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今週の一枚(2013/08/19)



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Essay 632:日本人論の空気の読み方

 〜2013年帰省記(2)

 写真は、三条大橋の二つ北の二条大橋。デジカメのホワイトバランスを変えるときれいなブルーがかった色調になり、涼しげ。



 渡豪(帰豪とでもいうのか)の日に更新日が重なるので、先に荒削りでもあげておきます。

 備忘録的にポイントだけ先にあげておきます。

 ★暑さに関しては最初の1週間で慣れた。暑いとも不快ともさして思わなくなった。お盆休みだからかもしれない。夕刻からの涼風はときとして強風なくらいで、夕涼みのそぞろ歩きの楽しさが戻った。
 ★とりあえずの印象は、やたら老人が増えた。これは分かっていたことで意外ではない。しかし、実際に目の当たりにすると「ほう」とは思う。あと老人が増えたことを認識できるTPOと出来ないそれがある。若い人が集まるところにだけ行ってるとそれに気づかないだろうなと思った。
 ★ただし老人が増えることそれ自体は問題ではないかもとも思った。「お年寄りは国の宝」というのだし。問題は、その宝をちゃんと活用しているのか?積年の叡智の人間図書館のような財宝を、そうとは認識せずに、単なる古雑誌のように思ってないか。変動の激しい昨今、2年前の知識はもう古くて使えなくなるのだとしたら、変化が激しいほどに求められるのは普遍的な知恵だと思う。
 ★老人が増えるということは、当の本人にしてみれば仲間が増えるということで、悪いことではない。たしかに年金だの医療費だの負担は重くなるが、しかし、金勘定ばっかやってんじゃねーよって気もする。自分が年喰ってきてわかったけど、年寄り扱いされてうれしい人間はこの世に一人もいないと思う。それは外人と呼ばれて嬉しい外人が一人もいない(多分)、十把一絡げの「女は〜」扱いされてうれしい女性が一人もいない(多分)のと同じことだと思う。
 ★相変わらずのインフラ鎖国で、海外から日本にやってきて一時的に携帯電話を使うのは「ほぼ不可能」という結論に達した。全ての元凶はSIMロックであり、この例外を許そうとしない市場の(てか性根の)偏狭さは、世界に冠たる島国根性市場といっても言い過ぎではない。
 ★同時に、ノートPCやスマホなどのいわゆる「モバイル環境」は、バッテリーがしょぼいという第二の関門に直面することもわかった。いくら軽量化してもACアダプタや携帯電源の重さと嵩もいれたら到底実用レベルではない。
 ★体型が前よりもいっそう華奢になった。スリムというよりは華奢、華奢というよりは発育不良、虚弱な感じ。人類一般のスタンダードでいえば、美しいというよりも「大丈夫か?メシ食ってるか?」と心配が先に立つ感じ。もしかしてこのまま日本が凋落していったら、そのうち「貧乏だからご飯も満足に食べられないのね」と誤解されちゃうかも。
 ★「変な人」「怖そうな人」が減った。
 ★5年前よりもスサんでないような気がする。態度も笑顔で礼儀ただしく、フレンドリー。でも、これは超極端少数意見で、日本に皆に聞くと「コミュニケーションが無くなった」みたいに言う。どういうことか?
 ★巨大資本で巨大建造物を作って集客してという古い方法論を「まだやっている」
 ★反面、零細の個人経営の、ワン・アンド・オンリーの個性的な店が増えた気がする。
 ★前よりはマシになったけど、今なお日本で起業するのは「こりゃ大変だわ」と思った。
 ★ほんでも駐車場がやたら増えたのはびっくりした。つまり巨大資本は活発に動くし、零細はそれなりにやっているのだが、数億レベルの資産の有効活用方向が無いということであり、これは中間層や、ミドルレンジのビジネスの零落を物語っているのだろうか。
 ★日本論・日本人論を書くときの「空気の読み方」話
 ★相変わらずなんでもあるけど何にもない感じ。本物みたいな肌触りがますます減った。言うならば「素」が少ない。本物過ぎて理解できないという物事が少ない。行くところにいけば沢山あるんだけど、探さないと無い。
 ★デフレで値頃感のいい安くて綺麗で魅力的な商品が山盛りある。でもそれは「魅力的に見せる」のが上手というか、マーケティングの努力の産物というか。もちろん本当に良いものを理解してもらうために一生懸命努力をしているって部分も大いにあるので一概に批判はしません。それはそれでいい。だが、理不尽なまでの、理解を超越して「どーしよーもなく存在する」という絶対的な存在感が希薄なことに変わりはない。これは人にも社会にも言える。結局、どーしよーもなくという昔ながらの濃密な存在感を保っているのは、天災などの自然だけ。
 ★300円台でそこそこの出来合いの食べ物が売られていて、それはそれで魅力的に見える。また自炊したら1食100円に収める自信はあるし、あれこれ和風献立工夫を考えてちょっと燃えた。でも果物だけなんであんなに高いの?エスニック系食材は相変わらず高い。ナンプラーでもシドニーの3倍近くするし、イタリア製の量産パスタも約2倍以上。それ以上に無いものが多い、てかほとんど無い。
 ★しかしその安さが反作用して「金で解決」という方向に向かいやすい。「金で解決するしかない」みたいな。「しかない」から、安いようでいて、あっという間にお金がなくなる。物欲を生じさせるのはマーケの本筋だけど、幸福=物欲達成=お金必須になって視野が1センチくらいに縮まってしまう怖さもある。
 ★「日本にはないもの」「およそ想像もできないもの」が外には唸るほどある。多分、この世界の実相の1%も理解しないまま終わってしまうかのように怖さがある。実相というのは世界のあり方のほか、自分自身の本当の形であるとか、押し殺してきた生理的願望であるとか、物事がうまくいくやり方も含む。
 ★オーストラリアにいたら100%わかるとかというと、せいぜいが3%くらいしかわからない。でも、「あとの97%があるんだろうな」というのは感じられる。
 ★日本がどっかの学校のクラス内の人間関係だとしたら、オーストラリア観光旅行は動物園に行くような感じで、実際に暮らすのは自分もまた動物になること。また日本に来ている外人さんは、なぜかオーラが乏しく、まるで動物園の動物ような気がする。現地に行ったら野生のまま。あ、そういえば英語を喋ってる外人さんが意外と少なかった。
 ★柔らかくにこやかなファシズムというか、一定のナイスな風貌、考え方、服装、身体的特徴、経済力などがあり、それから外れると生息を許されないかのようなプレッシャーが実は以前よりも増えたのではないか。デブは死刑みたいな。昔はもっとヘンな人というか規格外の人がうじゃうじゃいた。どこに行ったのか?容貌や体型スペックで不合格になったら、外にでることすら許されないのかしら。ひきこもるしかないというか、「ひきこもらされ」というか。ダイバーシティは確実に減っていると思う。
 ★なぜメディアは人々の視野を狭くする報道をするのか。「ここも地球のどっか」であるという当たり前の視点をなぜ欠落させるのか。対中韓感情にせよ、モンペアみたいな不快な隣人にせよ、消費税やTPPにせよ、視野を大きくすれば問題ですらないことなのに、わざわざ狭くして問題視するという。人間の矮小化につながり、問題解決能力の低下につながる。昔だったら「井戸端会議の悪口大会」みたいなことをわざわざ大メディアを使ってやっている部分もある。ところで井戸端会議って今でもやってんの?
 ★心身を蝕むかのようなピアプレッシャーが尚も強まっているかのような日本であり、誰が仕組んだのか自然発生なのかはわからないけど、日本人羊化計画みたいなのが進行中なのだろうなった思った。この種の圧力には生来的×後天的×年齢的×立場的に耐性ができた(てか関係ない)僕にとっては日本も日本人も、ひたすら愛すべき"lovable"なもの。不快な思いは、気候と鎖国インフラを除けば一度もなかった。しかし、「何かが大きく間違っている」という感じは、5年前よりも地下に沈降した。沈んだ分だけより見えにくく、エネルギー的にはより大きくなった気がする。
 「何かが大きく間違っている」のはある意味では朗報で、それを矯正すれば「なにかが大きく素晴らしくなる」ということでもあるのだから。
 ★日本の社会の特質は「自己完結性」と「商業性」にあるのだと思った。どちらも必ずしも悪いことではない。特に閉鎖的な社会で幸福な人生を送るのは、それはそれで全然アリだと思う。が、自己完結性と商業性がこれほどまでに両立している例は珍しいという気もする。南海の楽園の孤島とか自己完結的なエリアはあるが、そこでは原始共産的な相互扶助の色が濃くなる。お金いらないって感じ。逆に商業性が強まれば普通シルクロード的な開放性やロマン性が出てくるもの。だから自己完結×商業性というのは珍しい、というか本来ありえない組み合わせなのだけど、結局その噛み合わせの悪さが本質的な問題なんかもね、と思った。
 ★ネットのディスプロポーショナルなことの再認識。やっぱネットと現実は全然違うわってのを改めて実感。ネットで日本関係を検索すると、必ずと言っていいくらい目にするのは、アフィリエイトの萌え系画像×掲示板系の殺伐応酬で、頭ではわかっているものの、サブリミナルに蓄積されて「日本ってそうなの?」と無意識に思ってしまうが、実際にはなんのことはない、相変わらずの超極端少数派ではないか。かねがねネットをやる(やりすぎる)と「バランス感覚が狂う」と思っていたが、ノッチを一つあげて「頭が悪くなる」or「人生を誤って不幸になる」くらいにしておいたほうがいいかも。
 ★日本の中高年、特に男性が(例外はあるが)チャーミングではない、チャーミングになろうとしてない。本来中高年男性には、例えばサンタクロースのような魅力があるのだけど、ロールモデルが不在なのではないか。
 ★女性に関していえば、仕事で接する女性はおおむね明朗でナイスなんだけど、一人で電車に乗ってる表情などをみると、なんだろうあの目と眉根の示す微かな意味は、怯えてる?耐えている?あんまりしげしげ見るのも悪いから観察不足です。でも、よく切れるナイフのような目をしている人は少なかった(シドニーの女性には結構いる)。お母さんについていえば、行楽シーズンだったこともあるのか、疲れているというか、なんかもっと「孤独に戦ってる」的なオーラを感じた。気のせいかもしれないけど、幼子の手を握って歩くその肩のこわばりのあたりに、どことなく孤独感が、、、まあ、気のせいかなあ。
 ★ところで昔ながらの日本は濃厚に存在する。せっせと炎天下の下を路地裏歩きまわっては、「あるある」とか思ってた。70%くらいは三丁目の夕陽のまんまではなかろか。
 ★どうでもいいけど、なんで日本のTV番組にはあんなにうじゃうじゃゲストが出演しているのか?絵柄としてうざったいし、必要なのか。芸能人の雇用促進策なのか。またその空気の読み方やら、読みつつも敢えて微妙に外して笑いを取る技術やら、なんか取引先との接待の席での会話を見ているような感じで疲れる。デジャビュ的に、子供の頃、行きたくもない法事に連れて行かれ、親族間の儀礼と虚飾に満ちたクソ詰まらない場に延々座らされていた記憶が蘇る。それに「みんな」はこの問題をこう感じますよという、こりゃ一種の洗脳だなとは思った。
 ★ほんでも日本の普通の庶民の人的資源は相変わらず健在で、「日本はどうなっちゃうんだ?」とは余り思わなかった。逆に、この人達に任せておけば、国が2〜3回ぶっ潰れても「何とかするだろ」って感じ。もう感覚が日本人離れしてラフになってるんだけど、集合時間までに来るのが10人中7人いたらその社会は大丈夫だと思う。5人以下だとヤバイ。日本は9人くらいは来るでしょ?もうその時点で、「ああ、大丈夫大丈夫」って感じ。むしろ問題は、この人達に「任せていない」部分だと思う。だから資源や所得の再配分も大事だけど、仕切りや権力の再配分も同じくらいに大事だなと思ったです。もっともっと、やらせなはれ、任せなはれって。
 ★その意味で、政治や官僚への批判は、もっともなようで強烈な副作用を生む怖さがある。政府の施策を求めれば求めるほど、アテにすればするほど、結局彼らの権力は肥大化する。自己肥大を目論む官僚さんの古典的な手口やね。今必要なのは権力の剥奪であって、中央やプロ連中の手から民が権力を奪取することであり、本当の意味の政権交代というのはそういうことでしょう。じゃあどうすんの?といえば、出来るところから勝手にやっちゃえばいいんだよ、と思う。実際やってる奴はガンガン走ってるし。


 ああ、、もうダラダラ書いてたら幾らでも思いつく。キリがないからこのくらいにします。これだけで5-6本エッセイが書けそうな気がするのですが、相互に関連しているからどこから書いたものか。

 今回は本格的なことは書きません。書き始めたら泥沼になりそうで。出発間際のゴタスタな部屋の中での殴り書きですので、時間が許す限り周辺的な小ネタで済ませます。乞諒解。

ハンパない時間の共有

 というわけで実質12日程度の帰省で、もともとが親孝行帰省だから、「できるだけ家にいる」というテーマで、そのくらいしか考えてなかったのです。が、蓋を開けてみたら、親・親族も含めたら、12日で24人に会うという盛りだくさんになりました。また幸か不幸かノートPCを持って帰ったので、日本でも仕事ができてしまい、メールのやりとりやらこのエッセイやらで、休暇というよりは、結局いつもよりも仕事していたかも、です。

 しかし、19年も日本を留守にしていながら、寝耳に水告知で20人以上も会ってくれる人がいるというのは、なんて果報者なことよ、です。ありがたや。今回は「大票田」みたいな人脈には一切告知してないけど(収拾がつかなくなるし)、また十年以上前にやったJapan Railway Passを買って全国行脚をしてみるものいいかなと思ったのでした。朋有り遠方より来たる(自分だけど)パターンです。

 特にもとの職場連中が集まったのは凄いなと思いました。19年前に退職した職場で飲み会やるってのも珍しいでしょう。あの当時の事務所のメンツは、それぞれが独立なり結婚なりで散り散りバラバラになっているんだけど、一声のもと集まって、またこうして当時のノリのまんまで飲んでるのが面白かったし、意義深かったです。働いているときは、しんどいよ〜って気息奄々(きそくえんえん=息をするもやっとというハードな)状態だったけど、振り返ってみたらとても良い時間だったんだよなあって。僕にとっても、誰にとっても。

 これは「働く」「仕事」というものの一つの有り様なのでしょう。
 キミは、今、20年後に同窓会が開けるような職場で働いているか?という。
 ただし、「”一つの”ありよう」ですよ。One of themですよ。これしかないわけではない、こうでなきゃダメってもんでもない。気にしすぎないように。

 こういうことって、仕事に限らないです。とある時空間でとある人々がたまたま集まって、それが振り返ってみたらすげー意味があったってことは、しばしば生じる。

 総じて言えば、ハンパないことやってるとそうなる場合が多い。典型例としては「戦友」とか。半端じゃないというのは、客観的にハードである必要はなく、ハードに「感じられる」という主観でしょう。海外の貧乏ラウンドで知り合った友達とか、最初のシェア探しとか、客観的に引いてみたら大したことやってるわけじゃないんですよね。言うならばお遊びみたいなものなんだけど、主観的には「もう、死ぐ〜」みたいな感じだから、半端じゃないと感じられる。

 ということで、力任せな経験則でいえば、「ハンパじゃないことやれ!」ってことになるんでしょう。
 そして、どうせやるなら、義理とシガラミでイヤイヤやるよりは、やりたいことやってハンパじゃなくなった方がいい。納得感も違うだろうし。

 とか言いつつも、やりたいことをやったときって、だいたい「こ、こんな筈では」って思うのだよね。乗りかかった船で今更引き返せないから仕方なしにやってるという。それでいいのだ。必然だといってもいい。なぜなら人間なんか馬鹿だから、いくら麗々しく「計画!」「目論見」といっても、希望的観測だらけのクソ甘いことを考えているってのが通り相場でしょう。ゆえに最初は、激流に翻弄される笹舟のように、木っ端微塵に「きゃー」と打ち砕かれる。それでいいし、そんなんすぐに慣れる。でもって、大筋で好きな方向だったら、多少過程にSutta Monda (すったもんだ、こう書くとどっかのブランドみたいね)があったとしても、そんなの誤差の範囲であり、どってことないです。ちゃんとリターンは返ってから心配しなさんなって思います。

 しかし、まあ、こんな偉そげなことを20年以上前に「死ぬ〜」とか言ってた過去の自分に説教かましても、多分言うこときかないでしょうねえ。馬鹿だからわからないだろうなあ。ここで、我々がよく知っていて、しかし残酷過ぎるから日めくりカレンダーにも載せられない超切ない法則が出てきます。「真理は、だいたい手遅れになってから初めて認識されるの法則」です。末期ガンとか、天災とか、事故とか、戦争とか、突然の破局とか。しかし、まあ、それが「学習」というもののパターンであり、「失敗に学ぶ」「歴史に学ぶ」ということなのでしょう。もっとも、いくら学んでも「手遅れ」だったら意味なさそうだけど、でも分からないよなあ。手遅れのようで手遅れでなかったりもするし、「次世代に教訓を残す」とか「まだ来世がある」とか言い出したら手遅れなんか本質的にありえないし。はて、何の話だっけ?

日本論の空気の読み方

 話をズイっともとに戻します。日本の話でした。
 
 書いてていつも思うのですが、日本論・日本人論というのは面白いところがあって、褒めてもダメだし、貶してもダメ。一体キミタチは日本を褒めて欲しいのかな?それともケナして欲しいのかな?という。

 やたら日本サイコー!でタイコモチみたいなことを書いてもダメです。一定以上の批判精神や知的能力のある読者にとっては噴飯物に聞こえる。だから快刀乱麻のようにビシバシ斬って捨てて「日本を叱る」「時事放題(爺い言いっ放し)」みたいなものが受ける側面、あんまり酷評すると今度は反発が来るという。「愛するかがゆえに敢えてキツイことを言うのだ」という鬼手仏心ポーズも、ミエミエすぎるとあざとくて鼻につくし。

 ちなみにケナされれば満足というなら、近隣諸国の母国のメディアと政府に踊らされた気のいい(でも頭の弱い)アンちゃん達が、アホ、ボケ、カスと頑張って言ってくださっているのだから大満足な筈だけど、実際には真逆にかなりムカッ腹が立つ。じゃあ迎撃的、ネトウヨDQN的に、チョンだのチャンコロだの品位に欠ける言い回しで罵倒しているのを見て、拍手喝采を送りたいかというと、僕は送りたくない。もっとげんなりする。結局、あれってあそこまで一方的に他者を罵倒する姿が人間として醜悪であり、偏執的にやり続けるというカルト的に病んでる感じが、目を背けたくなるような嫌悪感を招くのだと僕は思う。だからこれは日本がどうとかいう問題じゃないわ。一個の人間としてのあり方の問題ではなかろうか。

 それはさておき、ケナされたいか、褒められたいかで言えば、「どっちも」なんだでしょう。
 このあたりの距離感や空気を読むのが、綱渡り的に面白いのです。

 まず貶されて嬉しいというのは、日頃から正体不明な悶々があって、それを声高に言うことも憚られてまた悶々という状況においては、第三者から経絡秘孔を突くようにピ!と言ってもらえると「溜飲が下がる」というカタルシスがあるのでしょう。それが生理的にまず気持ちいい。と同時に、「なるほどね」という部分が一つでもあれば、自分のQOLが上がるヒントになるという知的・実利的ご利益もある。

 しかしながら、高いところからモノを言うような、上から目線の傲慢さが見えてくるとナニサマ?的反発を感じる。僕も感じる。ここで面白いのは、どういう場合に傲慢さを感じ、どういう場合に感じないかです。内容の妥当性や説得力も要素になりますが、論者の究極的な目的が「こんな指摘ができる俺様はえらい」という自慢話であるのが透けて見えたら反発になる。

 ま、ここまでは簡単なんだけど、しかし、「自慢、大いに結構!」という意識も僕にはあります。
 大体ネットに限らず私見を述べるという作業それ自体に、どっかしら論者には「よく思われたい」というスケベ根性(自己顕示欲求)があるのでしょう。これは絶対あると思うぞ。それが悪いというのではなく、なんだってそうです。ファッションだって、「よく思われたい」というスケベ根性が完全にゼロだったら、パンツ一丁だろうが何でもいいわけです。はたまた人前で演奏するとか、カラオケで歌うことだって、オーディエンスあってのことであり、オーディエンスがあることによって満たされるのはなにか?といえば自己顕示欲求でしょう。だから、そんな願望はあって当たり前、あって健康、あってこその人間の表現活動でしょう。「スケベ根性」とおちょくった書き方をしたけど、でも「褒めて〜」「どうだあ!」というのは、人間の健康極まるモチベーションだと思う。可愛いじゃないですか。

 しかしその健康なモチベーションが、同時に反発をも招きかねないので、さて、そこが難しいところです。

 それに自慢どころか、遥か昔の雑記帳の「カッコいい」で書いたけど、こんなところに私見を書くとか、ブログをやるということ自体が、そもそも生き恥レベルに恥ずかしい。なんせ不特定多数の前で自我ストリップの裸踊りをするわけですから、何をどう誤魔化そうが根本的にカッコ悪い。周囲の反発を慮って「政府にはもっとしっかりして貰いたいものです」みたいな、毒にも薬にもならないようなことを書くことさえ、もうその時点で「僕は頭が悪いから毒も薬も書けません」「根性ないから反発が怖くてこれ以上書けません」と言ってるようなもんじゃないか、と自分で思えてしまったら、もう恥ずかしい。つまり「意見を言う」という行為は、答案用紙を提出するような本質的なカッコ悪さと恥ずかしさを伴う。

 だけど、そのカッコ悪さをひっかぶってこそ一人前でしょう?って意識もあります。民主主義がよりよく機能するのは「衆知を結集する」ことだけど、個々人が発言の段階で、カッコ良い悪いにこだわったり、反発にビビったりしてたらこのシステムはすぐに腐る。だから、反発くらおうが、嘲笑されようが、根性キメて、全部ひっかぶってモノを言うのが一人前の社会の構成員でしょう。ここでビビるかどうかが、衆知になるか衆愚になるかの分かれ道だと思う。

 ましてや誰に頼まれたわけでもないのに、こんなところで延々アホみたいな長文書くのならば、反発嘲笑はおろか、極端な話、筆禍事件みたいに当局に睨まれたり、誰かに自宅に乗り込んで来られようとも「上等じゃん」くらいに腹括ってやるべきものだと僕は思うし、またそうでなければ出来ない。少なくとも実名、実住所、顔写真つきでは出来ない。匿名でもの言うのは自分の趣味ではないし。

 なんの話かといえば、これがある種の解毒酵素になるのかな?ってことです。つまり、これだけ潜在的な犠牲を払って書いているんだから、いい加減なことは書けない。どうせ恥を晒すならしょーもないことで晒したくないし、浅はかなことも言いたくない。それがストッパーになる。同時に、それなりに覚悟の物言いなので、それが傲慢印象を和らげるのかもしれない。

親族罵倒権と延長自我

 面白いのは、身内批判の微妙さです。
 結婚したらだれでも学ぶと思いますが、「親族罵倒権」というのがあるように思います。あなたの配偶者が、「ウチの親は」「ねーちゃんは」と散々自分の身内をボロクソに言うんだけど、うっかり相槌打ったりして「そうだよね、ちょっと問題あるよね」とか言おうものなら、たちまち険悪になるという。自分の親を罵倒する権利は、実子にのみ帰属し、配偶者には帰属しない。親族罵倒権は血族にのみ許される一身専属的なもので、姻族は含まれない。なんのことはない相続と同じね。いくらあなたのダンナやヨメさんが、「ほんとにウチの親は馬鹿なんだから」と吠えるように言ったとしても、「いや、そんなこと言っちゃいけないよ」「優しいお母さんじゃないか」というのが礼儀、言うのがオトナ。

 そして、日本論の微妙さもこれに類している部分がありますな。自分は非難してもいいけど、他人がそれをやると腹が立つという。身内内部では奔流のように罵倒するくせに、他人にはお世辞を言ってもらいたいという、なんて、まあ、得手勝手な。

 ちなみに純然たる第三者がコメントする場合は、また話が違ってきます。顧客や取引先のように純粋に利害関係から言う場合、研究者が公正な評論をする場合、一時期的なツーリストが感想を述べる場合には、「世間の受け取り方」として参考意見にするでしょう。あるいはレッドネックな白人がイエローモンキー呼ばわりする場合は「アホがなんか言ってる」くらいにせせら笑える。いずれにせよ距離をおいた処理ができます。しかし、これとて度が過ぎると腹が立ってくる。

 この原理は、オーストラリアのように世界各国からやってきてる社会でも微妙に妥当していて、「出身国や民族の悪口は、その民族にしか許されない」という不文律みたいなものがあるような気がします。少なくとも友好的な関係においてはそう。発展途上国で、経済がしょぼくて、みんなビンボーだったとしても、「自然が多くて羨ましい」みたいな物言いをするとか。

 これもかつて書いたけど、「俺ら」「やつら」の境界線が曖昧なんですよ。
 地中海のマルタ人の大家さんだった時代があって、家賃を払いに行くたびに(隣の家だった)、いろいろ話し込む(てかこっちは話せないので聞くだけ)のだけど、彼の境界線が話題によって変わるのが面白い。保守本流のイギリス系に対しては、それ以外の移民全てが「ワシら」なんですね。でもアジア系VSヨーロピアン系の話になると、イギリス系も「ワシら」になり、先住民族のアボリジニが福祉を食い物にしているという俗論に流れるときは、移民全員VSアボリジニの構図になって、アボリジニ以外は全部「ワシら」になるという。

 こんなのは日本人でも同じで、局面によって「身内のボーダーライン」が変わる。学校でもクラスが違えば別国みたいな感じでいながら、他校との対抗試合になるとよそのクラスも「ワシら」になり、全国大会になると出身県が「ワシら」になり、世界大会になると日本が「ワシら」になる。

 日本人論をやるのも気を使う作業ではあるのですが、でも、シドニーで多民族でやってるのはある意味ではもっと気を使うわけで、それに比べれば楽なものという気がします。そして、夫婦関係の摩訶不思議に比べたら屁でもないわいという。

 この手のレベルでの空気の読み方というのは、つまりは自我の境界線の問題だとも言えます。心理学的にいう「俺の○○」という延長自我がありますが、その延長した境界線が、時と場合と話題によってコロコロ変わる。逆に言えば、その境界線の移動にだけ気をつけておけば大きく外さない。

 日本を批判されて溜飲をさげるときの日本人の中に自分は入っていない。あらゆる外敵よりも身内内部の敵が最も憎いというくらい、身内相互間のストレスは、それが日常的であるからこそ根深い。だから憎い身内の敵=同じ日本人でも日頃から気に食わない連中=に対する攻撃は、誰かにやってもらえばもらうほど「ザマミロ」という気分になってスッとする。しかし、それは「憎い身内の敵は被弾するが、自分は被弾しない」という前提あってのことであり、自分も被弾するとなったら180度変わってムカつく。

 だから「空気を読む」とかいっても、めっちゃ簡単で、砲撃するときの射程距離と範囲だけ気をつけておけば、幾らでもできる。誰にでもできる。このシンプルな技を多用したのが橋下クンだったのでしょうし、ポピュリズムの初歩教程。初歩なだけに対抗策も簡単で、理論的に整合している知的快感と、ザマミロ的な報復快感とが自分の中で峻別できれば良いだけです。

 しかし、簡単なこの方法も、結局媚びてるだけじゃんという意識が出てきて、それをやるのも潔しとはしない。それにそんな下らない被弾云々でコロコロ態度が変わるような奴らにヘコヘコ右顧左眄するのがカッコいいのか?というと、良くない。ここで思い出すのはエレカシの宮本先生で、デビュー当時のまだ客も十分ついてない段階で、「何笑ってんだよ、何うなずいてんだよ。お前だよ、そこのお前だよ!」とせっかくのファンに喧嘩を売るような歌詞(奴隷天国)を歌ってるわけですが、彼にはこの構図がよく見えていたのでしょうね。ロックしてるよな、こうでなくちゃなって思ったりもします。


 じゃあ自分はどうやって空気を読んでいるのか?というと、うーん、あんま考えてないかも。てか、空気を読むこと自体がカッコ悪いというか、チマチマ計算してるのがイジコ過ぎてもうイヤって気がするし。かなり感覚的です。あ、でも、微調整は随所にカマします。読みなおしてみて、ポピュリズムっぽく流れている部分があったらキッチリネジを締めたり、落としたり、そのへんは結構やってるかもしれません。

 それでも、これもやり過ぎるとうざったくなるのですよ。読んでて気を使ってる感じが出てきたら、もうイヤだという。「あ、これは○○という意味ではありませんよ」的なエクスキューズや注釈が多すぎるのも、なんかニチャニチャしてきて、餃子を食べたあとに歯にニラが挟まってるみたいな感じで、僕がイヤ。

 だから、もう感覚一発ですね。バンドの音出しで「スネアが軽い」「軽快だけど軽薄ではない」みたいな、きわめて生理的な。ああ、誰の参考にもなりませんね。すいませんね。


 さて、一日早いフライングだけど、もう上げちゃいます。

 そろそろ、自分の"戦場"に帰る時間だし。
 19年住んでも未だに戦場感覚はあります。おそらくは死ぬまで。
 空が青くて、だだっぴろくて、気持よく何もない戦場。


 右は行きしなのトランジットのケアンズ空港で撮った写真。明日の早朝にはまたここで一服やっているでしょう。

 じゃーね、またね。Chao!



文責:田村



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