるのは極限状況で、タイタニック号が沈むときに、エゴ丸出しで我先にと逃げ出す奴なのかどうか。そのあたりを人はよく見てるし、それで一気に信用をなくす場合もあれば、それで一気に信用が増す場合もある。

 まあ、なかには他人のアラ探ししかしない人もいるだろうけど、そんな痛々しい人はほっておけばいいです。あなたの人生に別に関係ないんだし、また関係あったら面倒臭いでしょ。ほっときゃいいです。

 かくして、一見悲惨な(実際にも悲惨なのだが)状況においても、それが全てネガティブな要素に満ちているわけではないです。格好のスクリーニング効果があるゆえに、自分を取り巻く人間関係、すなわち世間がカゲロウみたいな薄ぼんやりしたものから、カチッとした本物になっていくという絶好のチャンスにもなりうるという話です。

「持ってるとき」は難しい

 自分が何も持っていない時期に親しくしてくれる人は、やっぱり無償の善意でやってくれている度合いが高い。だって、恩を売っても何も見返りがないんだもんね。

 逆に、自分があり余るほど持ってる時期は人の選別が難しいです。お金やステイタス、美貌や有名人とか「持ってるもの」があるときは、それ目当てで寄ってきてるいる人、いわば「おこぼれ」に与ろうという人だっているわけですから。僕は司法試験に合格する前、単にしがない受験生の頃に最初のカミさんとつきあって結婚したわけですけど、合格した後に結婚相手をみつける人は、選ぶのが難しいとかボヤいてましたね。ステイタスが出来てからは10倍以上モテるわけだけど、それはステイタスがモテてるだけであって自分がモテてるわけではない。要するに差し引き9倍差は水増し分であって、「それ目当ての人」なわけで、そんなの掴んだらあとで苦労しそうだなと。

 このあたりは本当によく出来ていて、モテない苦しい頃は「畜生、○○さえあれば」と思うのだけど、いざ○○を手に入れてしまえば、そんなものは全然信用出来ないし、むしろ無い方が見通しが良くて楽だと思ってしまうという。

 先の弟の事例でも、景気がいいバブル期なんかは、小なりといえども「社長」なんてやってるもんだから、ワケのわからない輩が寄ってきたりもしました。やれ家系図みたいな名鑑を買えとか、バブル崩壊後の日本全国ババ抜きゲームの期間(”バブル”という名前が日本に登場したのは崩壊してから1年たってから)にくだらないマンションを高値で売りつけられそうになったり。そういうときは「兄貴が弁護士やってるから、今度同席して話を聞きたい」と言ってやれといって退散させてました。もうピラニアみたいに寄ってくるし。

 僕が今日常でやってる皆のシェア探しのヘルプでも、英語ができずに右も左もわからない人ほど、良いシェア先を見つける傾向があります。全然ダメダメだからこそ、本当に優しい人、親身になってくれる人だけが残る。これが適当に英語ができちゃうと、適当にアポもとれちゃうから逆に選別が難しくなるのですね。

 ということは、もし本当に「良い出会い」が欲しかったら、「逆境でもがけ」ってことです。逆境にいれば、カゲロウみたいな有象無象は消えてなくなって見晴らしがよくなるし、逆境であるからこそ掛け値なしの自分が表現されるし、そういう自分をちゃんと見て評価してくれる人にも出会いやすいです。

 ま、その「掛け値なしの自分」がしょぼかったらそれまでですけどね、わはは。
 でも、それはしょうがないですよ。自分以上の自分をお化粧して見せたって、絶対どっかで化けの皮は剥がれるし、そうなったときのバックラッシュは倍返しです。「可愛さ余って難さ百倍」ってやつです。


その他いろいろ

離婚について

 離婚ですけど、いまどきの離婚は、そんなカタストロフィってほどのものではないでしょう。さきに僕が例に上げたのは、数十年間耐え忍んだものをブチ壊すような種類のものです。清水の舞台から飛び下りるというか、東京タワーからバンジージャンプするくらいの根性がいるような話です。

 そうではない一般の離婚(婚姻期間10年未満程度)の場合は、そこまでの人生どんでん返しではないし、また他のカタストロフィである破産、刑務所、後遺症(失明とか両足切断とか)に比べてみれば、比較的程度は軽いです。4つのカテゴリーのうち最も頻度は高いだろうし、「とっつき易く」もあるでしょう。

 そうは言っても、結婚するときの3倍エネルギーが要るとは言われますよね。やっぱりそれなりの破綻の修羅場はくぐるでしょうから、それなりの「効用」はあるでしょう。人間関係を再構成したり、自分の価値観を整理したりという効果は期待できます。4つの中では一番のお手頃なので、まあ入門コースでしょう。

疾病療養について

 いきなり失明!いきなり下半身不随というのはキツイかもしれないけど、半年や一年療養生活をおくることは、必ずしも悪いことではないです。

 自分の身体と相談して物事を決めていくってキホンがわかるようになるし、無理をして良いところとイケナイところが感覚的に分かるようにもなります。年食っていけば自然と身体がしょぼくなるから誰でも否応なく対応せざるを得なくなるけど、出来れば早いうちにそのセンスは磨いておいた方がいいでしょう。

 僕の旧友に持病のデパートのような人がいました。いきなり「あ、飛んだ」とか言いだすから、「なにが?」と聞くと、「心臓。俺、不整脈なんよ」と。聞いてみたらあるわあるわ、全身これ逆サイボーグのようにアチコチ問題ありまくり。それでも性格はうるさいくらいに快活で、そして行動もまた獰猛なくらい快活で、なんであんなにボロボロなのにあんなにチャキチャキ動けるんだ?って不思議だったけど、だから、彼はそのセンスが抜群に磨かれているのでしょう。自分の身体の使い方をよく知ってる。

 そこへいくと僕なんぞは、視力が弱視レベルに悪いのと偏頭痛持ちで月に数回のたうち回る以外はけっこう健康だったから、いきなり仕事に入って激務とストレスと過労で帯状疱疹になっても、何が起きたか自分でもわからない。鏡を見て「うわ、気持ち悪」とか思うだけで、何をどうしたらいいかわからないというデクノボー状態。10回位転んでから、「あれ、もしかしたら」という学びの遅さで、苦労しました。

刑務所について

 逮捕され、有罪判決をうけて「前科者」になり、刑務所で服役して「ムショ帰り」になったら、もう人生お先真っ暗というか、裏街道しかないかのようですが、別にそんなことはないですよ。

 そりゃ前科者というだけで拒否反応を示す人もいるでしょうし、あからさまに蔑視したり、陰であれこれいう人はいるでしょう。でも、そんな人ばかりではない。これも破産と同じで、罪を犯すに至ったプロセスや情状が大きくものを言います。

 極端な話(最近はそう極端ではないが)、実質的にはほとんど冤罪って人だっているのだし、形式的には冤罪ではないんだけど、やれ「国策捜査」だなんだで差別的に微罪をあげつらってるケースだってある。佐藤優氏のケースにせよ、ホリエモンのケースにせよ、純粋法学的には「公訴権濫用の法理」で裁判所は「公訴棄却(無罪以前に、そもそも起訴するのが間違っているという厳しい批判的判断)」をする道もあったと思います。もっとも裁判所にそこまでのガッツがあるかどうかは別問題ですが。

 冤罪ではなく真実重罪を犯したとしても、ほとんど正当防衛に近かったり、こんな被害者はやられて当然ってケースもあるわけです。悪代官や越後屋をやっつけた時代劇のヒーローが有罪判決を受けるような感じですね。また100%悪くて弁解の余地がなかったものでも、ちゃんと服役して、その後まじめにやってたら、徐々に認めてくれる人は出てきます。

 刑務所いったら人生終わりだと思い込む人も多いけど(普通そうだろうけど)、でも、逆の立場でものを考える場合もあるでしょう?例えば、「あれだけの犯罪をおかした犯人が、今は仮出所してのうのうと暮らしているのは許せない」とか義憤にかられたりもするでしょう。自分が刑務所にいったら「終わり」なくせに、その犯人は全然終わらず「のうのうと暮らしている」ように見えたりするというこの矛盾。真実は、あなたであろうが、その犯人であろうが、出所後の更正の道はそれなりに厳しいけど、全てが閉ざされているわけではない。ありていにいえば似たり寄ったりであり、終わったり”のうのう”だったりするのは単なるイメージの問題にすません。

 ときに余談ですが、猪瀬都知事が散々叩かれた末に辞任し、次の都知事選が話題になってますね。その背景事情があれこれいわつつも(なんで石原は追求されないんだとか、全ては出来レースだとか)、それはさておき、猪瀬氏も大変な思いをされたわけですが、これもいい機会ではありますよ。ほとんど何もかも失ったかのように見えますが(退職金1000万円はすごいなと思うけど)、別にこれで終わりじゃないですよ。今は国民総罵倒みたいだけど、しばらく経ったら鎮静もするし、来し方行く末を考えるいい機会になるでしょう。

 有名すぎて引き合いに出すのも恐縮ですが、スティーブ・ジョブスがアップル社から石もて追われたときも罵倒の嵐だったんでしょうし、「もう終わった」「過去の人」とか散々言われたでしょう。本人だっていい機会だった、むしろ感謝してる言ってるくらいだから(まあハッピーエンドだからそう言えるんだろうけど)。下駄を履くまでわからんですよ。

 で、都知事候補があれこれ取りざたされてますが、ホリエモンはやらないんですかねえ?彼もカタストロフィ食らって、刑務所のメシを食ってきて、むしろ魅力が増したかのように思います。ライブドアの頃はあんまり好きじゃなかったけど、一敗地に塗れて、何もかも失ったようでいて、実は何も失っていない(体重くらいか)、ふてぶてしさはそのままで、むしろ得るものを得ているように思います。彼なんかいい例ですよね。あのままライブドアで天狗になってるよりも、今のほうがギラギラ油成分が取れて良いように思う。

 まあ、彼は全然都知事なんか興味なさそうだけど、若い世代への発信力、巨額の費用をふんだんに使った構想力、メディアの使い方、ある種のカリスマ性、、、、オリンピックなんか仕切らせたら国なんぞがやるよりはよっぽど上手な金の使い方をするような気もします。ま、オリンピックなんて「7年後のわずか14日間」でしかないので、大した話ではないけど(大した話にしたい人もいるだろうけど)、オリンピックなんて古臭いものに頼らなくたって世界のTOKYOにはそれなりに魅力的なプレゼンは幾らでもできるはずです。また、彼は権力に痛い目にあってるけど、だからといって媚びてもいるふうでもないし、いいカウンターパワーになれるような気もします。服役してるけど、刑期を終えているから、公選法上の被選挙権はあると思うのだけど。

 実力的には次点だった宇都宮さんがいいんだろうし、同業者だからその実力はよく分かるんだけど、玄人受けし過ぎてポップじゃないので、前の猪瀬氏の役どころ、つまり副知事あたりがいいかなと。

 そこまでいけば、日本も少しは面白くなるんですけどね。

擬似体験でも効用アリ

 「一回くらい経験しておくといいよ」と冒頭に書きましたが、じゃあお前は経験しているのかよと言われたら、まあ、離婚はあります。その他はないけど、でも、日本での立場を全部おっぽらかしてオーストラリアの路上にポツンと不安げに佇んでいたという経験がそれに近いです。

 何度も書いてますが「暴挙をやってみたかった」というのが本当のところですが、この心理って、擬似的なカタストロフィをやってみて、全部ロンダリングしたかったんでしょうね。

 何かを手に入れるためには、何かを手放さないとならない、とはよく言われます。
 だから、全てを失えば、全てを手に入れることができると。
 まあ、ポーカーの「総取っ替え」みたいなものです。


 で、手に入れることができたか?というと、はい、出来ました。こんなにも豊かに得られるとは思わなかったってくらい。今、こんな仕事をやっているのも、そこに確信があるからだと思います。

 日本を離れてワーホリや留学にこられる方、あるいは永住を目指される方は、濃淡はあれどもやっぱり擬似カタストロフィ的だったりすると思うのですよ。リセットというか、総取っ替えというか、ドカンと発破で一発的な。

 その気持ちはわかります。またこちらでゼロから手に入れるためのお手伝いは、これはやっていて忸怩(じくじ)たる思いはまったくしません。どんな仕事にもついてまわる「本当は(無駄だったり、無意味だったり)するんだけど、でも仕事だから仕方なく、、、」ってジクジク忸怩たる部分がない。気持ちいいですよ。

 特にワーホリさんなんかは、上の4カテゴリを全部疑似体験するようなものでしょう。なぜって、一時的とはいえども家族と別れて一人ぼっちになるし、経済的には楽しく破綻するし、ラウンド中のキャラパーやフリアコなんかほとんどホームレスと紙一重だし、最初の頃、言葉もろくに通じない異郷の部屋でぽつねんと過ごすのは、ほとんど懲役の独居房、世界中の連中が動物園のようにワイワイやってるバッパーは雑居房のようなものでしょう。さらに、疾患系は、言葉ができないのは程度の軽い失明&聾唖のようなものだし、遠い異郷で一人で熱出して寝込んでいるのは、日本で入院しているよりも心細いです。

 鍛えられないわけがないし、これだけ多くのものを失っているのだから、同じ分だけマッサラの多くの物を得ているでしょう。



 原理はそういうことで、だからワーホリに限らず、なんでも失ったらいいです。あえて進んで失う必要はないかもしれないけど、失うことは必ずしも純然たるマイナスではないです。歯医者さんのコップの水のようにウガイをして所定位置に戻すとまた静かに水が満たされるように、まるでワンコ蕎麦のように、空になったそばから「なにか」が満たされます。

 それは多分、思っていたものとは全然違うものが満たされるのだと思うのだけど、だから最初は満たされたことに気づかないかもしれないし、それを拒否するかもしれない。でも、時が過ぎればだんだんと「ああ、なるほど」とわかるんじゃないかな。

 全てを失うからこそ、全てを得られるというのは、禅問答みたいだけど、直感的にわかると思います。

 「座って半畳、寝て一畳」とはよく言ったもので、結局、生まれてから死ぬまで、自分は自分しか持ってないんですよね。ただそれだけのこと。たったそれだけのこと。ただそれだけのことを大事にしてやればいいだけの話で、何も難しい話ではない。

 多分、誰もが死ぬ間際にそれを痛切に実感するのでしょう。「あ、なあんだ!なるほどねっ」と。でも、死ぬ瞬間に「なるほど!」とわかってもちょっと遅すぎる気がしますね。だから、それよりも早いどっかの時点で、一回擬似的に死んでみるのが良いのでしょう。本当に死ぬわけではないけど、とりあえず何もかも失うかのような体験をしてみると、3Dシュミュレーション臨死体験みたいなもので、「なるほどねっ!」とわかるという。

 で、それがわかった時に、連鎖反応的にもう一つ分かることがあるでしょう。
 「本当に失われたものは何か?」です。

 いうまでもなく「時間」です。取り返しのつかない人生の一回性ってやつで、下らないことにかまけて大事な時を無駄にしてきたという、その失われた時間に気づく。でもこればっかりはどうしようもない。

 というわけで、だからこそ冒頭一行目にもどり、「数年以内に」と近未来設定をしておいたのです。早く起これば起きるほど、失われる時間は少なくて済みますから。



文責:田村



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