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今週の一枚(2013/09/06)


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Essay 636:「まだやっている」 〜利権とパンくずの構造〜オリンピックの国体化

 〜2013年帰省記(6)
 写真は、ご存知、五山の送り火、大文字焼。京都御所から撮影。

 いや〜、学生時代に京都に住んでいながらこれを見たのは一回生のときだけ。「地元民なんかそんなもんよ」って話なんですけど、久しぶりに見ようと思いたちました。やっぱ見るものですね。もう記憶とかなり違う。「え、こんなに大きく見えたっけ?」って、当社比300%増くらいの感じでした。記憶なんかアテにならないよな〜と。

 この写真はやや広角で撮ったので、実際にはもっと大きく見えてます。感覚的にこの2倍くらいの大きさで見えました、、、って、思うんだけど、これが既に「記憶のトリック」にはまっているのかもしれない。この次見たら「あれ、こんなに小さかったっけ」って思ってるんだろうな。


 延々”日本シリーズ”を書いてますが、ESSAY632回で羅列したネタ出しは、まだまだ山ほど残ってます。どうしましょ?って感じですが、幾つかのブロックに分けられると思うし、それをツラツラ眺めていると一つの構図みたいなものが見えてくる気もします。まあ、目新しい構図ではないのですが。

 一言でいってしまえば「新旧対立」で、古い潮流と新しいそれが入り混じってる、、、って、こんなの何だってそうなんだけど、今の日本の場合、幾つかの特徴があるように思います。

 @、古い潮流は、今までのように自然に浸透してくれないので、結構ネジ巻かないとならず、露骨で押し付けがましくなっていること
 A、新しい潮流が非常に見えにくいこと。それも、輝ける新しいビジョンによって誘導されるというよりは、必要に迫られて自然に進化するような自発的内在的な変化であること。
 B、結果として、@とAの板挟み状態になっているのだけど、それが不鮮明なだけに困っちゃってる感じがする。というか、今の日本がどうなってるかよく分からず、「入り混じってる」ことすらよく分からないこと。

 このあたりを書いていきたいと思いますが、例によって長くなるでしょう。ゆっくりいきます。簡潔にいえば上記の数行に要約されるのだけど、それでは中々伝わらないと思うし。内容が微妙に不分明、あるかなしかの「ほのかな香り」みたいなものなので(英語の"subtle"って言葉がドンピシャなんだけど良い日本語が見つかない)。

旧来の方法論

 まず、@ですが、これが一番簡単で、毎度おなじみの話です。
 旧来の方法論というのは、経済=物財であり、物財を豊かにすることが人生の幸福につながるのだという発想にもとづいて、社会のあらゆるシステムや、アルゴリズム(規則性)、ひいては個々人の意識にまで深く浸透していることです。だけど段々とその合理性が落ちてきて、いい加減に新しい方法論を摸索すべきなんだけど中々そうならない。また、そのシステムによって利益を得ている人々としては、旧システムの維持を願うわけだけど、徐々に神通力が落ちてきているので、一層のプロパガンダに励んでいるような気がする、という話です。

 今回はその前半部分、従来の方法論とは具体的に何か、それがどういうシステムになっているのか、既得権とか利権構造とかいうけど、なぜそんなものが生じるのか、それがどのように積もり積もっているのか、あたりを書きます。これだけで一本いっちゃいます。


倉廩実ちてまた倉廩を建てる

 物財の豊かさが幸福の基礎になること。それはそれで間違ってないです。自明の理と言ってもいい。

 「倉廩(そうりん)実ちて礼節を知る」という古い言葉がありますが、今日明日の食いぶち困っている人に礼法や人の道を説いたところで実効性は乏しい。まずは最低限の衣食住であり、それらが満たされて初めて理想を語れるのだ、というのは人間の一般論としては正しいと思います。

 それはいいんだけど、問題もないわけではない。その問題は、この原理が間違っているというよりも、この原理をちゃんと実行できていないという部分に起因するように思われます。

 第一の問題点は、「蔵を満たす=それしかない」という発想の固着性です。
 絶対的な飢餓状態=蔵が空っぽだったら、まずは蔵を満たすことに全力を注ぐべき、、、ということは、蔵が満たされれば「礼節を知る」というワンランク上の幸福を摸索しなければならない。その過程においても、蔵が徐々に満たされてきたらその余裕に応じて徐々に礼節を考えるべきだし、蔵が100%満たされたら全力で高次な理想を考えて実現すべきというのが論理的帰結なんだけど、意外とそうならない。相も変わらず蔵を満たそうとする。

 「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないけど、ありがちでしょ?
 蔵が満たされたら「ここも手狭になったな」とかいって、より大きな蔵を建てる。そしてガラガラの新蔵を見てもっと満たさなきゃって頑張る。

 思うに平安時代の庶民(or 貧乏貴族)の暮らしに比べれば、現代のホームレスの方がカロリー的/労働的/衛生的/治安的に遥かに「よい暮らし」をしているとも言えるし、四畳半に一家6人がスシ詰めになっていた高度成長時代に比べたら、今のひきこもりなんか王侯貴族のようです。正味の話、戦後の絶対飢餓をスタートラインにしたら、蔵なんぞ昭和40年台くらいにもう満杯になっている。しかし、やたら蔵を新設するから餓鬼道のように飢え続ける。

 さらに頑張る過程で環境破壊をしたり、ストレス貯めたり、人間関係がギスギスするから、又そこに欠落感が生じて、それを満たそうとして頑張って、、、、、もう永遠の逃げ水、「無間地獄」ってやつです。だいたい「癒やし」とか「豊かな自然」なんてのは、本来商品にならないものなんだけど、それすらをも商品化して”経済的に解決”しようとするから、またお金を稼げないとならない。お金を稼ぐとストレスが貯まり、ストレスを癒すためにはお金がかかるという「何やってんだか」状態になる。

 第二に、同じ蔵を満たす(経済活性化)であっても、別に一つのやり方だけではない。経済は生き物だから時勢が変われば臨機応変に適応すべきなんだけど、昔ながらのやり方が染み付いて路線転換が出来ない。「構造改革」なんか昭和50年代の頃から40年近く叫ばれ続けているけど遅々として進まない。結果的に時代遅れのやり方を繰り返しているので、蔵の満たし方(金儲けのやり方)がどんどんヘタクソになっていくし、現になっている。

利権とパンくずの構図

 ★巨大資本で巨大建造物を作って集客してという古い方法論を「まだやっている」

 「まだやってる」は、大阪駅北の新開発みて思いました。「要るの?」って。大きなハコモノ作って、ガンガン集客して、ベラボーなテナント料取って、大きくお金を動かしましょうというのは発展途上国の方式であり、発火薬という起爆剤にはなるが継続的な燃料にはなりにくいです。あくまで「種火」であるべきで、「着火」しなければ意味が無い。

 同時に副作用もあります。独立後の南米諸国やフィリピンのマルコス政権、インドネシアのスハルト政権時代のような開発独裁的になり、政治過程は不透明化し、所得の再配分は逆進的になって貧富の格差はむしろ広がる。大規模再開発や、いわゆる「ビッグプロジェクト」も、土建業者やデベロッパーと甘い汁に群がる利権虫は満たされるかもしれないけど、長い目でみた経済効果は意外と少ない。

 素人考えながら、経済というのは、民衆レベル、ミクロレベルで活発に富が創造され、行き交うようにならないと本当の意味で充実してこないように思います。「お上」や巨大資本が行う経済行為は、それが一部の人間だけが決定権限を持つ権力的要素を含むがゆえに、どうしてもその権限と利益とか結びつき「利権」になりやすい。

 ここ、わかりにくいかもしれないから、もうちょい細かく書きます。

 学校の制服や運動着も、一応のガイドラインだけを示してあとは自由調達で良いならば、学校周囲の商店はそれぞれに工夫を凝らして良い商品を売ろうとするだろうし、消費者(生徒と保護者)も予算と相談して好きに選べば良い。ところが、学校や教育委員会という「特定小数者」が、納入業者や商店を指定しそれ以外は認めないというという「権力的要素」が入るとどうなるか?経済はどうしても「指定を受けるための競争」になる。そこに陳情なり賄賂が乱れ飛ぶ可能性があるし、「長年のつきあい」という分かったような分からないような要素が入ってくる。少なくとも消費者の自由選択はなくなるし、本来経済の最終決定権者であるべき消費者の支持を背景にして新規参入業者が頑張る余地も乏しくなる。

 資本主義というのは、@安価でA良質な商品・商人同士の競争であり、そこでの最終決定者は消費者です。消費者は完全に不特定多数であり、個々人の自由意思で動くから、それは選挙以上に公平であり、フェアです。それが自由市場というものでしょう。この自由環境では、良いものを思いついた人は今日にでも参入できるし、明日の億万長者になりうる。だからこそ頑張ろうと思うし、それが民間活力につながっていく。資本主義の良い点、人間の活力を最大に引き出せるという点は、まさにその自由性にある。

 ところが決定権限が消費者から特定小数になってしまえば、ゲームのルールはガラリと変わる。「皆に愛される」のではなく、「特定権力者に愛される」ことがゴールになる。いくら良い商品を作ろうとも、どんなに消費者に好まれるサービスを実施してても、決定権者に好まれなかったらダメ。そうなると話は大奥丸秘物語のように陰湿化し、「上様のご寵愛を受ける」ために、あの手この手が使われる。ずーっと昔に大蔵省のエリート官僚がノーパンしゃぶしゃぶで接待を受けていたことがスキャンダルになってましたが、あんなのは氷山の一角、大海の一滴でしょう。そして見事勝ち抜いた勝者には、途方もない利益が約束される。しょーもない商品をクソ高い値段で大量に売りつけて笑いが止まらないほどの暴利を貪れる。開発独裁→利権構造、というのはそういう意味です。

 こんなことやってるうちは、経済的な意味で先進国とは呼ばないと僕は思うし、その意味ではこの地球に先進国なんか未だに存在していないのかもしれない。アメリカだって、ロッキード社など軍需産業の思惑で議会が動いたり、必要のない戦争をやったりしているうちは発展途上国だとも言える。そして日本も、ハコモノ行政だの談合だのといったことが、中学校の上履きレベルで普遍化している。「日本の農業」とか言うけれど、農水省と住友化学などの巨大肥料メーカーと農協との三位一体に加えて、土地改良事業という農業土木と土地転がしの超美味しいビジネスがある。土地改良事業団は有力な自民の支持団体で、民主政権下では予算を6割も削減されていたのに、自民が返り咲いたらまた復活しそうな勢いだという(例えば自民党が謀る「土地改良利権」復活 「攻めの農業」論議は目くらまし)。TPPなどで「美しい水田を」とか美名を掲げているけど、その実態はガチガチの利権構造だと思います。

 これは農業に限らず、日本のほぼ全産業に行き渡っていると思います。本来、限りなく自由であるべきアートの世界でも○○教授の「引き」がないと日展や二科展で入賞できないとか。クラシックでも多くの才能豊かな人が海外で活躍するのも、国内の家元制度的な息苦しさに耐えられないのでしょう。反社会的にまでに自由であるべきロック業界ですら、TV番組やCMのタイアップが取れるかどうかで営業合戦をする。レコ大の胡散臭さは古くから有名だけど、どこも似たり寄ったりでしょう(例えば「今日のヒットチャートは若者文化ではなく、音楽利権文化だ」穂口雄右氏)。

 メディアミックス戦略といえば聞こえはいいけど、レコード会社(その多くの親会社は電機メーカー)とTV局と電波の有限性を理由に管理しようとするお上(電気通信・放送行政、なぜか郵政省が管轄、今は総務省)と、その名も「電通」という巨大広告代理店がガッチリ分子間結合のような有機体を作っている。日本のTV局が増えない(新規参入が許認可されない)のは「電波の有限性」だというけど、じゃあ日本人総数よりも多い携帯電話契約数(1億3000万)はどうなるんだ。1億3000万通りの電波(周波数)の分割が出来ながら、わずか数局の民放を数十年間一局たりとも増やせないという科学的な理由が知りたいもんです。地デジになったことだしさ(地デジになった”跡地の払い下げ”がまた議論になってるみたいですが)。

 しかし、ここまで普遍化しているとなると、そしてこれだけ騒がれながらも突き崩せないとなると、もう日本人(てか人間は)は生来的に利権構造が大好きなのだ、ダイエットや禁煙が続かないように、いくら禁止してもなし崩しになっていくものなのだ、という具合に認識を改めないとならないのかもしれないです。

 考えてみれば利権構造って楽ですからね。
 ガチガチの利権構造というのは、そこに加われば、日本人の大好きな「安心」「安定」が保証されるということです。競争を根本ルールとする資本主義では、常に変化しつづけるサーフィンのようなものです。いつなんどきドボンになるか分からず、瞬時も休まずバランスを取らねばならない。それなのに「終身雇用」とか言ってたんだから、本来「ありえない」「あってはならない」くらいの異常思想でしょう。サーフボードの上に一生乗り続けていられますよってことなんだから。そんな荒唐無稽な発想がデフォルト設定になっているんだから、世の中が変わってもついていけないのは当然といえば当然。

 また、利権構造的な安定体質というのは、消費者にとっても楽です。他人の目を気にしなくてもいいし、考えなくていいもん。学校の制服だって、毎日何を着ていくか考えなくてもいいし、皆同じなんだからダサいとか笑われないし、着たきりスズメでもOKだから楽ですもん。「世間対策」と「甘美な思考停止」を得られるんだったら、多少高くても、その方が得だ、楽だっていう意識もまたあるのでしょう。僕の高校は自由服だったけど、実際、最初は何着ていいのかわからんから「標準服」と呼ばれる普通の詰め襟を着てたもんね。上級生になると私服になっていったけど。だから日本人が「世間の目を気にしない」&「自分の頭でモノを考える」という最大の苦手科目を克服するまで、この種の利権構造は永遠に続くかもしれない。中世には「座」という利権集団があり(だから楽市楽座は革命的な規制緩和だった)、家元という制度がある。なんだかんだいって皆がそれを望んでるからでしょう。

 それでも、僕はイヤですね。
 この種の日本的な構造利権の風景というのは、いつもながら書いてて腹立ってきますね(^^)。

 だってさ、図式的にはこうですよ→テーブルの上で巨人たちがゴージャスな晩餐を楽しんでいる。散々飲み食いするから、パンくずやらワインがテーブルの下に零れ落ちる。その落ちたパンくずを僕ら庶民がアリのように群がって食べている。そのパンくずの多い/少ないで生活が決まり、人生が決まる。巨人達の晩餐が活発になるほど、パンくずも増える、これを「景気」という。

 それでいいのか?といえば、俺、そんなんヤダ!ここはもう駄々っ子のように駄々こねたいですね。アリンコになるのも屈辱的で当然イヤだし、かといって巨人になりたいか?というと、それも又イヤです。くだらない優越感はくだらない劣等感と同じくらいくだらないからヤダ。なんで等身大で出来ないのよ?

 僕の好みはさておき、本題に戻ると、特定小数者が巨大資本を投下し、それを利権に参加できる巨人達がムシャムシャ食いまくるという「景気対策」なんか、本当の意味での経済ではないと思います。たしかにその効用は認めるのにヤブサカではないですが、それはあくまで着火剤としてです。火が燃え移らなかったら意味がない。そして燃え移るというのは、大企業が儲かったら、膨大な利潤を蓄積してないで、ちゃんと従業員に給料やボーナスで還元することです。そこがシケってたら意味が無い。経団連は常に「政府に景気対策を」と掛け声かけるけど、彼らは巨人集団だからそれでいいでしょうよ。でも最近の巨人達はしみったれてきてパンくずも落とさなくなってきているから、僕らアリンコにとっては辛い話です。そのレベルで「景気」とか言われても生活実感に結びつかない。

 やっぱりパンくず拾いみたいな構造ではなく、ちゃんとアリンコがビジネスを考え、動かし、アリンコが買うという、民衆が富を生み出し、民衆が富を交換するという形に移行していくべきだと思います。

 とは言うものの、そこにそういう構造があり、これをすれば確実に儲かるという層が一定数存在するのは確かだし、日本列島改造論以降ずっとそれでやってきた古式ゆかしい錬金術メカですから、彼らにとっては捨てがたい。だからしがみつく。

オリンピックの国体化

 そういえば東京オリンピックが決まって、ちょっとびっくりしました。
 嬉しいというよりは「ほう、世界はそこまでいってますか」と呆れて。イスタンブールで当確でしょうって思ってたんだけど、そうならなかったのは何故か?憶測が乱れ飛んでますけど、僕が思うに、オリンピックの方法論としての古さがクッキリしたのだろうなと。

 オリンピックの歴史って面白くて、最初は純粋にスポーツの祭典だったのかもしれないけど(それすらわからんけど)、「それにかこつけて」プラスアルファを目論むという「不純な動機」がありました。最初の頃はナチス五輪のように「国威発揚」ですね。次に、発展途上国の成人式でこれをやれば一人前という。そしてロス五輪あたりから「儲かるから」というソロバン勘定でやるようになった。

 これら「不純な動機」があれこれ錯綜しながら開催されているという、その時代のリトマス試験紙のようなイベントでしょう。ローマ(60)、東京(64)、ミュンヘン(72)は第二次大戦の敗戦国の復興でもあるし、今では更生して西側諸国として頑張ってますというプロパガンダにもなったのでしょう。モスクワ(80)とロスアンゼルス(84)は東西冷戦のボイコット合戦だし、ソウル(88)、北京(08)、リオ(16)は通過儀礼的なもの。96年のアトランタ(コカ・コーラ、デルタ航空、CNNなど多数の大企業が本社を置く)なんか商業主義以外の何物でもないでしょう。その意味で言えば、地元の贔屓目かもしれないけど、2000年のシドニーはあんまり「邪念」が入ってない、比較的牧歌的な大会だったような気がします(物議をかもすことも少なかったし)。

 でもって、斜陽貴族の先進諸国、そのなかの貴族階級的な人達が選考委員を勤めるIOCにおいて、オリンピックの経済効果という昔のやり方に、昔の人達が期待を寄せるのも無理もないでしょう。で、BRICKSの次はトルコが来るということで、経済的にも通過儀礼的にもイスタンブールの筈だったんだけど、デモは起きるわ、リビアはあんなになってるわで、状況が変わったのでしょうね。リビアは東西冷戦という懐メロがちょっと鳴って、面倒くさそうだなって話になった程度だけど、より問題なのはデモでしょう。

 つまり「資本主義的に成長すればエブリワンハッピーさ」という20世紀後半のドグマの嘘臭さが染み通るように広がっている昨今の世界では、「どうせ金持ちが儲かるだけだろ」というシニカルな見方、というよりもいっそ「激しい怒り」みたいな感情がある。それがアメリカではWOSの流れになり、前回のロンドンでも、次回のリオでも「いい加減にしろ」的な暴動が起き、トルコでも反政府デモがある。こうなると、経済効果(利権効果)を目指そうにも、政権の中枢が変わっておじゃんになるかもしれないというビジネスリスクが出てきたのでしょう。

 だから無難に東京。放射能があるけど東京。気分はフクザツですねえ。
 選考委員会の「大丈夫そうだ」という見立ては、言葉を変えれば、利権構造がしっかりしているとか、民衆パワーが小さそうだと言われているのとニアリーであり、素直に喜べないです。まあ自民が返り咲いて、原発もなし崩しになっているんだから、世界からそう評価されても仕方ないよなって思いますし、当たってるっちゃ当たってます。

 しかし、僕の興味は、お金持ちのお金儲けが上手くいくかどうかではなく、オリンピックの神通力の低下にあります。民衆レベルではどんどん白けてきているという世界的傾向です。国民的盛り上がりとかいうけど、本当に盛り上がってんの?と。そりゃメディアはそれで儲けるから懸命に盛り上がるけどさ、肝心なのは一人ひとりの心のなかです。例えば、ついこないだのロンドン五輪で金メダル取った日本人選手の名前を、あなたは何人言えますか?すいません、僕は一人も言えませんでした。メダル総数は多いし、若手が伸びてきてるし、いいな〜とは僕も思ったのですが、小学校の教室で皆で真似してた札幌冬季五輪のジャンプの笠谷選手、あるいはヤワラちゃんとか、Qちゃんとか、誰もが知ってるって感じではない。それはスター的な取り扱いをやめたメディアの自制だという意見もあろうが、なでしこの便乗フィーバーを見ればそうも思えない。やっぱ、絶対的な関心度や盛り上がりが冷めてるんじゃないかなあ。

 なんかこのままいくとオリンピックが国体(国民体育大会)化していくんじゃないか?って、そんな気がします。国体だってミニオリンピックで、県内経済効果を狙って、ハコモノは作るわ、マスコットキャラは売りだすわですけど、はっきり言って知らないでしょう?あなたは直近5年の国体の開催県とネーミングをご存知ですか?2008年チャレンジ!おおいた国体(大分県)、2009年トキめき新潟国体、2010年ゆめ半島千葉国体、2011年おいでませ!山口国体、2012年☆ぎふ清流国体です。知ってました?僕は知らんかった。そして、2013年、つまり今年はスポーツ祭東京2013ということで、なんと東京で国体が行われるのだけど(しかもなんと今週からなんだけど)、僕は知らんかったという。

 ほんでもって経済効果ってあったの?という。利権系がとりあえず儲かるという一回性のものではなく、ある程度持続的なものがあったのか?ですが、あんまり無いんじゃないの?これはオリンピックでも同じで、シドニーだって(見方は色々あろうが)、僕の生活実感ではそれほど大きな五輪効果って無かったような気がする。大きいのはやっぱ鉱山+中国需要だし、全体に好調だし、どれだけ五輪が関与しているのかよくわからない。大体、それを言うならアテネ五輪のあとのギリシアなんてどうなるんだ?という。ロンドン大会のあとイギリスが長期的に良くなったのか?88年のソウルのあとの韓国は10年後にはIMFショックで大変なことになったし、北京五輪のあとの中国は、やたら「減速」とかいう文字が目につくし。

 もう一つ、IOCにせよJOCにせよ、オリンピックのアマチュアリズムの胡散臭さがあるのでしょう。コマーシャリズムの権化のようなオリンピックで、未だにアマチュアリズムという経典を唱えているのは、あれだけ拝金主義的になっていながら未だに共産主義を崩していない中国みたいだ。しかも、同じビジネスでも密室の利権談合的な雰囲気ありーの、そして全柔連などの日本独特の家元体質的な鬱陶しさありーので、なにからなにまで不透明だという。商業的なら商業的で、いっそカラッと露骨にやってくれたらすっきりする。別にお金やビジネスが汚れているわけではないのだからさ。

 今となっては、オリンピックよりもサッカーのワールドカップの方が燃えるって人、多いんじゃないでしょうか?
 ワールドカップは、アマチュアリズムなんて言わないでプロ選手メインでやるし、F1みたいにユニフォームやインタビューの壁にロゴ貼りまくりだし、ゴリゴリの商業主義なんだけど、あそこまで露骨にやってくれたらいっそスッキリします。それに商業主義がからんだって、感動は感動ですよ。それはF1だってそうだし、ロックのショービジネスだって同じことです。「お金が絡むと不浄」とかいう発想がどうなの?って思うし、それ以上に、そう言いながら何処よりも激しくお金が絡んでいるわけで、要するにそのあたりの「嘘」が腐臭を立てているんじゃないかと。

ビジネスの閉鎖環境

 「旧体制の温存」に関連しているのは、
 ★相変わらずのインフラ鎖国で、海外から日本にやってきて一時的に携帯電話を使うのは「ほぼ不可能」という結論に達した。全ての元凶はSIMロックであり、この例外を許そうとしない市場の(てか性根の)偏狭さは、世界に冠たる島国根性市場といっても言い過ぎではない。

 という点です。
 まあ、ここも突っ込めば長くなるし、ほんの一例に過ぎないのだけど。

 帰省するに際して、年に二度は日本でセミナーをやってるカミさんのアドバイスやら、自分で調べるやらで、日本現地での携帯ゲットの方法を調べました。調べ方が悪かったり、足りなかったのかもしれないけど、「無理」「不可能」という結論になっちゃいました。

 SIMロック解除それ自体は、いまはDOCOMOがやってるので、DOCOMOの携帯をSIMロック解除してこっちに持ってくれば、そこらへんのコンビニでもスーパーでもKIOSKでも売ってるAmaysimだのLebaraあたりの200円弱の(2ドル)SIMを買って、ネットなどでアクティベイトし、とりあえず1000円くらいリチャージしておけば、即できます。

 だけどその逆が出来ない。こっちの携帯はSIMロックしてても、テレストラなどに電話して「海外行くからロック外して」といえば外してくれます。それはいいんだけど、日本でSIMがない。売ってない。b-mobile(日本通信)が有名で調べてみたら、確かにVisitor用のSIMは売ってる。高いけどまあ許せる範囲(14日で1Gで4000円)。しかし致命的な欠点は「電話がかけられない」。つまりデーター通信オンリーで、普通の通話ができない(ココ参照)。意外と見落としがちだけど、データーオンリーが多い。間に合わなかったけど、9月19日から発売されているイオン専用SIMは、通話もできるし、通話料もそこそこ(1分42円)だし良さげだけど、よく見ると「開通日から少なくとも5ヶ月間ご利用いただくことを条件」「解約金として8,400円」とかなってて、2週間だけの滞在には無駄過ぎる。

 時間もないまま、あれこれ調べていたけど、結局どれもこれも帯に短し襷に長しでダメでした。あるのかもしれないけど、よう探しきらない。ソフトバンクのレンタル携帯もいいなと思いつつ6ヶ月契約だし、ほかにもいいなと思ったら、通話料がバカ高い(1分100円とか)。

 「なんじゃ、こりゃ」と思いましたね。かくなるうえは、移動式ルーター(これは使えた)をレンタルして、スマホのWiFiでスカイプを使うという方法。でもダメでした。スカイプでも料金払えば一般通話は出来るし、指定国での電話番号もゲットできます。そこまではやってみたけど、これも致命的な欠点がある。日本の場合は、スカイプから日本の電話にかけると発信者の表示がなされないという。これでは電話を受けてもらえにくいし、受けてもらおうとすれば、「明日の○時頃に発信者不明の電話があるかもしれないけど、それは僕である可能性が高いです」と、あらかじめ「電話するアポ」をメールその他でとらないといけないという。そんなん実用性ないわ。なんでスカイプだと発信者表示がなされないのよ?どこにバリアがあるのか?といえば、多分、通信規制でしょう。外部参入を認めないってベクトルがどっかにあるのだと思う。多少の技術的な障壁をクリアしてでも、より開放的に、より自由にやっていこうという発想が根本的にない。

 SIMロックフリーな携帯がバンバン売られ、且つSIMだけガンガン売って自由に互換性高くやっていきましょうって発想がない。自由を基本原理とする社会と、不自由(囲い込み)を基調とする社会の差だと思います。

 ケータイはほんの一例に過ぎず、その種の話はたくさんあります。
 これだけ観光立国だの外国人観光客数がどうのとか言いながら、そのインフラ環境はとってもお寒い。とにかく消費者を囲い込んで儲けようというビジネスモデルが多い。もう中世の御家人かよ、イギリスのエンクロージャーかよって。

 おそらくそのあたりの外国人ビジネスは、外国人起業家に食われていると思います。オーストラリアでも、日本人対象の日本人のやってるビジネスがあって、そこでレンタル携帯などを扱ってます。同じように、東京や大阪あたりには、中国人起業家がやってる中国人顧客を対象にしたレンタル携帯などがあると推測されます。「広東語でどうぞ〜」とかいって。おそらくは格段に安く、簡便にやっているでしょう。だとしたら、あーあ、せっかくのビジネスチャンスを食われてやんのって。

 ネットでも、これ以上読みたかったらやれ会員になれとかうるさい限り。しかも会員になろうとしたら、やたら根掘り葉掘り聞かれる。でもって、住所は北海道から沖縄までで「海外」という選択肢がない。そうなんだよな、在日日本人にとっての海外なんか「想定外」なんだろうな。それどころか、そもそもネットに繋がらないという凄いサイトもある。カスペルスキーというアンチウィルスソフトの日本販社もそうで、オーストラリアからは加入できない(ネットでアクセス出来ない)。だから日本にいる友達に頼んでアクセスしてもらったり、面倒なことこの上ない。そりゃあ海外からのアクセスはハッキングやウィルスの危険があるでしょうよ。でも、それを何とかするのが技術でしょうが。恐いからって門を閉じればいいってもんじゃないでしょう。そもそもアンチウィルスソフトの会社がそれを怖がっていたら商品の信頼性にもかかわるでしょうに。

 また、海外からのメールは無条件で弾かれたりすることもある。「メールが届かない」環境で、グローバルビジネスが出来ると思ってんのか。こちらの銀行のキャッシュカードは、世界中のATMで現地通貨でおろせるのが基本設定になっているけど、先進国では日本だけが例外。日本の金融システムの仲間に入れてもらえないんだろう。カミさんも日本から帰ってくる度にこぼしてますが、「あれはダメ」「これはダメ」が多いと。とにかく自由にやらせてくれない。

壁を作って解決、門を閉ざしてひきこもって解決

 なんでこんなに不自由に、囲い込もうとするのか?ですが、これは先ほどの利権構造と同じ発想だと思います。以前、箱庭社会のエッセイでも書いたけど、まず塀を作る。「進撃の巨人」みたいに壁をドーンと作る。そして壁の内側を「ウチ」と呼ぶ。

 日本語では、わが家のことも、我社のことも「ウチの〜」「ウチは〜」といいます。"my home""my company"がすなわち"inside"になる。というか「マイ」「自我」の成立そのものが「塀の内側」なのでしょう。「私」「私達」とはなにか?「塀の内側にいる人」です。塀なんか無くて、自由に他者と行き来できて、その上でどう自我を組み上げるかというアイデンティティの成り立ちになっていない。「囲うことで成立する自我」「囲わないと安心できない自我」です。

 囲ってしまえば、中のメンツは固定的になるから、自分たちだけの特殊ルールも作れるし、権力基盤や利権構造も作りやすい。美味しいビジネスが出来るし、巨人達の饗宴ができるもんね。そこでオーストラリアみたいに、普通の会社も役所も社長から下っ端まで「3年すれば総とっかえ」になるような流動性と開放性の強い社会では、利権構造は作りにくいし、作ったところで一時的。だって懸命に賄賂を送って、いい関係を築いたとしても、さあこれから甘い汁を吸おうという段階で転職されてしまうし、政権が変わる。政権が変われば、ほぼ自動的に役所の上級職はクビになる。当たり前ですよね、官僚というのは政策の実行集団なんだから。

本気でやってない、イヤイヤやってる感

 以上、日本における海外とのインフラの貧弱さは、つとに指摘されていたのですが、大した改善がなされているようにも見受けられないです。根本的な部分で覚悟ができてないというか、腹が括れてない。もっといえば、本心はやりたくないんだろうなあって。壁をブチ壊して、自由に、だだっ広いところを思う存分疾駆する喜びよりも、囲いのなかでぬくぬくやっていたいのだろう。でも、時代はそんなこと言ってられないから、形だけでも「やってまっせ」とグローバル対応しようとする。でも、本質的にワクワクしながらやってるのではなく、どっちかといえばイヤイヤやってるので、痒いところに手が届いていない。故意に届かせていないんじゃないか、くらいに。

 まあ、これだったらTPPでも断固反対とかいう心情になるよなあ。囲われていること、変わらないこと、影響を受けないこととが「幸福のカタチ」であり、「正義」であるという価値観であるなら、なんであれ、変化を促す要因は排除したいでしょう。

 ふと思ったのですが、2013年段階で「海外は恐い」という常識的な感覚があるというのは、かなり不思議なことです。だって、日本人が海外旅行に行き始めたのは、戦後それほど経ってない頃からですよ。「は〜れた空ぁ〜」という「憧れのハワイ航路」という流行歌は昭和23年、1948年です。そんな頃から流行歌になるくらい海外は近かったし、海外旅行を山ほどやって、一人あたり何度も海外に行っていながら、なんで「恐い」の?60年以上延々とやっていながら、未だに恐いというのはおかしくないか?それだけの経験を積んでおきながら、いったい何を学んできたのか?本気でやってんのか?

 だから本気でやってないんだと思う。海外はあくまで特殊なもので、片手間にやるもので、節分の豆まきのように一過性のものでしかないから、何十年やり続けても学ばない。英語も同じで、これだけ叫ばれ続けながら、一向に向上したようには見えない。本当の本気でやってないからでしょう。通じないと今この場で死ぬくらいの勢いでやらないと、語学なんて、あんなクソ面倒臭いものは身につかないです。発音だって自己満足で100年やっても意味ないです。「T」が破裂音であり、「ちぇっ!」って音がしなかったら「T」に聞こえない、「トレーニング」ではなく「チュレニーング」なんだということを、全然通じない!涙が出るくらい通じない!というキツイ体験環境から学ばないと伸びない。だから、カタチだけ海外にいっても、その緊迫感とプレッシャーから逃げてたら、まあ上手くなる道理はないです。

 かくいう僕も全くそうで、こっちで散々思い知らされましたし、心のなかの海外壁は非常に高かったです。でも、今となっては、心理的障壁は少ない。僕は過去に、東京圏、関西圏、そしてシドニーとほぼ3分の1づつ過ごしましたが(今はシドニーが最長になった)、この3エリアに関する心理的壁は限りなくゼロで、それは例えば、自宅の中で、奥の寝室にいくか、キッチンに行くか、リビングに行くかくらいの差でしかない。つまり、壁なんかねーよです。心のなかで勝手に作ってるだけで、慣れてしまえば客観的には何もない。

 壁がなくなる、、、というよりも「壁がないことに気付く」んだけど、そうなったときに欲するのは、自由な互換性と開放性です。どこであれ好きなようにやりたいのだ。日本国内に話を置き換えればわかりやすいと思うけど、東京で買ったTVは大阪では全然映らないというのでは困るのですよ。

 この点に関して思ったのが、

 ★なぜメディアは人々の視野を狭くする報道をするのか。「ここも地球のどっか」であるという当たり前の視点をなぜ欠落させるのか。対中韓感情にせよ、モンペアみたいな不快な隣人にせよ、消費税やTPPにせよ、視野を大きくすれば問題ですらないことなのに、わざわざ狭くして問題視するという。人間の矮小化につながり、問題解決能力の低下につながる。昔だったら「井戸端会議の悪口大会」みたいなことをわざわざ大メディアを使ってやっている部分もある。

 ★どうでもいいけど、なんで日本のTV番組にはあんなにうじゃうじゃゲストが出演しているのか?絵柄としてうざったいし、必要なのか。芸能人の雇用促進策なのか。またその空気の読み方やら、読みつつも敢えて微妙に外して笑いを取る技術やら、なんか取引先との接待の席での会話を見ているような感じで疲れる。デジャビュ的に、子供の頃、行きたくもない法事に連れて行かれ、親族間の儀礼と虚飾に満ちたクソ詰まらない場に延々座らされていた記憶が蘇る。それに「みんな」はこの問題をこう感じますよという、こりゃ一種の洗脳だなとは思った。

 という点です。これらはA(見えにくい新潮流)をすっとばして、B(板挟みの不透明感)にも関連します。

 が、紙幅も尽きたので、以下次回です。



文責:田村



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