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今週の一枚(2013/11/18)




Essay 645:血まみれの心臓を目の前に突き出された感じ

〜喧嘩道入門(5)他人の動かし方(4)
 写真は、Dudley Page Reserve, Dover Heights。
 どこそこ?というと、ボンダイJCのちょい北、ワトソンズベイのちょい南。写真の地平線中央やや右のビルが3-4個建っているのがボンダイジャンクションです。観光バスも停まったりしているから、パックツアーでシドニーに来た人は見たことあるかも。ここからオペラハウスまでスカッと見渡せて、"just around the corner"(「もうしばらくしたら」「目と鼻の先に迫った」の意味のイディオム。よく使う)のNYE花火のVantage Point(眺めの良い場所)にも挙げられます(ココとか)。

 しかし、何が見えても見えなくても、このだだっ広い、スカーッと何もない感じだけど僕はうれしい。「ひゃっほ〜♪」と歓声上げたくなってしまう。小学生時代、川崎多摩地区の新興住宅地、整地途中でまだ家が建ってない広大な開発地が遊び場だった僕の心象風景でもあります。このくらいスカスカでないと落ち着かないという。そういうタイプの人にはオーストラリアはいいですよ。「ありえないくらい人口密集地」で「人が住むところではない」と言われるシドニーでコレですから。



承前

  第一回(Essay629)「喧嘩論」入門〜自他の超克
  第二回(Essay630) 自力救済と自分史編纂委員会
  第三回(Essay642) マシンのように法制度を使い倒せ〜 他人の動かし方(1)
  第四回(Essay643) 救済措置を作動させない「邪悪な思惑」と真の強者〜他人の動かし方(2)
  第五回(Essay644) 男気刺激ホルモン〜 他人の動かし方(3)

 前回の最後部分------

 さて、ここまでで@嘘がないこと、Aひたむき・真摯なことという2条件が出てきました。
 でも、これだけでばない。まだあると思います。なぜなら@Aだけでいいなら、カルト宗教に熱心に勧誘されるような場合も入ってしまいますから。この場合だって嘘はないだろうし(勧誘者本人はそう信じているだろうし)、A真摯であるという点でも、真面目にやっておられるでしょうから@A条件は満たしているのですよね。でも、だからといって、「おっしゃあ」になるかというと、そういうものでもないでしょう。何かが足りない。ゆえに他にも要素があるはずだと。


 ということで、続きます。
 さらに第三の条件が必要だろうと話ですが、それは「価値性」だと思います。

第三の条件:人間存在の真実性と本物感

 その人がやろうとしているコトが、何らかの意味でプラスに感じられなかったら、やっぱり力を貸してあげようという気にはならないと思います。「なんらかの意味でプラス」というのも曖昧な概念で、ここを表現するのは超難しいのですが「価値のあること」だと思えるかどうか。

 逆に「価値があるとは思えないこと」の例を出したら分かりやすいと思うのですが、例えば、脱税をしているので手伝ってくれとか、一生懸命スートーカーをやってますとか、頑張って企業恐喝に精を出しています、胡散臭そうなビジネスでカモを騙しまくっていますとか、こういう場合には中々「おし!頑張れ!」とは言えない。そりゃあ確かに@やりたいという意思に嘘はないだろうし、A一生懸命なんだろうけど、だがしかし、その気にはなれない。

 なぜか?
 やってるコトが気に食わないからでしょう。

 何がそんなに気に食わないかというと、ここが24面カットのダイヤモンドみたいに様々な言い方が出来るところなんですけど、、、、いわく「良くないこと/反社会的/違法だから」「意味ないから」「ポジティブじゃないから」「賛同できないから」「まっとうに生きるという本質的な部分から外れているから」「ナチュラルじゃないから」などなど、本当に様々な角度から言えます。

 それらをひっくるめて僕なりにエッセンスを取り出すと、「生理的に価値が感じられるかどうか」だと思います。

 ここ注意が必要で、価値が客観的に「あるか/ないか」ではなく主観的に「感じられるか/感じられないか」、であり、その基準は理屈ではなく生理的な感覚であることです。

正しければ良いというものではない〜ドン・キホーテの事例

 例えば、募金や寄付金活動、あるいはボランティアへの誘いとか、「世界人類の平和のために」「社会正義のために」という、言ってることそれ自体はこの上もなく正しく価値があることであったとしても(一切の騙しや詐欺ではないと仮定しても)、だからといって心が動くとは限らない。あまりにも正しすぎる主張は、正しすぎるがゆえに妙に馴染めなかったりもします。正しければ良いというものでもない。

 さらに、意味や正義があまり感じられないこと、全くの違法ってわけではないが「それって意味あんの?」「かなり徒労だと思うけど」「しょーもな」と感じられることであっても、それでも応援したくなるときもある。場合によっては違法な場合ですら応援したくなることもある。

 典型的なのがドン・キホーテ的状況です。死を決意して風車に向かって突撃していくドン・キホーテは、客観的には全く無駄で意味のないことをやってます。それに気づかない本人も、まあ、はっきり言えばアホです。違法ではないだろうが、意味も価値もあるとは思えない。にも関わらず、なんとなく心情的に応援したくなるときもあります。何故でしょう?

 より具体的な事例に置き換えるなら、近くに巨大なショッピングセンターが出来てしまい、駅前商店街はシャッター街になっている。それでも二代目になった若旦那は、店を開け続け、あれこれ涙ぐましいまでに工夫して商売を続けようとしている。時代の流れや経済的合理性という意味では、まさにドン・キホーテ的であり、そんなことやっても遅かれ早かれ続かなくなるのがミエミエで、言わば「無駄な努力」であり、やってる人間はアホである、というのが通説的見解でしょう。しかし、無力なまま大勢に迎合するのを潔しとせずに、納得出来ないものには敢然と挑戦していく姿に、ふと心動かされることもある。

 「蟷螂(とうろう)の斧(をもって龍車に向かう)」という言葉があります。カマキリが巨大な車に向かって立ち向かうという、圧倒的な微弱な力で、どうしようもない強敵に立ち向かうさまを表したものです。こんなの無理無理絶対無理の世界で、いわば自殺行為といってもいいんだけど、でもそれをやってる人を見ると、ふと心が動かされる。戦時中の特攻隊なんかまさにそうで、あれを単に「無駄」「犬死に」の一言で済ませてしまっては、なんか申し訳ないような気がするし、なにか大事なものを取りこぼしているような気にもなる。

判官びいきの本質

 日本人には「判官(ほうがん)びいき」というメンタリティがあるといいます。源(九郎判官)義経のことで、天才武将でありながらも政治音痴であるがゆえに、いつしか権力の頂点に立った兄頼朝に疎まれ、ついには全国指名手配され、東北の地まで逃げ、最後は戦死。当時の法秩序では、この「逃亡犯」義経をかばうのは違法です。犯人蔵匿罪。しかし、心情的には納得しにくい。可哀想じゃん、理不尽じゃんって思いもある。義経一行の逃避行中、石川県小松市(安宅の関)で職務質問を受け、怪しいとなって絶体絶命。そのときに義経を救うために家来の弁慶が「こやつは取るに足らぬ小者です」といい、その証拠として(心で泣きながら)主君の義経を打ち据える。それで無罪放免となるのだけど、警察署長の富樫左衛門も本当は見抜いていた。見抜いていたけど、その主従のありように心打たれて、騙されたふりをした。これを知らなきゃ日本人じゃないよってくらいド有名な歌舞伎十八番の一つ「勧進帳」ですね。

 ちなみに、最後の弁慶のソロパフォーマンスが超カッコいいですよね。小学校の頃たまたまTVで見てて、「うわ、かっけー」と思った。まず、静の部分が先にくる。感無量という心情表現〜富樫氏の武士の情けへの感謝、虎口を逃れた安堵感、これからの前途多難感、なんでこんな苦労しなきゃいけないのという理不尽感、それでも主君義経とともにこの難所を切り開いていくしかないのだという覚悟、、同時に幾つもの強烈な感情が沸き上がってきて収拾がつかなくなって、しかしそれも強引に心に収めていくという超難しい心情演技を、首の上下動と絶妙なタイム感、「間合い」「ため」だけで表現しているところが凄い。だって見てたらビシバシ伝わってくるもん。

 そして一転して動のパートになる。カーン!という拍子木に合わせて寸分狂わずキャッ!キョッ!と瞬時に体勢を変えて見得を切る元祖ヒップホップみたいな動きが凄い。手のひらの角度がめちゃくちゃ雄弁。しかもリズムがあるんだかないんだかの変則無拍子。しかも緞帳で仕切られて見えないバック。目も合わせられない、一切の合図もない。ライブで一番難しい、リズムに頼れない無拍子、息を合わせ、気を合わせる。そしてアリーナの花道を「飛び六方」といわれる片足ケンケン状態で退場するときの、その力強いんだけど羽毛のように軽いという絶対矛盾を合一させちゃってる身体表現が凄い。

 そて、この判官びいきメンタリティはどこから生じるのでしょうか。法形式的には指名手配犯人一味と警察の癒着であり、あってはならない警察の不祥事なんだけど、でも日本の庶民は数百年にわたって喝采を送っている。なんで応援するの?なんで感動するの?違法行為なのに。また、ここで逃げたとしても相手は国家権力そのものであり、やがては刑殺されるのが目に見えているのであって、無駄、無意味、無価値の三拍子揃っているのに。でも、応援したくなる。なんで?

 全共闘華やかなりし頃、新宿騒乱などで機動隊に追いかけられてきた若い学生を、かばってしまう商店街の人もいたといいます。やってることには賛同できない。しょせん世間の辛さもしらないクソ甘ったれた学生が何ほざいってんだって思いの方が強い。あんな騒いで世の中変わるんだったら世話いらないわって。実際、クソ甘ったれていた団塊の世代が就職して甘ったれなくなった途端、模範的なサラリーマンになってものの見事に体制に迎合して生きているわけだから、この商店街のおっちゃんに象徴される「世間の見解」はあながち間違ってるわけでもない。だから、日頃は吐き捨てるように「あいつら」呼ばわりするんだけど、でも、痩せこけて、血だらけになって、目だけギラギラして、しかし迷い犬のように臆病にオドオドしている若者を目の前にしたら、「早く、こっちに入んな!」と言ってしまったりもする。

 つまり正しくなくてもいい、意味なんか無くてもいい、無駄でもいい、場合によっては違法ですら良い。さらに、自分が否定したいような価値観であってすら良いときもある。一方では、異議を唱える気にならないくらい正しいこと、意味のあることであっても、なぜか協力したくない気分もありつつ、他方では、全てにおいてダメダメなんだけど、それでも力になってやろうという気になるときもある。

人間存在の真実〜血まみれの心臓のリアリティ


 なんて不可思議な!なんて法則性のない!男気発動メカニズム。
 さきほど「24面カット」といったのは、ある一面ではそうであっても、他の一面ではそうではない場合もあって、なっかなか統一した基準が見つけにくいという意味もあります。

 それを無理やり統一的に言おうとしたら、「何らかの価値」があるということを、頭で理解するのではなく「生理的に感じる」かどうかなんだろうなって思うのです。

 そして、ドン・キホーテも、シャッター街で頑張ってる二代目も、九郎判官も、機動隊から逃げてきた学生も、共通して「いいな」と思える部分があり、それをまた無理やり言葉にすれば「人間存在の真実」みたいなものだと思います。

 圧倒的な逆境、ほとんど風前の灯火、もう死刑まで秒読みたいな絶体絶命で、それでもたった一人で戦おうとする姿に、なんらかの感動が宿る。そこには、「生きる」「生きたい!」という掛け値なしに本物の生命エネルギーが感じられるし、「自分が自分でありたい!」という血を吐くような魂の叫びがある。一個の実在としての人間そのもの。ドクドク脈打ってる血まみれの心臓を目の前に突き出されたかのような、人間存在の真実。

 ま、そこまで大仰ではないのだけど、それに通じるものを感じさせる。それを感じてしまうと、人はたやすく感動する。

 前回、「真摯だとなぜ人は感動するのか?は後述する」と書きましたが、ここで書きます。それは日ごろは日常にかまけて忘れている、「生きる」という意思エネルギーそのものに触れるからだと思います。このエネルギーは僕らが生きていく源になる根っこのエネルギーです。それだけに圧倒的な影響力を持つ。「そうだよな、生きるってそういうことだったんだよな」と。血まみれの心臓を目の前に突き出されたら、自分の中にあるピュアな「生き物」の部分が「応!」と呼応共鳴してぬーっと立ち上がってくる感じ。だからこそ感動するのでしょう。

 ということは、大事なのはこの生命エネルギーがどれだけピュアかどうか、どれだけの強度で感じられるかであり、なんでそんなことやってるの、それは意味あんの?合法なの?なんて枝葉末節はどうでもいい。24面体のようにいろいろな表現が出来るけど、どれも統合的に説明できないのは、それが枝葉だからでしょう。

 でも、あまりにも根源的で、あまりも奥の院にあるエネルギーだから、言葉ではなかなかそうとは認識されない。ただ、「胸を打たれる」とか感覚的なものでしかない。それが何かは明確にはわからないけど、何となくかけがえのない価値を宿しているように感じられる。「何らかの価値」「生理的に感じる」というのはそういうことです。

ほんの一滴でいい


 この生命エネルギー的な要素は、あまりにも根源的なもの、生きるエキスみたいなものですから、そんなに大量には必要ないです。そんなにドバドバ必要ない。ほんの一滴でいいでしょう。

 ほんの一滴だけであっても、それを感じられたら、「おし!」という気分になります。

 また、そんな生きるか死ぬかみたいな大掛かりな舞台設定は要りません。
 その昔、なんかのCMで見たのかな、NYあたりの路面店に陳列されているピカピカのサックス。それを黒人の子供が、顔をガラスにびたーっとくっつけて食い入るように見つめているだけのシーンです。欲しい。でも逆立ちしても買えない。買えないけど欲しい。吹きたい。演奏したい。30年以上前の記憶だけど今でも覚えているくらいだから、かなり印象的だったんだろうし、「---!」と言葉にならない感動をした。

 何がそんなに印象的だったのかといえば、やっぱその子の目が表現していた「〜したい!」という心からの欲求がピュアで、それが突き刺さってきたからでしょう。だから別に生きるか死ぬかという大袈裟な話である必要なんかないです。大事なのは「心から」という部分。いわば源泉の確かさとピュアさだと思います。

 そういえば、"Oceans11"という映画の続編の続編、13だったかな、で、奸計をめぐらせて誰かに巨額な寄付をさせた(んだったかな)ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットが、思いがけないプレゼントに狂喜する子供の姿を映し出しているテレビ画面をじっと見ているシーンがありました。いかにもアメリカって感じのオプラ系のバラエティ番組で、ソファの上を激しくバンバン飛び跳ねながら全身で喜びを表現している幼い子供。じっと見る二人。しばし沈黙。ぼそっと「いいな」「、、ああ」といってブラピがグスッと鼻を鳴らすシーンで終わるのですが、ベタなんだけど感動しちゃいましたね。

 他人がピュアに喜んでるとこっちまで嬉しくなるのはなぜか?といえば、やっぱりこの生命エネルギーでしょう。子供が、「え?ほんとっ!?」とパッと明るい顔をする瞬間とか、いいですよね。合格発表を半泣き顔で自分の番号を探して探して、自分の番号があって、じっと動かず表情も何も変えず、それを見つめて確認して、見つめて確認して、見つめて確認して、間違いない、あった!受かった!と心から得心できたとき、声もなく、くたくたとその場にしゃがみこんでしまって動かなくなってしまう受験生の姿とか。やっぱ感動しますよ。キミは感動しないかもしれないけど、俺は感動するぞ。


 ドラマチックな状況である必要もないです。
 なにげない普通の人が、普通に地味に生活している一断面を垣間見ただけでも、感動するときは感動します。

 和久峻三の小説だったか、タイトルもストーリーも忘れたけど、強烈に印象に残ったシーンがあります。某邪悪な組織の口封じのために、たまたま秘密を知ってしまった地味で真面目な公務員さんが、職場からの帰り道に交通事故を装って轢き逃げされる事件があった。事故直前の状況は、ケーキ屋に寄ってイチゴショートだかを幼い娘のために買っていた。安月給で風采も上がらず、地味な擦り切れたコートを着ていて、それでも娘の喜ぶ顔が見たくてケーキを買う。その買い方もしみったれてて、お金が乏しいから、これかな?あ、やっぱこっちかな?と逡巡しまくって、ケーキ屋の店員がしびれを切らすくらい中々決まらない。大事そうにそのケーキを持って歩いているところを殺された。

 で、主人公はその被害者の心情と無念さを思い、そして残された幼い女の子のことを思い、「この犯人だけは許せない」と思ったというくだりですが、僕も許せないと思った。地味で、真面目に、まっとうに生きている市井の人達の、このササヤカではあるけど、絶対に嘘のない愛情以上に大切なものなんかこの世にねーよ、あってたまるか馬鹿野郎って感じですよね。

 これだって情景的には、くたびれたおっさんが懐中を心配しながらケーキを買うという日常のありふれた光景でしかないのだけど、それが感動を生むこともあります。これは、もう見る人の目次第で、その目でみたら、この世は歓喜と感動に満ちているのでしょう。

 で、結局、何がポイントかといえば、生きるということ、人間が生きてそこに存在しているということ、その真実感本物感がふとした拍子に感じられるかどうかでしょう。要は本物であるかどうかであり、後は全部枝葉に過ぎない。そして、それがエッセンシャルオイルみたいにピュアな本物であることがわかればそれでよく、それは状況や舞台設定は問わないし、ほんの一滴あれば十分です。

嘘要素もほんの一滴でいい〜百年の恋が醒めるとき

 その逆も言えるでしょう。
 すなわち、この純粋さを疑わせるような要素も、又、一滴あれば十分だということです。

 その人の必死さやひたむきさに打たれ、感動しかかっているとき、ふとした弾みで「なにか」が見えてしまうことがあります。そして、それが見えた途端、垂直落下のようにスーッと熱意が冷めることがあります。

 「それ、嘘だろ?」「結局、自分が楽したいだけだろ」「なあんだ、そーゆーことかよ」と。
 つまりは「幻滅」です。

 悔い改めました、毎日必死にやってます、この子だけでも病院に連れて行きたいんです、真人間に戻りたいですと涙滂沱で手をついてお願いされたから、情にほだされていくらか貸してあげるとします。でも、ふと虫の知らせでこっそり後をつけてみたら、今さっき自分が貸したばかりのお金を持ってパチンコ屋に消えていくとか。

 先生お願いします、もう先生しか頼れるところはないんです、これでダメならもう一家心中しかないんです、私は自業自得だからいいですけど、せめてこの子だけは、、と伏し拝まれて、男気出して、無料で引き受けました。あとで、たまたまトイレの個室で、「あんな若造、世間知らずだからちょろいもんよ」と話しているのを偶然聞いてしまいましたってケースもあります。僕自身の経験ですけど。それも類似事案たくさんありますけど。慣れますけどね。「なるほどね、そういうことですか」と。

 あるいは幻滅というほどハッキリしたものではなくても、「あれ?」という違和感を覚えることもあります。誠実だわ、素敵だわ、尊敬するわって思ってたんだけど、ふとした言動に違和感を抱く。

 例えばよくあるパターンは、「そういう自分に酔いたいだけ」ってのがあります。蟷螂の斧で頑張ってます、絶体絶命です、でも諦めません、頑張ってますってやってるから、つい応援したくなって、贔屓にしたりカンパしたりするのだけど、よくよく見てるとあんまりやることやってない。そうやって「頑張っている自分」というのを演出して、ヒロイックな気分に浸りたいだけってのが段々見えてきたりすると、百年の恋も醒めるでしょう。

 あるいは、世のために人のため、理想のため、一生懸命頑張ってる人がいる。尊敬する。そして真実頑張ってるし、そこに一切の手抜きがないこともわかる。ますます傾倒する。だけど、ふと感じる違和感。これは何なんだろう?と奥歯にものが挟まったような、残尿感のような、なんかスッキリしない。なんなんだろうと思ってたら、ある日、「ああ、この人は」と天啓のように分かるときがくる。ああこの人は、誰よりも民衆のために働きながら、誰よりも民衆を小馬鹿にしてるんだ。自分が頭ひとつ図抜けていると思っているんだ、そのエリート感を満たしたい、それを形にしたいから頑張ってるんだ。エライ自分を実現することこそが本当の目的で、民衆も正義もその道具に過ぎないんだってのが、ある日あるときクリアに見えることがある。

 で、「なあんだ、そういうことですか」ってことになって、一気に醒める。

だから可愛いんじゃん?

 もっとも、この程度のことで評価が水銀柱のように上がったり下がったりしているうちはまだコドモだって気もしますけどね。コドモはすぐに騙される。てか、騙してなくても勝手に思い込む。複雑なものをありのまま複雑に見られない。それだけの現実解析能力がないから、良い/悪いの二進法デジタルでシンプルにしか見れない。だから、非常にわかりやすいパターンにしか反応しにくいし、パターンにはまったらすぐに反応して感動する。すぐに感動するからすぐに幻滅する。ピュアといえばピュアだし、粗雑といえば粗雑。昔のデジカメのように画素数が少ない。

 年齢でいえば、十代が激しく乱気流になるのは当然で、20代でもまだ引きずるし、30代でもオネショがなかなか直らない子供のように、まあいるでしょう。でも、40歳過ぎてまだこの種の幻想・幻滅の着いたり消えたりをやってたらとしたら、ちょっとヤバくない?

 上に事例でも喜んで騙されてやっていればいいんですよね。人間ってのはそんなもんだろ、だからこそ可愛いんだよなって。お金を値切りたい一心で、わざわざそこまで演じていただいてすみませんね、お手間かけさせましたねってなもんです。40代くらいではまだ枯れきってないから、ちょこっと色気も残ってて、「実は全部お見通しですよん」ってさりげに伝えてみたくなったりもしますが、50過ぎたらそれもないよな。入神の演技で騙されましょうって。

 また上のエリート君の場合も、可愛いじゃん。そんなことで他愛なく頑張っちゃってるんだから、もう子供みたいに純真じゃん、可愛いよ。精一杯突っ張ってんだからさ、突っ張らせておあげなさいよって。それに、人間心理なんかそんなに白黒100%明確になるべくもなく、エリート意識を満たしたかったらもっと威張り散らすことが出来るポジションだって幾らでもあるわけだし、それをわざわざこんなことやってるってことは、理想や真情も幾分かはホンモノでしょう。どんな人だって、完璧に虚栄心ゼロなんてこたあないよ。あって当たり前。それをちょっと見つけたからって鬼の首でも取ったように騒いだらあかんよ。

 もっとも、こんなのは年齢の問題だけではないかも。いい年ぶっこいて口を開けば「騙された」とか、「政治家はけしからん」とか、「愚民どもが」とかさ、時間はたっぷりあったんだからさ、少しは学ぼうよって。そんな水戸黄門みたいな世界観で世の中回ってないでしょ。もうちょい陰影があって複雑だってば。逆に15歳で上にレベルに達観している子供もいるだろうね。「もう、お父さん、しょうがないんだから」って。賢い子だったら8歳くらいでそのレベルにいってる。未公開だけど20年以上前に書き散らした雑文があって、そこに5歳の子供という設定で「ママ、可哀想なママ。大丈夫だよ、心配しないで、もう少しママの子供を続けるから。ママには僕しかいないから」とか書いたことがあります。本質的に聡い子って、気持ち悪いくらいに賢いよね。一方では、信じられないくらい阿呆で無邪気な大人もいるし、だから年齢じゃないよなあ。でもアホで無邪気がダメかというとそういうわけでもなく、その賢い子供が心から尊敬する大人がその無邪気な大人だったりもするわけで、いや、人間って面白いです。

 話はちょっとそれるけど、このエッセイの共通したテーマなんかもしれないけど、いわゆる人生の「修行」ってなによといえば、複雑なものをありのままに複雑に見るだけの画素数の多さなのかもしれません。クリアに、細かいヒダヒダも明瞭に。それが見られるようになればなるほど、別の高いところに登らなくても、別にこの世の果てまで冒険しなくても、いまいるこの場に、美しいもの、尊いものは唸りをあげて存在することが分かる。世界は歓喜と感動に満ちていることが段々わかってくる。でも、なかなか修行が足りなから、目が曇っててそれが見えない。猫に小判状態。自分に自信がない段階では、どうしても自分の心を庇うから「自分オタク」になって、我利我利亡者になって、やれここが傷つきました、あ血が出てます、もうダメです、死ぬしかないです、この世は闇ですって感じだけど、徐々に見えてくる。あんなことやったり、こんな目にあったりしているうちに、徐々に視界が晴れてくる。それを修行というのでしょう。

黒魔術〜聖性と邪性

 さて、ここまで踏み込んだら話が泥沼になるというか、また振り出しに戻る危険もあるのですが、思いついてしまったので書きます。

 「人間的」といいましたが、人間性には素晴らしい人間性もあります。ヒューマニズムというのは直訳すれば「人間主義」であり、人間は人間である根源において素晴らしいってことでもあります。だから人間性=善性、聖性といってもいい。

 でも、本当にそうか?という真逆な視点もまたあります。人間は常に素晴らしいわけではない。浅ましかったり、醜悪だったりもします。嘘をつき、虚栄を求め、怠惰に流れ、他者を欺き、残酷に傷つけ、裏切るのもまた「人間的」っていえば人間的でもあるでしょう。人間には邪悪性もたっぷりある。

 自分が生き残るためにはどんな手でも使う。嘘八百並べても、空涙を流すことも、無辜の他人に罪をなすりつけてでも、ギリギリに追い詰められたら、生物としての生命本能のおもむくままどんなことでもやりかねない。それこそ血を分けた肉親ですら、叩き殺してその肉を喰らうくらいのことをやるかもしれないし、歴史においてはそんなことも皆無ではない。さらに、追い詰められなくても、いや満たされていたとしても、それでも尚強欲になりうる。他人にチヤホヤされたい、真面目に努力したくない、楽をしたい、常に正当な対価以上のものを何とか得られないとかセコい画策をする。たやすく嫉妬し、妬心にかられたらどんな卑怯な手でもつかい、自分よりも優れたものを引きずり落とそうとする。

 こんなことは幾らでも並べられますが、目を背けたくなるようなイヤらしい部分も、また人間ならではと言えなくもないです。「それが人間ってもんよ」って言ってしまうこともできる。

 ということは、「人間の真実」といっただけでは、聖なるものも邪なるものも全て含まれてしまう。というか、存在としての真実でいえば、そういった正邪、美醜の区別すらないのかもしれません。

 それでも僕らは、「いいな」「イヤだな」って直感的に分かる。なんで分かるんだろうね。ひたむきな愛情を美しいと感じ、陰湿な嫉妬を醜いと感じる。誰に教われなくてもそう感じる。分かる。でもどうして?なんで?

 ここまでくると、プラトンの真・善・美や、カントの「ア・プリオリな」「先験的感性論」になって、話は哲学の深淵に突き進んでいって、僕がごとき未熟者は「あーっ」って虚空に絶叫を残してナイアガラの滝壺に消えてしまいそうなので、この程度にしておきます。

 ただここで言いたいのは、正邪どちらであろうとも、それが人間存在の真実という、ホンモノだけがもつ異様な電磁界をもっていたら、プラスにもマイナスにも強力に作用するだろうということです。

 その気になっていない他人をして、一転して熱烈にその気にさせる。それは一種の魔法や魔術みたいなものです。そういった臨界状態を引き起こすのは、人間存在の真実という強烈なエネルギー磁場なんでしょうけど、電気にプラスとマイナスがあるように、人間性にも聖性と邪性がある。天使界と悪魔界があるように。そして、そのどちらも強力。

 それを魔術と呼ぶならば、白魔術もあれば黒魔術もあるだろう。
 今まで長々と書いてきたのは、いわば白魔術の世界です。「良き感動」によって導かれていくメカニズムです。

 ということは、これの鏡面世界のように真逆な裏世界もある。「悪しき感動」によって導かれ、人がその気になっていく世界。そして、これもまた強力であり、どっちかといえばこっちの方がより強力かもしれない。

 この例は、、、山ほどありますよね。僕らがもってる人間的なる部分、あんまり自慢できないけど、でも根強く持ってしまっている部分に訴えかける手法。それは自分の虚栄心であり、自分の虚栄心を脅かす他者を激しく憎悪する嫉妬であり、とにかく楽をしたいという怠惰な心であり、よりシンプルには性欲の満足であり、さらに変形された性欲の満足であり、地位や金銭への異様な執着であり、、、。

 「こうすると儲かりますよ」「寝ているだけでウハウハですよ」「ここだけの話ですけどね」みたいな、楽してお金が儲かりますよ、飲むだけでダイエットできますよ、ちょっとお高いけど効果てきめん10歳は若返りますよ、まだ日本には入ってきてないレアな一品ですよ、あの人に自慢できますよ、見返すことができますよ、ねえ馬鹿正直にやっても損するだけですよ、ま、ま、取っておいてくださいよ、皆やってることですよ、誰でもやってることですよ、どってことないですよ、ねえ、これまで真面目にやってきたんだから少しくらいハメを外してもバチは当たらないですよ。そうですよ、もとはと言えば相手が悪いんですよ、悪い奴はこらしめたらいいんですよ、やっちゃいましょうよ、自業自得ですよ、それでその人が自殺しちゃったら?しょうがないですよ、自業自得なんですから、自己責任ですよ。

 他人を「動かす」「その気にさせる」ということだけが目的ならば、この方が簡単かもしれません。悪魔の囁きは、天使のかぼそい囁きよりも、常に快く、常に聴きやすいですから。でも、オススメはしませんけどね。それにこれって一番最初に「ルール違反」にした「利益誘導」のカテゴリーに入るから、メインには論じてません。ただ、人間性をいうなら、そういう裏世界もあるよって話でした。


 以上、意外と長くなってしまったけど、原理はこのくらいです。あとは日常生活のライトな応用編があります。例えば「"Sorry"って言わずに"Thank you"って言う」とか。そのココロは、自分のダメさ加減を反省するヒマがあったら、喜ぶべきときはちゃんと天真爛漫に喜んで、生命エネルギーを相手にお返しすべきであって、それが「対価」というものだってことです。その種のちょっとした小技というか、コツというか、そういうことですね。色々あるけど、これはまた別稿で。



文責:田村



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