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今週の一枚(2013/08/26)


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Essay 633:「およそ想像もできない現実」の楽しさ

 〜2013年帰省記(3)

 写真は、大阪梅田の阪急かっぱ横丁の近くのガード下。
 前回「日本の都市部の、絶対面積でいえば約70%(目分量)は、昭和30-40年代からあんまり変わってない」と書きましたが、たとえばこんな感じ。「氷屋さん」(写真中央)とかまだまだ健在だもんね。

 これは日本に限らないでしょう。シドニーでもそうですけど、おしゃれなショッピングセンターとかあんまり面白くないのですね。「金さえあれば出来るもの」って、それだけのことだし、世界中に幾らでもあるしパターン同じだし。それよりも「幾らお金があっても絶対に作れないもの」の方が面白い。別に作ろうと思って作ったわけではなく、その土地の人々が必死に生活して、何十年も何百年もかけて「こうなりました」という自然石みたいなものが面白い。その国、その社会を味わうのに一番美味しいのは、そのハラワタみたいな部分だと思います。そこが一番その社会の味がよくわかる。Yummyである保証はないけど、少なくともTastyではある。


駆け足ケアンズちょびっと報告

 ということでオーストラリアに戻ってきました。

 夜に関空を出て、トランジットのケアンズ空港には夜明け前の午前4時20分に着き、そこで延々6時間待ち。

「ならば」ということで、空港のコインロッカー(3時間5ドル。存在と場所は事前にWilson Parking社にメールで確認しました)に荷物を置いて、タクシーでびゅ〜っとケアンズ市街地に行ってきました(片道5.6キロ、タクシーでも2000円弱)。
コインロッカー
ドメスティックの駐車場付近にある
大体、帰省時の荷物はこんなもん。往路8Kg、
でも復路14Kgで、食材や本の”日本買い出し”分が増える


 19年ぶりのケアンズですが、ちょっと”着ぶくれて膨張”してる感もありつつも、観光用エスペラネードのインフラ整備が良く出てきていました。

 でも5スターホテルはそんなに増えた感じはしないけど、バッパー系店舗は増えてて、昔よりもバッパーさん御用達の町になってたかも。不況欧州脱出組が多いのかな。

一棟まるまるバッパー系
観光頑張ってます的な

駅。見た目が全て。これだけしかない。
ほとんどキュランダ観光電車に乗るためだけって感じ
昔ながらのいなた〜い
 が、本質的にはあんまり変わってなかったです。
 観光エリアから離れて、駅の方に行けばいくほど、オーストラリアの片田舎の、あのスッカスカで、いなた〜い、うらびれた雰囲気が十二分に残っててうれしかったですね。

 そういえば、昔はケアンズ駅にあんな駐車場なんか無かったような気がするぞ。今はもう駅というよりは、巨大な立体駐車場の料金精算事務所みたいな感じに駅がへっついているって感じ。いわゆる「駅」らしきものを期待して行ったら、途方に暮れるでしょうねえ。


 翌朝からは、今度は自分が空港までお迎えに行ってバリバリ平常モードに入ってます。

 さて、こうなってしまうと、もう完璧に日常に戻ってしまって、「日本?そういえば行ってきたっけ」みたいな過去の話になってしまいそうな今日このごろ。これは別に僕が冷淡だからでもなく、また長くこっちに住んでるからでもなく、人間誰しもそうでしょう。皆さんもこちらに来て一週間も経つと、「一週間前に日本にいたのが信じられない」「ずいぶん昔の話のような気がする」になります。恐るべきは人間の適応能力で、新しい環境で新しいことをやればやるほど過去は文字通り「過ぎ去」っていく。もし新しい環境に置かれながらも「日本(昔)恋しや〜」と不遇を囲っていたとしたら、新しい環境に適応できてない、新しい環境の楽しみ方がわからず攻めあぐねているのでしょう。

 適応能力は良いのですけど、そうなると日本で感じたことアレコレが刻々とイレレバント(irrelevant〜関係ないこと)になってきて、なかなか「おっしゃ、書こう!」というモチベーションも湧かなかったりもします。てか、今となっては「それはそれ、これはこれ」みたいになってきて、日本滞在雑感が自分の中ではそれほどホットなテーマではなくなってきています。

 その意味では、前回、ネタ出しだけ列挙しておいて良かったです。書いておかなかったら忘れてたかも。
 その中から、深まりそうなネタを幾つか選んで書きます。個人的にホットなテーマではないんだけど、反芻していくとディープになっていくので、そこが面白そうです。

 ★「日本にはないもの」「およそ想像もできないもの」が外には唸るほどある。多分、この世界の実相の1%も理解しないまま終わってしまうかのように怖さがある。実相というのは世界のあり方のほか、自分自身の本当の形であるとか、押し殺してきた生理的願望であるとか、物事がうまくいくやり方も含む。
 ★オーストラリアにいたら100%わかるとかというと、せいぜいが3%くらいしかわからない。でも、「あとの97%があるんだろうな」というのは感じられる。
 ★日本の社会の特質は「自己完結性」と「商業性」にあるのだと思った。どちらも必ずしも悪いことではない。特に閉鎖的な社会で幸福な人生を送るのは、それはそれで全然アリだと思う。が、自己完結性と商業性がこれほどまでに両立している例は珍しいという気もする。南海の楽園の孤島とか自己完結的なエリアはあるが、そこでは原始共産的な相互扶助の色が濃くなる。お金いらないって感じ。逆に商業性が強まれば普通シルクロード的な開放性やロマン性が出てくるもの。だから自己完結×商業性というのは珍しい、というか本来ありえない組み合わせなのだけど、結局その噛み合わせの悪さが本質的な問題なんかもね、と思った。

 まず、この点について書きます。もうこれだけで3本くらい書けそうです。


およそ想像もできないこと

 昔の自分、つまり日本に生まれ住んで海外に住んだことがない人(今の僕らから見たら「在日日本人」ですね)、この人達に対して、「海外はこうだよ」「オーストラリアはああだよ」と言っても、「わからんだろうなあ」って感じました。

 これは別に見下して言っているわけではなく、Aという環境におったらBという環境を理解することは本質的には無理なんだろうな、という一般論を言っているのです。よく冗談めかして、海外に住むことを「宇宙に行く」「来世みたいなもん」とか言ったりしますが、いや冗談じゃなくて、本当にそうなんだなってことが今回ちょっとわかったような気がします。特に最近の日本では。

 だから、オーストラリアはどんなところですか、海外(世界)はどうなっていますか?と聞かれれたら、「今のあなたがおよそ想像もできないようなところ」と答えるのが一番正しいのかもしれない。そして、想像もできないからこそやる価値があるのだと。だいたい説明して理解できるくらいだったら、やらなくてもいいですからね。

 いや勿論説明もできるし、実際このHPでは、読むだけでも1年くらいかかりそうな膨大なテキストと画像をUPしているわけですけど、それでも「本当のところは全然っ!」だと思ってます。それはもう「現実と空想の違い」みたいなもので、どこまで空想を緻密に積み上げようとも現実には遠く及ばない。すき焼きを食べたことのない人に、すき焼きの説明〜それこそすき焼きの歴史にはじまって、料理法やら、関東では割り下を使いますよとか、溶き卵はお好みですよ、最後のオジヤが実は一番美味しいですよとか幾ら説明しても、一度も食べたことなかったら本当のところは分からんでしょう。生まれつき目の不自由な人に、色の概念(赤と緑の違いとか)を説明するようなもので本質的に理解不能。

日本フォーマットと分かった気

 ただし、「分かった気」にはなれます。
 現地に来ても幾らでもわかった気にはなれます。

 でも、それはこれまでのA型(日本の)のフォーマット、日本の世界観や経験則にあてはめて強引に翻訳しているだけで、その翻訳が正しい保証もないし、多くの場合は変換する過程で大事なものがこぼれ落ちてしまいます。

 例えば、過去に何度か書いてますが(Essay88:性善説と性悪説とか)、オーストラリア最大の大都会のシドニー、その都心からほどない普通の電車の駅に「改札がない」という状況が、いまだにあります。リニューアルするごとに徐々に自動改札機を設置する動きはあるけど、まだまだ多い。日本でもローカル線の無人駅だったらあるけど、ここでは東京駅から秋葉原くらいしか離れていないのにもう改札がない。これをどう解釈するか?

 ここで、オーストラリアは「おおらか」「いい加減」といって「わかった気」になってしまうのが、日本的なフォーマットだと思います。

 よーく考えたら、そんなに「おおらか」でも「いい加減」でもないです。幾らオーストラリアといえども、商品を購入して代金を払ってもいいし/払わなくても良いってほど「おおらか」ではない。それどころか僕も19年間暮らしてお釣りを間違われたことは実は一度もないです。また、そんな「いい加減」だとしたら、どうしてオーストラリアのカンタス航空(+ジェットスター)だけが世界で唯一の人身事故ゼロ記録を持っているのか説明がつかない。

 確かにオーストラリア人には「おおらか」と呼ばれるべき特質はありますが、ここではそういう属性だけで説明することはできない。それで分かった気になってたら、それは表面的に撫でているだけで、本当にこの現実に触れたことになっていない。

 問題は「なぜそれ(改札がなくて)で良いのか?」です。そんなキセル天国みたいな状況にしていたら、誰も彼もキセルをやって交通システムが崩壊してしまうではないか?と思うのが今までの日本的な世界観フォーマットだとしたら、目の前の「改札のない駅」というのは、ささやかではあるけど「想像したこともない現実」です。

 目の前に現実がある以上、それが自分の想像を超えていようがいまいが、それを受け入れていくしかないです。「改札のない駅なんか俺は認めないぞ〜!」と否定しようが、故丹波哲郎氏の名言のごとく「あるんだから、仕方がない」です。「どーしよーもなく存在する」ってのはそういうことです。

 そこであれこれ必死に考えるでしょう。
 改札が無くても成り立っているのかいないのか?成り立っているなら、それは何故なのか?皆それほどキセルをしないのか?ではなぜキセルをしないのか?キセルはやってるけど多少ことは気にしないのか?ではなぜ気にしないのか?

 ここから先は個々人の解釈になるし、何が正解ってことはないでしょう。
 いずれにせよ、「世の中はこういうもの」という今までの自分の世界観では理解できない現実が目の前にあった場合、自分の世界観そのものを修正せざるを得ないということです。

 世界観が変わるということは自分の視野や考え方が変わるということであり→自分の生き方が変わるということであり→ひいては自分自身が変わるということに連なっていきます。この化学変化のプロセスこそが、海外の醍醐味でしょう。

 そして一番肝心なことは、それがどう変わるかはやってみないと分からないことです。なんせどんな現実に出くわすかは想像も出来ないんだから、文字通り想像も予想も出来ない。


キセルとはなにか

 さて、このキセル問題の解釈ですが、ありきたりの合理的な解釈としては、たまには検札官がチェックしたりして発覚したら罰金を喰らうからキセルをしないのだという説明もありうるけど、そのチェック自体がマレですから(特に電車はマレ)、その気になったらいくらでもキセルのやりようがある。あるいは、多くの目的地はシティでありシティに自動改札を設けておけばそれで十分という理屈もあろうが、これとて全員がシティに行くわけではない。割引率の高い定期を使う人が多いからだという理由もあろうが、それでも全てを説明するのも無理がある。

 だとしたら、キセルをしている可能性は絶対に一定比率以上あるとは思われるけど、でも「放置」っていっていいくらい対処されていない。また市民がそれを問題視する様子も全くない。

 だとしたらもっと根本的な理由があるんじゃないか?
 僕なりの解釈は(Essay88:性善説と性悪説)、こいつら(オーストラリア人)は、「キセルが出来てラッキー」「お金が浮いてハッピー」とはあまり思っていないのだろうな、という点です。つまり日々生きていくなかでの「幸福の基準」が違うのだろうと。実際見てたら、どうもそんなに誰も彼もがキセルをやってる風でもない。なんか皆さん堂々としててあんまりコセコセやってる後ろ暗い感じが微塵もしない。

 つまり、なんでキセルをしないの?というと「したくないから」なんだろう。
 どうして?損じゃん?って思うのだけど、そんなことして目先の数ドル誤魔化してそれでハッピーなのか?と。自分は人に言えないようなことをした、そういう人間なのだという自意識とプライドを引き換えにたかが数百円儲けて、それで本当に嬉しいか?そんなレベルの幸福を求めて生きているのか?キッチリ堂々とお日様の当たるところを歩いて、誰にも恥ずかしい思いをしないで生きていくほうが楽しくないか?と。セコイことをするということは「自分はこの程度の人間です」と自分で規定しているようなもので、その自己暗示の恐しさと惨めさに比べてみたら、多少のゼニカネなどものの数ではないってことかもしれません。

 余談ですが、過去のエッセイ時点で、ここまで考えて「あれ、それって日本でも同じじゃん」と思いました。日本だってキセル可能だったら誰でもやるか?というと、実は大多数の人はやらないのではないですか?いい年した立派な社会人が、中坊みたいに「ラッキー!」とかいってやるか?そんなアホみたいなレベルに自分を落としたいと思うか?と。少なくとも誰も彼もがラッキーではないだろう。だとしたら、これまでの世界観、日本における日本の社会観すら、日本を正しく理解していなかったのではないか?という点に行き着きました。世界観の再検証やヴァージョンアップってそういうことでもあると思います。

幸福とは?正義とは?

 そこからさらに派生して、僕の世界観に問いかけてきたのは、「幸福ってなに?」「いいこと=正義ってなに?」ということですです。

 例えば所持金の量=ハッピーの量なのか?そうじゃない、少なくともそれだけではないと思うなら、じゃあお金以外のあなたのハッピーってなんなの?そして、それは例えば「自分が気持ちよく自分であること」だとしましょう。そこに「ズルいことをした俺」「恥ずかしいことをした私」という汚濁要素が混じってきたら、それだけ自分の気持ち良さが汚れる。だとすれば、数百円と引き換えに、自分で自分の幸福を損なっているってことになりはしないか?と。

 また、代金を払うのを「いいこと」で、ズルをするのを「悪いこと」だというけど、「いいこと=正義」とは何か?です。正義ってなんなの?溺れている幼児を助けるのは「いいこと」で、お年寄りをブン殴ってお金を奪うことは「悪いこと」だとするなら、その違いはなんなのか?ここでも簡単に「他者がより幸福になる」ことが良いことで、「他人を傷つけその幸福を阻害する」のを悪いことだとします。

 ここまで考えて、よく言われる「日本人の正義=嫉妬」という話に結びついてきます。列を横入りすること、嘘をついて不正受給をうけること等は日本的には許せない「悪」ですが、その本質は「ズルい」でしょう。俺らだって我慢して列を作って待っているのに、必死に働いて頑張っているのに、なんでお前が楽してゲットしてるんだよ、ズルいじゃないかって不公正な現象に対する怒りであり、それは嫉妬感情にかなりニアリーです。なんで○○さんだけスター扱いなのよ、ルックスもスタイルも私だって負けてないのに、おかしいじゃないか、ずるいじゃないか。ゆえに、日本では「悪い」=「ズルい」になる(場合が多い)。だからキセルでも、こっちは真面目にお金払って切符買っているのに、払わずに得しようというのが気に食わない、ズルいぞという。つまりは「利得の不当性」が問題になる。

 しかし、今言ったように「正義とは他者の幸福を増進することであり、不正義とは他者の幸福を阻害することである」という観点からしたら、キセルもまた違った捉え方になります。そこではズルく得をするという「不当利得」性はさして問題になりません。

 ズルをしたい奴はすればいいじゃんってくらいの鷹揚さがある。しかし、それは寛大なのではなく逆にもっと残酷です。つまりは「その程度のことで一喜一憂するというミジメな人生を送っている人」であり、そういうミジメな人生を送るということ以上の屈辱と罰はこの世にない。だから彼は既に罰せられているし、可哀想な人なのだと。でも、こっちの方が魂が凍りつくくらい残酷だよなって思いますね。この点は、福祉の不正受給について、日本ほどヒステリックに騒がれないことと呼応します。ドール・ブラジャーとか言われないわけでもないのだけど、そのあたりの話題を熱くやってるのはアラン・ジョーンズ系(ラジオのキャスターで超保守のポピュリズム親父=先日ついにボロクソ叩かれたEssay 588参照)の人々くらいじゃないかな。

公的インフラの受益者負担と配分的正義

 さらに掘り下げて考えていくと、「皆の問題」という公益性や公共性、ひいてはそれに個々人がコミットするコミュニティ性に行き着きます。

 キセルの問題〜公共交通機関の料金の問題というのは、すぐれて「皆の問題」であり、そこでの良し悪しはその「解決の合理性」に求められるべきでしょう。また、キセルをしてまで暮らしていかねばならない(経済的、あるいは精神的に)貧困な人々がいること自体もまた「皆の問題」として解決しなけりゃいけないという意識があるように思われます。ここ、ちょっと分かりにくいので詳説します。

 「受益者負担」という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。電車という公共のインフラ(皆のもの)を使う場合、その敷設・維持費は「皆」が負担すべきところ、じゃあ皆のうち具体的に誰がどのくらい負担すればいいのか論です。ある程度は皆が共同出資(税金)でやるとしても、一部は直接の利用者が払うようにすればいいだろう、それが公平だろうというのが受益者負担の発想です。電車の切符=公的インフラの受益者負担金です。

 ただし何でもかんでも受益者負担にすれば良いというものでもない。生まれながらの難病を患っている人は、生計を稼ぐ術も限られ且つ医療費も高額になりますから、それすらも全額受益者負担にするなら端的に「死ね」というに等しい。それは無茶だろう。また完全に受益者負担をいうなら、そのへんの一般道でも歩道橋でも公園でも全てに利用料金をかけないと嘘でしょう。これまでは技術的に無理だったけど、今だったらGPSシステムの携帯を義務付け、利用した公道の積算距離に対応した料金が月末に請求されるというシステムだって出来なくはない。でもやらないのは何故か?といえば、その配分にあんまり合理性がないからでしょう。大体誰だって似たような感じに公道を使うのだとしたら、一律無料(全部税金)にした方が良い。そこで膨大な資金をかけて料金徴収システムを構築する方がコストが高いし、コストをかけた見返りもない。無駄だし、馬鹿馬鹿しい。その配分の合理性です。

 つまりここの局面での「正義」とは、いわゆる「配分的正義」であり、物事の実質をみて、何をどれだけどこに配分していくか、その合理性はあるか論です。累進課税のように担税力のある人からはガッポリとるけど、低所得者からは少ししか取らない。実質的公正を細かくみていく正義です。

均分的正義と配分的正義

 配分的正義に対置するものとして「均分的正義」というのがあります。「同一に(均等に)扱え」ということです。配分的正義は「違うものは違うように扱う」ことで、均分的正義は「同じものは同じに扱う」で、究極的には同じことなんだけど、でも力点の置き方の差があります。

 日本の場合は、配分よりも均分的正義にやや重きを置いている気がします。同じように平等に扱われることを「正しい」と感じる度合いが強い。反面、違う扱いに対する合理性の判断がやや甘いというか、「違う」というだけで薄っすらとネガっぽくなる(エコひいき的、特別扱い的な)。これが嫉妬や世間体とニアリーになったり、悪平等の温床になったりするのでしょう。

 その根底には、自分と他人とは本質的にそれほど違いはない、同じものだという意識が濃厚にあるのでしょう。そりゃ口では「人それぞれだし」とか言うけど、腹の底からそう思っているわけではない。またそういうシステムにもなっていない。でも全く同じ人間なんかこの世に一人もいません。皆それぞれどっかしら違う。その違いを尊び、祝福し、その違いを可能な限り正確にトレースして合理的に差異的な扱いをすべきであり、その心の砕き方こそが「正義」なのだという意識は乏しい。

 だから日本の場合は、年金受給額でも掛け金×年数に応じて一律処理だけど、オーストラリアではアセットテストという資産査定にもとづいて、びっくりするくらい受給額にバリエーションがある。養老院の費用も所得に応じて天地の差があり、富裕層には一種の不動産投資商品として売り、無資産層には無料同然に入居させる。「人は皆違う」から。ま、ここでは「皆本質的には同じ」という同質性を前提にした世界観が日本人のフォーマットの根底にあることだけを指摘するに留めます。

 このように同質性を前提にした日本では、不当利得への糾弾こそ「正義」に思える。その日常的な表れとして、例えば横から入ってくる車に対して「入れてやるもんか」みたいな冷淡なことをする。特に先で合流するから誰も走らず空いてる道をシューッと走ってきて、いよいよ合流になってから「入れて〜」って入ろうとする車に対しては冷たい。お前、ズルいぞ、そんな不当利得は受けさせてやるもんか、それが正義じゃ、天誅じゃ、ざまあ見やがれみたいな意識がある。でも、オーストラリアでは、結構入れてあげてます。もう十中八九って確率で入れてくれる。朝の通勤ラッシュ渋滞で、ミエミエにズルい車も入れてあげる。なんでか?

 これも最初は「オージーは優しいから」だと日本フォーマットで思ってたんだけど、それだけじゃないですね。人は皆違うんだから、そーゆー奴がいることがそれほどカンに触らないのだろう。また、なんか急ぎの用件があるのかもしれない、もしかしたら人が死にかけているのかもしれないし、トイレに行きたくてエマージェンシーなのかもしれない、そんなの分からない。わからないのに自分と同じだという仮定をするのは間違っている。また、仮に純粋にズルかったとしても、ズルい奴がいるというだけで、それほど致命的にトラブルを生じさせるわけではないなら、別に問題視するほどでもない、そりゃ自分も早く行きたいけど、一台や二台先行させたとて、さほどの損があるわけでもない。どーでもいいっちゃどーでもいいことで、そこに「正義」的な解釈が入る余地は少ないのでしょう。

 さて、そういう社会においては、キセルをするズルい奴がいたとしても、「そーゆー奴もいる」くらいの感じでスルーするのでしょう。このへんの感覚が本当の「個人主義」というものなのでしょう。自分と他人は全然違う、もう徹底的に違う、自分はこの世界で一人ぼっちである、もう徹底的に一人ぼっちなのだという原点を、腹の底の底から、骨髄やDNAに染みこむくらい理解しているかどうかの差かもしれません。

配分的正義による公共料金

 配分的正義論からすれば、切符を買う資力がありつつも買わないで不正乗車をするのは、わずかではあるけど、その分、配分的正義を乱し、皆に不当な負担をかけている。だからそれが不正義であるってことなんでしょうかね。

 だけど、問題の本質はもっと奥にあるように思います。
 「違うものを違うように扱うことこそ正義」という配分的正義論からすれば、「切符を買わなくても良い人、安くしてあげるべき人」のバリエーションも多数出てくる筈です。

 実際にも沢山列挙されています。例えば、CityRailのConcessions(割引)のページをみると、敬老乗車証や学割定期のほか、沢山の割引システムが用意されています。たとえば、Half Fare Entitlement Cardという半額割引では、"Unemployment Benefits where the beneficiary must be registered as looking for work:Youth Allowance (jobseeking), Newstart Allowance, Parenting (Partnered), Partner Allowance, Widow Allowance, Exceptional Circumstances Relief Payment, Sickness Allowance, Special Benefit, Newstart Allowance Incapacitated, Community Support Program, Job Placement, Employment and Training scheme"が上げられており、Centerlink(オーストラリアの職安)に失業・求職者として登録し、そのプログラムを受けてカードを貰えば、電車の料金が半額になりますよということです。

 これは電車だけではなく、社会のさまざまな公共料金にもネットワークのように張り巡らされています。例えばNSW州の場合には、一般にLow Income Household Rebate(低所得世帯に対する援助)が定められ、例えば電気料金だったら、AGLのConcessions, Rebates and Grants記載のように公的援助が受けられるようになっています。

 結局、持てる者も、持たざる者も、誰もがハッピーになるためにはどういう社会システムにしていけば良いか、どう資源を配分していけば良いのか、そのために個々人はどうコミットし、どう協力すればいいのかという大きなフォーマットがドンとあるのだと思います。

 電車の料金もしかりで、キセルする/しないというのは、単に自分が得をしたとかズルいとかいうレベルではない。皆がハッピーになろうというコミュニティの一員として参加するのか/しないのかという問題でもあるのでしょう。ちゃんと参加したいから料金を払う、キセルをしないってのが根底にあるんじゃないかって思います。

 それは、規則・ルールだから守るんだけど、それは「ルール」が最終根拠ではなく、「皆がハッピーになるために最も合理的なルールだから」と言うべきでしょう。その社会に参加するためにルールを守るのだと。だからルールが間違っていると感じたら、単にこっそりそれをシカトするのではなく、声を上げて主張するし、たった一人でもビラ配りもすれば、役所の前でプラカードを掲げたりもする。

 ここから更に派生して思いつくのは、この国ではやたらボランティアの参加率が多いことです。山火事や災害などはほとんどの実働人員がボランティアであること、ほとんどの誰もが経験者であり、余りにも普通すぎるのでボランティアを別に「よいこと」だとも思っていないこと。さらには富裕層の本質的な社会的義務は「社会還元」であり、それは貧しいけど才能ある人へのパトロナーゼや投資であったり、チャリティであったりすること。また投票率がほぼ100%であること、多くのサバーブで時折ストリート単位で自然発生的にストリートパーティが催されたり、この種の自然発生的なコミュニティ活動が多いこと、、、などなど、少しづつジグソーパズルが出来ていくように、大きな絵につながっていきます。

根本的に違うこと〜社会はチーム、自分は選手

 総じて言えば、社会の構成原理や、個々人の社会に対する立ち位置が、なんかもう日本のそれとは、根本的に違うんじゃないかって話になっていきます。もっといえば、自分の住んでいるこの社会にどれだけの愛着と誇りをもっているか、単に口先でそういうのではなく実際に動いて汗を流し、支出をしているか、またこの社会は自分がコミットすることで良くなるのだと心底思っているかどうか、、、という、まさに世界の捉え方そのものの差異にも連なっていくでしょう。

 「つまり、こいつらは」と思ったもんです。こいつらは、たまたまこの国に生まれて、たまたま国民やってますという受動的であてがい扶持の立場ではなく、国や社会、コミュニティを一種の「チーム」のように思っており、また自分もその中の「選手」であり、常に今自分はピッチの上に立っているという意識があるんじゃないか?と。常にゲームの流れを把握し、自分のポジションを把握し、今この局面で自分が何をすれば良いのかを常に考え、判断し、さっさと行動するって感じです。もちろん人によりけりなんだけど、総じて。

 それは、ストリートパーティを重ねるに連れ、実感します。参加者の組織レベルがめちゃくちゃ優秀なんですよ。誰かがあれこれ細かく仕切るのではなく、のんびりリラックスして駄弁っているようでいながら、誰もがその場で必要なことをやっている。子どもたちが遊んでいる近くにたまたま居合わせた人は、他人の子供であろうが危険はないか、どう誘導すればいいかを考えてさりげに実行してるし、一人でポツンといる人がいたら近くの人が話しかけてもくれる。僕も最初は、英語で四苦八苦であんまり見えてなかったけど、だんだん慣れてくるにつれて、「なんだ、こいつら、すげえ」って思いました。いや、一人ひとりがこのレベルだったら、ボランティアでもガキガキ動くでしょうよ。

 僕も日本であれこれ飲み会の幹事とかやりましたけど、日本ではこうはいかない。特に中高年男性で「選手」自覚が乏しい人が多い。冷蔵庫の前にいるなら、全体の状況をみて適宜ビールを取り出せばいいけど、気が付かない。言われないと動かないし、言われても「なんで俺が」みたいな人もいる。知らない人に中々話しかけないし、喋っても仕事の話ばっかとか。これは単に「社交的」とかいうレベルの問題ではないなって気がします。職場やサークルなど、ある程度パーマネントな組織における自分の立ち位置や居場所、つまりは選手自覚は十分あるんだけど、自然発生的、偶発的な集まりや、あるいは国家社会など広く漠然とした局面での選手意識は少ない。

目の前に、普通に、どうしようもなく存在する

現実のもつ凄み

 「想像を超えた現実」に出くわすということは、そういう社会のあり方もあるんだ、そういう人の生き方や参加の仕方もあるんだ、正義とは不正とはなにかとか世界観が書き換えられるか、その機会が与えられることでもあります。なんといっても、「何が正義か」という「是非善悪」という世界観の中枢部分すら再考を余儀なくされるのですから。

 とは言うものの、もちろん、パッと見ただけで、こんな風に言葉にして論理的に咀嚼は出来ないでしょう。またこれが正しい解釈だなんていうつもりは毛頭ないです。

 しかし、よくは理解できないにしても、目の前の現実、想像もしてなかった現実には、それなりの内容があり、密度があり、実質があります。皮膚感覚としては、「なんだ、こりゃあ?」という驚きとともに相当なインパクトがあります。理解出来るかどうかは置いておいて、まずは、そのインパクトをズシッと身体で感じることが大事だと思います。

 そして、24時間そういう現実に身を置き、日々暮らしていくと、意識はしないまでも、徐々に「なにか」が変わっていきます。現実というのは、そのくらい強烈な力があります。それだけの力があるからこそ、人間の適応能力もそれに応じて発動されるのでしょう。

 現実は、頭では理解できないことも身体で理解できるようにしてくれますし、左脳では解釈不能なことも右脳にスッと受け入れさせることが出来ます。言葉にはできないけど、「なにかが大きく違うぞ」というのは体感としてヒシヒシとわかる。この身体感覚こそが一番大事なんだろうなって思うのです。

 それなのに、ああそれなのに、単に「オージーはいい加減だから」の一言で「分かった気」になってたら、それは勿体ないし、「お前、何を見てきたんじゃ?」とは言いたくなりますね。せっかく宝の山を目の前にしながら、そんな日本的なフォーマットで無理やり矮小化したら海外くんだりまで出てきた甲斐がないだろう。

理解しなくてよいから、ただ純粋に感じる

 さて、これまで述べた内容だけだったら、いわゆるカルチャー・ショック話だし、よくある「日本の常識、世界の非常識」話でしかないです。しかし、そういう処理の仕方が既に日本フォーマットであり、その程度の小賢しい左脳処理でいいんだったら、別にわざわざ海外まで足を運ぶ必要もないです。

 大事なのは、想像もしてなかった現実に接して、何だかよくわからないけど、「おお」と身体で感じることだと思います。

 極論すれば、それが何なのか、何にどう感動したのかなんか分からなくていいです。明晰に言語化する必要なんかない。

 上に延々と配分的正義やら公的負担やら述べたのは、「それを敢えて言語化すれば、例えばこういうことなのかもね」という一例に過ぎません。見た目はソフトボール大にすぎないけど、実は1トンくらいの重さがあるのだ、それだけの内実をもつことなのだという解説です。

 でも、そんなことは後々ゆっくり考えればいいことです。とりあえずは、理解なんかしなくていいから、ただ純粋に感じろ、というのは言いたいです。

 その意味で、あまりにも日本人同士つるんでばっかだと問題でしょう。海外で出会う日本人同士というのは、これはこれで又面白いし、興味が尽きない研究素材ではあるのですが、こと今回の局面に関して言えば、弊害も多い。日本フォーマットで小さく曲解してしまい、それ以上感じなくなる、感性が麻痺する、という途方もないリスクがあるからです。このリスクは核兵器なみに破壊的です。なにしろ、海外に来た意味そのものをぶち壊してしまうのですから。

 だからといって、日本人を毛嫌いせよとか、出来れば避けろとは言いません。むしろ積極的に交わっても良いです。それはそれで貴重なリソースがあるのだから(後でも書きます)。ただ、妙に小賢しい(しかも間違ってる)日本フォーマットの理解で「分かった気になる病」に感染するのが恐いから気をつけようね、ということです。日本フォーマットで完全に理解できることなど、この国には何一つないです。上で延々述べたように、必ずやどっかツイストがあるし、そのクラックをたどっていったら大深度マグマにまで達する。これは日本だからではなく、環境Aのフォーマットでは環境Bは理解できないということです。

 そして、頭(左脳)で理解した気になればなるほど、感性や心、身体の感度は鈍る。それが恐い。もうペストのように恐い。理解なんか一生かけてゆっくりやっても間に合うが、感度が鈍ったらもう意味がなくなる。そこで終わり。美味しいグルメ料理を賞味するにも、栄養素やら伝統やらの小理屈やウンチクはあとで幾らでも考えられるし、別に知らなくても構わない。でも、舌がバカになって味がわからなかったら、そこでもう食べる意味が無くなってしまうでしょ?ってことです。

内容よりも「たたずまい」

 どこがどう違うかという内容もさることながら、より衝撃的なのは、その「あり方」「佇まい」です。
 例えば「改札がない」ことの比較文化的意味は上記のように幾らでも掘り下げられるし、それなりに重量のあることなんだけど、問題は、それだけの違いが、「あっけらか〜ん」と目の前に「普通に」「当たり前に」「ありふれて」存在することです。この「あり方」の方がむしろ衝撃的なのです。

 現実がもつ情報の本質というのは、その空気感や、雰囲気にこそあると思います。
 これだけのことがあるのに、「いま凄いことやってます!」「頑張ってます!」って緊迫感は全くない。あまりにも普通に、拍子抜けするくらいに当たり前にある。だーれも気にしない。

 キセルばっかだと退屈だから他のネタにしますが、例えばこちらは野生動物が多いです。シドニーでもノースなんかは特にそう。しかし、離れているといっても、せいぜいが東京駅と秋葉原くらいの差でしかない。にも関わらず、夜中には屋根をポッサムが駆けまわり、30センチくらいの真っ白な野性のオウム(コカトゥー)が群れをなす。今週こられた人も、「オウムって普通にいるものなんですね」と言ってました。この「普通にいる」というところがガビーンなんですね。またシェア探しで訪ねた家には裏庭に七面鳥がのっしのっしと歩いていたそうです。七面鳥は、ウチの近所にも野性でいます。時々一家で列を作って歩道をトコトコ歩いてたりする。けっこうデカいですよ。尾っぽが長いから、体長1メートル?くらいあるんじゃないかな。

 クッカブラ(笑いカワセミ)もうるさいし、そろそろメイトシーズンなマグパイ(カササギ)は巣作りの素材探しに地面をつついています。たまにフクロウが鳴いてるのが聞こえるし。野性のペリカンも普通にいるし。シドニーでも周辺になると、これまた孔雀が普通に歩いてたりする。最初見た時はぶっ飛びましたけど。嘘だと思ったら、例えば今年の7月の地元に記事にPeacock loves to warm itself inside Baulkham Hills homeがあり、近所の野性の孔雀が寒いのでストーブにあたりに家に入り込んできているというほのぼの記事があります。

 なんというか、人間界と動物界がボーダーレスになっていて、ごく当たり前にこの地球を「シェアしている」って感じ。この普通感。内容よりも、あっけらか〜んとそうなっている状態こそが衝撃的だという。でも、衝撃的とかいうけど、そっちの方(人間動物シェア)が認識としては正しいんですよね。なのにボーダーがあると思い込んでた、これまでの世界観こそがどっかしらイビツだったのでしょう。

 あるいはマルチカルチャリズムもそうです。僕はこの点に興味を惹かれてオーストラリアを選んだのですが、しかし、そんな小賢しい思惑は、着いた途端にどっか〜ん!と一撃で粉砕されました。もう数え切れないくらい、数える気力すらなくなるくらい多種多様の人種・民族の人々が、あまりにも「普通に」歩いているのですよ。でもって、だーれも気にしない。「イイコトやってます」感、「頑張ってます」感はゼロ。その余りの「当たり前さ」加減に、「マルチカルチャリズムだあ!」と力んでいた自分が恥ずかしくなるくらいで、その佇まいこそが一番衝撃的でした。

 つまり内容とか、理解とかじゃなくて、その場の現実の空気感そのものが一番デカいということです。
 これだけはもう自分で体験しない限りわからないです。

 そして、最終的な目的地は、その感覚が気持ちいいのか/悪いのかという生理的な感覚でしょう。
 だーれも気にしないで、当たり前のようにそうなってる現実世界に同時存在し、その現実世界のメンツになって生きていくことを、あなたはどう感じるの?気持ちいいの?不気味なの?ってことです。

 もしそれに何らかの気持よさを感じたり、なにか見過ごせない感覚を抱いたら、あなたは「何だかよく分からないけど、大きな(もしかしたら人生が変わるかもしれないくらいの)お宝をゲットした」と思っていいと思います。

 それが何なのかは、上で書いたようにゆっくりじっくり反芻して考えればいいことですが、その最初の「感じる」ことを素通りしてしまったら、もうそれで終わりです。それが一番恐い。


 ゆえに冒頭に戻って、海外は?オーストラリアは?と聞かれたら、「今のあなたがおよそ想像もできないようなところ」とお答えするのが、もっとも適切なのではないか、と思った次第です。むしろ想像も出来ないからこそ行く意味がある。そして、現場で何か想像もしてなかった現実にぶち当たったら、それがどんなに些細なことであっても、そこには巨大なヒントが隠れている場合が多いです。感じて、考えて、掘り下げて、掘り下げていくと、自分の世界観のセントラルドグマすらも書き換えてしまう可能性がある。それが醍醐味、それが楽しさ。

特に最近の日本では「およそ想像もできない」だろうなと思った件

 やれやれ、ここからやっと日本帰省記になるのですが、「ちょうど時間となりました」って感じです。

 でも、これだと引っぱるだけ引っぱって最後にはぐらかしているみたいでナンだから、ちょびっと先行して書いておきます。

 世界観というのは、サンプルデーターが少なければ少ないほど、明確で、固定的になります。古代王朝の庶民みたいに、「奴隷の子は一生奴隷」「逆らったら即死刑」しか人生の現実がなかったら、彼の世界観はそういうものになります。その世界観はめちゃめちゃクリアで、岩のような安定性を誇るでしょう。「絶対そうに決まっている」と固く思うでしょう。あるいは現在の北朝鮮で、体制に従順な人々に囲まれて生まれ育てば、「この世はこうなっている」というビジョンはクリアになるでしょう。

 つまり、サンプル情報が乏しければ乏しいほど、逆に世界観は確固として揺るぎないものになる。「視野が狭い」って言ってしまえばそれまでなんだけど、視野が狭いって、これはこれで結構気持ちいいんですよね。迷わなくてもいいし、何もかもが明瞭に見えている(気がする)し。

 しかし、視野が狭くて世界観が明瞭なほど、「およそ想像もできないこと」が客観的には増えます。そりゃそうですよね、この世の現実のうち、ほんのちょっとしか知らないんだから、知らないことの方が多い、圧倒的に多い。そしてそれが多いということも気づかないし、それがどんなものなのか考えたこともないし、体験したこともないから「およそ想像もできない」ってことになる。だから何かの拍子に知らないものに出くわしたら、もう簡単に世界観が揺らぎます。「え?そうなの?」って。

 逆に言えば、これまで閉鎖的固定的な環境に生まれ育って、視野が1ミリくらいしかない人ほど、この先、想像もつかないモノに出くわして、ガビーンとなって、世界観がガラリと変わって、そして人生もドラスティックに変わる可能性が高い。もう、現世と来世くらい変わってしまうでしょう。んでも、それまでの1ミリ呪縛がキツかったら、知らない事象に出くわしてもガビーンとならずに、強引にこれまでの解釈で押し通してしまうかもしれない。バリバリ共産国だったソ連時代に、西側諸国を旅行しても、「え、自分の政府を批判していいの?」「それで成り立つの?」とガビーンとなり、自由とはなにかを考えだす人もいるでしょうが、そうならずに「これは腐敗堕落した享楽的な資本主義社会の成れの果てだ」と思う人だっていたでしょう。これが先ほど書いた日本フォーマットで、オーストラリアで何を見ても聞いても、オージーはいい加減だから、レイジーだからで片付けるという。

 そして、先日日本に2週間足らずいて感じたのは、ああ、この環境に生まれ育ったら「想像もできないこと」が多いだろうなあってことであり、その度合は僕が出国した19年前よりも、あるいは5年前よりも強くなっているんじゃないかと。今自分を取り巻く現実が、無数にある現実のうちのほんの一例に過ぎないんだとごく自然に思える度合いが減っているのではないか。もっと平たくいえば、昔の若者(僕のような、あるいはもっと上の世代)がごく自然に抱いていた、「俺は何にでもなれる!」という素朴な確信みたいなものが、徐々に減っているんじゃないかなって。

 世界(の先進諸国)はいま中間層が日に日に侵食され、否応なく流動性が高まっています。それだけにキツイ縛りがだんだん解けてきて、「何にでもなれる」可能性は高まっている。が、生活実感としては、むしろ選択肢や可能性が減っているように感じるのかもしれない。例えば、晩婚化や非婚化も、「結婚しない」という選択肢が増えたというよりも、「誰でも結婚できる」という選択肢が実質的に目減りして、反射的に「結婚できない」という可能性が増えただけかもねと。言うまでもなく「出来ない」とかいうのは、そもそも選択肢ではないです。「やってやれないことはない」と思えないことは、そもそも選択肢とは呼ばない。

 でもなあ、21世紀初頭の地球で、一応先進国に生まれ育った人、それも20−30歳代で、かつ宿命的なハンデ(生まれつき全盲だとか)がない人が、この先生きていく現実、そのバリエーション、その選択肢って、ど〜んなに少なく見積もっても1万通りくらいはあると思うぞ。大体いま70億人いるんだから、70億通りの現実があるわけで、それは動かしがたい事実でしょう。その全てを実行するのは到底不可能だけど、70分の1くらいは可能だと思えば、それだけで1億パターンあり、700分の1程度だとしても1000万パターンで、、、とやっていって、70万分の1程度の可能性、つまり700000パターンのうち、699999はダメだとしても、1パターンくらいは自分でも出来るんじゃないかという「控えめな見積もり」で出して、1万パターンです。

 たまたまその年にその地域で生まれたあなたは、とある中学校の○年○組に配属され、自分の席は例えば窓側の前から三番目であるという「現実」がありましたよね。その現実は確固として動かしがたい現実で、毎朝前から三番目に着席するという日常現実が繰り返される。それは絶対否定出来ない現実なんだけど、でもその程度の現実でしかない。未来永劫、窓側の前から三番目の席に座り続けるわけではない。てか次の席替えまでの暫定的なものでしかない。にも関わらず、なんか知らないんだけど、一生その席に座るんだと思い込んでいる度合が高くなっているかのように感じたのでした。

 なんでそう思い込んでしまうのか、そのメカニズムみたいなものを考えたってのが本ネタで、それは次回に。
 今回の絡みでいえば、この世界には「およそ想像も出来ないこと」が唸るほどあるよ、人生なんかいともたやすくガラリと変わるよ、だけど想像もできないことに接していながらそれに気づかない恐さもあるよ、昔のフォーマットで無理やり解釈してわかった気になるとそうなるよ、だから小賢しく理解しようなんてせんでいいから、まずは素朴に感じたらいいと思うよ。心の奥で、微かにだけど、ゴソッと動くものがあったら、あるいはゾクッとくるものがったら、その些かな感動を大事にされるといいんじゃないかな?ってことです。



文責:田村



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