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今週の一枚(2013/09/23)


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Essay 637:露骨に押し付けがましくなる同調圧力

 〜2013年帰省記(7)
 写真は、京都、烏丸丸太町の交差点付近。
 街路樹のところにヒマワリが点々と植えられていて、なかなか良い趣向だなと感心したのでした。
 ヒマワリの花がひとつあるだけで、一気に夏の風情が盛り上がります。クソ暑かった筈なんだけど、妙に爽やかな気分にさせてくれるという。花というのは偉大なもんです。

 ところで烏丸丸太町は「からすま・まるたまち」と読みますが、いつぞやこれを「からす・まるまる・ふとまち」と読んでいる人の話を聞いたことがあります。学生時分の友人ですが、こういう発音で道を聞かれて、「え、丸丸?なにそれ?」と一瞬意識がぶっ飛んだそうです。まあ、そう読みたくなる気持ちは分かる。京都も難読地名が多いですよね。「糺の森」なんかまず読めないでしょう。「ただすのもり」と読むのですが。


 ”帰省シリーズ”7回目。ESSAY632回のネタ出しから、「新旧対立」=古い潮流と新しいそれが入り混じってる点について前回から数回に分けて書いてます。

 ここでの論点は、
 @、古い潮流は、今までのように自然に浸透してくれないので、結構ネジ巻かないとならず、露骨で押し付けがましくなっていること
 A、新しい潮流が非常に見えにくいこと。それも、輝ける新しいビジョンによって誘導されるというよりは、必要に迫られて自然に進化するような自発的内在的な変化であること。
 B、結果として、@とAの板挟み状態になっているのだけど、それが不鮮明なだけに困っちゃってる感じがする。というか、今の日本がどうなってるかよく分からず、「入り混じってる」ことすらよく分からないこと。


 前回は、@の前段、旧来の方法論の問題点を書きました。
「倉廩実ちてまた倉廩を建てる」の章では、経済発展のための経済発展という逃げ水のような無間地獄性を、
「利権とパンくずの構図」では、日本全国津々浦に構築されている権限と利益が付着している高分子化合物みたいな構造を、
「オリンピックの国体化」では、近頃の世界の「イケてる市民」は、所詮金持ちが儲かるだけのハコモノ+放映利権オリピックにうんざりして反対するのがむしろトレンドになっている状況(原発誘致反対みたいな)を、
「ビジネスの閉鎖環境」では、壁を作ってその内側=「うち」=我々というアイデンティティの成り立ちからして、抜き挿し難く閉鎖的になっていく構造、それゆえ海外だのグローバルだのいっても「イヤイヤやってる」感が透けて見える部分を、それぞれ書きました。

 今回は、@の後段、つまり「露骨で押し付けがましい」点からいきます。

懐疑主義 vs 同調圧力

なんだかよく分からない状況

 まず、なぜ押し付けがましくならねばならないか?を簡単に書きます。

 これは昔ほど素直に政府当局やメディアの言うことを信じられなくなってきているからでしょう。まあ、昔だってさほど素晴らしくもなかったのですが、それにしてもここ10-20年くらいの劣化はひどいのではないか。「なんでそうなるの?」という不思議な現象がだんだん増えてきている。

 今、何が起きていて、その問題の構造や被害はどうなっていて、、というメカニカルな現状認識論がまずあって、そこにズレが生じたら徹底的に議論する。次に、その問題に対処するためにA案、B案、C案とあって、それぞれのメリット・デメリットを議論する。こういう枠組で話が進むなら、見解の相違はあれども、まだ納得できます。しかし、問題があるのに、あたかも無かったかのようにスルーされたりすると「あれ?」と思う。それも当局は見て見ぬふりをするとか、分かっているけど怠慢だったりとかで、それをメディアが批判するならまだ話はわかるけど、メディアも含めて最初っから全然報道しない、する気がないとなると「なんで?」って思います。その代わり、どーでもいいような小ネタを大々的にやる。

 これに加えてネットの普及などで「いや、実は」というオルタナティブなニュースソースが増えた。かといってネットで全てが分かるわけでもなく、凄まじいばかりの玉石混淆になっているから、ますます分からん。アマゾンの書評やレストランの評価のように真逆な意見がゴチャ混ぜになっているから結局分からない。ま、もともと人の意見というのはそういうものですから悪いことではないのですが、ネットというのは「こうも言える」「ああも言える」という情報や意見の拡散機能はあるけど、集約機能はない。

 一方、前回書いたように経済メカがあります。昔は、景気が良くなる→僕らの生活も良くなる、という分かりやすい関係性があったけど、今はない。リーマン・ショック以前のいざなみ景気も「戦後最長」「未曾有の好景気」と呼ばれながらも給料は上がらないし、ぜーんぜん実感がなかった。このあたりから、景気に対する醒めた見方がでてきてます。確かに、景気が悪い→生活苦しいというネガティブな関係は未だに残っているけど、景気が良くなっても、昔ほど素朴にめでたいこととも思えない。そもそも「景気ってなんなの?」って気もするし、景気を良くするために公共投資をなんてことをやってきたから、今の途方もない借金財政とそれ故の年金・老後不安が生じているわけで、景気を基軸にものごと考えても、そんなに素晴らしいような気がしない。

 この状況は日本だけではなく世界的にもそうだと思います。
 「良い」と思ったことが、結果的に最悪の事態を招いたりもするし、そもそも本当に「良い」ものだったのか?という根本的な疑念も生じている。例えば、911テロの報復でイラクやアルカイダをぶっ潰すのは、当時のアメリカの多数にとっては「良いこと」に思えたのでしょう。しかし、その後10年以上ベトナム戦争まがいの泥沼。フセインやビン・ラディンをやっつけました、でも泥沼。それどころか911はヤラセであるとか、真珠湾のように仕組まれていたという意見すら出てきて、そもそもあれは何だったの?という疑問すら出ている。「ツイッターで民主化成功」という美談として語られたエジプトなどの中東の春も、今ではグチャグチャの内戦。ネットでは、アサンジのWikiLeaksをはじめとして、オルタナ系のパワーを持ってきている。経済面でも、OWSや「99%」のように、少数特権階級のための経済システムそのものが問題になっている。地球の温暖化も嘘だという一派が強く、それは正しいのかそれとも御用学者なのかの判断もつきかねる。要するに何が正しいのかよく分からない。

思想統制と同調圧力

 ところで、集団で動く場合、「みんなで心を一つにして」という作業が必要です。このことは、皆さんも文化祭やサークル活動時代から実体験として持っておられるでしょう。メンバーがてんでバラバラで求心力をもたない集団は、動きもチグハグだし、ろくな成果も生み出さないまま空中分解するか、尻すぼみのフェイドアウトしてしまう。それゆえに皆の心をまとめあげるためにリーダーシップが求められ、リーダーたる者は皆の心をすくい取り、価値観を均していく作業を行う。

 そのこと自体は、別に悪いことではないです。むしろスタンダードな手順といってもいい。
 しかし、「心をひとつに」という作業は、言葉を変えれば「思想統制」です。表現をソフトにしたところで、やってることは「こう考えろ」という押し付けです。本来、他人の思想信条の聖域に土足で踏み込むことは許されない。ましてや国家権力がそれをするのは厳禁レベル(憲法19条)。許されるのは、それが情理を尽くした説得→納得というパターンです。踏み込んだり、押し付けたりすることは許されないけど、説得することは許されるという。

 しかし、押し付けと説得の境界は曖昧です。
 「自由意思で〜」とか言いながら、逆らったらあとでイジメられたり、仕事を干されたりして、ほとんど強迫に近いというケースも多々あります。ましてや日本社会の場合、同調圧力、英語で言うピア・プレッシャー(peer pressure)が強いです。学校帰りに悪友全員が「度胸試し」とかいって万引きをやったら、自分一人だけ「やらない」とは言いにくくなる。

 戦前の日本は、まさに標本にしたいくらいド典型だったらしいです。東京も大阪も焦土になって、誰が考えても敗色濃厚であろうとも、メディアは絶対勝つ、神風が吹くとだけ言い続けた。カルト教の会報みたいね。疑問を口にする人間に対しては、小学校の教員から特高警察が手厚く対処する。軽くて鉄拳制裁、重くて拷問死。でもって庶民はどうかといえば、隣組やら銃後婦人会で千羽鶴折ったり、自分の息子が戦死しないと肩身が狭いという思いをさせたり。

 このあたりのバランスがめちゃくちゃ難しいのでしょう。
 ある程度のまとまりがなければ物事は進まないけど、あまりにも締め付けをキツくしすぎると、大ボケ爆走状態になって全滅する。以前、「赤信号みんなで渡れば、みんな死ぬ」というタイトルでエッセイを書きましたが、確かに「みんな」で動けば何事かはなしうるけど、その何事が成功する保証はどこにもない。正しいという保証もない。ヘタしたら「心をひとつにして」集団自殺をやっちゃう場合すらありうる。

 だから「テキトーに心をひとつにする」くらいの、生煮え感のあるくらいがいんでしょうね。ブチブチ言うやつ、公然と罵倒する奴がチラホラいるくらいで丁度いいのでしょう。やってる側としては凄い気持ち悪いんだけど、そこで気持よくして「全員一致」にしよとするとボケが始まる。

 以前にも紹介しましたが、ユダヤ商法の掟には、「会議において全員一致の案件は否決する」という凄いルールがあるそうです。満場一致で賛成したらダメだと。なんで?というと、一人でも反対意見があれば、その人から反対の視点を提示されるわけだから、皆でそれを冷静に検討できるけど、全員一致だと思わぬ落とし穴に全員が気づいていないというリスクがある。世の中100%正しいことなんかあるわけがなく、必ず真逆な見解もあるのであり、それを咀嚼し検討した上で意思決定は行われなければならないという。なるほど〜と思いましたね。さすがしたたかな民族で、それなりの自己訓練も怠らないのね。

 ということは、なんでも満場一致を求めたがる集団、組織、民族というのは、うまくいけば爆発的に成功するけど、一歩間違えたら全員地獄行きになるということです。

露骨になってきている点

 上記の二点、つまり「よく分からない」「醒めてくる」という状況に、「心をひとつに」という思想統制まがいの圧力を加えようとするとどうなるか?といえば、より強力に、より露骨に「心をひとつ」にしようとする動きになるだろうし、現になっているんじゃないかというのが、本稿の主題です。

 なんかヤだな、露骨すぎるだろ、と思い始めたのは、2年前の東北地震以降の、「絆」とか「がんばろう日本」という掛け声です。いや、各人がそれぞれの思いを胸に、自然発生的にてんでバラバラに呼びかけるのは全然アリですし、素直に「そうだよな」って思えますよ。でもスローガン化しはじめるとイヤらしくなってくる。なんか「欲しがりません、勝つまでは」みたいじゃん。

 それより問題なのは言ってることとやってることが違う点です。
 「絆」とか言いながら、被災者の人達に、いったいどれだけのサポートをしているのか。今、何が問題で、どこがどれだけ大変で、その対策は何で、何がネックになっているのかという現状報告が少ない。もちろんゼロではないがよく見えない。僕の私見でいえば、あの地震以降、今日まで新聞の一面トップは全部被災地復興情報であり続けても良い。なぜなら、あれから2年余、それ以上の重要案件は日本に無かったと思うからです。

 僕個人は、何が起ころうとも、「事が重大すぎるから」「パニックになるから」ということで秘匿しないで欲しいです。もし、原発被害がすさまじく「収拾不可能」であるなら、不可能ということを報じて欲しい。どんなに状況が絶望的であっても言って欲しいです。「ガン告知はして欲しい派」です。例えば、もし福島県をはじめとして東京圏内まで3000万人が永久疎開せざるを得ないのであれば、それが今の日本政府や日本そのものの体力に到底見合わず、絶対無理なことであったとしても、「絶対無理な難題が持ち上がっている」という現状認識から始めるべきだと思う。政治も、政権交代も、まず問題認識あっての話でしょう。この難問をどう解くのか?それこそが政策であり、それあってこその政党であり、政権でしょう。

 それを自分らの手に間に合うくらいに、それどころか大した汗もかかずに適当に済ませられる程度のポケットサイズに事態を矮小化させるのは、これはおかしいでしょう。それをやっちゃあオシマイよって思う、問題状況の正確な把握なくして解決はありえない。自分のヘタレな主観に合わせた希望的観測、夢見るような客観認識をやりはじめたら、目をつぶって車を運転するようなものであり、遠からず事故を起こす。

 「なんとかなるだろ」という楽天性や自信は絶対必要だけど、これは主観面での話で、根拠なんか別にいらない。根拠なんか無い方がむしろ良いくらいです。それは予想のようであって予想ではなく、「何とかしたい!」というメンタルエネルギーの問題なんだから。でも、似て非なるものは問題認識で、これは1ミリでも過小評価することは許されない。同じく過大評価も許されない。間違った分だけキッチリ結果に跳ね返ってくる。それは受験であろうが、起業であろうが、ナンパであろうが、なんでも同じです。夢見る夢子ちゃんが、本当に幸福になった試しはかつて一度もない(と思う)。


 しかし、その夢子ちゃんパターンが年々露骨になっているような気がする。
 一つはもう力づくでゴリゴリ押し付けるように、あるいは知らない間にスルーさせたり、はたまた特定のムードを醸し出しながら。

ゴリ押し系

 事細かに検証している時間も能力もないから思いつくまま書きますが、まずゴリ押しパターン。

 ぱっと思いつくのはホリエモンが力づくで潰されたあたりからです。「出る杭は打たれる」という構図はわかるんだけど、それをビジネスレベルでやるのではなし、別件逮捕みたいな形で検察が走狗になっている点で「あれ?」とおもった。かつてはリクルート社が打たれましたけど、あれは賄賂送ったからしょうがない部分もあったけど、ホリエモンの場合は「難癖」と言ってもいい。だれかが「万引きで死刑判決を受けるようなもの」と言っていたが、僕も彼が刑務所に行かねばならないほど「悪いこと」をしたとは思えない。彼の「悪事」を正確に言える人っていますか?村上ファンドもとばっちりみたいに潰された。

 この頃から「国策捜査」という言葉が出てきて、鈴木宗男事件やら佐藤優氏やら、小沢一郎のように無罪になるまで意地クソのように検察審査会を使うなど、ここまで「権力の走狗」になったの?と信じられないような気がします。もともと高校の時にロッキード事件に触発されて検察志望になり、また検察修習で実務をやってそのやり甲斐を実感した身でいえば、検察上層部に対してはいい加減にしてくれって思う。現場の真面目な検察官達が可哀想すぎるだろ。検察内部のスキャンダルの証拠捏造事件だって、あれすら捏造だったりスケープゴートだったりするようだし。

 いずれにせよ、ここまで露骨にゴリ押しするようになったのか?と呆れてます。

スルー系

 知らない間にスルー系も多い。マイナンバーという総背番号制度もスルーだし、あまり報道されなかった「放射性物質汚染対処特措法」もそうです。問題なのは6条で「国民の義務」です。全文は「国民は、国又は地方公共団体が実施する事故由来放射性物質による環境の汚染への対処に関する施策に協力するよう努めなければならない」 ということで、気の早い人は、徴兵制度の道筋が開かれたと評してますが、確かに運用次第によってはそうなりえます。まあ間違っても「徴兵」という刺激的な言葉は使わないだろうけど、「努めなければならない」という文言を強く解釈すれば「意思に反しても強制的に」というレベルまで持っていける(関連立法は必要だけど、その布石になりうる)。

 それより、放射能の後始末が、いつの間にか「国民の義務」になっているという根本的なおかしさがあります。なんで東電や原発行政の後始末が俺らの「義務」なんだよ?という。小学校の公民で習った国民の義務は、納税・勤労・義務教育です。政府や官庁が皆のためにやろうとすることを、真面目に働いて、子供を育てて、税金を払うことによってサポートするのが義務であると。それで十分でしょうが。敢えてわざわざ「放射能汚染物質を片付ける義務」なんて明文化しなきゃいけないのよ?って。

 一方、今あらためてこの法律全63条をぱーっと見たかぎり、そんなに変な法律ではないです。もともと3月の地震の半年後の8月に出来た法律であり、関連省庁や自治体の権限や予算配分などを定めた行政プラグラミングみたいな技術的な立法ですし、それはそれで妥当なものです。全ての行政権は法律上の根拠が無ければならないから(国民の代表者(国会)によって行政権を監督するため)、何か新しいことをやろうとしたら必ず立法をしなくてはならない。だからそれは分かる。そこで除染作業等の必要が出てきて、該当区域の住民に、悪いけどしばらく立ち退いてくれないかと言えないと困るというので6条が出来たのでしょう。それも分かる。だから一部で騒がれているほど極悪な法律というわけではない。

 だけど、住民の強制的な立退きやら避難命令だったら、別にこの法律が出来る前から普通にやっていたわけだし(別に土地収用法や都市計画法、災害対策系など根拠法令は沢山あろうし)、ここまで「全国民の除染義務」みたいな一般訓示規定を置く必要があったのか?といえば、立法技術的にはやや疑問アリです。

 これは法律テクニカルな視点ですが、メディアや政治レベルで、この種の議論というのがもっと前面に出てきて良いように思うのですが。でも、特にこの問題に関心が深い人以外は、ほとんど誰も知らないんじゃないかな?2年前の法律だからってのは言い訳にならなくて、2年前はドタバタしてたから急造の法律でも仕方ないけど、今、汚染水ダダ漏れで長期戦の構えになっている状況においては、今後どう対処するのか大きなフレームワークが語られるべきだし、改めて考えても良い問題だと思います。が、そんな気配はないですな。

 突っ込みだすと長くなるけど関連余談を。
 僕の懸念は、Essay531:間引きで書いたように、社会がジリ貧になってくると弱いものにしわ寄せがいくことで、その方法論です。江戸時代の佐渡の金山、明治時代の樺戸集治監のような、社会のニートみたいな人達を、なんだかんだ理由をつけて強引に引っ張ってきて強制労働に従事させ、「死んでくれたほうが費用が安くなるから都合がいい」とまで公文書に残されているという黒い歴史が頭にあるのですね。多分、また似たような流れになるかもしれないなという。だから、気をつけて見てないとって。

 徴兵や戦争それ自体は、それほど心配してなくて、今の世界は、戦争出来る体力とか、戦争してどうにかなるような生易しいレベルにはないでしょう。「喧嘩が強くて番長になればOK!」という分かりやすい世界は19世紀から第二次大戦までで、そこからは受験戦争みたいなお勉強が出来る方が強いというルールに変わったと思います。大戦後も冷戦でドンパチ代理戦争やってたけど、アメリカもソ連も、ベトナム泥沼とアフガン泥沼で、戦争をすればするほどビンボーになって悲惨になっていったではないか。よせばいいのにまたイラクに派兵して泥沼化し、今回またシリアにやろうとして。アメリカって、すごい国だと思うし学ぶべき点も多々あるのですけど、なんか知らんけど根本的に頭が悪いんじゃないか?って気も又するのですよ。どうなんだろね?賢い人は死ぬほど賢いけど、平均値を出すと世界で一番バカだという「定説」が世界の一部にはあって、"Americans are stupid"でググってみたら笑えるくらいにゾロゾロ出てきますよ。

 それはさておき、放射能も、チュエルノブイリみたいに誰かが決死隊になって(そうとは知らずにだが)乗り込んで、ベタベタに埋めないとならない、行ったら絶対死ぬということをしなきゃいけないとなって、じゃあ誰が行くの?一山なんぼの「安い命」の使い捨てだ、、、って話になるかもしれない(極秘裏にだけど)。日本にいる頃、某電力会社のヤバイ中枢部にいる人から直接ヤバイ話を聞いたことがあるのですが(さすがにヤバすぎて実名は書けん)、てかその世界では常識らしいが、原発の保守要員、東電社員ではなく、防御服着て炉心に入ってメンテする人は安全管理も杜撰で、ほとんど命削って金もらってるようなものだという。でもって志望者は結構いて、釜ヶ崎あたりで血を売ったり、戸籍売ったり、治験実験台になってその日暮らしをしているおっちゃん達で、その「人材紹介」をするのがヤクザであるという。原発関連の七次とも八次ともいわゆる下請けの下請けの、、、って世界は、そうだという。今では関連書籍も刊行されてますよね。

 これが昔っからある日本のアンダーグランドの恐さであり、自己破産やリストラ→ホームレスは序章に過ぎず、そこから地獄の二番底、三番底が開いていく。でも、自己破産案件を幾つもやった経験で言えば、そうなる前に食い止めること、救うことは今の日本のシステムからして絶対に可能なんだけど、知られていないとか、見ようとしないことでみすみすドツボにはまる。それが日本の暗黒部分なんだけど、暗黒っつっても実は大したことはなく、ちゃんとライトを照らせば大して深くもないです。ただ暗いから絶望的に思えるだけです。

 「一隅を照らす」という言葉がありますが、暗いところをちゃんと照らすのがジャーナリズムの役割であり、政治の役割であり、善良な市民の役割なんだと思うのですが、なんか、こう、真逆に向かってるような気がする。できるだけ見ないように、無かったようにというのが、どうにも気に食わないのですね。


感情正義とムード作り

 これはもっぱらメディア論になるのですが、以前のネタ出しにも書いた部分では、
 ★なぜメディアは人々の視野を狭くする報道をするのか。「ここも地球のどっか」であるという当たり前の視点をなぜ欠落させるのか。対中韓感情にせよ、モンペアみたいな不快な隣人にせよ、消費税やTPPにせよ、視野を大きくすれば問題ですらないことなのに、わざわざ狭くして問題視するという。人間の矮小化につながり、問題解決能力の低下につながる。昔だったら「井戸端会議の悪口大会」みたいなことをわざわざ大メディアを使ってやっている部分もある。

 ★どうでもいいけど、なんで日本のTV番組にはあんなにうじゃうじゃゲストが出演しているのか?絵柄としてうざったいし、必要なのか。芸能人の雇用促進策なのか。またその空気の読み方やら、読みつつも敢えて微妙に外して笑いを取る技術やら、なんか取引先との接待の席での会話を見ているような感じで疲れる。デジャビュ的に、子供の頃、行きたくもない法事に連れて行かれ、親族間の儀礼と虚飾に満ちたクソ詰まらない場に延々座らされていた記憶が蘇る。それに「みんな」はこの問題をこう感じますよという、こりゃ一種の洗脳だなとは思った。
 という点です。
 その種の話は数限りなくあって、直近ではオリンピックでメディアがドンチャン盛り上がっているらしく、それを苦々しく感じるという話も個人的にちょこちょこ聞きますが、僕も苦々しい。

 何が苦々しいかというと「話をそらすんじゃねーよ」「もっと他にやることあるだろうが」ってことです。
 放射能汚染も収束宣言どころか宣言撤回し、収束の目処も全然立たないで、毎日途方もない量を垂れ流していて、これを未来永劫とまでは言わないまでも、あと数百年も続ける気か?と。自宅が火事になって、まだまだ燃え広がりそうな勢いなのに、「おもてなし」もクソもないだろうが、って感覚です。

 「めでたいことだから」「経済効果もあるから」という理由だけど、本質的に「めでたさ」なんか押し付けられるものでじゃないでしょう。それに前回述べたように経済効果それ自体が嘘臭さ丸出しのうえに、そもそもオリピックってそーゆーものなの?という根源的な疑問があります。経済効果があるからオリッピックだって?それって、金儲けの手段として有効だからってことであり、何でここまで露骨に「オリンピックは金儲けの手段です」と思えるわけ?いくらビンボーでしんどいからって、そこまで拝金主義になるの?

 これが「経済効果なんか無い!てかそんなこと考えるな、浅ましいにもほどがある」「そんなことやってる場合ではないのは百も承知」という大前提で話してくれたらいいですよ。状況はしんどいけど、解決するかどうかもわからんけど、でもそんな状況だからこそたまにはパッと「お祭り」をやろうぜ、世界の人達を招けるようにそれまでに何とか目処を立てようじゃんって文脈で言ってくれたら僕も素直になれますよ。「それもアリかもな」って。

 でも、問題を見て見ぬふりをするために、思考停止するために、「めでたいんだからガタガタ抜かすな」「喜ばない奴は非国民」みたいに押し付けがましく言われたら、プツンと切れます。もう思春期・反抗期の血が一瞬よみがえって、教師に理不尽なことを押し付けられたときに「殺したろか、こいつ」と思ったくらいに腹が立つ。

 これは直近の極端な例だけど、似たような例はいくらでもある。政治報道もそうだが、歴代首相や政治家がワケもわからず引きずり降ろされるのはもう沢山だと思います。直近の野田首相は選挙に負けたから別として、菅首相だって「無能」「ダメ」というバッシング結論だけが先行しまくり、一体何がどうダメだったのか僕には未だにわからないよ。あれだけの出来事と原子力村の硬いガートがあれば、数々の不手際もまたあるだろうけど、何がどう致命的にダメだったのか僕が分かるように書いているものはない。じゃあ誰だったらよかったのか、どうすればよかったのか。その前の鳩山首相も、麻生首相も、福田首相もそう。ほとんど理屈抜きというか、悪口というか、いや悪口を言う手間すら省いて、結論的な「ダメ」だけを叩きつけるような言い方をする。

 強いて理由があるとしたら「賞味期限切れ」です。それくらいしか思いつかない。
 だって個々の政策の是非は、そんなもん賛否両論あって当たり前だし、罷免の理由にはなりえない。例えば福田首相の個々の政策の何がどう間違っていたのか、今この場で「それは○○だ」と言える人がどれだけいるのだろうか。僕は言えないです。ただ「あなたとは違うんです!」発言の切れっ端だけが流通しているという。それで本当にいいんか?

 ほんと、持ち上げて売れるうちは持ち上げて、叩き落として売れるとなったら叩き落するという。そりゃ商売なんだからそういう側面もあるでしょうし、マッチポンプって言葉もあるけど、幾らなんでもひどすぎないか。これは、第三極とか散々持ち上げた橋下維新についても言える。もう凄まじいばかりの手の平返しですよね。そういえば宮崎県知事でいっとき持て囃されていた人がいたよな、なんて名前だったかな?てな具合で、そこまで露骨にやっていいの?読者の知能レベルを馬鹿にしすぎてないか?と。

 でもって、このファシズム傾向に対してネットが防波堤になるかというと全然ならないというのもわかった。むしろ増幅機能の方が強いかもしれない。その昔のチーム世耕のように、賃金払ってネットに書き込む部隊を雇って、あれこれ書いたり炎上させたりってのは、今となってはむしろ常識でしょう。それはそれで良い。麗しいことではないが、権力闘争や人心掌握って本来そういうものだからと思うから。喧嘩なんだから何でもアリでしょうよ。でも、それを差し引いても、日本人らしく「場の空気」に支配されるのはネットも同じ、いやネットの方が炎上やら集団イジメという陰湿極まる直接被害があるからもっと場の空気に気を使うという。


 思うに、中学高校の授業で政治学を教えればいいのにね。「権力者の統治のテクニック」なんか数千年前から古典的な手があれこれあるんだから、常識程度に教えておけば良い。例えば、「共通の仮想敵国を作って国内をまとめる」というのは誰でも知ってるクラシックな方法ですよね。

 でも、「被支配階級どうしを争わせるテクニック」についてはあんまり知られていない。例えば、あなたがサル山の飼育係で、猿どもが「もっと餌をよこせ」「待遇改善」とやかましくて仕方なくなったらこれが効きます。猿同士を仲間割れさせるのですね。とある一派には微妙に多く餌を与えたり、えこひいきをして、他方には「あいつらズルいですぜ」と焚きつけるわけです。そうすると、猿同士が喧嘩になって飼育係には害が及ばないという。

 何の話かといえば、例えば福祉バッシングです。生活保護にしたって、まず全体の経済体制をどうするか、共生のためのシステムをどうするか論になる筈なんだけど、「ズルしている人がいますよ」と報道することで、世論をそっちに向かわせるという。こんなトリックとも言えないような初歩的なワザに乗ってしまう人達が意外と結構いる。ワーキングマザーへのバッシングだってそうでしょ、放射能汚染を気遣う人を病的な潔癖症みたいにカテゴライズしようとするのもそうでしょ。

 このやり方は、モンペアみたいに「人間的に許せない個人像」をまず描く。「近頃の○○は○○」という、とんでもない隣人、死刑相当のようなひどい人格像を挙げて、そのグループ全体がそうであるかように見せかけるという手法です。

 言うまでもなく「ひどい奴」「気に食わない奴」というのは、どこの世界にもいます。どんな集団、どんな階層、どんな民族を切り取っても、絶対にいるといっていい。なぜなら人間的な良し悪しと、そういうグルーピングというのは一般的に一致しないからです。するわけないじゃん!女だったら全員こうで、サラリーマンだったら全員こうだなんてことはあるわけない。どんな集団にも「いろんな人」がいる。

 そりゃあ多少のステレオタイプはあるけど、でもステレオタイプってのは大体において間違っている。「大阪人は○○」というのもそうで、僕が東京圏にしか住んだことがない頃は、大阪人というと「手にソロバンもって、”銭や、銭や〜”と言いながら、グリコ看板のある橋(戎橋)の上をゾンビのように歩いている集団」というイメージがありました。てか、そういうイメージを描いている「こち亀」の読んで「そうだよなあ」って思ってた記憶がある。そのくらい大嘘。

 でも、そうやって悪感情を焚き付けられると、悲しいかな人間は感情の動物だからとりあえずムカつく。でもって、そいつを叩きたくなる。そして、そうやって叩いているうちに、何が問題だったのか、全体状況はどうなっているのかを忘れてしまう。ほんと猿レベルの知能指数なんだけど、でも、他人のことは笑えないですよ。僕だってそうなるでしょうしね。だからこそ「そういうテクニックがある」「注意しようね」といのを最初に教えておかなきゃって。知ってたら、「あれ?」「なんで俺らが争わないとならないわけ?」というおかしさに気づくし、未然に防げる。少なくともひっかかる率は減るでしょう。

地球の上にひとりぼっちという視点

 そろそろ締めないとならないから駆け足でいくけど、「地球のどっかの視点」というのは、凍りつくような純客観でいえば、「地球があって、あなたが一人ぼっちで生きていて、ただそれだけ」でしょう。親兄弟だって、恋人や友人だって、真剣にどれだけつながっているのか分らないし、そう思える素敵な感情の高揚も確かにあるけど、でも永続はしない。いつかは絶対別れがくる。結局、最初から最後まで自分と一緒にいるのは、他ならぬ自分しかいないのだ。「ひとりぼっち」というのはそういうことで、別に当たり前の話です。

 ひとりぼっちだからこそ、他者とのつながりは大切にしなきゃねって話になると思うのです。
 それはたまたま血がつながっているとか、戸籍が同じだとかで、メンテナンス・フリーでつながっていられると安易に思うことではない。どんな人間関係であろうとも、それ相応に育て上げる努力、維持するためのケアをしなきゃならないってことでしょう。自分に正直になり、心を開き、自分をわかりやすく正確に表現し、相手のことも理解し、ぶつかり合う時はガチでぶつかるという作業なしにして、人と人がつなることなんか出来っこないでしょう。

 ましてや、たまたま同じ時代に同じようなエリアに生まれたからって、別にそれが「愛すべき同胞」なんてこたあない。ありえないよ。家族であろうが同国民であろうが、嫌な奴は嫌なやつだし、つながりたくもない奴だって沢山いる。親族内部での骨肉の争いは常にあるし、日本国内で起きている犯罪の圧倒的多数は日本人同士だし、「同胞」「つながり」という一片の美しい幻想は、この現実の前にはまるで無力でしょう。リアルタイムに、今のあなたに寄り添ってくれる人、自分のことを心から受け入れてくれる人が何人いるのか?それがあなたのリアルタイムの等身大の世界であり、実際問題、それしかないでしょう。

海外話になるとなんでも国家単位で考える不思議な風習

 日本国内では、世界のことを考えるときに、なぜかしら「国単位で考える」という「不思議な習慣」があるようです。

 しかし、あなたが外務大臣や全権大使になり日の丸背負っていくならともかく、実際に生きていて、そんな「国単位」みたいな局面は滅多に出食わさないですよ。つまり人生の99.9%は「個人」として生きていくでしょうから、あなたが接する「世界」も又個人レベルのそれになる。

 そこでやっていくための方法論は、きわめてシンプルで実用的なもので、「この地球にはグッドガイもいるけど、バッドガイもいる」というだけであり、目の前の人間が良い奴か悪い奴か、ただそれだけですし、それで十分です。それ以外の局面に出くわすことなんか、100年生きてもそう滅多にあるもんじゃないです。僕にしたって、海外に20年近く住んで、個人レベル以外で他人と接したことな一度もないし、多分この先もない。

 なんでこんな当たり前の認識が浸透しないのか、それこそ不思議です。
 自分がおって、外界がある。外世界は地球・人類・世界がくる。その中間に、会社だの、市町村だの、国だとという「中間団体」があるけど、それらは、それぞれのスケールにおいて事務処理をするのに便宜だからそういうシステムにしているだけで、あんなのはWidnowsのフォルダーみたいなものに過ぎない。フォルダーにアイデンティティを乗っけたり、過剰な感情移入をすべきではない。だって意味ないんだもん。

 幾ら同じ母校、同じ会社、同じ国民とかいっても、あなたが破産したって、冤罪で刑務所に入れられたって助けてくれるわけじゃないもん。繰り返しになるけど、人間関係が尊いのは、血を吐くような思いで築き上げてきたからこそでしょう。なんもせんと「たまたま」という偶然一発の関係なんか、たまたま同じバスに乗り合わせた程度の人間関係、「希薄」というのもおこがましく、いっそゼロといっていい。期待するな、と。実際、期待なんかしてないでしょう?

 そのあたりが何か変だな?って思うのですよ。
 日頃は知らない人に話しかけることすら躊躇うくせに、世間は冷たいとか赤の他人とか言ってるくせに、なんで国際話になると愛国とか非国民とかいう話になるのよ。「愛」もなにも、赤の他人なんだろうが。話にリアリティが無さ過ぎだろう。
 自分がなすべきことは、まずは自分を、そして自分が大切に思う人をちゃんと大切にすることでしょう。そして自分らが生き延びるためには外界環境を知らねばならない。世の中はどうなっているのか、そしてこれからどうなっていくのか。

 自分の環境に関係する出来事は、何も日本国内に限ったことだけではない。そんなところに境界線を置いても意味がなく、世界まるごとどうなっているかを考えるべきだし、その方が間違えない。事実、今の自分に直接影響のある外部要因というのは、世界レベルのものごとが多いです。リーマン・ショックがあったから、グローバリズムが進んでいるから、自分がクビになったりもする。自分の給料が上がらないのも、日本国内の出来事が主要な原因というよりも、日本の外に原因があり、日本はそのドミノ倒しの通過点に過ぎない。問題は海の向こうのドミノはなぜ倒れるかであり、倒しているのは誰かでしょう。

視点設定のズレ

 このように視点をミクロ(自分と大切な人)とマクロ(世界の動向)に二極にポンと置いたら、メディアであれこれ騒がれている話題の多くは、問題の捉え方自体がズレているように思えてならない。

 例えば、以前書いたTPPだって、国内的には利権構造が脅かされるからキーキー言ってる人がいるだろうけど、世界的にみたらそう大した話ではないっしょ。オーストラリアでも殆ど話題にならないし、TPPでなんとかなるほど国際ビジネスは甘くないもん。それを「外敵が押し寄せる」みたいな問題設定ってどうよ?って思う。世界から見て、今の日本はそれほど注目されているわけでもない。

 消費税も、あれは借金まみれの日本を世界の金融市場がどう評価するか問題であり日本国債問題でしょう。財政健全化に努力していると評価されたら従来どおり投資をしようという世界マネーもいるだろうが、「ヤバイかも」と思われたら資金を引き上げられ、そこでもし国債の長期金利が上がる(値が下がる)ことなろうものなら、国債を何百兆と抱え込んでいる日本の金融機関は天文学的な損害を被り、ひとたまりもなく潰れる。すると、普通に考えても原発百基が同時に事故ったくらいの激震が遅う。それは困る。だから世界マネーの投資家の皆さんには「頑張ってまーす、健全化してまーす」というポーズだけでも見せねばならず、ゆえに消費税でもあげておくか、ってなことでしょう。

 でも本当の問題点は、そんな世界の金持ち連中やら投資家やらの思惑で一国が右往左往するというシステムそれ自体がどうなのか?です。人々が汗水垂らして働くことよりも、気まぐれな投資や投機がその1億倍の影響力を持ってしまうというシステムってどうよ?ってことでしょう。巨大化した国際資本主義をどう修正していくか、その修正原理と方法論が世界的には模索されているんだから。

 日中韓関係は、これはミクロ・マクロ両方から言えますが、ミクロでいえば、あなたが具体的に会った彼らがいい人がどうかです。シドニーでの僕の経験で言えば、殆どの人がグッドガイでしたし、それで十分です。でもこんなの○人だからどうのっていうよりも、ただの個性であって、それ以上でもそれ以下でもないです。個人レベルではそれだけ。

 国際レベルでは、煮詰まり気味の東北アジア諸国の政府が、国内の不満分子にガス抜きをしているって構図でしかないでしょう。きわめて古典的な。ふと思うのだけど、憂さ晴らしのように外国叩いて、それで他愛なく熱狂している人って、リアルにどれだけいるのかしらん?そんなことしたって給料は上がらないのにね。まあ、だからこそサンドバックのような存在が欲しいのかもしれないけどさ。マクロでいえば、アフリカの血で血で洗う内戦にせよ、インドとパキスタンにせよ、キプロスとトルコ・ギリシアにせよ、どこであれ隣近所は仲は悪い。ペッペッと唾を飛ばして口喧嘩みたいなレベルって、それほど問題なのか。

 それとワイドショー等の番組に、うざうざゲストが登場するのは絵柄として鬱陶しいだけではなく、「みんなはこう考えてますよ」という世論形成機能があるように思います。また、それだけではなく会話のやりとりなどで、こういう発言やこういう言い方は恥ずかしい、笑われる、突っ込まれる、空気はこう読めみたいな対人関係のロールモデルみたいな効果もまたあるように思う。

 そういった井戸端会議みたいな場は、これが放映できないくらい過激な本音トークだったら面白いんだろうけど、放映してるってことは所詮はそのレベルだし、どっかしらバイアスがかかる。また、地味に真面目に考えなきゃいけない、考えるためのフレームワークを揃えるだけで時間がかかるような事柄はすっ飛ばされるから、どうしても感情論的な展開になる。つまり、「気に食わない」「許せない」という感情論がメインになって、理屈はその感情を正当化するための後付みたいな「感情正義」みたいな風潮です。

 日本の実家で朝飯食ってる時に、たまたま「マンションや河川敷の共有部分で勝手に畑を作っている人々」という特集があったけど、そんなもん報道ネタになるのか?とちょっと呆れました。井戸端会議も極まれりっていうか、非常識な隣人なんか昔っからいくらでもいるし、それなりの対処法も昔っからあった。夜中にこっそり除草剤撒いとくとかさ、収穫期になったら勝手に皆で摘んでっちゃうとかさ。そんなもん横丁の片隅でちょっとゴタついている程度の話でしょう。中学生の壁新聞じゃないんだから。

オリジナルな問題設定

 あれこれ書きましたが、最後に特に一つだけ言いたいことは、何が問題になっているかという問題設定、視点設定は、これだけは他人(メディア)に教えてもらってはイケナイということです。

 今の自分、今の世の中で何が問題なのか、何を論じるべきかというテーマ設定は、自分の頭でゼロから考えるべきでしょう。メディアに「問題だ」と言われて鵜呑みにして、それしか考えないのって危ないと思う。世間ではぜーんぜん問題になっておらず、全く知られていないことでも、自分が大事なことだと思えばそれが大事なのだと。

 かといってメディアの言うことを全て聞くなというつもりもないし、参考意見としては大いに参考すればいいし、結果的に問題点が一致するのは構わない。でも、あくまで出発点としては、オリジナルな問題意識と視点設定が必要だと。なぜなら、メディアの劣化が叫ばれて久しいけど、一番劣化しているのは、この問題・視点設定能力じゃないかと思ったからです。




文責:田村



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