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今週の一枚(2013/07/08)


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Essay 626:今、人類が面白い

〜参院選、もう投票しちゃいました

 写真は、VAUCLUSEにある灯台。
 なにやら夢にでてくる風景のような。

 Vaucluseというよりも、South Headとか、The Gapとか、Watsons Bayからちょっと坂を上がったところとか言ったほうが分かりやすいかも。いつも車で通り過ぎるだけだったのですが、先日、車を停めてトコトコと周囲を散歩してきました。

 いいですね、このスッカスカな感じ。オーストラリアの国内どこでも、シドニーをちょっと離れるとすぐに感じるこのスコーンと突き抜けた「なんも無〜い」感。生理的に気持ちいいです。



Keep the bastards honest

 きたる参院選ですが、既に先週、在外選挙に行って来ました。
 なかなか難しい選択肢で、「どうしたもんかいな?」とちょびっと悩みました。

 僕の投票方針は常にシンプルで、 "Keep the bastards honest"です。

 このフレーズは、やや粗野なくらいのカジュアル英語表現です。"bastard"(バスタード)の第一語義は「私生児」ですが、いまどきこんな意味で使われている例は少なく(昔の小説などを除けば殆ど見たことがない)、多くは罵倒用語で二・三人称で「このガキ」「あの野郎」くらい。あるいはもっとキツい響きで「この腐れ外道どもがぁ!」ってくらい。ほとんどマンガの中の会話の世界で、リアル英会話でこんなの面と向かって使ったらぶん殴られてもしょうがないくらい。

 ちなみに大昔の映画「ゴースト・バスターズ」や、ケーブルテレビでやってる「ミス・バスターズ」のバスターズとは違いますよ。こっちのバスターは、"buster"で「破壊、破壊者」という意味です。景気よくドカーンとぶっ壊すニュアンスがあるようで、口語では「どんちゃん騒ぎ」「威勢のいい奴」っていい意味でも使われます。だからゴーストバスターズは、幽霊をぶっ飛ばす奴ら、幽霊退治専門家って意味だし、ミス(myth=神話)バスターズは、「神話の破壊者」であり、転じて「一般にはそうだと信じられていることを、本当にそうか?と徹底的に実験&検証してみよう」という趣旨の番組です。

 さて、このフレーズは、オーストラリアにおいてデモクラッツという小政党がスローガンに掲げてました(以前にも紹介しました)。この言い方は妙にツボをついています。ここでいう「バスターズ=あいつら」とは誰かといえば、言うまでもなく政治家達です。特に権力に近い政治家達。あいつらほっといたら何をするか分からない、というか悪いことにするに決まってるから、常に奴らを正直でいさせる(真面目に仕事をさせる)ためには気を抜いてはいけないんだよ、という意味です。

 二大政党制で「どっちもどっち」になったときに(大体そうなるけど)、キャスティングボードを握る第三政党を自認していたデモクラッツは、巨大与党も野党も「同じ穴のムジナ」であり、だからあいつらを正直にさせるには、第三政党の力が必要なのだ、だから私達にに投票してくれって意味でこのキャッチフレーズを作ったのでしょう。今でもそれを掲げています〜デモクラッツのWEB冒頭。もっともデモクラッツは、その後の環境意識の高まりによって浮上してきたグリーンズに取って代わられて、絶滅危惧種状態にあります。

 それはともかく、どの政党であれ、政治家であれ、真面目に仕事しなかったら即クビになるというプレッシャーを与えるべきで、選挙はそのいい機会であると。

吹っ切った感覚

 キープ・ザ・バスターズ・オネスト。

 このフレーズが気に入っているのは、ある種突き抜けた感覚があるからです。
 どこに投票するかとか誰を支持するとか、「そんなこたあどーでもいい」って吹っ切っれてるところがある。どーせ似たり寄ったりだろう、と。そりゃベースとなる価値観や思想、政策、支持母体はさまざまではあろうが、一回権力を握ってしまえば、権力病みたいなものにかかって、それなりに甘い汁を吸うようになるのだ。そして、それを心底「怒る」というよりは、どっちかといえば諦めている。しかし悲しく諦めているわけでもなく、「人間なんかそんなもんだろ?」っていうドライな認識がある。

 「政治家が悪い」「嘆かわしい」とかエラそげに怒ってるアンタだって、そして僕だって、いざその場に立てばそうなっちゃうよ。そんな(確率論的に)居るわけもない聖人君子を期待するほうが間違っている。別に甘い汁を吸わなくたって、全部自分で仕切らないとならない、全責任を負わねばならない立場におかれたら、そうそう理想論どおりのことなんか出来っこない。他国を見ても歴史を見ても、過激な野党が国民の支持を受けて政権を取ったところで、いざ権力の座に座ってみたら「どーしよーもない現実」に押しつぶされてニッチもサッチもいかなくなり、結局前政権と同じことをやっている、、という例は枚挙にいとまがない。開国しようとする幕府を弱腰だとさんざん罵倒した薩長も、自分が政権をとったら幕府以上に全面開国しているし。

 ましてや在任期間が長くなり、あっちこっちにいい友達が出来て、各方面からあれこれお世話になってしまえば、「皆死ぬんだ!」みたいなドラスティックで破壊的な改革なんか到底出来っこない。仮にやろうとしても、その素振りを見せただけで権力パワープラグを引っこ抜かれて蹴落とされる。

 つまり否応なく誰でも「バスタード」になっちゃう、ならざるを得ない、バスタードになるからこそ権力が維持できるって構造になってるんだから。

 そういうドライな認識に立った場合、さて何をすべきか?といえば、せめてそのバスタードが道を外さないように絶えず飴と鞭で監視すべきだろう、それが有権者の仕事だろ?ということです。言い換えれば支持政党も支持なんたらも無い。そんな好みも興味もない。誰がやってくれてもいい。ただ一つ、「ちゃんと仕事をする」かどうかだ、それだけが大事で、それしかない。

 この発想は、”どっかに素晴らしい政治家達が集まる素晴らしい政党があって、それを素晴らしい国民達が支持して、やがて支持の輪が広がり、政権を奪取し、素晴らしい政治を実現してくれて、皆の生活は素晴らしくなっていきました”という世界観の否定でもあります。そんな「オトギ話」はこの世にねーよ、という。ミもフタもない。まあ、こう言うとキツ過ぎるかもしれないけど、少なくとも期待はしない、それしか無いとも思わないし、又そうでなくても全然絶望しない。

 それに、仮にそういう「素晴らしい」系のパターンがあったとしても非常に稀だろうし、またリアルタイムにそうだと認識されることも少ないと思います。後世から「素晴らしい」と激賞されるような時代があったとしても、その時点では必ずしも評判が良いとは限らないし、それどころか悪評、ひいては国賊呼ばわりされているかもしれない。換言すれば「世論は常に正しいか?」論でもあります。後世の歴史家の、氷にように冷たい視点で評価すれば、世論というのは正しい場合よりも間違ってる場合の方がむしろ多い。絶望的暴挙であった日露戦争だって、開戦前は東大七教授が是非開戦を!と馬鹿なことを進言にしにいってるし、やっとこさ幕引きをするという外交的勝利といっても良いポーツマス条約を締結した辣腕小村寿太郎も、弱腰ということで暴徒に罵声を浴びせかけられ、家を投石された。

 これを突き詰めていくと、民主主義の否定になるかもしれないですよね。かなり危険な発想ですよね。民衆というのは大体馬鹿だから、民衆に決めさせたらオートマティックに間違えるよ、みすみす地獄にいくだけだよ、という。でもこの発想は実は根強いと思う。優秀な官僚サンやら社会の木鐸を自認する啓蒙好きなマスコミさんとかにもあるし、ネットのあちこちで悲憤慷慨している方々もそうでしょう。

 ほんでも、民主主義はそれでいいんだと思います。民主主義のメリットは「最悪の独裁になるのを防ぐ」「北朝鮮みたいになるのを防ぐ」「仮にそうなったとしてもひっくり返せる」というただその一点にのみ機能があるのであって、最後の最後の火災報知機やエアバックみたいなものでしょう。個々の政策の正しさまでは保証の対象になってない。てか、個々の判断の正しさを制度的に保証するのは不可能ですわ。暴走を防ぐのが精一杯だし、それで良い。エアバックは交通事故時に人命を守る機能はあるけど、ドライブしていて道に迷うのを防ぐ機能はない。そんなもん最初から無い。

 ほんでも日本の場合、独裁政権なんか出来ないわけで、皆のなんとなくの場の空気が盛り上がって、やがて到底イヤとは口に出来ない感じになるという「雰囲気ファシズム」になるのですよね。だから民主主義がストッパーになるとは限らない。てか、戦前を振り返っても全然ストッパーになってない。だもんで、日本で民主主義をやる意味ってなんなんだろうね?もしかして無駄なことやってない?って知的に面白いテーマが降ってきたりするのですね。あなたはどう思いますか?

 でも、雰囲気ファシズムが最大の懸念事項だとするなら、いかにファシズム的な雰囲気にしないかの防御策こそが重要だということになり、それってどうやったら出来るんだろう?って思います。災いの芽は小さいときから摘んでおけでいうなら、「空気を読む」という行為自体を止めさせるというか、「空気を読んだら死刑」みたいな法律を作るとか。そんなの出来っこないし、それが出来たら、それってもはや日本人ではないんじゃないの?という気もしますな。まあ、冗談はさておきつつも、日本社会の場合、最悪のドツボへの転落を防ぐ防御柵が実はない、民主主義がストッパーになるとは限らない、ということだけは頭に入れておいても良いかと思います。

投票する意味

 さて、話はまた今回の参院選に戻りますが、この現況でどこにどう投票するのが「キープ(長いので以下略)」的に良いのかというと、これが中々難しい。

 絶対多数を確保し、すでに余裕どころかメディアを恫喝するくらいに傲慢になりつつある自民党に入れるのは論外だとしても、それに対するカウンターバランスとしては何処が良いか。本来のストッパーは民主なんだろうけど、ここまで凋落してたら多少入れても焼け石に水感はあるし、維新は橋下氏がどうなろうがなるまいが、もともとがポピュリズム・バブルで中二病的な活動原理を持つあそこがストッパー役になるのを期待するのは無理っしょ。そうなると、なぜ今も自民とくっついているのか不思議な公明?組織票という安定基盤を持ちつつ、自民のDNA=日本社会土着のおっちゃん的マッチョ男根主義に対して、頑固に平和と福祉を言い続けている仏教的母系価値観が牽制球になりうるのか?ほんとに?いっそのこと理論的には共産党という手もある。一番筋は通る。真逆だし。ほんでも、その他、みんなの党など調べだしたら幾らでもあるのですよね。

 しかし、まあ、ここで僕ごときがそんなに悩んでも、しょせんは1億分の1の影響力(正確には1億451万人の1)でしかない。でも、誰もが平等に1億分の1の影響力しかもたないというのが普通選挙の理念なのだから、それは別に文句を言うべきことでもない。それが無意味だと思うなら選挙そのものが無意味だと言うに等しい。だから、選挙というのは、そんなこと(自分の一票で世の中がメキメキ変わるぞということ)を"過剰に"期待してやるものではない。正しく1億分の1だけ期待しておけばいい。

 しかし理屈はともかく、実感としては限りなくゼロなわけですよね。
 じゃあなんで投票をするのか?意味あんのか?といえばいくつか理由があります。

組織票と既得権と大樹カルチャー

 第一の理由は、投票率が下がるとバスータードがオネストではなくなるからです。いかに選択肢がしょぼかろうが無かろうが、投票だけは意地でもやる。どこが政権を取るにしても楽に取らせてやらない。これが一番デカいし、実戦的な意味はこれに尽きます。
 第二に、数年に一回くらいは免許の更新みたいに真面目に考える時間があってもいいこと。
 第三に、「権利の上に眠るものは法の保護に値しない」、やることやらない奴は殺されても文句は言えない、という原理の確認で、自戒のための儀式ですね。

 なお、第一の点をもうちょっと敷衍すると----
 @組織票勝負になることを避ける。投票率が下がるとガッチリした組織票を持っている勢力が絶対有利になるのは言うまでもない。票も読めるし、計算も出来る。楽ちんです。

 A組織票カルチャーの波及被害。組織票で物事が決まるということは、「寄らば大樹の陰」カルチャーが蔓延するということもある。だって票を組織できるくらい巨大な権力を持っている巨大組織の言い分「だけ」が通る世の中になるってことなんだから、個々人としてはできるだけ巨大な組織に入って、中枢に潜り込んで、甘い汁を吸う方が処世術や人生設計として得だということになる。得というよりも、それ以外の選択肢が事実上乏しくなってしまう。そういう世の中でいいんか、そういう人生を歩みたいのか?と言われたら、僕はNOです。ただでさえ日本は組織カルチャーが強くなりがちなんだから、ことあるごとに解毒しておいた方が良い。

 B現状を肯定するか否定するか。組織票=既得権益と直ちに結びつかないもののかなりニアリーです。既得権という現実利害があるからこそ組織も出来るわけですから。そして、彼らは"既得=既に得ている"ゆえに、彼らの意向=現状肯定とほぼ同義だろうから、これに与することは、日本は現状のままで良く、これ以上変える必要はないということでもある。では、日本は変わる必要があるのか?YESだと思う。何をどう変えるかについては議論百出だろうが、少なくとも変えようと思ったら変えられるようにしておくべき。特に目先不透明で環境変化が激しい現在、何が起きても機敏に対処・変化できるように、野球の内野手のように腰は浮かせておくべき。

 以上の3点から、とりあえず投票率だけは上げておいて組織票パワーを相対的にダウンさせ、無党派層や浮動票の動向によって日本が変わるような環境作りをした方が良いということです。

真逆視点〜浮動票とポピュリズム

 ただし、本当にそうか?という反対視点もあります。投票率が上がって浮動票勝負になった場合、要するに人気投票やポピュリズム勝負になるだけ、もっと不毛になるだけという考え方もありえます。

 組織票が良いとは言わないけど、組織があるという現実はやっぱり半端なものではない。それなりに実質的な経済基盤、経済実績もあろうし、また思想信条もあってこその組織票なのだろう。一方浮動票によって決まるというのは、一歩間違えれば「メディアに踊らされて右往左往する愚劣な大衆」の気分で変わるということであり、ひいては大衆をいいように操作するメディア権力によって決まるということでもある。それでええんか?という視点はあるでしょう。

 こう言ってしまうと、利権にまみれた既得権者に決めさせるか or 愚劣な大衆に決めさせるかという、「トホホの究極の選択」になりそうですよね。でも、もっと言ってしまえば、利権にまみれた勢力が、同じく利権を共有しているマスコミと組んで、いいように愚劣な大衆を操って思い通りに動かしているだけ、だから最初から選択肢なんかどこにも無いのだってゼツボー的な話もできますよね。

 ほんでも、別にそれは気にしなくても良いと思いますよ、僕は。

 なんでか?といえば、そんなものはレトリック一発ちゅーか、表現の問題に過ぎないからです。
 それって「組織=利権=悪」「メディア操作=愚劣な大衆」という、中二病的な世界観でしょう?「お金持ち=悪人」みたいな幼稚な世界観ですね。もしそれがホントなら、刑務所の受刑者は金持ちばかりになってしまう。

 世の中そんなに面白くもないし、分かりやすくもない。
 リアルは、アホもカシコも善人も悪人も均等に存在する筈であって、どちらかの陣営に偏るものでもない。だから馬鹿とか強欲とかいう主観・感情・評価ファクターは無視すべきでしょう。どうしても善悪入れたいなら、全員悪人とか全員善人とか仮定したらいい。ありていにいえば全員「普通の人」だろうな。大なり小なり。人々を何かの基準で無理やりグルーピングして、キャラ設定のレッテル貼って、自分で設定したキャラの悪逆ぶりに自分で怒ったり興奮したりってのは、端的にいって阿呆の所業だと思うのですよ。そのあたりが中学二年程度の知能指数だと。

 したがって、ものを考えるにあたっては、この種の価値判断を含み、読み手の感情を励起させ、巧みに結論を誘導しようとする表現は排除・シカトされねばならない。そんなの普通の社会人だったら知ってることでしょうし、少なくとも言われたら分かるくらいの知性はあるでしょう。

 それを踏まえていえば、別に既得権と称されるものを保有している人々が悪逆非道ってわけでもないし、いわゆる一般大衆と呼ばれる人々が愚劣蒙昧ってわけでもない。マスコミに従事する人が全て悪の企みに加担しているわけでもない。何となくの枠組みやベクトルはあるし、それらは厳しく検証し批判されるべきだけど、個々の人格キャラに還元して理解すべきものごとではない。だいたい世界レベルでいえばOECD先進国の国民だというだけで十分「既得権者」ですしね。もっと言えば、大衆=既得権者になっている構造自体が、日本の構造改革を遅らせているメインの原因だと言えなくもない。だから、こんな二頭対立図式でどうのこうのと言っても意味が無いと思います。

 ということで、善悪正邪の一切の価値観を抜きにして考えれば、変化により機敏に対応できるのはどちらか?という機能メンテナンス基準で考えるべきであり、だとすれば浮動票で決まるようにしておいた方が良いだろうということです。それがポピュリズムに踊らされ、シーソーみたいなギッタンバッコンやってるだけの迷走であろうとも、それで良い。良くはないけど、少なくともガチガチに利益団体票で決まってしまい、数十年間の自民の万年政権で、選挙なんかそれこそ儀式でしかなかった頃よりは遥かに良いと思います。可動性を得た、というその一点は、ちゃんと評価すべきだろうと。それを活かすも殺すも国民次第だし、国民次第でありさえすればそれで良い。そして、あとは間違えたり反省したりかけがえのない学習機会を活かすことです。


 以上、この批判に対する反批判としては、選挙制度やあり方というシステム論に、その結果の妥当性や判断の適正さまで持ち込む必要はないし、また持ち込んではならないと思います。

 

いま、人類が面白い

 ということで、「儀式」は済ませてきました。
 が、選挙の結果云々には、実はそんなに興味はないです。

 直近1〜2年のことなら、この選挙で自民が勝って衆参ねじれが解消して、今やってる「ダイエット(財政再建と構造改革)疲れのリバウンド」みたいな方向が進むでしょう。一見景気は良さげだったり、何事もなかったように平穏な日々が続くかのような感じになったりもするでしょう。でも体質改善にまで至らぬリバウンドは所詮リバウンドに過ぎないから、遅かれ早かれ時間の問題。

 でも、そのあたりの細かなアップダウンには、僕自身は殆ど興味はないです。株や投機やってるならともかく、何もしてないし。

 興味があるのは、超ロングレンジの視点で、世界はどうなるの?人類はどうなるの?です。もう世界史レベルどころか、「火の鳥」レベルのロングスパンですね。でも、それが一番面白いんだもん。

 過去にあれこれ書きましたけど、色んな意味で「いま、人類が面白い」って感じだと思うのですよ。地球レベルでこれだけ人類同士が緊密に結ばれつつある時代は、言うまでもなく人類史上初。どうなっちゃうんだろうね?という史上初のイベントです。

金と暴力と技術

 例えば、「人間が集団を作る意味は何か?」という視点があります。
 そりゃ固まってた方がなにかと都合が良いからでしょう。都合が悪かったらずーっと皆さん一匹狼でやってて、国どころか、村も集落も作らなかったでしょう。でも作ってるのは、集団でいたほうが何かと有利だからです。

 ではどの点でどう有利なのか?人類が有利・不利の勘定をするときの基本要素はなにかというと「暴力と金(食い物)」でしょう。集団でいた方がより効率的に食料を集められる(生産できる)し、暴力は自治・侵略・防衛の三点で有効なツールになった。集団を規律する警察力、他の集団を襲撃して楽して食料を集める侵略、他からの攻撃を守るための防衛ですね。人類史というのは、ローマ帝国であろうが、戦後冷戦であろうが、突き詰めればこの2つの要素に因数分解出来ると思うのです。

 それに科学技術の進歩が掛け算されます。
 火や道具の発見、採取時代から農業の発見、馬という移動手段、ヒッタイト人による鉄という新素材、化石燃料や火薬、羅針盤、蒸気から内燃機関、核というエネルギー革命、飛行機から宇宙衛星、グーテンベルグの印刷機からエジソンの電気記載法の発見、さらにテレビやインターネットというテレコミュニケーションの進化、これら技術の進歩とともに、金と暴力のゲームのルールが変わり、戦略が変わり、その変化にいち早く適合した人間集団が大きな果実を得た。大航海時代で粗暴な略奪だけやっていたスペイン・ポルトガルは南米どまりだったけど、これに産業革命と資本主義を掛けあわせたイギリスが天下を取った。

21世紀の現在地

 で、21世紀の現在、どんな感じになってるの?というと、結構微妙なところにさしかかっていると思うのですね。
 例えば暴力(軍事力)ですけど、昔は素朴に棍棒もって隣村を襲撃して穀物をぶんどってくれば良かった。話は簡単。大航海時代では、遠隔地で胡椒などのスパイスをゲットして高値で売りさばくというビジネスになったり、他国を侵略して農園や工場にしたりという植民地方式になった。植民地をゲットするため、あるいは輸送路を守るため、資源を確保するために、なおも軍事力は意味を持った。しかし、システムが整備されるにつれ、食べ物は貨幣という抽象的な経済単位に変化し、さらに貨幣はデジタル的な数値になった。今では数字=食い物であり、ゆえに純粋に数値だけを扱うビジネス(金融など)がもっとも手っ取り早く富を生み出すようになった。武器なんか持っててもあんまり金にならなくなった。

 世界が進化するにつれ、一般的に野蛮→洗練の方向に向かう。いまどき暴力的に恫喝してどうのという古臭いやり方では通用しなくなっていっている。今、世界の二大国は米中ですが、この両国が米ソ時代のように暴力的対決図式になるかというとならんでしょう。だって喧嘩したってどっちもそれほど得るものが無いし。食料争奪戦は資源争奪戦になったけど、シェール革命によってそんなに必死に争奪しなくても何とかなりそうだという見通しも出てきた。だから喧嘩で雌雄を決するよりも、うまいこと融合して、お互いに美味しいところを融通し合った方がトータルでは効率が良いという方向になるんじゃなかろか。

人類と集団

 さて、そこで原点にもどって「21世紀で人間が集団を作る意味は?」です。
 素朴な原始農業だったら人手が多い方が有利、原始商業や資本主義でも工業生産でも一定数の人数やインフラ整備は必須でした。でも今は科学技術の進展で、そこまで必死に皆で力を合わせて一つところに固まってなくても、別に生きていくことくらい出来る。通信手段も流通も格段に進歩したから、中世の頃に荷駄隊が隣村に行くほどの覚悟も費用もかからず、他国と貿易出来る。てか、消費者レベルでは、もう「貿易やってます」なんて意識すらない。単なるオンラインショッピングですからね。

 どの程度の規模の人間集団を一つの単位にすると良いのか?
 古来「くに」という単位があった。日本でも都道府県よりもさらに細かい藩レベルで一つの単位になっていた。今の国家がこのサイズになっているのも物理的・経済的必然性あってのことです。そうなると、その物理的経済的必然性が動いていけば、国家の概念の役割も自然と変わっていく。目端のきいているビジネス界では数十年前から国家という枠組みを軽々と乗り越えてきているし、乗り越えることで競争力をつけてきた。

 昔は、ビジネス=重厚長大産業だったから、まずは内戦を克服し、堅牢な国内政府を作り、資金をひっかき集めて港湾、電力、鉄道、工場という基礎インフラを30年かかりで創りあげてから世界ビジネスに参加した。だから新興国が先進国に追いつくには絶望的な距離があった。でも、今は、最も儲かるのがデーター処理などのITなどだとしたら、どんなド田舎でも、ジャングルの中でも、ちょっと出来のいいコンピューターがあり、かなり頭の良い人間がいたら、あとは衛星経由でネットでビジネスが出来てしまう。煩雑なデーター処理やプログラミングを時給30円で引き受けるような連中が山ほど出てきたら(既に大挙して出てきているのは過去に何度も紹介してますが)、これまでのせっせとインフラを〜という方程式すら当てはまらなくなる。

 今の世界経済は、特に金融経済は、どこの国にも所属しない、所属したとしても単に本籍地がそこにあるというくらいの形式的な意味しかない世界企業や、外国人投資家(どの国から見ても"外国人"であり、だから結局ナニ人でもないのだが)によって決まっている。彼らは集団として存在するわけでもないし、集団をつくる意味もない。てんでバラバラに思惑で動いているだけだけど、資金量の膨大さによって、軽く一国を破壊するだけの力を持っている。その意味では核兵器よりも強力。

 例えば彼らが、EUはもうダメだよねって全資金を引き上げたら欧州はひとたまりもないでしょう。同じように日本だって、今はあれこれアップダウンがあるからこまめに資金を出したり引いたりして細かく稼げる商いの妙味があるけど、旨味がなくなってきて「やーめた」になったら、株価が暴落するだけではなく、膨大な残高をもつ国債の金利が上昇し、つまりは市場価値が激減し、それらを大量に抱えている日本の銀行、保険会社や年金事業団が全部コケる。実質的には倒産同然になり、取り付け騒ぎになるも、これを沈静化するだけの財政余力は日本政府にはない。先進諸国はどこもヘロヘロだろうし、つい先日もキプロスで初めてベイルイン(国民負担方式)が取られているくらいですから。ということで、皆の老後の資金もパー。加えて強烈な円暴落になり、輸入資源が膨大な高値になるから1万%くらいの超インフレになって、これによっても虎の子の資産はパー。

 こういう「Xデー」があるのか、ないのか、いつ来るのか?といえば分からないし、それは世界の投資マネーとかやらいう匿名無人格の、ほとんど自然現象みたいなものによって決まる。台風や地震がいつ来るのかわからないのと同じ。

 今や、どの国も、自分の国の運命を決める力はない。まあ、昔からそうだったとはいえ、昔のような他国の侵略とか連合軍とか分かりやすい要因ではなく、ビジネスとか経済とかいうワケのわからない、誰にもコントロールできないし、予想もできない怪物にいいように翻弄されているという。

 一方個々人レベルでも集団が決定的な意味を持たなくなってきている。
 以前は、地縁血縁、農村社会など、集団=生命維持(生産)装置だったから、そこでの人間関係は絶対的な意味を持っていた。村八分になることは端的に生死に関わる。原始農村は階級分化によって領主=地主=小作人という関係になり、近代工業化以降は、政府(官庁)=企業=サラリーマンという関係に変遷しつつも、生産現場の集団内部での人間関係が、個々人の人生において決定的に重要であることに変わりはなかった。が、ここにきて離職・転職・失業・派遣なんでもアリになり、さらに、SNSの広まりなどによって、別に生産現場(職場)でなくても人と人とは幾らでも出会えるようになった。この傾向は、遡れば80年代のパソコン通信や伝言ダイヤルの時代に萌芽をみることができますが、あの頃は「一部の好事家」の趣味的なものだったのが、今では普通の話になっている。

 人は人とつながってないと精神的に不安定になるとしても、これまでのように生産現場・経済と人間関係がイコールではなくなっている。端的にいえば、人とつながるには、集団を作る必要、群れる必要がなくなってきたとも言える。ゆえに社会は個別バラバラに原子分解する方向に向かい、「おひとりさま」の孤族の時代になる。今、模索されているのは、「新しい群れ方」「新しい集団のあり方」でしょう。

70億ピクセルのジグソーパズル

 巨大な絵でいえば、文字通り「世界は一つ」になりつつあるということですね。言葉にしちゃうと超陳腐だけど。

 でも、人類は、その時点で手にしている物理的・技術的限界まで発展し、自然と存在形態を調整していく。それは歴史が証明している。現時点で地球人類は、既に、一つにまとまっても良いだけの物理的・技術的条件をクリアしていると思います。クリアしてないのは政治的条件くらいで。あとは時間をかけてゆっくりと融合していくのでしょう。

 それは物理反応というよりは化学反応のように目には見えにくい。
 例えていえば、70億のドット・ピクセルのある巨大な壁画があって、今はそれなりに意味のある世界地図と民族、経済地図という画像が出ているのだけど、一つ、また一つと光点ドットが消え、あるいは色を変え、トータルではだんだん絵が変わりつつある、といったところでしょう。毎日のように少しづつ昔の絵が消えつつある。昨日までの常識が、ふと気づくと今日は通用しなくなっているということが、ポツン、またポツンと起きる。

 大分変わってきたとは思うのだけど、しかし最終画面はまだまだ全然見えないです。作り始めのジグソーパズルみたいなもので、どういう絵柄になっていくのか予想がつかない。

今の興味

 というわけで、僕の興味はココです。どういう絵になるんだろうね、人類はどうなっちゃうんだろうね?という。すげー面白いんですよ。自分の持ってる(と言ってもきわめて乏しい)歴史、経済、法、地政学、科学技術などの知識を全部総動員して、ありったけぶちこんで、グルグルかき回して、あーでもないと考えるという。もちろん正解なんか分からないし、そんなもん無いけど、このくらい面白い知的パズルはないです。毎日の世界のニュースでちょっとづつ答やヒントが出されたり。

 自分で問題を作って遊んだりも出来ます。例えば、今日の出題では、
 「リアルタイムに進行しているエジプト、トルコ、ブラジルでの各市民暴動のような抗議運動について、その本質やその国の歴史的発展段階における位置づけについて、何がどう違って何がどう同じか、さらには今日的な世界共通の特徴があるかどうかについて論ぜよ」とか。

 20年前は、日本の中で、日本レベルだけでこれを考えて「ふーむ、オーストラリアかあ」と思ってこっちに来ました。あれから20年後の今、それを世界レベルでやっているという。だからといって何をどうするわけでもないですけど、あれこれ考えるのが楽しい。

 それから思えば、日本の動向、ましてやピンポイントの参院選の帰趨やその後も、70億ドットの1億分の短期的な変化でしかないです。「ま、いろいろあるだろうけどね〜」くらいの感じかな。あっち方面で興味があるのは、日本ではなく、中国とアメリカが今後どう仲良くやっていくか、そのなり方ですね。ドンパチ喧嘩したところでどちらも得るものは乏しいわけだし、昔のように軍需産業や軍事官僚が自らの利潤のために国を動かすというのも、これだけ情報が広まった現在どこまで出来るか?ですよ。それよりも、漢民族文化とアングロサクソンの融合パターンに興味がある。実際、香港やシンガポールでは上手くいってたから、意外と波長は合うような気がするし。

 ただ、それまでアメリカも中国も、国が国として持つかどうかってもう一つの興味もあります。個々人がバラバラ原子分解しつつあるトレンドにおいて、国家が国家としてどこまで求心力を持ちうるかですよね。大友克洋のマンガの「AKIRA」に出てくる鉄男みたいに、巨大なエネルギーに内部を侵食され、かろうじて自我がへっついているみたいな感じになるのではないか。その断末魔のあがきみたいなものはどうなるのか。

 ここで、国家が身の程を知り、国家的エゴを控えめにして、謙虚になって「快適な場の提供」というホスピタリティ・インフラ事業者に徹することが出来たら、かなり未来は明るい気もするのだが、しかし、よく分からん。今もっともリストラすべきは国家そのものだとしても、国家がはいそうですかと納得するとも思いにくい、弟が生まれて構ってもらえない長男があれこれ駄々こねて関心を引こうとするように、国家もあれこれと「国家らしい」ことをブチあげて独自性を発揮したいだろうし、国家というシステムに乗っかって生計を立てている人々もそうだろう。でもその種の古臭い連中の断末魔のアレコレが、なにかとトラブルの素になるような気もする。


 そんな中での日本ですが、今の日本を、知らないどっかの国のように何の感情移入もなくドライに描写すれば「借金まみれで高齢化&過疎化する離島」ですよね。それだけ見てたら、そんなに大きな興味をひかない。

 ただし、この離島には、大分空洞化したけど過去の資産があり、ユニークな生態系的文化があり、麗しい天然資源があり、細かな気遣いのできる優しい人達がいる。文化+自然+人、この3大要素がこれだけ豊富にあれば、もう十分じゃん、他に何が要るの?って気がします。カレー粉+具材料+お米、これだけあったら何とかなるでしょうって感じ。何とでもなるし、ならないわけがない。

 それよりも、むしろ要らないものが多過ぎるので、それをどこまで削ぎ落とせるかだと思います。「引き算で豊かになる」って方法論は伝統的に得意な筈なんだけど(龍安寺の石庭とか、一輪挿しの花瓶とか)。日本の良さは、今や現地在住の日本人よりも、日本に興味をもってる日本人以外の人の方がよく知ってるかもしれない。

 

直近数メートルの話でいえば

 一気にスパンを短くし、レンズの焦点を直近数メートルに合わせて、さて自分はどうするの?という関連でいえば、ビジネス面では「この商売のやめ時はいつか」です。

 このまま日本の貧困劣化が続けば、いずれは普通の人にとって海外に出ること自体が夢のまた夢になるかもしれない。明治時代に海外留学した人は(漱石、鴎外とか)「洋行帰り」といって、スペースシャトルに乗った宇宙飛行士くらいに英雄視されたけど、ベクトルとしてはそっちに向かっている。もちろんそうなるまでに紆余曲折があって、例えばちょっと前の韓国のように英語が出来ないと就職が覚束ないということで大挙してやってきつつも、やがてリアルタイムの韓国のように、多少英語が出来たくらいでは話にならないという厳しい現実によって逆に減ったりするかもしれない。あるいはアイルランドやイタリアの若者のように、本国がどーしよーもないから仕事を求めて大挙してやってくるとか。しかし、いずれはやってくるためのお金すら貯まらないって事になるかもしれないし、やってきたところでそう簡単に仕事も永住権も取れないという現実に打ちのめされるかもしれない。

 日本は、この世界の流れがなかなか浸透しませんよね。目分量でいえば約20年くらいタイムラグがある感じです。逆にいえば、やっぱり「腐っても鯛」で、世界トレンドが浸透しないくらい自国経済が強かったし、過去の蓄積が途方もなく大きかったってことでしょう。でも、所詮は時間の問題ですけど。

 そして、ドラスティックな転換点である「Xデー」が来るのか来ないのか、来たらどうなるのかって問題があるのですが、こういうのって大地震と同じで実際に来るまではピンとこないのが普通でしょう。地震発生1分前でも、全然実感が無くて当たり前です。だから、話は個々人の想像力、脳内世界になるのです。非常にメンタルの要素が強い、というかメンタルの要素しかない。要するに気分ですね。

 リーマン・ショックがありました、悪夢のように株価が下がってます、有名な企業が倒産しました等の分かりやすい事件があると、メンタル的には危機感や切迫感が高まるから、海外に活路を見出すって方向性にいく人も増えるけど、天災も景気も「喉元過ぎたら〜」になるから、しばらく小康状態が続くと「別にそこまで深刻に思わなくてもいいか」という具合に気分が緩む。もともとやりたくてやってるわけではないので、やらなくても良い言い訳的な素材があるとそれに飛びつく。要するに気分ですよね。

 ということで、ビジネス的な観点で選挙結果とか世相とかみるのは、この種の気分やら深層心理やらです。「気休めに逃げようとしてるかな?」とか、「観念して腹括ったかな?」とか、そのくらいの感じ。しかし、そんなもん元来が漠然としたものであり、正確な観察など望むべくもないです。


 いや〜、今回はまとまりがないままタラタラ書いてしまいました。無駄に長くてすんませんね。いつものことだけど。


文責:田村



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