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今週の一枚(2013/06/24)



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Essay 624:「解決しない」というやり方


 写真は、Epping。
 寄り添って歩く老夫婦(こっちでは多い)を見て「いいなあ」って思ったので。


 今週はちょっと大人の話です。
 結婚生活を10年くらいやってると、薄々誰でもわかってくるような話。人間を40−50年くらいやってると、なんとなくカンドコロがわかってくるような話です。

 論旨は、タイトル記載のとおり「解決しない/させない」というやり方です。
 世の中には解決しなくても良い場合もあります。
 あるいは、単純に解決させずに敢えて宙ぶらりんにし、そのヤジロベエのようなバランスを逆に推進力にして進んでいった方が良い、てかそうするしかない場合もあります。

 それは例えば結婚生活です。

 結婚生活の歴史はすなわち犬も喰わない夫婦喧嘩の歴史でもあり、夫婦生活の中には地雷がたくさんあります。
 この話題に触れたり、話がこの流れになると雰囲気が険悪になり、最後には「うきゃあ!」という喧嘩になるという。将棋の定石が構築されていくように、一緒にいる時間が長くなると「こう言うと、こう言われ、ああ言い返すと、ああなる」というパターンが見えてくる。お互いに何手も先が読めるようになると、そういう流れになる前にツボを外し、地雷を外すようになります。しかし、常にそのとおりになるものでもないし、いきなりドンと地雷を踏むこともある。仮に踏まなかったとしてもチマチマそういうことを考えているのがまたフラストレーションになって、それが積もり積もって、財形貯蓄の満期返戻金のように一定期間を経過するとドカンと噴火することもあります。

 人それぞれ夫婦それぞれ「ところによっては激しい雷雨」ということで、カップルによっては激しくぶつかります。もう怪獣同士の一騎打ちみたいな、ゴジラ対モスラみたいな。お互い全然口をきかないという日々が続くこともあるでしょう。

 で、どうなるのか?というと、なんとなくほとぼりが冷めた頃に、何事もなかったように「復旧」することもあります。あるとき電話がかかってきて(or こちらからして)、いきなり普通の日常会話が始まる。「あのさ〜、近くのスーパーで○○の安売りやってるんだけど、買っとく?」とか。ゴジラやってるときは「もう別れるしかない!」みたいなノリで口からボーっと火を吹いたりしていたのが、いきなり「ド日常」になる。その間に「やっぱりもっと冷静に話し合おう」もないし、いわゆる「仲直りの儀式」もない。なんの兆候もない。まさに「何事もなかったように」唐突に再開する。なんの前触れもなくパッと灯りがついて停電が復旧するような感じ。

 そして、揉め倒した本来の話題や問題については一切触れない。だから意見対立した問題については、一切解決していません。そんなことは百も承知なんだけど、でもシカトする。つまり「解決しない」という方法論です。無茶苦茶なんだけどかなり使えるし、また多くの人々に使われている。実は意外と理にかなっているのですよ。三手先くらいまで読むなら全然ダメな方法論なんだけど、三〇手先くらい読むと実は意味があるという。

 しかし、かなり複雑だし、ひと通りの人生経験をやってないとわからないので「大人のやり方」という所以です。「平行線は交わらない」というユークリッド幾何学ではなく、「平行線は交わる」という非ユークリッド幾何学みたいな感じ。「空間は、実は歪んでいるのだよ」という。

 これは別に夫婦生活の極意とかいうテーマではないです。そもそもこんなの「極意」でもなんでもないし(ある程度人間やってりゃ誰でも分かるし、やっている)、また夫婦善哉みたいなことを書くつもりもないです。考えてみれば、僕達の周囲はこのパターンでやってることが結構多いです。国際問題なんかほとんどコレでしょう。軍隊と憲法9条しかり、北方領土しかり、中国VS台湾しかり、原発と温暖化しかり。

「解決」とはなにか?


 いきなりですが、「解決」の定義を述べよ。

 なにがどうなると「解決」呼ばれるのか?そのエッセンスはなにか?なぜ解決が好ましいと思われているのか?「解決」ってなあに?

 改まって聞かれると、「それは、つまり、その、解決ってのは、要するに解決することだよ!」くらいの感じで、実はよく分からないという。「ある問題についてケリをつけることだよ」と言ったところで「ケリ」って何?と突っ込まれると、またわからなくなる。

 定義や本質を考える場合、言葉そのものが手がかりになります。

 まずは「解」という漢字ですが、「解決」のほかにも「解答」「分解」「解析」「解釈」「理解」「解放」「解毒」、、、などと使われることから、なんらかのコンセプトが浮かび上がってきます。

 ネットで調べてみると、いろいろな語義があり、
 1、とく、とけること〜 一体化していたものがバラバラになること、バラバラにすること(解剖、分解)。
 2、結び目やシコリをバラバラにすること(和解)
 3、拘束、禁止、役職、責任などを除去すること(解禁、解放、解任)。ひいては「解熱」など。
 4、わかる、さとること。物事を細かく分けて、わかるようになる(理解、解釈、解析)
 5、溶かす(液体=溶解)、あるいは「ほぐす」(髪を整える=とかす)


 ここからエッセンスを抽出するなら、「解」の本質とは

   バラバラにすること

 だと思います。

 だとすれば「解・決」とは「バラバラにして、決めること」になります。

 では、何故、バラして+決めたら「解決」と呼ばれるのか?

 これは多分、問題状況の認識にかかわってくるのでしょう。解決が求められる状態(問題)とは何か?といえば、いろいろな物事(利害、主張など)がゴチャッ!と固まってしまって、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなっている状態、これが「問題」だと。とある門に向かって大群衆が詰めかけて、押し合いへし合いで身動きとれなくなっている状態。ある交差点でそれぞれに突っ込んでくる車両群がいるので大混乱が生じているような状態。つまりは「ゴチャゴチャしている」ことが問題の状況であり、問題の原因でもあるという。

 これをより良い方向に進めていくためには、それぞれのベクトルやパーツを分解整理する必要がある。例えば交差点だったら、まず両立しえない二つの流れがあることを理解する。東西と南北方向を同時に直進させたら交差点内部で衝突事故になる。このように両立しえない二つの部品に「バラす」ことが第一歩になる。そして両立しうる方法を考える。同時は無理なら時間差でやろうと。1分間東西を走らせ、次の1分を南北に走らせる。それを繰り返していば良いと。さらに精巧にするためにパーツを吟味する。東西と南北の車両数を調べてみると大体7対3で東西が多いという結果が出たので、東西を70秒×南北30秒にする。もっと突っ込んで、通勤などの事情によって、時間帯によって逆転するとか、曜日によって違うというのが細かくわかれば、信号の時間差も細かく調整していく。

 そうやって分析して答えが出たとしても、今度はこれを実行しなければ意味がない。「こういう方針でいきまーす」と宣言し、実行する。そこでまた朝令暮改でグラグラしたら再びカオスに逆戻りするから、それ相応に答を「固定」すること、すなわち「決める(そしてそのとおり実行する)」という段取りが不可欠なのでしょう。ゆえに「解」だけでは足りず、「決」も必要であると。

 もっかい言うと、大体僕らの世の中で「問題」と言われているものは、複数の両立しえないパーツがあり、それらが無秩序にゴチャゴチャしていることによって生じている場合が多い。ならばそれらを良い方向に向かわせるためには、複数のパーツを正確に分解することであり(バラすこと=解)であり、それらを改めて組み合わせ、「よし、こういう段取りでいこう」と方針のもとに固定すること(決めること=決)が必要になる。

 なお「解」という語義が多義的なのも、場合に応じて出現パターンが違うだけの話ともいえます。本質は「解きほぐす」ってことで、これはこれ、あれはあれと部品やパーツに分解すること、その一連の過程が「解」であり、それが物質的なニュアンスを持つならば「分解」って感じになり、それが液体的だったら「溶解」に、精神的・概念的なことであれば「解釈」「理解」になるということでしょう。

 以上の次第で、「解決」とは、バラして(解)→吟味&再構成→固定させる(決)ことであり、「解+決」になる。

英語の場合

 ちなみに英語で「解決」をいう場合、"fix"とか"solution"という言い方があります。

 カジュアルな日常会話ではよく "fix" と言いますが、この意味は「固定させる」ということです。グラグラ不安定な状態を固定させ、安定させるということで「修理」などに使われる。例えば、ドアのノブが緩んでキチンと閉まらず、風が吹いたら開いてしまうような状態ならば、ノブの留め具やネジを締め直してカチッと固定する。これが"fix"です。本来あるべき秩序がゆるんでいることが問題であり、これを正しい秩序に再設定し、ギュッギュとネジを締めていく固定感(安定感)が"fix"だとおもいます。

 "solution"は、「溶かす」というのが本来の意味です。シチューに小麦粉を入れたら"ダマ"になって上手く溶けない、これが問題であり、これを溶かすのが「解決」であるという。これから転じて、職場になかなか溶け込めない異物的な一団がいて、このギクシャクが作業効率を悪くしているなら、それぞれの言い分を聞いて理解を深め、うまいこと溶け合わせていくのが「解決」になる。より日本語的に言えば、「心のシコリが溶ける」「わだかまりが溶ける」という溶解感覚ですね。

 それから転じて、うまくいかない難しい状態を「プロフェッショナルな技で上手くいかせる」という意味で、ビジネス・ソリューションとかよく使われます。本社と社員の端末PCとでデーターが食い違っているから面倒な話になるのであって、クラウドをつかって同期を取るといいよという「やり方=溶かし方」を教えてあげるから、利用料や指導料(コンサル料)を頂戴ってことでしょう。学生ビザの健康診断をするメディバンクも、最近では"Medibank Health Solutions"という名前になってます。ソリューション、流行ってますね。

 「解決」という日本語との関連でいえば、"fix"は「決」の部分に重きを置いた言い方であり、"solution"は「解」の語義5(溶かす)に着目した言い方でしょう。fixが物質的・物理的解決だとしたら、solutionは液体的・化学的な解決なのかもしれない。でも、どちらかといえばfixの方が軽いというか、問題はそれほど深刻ではない。クルマや時計の修理のように、専門技術を持っている人だったら、バラしてチェックして組み立てなおせば、「はい、出来上がり」ってニュアンスがあります。でも、ソリューションはもうちょっと化学的な変化で、その過程がもう少し複雑で、目に見えにくく、理解もしにくい。だからより面倒で深刻な問題の解決ってニュアンスがあります。

解決できない

 さて、「解決」にせよ、fixにせよsolutionにせよ、一般的に「良い事」だと思われてますよね。

 ゴチャゴチャな問題状況は分解され、個々のパーツは磨き上げられ、それらが再び正しく組み合わされ、ネジで固定されて安定し、生き生きと物事が進むようになりました〜、めでたしめでたし!という感じ。およそ「解決」とは正しいことであり、良いことであり、僕らは常に「解決」を目指さねばならないのだ、と。いや、一般論としてはそれに異論はないです。

 でもね、でもね、実際に僕らが生きていくなかでは、そんなに何もかもが時計の修理のように綺麗にバラせるわけでもないし、またバラせたところで正しく組み合わされるものでもない。

 時計はいいんです。そういった「修理」的なものというのは「最初に完成形ありき」だから。それが何かの拍子に上手く動かなくなったとしても、完成されていたものがズレているだけだから、また元に戻せば良いだけです。でも、実際の世の中には「最初に完成品ありき」なんてことはないです。

 「最初の頃は良かったんだけどね」とかよく言うけど、その最初の頃が完成形であったという保証もない。まあ、本当に最初の頃が最高で、以後どんどん劣化しているパターンもあるでしょうから「最初に戻る=原点回帰」という方法論は有意義だと思いますよ。でも、だからといって最初が「完成形」と決まったものでもない。てか、およそ「完成形」なんかこの世にないです。あるような気がしていただけ、未完成 or 完成不能であることに気づかなかった、問題が顕在化してなかっただけって場合もあるでしょう。

 このような場合には、「もとの完全体に戻る」ということが出来ないので、「時計の修理的な方法論」では解決不能です。全く新しい組み合わせを発見、開発するしかない。だけど、そんなことが常に&都合よく可能だという保証もない。だから「解決できない」ことも結構多いのではないか。


 ならば、どうしたら良いのか?
 ここで、なんでもかんでも解決すべきであり、解決できないことは基本的に良くないこと、悪いことであるという価値観に立っていると、解決しない/出来ない状態が大きなフラストレーションになります。許せなくなるでしょう。だからなんとかして解決しようとするのだけど、本質的に不可能だったら、もう大変。いたずらに焦って、徒労感ばかりが募り、ひいては絶望感に打ちひしがれることになる。


 「しかしね」と思うのです。
 不可能な事が出来ないのは当たり前の話で、そんなに落ち込まなくてもいいんじゃないの?と。そもそもそれを解決しようというのが間違ってるっつーか、傲慢つーか、別に解決できなくたっていいんじゃないの?出来ないのだったら、「出来ない」という前提で話を進めたほうが生産的ではないの?と。

 具体的な話をします。
 素晴らしい出会いがありました、急速に惹かれ合って、相思相愛ラブラブでした。毎日が光輝いてました!ってのも長くは続かず、やがて不協和音がきしみはじめます。

 一緒に遊んだりデートしたりする局面では波長はバッチリ合います、ファッションセンスも、アートセンスも酷似していて話が合う合う。食べ物の好みも、都会と田舎のバランス感覚も合う。しかし、全てが合うわけではない。あるときに金銭感覚(貯蓄感覚)が決定的に合わないことが顕在化して喧嘩になる。また社会における競争と助け合いのバランス感覚が違うことにも気づく。さらには恋愛観でも一途か多情かの差もあろうし、安定をもってゴールとするか、不安定(刺激)を絶えず求めるかによっても違う。消費や享楽的局面では合うけど、生産とか努力的な局面になるとまるで水と油のように違うとか。

 かくして幸福な日々にかすかなスレ違いが生じ、スレ違いはやがて亀裂となり、亀裂はフォッサ・マグナのような大地溝帯になり、そこで「こんな奴だったのか」と地震が起きて喧嘩になり、さらには「又かよ」「いい加減にしてくれよ」という群発地震になるという。結婚すれば、人生観や生活観の差異がさらにシビアに出てくるし、二人だけで済む話ではなく他の家族との関係も出てくる。親の介護やら子育ての方針等でも食い違う。

 ひどいケースになると北極と南極くらいに食い違ってきて、ほとんど不倶戴天の仇敵のようにすら思えたりもする。しまいには「こいつさえ居なければ」で痴情&家庭内殺人という事件になったりもする。ちなみに殺人事件の大多数は、通り魔のような見知らぬ人の犯行ではなく、顔見知り同士の犯行だといいます。これは意外なようで当たり前の話で、年がら年中接してて感情が蓄積しないと人ひとり殺すパワーなんか生じないでしょう。

 犯罪にまで発展するのはマレだとしても、ある程度の気持ちの変遷は普通にあるでしょう。そして、それは恋の末路とか、悲しい物語とかそーゆーことではなく、とっても普遍的で、とっても当たり前の話だと思います。

 なぜなら、僕が思うに、人間の人格というのは立体的なものだからです。ペラ一枚の平面ではない。一面だけ合っても、他の面が合うかはわからない。というか、全てが合うことはまずありえない。例えばサイコロみたいなものだとしても、ルービックキューブのように、ある一面だけ同じ色で揃ったと喜んでいても、他の5面を見たらバラバラだったりする。しかし別の面を同じ色に統一しようとすると、最初の色がグチャグチャになる。長いこと付き合えば付き合うほど「他の面」が見えてくるし、そこでの色バラバラが気になるし、喧嘩のネタになる。

 しかもルービックキューブは最初に完成形がありますが、実際にはそんなものはない。それどころか、サイコロのような正六面体ではなく、イビツな九面体だったりする。よりリアルに考えれば、自然岩がパカっと割れたかのような、細かく数えたら三九面体とか六七面体のような、何だかよく分からない複雑な形をしていたりするでしょう。それが人間の人格ってものでしょう。

 このあたりは長くなるので別途書くべきなんだろうけど、要は人格とは何か?です。生物学(大脳生理学)、心理学、哲学、宗教、、それぞれにアプローチがあるのでしょうが、現象面でいえば、僕らの自意識の出現パターンでしょう。それはもう自然現象であり、お天気みたいなものだと思います。超大雑把にいえば常夏とツンドラみたいに大分できるけど、細かくみれば同じ地域でも季節によって違うし、日によっても違うし、毎分ごとに雲の形や気温も気圧も違う。超厳密にいえばひとつして同じものはないとも言える。だから人格を一つとするか、無限にあるとするかは数え方次第でしょう。ただ僕の生活実感でいえば、人格=自意識の主要な出現パターン=というのは、一個で常に不変ということはなく、最低でも十数パターン、多くて数十くらいあると思います。

 「人は天使にも悪魔にもなりうる」とかいいますが、これもリアルに言えば、そんな漫画みたいなクッキリ・キャラをしているものでもない。「はあ?」「まあ」くらいの鈍〜い反応の薄らボケッとしているキャラもあるでしょう。それも薄らボケその1、その2、その3とヴァージョンがある。しかも夫婦相互にある。ネーミングし得ない、よく分からないぼややんキャラをお互い数十個持っていて、「今日の対戦カード」みたいな感じで日替わりメニューで変わっていくという。

 人と人が付き合うというのは、そーゆーもんだと僕は思います。それは自然現象と自然現象が付き合うことであり、大陸からの寒気団と太平洋産の湿った低気圧がオホーツクあたりで激突し寒冷前線を作ったり、梅雨前線ができたり、結果として仲良し快晴期間が続いたり、じとじと梅雨のような時期になったり。そんなもんちゃいますか?

 さてさて、こういう全体状況において、では「解決」ってなんなのか?

「むにゃむにゃ」を丸呑みできる器量

 それって、自然に四季があり、砂漠や海があり、火山や珊瑚礁があるようなもので、「解決する」とかいうレベルの問題なんかね?それらはもう、どーしよーもなく「ある」ものであり、まず「ある」というのを丸呑みして受け止めるところから始めないとならないのだと思います。

 しかし、この「丸呑み」が難しい。
 特に若い頃は経験範囲も視野も狭いから、チャチな箱庭みたいなフォーマットで物事をみて、ここが合ってるとか、ここが曲がってて許せないとかいって大騒ぎする。ちょっと俯瞰でみたらアホな判断基準なんだけど、アホな頃は自分がアホだと気づかないから、そのチャチさを潔癖とか純情とか美化して考え、他者を激しく傲慢に裁く。「あんな人だとは思わなかった、絶対許せない」とか。「許す」とか何それ?お前は神様か?って。

 だんだん経験範囲が増えてくると「そーゆーもんか」という全体像がオボロに見えてくる。まあ、見えるといっても蜃気楼とかオーロラレベルだけど、それでも何となく広がりや奥行きは分かるようになる。30センチの竹製モノサシで太平洋の大きさを測るのは「無理だ」ということにも気づく。

 そして、視野が広がった分だけ許容量も広がるから、矛盾を矛盾として丸呑みできる場合が増えてくる。丸呑み出来ればできるほど、本来の構成要素を失わず、そのままの形で保存できる。ナチュラルでオーガニックな状態で受け入れられる。受け入れられる量が小さいと、やっぱり分別処理をするのですね。複雑で形になりにくい「むにゃむにゃ」を切り捨てて、分かりやすい記号化を施し、受け入れられる形にする。しかしその「むにゃむにゃ」にこそ、天然塩のミネラルのような滋味があり栄養素があるのだけど、それを捨てちゃうから美味しくなくなる。人工甘味料みたいな味わいになったり、ふっくら部分が消えてギスギスしてくる。

 コップにどのくらいの量を入れられるか、それがその人の「器量」だと言います。器(うつわ)の量です。器量のデカい人は、他人の喜びも悲しみも、そのどちらでもない「むにゃむにゃ」も、そっくりそのまま受け入れられる。でも、器量の小さい人は、すぐに「ありえない」「許せない」といって弾き出してしまう。自分にとって都合のよいものだけピックアップするから、ナチュラルなバランスも滅茶苦茶になるし、栄養分も破壊されてしまう。結果として上手くいかない。

 この世で最大級に器が広い人(存在)というのは、多分、神とか仏とか言われているものだろうけど、だから彼らはなんでも許し、全てを受け入れるのでしょう。「仏の慈悲は広大無辺」とか言いますもんね。凡人の悲しさで広大無辺に受け入れることなんか出来ないけど、それでも丸呑みできる器量の個人差はある。

 余談ながら、婚活とか就活に関する違和感もここに関連していて、いわゆるスペック処理、記号処理をしてしまう部分がアカンのでしょうね。この世界の滋養分というのは、スペックとしては処理しきれない、非スペック部分にこそある。それが塩化ナトリウムではないミネラル分で、そこにこそ旨味があるんだけど、スペック処理をしてしまうと、それが消えてしまう。

解決できる場合、解決してはいけない場合

 さて、再び問いかけるけど、こういう状況において「解決」って何なのか?です。
 「個別の構成要素にバラして再構成させる」という方法論は通用しない。なにしろ構成要素なんか無限にあるし、バラすにしても何をどうバラしたらいいのかも見当もつかない。

 逆にいえば、そういう解決ができるのは、構成要素が明確で、バラせるくらいの分離可能な、比較的シンプルな問題状況に限られるということです。

 例えば夫婦間で仕事と家事の分担ということで口論になったとして、「じゃあ、水曜日と木曜日の風呂洗いは○○がやる」という取り決めは一応できる。それで解決する場合もあるけど、ぜーんぜん解決になってない場合もある。

 なぜなら構成要素に分解する段階で、無理やり「むにゃむにゃ」を切り捨ててわかりやすい形にしがちであり、そこで問題の本質が分かりやすい方向に歪められる場合もあるからです。いつも仕事が忙しいとこぼしている旦那がいて、奥さんに対して「お前は気楽でいいよな」みたいなニュアンスの物言いをするので奥さんがカチンときて喧嘩になる。で、「わかったわかった、俺も家事を分担しよう、それでいいよな?」みたいな話にもっていかれて、あとは家事分担の割合配分になる。これではどんな話になったところで、奥さんは釈然としないでしょう。大事なのは、自分自身に対する理解の無さ、理解しようとする意欲の無さ、ひいては人格に対する根源的なレスペクトの無さであり、そこが解消されない限りいくら家事を分担されても「解決」にはならない。妙に分担されて「家事を分担してやってる俺はなんていい夫なんだ」と自画自賛的に思われても、亀裂はどんどん深まるばかり。

 かといって、「もっとレスペクトを」という欲求は、なかなか言語化しにくいし、そういう欲求があること自体本人も自覚していない場合もある。だから構成要素として浮上してきにくく、ピックアップもされにくい。仮にそれを言えたとしても、説得的にそれを展開できるほど雄弁な人ばかりではない。だから、むにゃむにゃブツブツという「煮え切らない態度」にしか映らない。でもって「そんな抽象的なことを言ってたって話が進まないだろ?」と一蹴され、「じゃあ月曜日は、、」と事務的に、クリアに話が進む。「はい、これで解決!」と他方は宣言するが、もう一方は全然そんな気がしない。

 これは構成要素がよくわからない、バラしにくいって技術的な問題もありますが、より本質的には、「バラしてはいけない」って部分にあるのではないか。バラすのでもなく、分析するのでもなく、相手をそっくりそのまま丸呑みできるかどうかです。誰でもそうだと思うけど、一人の人間がリアルに生きていけば、そこには「生きていく悲しみ」みたいなものがあると思います。ま、「悲しみ」と言語化した時点で既に違ってしまうのだけど、そこはかとない思い、漠たる影のような感覚があるのだと思う。そういった気持の襞(ひだ)のようなもの、その陰影や凹凸を出来るだけそのままの形で感得(理解ではない)できるかどうか。ありのままに受け入れられる(評価はせずに)かどうかです。デジタル処理したらダメで、日光写真のようにアナログにそのまんま焼き付ける。

 これ滅茶苦茶難しいです。基本的にそれだけ度量の広い人間になるしかない。死ぬほど繊細によく見えるんだけど、途方もなく鈍感に気にしないという相矛盾した特性を持たねばならない。気にしないのは単に鈍感なだけでデリカシーが無いって場合が多いし、逆にデリカシーがある人はビリビリしがちですぐ他人を断罪したがる。この矛盾を統合し、「すごーくよく見えるけど全然気にしない」というのは、一朝一夕の修行では無理っしょ。

 だからこの問題を解決しようとするなら、それぞれに長い長い時間をかけて、お互いに少しづつでも人間的に成長していくしかないんですよね〜。もう気の長〜い話で、かつ道徳の教科書のような、お坊さんの説法のような話にならざるをえない。とてもじゃないけど急場に間に合う話ではない。

 だもんでギャンギャン喧嘩したときは、その喧嘩における相手の怒りや悲しみを、あまり分析しないで、そのまんま胸に刻みこむしかないんだろう。それを自分の心に転写して、心に種を植えつけて、あとはそれを育てていくしかないのだろう。時が来れば分かるようになると。もっとも、その時点では滅茶苦茶腹が立ってるから火も吹くけど、でもそんな事は表面的な現象であって、時が経てば沈静化するし、なんで喧嘩になったのか、そのネタすら忘れてしまう。でも、忘れないのは相手がぶつけてきた怒りや悲しみの深さやありようでしょう。それが何なのかは分からなくても良いっていうか、それが分かるくらいだったら最初から喧嘩になってないです。それが分からない無能な自分が、ここで無理やり分かろうとすれば、また妙な具合に分かりやすくねじ曲げて、つまり必ずや何らかの誤謬を含むだろう。

 だから、妙に解決させない方がいい。解決すれば良いというものでもない。
 世の中、そんな簡単に解決できるようなものばかりではない。

 今は夫婦の話をしたけど、家族とか、長期的な人間関係はこの場合が多いでしょう。
 ティーンエイジャーの頃に、親とあれこれ対立し、ときには壮絶に喧嘩をしたりする。時がたてば何が原因で喧嘩になったのかは忘れてしまうけど、でも、そのときの親の怒りの激しさや、肩を落とし悄然とした悲しみの深さは、そのまま胸に焼き付いていませんか?

 あるいはその逆で、子供を叱りつけた時、その子が唇をぎゅっと噛み締め、目に涙を貯めて見上げたときの悲しくも苛立たしい気持ちというのはダイレクトに親の心に刻みつけられるでしょう。何年たっても忘れるようなものではないでしょう。

 そういった「刻みつけ合い」みたいなもので人間関係が形成されていくというのは、別に珍しい話ではなく、誰でもやってることだと思います。

テクニカルな方法論

 話は一気に変わって、「解決しない方法論」は、政治やビジネスの世界でもよくあります。

 パレスチナ問題も、北アイルランド問題も、あれもこれも本質的には解決しっこない根深い問題が山ほどあります。アメリカだって、インディアンや黒人奴隷にやったことを綺麗サッパリ精算するなんてことはできっこないし、オーストラリアがアボリジニにやったことも同じ。日本がアイヌ民族や琉球民族にやったことも同じだし、スペインやポルトガルが南米でやったこともそうだし、世界中くまなくそうです。

 自分の民族や仲間が殺されたという事実は世界が終わるまで変わらないし、そこが変わらない限り、何らかの形でわだかまりやシコリは残り続ける。だから本当の意味での解決なんかできるわけがない。

 例えば尖閣諸島で揉めまくって遂に戦端が開かれ、大喧嘩になり、十年戦争になり、仮に日本が中国に占領支配されたとします。日本国は解体され、中国の一地方、例えば昔ながらの「蓬莱省」とかなんとか名付けられ、日本語はド田舎方言に貶められ、世代が新しくなるごとに日本語を喋る人も減り、名前も中国風に陳さんとか張さんになっていくとします。そこで僕らは納得するかというと、まあ納得はできないよね。再独立を悲願に掲げ、非合法だろうがゲリラだろうがテロだろうがやるかもしれない。いくら口で何をどう言われようとも、どう賠償金を積まれようとも、いくら平等に扱われようとも、それが「解決」だとは思わないだろう。

 そんな話が世界中のどのエリアにもある。オーストラリアの周囲でも、インドネシアと東チモール、スリランカのタミール問題がある。ヨーロッパなんかそんなことを2000年くらいやり続けているし、国境線も世紀ごとに違っている。それが国際政治でしょう。

 そんな中では白黒ハッキリつけるような解決はありえない。白にしたら黒が黙ってないし、黒にしたら白が怒る。行き着くところはどっちかが皆殺しになるしかないけど、ナチスですらユダヤ人を根絶やしにできなかったんだから、そんなことは不可能。だから白黒解決は不可能。だとしたら絶対に譲れないモノ同士を対立させ、その対立の激しさをもってバランス要素に転嫁させ、さらにそのバランスを動かすことで推進力にするという高等テクニックが用いられます。リニアモーターカーの原理みたいというか、剣豪同士が鍔競り合いして、その力の拮抗によって自然にズザザと横に移動するように。

 例えば日本の憲法9条と自衛隊の関係もそうです。理屈をいえば「戦力放棄」と書いてあり、自衛隊は誰がみても軍隊なんだから憲法違反でしょう。そこを「あれは軍隊ではなく自衛隊だ」という子供だましのレトリックで無理やりいいことにして済ます。

 僕も昔(学生の頃)は、日本人の悪いクセ、なあなあ主義もいい加減にしろとか思ってたけど、だんだんこれって賢いよなって思うようにもなりました。めっちゃくちゃ中途半端で、突っ込みどころ満載なんだけど、それが逆にバランスの妙を持っている。60−70年安保の頃、つまり冷戦が熾烈だった頃は、アメリカとしても日本を反共の防波堤にしたかったでしょうし、軍事力を増強したいだろうけど、あんまり日本政府にあれこれ圧力をかけると、日本人がギャンギャン騒いで、結果として政府が転覆し、共産党政権なんぞが出来てしまったらソ連や中国に取り込まれてしまう。だから、あまり強いことも言えない。適当に譲歩してガス抜きしないとならない。つまり内部のゴタゴタのエネルギーをそのまま外交に利用する。

 また国内的にも、軍事アレルギーや平和主義もあるし、いわゆる現実路線もある。どっちもある。だから白黒つけるような決着をしたら、かえってバランスが悪くなる。だから、白なんだか黒なんだか分からない、白とも言えるし、黒とも言えるようなワケのわからない状態にしておいて、それでバランスを取るという。全然理屈になってないんだけど、でも結果としてそれでバランスが取れてここまで来ている。

 ここで「バランス」というのは、国策方針という意味もあるけど、「興味関心度」という意味もあります。適当にヒマなときは「そういう話が好きな人」があれこれ叫んで普通の人もちょっと引き込まれるけど、いったんオイルショックやら、バブルが弾けたり、景気が良くなったりヤバくなったりすると、「それどころではない!」ってな感じで放ったらかしになる。憲法問題と自分の失業問題とどっちが重要か?といえば、後者であるとする人が多いでしょう。つまりはその程度の重要度であり、興味関心度でしかないのだから、その程度の感じに留めておけば良いというバランスです。興味がないときはほったらかしに出来る程度に留めて、煮詰めない。

 これは日本だけではなく、中国と台湾の関係もそうです。
 台湾政府の公式見解では、今でも彼らの母国である中国本土をならず者達が不法占拠していることになっているのだろうけど、もはや今となってはオトギ話のようなリアリティの無さです。一方中国も、あれだけ貧富の格差がありながらも、それでも「共産主義でーす」という、ほとんど”大嘘”みたいな建前を降ろさない。全然理屈になってないし、理論と実体が全然噛み合っていない。でも、そんなことはどうでもいい、その種の論理的な解決なんか「せんでもいい」「しない方がいい」ってことなのでしょう。多分、言ってることとやってることを一致させると、文化大革命や北朝鮮みたいなことになっちゃうんでしょう。

 そんなことは僕らの周囲に山ほどある。個人レベルでも沢山ある。理屈からいえば断固やるべし!なんだけど、「そうは言ってもねえ」といってウダウダいってやらないことは沢山ある。人間ってそんなもんなんでしょう。

 もっとも、こう書いたからといって、およそ何であろうが解決しないほうが良い、なんて馬鹿なことを言ってるわけじゃないですよ。わかると思うけど。

 バラして→再構築することで解決するようなことは、実際には限られているんだけど、でも無いわけではない。これも沢山ある。そういう手法で解決できることは、手間を惜しまずどんどんやるべきでしょう。ある意味では「解決」というすご〜く「簡単な手法」で物事が良くなるんだから、これをやらない手はない。

 解決という手法でなんとかなること、やれることはきちっとやるべき。でも、解決という手法では何ともならないこと、不可能なことも又あり、それはそれなりに別のやり方があるってことです。





文責:田村



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