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今週の一枚(2013/09/30)



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Essay 638:類友・朱赤効果と半径3メートルの革命

 〜2013年帰省記(8)
 写真は、大阪市北区、お初天神通りの商店街。
 まあ、日本中どこにでもある普通の繁華街なんだけど、「大阪」と言われると、いかにも大阪〜って感じがしますな。

 写真右は、この通りの反対側で、いわゆるお初天神がある方です。一転して近代的ビルと古くからの宗教施設があるという。このあたりが外人さんから見ると、ミステリアスな風景になるのでしょうねえ。

 ただ、それは日本独自というよりもアジア一般の特徴かもしれないです。猥雑なくらいなゴチャゴチャした繁華街+古い宗教施設+超近代的なビルという「三点セット」です。バンコクあたりにいっても、中国にいっても、裏町の繁華街の角をひょいと曲がると昔からある寺院があったり、関帝廟があったり。もっとも、南米あたりでもそうかもしれないですね。行ったことないけど。寺院のかわりに教会があるだけで。だからこれは、20−21世紀の人類の3点セットかもしれません。


 ”帰省シリーズ”8回目。ESSAY632回のネタ出しから、「新旧対立」=古い潮流と新しいそれが入り混じってる点について前々回から書いてます。

 骨子は、
 @、古い潮流は、今までのように自然に浸透してくれないので、結構ネジ巻かないとならず、露骨で押し付けがましくなっていること
 A、新しい潮流が非常に見えにくいこと。それも、輝ける新しいビジョンによって誘導されるというよりは、必要に迫られて自然に進化するような自発的内在的な変化であること。
 B、結果として、@とAの板挟み状態になっているのだけど、それが不鮮明なだけに困っちゃってる感じがする。というか、今の日本がどうなってるかよく分からず、「入り混じってる」ことすらよく分からないこと。


 @については前回、前々回で論じたので、今回はAとBです。
 ABは同じものであり、また非常に分かりにくい事柄なんだけど、この部分が今回の帰省記の核心になるでしょう。

 これまで書いてきた@の大きな図式=古い利権構造があって、それがグローバリズムでジリ貧になって、ジリ貧になってるから一層締め付けが厳しくなっている図式=あたかも江戸時代の藩財政が左前になってるから一層過酷な年貢の取り立てを行っているような構図=は、8000キロ離れたオーストラリアからでもある程度は分かります。

 しかし、問題は「じゃあ、これに対して皆はどうしてんの?」という、一般市民のたたずまいと心象風景みたいなものです。こればっかりは自分の目で見ないとわからない部分であり、まさに「行った甲斐」に相当します。もちろんテレパスでもない限り、ちょっと見たくらいで全てが分かるってものではないでしょうけど、それでも空気感は分かるような気がする。そして、行ってみたら何かしら感じた。

 どう感じたか?端的にいえば、「愛すべき人々が、なんかしらん、いじめられているように感じた」ということであり、同時に、いじめられっぱなしではなく、「したたかに新しく変わろうしている(人もいる)ようにも感じた」ということです。

★心身を蝕むかのようなピアプレッシャーが尚も強まっているかのような日本であり、誰が仕組んだのか自然発生なのかはわからないけど、日本人羊化計画みたいなのが進行中なのだろうなった思った。
 しかし、この種の圧力には、生来的×後天的×年齢的×立地的に耐性の強い僕にとっては、日本も日本人も、ひたすら愛すべき"lovable"なものに見えた。不快な思いは、気候と鎖国インフラを除けば一度もなかった。

★「何かが大きく間違っている」という感じは、5年前よりも地下に沈降した。沈んだ分だけより見えにくく、エネルギー的にはより大きくなった気がする。これはある意味では朗報で、それを矯正すれば「なにかが大きく素晴らしくなる」ということでもあるのだから。

自由がどんどん減っている感じ

 「いじめられている」というのは、消費税増税など具体的な施策もありますが、それ以上に「自由が減ってきている」という形で感じられました。なんか窮屈そうだな、と。

 ★「変な人」「怖そうな人」が減った。昔はもっと規格外の人がうじゃうじゃいた。どこに行ったのか?

 ★体型が前よりもいっそう華奢になった。スリムというよりは華奢、華奢というよりは虚弱な感じ。人種のルツボであるこちらの感覚(人類一般のスタンダード)でいえば、美しいというよりも「大丈夫か?」と心配が先に立つ感じ。

 ★いわゆるダイバーシティは確実に減っていると思う。柔らかくにこやかなファシズムというか、一定のナイスな風貌、考え方、服装、身体的特徴、経済力などがあり、それから外れると生息を許されないかのようなプレッシャーが実は以前よりも増えたのではないか。「デブは死刑」みたいな。容貌や体型スペックで不合格になったら、外にでることすら許されないのかしら。ひきこもるしかないというか、「ひきこもらされ」というか。

デブと変な人が減った

 この上の2点=「デブが少なくなった」「変な人が減った」点は、「老人が増えた」ことと並んですぐに気づきました。日本を出た20年前はおろか、5年前に比べてもそうなった印象があります。

 町を歩いていても、何かしらん印象がのっぺりしていたのですね。
 昔はもっと凸凹してたような記憶があります。デブもハゲもやたらいましたし、あまりにもいるから別にそれがどうということもなかった。今ではデブもハゲも、放送禁止用語とは言わないまでも(なのか?)、おおっぴらに言うのがためらわれる雰囲気がありますが、昔は普通に言っていた。そりゃ多少は軽侮を含んだ物言いではあるけど、別に目くじらたてるほどのこともなかった。別にそれがそんなに悪いこと、人目をはばかる恥ずかしいことでもなかった。

 「変な人」も同様で、見るからに怖そうで、思わず道を開けるようなヤクザ風のお兄さんもあんまり見なかったし、コテコテのヤンキーも減ったみたい。ずっと昔「裸の大将放浪記」というTV番組があって、上半身裸でリックサックを背負っている、ちょっとオツムが足りなそうなおっちゃんが主人公になっていたけど、今ではそんなの「ありえない」んじゃないかな。僕が小学生の頃、川崎市北部の新興住宅街におりましたが、「はっはっはオジサン」という有名人がおってリックサック背負って、「はーっ、はっはっはー!」と大声で気持良さそうに笑いながら、住宅街を悠然と闊歩しておりました。大学の頃は、京都の四条あたりの繁華街に「河原町のジュリー」と言われる有名人のホームレスのおっちゃんがいました。そこまでヘンでなくても、ミディアム・レア程度に変なおっちゃん、変なお姉ちゃんは、わりと普通にいた。

 だから「町」というのが、適当におっかなくて、適当にジャングルみたいにスリリングで、このシリーズの冒頭に書いた「およそ想像も出来ない」という要素が、今よりもふんだんにあったと思います。

 でも、前回帰ったときは、出歩いてた場所や時間帯のせいなのかもしれないけど、どんどんこの種のワイルドさが減っていったような印象があります。これは錯覚ではないと思うけどな。みんな適当に清潔で、善良で、物分かりよくて。そういえば、乞食はおろかホームレスの人も殆ど目にしなかったけど、どこに行ってるのでしょう?隔離されているの?福島に除染作業に連れてかれているの?経済状況から考えたら、もうどこの都市にも一個中隊くらいおっても不思議ではないし、スラム街やゲットーが形成されつつあっても不思議ではないのに(先進国はそのくらいの経済状況である筈なのに)、それが見えない。

 デブもハゲも変な人も、いわば自然の個性であり、遺伝子的な確率でいえば、個体が○○個あったら○%の確率で生じる、ごく自然な現象である筈です。それは雨が降ったり、台風がきたりという自然現象に過ぎない。それがそうなっていないことに、なんとなく違和感をいだきました。

半径3メートルの類友効果、朱赤効果

 痩身になったり、良識的になること自体は悪いことではないです。それだけ皆が人格的に向上して立派になったとか、輝くばかりに健康になったというなら万々歳です。

 しかし、なんだかあんまりそうは見えない。
 デブが減ってスリムになったといっても、その細さは黒豹のようにしなやかな野生美を伴うものではなく、「細い」というよりも板みたいに「薄い」感じがする。

 そしてこれは、こと体型に尽きるものではなく、、一人ひとりの個性の濃密さや生命力にもかかわります。

 オーストラリアでは、アメコミのスーパーマンそのまんまのマッチョすぎる男性や、バズーカ砲的に豊満な女性などは日常風景です。ほんと動物園や野性のサバンナみたいで、キリンもいれば、カバもいる。そして一人ひとりの存在感が濃密です。「居る〜!」って感じがする。そのオーラはケダモノ的ですらあり、二人でエレベーター等に乗っていると、熊と一緒に乗ってような感じ。それだけ濃厚な生命オーラの放射を感じる。でも、日本ではあんまり感じない。人はやたらと沢山いるんだけど、目をつむったら居るんだか居ないんだか分からない感じ。昔以上に希薄になっている。

 これは、全体の雰囲気・圧力の話にもつながります。
 本当かどうか書いてる自分でも半信半疑ですが、周囲の雰囲気や環境によって体型も容貌も変わるのではないでしょうか?「オーストラリアに来ると太る」と言いますが、その根拠はいろいろあれど、結果としていえば、そしてゼネラルな経験則としていえば、痩せるよりも太る場合が多いです。で、オーストラリアでどんなに太った人、女性などでは同一性認識すら危うい(誰だっけ、この人?的な)くらいふくよかになった人でも、日本に帰るとたちどころに痩せて元に戻ると言います。

 僕自身、10代後半から20代前半にかけて、柔道やってるときとロックバンドやってるときとでは体重が30キロ近く違ってました。まあ成長期とか栄養状態(ビンボーだったし)もあるのでしょうが、周囲の雰囲気がガラリと変わるから、自然と変わっていったという感覚があります。柔道やってるときは「ガタイ良くしなきゃ」ってノリになるし、ロックやってるときは「痩せて当然」と思う。思ってると自然とそうなる感じ。

 体型以外についてはもっとハッキリとした影響力があるでしょう。
 人生観、世界観といっても、つまるところ「半径3メートル」で決まると言われますよね。「周囲にどういう人が常駐しているかであなたの世界観は決まる」という法則です。周囲が皆悪ガキだったら普通にしてても悪ガキになっていくし、超進学校に行ってしまえば、東大に行って当たり前という雰囲気になるから、普通に毎日ガリ勉をやる。僕の大学時代は、バンドと司法試験のグループの真部分集合みたいなところにいたので、どっちを見てもまともに4年で卒業する奴などほとんどおらず、自然と自分も留年するのが当たり前であり、就職しなきゃプレッシャーはゼロ。むしろマイナスで「働いたら負け」というか(^^)、そんな小市民になったら人生終わりってノリが支配してた。

 同じように、親戚一同医者の家系に生まれれば、医者にあらずんば人にアラズみたいな世界観になろうし、一族郎党全員が生活保護を受けていると、真面目に働く奴はアホという価値観に陥りがちだといいます。僕みたいに父方母方双方の親族を見渡しても普通にサラリーマンやってる人が殆どいない家系もあれば(自営や芸術系が多い)、全員サラリーマン、しかもほとんどが公務員という家庭環境もある。こういった直近周囲の環境因子によって、「世の中こんなもん」「これが普通」という世界観が自然と作られている。

 これも一種の「類は友を呼ぶ」効果もあるのでしょうが、日本には日本の類友効果がある。これが結構強く、「類」でも「友」でもなくても、類にしてしまう影響力がある。「朱に交われば赤くなる」ってやつですね。

 思ったのは、この類友効果と朱赤効果が、以前よりも強まってるんじゃないかと。「柔らかくにこやかなファシズム」というのはそれで、例外を許さず、個性を許さない度合いが強くなってないか。

 前回に述べた同調圧力(ピアプレッシャー)の一種なのでしょうが、前回指摘したような「上からの誘導」ではなく、ごく自然に発生してくるものです。

メタボ

 余談混じりになりますが、アンチ・メタボ、太ってると肩身が狭い気がするデブ・バッシング傾向は、上からの誘導のキライが強いですけどね。前にも書いたことですが。いわゆる「メタボ」という新たな和製英語によって、「成人病になりやすい」とか、デブそのものが既に病気の一種であったり、「欧米では自分の体重も管理できない人はCEOになれない」とか、一知半解(知ったかぶった)民間伝承のような「お話」が流布されたりします。

 しっかし、メタボ=デブという "f**king poor English" もいい加減せえよって気がしますね。メタボはデブの意味ではなく、悪い意味ですらない。メタボリズム(metabolism)というのは「新陳代謝」の略称であり、より広く「代謝」を意味します。有機生命体が、体外から摂取したものを体内で何らかの化学反応を行うことの総称であり、消化も、呼吸も、光合成も、発酵もメタボです。メタボやってない生命体なんかないし、メタボとは生命現象の化学的記述といってもいい。デブという限定的な意味などこれっぽっちもない。

 「ええかげんにせえ」というのはそういうことで、なんでこんな大間違いな和製英語が流布されるのか。1億人以上雁首並べて、義務教育で英語やらされて、TOEICだの英語の必要性が叫ばれながら、こんな大ボケに対して何で誰もツッコミをいれていないのか?まあ、個々人レベルでツッコミを入れる人が数万人くらいはいるだろうが、一般には広まらない。話をどっかの国で誤った日本語が流布されていると置き換えてみたら分かるのですが、例えばお寿司屋さんのカウンターで出される「おしぼり」のことを「寿司」そのものだと誤解し、"oshibori"=寿司という大ボケがその国で常識化しているようなものです。しかもその国では、日本語が義務教育で6年も行われており、日本語の必要性が叫ばれ、日本語試験も常に行われ、就活でも大きな要素になっている、、、にもかからわず、オシボリが寿司だって、、という状況ですわね。数回前に書いた「本気でやってんの?」と疑義を呈したくなる局面です。「モバイル」なんて発音の英語はないよというのと同じく。

 加えて「大嘘が常識化していく」という興味深い現象をリアルタイムに観察することも出来ます。また、聞き慣れない英語やら外来語を持ってきて、本来の意味とは全然違う換骨奪胎した意味でつかって、なんとなく雰囲気だけ盛り上げて、それを流布されるという点もあります。リストラだって「再構築」という意味なのに、単なる首切りという意味で使われている。本当に、いつまでこんなことやってんの?という気はしますね。

 もともとは成人病の危険因子に関するメタボリック・シンドロームという見解に基づいているようです。最近の話ではなく、古くは1981年から色々な学者によって唱えられている「仮説」です。21世紀になる頃に、腹部肥満を含んだ基準が世界的に広まったけど、同時に大論争にもなって、未だに決着がついてません。Wikiによると「アメリカ糖尿病学会(英: ADA)とヨーロッパ糖尿病学会(EASD)は、これまでのどの診断基準も症候群と称するに足る科学的根拠がないので、人々にメタボリック症候群というレッテルを貼ってはならないという共同声明を発表している」となっています。要するに「まだまだ良く分っていない」ということですね。

 この世界的な流れを背景に、日本では独自に基準を作り、厚労省が音頭とって2008年から特定健診制度(通称メタボ検診)が実施され、成人病の予防に努め、さらに目標到達度によって金銭的ペナルティが(後期高齢者医療制度において)課されることになってます。

 これが日本におけるメタボ=デブのトンデモ現象の流れですけど、しかし、この制度も問題アリアリで、膨らむ医療費を抑制するためにという「はじめに金勘定ありき」みたいな動機がひとつ。ま、お金が無いのは事実だし、定期検診を奨励するのは悪いことではないからそれは良いとしても、この基準自体が世界的に見て結構ズレているし、基準を作った医療研究者が製薬会社から寄付金を受けているという「いつもの構図」があり、妙に制度化したために本来無償の検診が有償化される場合もあるし、保険者・雇用者の同意がないと受診できないという変な状況も生じたりという批判もあります。医療費2兆円節減というのも、オリンピックの経済効果のごとく、お役人のいつもの能天気な胸算用であって大体外れるし、現に検診費用の方が嵩んで赤字になるという試算すらある。なんのために何をやってるの?といえば、まあ、これもいつもの話で、何か新しい制度を作っちゃ、そこでなんかかんか美味しい話があったりするんじゃないの?って。

 同じ問題は「うつ」にもあり、何とでも言えそうな曖昧な基準を作っちゃ、よってたかってうつ病患者を作り上げている傾向にも共通します。あれも批判が強いですよね。結局抗うつ剤を沢山売りたいだけじゃないの?経営が火の車の病院、精神科医とか心療内科のビジネス支援じゃないの?って話です。司法試験改革と法科大学院が、大学ビジネス支援とポスドク就職支援に過ぎなかったのと同じく。無駄なダム作っているのと同じ構図です。結局、厚労省って、医療費を減らしたいの?増やしたいの?製薬会社を医師会を儲けさせたいの?でも医療費を抑制すれば彼らが儲からなくなるわけで、そこんとこはどうなってるの?って。まあ、薬害エイズ訴訟やら、古くは丸山ワクチンから見られる、「いつもの」「いつまでこんなこと」パターンです。

 その是非はともかく、定義しにくいこと、非常に個人的な要因が強く、ケースバイケースで丁寧に扱わねばならないことを十把一絡げに基準を設定し、そこからはみ出たものを異常、病人扱いするという発想は、日本では親和性を持ちます。人間だけではなく、農産物についてすらそれをやる。形の「悪い」ニンジンを排除するのと同じメンタリティですな。

みにくいアヒルの子とダイバーシティ

 もともと日本社会には、「世間様に笑われる」「後ろ指をさされる」こと、ひいては「村八分にされる」ことが、一般庶民の社交上、事実上の刑法であり懲罰にも等しいという傾向があります。これは日本人だからどうというよりも、ホモジニアス(同じようなものばっかり)な環境におかれたときの人間一般の特性でもあるのでしょう。「みにくいアヒルの子」現象で、半径3メートルで全員がアヒルだったら、アヒルであることがスタンダードになり、ひいては絶対正義になり、アヒルでないことは端的に「悪」になり、懲罰(いじめ、差別)の対象になる。まあ、逆に尊敬の対象になる場合もあるけど、一般にはネガティブに作用する場合が多い。

 より一般化すれば、A個体の比率が多い集団においては、非Aであることは、もっぱらマイナス面において注目を浴びるし、特殊な取り扱いを受ける。白人率が非常に高い集落においてアジア人が一人だけいたら、なんだかんだで特別扱い(多くは差別)を受ける。民族ばかりではなく、ほぼ全員の姓が同じような小さな集落に東京からやってきた「よそ者」が入ってくると、よそ者的な扱いを受ける。周囲のほぼ全員が同じ大学出身だったら自然と学閥が出来る。何でも同じです。

 それはそれで仕方ないのだけど、しかし、今は人、物資、情報の往来が活発になっている。FeacbookやYouTubeのコメント欄でも、個人レベルで世界中の人々がランダムに接触しているわけで、およそ人類史上最高レベルに「ごちゃごちゃに入り混じってる時代」と言えます。そこでは、A集団どころか、どの個体が多いかどうかすらわからず、何でもアリになるから、同じとか違うとかいうこと自体がナンセンスになる。このようにどんな特性をもった個体でも、分け隔てなく受け入れられるメンタリティをトレランス(許容性)といったり、そういう特質をもつ組織、社会をダイバーシティ(多様性)があるという。多士済々の何でもアリ状況です。

 日本でもグローバリズムに応じてダイバーシティが叫ばれているようですが、その主張そのものは正しい。オーストラリアでもマルチカルチャリズムを提唱されるときに、ダイバーシティという言葉はよく使われる。ちょっと毛色の変わった物が入ってきただけで、異物的にアレルギー拒否反応を示して、あたふたしているようなヒヨワなメンタリティでは、なんでもアリの現在から将来にかけての世界で生き残れないですから。

 それでも「掛け声だけ」って気もしますな。もちろん真剣にやってる組織体も多々あるでしょうが、そうでないところも多い。大体、掛け声というのは、現実がそうなってないからこそ掛ける場合が多い。「廊下は静かに」と書かれているときは、実際には走ってる人が多く、走っているのがむしろ常態化しているからこそ貼りだされるように。

 ダイバーシティというのは、生活実感でいえば、違っている者が、気持よく違っていられる状態を言うと思います。その意味では、違っていること(デブであったり、変であったり)が不安感や屈辱感を招くようであれば、それはダイバーシティに欠ける。

 これを日本流の表現に置き換えていえば「人目を気にするプレッシャー度」であり、「他人のアラ探しスキャンをする/される」ことです。ダイバーシティのある社会では人目を気にする度合いが低いし、他人からアラ探しをされないし、自分でもしない。もっといえば、年齢、学歴、性別、国籍、職種など背景スペックによって人物評価をしないことでもあります。そして、5年前に比べて、確実にダイバーシティは減っているように感じます。気持よくデブである自由や、気持よく奇人変人である自由度が減ってる。増えてたら、もっと見た目も凸凹してるでしょう。


 ただ問題はそれに尽きるものではなく、非ダイバーシティの画一傾向が強くなると、いくつかの困った副作用が出てくる点です。

副作用

基準の浅薄化、画一化→アホになる


 第一に、社会や人に対する価値観や善悪の基準の硬直化と浅薄化です。
 数回前に紹介した均分的正義(同じものを同じように扱うのが正義)と配分的正義(違うものを違うように扱うのが正義)でいえば、日本では均分的正義が強い。皆同じにして解決しようとする方法論であり、これが支配的です。

 均分的正義だけが突出して強い社会においては、多数と異なった扱いをほどこすと、それだけで「特別扱い」「えこひいき」というネガティブなイメージが出てくる。皆頑張って働いているのに、一人だけ生活保護を受けていたら、もうそれだけで「ズルい」とか、不正なことをしているような感覚が生じる。いや、実際にズルいと言われてもしょうがない人もいるでしょうけど、でも、人の立場や持って生まれたものは千差万別で、そんな十把一絡げに、画一的に良い/悪いが決められるべくもない。

 そこでは「皆それぞれに違う」という大前提から始まって、その違いを丁寧に見て、何が違うのか、何をどうすることが必要なのか、その合理性はあるのかを、背景事情を含めて深く掘り下げて考察しなければならない。

 しかし、皆が同じで、同じであることが正しいことであるかのような社会では、このあたりの違いを前提にした深い考察をする機会に欠ける。視野や世界観が深まっていかない。農産物にプラスチックの型枠をあてがって、合格・不合格という画一的な処理になる。

 そういう社会に生まれながらに生活していたら、「アホになる」という致命的な副作用も出てきます。
 この世界は全部が均質なプラスティックみたいなものという間違った世界観に立っていたら、極めて少ないサンプルケースを見ただけで、もう全体がこうだという間違った判断をしがちです。○○人とはこういうものという、およそ定立不可能な命題ですら、いともたやすくやってしまう。例えば、一人のアメリカ人と5分間だけ喋っただけで「アメリカ人は○○」という決め付けをするのは、3億人もいる人間集団をたった1つのサンプルで決めつけるという、およそ阿呆の所業としか言いようもないことなんだけど、それをする。アホになるというのはそういうことです。

 これは論理則や経験則についても同じで、A→Bというパターンを知ると、全ての場合が必ずA→Bになるものだという間違った推論をするようになる。これも知的能力の減退現象でしょう。

 現実には、バラエティに富んだ個体集団を画一的な方法論で処理されるべくもない。ケースバイケースのきめ細やかの配慮が求められ、それが出来るのがプロであり職人芸になります。ほんでも世界がマックジョブ化&ファミレス化してくると、決まったマニュアルで最大公約数的なものを当てはめていけばOKみたいな世の中になり、個体差や環境差に対する繊細さが鈍麻してきます。

 また、この世にはおよそ自分の理解できない現象や人物が山ほど存在するというクソ当たり前のことすらわからなくなる。だからこそ、ちょっと自分と傾向の違う人、考え方の違う人に対して拒否反応を示すようになる。ツイッターの炎上なんてのもそうで、「ほお、いろんな人がいるなあ」という、別に珍しくもなんともないような現象に過剰に反応している好例でしょう。どこにいっても、自分の理解の及ばないことなんかいくらでもあるのだ。そんなに何もかもわかってたまるかってことなんだけど、そんなことすらわからなくなる。

 いっとき新聞やテレビのニュースの一面記事の三面化が言われましたが、今はもう一昔前の女性週刊誌化してるような気がする。前から指摘している井戸端会議化というか。「あの人、変よね」「許せない」という近隣の悪口みたいな、どーでもいい記事。「○○した鬼嫁」とか「○○した馬鹿っ母」みたいな。つまりは視野や世間が狭い人が陥りやすい、異物拒否反応です。

 結果どうなるか?といえば、さらに悪影響が悪影響を招くことになる。

生存能力の低下

 およそ現実に適用されるべくもないアホみたいな画一基準から外れた(外れて当然ではあるのだが)現象、人物、自体に対する適応能力が劣化すること。これは、生きていく力そのものの劣化でもあるでしょう。

 なぜって、現実は、状況であれ人の個性であれ千差万別だし、予想通りいくことなんかまずない。だから、「想定外」なんて寝言を言ってる場合ではない。そんなもん言い訳にすらならない。たいていの場合は想定外になるという前提で、瞬時にその場の状況や相手の資質を深く見抜き、臨機応変に対応することが生存能力を高めることになる。

 昨日まで谷に水があったのでそこに水を飲みに行けばよかった。だけど、土砂崩れや異常気象で水が来なくなったらどうするか?一時的な現象としてしばらく待ってみるか、それともすぐさま別の水を探しにいくべきかを決めなければならない。こうしている間にも喉が渇き、脱水症状がおき、血がドロドロしていくわけで、数十時間以内に水を発見できなければ死ぬ。この意思決定がトロかったり、間違っている個体は、結局水にありつくことが出来ず、衰弱死する。「生きる」という行為は基本的にそういうことだと思いますし、生存能力というのはそーゆーことでしょう。

 これを現代社会に応用すれば、大企業に入れば一生安泰とか不動産は絶対値上がりするという終身雇用や土地神話=「谷の水」が減ってきた時点で、じゃあどうすれば良いのかということを臨機応変に決定&実行していかねばならず、それが遅かったりヘタクソだった個体は滅ぶということです。

 さらにミクロな局面に置き換えれば、取引先や顧客の個性に応じた物の言い方や売り込み方があるのであり、この差異を的確に見抜いて行動できない営業マンは使えないということでクビになる。異性関係においても、男性や女性にも様々なタイプがあり、人によって全然違うということを理解せずに、「○○すれば女性はイチコロ」「男なんて○○」という画一的な見方を馬鹿正直にあてはめている人は、大体においてモテないし、長続きもしない。クソみたいな先入観をやたら押し付けてくるような人に人間的な魅力は乏しい(頭は悪いわ、自己中だわ)のですから、しごく当然でしょう。足の遅いシマウマから先にライオンに食われるの法則。

生命力の劣化

 人の個性は千差万別であるということは、あなた自身もまたマジョリティとは異なる特性を多々持っているということです。それを無理やり押し殺すようなことをしていたら、精神に良い影響を与えるわけもないし、身体にだって悪いでしょう。

 個性の中でも悪しきものもあり、自分でも矯正したいと思うものもあれば、自分では悪いとは思っておらず、それどころかそれこそが自分を自分たらしめている核心部分であるというものもある。また、自分では良いとは思っているんだけど、世間と噛み合わずにそれであれこれ損をするので、そこをどうやって折り合うかが考えどころってこともあるでしょう。

 そこのやりくり算段は、それこそ人それぞれですけど、それでも「自分が自分らしくある」という大命題が前提になっています。それがハッキリしているのであれば、人というのは生命力をそう失わないでしょう。生命力というと大げさなようですが、要するに「意欲」であり、「○○がしたい」という欲望です。自分が自分であることが当たり前になっていたら、自然と○○がしたいなあって欲求は出てくるでしょう。

 子供は(年端がいかないほど)自分が自分であることに忠実、てかそれ以上複雑なことを考えられないから、「○○がしたい」って欲求がはっきりしているし、強い。明確で強い欲求は、これが満たされたときには強い幸福感がもたらされ、ダメだったときは激しい失望感が襲う。だから子供はすぐに大笑いするし、すぐに泣く。「何がしたいのかわからない」なんて嘆きもないし、原っぱにせよ、公園にせよ、目の前に写っている現実をありのままに受け入れ、「あれが面白そうだ」「これがやりたい」と即座に判断し、ダーッと駆けて行って遊ぶ。

 この生き生きした感じを「生命力」とここでは呼んでるわけですが、マジョリティの均分正義に毒され、個性を押し殺され、自分が自分であることすら危うくなってくると、「何がしたいのかわからない」という、一個の生命体としてはおよそありえないような珍現象が生じるし、それは生命力が衰弱しているのではないの?って気にもなります。

 これらの要素が相乗作用して、ケダモノ的な生命オーラを出している人、「およそありえない」ような個性あふれる人々が減ってきているような気がするのでした。「猛獣達と暮らしています」的な海外環境に慣れてしまうと、日本に帰ると寂しいですし、どんどん寂しくなってる気がする。


 ダイバーシティの欠乏に関連して、ロールモデルが少ないんじゃないかって視点もあり、それは老人を老人として祝(ことほ)いでいないとか、中高年のカッコいいロールモデルがないとか、女性、特にママさんの肩身が狭そうだ(こっちは母熊みたいに強いぞ)とかいうポイントもあります。でもこれ書いてるとまた長くなるので、後に回します。

新しい変化

 以上は、昔からある日本社会の特徴であり、それが改善されているどころかむしろ悪化しているかのようなスケッチでありました。

 しかし、話はここで終わらない。
 そこに一つのカレント(潮流)があれば、必ずやこれに対向するカレントもまたある筈です。暖流があれば寒流もある。日本では、なにもかも劣化しているような閉塞状況、いっそ「雪隠詰め」という古い日本語を持ち出したくなるくらいの状況が一方にあるけど、一つの作用があれば、それは反作用を招く。

 こういう時代になってきている「からこそ」、新しい傾向も出てきているように思います。

 それが、ネタ出し部分で書いた諸点、すなわち

 
 ★5年前よりもスサんでないような気がする。態度も笑顔で礼儀ただしく、フレンドリー。でも、これは超極端少数意見で、日本に皆に聞くと「コミュニケーションが無くなった」みたいに言う。どういうことか?

 ★反面、零細の個人経営の、ワン・アンド・オンリーの個性的な店が増えた気がする。

 ★ほんでも駐車場がやたら増えたのはびっくりした。つまり巨大資本は活発に動くし、零細はそれなりにやっているのだが、数億レベルの資産の有効活用方向が無いということであり、これは中間層や、ミドルレンジのビジネスの零落を物語っているのだろうか。
 です。

 個人的には、今回の帰省でここが最大の収穫だったと思います。

 みんな、結構したたかに適応してるじゃんって。
 類友・朱赤効果は強大になっているんだけど、盲目的に追随しているだけではなく、意外と「テキトーに調子を合わせて流しているだけ」なんじゃないか。流されているようで、流している、実はコントロールは失ってない、少なくともその意思は失われていないっちゅーか。

 ただ、これを表現するのがめっちゃくちゃ難しいです。
 マテリアルの原素材としては、「そういう感じがした」という直感的で微妙な感覚に過ぎないのですが、事実としては、冒頭に書いたように、わずか2週間足らずの期間にすぎないまでも、およそ不愉快な人に会わなかった。人にも多く会ったし、買い物その他での接触も多数あった。一つ買い物したら、他愛のない世間話をほぼしてたし、炎天下の警備員のおじいちゃんとも話したし、道端で倒れているおばあちゃんから助けを求められていた保険のおばちゃんと一緒に、救急車が来るまで待ってたこともあります。のべ50人くらい?もっと?ってことで、10日ちょいという期間を考えれば、サンプルケースはそこそこあったとは思うのですが、「イヤな人」ってのがあんまり居なかった。てか皆無だった。

 あ、そういえば、ソフマップでケーブル買った時に対応したお兄ちゃんが、ちょっと変だったかも。目がうつろっていうか、人の目を見ないでボソボソ喋るわ、そもそも相対しているのに半身の構えというか斜め45度くらいの立ち位置で接するわで、「へえ」とは思いました。が、別に不愉快でもなかったです。いろんな人がいるし。あと、やたら待たされたということもありますね。ファミレスでランチ食ったら、食べ終わりかけた最後の最後にビールがやっと出てくるという事もあったのですが、これも別に腹は立たないし、不愉快でもない。そんなんでいちいち怒っていたら、こっちでやってられませんわ。

 だから日本人がナイスになったというよりは、こっちのトレランス(許容度)が強くなったのかもしれないけど、それもあるかもしれないけど、でも、それだけではないな〜。

 だって、感じのいい対応してくれた人々のナイスさが、前よりもちょっと違ってる気がしたのですよ。「マニュアルだから笑顔を浮かべてます」的なことではなく、もっとオーストラリア的で非マニュアル的、内発的なナイスさでした。それは、上で指摘した、ファシズム的なナイスさではなく、個性としてその人のキャラから自然に出てくるような感じです。まあ、そういう角度でこっちが接するからかもしれないですけど。

 そして一番感じたのは、意識的にそうしようというというソコハカとない意思のようなものを感じたのでした。こんな時代だからこそ、自分が、自分たちがしっかりしなきゃっていう意識です。「なんだかな」的な状況が強くなれば強くなるほど、それに反比例して自立的な意思も立ち上がってくるという。

 もちろん全員がそうだというわけでもないし、旧来の考え方から1ミリも動いていない人もいようし、絶望的な愚痴しか口にしない人もいうかもしれないけど、でも、そうでない人もいる。ただ「こうだあ!」ってガーン!と主張するって感じではないし、またそうしようという自覚的な意思もないかもしれない。目に見えない小さな細胞がいつのまにか代謝作用をしているような、かすかな、しかし確かな感じ。わかりにくいですよね〜

 これが冒頭に書いた、「輝ける新しいビジョンによって誘導されるというよりは、必要に迫られて自然に進化するような自発的内在的な変化」って部分です。

 これは僕個人がそう思ってるから、投射的内心傾向(自分がそうだと、他人もそうであるように見えるという心理傾向)としてそう見えているだけって部分は大いにあると思いますよ。でも、そうだとしても、尚も意外感とともに「あ、仲間がいた」感はあります。

 時代に対する個々的なアンサーというか反応を、あえて言葉にして言えば-------
 なにかと面倒くさそうな時代だけど、鬱陶しいことや納得いかないことも多かったりするけど、でも、だからこそ自分がしっかりしなきゃと思うのだ。なにがどう「しっかり」なのか分らないけどさ、グローバルがどうしたという巨大で複雑な話はよく分からないけどさ、自分の手の届く範囲は限られているんだけどさ。でも限られているけどそこには手が届くわけで、まずはそこからやっていくしかないわけじゃん、どっちみち。今回の話の流れで言えば、しょせん半径3メートルの世界であるならば、半径3メートルを良くすればいいわけで、そのくらいだったら出来るような気がする。

 昔っから教えられてきたこと、エライ人やメディアが言ってること、なんだか嘘っぽく響く今日このごろなんだけど、まあいいじゃん。昔っからそれほど信じてたわけじゃないんだし、そんなに正確に理解していたわけでもないんだし、関係ないっちゃ関係ないよ。なにがどうなろうが、てめえの持ち場くらいは、ちょっとは何とかなりそうな気するし、まずはそっからでしょ。せめてそのくらいは、ちょびっとくらいは、何とかなるんじゃないかな、、、って感じでしょうか。


 そんな意思みたいな、希望みたいなものを、カゲロウなんだか幻想なんだかわからないけど、やっぱり少しは感じたような気がしたのですね。打ちひしがれてない、死んでない、前よりも生きてる、生きようとしているって。そのあたり、書き表すのがとっても難しいんだけど、もし書けたらもっと突っ込んで書きます。





文責:田村



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