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今週の一枚(2013/12/16)



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Essay 649:無人島設定

 写真は、ウチの近所。Lane Coveの"Cove"は「入江」という意味。シドニーは海が内陸に切れ込んで、リアス式にギザギザになってるので、こういう風景が意外と多いですよ。普通にしてたらわからないけど、住宅街や道路から逸れて、道無き道みたいなブッシュを行くとこうなる。大体、ブッシュウォーキングのエリアになってたりしますけど。

 色はホワイトバランス変えて青っぽくしてますが、でも見た目もこんな感じです。



無人島設定


 いわゆる「無人島設定」というのがあります。

 「無人島に一冊だけ持っていくとしたらどの本を選ぶ?」
 「もし無人島に漂着したらどうする?」

 なかなか興味深い設定なので、僕もときどき考えます。
 これは「無人島って具体的にどこよ?」という話ではなく、極限状況の抽象的な設定ですよね。


 「一冊だけ本を選べ」というのは、自分の価値観の最上位にくるものはなにか?という問いかけでしょう。

 とりあえず直近で読みたいのは未読の連載マンガとかだったりするけど、そんなの一回読んでしまえばそれでよく、死ぬまでそれ一冊しか読めないんだったらアウトです。「これ一冊だけ」となると、かなり真剣に「むむむ」と悩みます。大好きな小説?金言集?詰将棋集?聖書?あれこれ考えていくと、自分が生きていく上において何によって一番励まされているか、何を一番大切にしているかが自ずと見えてくる(ような気がする)という。

 「無人島漂着サバイバル」は、この世界で自分は正味何ができるのか?自分の本当の能力はどの程度なのか?生き延びるためには具体的に何をどうすればいいのか?を、ギリギリ削ぎ落として問うものだと思います。

 とにかく飲み水もない、食料もない、どんな野獣がいるのかわからないという極限環境において、ひたすらソリッドに、まず何が必要かを考え、優先順位をキッチリ出して、それを実行していくこと。すなわち「生きること」「生き延びること」の本質が明らかになる。そして生き延びるための能力や知識を自分が持っているかもわかってくる。

 例えば、無人島だから海水はたくさんあるけど、海水は飲めない。真水が欲しい。島に真水のある泉や川があるかどうかわからない。探検に行く?もし無かった場合、あるいはそこに行くまで野獣や蛇に襲われるかもしれないし、川水に寄生虫や有毒物質が潜んでいるかもしれない。では雨水はどうか?この島は雨がふんだんに降るかどうか判断すべきですが、植物相を見て気候を判断するなどの知識が必要でしょう。また水分が摂れずに脱水で死ぬまでのタイムリミットを3日後として、3日以内に雨が降るかどうか、命がけの天気予報を自分でしないとならない。はたまた、朝露を探すという手もあるが、草露は夜間の放射冷却によって水蒸気が露点以下に下がらないと生じないから、夜の冷え込みの度合いもみなければならない。

 では自分で真水を作るという方法はどうか?どうやって?海水を沸騰させて塩分抜きの蒸気にして収集するなら、まず火を熾さないとならない。火の熾し方を知っているか。昼間の陽射しが強いときは、地面に穴をほって上にビニールシートをかぶせ、自然の蒸発する水蒸気を集めるという方法もあるが、そんなビニールシートみたいな物がどこにあるか?何か代用できないか?そして沸騰させるにせよ、雨水を貯めるにせよ、いずれにせよ器らしきものを作らないとならない。鍋や釜があればいいけどそんなものは無い。じゃあどうやって作るか?

 というような状況で、どうやって生き延びるか、生き延びるには何をすればいいのか、どの順番でどういう論理的思考でやればいいのか、そしてそれをやりぬくだけの知識と能力を自分は持っているのか?

 もっとも、実際に自分が無人島状況になるような確率など、この先生きていても0.01%くらいでしょう。その意味では考えるだけ無駄というか、荒唐無稽なヒマツブシみたいなものなんですけど、だが、しかし、そこには何か抗いがたい魅力があります。

 なにかといえば、そこには「生きる」ということの本質が凝縮されているからでしょう。生きるというのは、要するにそういうことだろ?という。

 何をもって、自分の人生の価値ピラミッドの最上位におくか。
 そして、その価値を実現するため、それも厳しい現実のなかで生き抜いて実現するためには、何が必要か、その力はあるのか?なければ何をどう鍛えて補充すればよいか。

 こういった発想は、全てをゼロベースで考える発想でもあります。
 ゼロベースで考える上において、漂着サバイバル部分は「生き延びる」という絶対的な生命維持の下部構造、一冊だけ持っていくという価値判断は、下部構造のうえに乗っかる上部構造になると思います。

無人島漂着サバイバル〜下部構造

持ち駒・条件

 勿論、現実はゼロベースではなく、こういう時代に、こういう国に、こういう容姿と能力をもって、こういう家族のもとに生まれ育ち、こういう進路を選んで、こういう人達と出会い、こういうキャリアを得ました、、、という現在の「条件」があります。

 でも、そんなものはたまたま現時点での「持ち点」に過ぎないし、つまるところは無人島設例の「応用問題」に過ぎないとも言えます。

 将棋でいえば「持ち駒」みたいなものです。
 そして、ヘボ将棋の指し手は、駒を取ったらすぐに使いたがるといいます。飛車を取ったらすぐに張りたがり、桂馬を取ったらどっかに両取りができないかを探し、両取りポイントがあったらすかさず張る。そこには全体の戦略もクソもなく、場当たり的なものにすぎない。一見お得に見える、ナイスに見えるんだけど、トータルの戦局でいえばまるで無駄とか、それが結果的に致命傷になったりもする。

 たまたま日本に生まれました、○○系の学歴があります、○◯の仕事/キャリアがあります、、、とかいっても、それも言ってみれば「持ち駒」でしょう。

 現代の平均寿命は80〜90年もあります。一方、高齢化や国の財政破綻で年金が出るか出ないか未知数だとしたら、定年まで走りぬけば、あとは倹(つま)しいながらも悠々自適という絵図面は必ずしもアテに出来ない。そうなれば良いけど、そうならないかもしれない。だとしたら死ぬまで働け、90歳になっても、或いはどんな世の中になったとしても、したたかに金を稼げる or サバイバルできるシステムや技術をそれまでに構築しておけというプランB(こっちこそプランAかもしれないけど)が出てきます。そのようなロングスパン=戦略的大局にたった場合、たかだか数年〜十数年かそこらのキャリアなど、しょせんは「桂馬」レベルに過ぎないともいえます。

 もちろん、たかが桂馬されど桂馬で、どんな経験も軽んじるべきではないですよ。でも、将棋の本質はいかに勝つか=相手玉を詰めるかであり、たまたま持っている「手持ちの桂馬をどう使うか」ではないはずです。大局的見地からいって桂馬の使い場所がないなら、使わないでキープしておく、あるいは捨て駒とか合駒とにして惜しげも無く使い捨てるべき場合もあるでしょう。

持ち駒とゼロベース

 さて、この「現在条件・持ち駒」と「無人島ゼロベース」との関係ですが、ゼロベースをベースの初期設定にして、その上に現在の条件を積み上げて考えていけば良いでしょう。

 例えば、絶対的な事実、というか可変性が非常に低い事実(この先どう転んでも変化がないだろう事実)は何かといえば、この地球に自分が存在して、自然寿命として◯◯年生存する事実。そして、生存のための必要な条件は、まずコンスタントに呼吸が出来ること、一日の最低カロリー(体重◯キロ×24(時間)=最低必要KCalらしい)を摂取することでしょう。また、将来確実に生じる老化の予想。あと30年経ったらこのくらい身体能力が落ちてこのくらいの健康障害が生じるであろうという予想も組み込んでおいてよいでしょう。これらの事実は、将来に何が起きようが、日本が沈没しようが宇宙人が襲来しようが、それほど大きく変わるとは思えません。

 それら絶対必要条件をベースにして、それ以外は全て相対的な「条件」としてインプットする。現在の条件・持ち駒で間に合うものは間に合わせ、間に合わないものは新たにゲットする。間に合うものでも、将来的な賞味期限というか、不確定性が急増するものもあるので、それも計算に入れておく。

 とまあ、抽象的にいっていても分かりにくいのですね(^^)。

 例えば、あなたは現在30歳。日本に生まれ育ち、中堅どころの大学を出て、中堅どころの企業に入って、◯◯業界の営業職キャリアが8年あって、貯金が◯円あったとします。これが現状の「持ち駒」です。そして、無人島的にゼロベースで考えるならば、最低限の飲料水やカロリー、おおむね安全な住処の確保については、2013年時点の日本においては、普通に生きてたらゲットできるでしょう。日本は降水量が多いし、インフラも良いし、差し迫って食糧に困るほど経済的に逼迫してもいないし。あとは、その日本に合法的に滞在できればいいのだけど、それは日本国籍か永住権を持っていれば良い。だからそのあたりの生存にベーシックな部分は、「日本で普通にやってる」という程度の努力でクリアできる。火を熾す技術を懸命に学ばなくても、まあ良いだろう、と。

 ただし30年後の2043年にもそうなっているという保障はない。60歳のあなたが「日本で普通にやって」それだけのものがゲットできるか見通しはどうか?まあ、その程度は大丈夫じゃないかと思われるのだけど、マイナス要素としては、日本の場合は地震、台風、津波、地すべりなどの天災が多いこと。放射能の収束がどうなるか未知数であること。経済や福祉は、あまりバラ色ではなさそうだけど、餓死者が累々と横たわってるってことはないだろう。状況は厳しくなるかもしれないが、まあ死ぬほどのことはないだろう。しかしさらに30年後の2073年にどうなっているかとなると、もうようわからん。考えてもしょうがないくらい先の話に見える。

 さて、だとしたら日本に住み続けるという前提に立ち、且つ若干環境が厳しくなるという予想をもとにすれば、今のように「普通にやってる」だけではなく、「より上手に立ちまわる」という努力が必要になるだろう。では、何をどのくらい「上手に」やればいいのか?ここで業界の将来像やら、世界の動向やら個別に査定し、どっちに向かうか予想A、B、C、D、Eくらいまで5通り(数は適当)くらいの予想を大雑把にたてる。今のままで全然大丈夫って可能性もあるかもしれないが、業界自体が沈没して、会社も倒産ないしはリストラされ、38歳くらいで路頭におっぽり出される可能性もある。今の日本のセーフティネットは結構穴だらけだし、将来的にそれが良くなる可能性と悪くなる可能性を冷静に検討すれば、なんかしら悪い予感の方が強いかもしれない。そうなると最悪の場合、身も蓋もなく自分がホームレスになるかもしれない。はい、出ました、無人島スチュエーションです。さて、今、ホームレスになったとしたら取り敢えず何処に住んで、どう毎日のカロリーを摂取するか。ボランティアの炊き出しはやってくれているのか、役所はアテになるのか、悪ガキどもに襲われた時に最低限に身を守る程度の格闘技の技術はあるか、なければ武器をどう調達するか。また病気や虫歯になったときにどうするか。

 こんなのアテにはならないけど、敢えて数字でいえば「まあ大丈夫っしょ」というのをアバウト70%の確率だとして、30%は「大丈夫じゃない」という話になる。そのなかでもいきなりホームレスになる前に、再就職に成功する(成功するための市場調査とスキル研鑽と戦略をたてているか)、実家に戻って親の介護をしながら暮らす、とにかく日銭を稼ぐために起業というか何でもやる、、、、などなどいろいろな可能性があります。

 そのあたり思いつくかぎり数十数百あるパターンをバーっと並べてみて、カレンダーの裏紙のような大きな紙に書いていって、順次手を打てるものは手を打っておく。この「カレンダーの裏紙」は、日本で働いていたときにやりました。不確定ポイントを書いて、YES/NOでフローチャートにするとか。覚せい剤の捜査のように、登場人物が20人くらい出てきて、誰と誰が逮捕されて、誰の尿検査で立証可能で誰が未知数で、だから誰を立件すれば誰を逮捕できるかとか、複雑な知的パズルみたいなものです。あるいは登場人物が50人くらいでてくる相続関係図とか、4グループぐらいが会社や不動産の争奪戦をやっていますとか、債権者が1000人規模でいる大きな倒産案件とか、。あまりにも複雜でうんざりするような事案を、「うんざりしないでキッチリ考えぬく」ということです。

 これらは外挿条件や不確定要因が数百項目くらいあるから、話はめちゃくちゃ複雑になるのだけど、でも僕の頭の中では「無人島設定の応用問題」でしかないです。なんか知らんけど、僕はそういうフォーマットで物事考えてしまうんですよね(^^)。

 先ほど言いましたが、人生の攻略法というか、やり方というのはすご〜くシンプルで、

 @、とにかく生き延びること(漂着モデル)
 A、そのうえで、好きなことやって気持ちよく過ごすこと(一冊選べ)

 の二本立てです。下部構造があって、上部構造が乗っかるという。それだけ。

初期設定はシンプルに〜アイデンティティに名前を付けない

 ちょっと余談になるのですけど、僕が好んで口にするのは「地球の上に自分がいる」という「原設定」です。「日本人として生まれて」とか「男として」「◯家の長男として」などは全部オミットします。それらは、その時点でのたまたまの「条件」「持ち駒」に過ぎないとする。

 出来るだけ初期設定はシンプルにしておいたほうが良い。
 なぜなら、それがシンプルであればあるほど、状況変化にフレキシブルに対応できるからです。全ての判断を「地球+自分」から導いておいてやれば、自分が死ぬか、地球が消滅するか、あるいは宇宙人に地球外に拉致されるかでもない限り、日本が消滅しようが、人類が絶滅しようが、条件設定そのものは変わらない。

 大地震がそうであるように、巨大な変化というのは巨大であればあるほど突然生じる場合が多い。そして、巨大な変化に直面した場合、決断の早さ、それこそ秒単位での決断の早さ、的確さ、冷静さが死命を制する。うろを来している余裕なんかない。だから日頃から考えておくと良い。これは資質というよりは単なる技術ですから。

 先ほどの将棋の例でいえば、将棋はいかに終局的に勝つかだけを考えていればいい。たまたま持ち駒に桂馬が手に入ったからといって、「桂馬を持っている男はいかに生きるべきか」なんていうテーマを設定する必要はないし、また設定してはならないと思う。なぜなら全体がボケるからです。ここでいう「桂馬」には、「日本人である」とか「男である」ということも入ると思います。国籍なんか2つも3つも持ってる人は世界に幾らでもいるし、性別だって性転換している人はたくさんいるので絶対的ではない。

 自分のアイデンティティというのは、言葉や概念にしてはイケナイと思ってます。
 「○○人としての俺」というのはナシ。「俺は俺」で、それ以上考えてはいけない、と僕は思ってます。

 なぜって、それ以上に「○○県人として」「栄光の○○学園OB」とかくっついてくると、アイデンティティが引っ張られたり、ボケたりするからです。さらに、その冠(かんむり)アイデンティティと本来の自分の資質・性向がズレてきたら、面倒くさいことになるでしょう?それに、そういう集団的・部族的アイデンティティを持ち出すことによって、自我が心地よく補強されるってことはあるけど、そういう「つっかえ棒」をすればするほど自前の自我はヒヨワになる、つっかえ棒が倒れたらもう自立できなくなる、良くないです。「武士である俺」「エリート官僚である俺」なんてのは、文明開化で武士階級が消滅したり、リストラされたりしたら、もう何も残らなくなる。そんなヘナチョコ設定では生き延びられない。「たとえ天地がひっくり返っても俺は俺じゃ」くらいのアイデンティティ設定をしておかないと恐いっす。

 「たまたまそうなってる」という偶発的な条件は、それはそれとして尊重しますけど、でも条件にすぎない。主体ではない。まあ、そんなこと言えば、「たまたま生まれてきた自分」という意味で、主体すらも「たまたま」なんだけど、そこまで条件にしちゃうと話が始まらないので、「ここに自分がいる」というのだけは原点として置く。まあ、コギト・エルゴ・スム=「我思う、ゆえに我あり」ですよね。

 大切なのは、その条件=桂馬の本質や性能を知悉し、使いこなすことでしょう。例えば男であることのメリット・デメリットはなにか。女性よりも筋力に優っているので暴力沙汰に強いといっても、アジア人男性の筋骨はコーカサス人(白人)の女性とほぼ同じだから、世界的にいえばさしたるメリットもない。逆に、平均寿命はだいたいどこも確実に短い。すなわち持ち時間が短いというデメリットもある。社会的にはどこでも男性優位社会(特にイスラム系とか)だけど、その分ダメだった時の世間のマイナス評価がデカくなるというデメもあるよとか、そういうことです。

 自分が自分であること以外の全ては可変的な「条件」として処理する。
 それらの条件の内容を深く理解したり、条件の設定や組み合わせを変えていき、よりしたたかに、よりしぶとく生き延びることを目指す。なぜか?といえば、ここが上手になれば上手になるほど、第二段階というか上部構造の「好きに」「気持よく」という部分の自由度が増すからです。逆に、このあたりがヘタクソだと、たまたまの条件に振り回され、やりたくないことをやってるうちに一生がタイムアップしてしまったり、条件が沈没してしまって共倒れになってしまったりして、トホホになる。好きなことやってエンジョイする時間がなくなる。それじゃ何のために生まれてきたんじゃ。

 したがって、下部構造においては、もうカラカラにドライに、まるで空気抵抗や流体工学を駆使したF1マシンのフォルムのように、ピッカピカに、徹底的に、メカニカルに考えるべきだと思います。

オーストラリアの無人島式計算

 ちなみになんでオーストラリアに来たかといえば、さんざん過去に書いてますが、「そうしたかったから」という直感一発が一番デカいですけど、一応無人島的な計算もやってます。

 ・それほど寒冷ではなく、特に北にいけば亜熱帯になるので凍死する心配がなさそうだ
 ・食料自給率が優に100%を超えるので飢える心配はなさそうだ
 ・山火事とサイクロンはあるけど地震と原発はない
 ・人口密度が日本の100分の1だから自分一人混ざってもそれほど窮屈がられないだろう
 ・国民年金(基礎年金)は積立方式ではなく税金方式だから35年払わなくても永住権取るだけで受給権を得られるから得だ
 ・将来的な経済変化に対しても長い時間をかけてマルチカルチャルを根付かせているから世界中の伸びゆくエリアとのチャネルを有利に構築できる
 ・人口構成も移民導入によって是正できるなど社会・経済のフレキシビリティが大きい
 ・とりあえず英語圏だから英語をやっておけばその先の展開においても損はないだろう
 ・世界中から人が来ているから世界の動向を直接聞く機会もビジネスチャンスもあるだろう。。。。。などなど。

 もっと根本的なことをいえば、国境を超えたり、海外に出たりすることの敷居を徹底的に低くし、パンパン叩いて平らに均してしまいたいという思惑もありました。それまで海外旅行なんかお義理の社員旅行一回しか行ったことない自分にとって、この海外ハードルが巨大すぎたので、「邪魔だな」「取り壊しておくか」と。だって、20年前でも人類社会の先端をいってるのが国際企業で、当時はグローバリズムなんて言葉も流行ってなかったけど、それを軽々とやってる企業や人々がいる。だったら個人レベルでそれができるようになっておくのは、無人島的な発想でいえば、将来における大きな布石になるというもありました。「布石」というよりもデファクト・スタンダードですね。工場出荷設定。

 あとは、もう、ものすごい単純に「地球人が地球に住めないでどうする?」って思いもありましたよね。「ここじゃないいとダメ」とかそんなヘタレじゃ生き延びられないぞと。

 一方では、日本で築き上げてきたキャリアもあるわけですけど、でもしょせんは「持ち駒」ですよね。そりゃ確かに法曹キャリアというのは、必死こいてゲットしただけに将棋で言えば飛車・角レベルではありますが、でも所詮は持ち駒に過ぎない。「ヘボ将棋、王よりも飛車を可愛がり」では駄目じゃん。平然と飛車を捨て駒に使えるくらいの戦略性がなくてどうする?という。

 およそ考えうるだけの最強の自分であれってことですね。全〜然実現できてないけどさ、でも、理想はそれ。
 なぜって、そこが強ければ強いほど、好き勝手できるんだから。

上部構造〜どうなりたいの?

 しぶとく、メカニカルに下部構造を鍛えて、さてその上に何を乗っけるのか、どうなりたいのか?ですが、それは各自の趣味の問題でしょう。

アホみたいにシンプルに

 ただ、僕としては、ここもとってもシンプルに、それこそアホみたいにシンプルにした方がやりやすいと思ってます。

 例えば、そこそこ経済的に不安がなくて、そこそこステイタスもあって、そこそこ自分の趣味の時間も持てる人生、、、なんて「複雑」なことを乗せようとするとややこしくなります。

 この問題は二つあって、ひとつは要求ハードルが多すぎると実現するのが面倒になること。
 二つ目は、そのあたりの物的な諸条件の整備というのは、結局は下部構造レベルではないか?ってことです。「不安になりたくない」「安定したい」というのはよく分かるのだけど、それって生存のための諸条件の充足でしかなく、本当の上部構造は、「安定しました、不安ありません、で、それから何をしたいの?」でしょう、と。

 これは「一冊の本」を選ぶことであり、自分にとっての最高価値は何か?を見極めることです。最高価値が「そこそこ経済的に〜」なんてわけないでしょう。最高価値というのは、もっとシンプルで、もっと直裁で、もっと他愛のないことだと思います。

 僕がまだ十代だったころ、テレビを見てたら売れっ子だった頃の評論家の竹村健一氏が出てて、「すごい気難しい人のように見えるのですけど」ってインタビューに、笑いながらこう答えてました。「いや、僕は、うどんさえ食べさせておけば機嫌のいい男ですから」と。
 
 ほう、そうか、なるほど!と、ポンを膝を打ちましたね。
 いや、竹村氏の人となりがわかったことが大事なのではなく、物の考え方がスコーンと突き抜けたからです。「そうか、うどんさえ食っていたら人生OKなんだ、なんだ、そうか、なるほどねえ」って。目の前がパっと明るくなったのですね。

 そうなんだよな、何も難しく考えることはないんだよな、自分はどうしていれば最もご機嫌なのか。それも瞬間最大風速みたいな一生に一度レベルの歓喜天に登るような凄いことでなくて、エブリディライフで普通に実現できちゃうようなこと、実現性、再現性が高く、コンスタントにできる事、それが一番大事で、それだけなんだなってストンと腑に落ちたんです。

 十代だった僕は、「じゃあ俺の場合は」と考えて、これはすぐに出てきました。
 「好きな女の子がいて、弾きたいときにギターが弾いてられたらそれでいいや」と。それさえ実現できたら、俺の人生はOKだぜって。

 なんでそこまで突き詰めて考えていたかというと、司法試験をマジにやるかどうかビビっていたからです。当時は鬼のように難しく、さして優秀でもない自分が挑むということは、はっきりいって自殺行為のようなもので、冷静に考えれば考えるほど見通しは暗い。結局ダメでした、人生終わりましたってことになるだろうと。それでもやるの?マジに?って。そこでビビってたんですけど、そこで本当にそんなんで人生終わるの?なにがどうなったら終わるの?結局何が失われたら一番イヤなわけ?と詰めて考えていったわけですね。

 もしかして普通に4年で卒業して普通に就職するというスタンダードな未来が失われるのをビビっているわけ?と考えたら、そんなの別に惜しくないし、やりたくもないし、そもそもそれをやりたくないからこそ独立性の高い専門職を考えているわけで、そういったことは問題ではない。

 じゃあ何を恐れているのよ?というと、そうね、別に恐れることなんか何もないよねって。
 さらに、どうなってたいの?といえば、別に必要以上にお金がほしいとか、ステイタスを得て威張り散らしたいとか、そんなのも無い。結局、中学高校の頃に音楽だの小説だの漫画だのに夢中になって、適当にいい友達がいて、あれで受験がなかったらサイコーだったよな、ついでに親や教師(世間の大人)に無理やり頭を押さえつけられなかったらそれでいいやって。そうだよな、頭押さえつけられたくないから司法試験だってやるんだし。ああ、そかそか、結局は「いい人」と「いいもの」なんだよな。それを気の向くまま堪能できたら、それでもう不満はないよ、それでゴキゲンになれるんだって。

 そういった思いがグルグル頭のなかを巡って、ポンと文章化したら、上記のように「好きな女の子がいて、気ままにギター弾けたら、ほんでいいじゃん、てかそれがサイコーじゃん」って。ほんでもって、そのくらいだったら何とかなるでしょうって。なあんだ、別に難しいことじゃないよな、それでいいんだ、あはは、これにて一件落着〜!と思ったわけです。

「腹を括る」という実感

 それが僕の無人島の一冊(一つじゃないけど)で、それが上部構造。

 それを実現するための下部構造。
 だって腹が減って餓死しそうだったらそれどころじゃないし、その子だってきちんと守ってあげたいし、あんまりヘタレだったら世間にボコられてスネオ君になっちゃうかもしれないし、だから司法試験だと。だからこれは下部構造の補強工事の一環であって、ダメだったらダメでまた別の方法を探せばいいわけだし、なんせ最高価値は意外と簡単にゲットできるんだし、焦るこたあねえよって。

 それで腹が括れました。いい経験だったと思います。

 その経験は、弁護士職をブッチして、何の目算もなくオーストラリアにやってくるときに生かされました。つまり「ま、ダメだったらしゃーないや」って腹の括り方が感覚的に分かっていたというのが大きいです。

 受験のときも最終段階では、いよいよ合格して結婚するか、それともダメで駆け落ちするか(^^)みたいな話をしてて、駆け落ちするとしたら、山梨県あたりのガソリンスタンドの夫婦住み込みで働いてとか考えてました。なんかしらんけど、富士山が見えるところがいいよなって、それも裏側というか北側から山頂がちょっと見えているって感じが良くて、そこに夕陽がきれいでってビジュアルイメージが出きて、「あ、それでもいいや」って腑に落ちた。

 自分の中ではこの感覚が「腹が括れた」状態で、オーストラリアの時も、これは以前に書いたけど、結局無一文になって、地平線しか見えないような道路を放浪して、そのあたりの雑草食べて、食えたもんじゃねえやって吐き出しているイメージが出てきて、「あはは、それもいいよな」「それ、いいよね」って思えたのですね。「(自分)らしいじゃん」って。「野垂れ死にOKだぜ」って腹が括れた。GOサインが出た。


 以上をもっかい整理すると、@下部構造は必死に考える。もう全知全能を振り絞って、心血注いで、血ヘド吐いて、緻密に、大胆に構築する。で、そこまで必死こいて築き上げた下部構造の上に立って何をするかというと、Aひたすらヘラヘラする、気の向くままお気楽にやるわけです。このギャップがいいよねって。

 これって突飛な考え方のようでいて、実は王道なんじゃないかしら。だって、死ぬほど努力して、エリートになって、CEOになって、高額なサラリーをゲットしました。で、どうするの?というと、南の島にバカンスに行ってさ、一日じゅう本読んでたり、ゴロゴロしたり、要するにヘラヘラしてるだけじゃないのか?

 原始構造の無人島だって同じことで、必死になって飲料水を確保して、食料も調達して、保存方法も工夫して、心地良いねぐらを作って、やれやれかなり軌道に乗ってきたぞ、だいぶ死ぬ心配がなくなってきたぞとなって、何をするかというと、島で一番見晴らしのいいところにいって、ボケーッと眺めてたり、昼寝をしたりするんじゃないかな。生きることってそういうことじゃないの?と。

 もっとシンプルにしちゃえば、「ひたすらヘラヘラするために、ひたすら頑張る」のだと。


 もっともそんなに簡単に割り切れないのが世間の辛いところです。生まれ落ちてしまった宿命もありますし、持って生まれた条件にガチガチに縛られることもあるでしょう。

 そんでもその「条件」にキッチリ落とし前をつければ良い。
 世界史シリーズやってて感動したのは、伝説のフリードリッヒ大王です。この人、もともと天才肌で繊細な芸術家なのに、父親が星一徹ばりの軍隊オタクで、軍隊教育ばっかやってた。耐え切れない18歳のフリードリッヒ少年は親友の近衛少尉といっしょに家出を図るがあえなくつかまる。でもって、目の前で親友の首を切られてしまうという、ものすごいトラウマを植え付けられる。「くそ、やりゃあいんだろ、やりゃあ」で腹くくって、以後、天才的な戦略家であり、外交内政においてもこれ以上を望めないくらい開明的な名君になり、しかも超一流の文化人としてヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を深める。でもって、晩年は、「もういいだろ」とヘラヘラしはじめます。気のあった友人たちと、自分が作ったサンスーシー宮殿(「憂いなし」という意味)にこもって文学談義をし、好きなフルートを吹いて、自分で121曲も作曲して、最後は親友たちが鬼籍に入りひとりぼっちになってからは、大好きな犬達とだけ暮らし、遺言は犬達といっしょに埋葬してくれで、本当に犬達の墓のそばに眠っているという。

 歴史を調べていると、ふと涙でてくることあります。「ああ、この人は」と思った。この人は、本当はこうやってヘラヘラしていたかったんだ。死ぬ瞬間まで、18歳の頃に家出した気持ちのままだったんだ。でも、でっかい「条件」押し付けられて、腹くくって、それをやり遂げ、それも世界史レベルで超一流にやりとげ、それでも本当はひきもりたかったんだ、晩年が友達に囲まれて良かったね、犬達と一緒に眠れてよかったねって。

 同じような例は他にもあります。
 例えば、あるいは伊能忠敬さん。日本地図作った人ですね。この人も婿養子として大企業に入って、頑張ってビジネスマンやって、家業を盛り立てた。「もうこれでいいでしょ?」ってことで隠居を願い出て、やっと認められたが50歳前くらい。そこから江戸にいって勉強して、後に17年かけて日本行脚して地図を作る。今で言えば、65歳かそのくらいから第二の人生、本当の人生が始まっているようなものです。

 あるいは西行法師。佐藤義清という立派なエリート武士だったのに、あるとき出家。23歳だけど、当時の年齢感覚だったら今の35−40歳くらいなのかな。全国を放浪して名歌を残した。ま、名作を残すのがメイン目的ではなく、あっちゃこっちゃ行ってヘラヘラしたかったんだろうな。最後の和歌は、有名な「ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比」で、「どうせ死ぬなら、桜のころがいいな。桜の花がひらひら舞い降りてくる春のころ、如月の、そして満月が出ているときに死にたいよね」と事前に詠んでいて、本当にその頃に死んだという。

 ねえ、ヘラヘラするのも大変だよな。でも、皆頑張ってヘラヘラしてるんだよな。えらいよな、負けてらんねえなって。


 最後にオマケ。
 今回書いたエッセイの内容を二行で要約したような歌詞があります。
 最初に聞いて、歌詞カードみたときに、「そう!」って思わず叫んでしまった。


   俺は旅人 この広い世界で 欲しいものは きれいな水!
   クリームの夢を見た朝に ひとり最期を迎えるつもりさ


 知ってる人は知っている(当たり前だが)、BLANKEY JET CITYの"Raindog"に出てくる一節ですね。この曲、大好きです。結構、曇り空チックで、暗鬱なこと歌ってるんだけど、ウェット成分ゼロ。カラカラに乾いてる。その乾いている感じがいい。「ハロー、ボーイ、教えてやろう」だもんな。



文責:田村



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