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今週の一枚(2013/11/04)



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Essay 643:救済措置を作動させない「邪悪な思惑」と真の強者

〜喧嘩道入門(4)他人を動かす(2)
 写真は、Newtown。
 歴代ニュータウンの写真が多いのですけど、やっぱ絵になる風景が多いんですよね、ここは。ちょっと目を離すと、いつのまにかこんなものが描かれているし。



承前

  第一回(Essay629)「喧嘩論」入門〜自他の超克
  第二回(Essay630) 自力救済と自分史編纂委員会
  第三回(Essay642) マシンのように法制度を使い倒せ〜 他人の動かし方(1)

 前回の最後部分------

 まとめますと、他人を動かす場合の@意思に反して動かす場合のうち、動くことが制度化されている場合について今回は述べました。制度化されていない場合、ほとんど強要罪とか脅迫罪みたいな利益衡量の力学については次回述べます。今回の制度やシステムでも、意図的にサボタージュされる場合もあるし、受理はするけど全然やる気が無いって場合もあります。そうなると、やっぱりお尻を叩いてやってもらうことになりますが、それが出来る場合と出来ない場合とかあり、その構造原理はどうなってるの?というお話です。


 ということで、続きます。

 他人の意思に反してやらせる方法論ですが、前回述べたように、「逆らうともっとヒドイ目にあう」という利益衡量によって、「しゃーないな、やるしかないか」と思ってもらうことです。

 しかし、本来は自由であるべき人の意思をねじ曲げるわけですから、本質的に一定の毒性を持ちます。場合によっては、強要、脅迫、恐喝、強盗という犯罪性すら持ちます。殺伐としたエリアなんですよね。

 したがって、むやみにお勧めすべき方法論ではありません。
 王道は、この次に述べる「自発的にその気になってもらう」「気が変わってもらう」ことなんですけど、でも、このパートもやっぱり一応履修科目ということになるかと思います。犯罪を行う方法としての履修ではなく(もちろん!)、最低限の自己防衛としてです。

邪悪な自由意思

 なぜかというと、最大に尊重されるべき相手の「自由意思」といっても、その自由意思が常に正しいとはとは限らないからです。「邪悪な自由意思」ってのも世間にはありますから。

 例えば、前回述べた法制度やシステムでは、一定の要件を満たせば、担当者はこれを受理し適式に事務を進めないとならないのですけど、それでもやらない人もいます。理由はさまざまですけど、「面倒臭い」というヘタレな理由もあるだろうし、「お前が気に入らないからやってやらない」という意地悪な理由もあるでしょう。そして担当者個々人の思惑を超えて「やってあげたいけど某邪悪で大きな力が働いているから、やるわけにはいかない」という場合もあるでしょう。そういうことって、実は結構あります。

ケーススタディ〜警察の被害届がなぜか受理されない件

 犯罪が発生したら、ただちに警察が出動!速やかに犯人を逮捕し、治安が守られました!というのが理想ですし、世界的には日本はよく頑張っている方だと思います。

 しかし、常に必ずそうなっているわけでもない。
 まず、「社会資源の配分」という絶対的な制約があります。

 帰宅したら家を滅茶苦茶に荒らされていて数十万円相当の被害に遭いましたという、一生に一度あるかないかの個人的には「きゃー!」体験も、警察にとっては「はいはい」くらいのルーチンでしかない。一応ちゃんと来てくれて、調べてくれるんだろけど、TVの刑事ドラマのように鑑識の人がドドドと多人数でやってきて、捜査本部が開かれて全国指名手配がなされて、、みたいなことはない。要は「お役所への届出」くらいの事務手続きで終わってしまう。

 「なんでもっと真剣に捜査をしないんだ〜!」って被害者としては思うんだけど、全国の窃盗犯認知件数は平成23年(2011年)度で133万件もある(平成24年度犯罪白書)。一方、犯罪は窃盗だけではなく、全ての刑法犯の認知件数は214万件。これに加えて、道路交通法や覚醒剤取締法、風俗営業取締法などの特別法犯があり、これらの認知件数が52万件。さらに少年非行がある。

 一方、日本の警察職員の数は約30万人弱で、これは事務職も含めた数字であって現場で動く司法警察スタッフの数はもっと少ない。というか、警察というのは犯罪ばっかり扱っているのではなく「犯罪を扱う部局もある」というにすぎない。典型的な都道府県警の組織図を見ると、県警本部長の下、総務部、警務部、生活安全部、地域部、刑事部、交通部、警備部であり、これに警察学校やら、運転免許試験場やらがある。

 これを思いっきりぶっちゃっけて翻訳すれば、「現場はめっちゃ忙しい」ということでしょう。生活安全部のように市民よろず相談みたいな部局になったら、やれ非行少年だ、空巣だ、チャリンコ泥棒だ、飲み屋で喧嘩だ、痴漢だ、、、と年がら年中所轄を駈けずりまわることになります。一人あたりで同時並行で何十件という負担だとも聞いたことがあり(確かにそのくらいやらないと数が合わない)、いくらプロとはいえ身体はひとつしかありません。

 かくして警察官の人員不足は常に語られ、しかしスポンサーである日本の本家(国)や分家(自治体)の財政は破産同然なので、おいそれと人も増やせない。

 そして、人数不足だけが原因ではないのだろうが、検挙率は激減していました。

 ←左は、上の統計数値を探している時に発見した図ですが(出典は上と同じく平成24年度犯罪白書の第1編 犯罪の動向)、平成元年〜14年の10年ちょいの間に検挙率(表での折れ線グラフ部分)が激減してることがわかります。最初にカクンと下がり始めるのは、バブル景気とその崩壊時期に呼応しています。

 かつては70%を超えていた検挙率が40%を切るところまで落ち込んでいる。約半減です。

 この時期に「警察は何やってるんだ!」的な批判も起きたでしょう。そこで警察も奮起して、急激に検挙率のV字回復をしていきます。さすが日本の警察、意地を見せました!って感じで「おお〜素晴らしい」と思うのだけど、よーく見ると「あれ?」という数値があります。

 棒グラフ部分で、犯罪数そのもの(認知件数)の変化です。
 これが平成10年過ぎてから途方もない勢いで伸びている。うなぎ上り。それゆえに検挙率も激減していきます。そりゃそうでしょう。同じ人数で仕事の数が増えたらやってられませんから。

 それは分かるのですが、分からないのは検挙率がV字回復をしはじめてから、反比例するように犯罪発生数も(認知件数)も減っている点です。もう一気に激減している。

 これを善意に解釈すれば、警察が本気で取締をしたので犯罪者達がビビってやらなくなったってことでしょう。それもあるとは思いますよ。でも、それで全てが説明できるのか?って気もします。かといって、平成15年以降、人々が良心に目覚めて、日本列島の「いい人比率」が一気に高まった、、、というのも御伽話でしょう。

検挙率という「数値操作」


 ここでカンの良い人は「ははあ」と思うでしょうが、この統計数値そのものが「大嘘」なのではないか?という疑惑です。いや、ここの数値に嘘はないだろうけど、カウントする基準を変えれば数値なんかいくらでも変わる。

 検挙率を高めるためには、論理的に二つの方法があります。

 @、真面目に検挙人員を増やすこと(犯人を沢山捕まえること)。

 A、もう一つは事件数そのものを減らすことです(母数を減らす)。

 ここでポイントになるのは、犯罪の発生件数と認知件数は違うということです。
 犯罪が発生しても警察がそれを「認知」しなかったら認知件数にはカウントされない。だから警察に被害届を出しても、「民事不介入」とかなんだかんだ言って「受理してくれない」ということになれば認知件数は減る。認知件数という母数が減れば、検挙率は上がる。

 お分かりでしょうか?
 話を極端に簡単にすると、犯罪が10件起きて、検挙解決できたのが5件だったら検挙率は50%です。ところが犯罪が急増して20件になっても、人員設備が従来通りだったら手が回らず相変わらず5件しか検挙できない。だから検挙率は5/20で25%に半減する。しかし、20件起きた犯罪のうち窓口で10件しか受理しなかったら、5/10で検挙率は再び50%に急増するという、簡単な算数です。

 その種の現場における数値操作が行われているのではないか?という疑惑です。

 これに対しては、「ありがちな話だよな〜」というのが僕の実感で、日本では(つーか人間というのは誰でも)この種の数値操作をやりたがります。女性のスリーサイズや年齢の「操作」など可愛らしいものから、放射能の「安全値」を操作して無理やり「安全です」と言い切ったり。

 余談ですが、「数値」というのはある程度は正しいけど、過信すべきではない。「数値目標」というのも一見客観的なようで、実は意外とそうでもない。

 既に笑い話と化していますが、旧ソ連の話を聞いたことがあります。計画達成!という至上命題を満たすために無茶苦茶をやる。生産目標120%達成するとその工場は表彰されたりするから必死にあの手この手を使う。目標達成度を例えば「重さ」ではかるとすると(総生産高○○トンとか)、ありえないくらい重い家具を作ろうとする。意味なく鉛を流し込んだりとかやるんでしょうか、大人四人でも持ち上がらないくらい使えない机ばっかり作るという。これが共産主義のダメダメパターンであると同時に、数値目標がひとり歩きするダメダメパターンでもあります。


 では、日本の警察もこんな旧ソ連みたいなことをやっていたのでしょうか?
 それは現場にいなかった僕にはよくわかりませんが、しかし、情況証拠的にはクロですよね。正確には、なんでこんなに犯罪が増えて、そして減ったのかという社会学的に緻密な検証をしてみないとわからないけど(でもその統計数値一つ一つがまた操作されている可能性もあるのだ)、普通に考えて、これだけ増大した犯罪が、わずか数年で潮を引くように減ったというのもよくわからない。そんなにこの時期に景気が良くなったということもないし。

 でもって、傍証的に調べてみました。
 つまり、「被害届、受理してくれない」あたりでググってみると、これがメチャクチャ出てくるのですね。右にググリ画面をキャプチャーしたものを貼っておきます。


 この問題はさらに突っ込んでもいいんですけど、本題から外れるから今回はパスします。ご興味のある向きは、ググった画面からそれぞれにリンクをたどってください。

 それでも2点だけ書いておくと、第一に、そもそも犯罪数が急増して検挙率が下がった時点で、「警察は何やってんだ」みたいな批判をしすぎるべきではないという点です。予算も人員も変わらず仕事量だけが増えたら、そりゃ達成度が落ちるのは当然です。何か悪いことがあると、僕らはついつい批判ばかりしがちだけど、「それはしょうがないよ」という部分も世の中には幾らでもあるのであり、そこを鬼の首でも取ったみたいにタテマエ正義ばっかり振りかざしたら、誰だって本当のことを言いたくなくなるし、結果的に正直者がバカを見ることになる。何らかの建設的な批判をしたいのだったら、批判と同時に「なるほどね」「それは分かるわ」という深い理解もセットにしてやらないと説得力がない。言われた側ととしても「勝手なことばっかり抜かしやがって」っていう気にもなる。こういった社会精神風土が「数さえ帳尻合わせれば」「誤魔化しさえすれば」という土壌になるのであって、こういう土壌を作り上げているという点では、僕ら自身もまた共謀共同正犯であるという点。

 二点目は、統計数値の怖さです。確かに(神のみぞ知る)犯罪実数も落ちているのかもしれないけど、不受理で操作されている可能性があるなら、本当は犯罪実数はこの統計以上に高いということになる。つまり、この表だけみていて、「安全になった」「治安が良くなった」と安心するのは禁物である、ということです。この逆も言えて、例えば統計上では状況は悪くなっているんだけど、実は真逆に良くなっているというケースもありえます。例えば、セクハラ件数が激増とかいっても、その昔はセクハラ概念すらなく、誰も問題にしなかったから統計数値が低く、それが段々皆の意識にのぼってきて、泣き寝入りしなくなったから形の上では数値が急増している、でも実数は減っている、ということもありえます。統計というのは、その読み込み方、解釈の仕方こそがイノチなんだろうなって話です。


 とりあえず本題に関するレベルでいえば、本来やるべき業務(被害届を受理して捜査開始)を、”某邪悪な力が働いて(数値のうえで検挙率を高めて警察の威信を守ろうというエライ方々のご意向とか)”、やらないという現象も、現実には起こりうるのだ、ということでした。

やらない場合の報復措置

 さて、本来やるべきことをやらないケースも多々あるという話ですが、上にように状況的に邪悪なベクトルが働く場合もありますが、もっともっとシンプルなケースもあります。

 つまりは担当者が、アホだとか、無能だとか、意地悪だとかいう、「人間的な、あまりにも人間的な((C)ニーチェ)」理由もあるでしょう。というか僕らが日常で接するのは、こういう場合の方が多いかもしれない。

お仕置き発動が円滑に進まないわけ

 いずれにせよ、「やらねばならないことをやらない」とそれ相応のサンクション(制裁、お仕置き)が待ってます。
 宿題を忘れる→廊下に立たされる、納期を守らない→取引打ち切りというサンクションがある。だから、担当官が真面目に仕事しなかったら、それ相応のサンクションの発動がなされなければなりません。

 ところが、この「お仕置き」がつねに円滑に発動するとは限らない。事実「お咎めなし」「やり得」というムカつく事態も結構あったりします。

 なぜかというと、お仕置きをするべき上級管理者/スーパーバイザーが常に監視の目を光らせているとは限らないからです。あたかもレフリーの見えないところで反則攻撃をするように、先生のいないところでイジメが起きたりするなど末端現場では監視の目の届かないので、ときとして治外法権化する。

 そこで「お母さんに言いつける」「先生にチクる」という「救済申立」が必要なのですが、これが一筋縄ではいかない。その種の法的な救済方法に関しては、日本の法体系は比較的整備されているのですが、前回述べたと同じような問題があります。すなわち、@救済方法があることを知らない、A救済申立の方法がわからない、B内容が専門的で難しかったりお金が必要だったりして実行が困難である、Cあとのリアクションが恐いのでしり込みする、、、、、などなどです。

 ここが難しくて実行困難だと、相手も「舐めて」くるのでしょう。
 本当はサンクションが課せられるのだろうけど、でもまあ、そうそう実際にはいくまいよ、と「たかを括る」という心理になる。いくら理論的には、利益衡量の秤が「やるべし」に傾こうとも、反対側の皿に置かれるべき「お仕置き」が実際には無いだろうという予想をすれば、「やらなくてもいいか」って判断になるということです。これ、人非人の発想のようですけど、僕らだっていつもやってますよね。「まあ、このくらいいいだろう」「分からんだろう」ってタカをくくる。例えば駐車違反、例えばスピード違反。本当は減点や罰金の対象になるんだけど、まあこのくらい分からんだろう、即座にお仕置きが発動することはないだろうという「舐めた心理」になるという。誰だってやってるわけです。

 労働法を無視しまくった過酷な労働条件を押し付けても、従業員は黙って従うだろう、間違ってもローキ(労働基準監督署)に申し立てたり、民間の自由加入の業界労組にチクったりしないだろうと思われているし、実際にそこまでやる人は少ない。また本来は被害者同士であるべき従業員相互で、「俺だって我慢してるんだから、お前も我慢しろ」という奇妙な「奴隷的悪平等」みたいなものもある。ネットで告発しようとしても、マスコミがどれだけ取り上げるか分らないどころか、「甘たれんじゃねえ」的なバッシングを受けたりもする。だからもう面倒くさくなって、少々のことなら我慢する。自分が我慢してると、今度は他に我慢しない奴が出てくると、応援するどころか妙にムカつく。それっぱかしのことで何被害者ヅラしてるんじゃ、悲劇のヒロイン気取ってるんじゃねーよと、今度は自分がバッシングする側に廻るという。

 それもこれも全部含めて、トータルに足元を見透かされる。メーメー鳴こうが喚こうが、お前らなんぞは所詮は羊、羊ごときに何が出来る?と舐められる。そして事実上の救済ナシということになる。救われないです。難しいんですよね、そこに制度があるということと、実際にこれを利用して実効性あらしめることとは天地の開きがある。ここにお仕置き発動が円滑に進まない問題がある。

 子供のイジメだって、先生にチクったら後でどんな仕返しを喰らうかわからない。友達も助けてくれない。先生に言ったところで、やってくれるかどうかもわからない。どっか知らない地方も知らない”仲間”がイジメを苦にして自殺しても、「イジメはなかった」という公式見解がまかり通ったりして、いっときはワーワー騒がれるけど、人の噂も75日ですぐに何事もなかったように過ぎ去っていく。かくして、子供は子供でいじめられ、大人は大人でいじめられているという。

 だとしたらこの対抗策は、これらの難関をクリアすることです。
 舐めた態度を取られたら、「あっそ」と言って即座に、粛々と報復行動に出る。そして火が出るような猛攻を加えて、相手の息の根を止めるまで攻撃をし続ける。これが出来れば相手も「うわ、これはたまらん」と言うことを聞くし、それが自由自在にできるようになると、自然と争えない威厳オーラをまとうようになるから、相手も最初から舐めた態度をとらなくなる。

 そうすると、ここでも話は前回と同じく、何をどうすればよいのか事前に知っており、且つためらうことなく実行できるのがポイントになります。正確な知識+実行力です。

 しかし、これが難しい。
 皆さんのように平和に生きている心優しい一般市民が、「こうやれば相手は困る」「ここが急所、ここが泣き所じゃ」などという経絡秘孔みたいな報復手段に精通しているわけないですからね。それに「知っている」といっても、単にそういう手続があるのを知るだけではなく、それが実際に機能するのかどうか、機能させるにはどうすればよいのかまで知らねばならない。そうでないと、救済を申し立てたのはいいけど、そこでもまた言を左右をされて結局やってくれなかった、、、という可能性もあるわけです。

 ではどうやって知ればいいのか?といえば、ケースバイケースですけど、一つづつ実地で体験してキャリアを積み重ねていくしかないです。それほど簡単な話ではないのですが、だからこれが「世間を知る」ということであり、「実力をつける」「一人前の社会人になる」ということでしょう。

敵の方がずっと上手な件

 一般にこの分野のエキスパートは、まず暴力団でしょう。他人を脅して何かをさせることに関しては膨大な技術体系がある。粗暴に振る舞って脅しあげるなど初歩的なワザから、一見紳士的な会話だけどキッチリ脅しになっているとか、エセ同和のようにタテマエ正義で振りかざして街宣車で乗り付けるとか、スキャンダル写真を撮ってバラ撒くとか、バラエティに富んでいます。バブルの地上げの頃はいろいろやってましたしね。他人を怖がらせるのが商売ですから、商品開発にも余念がない。もっとも暴対法その他で、いっときの勢力はないとは思いますが。

 しかし、「他人を無理やり従わせる法」に精通しているのは違法勢力だけではない。いわゆる支配層もまた精通している、てか歴史的にも現在的にも、ヤクザなんかよりも何枚も上手を行くででしょう。彼ら支配層に比べたら、暴力組織ごとき違法行為というハイリスクなことをやらないとやっていけない、いわば可憐な弱者みたいなものです。支配層は合法的に支配できるからこそ強い。他人の意思を合法的にねじ曲げ、他人の運命を合法的に書き換えてしまう力、すなわち「権力」をもっている。

 戦時中の日本も、あるいは今現在の世界のどっかでは、当局に逆らう言動をしたりウザったがられれば、なんだかんだ理由をでっち上げて検挙、拘束、拷問、監獄送り、ないしは”事故死”にできるし、もっとダークだったら”行方不明”にもできる。戦争と徴兵制があれば、気に食わない奴を最前線に送って捨て駒にして殺せる。そこまでいかなくても、微罪や冤罪で検挙し、連携プレーでマスコミが大々的に書き込んで社会的に葬り去ることも出来る。

 これは特高警察のように昔の話にかぎらず、今現在の日本ですらそうだと言えます。例えば、ホリエモンのライブドア事件では堀江氏が、ヤクザの因縁のような罪状で起訴・収監されただけではなく、側近であった野口英昭氏の不審死があります。覚えておられるでしょうか?沖縄のカプセルホテルで、刃渡り10センチの包丁で首(2箇所)、手首、腹部の計四ヶ所の創傷によって死亡しており、普通に考えたら殺人ですけど、警察は自殺ということで一件落着しました。そういえば似たような時期に、姉歯耐震偽装事件で関係者多数が死んでいます。ネットで調べていたら、実はいろいろと人脈関係があり、ひいては当時の安倍総理(第一次)の安晋会とのつながりすら噂されていました。

 そして、かなり多くの人々が亡くなっています。例えばこのブログで死亡者がリストアップされており、引用しますが、「1.斎賀孝司・朝日新聞社会部デスク(耐震偽装事件に積極的に取り組んでいた最中だった。/朝日新聞社は当初の電話取材では自殺と答えたのが、後、病死に変化。)、2.森田設計士(耐震偽装関連/自殺?)、3.大西社長(LD投資組合社長/行方不明)、4.古川社長(平成設計の元社長/大阪空港で変死体)、5.森田信秀(姉歯建築設計事務所に構造計算を発注/鎌倉で全裸の水死体として発見)、6.草苅逸男(岡山・新勝央中核工業団地/一級建築士/津山市で設計事務所が爆発し焼死)、7.野口英昭エイチエス証券副社長(LDのグループ会社の元社長。安晋会理事/他殺)、8.東江組員(沖縄旭流会幹事/惨死)、9.姉歯建築士の妻(創価学会員/飛び降り自殺)」となっています。これは偶然なのか。

 当時は結構騒がれたと記憶していますが、ああ、だがしかし、人の噂も七十五日で、今となっては僕もあなたも忘れている。この「忘れている」という事実そのものが、実は一番ショッキングだったりもします。

 もっと日常事例では、社長や上司のゴキゲンを損ねると左遷されリ、クビになったり、指導教授の意向に沿わなかったら何歳になっても准教授になれないし、遠い僻地の関連施設に島流しにあったりもする。他人の生命・人生を左右出来る「生殺与奪の権」を合法的に握っている。組織相互でも強弱はあり、スポンサーを降りるという脅しがあったり、許認可取り消しという強迫もある。

 この権力が強大であればあるほど、システムや法律で「○○すべき」となっていても、平気で他人の権利を踏みにじることができるわけです。なんのことはない、弱肉強食そのまんまの世界です。

 ところで「支配層」とかいっても、その昔の王族貴族のように、具体的に誰がそうなるかが決まってるというものではないです。そう思いがちだけど。そこまで圧倒的で絶対的な権力なんか今の日本にはないでしょうし、世界的にも少なくなってるでしょう。そういう環境なり、状況なり、スィートスポットがあって、そこに誰がたどり着くかというゲームでしょう。

 そしてその地位にたどり着くのは、もともとが喧嘩が好きな奴、喧嘩が上手な奴でしょう。暴力団でもトップにのし上がるのは並大抵のことではないでしょうが、それは政治家であろうが、官僚であろうが、大企業であろうが、経営者であろうが何でも同じです。もとから強い奴が、来る日も来る日もライバルとの闘争に明け暮れ、技を磨きまくって権力を握っているのですから、強くて当然。本来なら別に権力なんかなくても、一対一のサシの勝負だったら負けないくらい強い奴らが、さらに切磋琢磨して強くなり、あまつさえ強大な権力をもっているんだから、もう始末におえない。

 一般に日本において「社会に出る」「大人になる」ということは、こういった「どうあがいても勝てっこない強大なヤツがいることを知ること」であり、だから「シカタガナイと念仏を唱えて我慢するのを覚えること」だったりするわけですよね。

 ということは救済なんかないじゃないかって辛い話になりそうですが、しかし、話はここで終わらない。終わってたまるかっつーの。これは僕の個人史でいえば、たかだか15歳の頃に抱いた社会観です。行き着いた先の終着駅ではなく、「OK、状況はわかった。じゃあ、どうやったら勝てるの?」ということを考え始めた喧嘩道の始発駅でしかないっす。

真の強者はだれか

 ちなみにここまで読んで気分が暗くなった人のために、ちょっと一服差し上げますが、「強者」もなかなか大変なんですよね。貴族たちの華麗なる宮廷においては、陰謀、裏切り、暗殺、毒殺なんでもアリの陰惨なバトルワールドです。強大な暴力で黒組織の頂点に立ったものは、それゆえに敵対組織のターゲットに一番なりやすい。暴力によって力を得たものは、最も暴力の被害に遭いやすい。ヤンキー地獄みたいなもので、ちょっとカッコつけて突っ張ってると、さらに強い奴らから「ちょっと顔貸せ」と言われる率が高い。サル山のボス猿みたいなもので、ボスは必ずや次世代のボスに殺される運命にあるといってもいい。ココロが休まらないあるね。最初からアンハッピーエンドが決まってるような、切ない世界でもあるわけですね。だから、その世界に入る人達は、最初からそういうのが好きな人です。戦ってないと死んじゃうような人達で、そういう体質に生まれてしまったので、戦ってればハッピーなのかもしれないけど、しんどい話でもあります。

 だいたいにおいて、○○によって力を得た人は、○○によって報復される。金によって力を得た人は、金がなくなったら地獄に真っ逆さまだし、権謀術数によって力を得た人は、権謀術数によって失脚する。若さと美貌で力を得たら、若さと美貌が衰えたら落ち目になる。無責任で興味本位のマスコミの寵児として力を得たひとは、マスコミの気まぐれによって地に叩き落とされる。世の中よく出来ているんですよね。

 それに支配層というのは、通例、絶対少数派です。マジョリティが少数民族を迫害するようなパターンもあるけど、それは支配層とはいいにくいし、支配層である旨みも乏しい。やっぱごく少人数で大多数を支配するところに妙味がある。でも、それがゆえに彼らには絶対的な弱点があります。数です。いくら宮本武蔵が吉岡一門70名を一人で斬ったとしても、相手が140名だったらヤバイ。1000人だったらもう絶対ダメでしょう。数で来られたら絶対負けるに決まってる。いくら栄耀栄華を誇っても、本気で民衆を怒らせたら、津波に押し流されるようにあっという間に殺される。それもギロチンのようにむごたらしく殺される。これは支配層の死ぬまで醒めない悪夢でしょう。

 だから彼らが生き残る術は、常に常に大多数を飼いならし続けなければならない。騙し続けないとならない。猛獣使いのようなもので、目測を見誤って本気で怒らせたら、あっという間に殺されてしまう。一生の間にたった一度でもミスを犯したら、もうそれだけで破滅してしまう。恐いですよ、これ。それでも貴方は支配層になりたいですか?

 「日本はもう終わりだ」とか年がら年中言ってますけど、それでも暴動が起きてないのは、終わりだと思ってないからでしょう。もし本当の本気に、誰も彼もが、自分がもう終わりだ、今週死ぬんだと心底思ったら、なんかあるでしょう。数千人や数万人のデモくらいだったら何とかなっても、100万人が国会議事堂を取り囲んだらどんな内閣でも潰れるでしょう。

 僕ら一人ひとりはか弱い庶民であり、吹けば飛ぶような存在だけど、全体としては最強レベルに強い。メディア操作やなんやかやで選挙くらいは何とかなっても、カチンと岩盤にブチ当たったらどうしようもない。例えば、現在日本の原発は一基も稼働しておらず、そんな状態が2年も続いています。原発持ってる国でこんな完全ゼロ稼働を実現しているのは日本だけでしょう。いわゆる原子力村では、再稼働に向けて着々と道作りをしているけど、なかなか実行できない。下手な動きをして、猛獣の機嫌を損ねるのを恐れ、慎重に距離を測っているのでしょう。選挙くらいは、或いは消費税くらいはなんとかなるけど、うかつにやり過ぎたら眠れる獅子が起きるかもしれない。いやあ、大変ですよね。どっちがご機嫌をうかがってるんだ?って話です。だから、ま、「支配させてやっている」くらいに思ってたらよろし。

やり方というものがある

 さて、ダークで強大な理不尽権力ですが、これに襲われた時にどうするか?簡単に言ってしまえば、日本国内に関していえば、どっかに必ず救済手段はあります。建前であろうが何だろうが、日本は法治国家であり、この種の弱肉強食的な不正は許されないことになっており、そのような事態が生じた場合にはそれなりに救済措置が用意されている。

 ただし、上に述べたようにそれは簡単ではない場合が多い。ボタンを押したら全自動〜♪って楽ちんではない。一応あるにはあるけど、過去に2−3の使用例のしかないケモノ道のような細い道筋であったり、あちこち錆びついたポンコツ機械のように、動かすそばからぶっ壊れていくようなトホホなしろものであったりもする。しかし絶無ではない。一応の道筋はある。必ずある。だからキチンと作動するようにもっていけば良い。

 ではどうするか?といえば、先程述べたように経験を積んで、やり方を覚えていくしかないです。
 めっちゃくちゃ迂遠な方法のように見えて、しかしそれしかない。

 ここで、「他の(違法な)強者に頼む」という方法がありますが、安易にやらない方がいいです。ヤクザに脅されているから、別にヤクザに頼んでやっつけてもらうとか、市会議員などの政治家や上級官僚に頼んで口をきいてもらうとか、もみ消してもらうとか。実際にはよくやる人が多いんだろうけど、でも、それやっちゃうと自分もまた共犯者的な立場になってしまうので、最初にして最終手段でもある「オモテにでる」「全てを白日のもとにさらす」という方法論が取れなくなるというトレードオフがあります。それに、迂闊にそっちに行っちゃうと「ダークな仲間」になっちゃって、ダークな論理に支配翻弄されるようになる。変なところで「借り」を作るとあとが恐い。どんどん泥沼にひきずりこまれて、用が済んだら消されてしまうかもしれない。姉歯なんて多分そうでしょ。

 それにたった一人で社会のダークな巨悪と戦う!なんてことは、普通の市民にとって年がら年中生じることではない。まあ、大きな意味でいえば毎日がそうなんだろうけど(国民による不断の監視)、ことプライベートな事件として生じる可能性は少ない。まあ、一生に一度か二度でしょう。少ないけど、一生レベルでは絶対にどっかではあるとは思いますよ。それは覚悟しなはれ。でも、年中行事ではない。

 多くの場合は、そこまで深刻な戦いではなく、理不尽にクビにされたとか、あるいはレンタカーを借りて事故ったら法外な賠償金を請求されたとか、ファームでちゃんと働いたのに二回目ワーホリ用の日数サインをしてくれないとか、そのたぐいの話が多いと思います。この程度のレベルだったら、社会の「巨悪」が関与してって話ではなく、ウィルスのような小悪ですから、強引に法をねじ曲げて作動すべき救済装置を沈黙させるなんて高度な芸当はできないから、ふつーに救済措置を申し立てればだいたいカタはつきます。

 ただ、それでも「ボタンを押して」というほど簡単ではないです。そんな幻想を持ってはならない。世の中、晴天の日もあれば、荒天の日もある。1年生きてれば、平均して2〜3回は「やれやれ」「きゃー」という事柄が起きるぞと最初から思っておけばいいです。その程度の事柄であれば、無理のない解決方法は必ずあるのだし、コンスタントに発生するなら、一回腹くくって丁寧に調べて、丁寧に解決してマスターしてしまえばいいです。そうすれば二回目からはパニックにならずに済むし、三回目にはルーチワークになり、四回目以降には事前に察知出来るから、そもそもドツボに陥らない。車のパンクみたいなもので、一回目はパニックになるけど、そこでタイヤ交換の方法などをキチンと覚えれば、二回目からは単に「面倒な出来事」になり、三回目からは「またか」になり、四回目以降になると事前にタイヤの状態をチェックしたり、ローテーションしたり、早めに交換したりする。

 結局、地味でもそういうことの積み重ねが、「大人になること」の本質だと思います。七転び八起きといいますが、コケては起き上がり、学習し、またコケては学ぶ、その繰り返しで人はクレバーになっていく。それが大人になることで、決して「シカタガナイといって諦めること」でもなく、「けっ!といって世を拗ねること」でもない。


 ただ、それでも手に余る場合には、誰かの適切なヘルプが必要になるでしょう。「助けてもらう」「教えてもらう」というプロセスが必要になる。

 実際、個人レベルではどうしようもないこともあります。普通の風邪くらいだったら温かくして寝ていればいいけど、盲腸になったら自分では直せない。専門家のヘルプが必要です。喧嘩トラブルにおいても同じく、一定レベルを超えたらプロの領域になります。例えば特許関係だったら弁理士さん、税務関係だったら税理士さん、身辺安全だったら警察関係やら警備保障会社、そして一般的な法的紛争だったら弁護士とか、「餅は餅屋」「蛇の道は蛇」という領域があります。

 さて、あれこれ書いている紙幅の余裕がなくなりました。今回はここで終わりにし、次章に繋げるわけですが、他人にものを頼むにしても、頼み方があります。これがこれまで書いてきた「意思に反してやらせる方法論」ではなく、「自発的にやってもらう方法論」につながります。同じやってもらうにしても、イヤイヤやってもらうのと、積極的にやってもらうのとでは天地の差があります。「その気になってもらう」には、それ相応の技が要ります。そして、この部分が、この一連のシリーズの核心になろうかと思います。


文責:田村



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