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今週の一枚(2013/07/01)



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Essay 625:「邪悪なる聖域」 〜Skeleton in the closet


 写真は、雨上がりのNeutral Bay。
 先週のシドニーはうんざりするほど雨ばかりでした。「いい加減にしてくれ」って感じ。

 なんかシドニーは(オーストラリアは)いつも晴れているというイメージを持たれる人が多いのですが、いつも晴れてたら(年間降水量がゼロだったら)砂漠になってます。
 十年以上前の話ですが、8月の31日中で28日くらい雨が降ったのを覚えています。日本の梅雨以上でした。そうかと思うとぜーんぜん降らなくて、ダムの水位がどうのという話になったりする時期もあります。



 ここから一歩も通さない。
 理屈も法律も通さない。
 誰の声も届かない。
 友達も恋人も入れない。
             「月の爆撃機」(THE BLUE HEARTS)

skeleton in the closet〜戸棚の中の白骨死体

 ”skeleton in the closet”(英語の慣用句)
 「誰の戸棚の中にも白骨が眠っている」

 いつも明るくて優しい人気者の○○さん。しかし、誰も知らないけど、彼/彼女の自室には、かつて殺した被害者の白骨死体が隠されていたのでした。そして、○○さんだけではありません。誰の戸棚の中にも白骨はあるのです。もちろんあなたの戸棚にも-------。

 このフレーズは19世紀の英国に生まれたものらしく、当時のクローゼットとは今のトイレの意味らしく、要は白骨死体を隠すのに都合が良い場所という意味らしいです。現在、イギリス英語では'a skeleton in the cupboard'という場合が多く、"closet"はアメリカ英語が多いとか。


 これは怖い言葉ですよね。人間の心のなかにある得体の知れない闇。その不気味さは妙に胸に突き刺さるものがあり、だから一つの成句として人々の口の端にのぼり続け、そして僕の胸にもひっかっかっている。忘れない。

 ここで、「え?白骨死体なんかウチにはないよ」等と大ボケをかます人はいないでしょう。
 言うまでもないけど「スケルトン」は比喩で、要は「絶対に誰にも言えない秘密」「誰にも知られたくない自分の素顔(の一面)」ということです。


 これだけだったら普通の話で、「そーゆーこともあるよね」という感慨めいたもので終わらせるのが普通でしょう。しかし、そこから話をズン!と一歩でも二歩でも進めてみよう、というのが本稿の要旨です。

 あなたの戸棚にある「白骨」、そんなものは「あって当然」である。
 さらに進めて、戸棚に白骨を持つのは権利であり、それは「戸棚白骨権」ともいうべき基本的人権である。
 したがって互いにその白骨聖域を尊重しなければならず、単に「立入禁止」という消極的な意味だけではなく、より積極的に白骨を「防衛する義務」すら負う。
 ここからさらに実践的に派生して、「人は誰でも1日あたり2時間は"行方不明"になる権利を持つ」という「行方不明権」をも提唱したいところです。

 「何をまた馬鹿なことを」とお思いでしょうし、勿論これらの表現は思いっきり奇を衒(てら)って書いてはいるのですが、だがしかし、それは僕の本心でもあります。嘘じゃない。

 もっとありきたりな表現で書くことも出来ます。
 プライベートとかプライバシー、さらに個人の尊厳というものを、もっと真面目に、もっとリアルに、もっと実戦的に考えるべきじゃないのか?ということです。でも、こう書いてしまうと、なんか見慣れた文字ばかりでフックがないのですね。これじゃあ頭に残らないから、ヘンテコな、しかし分かりやすい言い回しをしているのですね。

 ということで、以下、論ずる。

「聖域」は清浄とは限らない、むしろ邪悪ですらある

 大昔に「あなただけの神殿」というエッセイでも書いたように、誰の心にも聖域はあります。

 心の中の中、奥まった中核にある場所。あなたが何を面白いと思い、何を嫌悪し、誰を愛し、どう生きていきたいのか、つまり「あなたとは何か?」を定義づける中枢部分。その部屋で全てが決まる。

 その部屋には誰も入れない。理屈も法律も通さない。誰の声も届かないし、友達も恋人も入れない。まさに冒頭の歌詞のとおり。さすがヒロトだよな、よくわかってるよな。

 それはとても大事な場所です。
 この大事な場所を司祭するための三段階ステップアップ方式としては、

  @まずそういう聖域があることを自覚すること、
  Aそれだけは絶対に死守すること、
  B守るのはそれだけでよく、それ以外はどーでも良いと腹を括ること

 という3点が挙げられると思います。これだけで又沢山書けそうだけど、本題と微妙にずれるので箇条書きのみ。

 それほど大事な場所であるから、イメージとしては天上界の神殿のように不思議な光に満ちた清浄な世界(なにやらギリシャ神話チックな)であるかのように思いがちです。まあ、それも間違ってはいないのだけど、必ずしも清浄とは限らないし、清浄である必然性もない。

 むしろその逆で、いっそ「邪悪」と呼びたくなるような佇まいだったりもするでしょう。秘宝を探すために古代遺跡に忍び込み、王の玄室に入ると、なにやらブキミな蛇を形どったような彫刻があったり、、という。邪悪で禍々(まがまが)しくて、気持ち悪いんだけど、妙に厳かな感じもする、、、そんなものではないかと。

なぜ邪悪なのか?〜原存在だから、野性だから

 なぜ、ことさらに「邪悪」などと物騒な形容をするのか?
 理由はちゃんとあります。

 話は簡単、それが奥まった自我であるほど、野性や本能に近いと思われるからです。

 一個の生命体としての「自分」を考えてみた場合、「自分」という単一のカタマリがごろんと転がってるのではなく、もっとエリア的な広がりを持ち、もっとマダラ模様で、複雑な層構造にもなっていると思われます。

 最もベーシックな層は単なる生命体としての自分です。
 いや「自分」という自我すらもなく、ただの原始的な「生き物」でしょう。生存本能や種族維持本能に支配された純粋な生命体。純粋なだけに、最もケダモノに近く(というかケダモノそのもの)、ただただ喰らい、眠り、犯すだけの存在。「生きる」という自然現象にのみ忠実であり、倫理もヘチマもない。それは、自意識が命じる/命じないに関わらず心臓は動くし、腹も減るし、虫歯は痛くなるし、病気にもなるのと同じく、精神というよりもメカニカルな肉体あり、生命というマシンみたいなものです。マシンに善悪も倫理もない。ただDNAという設計図に基づいて物理的に、生化学的に自然現象が発生し続けているだけ。

 そのメカとしての生命の上に自我が乗っかるわけですが、この自我も複数の構造をもつ。
 最も野性に近い部分に最も根源的な自分が個性が乗っかる。しかし、個性だけだったら、犬猫にもあるし、野生のライオンにもある。それだけだったら社会生活は営めない。強烈な個性を社会的に適合させていく技術も規範がなく、狼少女的な存在だからです。

 したがって、この「荒ぶる自我」をコントロールする統制システムが必要です。それが倫理、規範、文化、宗教、躾、ディシプリン、法律にあたるのでしょう。

 これをフロイト流にいえば、イド(原初生命)+エゴ(原型自我)+スーパーエゴ(超自我)という三位一体式になるのでしょうか(よう知らんけど)。このあたりはなんとでもモデル化出来るのですが、

    野性・本能 → 自我エリア ← 社会規範(お行儀)

 てな感じでしょう。
 片方から野性的な欲求ベクトルがあり、対極からは社会的なお行儀の良さを求めるベクトルが働く。「自我」というのは、この対照的な二つのパワーのせめぎあいの中間エリアに漠然と広がっているのだと思います。暖流と寒流がぶつかるところというか、大陸からの寒気団と太平洋の熱帯低気圧がぶつかっているというか、そこで降ったりやんだり、晴れたり曇ったりというのが僕らの自意識なのでしょう。

 前回、お天気になぞらえて自我・自意識なんか無限にあると書きましたが、自分の中には、より野性に近く、猛々しく欲求を全開にしている自分もいるし、世間の目を気にして「いい子」ちゃんしている自分もいる。それだけだったら「本音と建前」「素顔とペルソナ」というよくある2パターンに収斂されるかもしれないけど、そんなに物事がシンプルな筈がない。この2つの要素にしたってブレンド比率というものがある。それは常に不変なのではなく、どういう局面か×どのタイミングかという他の要素の掛け合わせによってマトリクス的に変化する。

 局面というのは、平常の仕事時においては謹厳にやってるんだけど、一旦パチンコや競馬場などバクチになると人が変わったようにワイルドになるとか、日頃はブイブイ強気でやってるくせに、恋愛局面になると極端に小心者になるとか。それがまた「今日は何もやる気が起きない」「今日は負ける気がしない」とかいう経時的なバイオリズムがある。さらに酒を飲むと変わるとか、空腹になると怒りっぽくなるとか、生理中は人が変わるとか、満月になると変身するとか(^^)、外部要因によっても変わる。かてて加えて誰と一緒にいるかによっても違うし、集団か孤独かによっても変わる。だからもう無限に変化する。

 このように広範囲に分布している「自我現象」ですが、そのなかで最も神殿/聖域らしきエリアはどこか?といえば、やはり根源的な素材部分になるでしょう。外部要素によって変化するのは、一種の化学反応のようなもので「結果」にすぎず、その結果をひきおこす元となる素材はもっと別にあるだろう。それは、外部変化によっても変わらない、生まれながらにして持っている個性部分であろう。自我の中核というのは、多分この原初的な生命の一番の近く、一番奥まったところにあるんだろうな〜と思います。野獣のような生命体に自我という原型個性が乗っかり始める部分。言うならば「生命と魂のボーダー」のあたりです。

 それゆえ自我の中枢(聖域)においては、生命の野獣性の影響を最も受けるだろうし、受けやすい。

 もちろん後天的な事情も中核自我に影響を与えるでしょう。例えば、厳しい躾、洗脳、強烈な体験・トラウマは単なる記憶というレベルを超えて、自我という原石を彫刻のように刻み込んでいくでしょう。物心ついたときから「あなたは武士の子です」と言われつづけたら、武士モデルが自分の魂に刻み込まれ、インストールされ、アイデンティティ化するでしょう。世界観や人生観が変わるくらいショッキングな出来事を体験すれば、自分の中核部分もまた変化するでしょう。

 しかし、そんな中枢部分にまで影響を及ぼすケースはそれほど多くはないだろう。やはり聖域神殿にぬっとつっ立っているのは、本能や野獣性をビリビリ帯びている、禍々しいまでの原型個性でしょう。

 そして、野獣性や本能は、人間世界の倫理や規範の拘束から自由ですから、ときとして邪悪、ときとして犯罪的ですらあります。もっとも本能といっても母性本能や保護欲求など、うるわしいと思われるものもありますから、一概に邪悪なものではないです。それでも、性衝動や、自己保存本能、攻撃本能など物騒&反社会的な本能も多い。気に食わない野郎はぶっ殺しゃいいんだ、気にいった女は力づくで犯せばいいんだ、自分の身を守るためだったらどんな卑怯な手でも使わえばいいんだ、という。

 それが「邪悪」であるとか、「犯罪的」であるとかいうのは、後発的な人間社会の知恵や価値観によっての評価です。それらはあるがままにそうあるだけの話で、別に邪悪になろうとか、邪悪が好きだからやってるわけではない。邪悪かどうかなんか興味が無いでしょう。野性や本能に善も悪もない。それは、犬猫や動物の世界に「犯罪」が観念されないのと同じことです。

抑圧と反発

 神殿の中ではこれら野性の声がよく聞こえる。魔界からぞろぞろ出てきた魔物たちの饗宴のような部分もあることでしょう。それを、いい子ちゃん的に形成している心の警察権力のような自制機構ががっちり抑制する。しかし、それは野性の狼を鎖でつなぐようなものだから、その拘束が強ければ強いほど反発する。牙を剥いてグルルと唸るようになる。

 よく言われるのがエディプス・コンプレックスですよね。男の子は早く強くなっていきり立っている自我を開放したいと思うのだけど、その荒々しい野性を外部社会によって徹底的に調教される。その外圧の象徴が父親で、この父親(外界)からの圧力を何としてもはね除けたいと思う。そこで「父親を殺して、母親を犯す」というギリシャ悲劇のオイディプス王から名付けられたエディプス・コンプレックスが出てくる。ま、これも批判はいろいろあるようですが、その当否ではなく、ここで問題にしたいのは、二つの相反するパワーのせめぎあい(原型自我と外界規範)という構造があるという点です。

 ま、こんな抽象的に言っていても退屈だろうから、具体例をあげます。


 家族、特に親に対する屈折感情は強いといいますよね。
 これが年がら年中取っ組み合いの喧嘩をしている親子だったら、常に発散されているし、それほど深刻ではないだろうし、また深刻だったとしても問題が顕在化しているので対処はしやすい。ヤバイのは問題が顕在化せず、しかも本人がそれを問題だと気づいてすらいない場合、下手したら本心を欺いて素晴らしいことと思い込んでいるような場合。

 仲の良い母と娘がいて、話題も価値観も合うから、友達のように一緒に旅行したりショッピングしたり。若々しいお母さんは、どうすると姉妹のように見えたりもする。仲良きことは美しきかな、ええこっちゃなんですけど、でも本当に友達のようだったら、時には反目しあったり、罵り合ったりという険悪な時間もあって当然。もしそれが不思議に全然ないとするなら、邪悪なまでに荒ぶる自我はどこかで、しかし強烈に抑圧されているかもしれない。

 表面的には、あるいは自意識の浅いレベルでは、お母さんのことが好きだし、尊敬もしているのだけど、実は一皮めくれば殺したいほど憎悪しているってこともあるかもしれない。「私はあんたのオモチャじゃないわよ」「子供の頃から無理やりつきあわせてばっかり」「何よ若作りしちゃって」「ちょっとでも逆らうとキーキーヒステリー起こして」「あんたさえ居なければ」という。別に常にそうだというわけではないですよ。本当に仲が良い場合も沢山あるでしょう。でもそうでない場合もあるでしょう。

 家族のみならず、あらゆる人間関係にあるでしょう。表面上は礼儀正しく、親切にふるまっているんだけど、腹の中は邪悪な想念で満ち満ちているとか。性衝動でも、表向きはお行儀よく振舞ってるけど、妄想の中ではあんなことやこんなこと、とても口では言えないようなこと思っていたり。

邪悪で当たり前、問題はコントロールの方法論

 で、それがどうした?というと、そんなの当たり前、邪悪であって普通、心配することはないよってことです。奥にある自分の、あまりの邪悪さ、あまりの汚さ、あまりの醜悪さに、「ああ、自分ってなんてイヤな人間なんだ!」って自己嫌悪にかられたりすることはない。ま、多少は思うべきかもしれんけど、でも、過剰に悩むことな無い。これは常々書いてますけど、今回は「なぜか」まで書きます。

 「奥の部屋」が、ケダモノ領域と衝立一枚くらいの薄さで接しているのだから、猛々しい野獣の本能の影響を受けたとしても当然過ぎるくらい当然でしょう。野獣は自分の身の安全を脅かすものには全力で牙を向く。だからこそ生き延びられる。自分の心の聖域を土足で入ってきて、自らの尊厳を脅かす奴には、殺したいほど憎んで当たり前でしょ。そもそも野性の獣だったら悩むこともないし、自制どころか間髪入れずに威嚇し、攻撃する。その種の攻撃は、自然界においては「正義」ですらある。だからこそ、それを奨励するため(生命維持を増強するために)、動物には殺戮本能もあるし、殺戮には一定の快感が伴うようにもなっている。

 問題はそれをいかにコントロールするかです。およそ人類古来の文化、規範、法律、宗教、国家社会システムは、人が本来持っている獣性をいかに制御するかの方法論だと言っても良いと思います。キリスト教が、保護者たる西ローマ帝国が滅亡した後、野獣のようなゲルマン社会で生き延びたのは、その野獣性を調教するメソッドとして当のゲルマン統治者にとって有用だと思われたからだといいます。人間の獣性を矯正するには、峻厳な法律よりも宗教の方が効率が良い。

 その調教の方法論には大きく二つあります。
  @人間の醜悪な獣性を敵視し、これを出来る限り減らし、ついには「無い・無くす」ことを目指す方法
  A「ある」という前提で、それを一概に敵視せず、ちゃんと認め、場合によっては一定評価すらし、その上で共存していくという方法
 @とAの違いは、「良い子になれ」と「良い子として振舞え(ふりをしろ)」と言い換えてもよいでしょう。

 自分をそもそも良い子に変えてしまえというのは、それが出来れば良いのかもしれないけど、そんなこと本来的に不可能でしょう。またそれを無理やり押し付ければ、人間の最もエネルギッシュな本能や感性部分を殺すことにもなるし、奥にある自分本来の聖域すらをも封印することになるから却ってよろしくない。「お仕着せの自我」を押し付けられ、それが自分なのだ、自分でなければならないのだと思いこまされても、所詮は大嘘なんだからどっかでキシミが出てきて破綻する。自我分裂したり、自我溶解したり、無気力化したりもするだろう。結果として積もり積もって社会そのものの活力が減退する。

 でも、日本の場合は伝統的に@が強い。特に最近は@が強い。
 前に書いた「罪を憎んで人を憎まず〜 行為者違法と「いい人」ファシズム」と重複するから詳しくは論じませんが、粗野で下劣な言動は咎められなければならないけど、それはマナーやお行儀が悪いからであって、責められるベきは社会技術の拙劣さ、テクニックのヘタクソさであり、人格本体ではない。古来いわれる「罪を憎んで人を憎まず」というのもそーゆーことで、この種の物言いを「甘い」という人もいるが、僕からしたらそっちの方が甘い。人間に対する省察力が甘いと思う。人間なんて、そんなに「良い人」ばかりではない。というか完全に「良い人」なんか一人もいない。皆ダメダメで、皆どっかしら邪悪なのだ。

 それなのに人間をもって「良い人」をスタンダードにし、良い人でないことを「悪」とする幼稚な(敢えてそう言う)世界観でやってたら、世の中どこかで大きく狂ってくる。とどのつまりは、良い人と悪い人の差は、悪い部分を隠すのが上手か下手か、つまりは嘘が巧いか下手かの差になりかねない。実際こういう観念は、古来から庶民間で根強くあるではないか。「裏で何やってるかわかったもんじゃない」という世界観を共有している。

邪悪で当たり前、問題はコントロールの方法論

 エネルギー保存の法則で、いくら「無かったこと」にしようが、この世に発生したエネルギーは消えてなくなることはない。それでもなおも不自然に押し付けるならば、外界の抑圧力が増大するということであり、それに比例して野性の反発エネルギーも増大する。事態はますますヤバくなる。いずれは制御不能な臨界点に達して爆発する。爆発パターンは千差万別で、分かりやすいのはワケのわからない通り魔的犯罪だったり、幼児虐待やDVだったり、陰湿なイジメ行為であったり、読むに耐えない悪意に満ちたネットでのトロール行為だったり、あるいはもっと分かりにくくて個性豊かな方法であったりもするでしょう。いずれにせよ、消えてなくなるわけではない。

 だとしたら人には邪悪な側面もあるのだ、それが普通なのだという大前提から出発し、いかにそれらを発散させて調節するかという方法論の方が良いと思われます。過剰なエネルギーがあって困る時は、無理やり押さえつけるのではなく、いわゆる「ガス抜き」をなすべきでしょう。

 このガス抜きは、古来からいろいろな形で行われています。祭りやら無礼講やらにはじまって、生贄などの残虐な儀式もそうかもしれない。古代ローマで暴君ネロがキリスト教徒をライオンに喰わせ、人々が喜んで見物していたように、大衆には残虐な衝動がある。これを発散、ないし迎合するかのように魔女狩りをやってみたり、異教徒を火あぶりにしたり。武道だって元々は暴力衝動や殺戮欲求であり、それを真正面から認めることで逆に凛冽たる礼法に則らせ、武士道や騎士道にまで昇華させるわけだし。プロレスやボクシングなども、要するに「暴力」なんだけど、もっと洗練させた形で昇華させる。

 アートの世界はさらに激しくて、邪悪なモチーフは幾らでもあります。それを「人間存在の深淵に触れた」とかカッコつけた言い方をするわけだけど、ベースになっている衝動は「うぎゃー!」という混沌エネルギーでしょう。ロックなんかお手軽な邪悪発散音楽であるし、「ぎゃははは、死ね死ね死ね!」みたいな歌詞をオドロオドロしいカッコをして皆で歌って盛り上がるという、他愛ないくらいに分かりやすいです。

 そんな発散方法は幾らでもある。でも、人類に進歩があるとするなら、生贄など理不尽で可哀想な度合をいかに少なくしていくかだと思います。出来りゃあ、笑えるような形にして発散しちゃえばいい。反社会的で犯罪的なことを大声で叫んで、踊って、それでやった気になってスッとして油が抜けるという。

 その意味でいえば人類はそんなに進歩していない。社会に不満が山積していると、どっかにスケープゴートをこしらえて集団リンチのようにいじめ抜く。毀誉褒貶(激しく褒めて、激しく貶める)と言いますが、リアルタイムでいえば今の橋下氏がまさにそうで、散々持ち上げておいてから地に叩きつけるような真似をする。従軍慰安婦の発言なんかいわば付け足しの理屈ではないか。褒貶に何の首尾一貫性もない。これまで多少無茶な発言をしても無茶だから良い、本音の政治家と持ち上げて、旬が過ぎたら無茶を理由に攻撃する。

 いつまでこの種の残虐な祭りをするのだろうか。金権汚職の張本人のように叩かれた田中角栄も、出てきた時は小学校卒の平民宰相として散々持ち上げた。オーストラリアだってポーリン・ハンソンが出てきた時は、その発言の滅茶苦茶さや過激さを「よく言った」「ガッツがある」と持ち上げる人もいたが、末路は哀れなもので、さんざん叩かれ、選挙違反など重箱の隅をつつかれ刑務所にまで送り込まれた。

 それでも特にここ10年くらいの日本はひどい気がする。以前に「小学校の教室みたい」と書いたけど、理屈もへったくれもなく、ほとんど「えんがちょ」の世界で、褒めるのに飽きたら今度はけなす。「次はこいつをいじめようぜ」みたいな気分ノリ一発で話が進んでいる。民主党も最初は救世主のように持ち上げたら、今度は諸悪の根源のように叩き、ちょっと前まで東電を叩く。特にメディアは酷く、商売のために多少迎合するのはまだ大目に見るとしても、迎合どころか率先してその流れを作っている。クラスに一人はいるお調子者の音頭取りのようだ。

 そして、さんざんマス”ゴミ”等と言いながらも、結局はマスコミが用意した話題、その土俵ベクトルでしかモノを考えられないかのような人々もいる。「手のひらを返したように」という言い方があるが、手のひらを返す人を僕は信用しない。気分だけで他者と接する人を信用しろというのが無理だし、気分や感情だけで世界観を作っている人、そういう話題や意見の持ち合わせしかない人とは付き合いたくないです。この種のメンタリティが戦争だの差別だので社会に災厄をもたらすと思う。

 話を戻して、抑圧と反発ですが、この手の反発エネルギーというのは抑圧すればするほど大きくなるし、隠そうとすればするほど利息がついて巨大化します。ちょうど虫歯がズキンズキン痛んで夜も寝れないときのようなものです。その時点では、その痛みは、もう生命や人生そのものくらいの巨大さを持って存在するのだけど、歯医者でポンと抜歯して、小さな白い石片みたいな歯を見せてもらったら、「え、こんな小さい物だったのか?」と改めて思う。こんな小さい物にこんなに悩まされていたのかと。

 邪悪な衝動だって同じ事で、一回吐き出して見れば、「え、こんだけ?」というくらい小さい。実は大した質量をもつものではないことに気づく。

 以上の点からさらに敷衍します。

邪悪エナジー管理メソッド

スケルトンの意識改革

 まずは意識改革。誰の戸棚にもスケルトンはあるのだ。誰でも心の中では(想像上は)一人や二人は殺しているのだ。その意識を徹底し、共有する。

 そんなの人間(生命)が生きていれば当然のことであり、いわば排泄物に似ている。確かにウンコは汚いし、不潔だし、出来ればなかったコトにしたい。食事の席では話題に出すだけでもタブーだし、美人はウンコしないと思いたいし思われたい。でも、する。一人の例外もなくする。しなかったらその方が問題なのだ。そんなことは誰でも知っている。だから、どんな家にもトイレはある。美人が住んでるからといってトイレは作る必要はないよねってもんではない。それと同じ事です

 あまり人前に出したり語ったりするのが好ましくないことでも、人間の実存にとって必要不可欠だったり、問題無用に存在してしまうものは、別に排泄物に限らずいくらでもある。生理だって、セックスだって同じこと。敢えて人前で見せびらかすようなものではないし、なかったコトにしたいんだけど、ある。「ある」という前提で全ての社会の仕組みが回っている。回っているんだけど、あたかも無いようにして過ごす。

 心の中の獣性によって生じるあらゆる感情。嫉妬、敵意、殺意、攻撃、侮蔑、性的劣情、嗜虐、、、、いくらでもある。それらは排泄物と同じくどーしよーもなく「ある」のだから、「ある」という前提にたって、トイレのようにそれを処理する設備やシステムが必要でしょう。

 ここで醜悪な感情を持つこと自体を悪いことであるかのようにするのは、尿意を催すことが「悪」であるとするくらいナンセンスなことだ僕は思う。そして、いくら便意があろうとも、ところ構わず垂れ流されたらたまったものではないから、トイレを作り、下水処理を施す。さらに芳香剤なんか置いたり、音が立たないように杉板や枝を敷いたり、あえてトイレというイメージからかけ離れて上品で豪奢な作りにしたり、より洗練された処理をする。それが文化でしょう。だからそれと同じ事をすれば良いではないか。

精神的なトイレ設備

 ということで、精神的な「邪悪トイレ」みたいなものを作れば良い。
 と言うよりもそれらは既にある。それは下品で野卑な音楽だったり、いわゆる有害図書であったり、イヤらしいAVであったり、カルト的な秘密儀式であったり、、いくらでもある。それらを正面から認めれば良い。といっても、存在することは許すし、むしろ奨励するくらいではあるが(トイレは多いほど良い)、しかし無用に人目につきすぎるのは許さないということです。存在は許すが、存在形態は規制する。

 その意味で有害図書の禁止条例など、当然に僕は反対なのだが、典型的な反対理由である「何が有害であるかの価値判断をめぐっての問題」もさることながら(+自分の価値観が善であるとする人間的な傲慢さ)、「物議を醸すような表現だからこそ良い」という点に本体があります。醜悪だからこそ良い。だがそれは醜悪だけど有害ではない。「有害」というのは、存在そのものを押しつぶそうとすることです。無理やり尿意を我慢させて膀胱炎にさせる行為そのものを言うのだと思う。

 さらにこれを発展させて公衆トイレみたいな邪悪トイレをどんどん設置すれば良い。
 レンタルスペースで、防音完備にして、いくら大声で罵倒としても構わない場所。そこで善男善女がこっそり部屋を借り、日頃の温厚な仮面をかなぐり捨て、「ふざんけじゃねえ、バッキャロー!」と心ゆくまで叫ぶ。喉が枯れてガラガラ声になるまで叫ばせてあげる。出来れば立体ホログラフ技術を使って、罵倒した人間の顔写真をインプットしたら、目の前にその人間が出てくるようにすると効果倍増。オプションで瀬戸物や灰皿などをおいておき、叩き割ったり投げつけたり出来る。

 さらには、ヴァーチャル・リアリティ技術によって、そいつを殴ってみる、蹴ってみる、ひいては銃やナイフで殺してみる。ちゃんとそれなりのリアクションも合成画像でリアルに作る。カラオケボックス改造したらすぐにも出来るでしょう?でも格闘ゲームやシューティングゲームなんか発想は同じでしょうが。ほんでもって、気に食わない奴を何度も何度も殺して、血まみれの肉塊に変えていくうちに、いつしか油が抜けると思うよ。憑き物が落ちるというか、「賢者モード」になると思うぞ。なんか可哀想に思えてきたりして。

 これをやったからといって殺人事件が増えるということは、まず無い。逆に減ると思う。それに減らしたいなら徹底的にリアルにした方がいいです。人を攻撃するというのは、発散と同時に、もの凄いイヤな思いもするのだ。マジで喧嘩したことある人なら分かると思うけど。人間には攻撃欲求もあるけど、同時に和解欲求というか、攻撃したことを強く後悔する気持ちも自然にある。子供の頃にムシャクシャして、ぬいぐるみに八つ当たりして投げつけたり踏みつけたりして、でも興奮が冷めたら「誰がこんな可哀想なことを(自分だ、自分)」と胸を痛めるように。

 さらに延長線を描けば、銃規制の例外で、そこにいけばシューティングレンジのように、本物の拳銃、ひいてはマシンガンですらぶっ放すことが出来るようにする。お金はかかるが、払っても良いという人は多いと思う。バズーカ砲くらいになると、ちょっと設備が広大に要りそうだから難しいかな。でも、一発百万円だったら希望者はいると思うぞ。邪悪(衝動発散)産業。これだけ日本が閉塞ムードだったら有望なビジネスエリアだと思うけどな。

 それでもまだ便意がある貴兄達には、究極の殺し合いフィールドはいかがでしょうか?
 完全防御柵を敷いた完全治外法権エリアを設置し、ジャングルのようにしておく。希望者だけその中に入り、誰彼かまわず殺しても良いことにする。つまり自分も殺されるかもしれないということです。武器制限とか負傷手当とかいろいろな技術的な問題はあるだろうけど、100%ケダモノになっても良い場所を作る。これも戦闘能力に差がありすぎたら問題なので、予めテストを受けて、似たような戦闘力同士の場にする。自衛隊のレンジャー部隊あがりと、運動不足のニート君やストレス溜まりまくりの中間管理職55歳だったら差がありすぎでしょう。

 いやあ、考えただけでも身の毛がよだつけど、同時にヒリヒリしますな。デカい施設にして1時間ほっつき歩いても結局誰にも出会わないくらいの方がいいでしょう。殺しもしないが殺されもしないってことになったとしても、それでも、かなり心のあれこれは燃焼するような気がする。10分くらいなら入ってもいいかも。滅茶苦茶ドキドキするだろうなあ。とりあえず戦争やりたい奴はここで2泊3日しないとイケナイようにするといいです。本物の殺し合いがどんなものだか分かるだろうから。

 これはもう法律改正しないと作れないだろうけど、非合法賭博や非合法の地下リングがあるように、既にどっかの暴力団などがやっててウハウハ儲けているかもしれませんな。構成員の入社試験にもなるし。

 同じように完全フリーセックスの場所を作るとか。100%完全合意で、100%後腐れなしという。これはすでにスワッピングパーティなどであるけど、もっと公衆浴場みたいに気軽に利用できるようにする。ただし、入場するには定期的に検診を受けて性病などにかかってないことの検査は義務付けたり、入場時に徹底的に清潔にしておくことを義務付けるとか、トラブルの場合の完全治安システムとか必要だろうけど、逆に言えばそれを完備すればこれほど安全なところはないことになる。

プライバシーの保護と行方不明権

 これらの邪悪発散メソッドのためには、絶対に必要なひとつの条件があります。
 完全保秘です。プライバシーが100%守られることです。少なくとも当面は絶対に要る。

 そりゃそうですよ、絶対に知られてはいけない戸棚の中のスケルトンなんだもん。カラオケボックスならぬ罵倒ボックスや、ヴァーチャル殺人ボックスに出入りしていることを誰かに知られたり、その取り乱している状況を盗撮されたりしたら、人によっては身の破滅でしょう。

 「当面は」と書いたのは、これがいずれ一般的になって、誰もが普通に通うようになって、「いやあ、昨日ちょっと汗を流してきましてね」「あ、私も先週行って来ましたよ、いいですなあ」とスカッシュのように語れるようになったら、別に秘密にする必要もないだろうけど、当面はそこまでサバけた「良い世の中」にならんだろうから、絶対秘密は守られないとならない。有名人などのパパラッチ被害などもありうる。

 でも、この秘密保持こそが難しいと思うのですね。
 秘密保持のためには、会員の個人情報を漏らした従業員、忍び込んで盗撮したりした人は、もう問答無用で極刑に処するくらいの厳然たる措置が必要でしょう。でもなあ、そこまで出来ないだろうしなあ。それが出来るくらいなら、もうやってるだろうし。それでも個人情報なんかダダ漏れだし。


 そこで思うわけですね。邪悪衝動発散なんて、別に国家社会や企業が面倒見てやらなくても、各人が勝手にやるでしょう。辻々に自然と市が立つように、ホモの皆さんにはハッテン場あるように、"for the people, by the people"です。人間というのはしたたかで、逞しく、皆さん生きていくうちに、それなりに「イケナイことにやり方」くらいは適当に見つけてくるんだと思いますよ。違いますか?

 だとしたら、イケナイことをやってるのを、見て見ぬふりをする優しさこそが大切だろうと。
 そして、ここでもプライバシー保護で、一個の人間がマトモに「社会生活」という仮面をかぶり続けるためには、「どこの誰でもない自分」になれる自由が必要だろう。つまり、1日あたり最低でも2時間(時間はテキトーだけど)くらいは「行方不明」になりたい。誰にもその所在がわからないし、誰にも自分が誰かが分からないという環境が必要だと思います。

 それを相互に認め合えば良いのではないか。
 基本的人権だというのは、「連絡がつかなくて困る」というのも一日○時間までだったら認めなければならない。どんなビジネスだろうが、一定時間までなら行方不明を理由に叱責、勤務評定悪化、減棒、馘首をしてはならない。それではビジネスが出来ないという向きもあろうが、それはビジネスのやり方がヘタクソなだけだと思う。どうしても管理したかったら別途「監視手当」のような追加賃金を弾むとか。

 また、夫婦においても一定時間までなら相手の行方不明を詰ってはいけない。それを破れば離婚理由にされて、慰謝料を払う必要があるようにするとか。

 無茶なようだけど、言いたいのは、他人を監視し、ひどいときには24時間監視できるようにすることが、どれだけ人の精神を荒廃させるかです。

本当の「野性の保護」

 だが、しかし、世の中の趨勢は真逆に向かっている。携帯電話が出てきたときも、「ヤバイな」と思ったけど、一般化する前に日本を脱出できてほっとしてます。もし、前職時代に携帯で追っかけてこられたら発狂してたかもしれない。まあ、発狂は大げさにしても精神健康はまずい方向に向かっていたでしょうね。

 ストレスきついときは、心の平衡を保つために、十分にその反動の時間を取ってやらねばならない。全てを忘れてケダモノになれる時間。別に本当にケダモノにならなくてもいいけど、寸分の隙もなく取り繕っているというのは、途方もなく精神に重圧がかかるから、どこの誰でもない自分になって、ちょっとばかりイケナイこと(必ずしも反社会的とは限らないが)でもしてないと、狂うぞ、マジで。

 ああ、それなのに、世の中のストレスが増大するのに比例して、この監視システム、ケダモノの駆除みたいなことも広がっている。GPSなんかやめたらいいのに。相手の浮気を調べるために、相手の携帯にソフトを仕込むとか、やめたらいいのに。

 スマホどころか、携帯すらもない時代(その前はポケベルというのがあったな)を知ってる世代としては、それでもちゃんとビジネスは出来た。本当に連絡が必要な場合はちゃんと連絡が取れるようにしていたし、また連絡の必要がないように全ての段取りをキチンと整えていた。待ち合わせでも、念には念を入れて地図にシルシをつけて確認した。絶対に遅刻が許されず、しかも遅れても連絡が取れないという前提でやってたから、いい加減な気持ちで歩いて道に迷うなんか無様なこともなかった。また、そういう不測の事態は常にはあったし、契約の日取りも安全係数をかけて余裕をもってやっていたりしたし、人々も不測の事態に慣れていた。やれば出来るのだ。

 恋愛や結婚で相手の浮気が心配でGPS、、とかいうなら、そこまで信用できない人とつきあうのはやめたらいい。無条件で信用できるかどうか、騙されようが、寝首をかかれようが、こいつにやられるんだったら本望だと思えるかどうかでしょう。そんなの人間関係の最低限の信頼だと思う。

 そして、言うまでもなくフィイスブックとかSNSとか出てきたわけだけど、まあ多少の「つきあい」ではやるけど、本気でやろうとは絶対思わない。人には人格や顔が沢山あるように、人間関係だって局面別に違った顔、違った人格、違ったプロフィールで臨みたいのだ。僕自身は実名と実住所を堂々とネットで公開して十数年やってるわ、自宅に週ごとに違う人が泊まって、のべ千人は超えるわで、これほど「別局面」が少ない生活も珍しいとは思うのだけど、そういうことではないのだ。発想の枠組み自体が気に喰わないのだ。

 例えが古くて恐縮だが、タイガーマスクと伊達直人は別人格として別々の局面で社会で接していたいのだ。それをフェイスブックはぶち壊しにする。さらにマイナンバーなんてしゃらくさい制度にして名寄せにしていったら、そういうことが出来なくなるじゃないか。伊達直人のフェイスブックをたどっていたら、タイガーマスクと同一人物なのがもろバレだったらまずいではないか。

 だれだって覆面を被りたいときはあるでしょう。それがひいてはケダモノ的な精神健康に資する。


 心の奥の部屋、野性の雄叫びがこだまする部屋。
 それはいかに邪悪に見えようとも、世間一般の良識とやらから眉をしかめられようとも、それは厳然とした「聖域」なのだと僕は思う。「野性」は保護されねばならない。

 そして、その邪悪なる聖域で一息ついて、ふてぶてしいまでの自我を取り戻し、自分の感性だけを信じて、見えない明日に向かって歩いていくのだ。
 特にこんなに先が見えない時代においては、猛々しくもあり、弱々しくもある自分の原始感性だけが頼りなのだから。


  あれは伝説の爆撃機
  この街もそろそろ危ないぜ

  手掛かりになるのは薄い月明り

  いつでもまっすぐ歩けるか
  湖にドボンかもしれないぜ

  手掛かりになるのは薄い月明り             「月の爆撃機」(THE BLUE HEARTS)



文責:田村



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