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今週の一枚(2013/06/17)


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Essay 623:ガラにもないことやっている

チャランポランで面白主義に回帰すべき

 写真は、過去に何度も出てきているNewtownとCamperdownの境あたりにある公園。
 食のメッカNewtownには食べにいく機会が多く、その際に撮影する写真も多い。これも昨日(06/16日曜日)にランチを食べにいったときの写真。

 いやあ、でも、週末の晴れた午後にこの公園に行くと、いつも犬の天国状態です。嬉しそうに走り回って遊んでます。犬好きな人はどうぞ。癒されますよん。



 「なんだかな〜」と思うようなときは、もしかしてガラにもないことをやっているからかもしれません。
 今の日本人自身がそうだという気がします。これは過去にカタチと角度を変えて何度も書いてます。二番煎じどころか百番煎じくらいなんだけど、でも、これは毎週書いても良いくらいかもしれません。

なぜオーストラリアごときに4倍差もつけられているか

 僕がオーストラリアに来たのは20年近く前で、その頃には日本人の平均給与はオーストラリアの2倍でした。正確な統計をもとにしての数字ではなく、ざっくりとした感覚です。

 永住権を取る前、こちらで働いている日本の弁護士さんに会ったのですが、東大でて司法試験受かって有名な国際法務事務所(渉外事務所)に入って、交換留学のようにこっちに来て、さらにこちらで死ぬほど勉強してシドニー大学出てこちらの司法試験を通って、今の仕事をやっていても、それでも年収230万ちょっととか言ってました。虚脱笑いを浮かべながら、もう日本に帰りますよと言っておられました。

 別の事例では、その数年後、日本の看護師さんがこっちにきて永住権のためにあれこれ就活をやってたのですが、その際、某病院の院長さんと面接していたとき、なにげに日本での給料額を聞かれたら、「なんだと、私の給料よりも高いではないか!」と院長さんに呆れられたという。その方はキャリア十分の婦長さんで、確かにしっかり貰っていたでしょうが、それにしても、です。それが十数年前の話。

 時は流れて2013年、今ではオーストラリアの平均年収が800万とかそのくらいですから、日本の2倍。2分の1から2倍。この20年で4倍差くらいになっている。これはオーストラリアが凄いのではなく(鉱山ブームとかあるけど)、メインの理由は日本が足踏みをしているから、と考えるべきでしょう。これがすなわち「失われた20年」の本質だと思います。何を「失った」のかといえば「本来の未来(現在)」です。失われなかった場合に比べて、僕らは単純にお金だけでも4分の3くらい、年収の3倍くらい損をしているという。過去に損をしただけではなく、今日も明日も損をし続けている。

 まあ「4倍」とかいうのもいい加減で、いわば「腰だめの数字」ってやつですが、大まかなところは外れていないでしょう。

 では、なんでこんな差がついてしまったのか?オーストラリア人はそれほどまでに勤勉で優秀なのか?といえば、ある意味では(家庭や人生、政治参加を大事にするところなど)そうかもしれないけど、こと仕事やビジネスに関していえば日本人よりも勤勉で優秀ってことはないでしょう。特に一般労働者の意欲や水準は、もう「ダメ〜!」って斬って捨てたくなるくらいだったりします。

 なぜ、こんな連中に4倍差をつけられてしまったのか?
 日本人が急激に劣化しまくっているのか?それもあるかもしれないけど、しかし、幾らなんでもこうも短期間に背丈が4分の1になるような変化が起きる筈もない。

 でも、現実はそうだとするなら、やっぱり日本の「なにか」が間違っていると思われます。
 その「なにか」とは何か?ですが、これも構造改革が進まないとか、規制緩和がどうのとか、島国根性だからグローバリズムに遅れているとか色々あるのでしょうけど、「それにしても」と思います。仮にこれらが原因だとしても、じゃあなんで構造改革が進まないのか?じゃあ20年前までガンガン構造改革が進んでいたのか?というと、これも疑問なんですよね。

 そこで、冒頭の話になるのです。
 なんでこうもぱっとしないのか?ですが、やっぱり「ガラにもないことやってるから」ではないかと。
 もともと向いてないこと、やりたくないこと、生理的に合わないことをやってるから、効率も当然悪くなっているのではないか。あたかも熊に編み物をさせているような。

 疑問はさらに続きます。
 仮に「ガラにもないことをやっている」のだとしたら、何故そんなことをやっているのか?
 おそらくは、何らかの理由(誰かの陰謀とかなりゆきとか)でそう仕向けられている。そしてそれに抵抗しないのは、自分自身もそう思い込んでいるというアイデンティティのミスマッチというか、自己認識が間違っているのでしょう。自分自身を誤解している。本来の自分ではない人格を自分だと思い込んでいるからではないか。

 そしてこれは日本経済なんてデカイ話だけではなく、僕らの日常においてもよくある話だと思います。
 と、抽象的に言っていても仕方ないので、以下、多少の具体例を挙げます。

日本人の面白主義

 日本人というのは--------
 規律を好み、細かいところまでキチンとしてないと気が済まず、小市民的にチマチマして、大博打を打つようなチャレンジングなことを好まず、また得意でもなく、「安心」や「安全」が大好きで、とにかく保証や安定を好み、それがないと不安になり、同じ事をコツコツとやるのは得意だけど、創意工夫は苦手で、特に対人関係においてはそうで、同じ仲間と波風立てずじっと我慢して偽りの平和を維持するのは得意だけど、メンチ切って本音で大喧嘩するのは苦手で、和を尊び、チームプレイが得意で、、、などなどの自画像があります。
 個々については様々な表現の方法があると思うけど、大まかな東西南北のベクトルでいえば、こんな感じです。

 でも、本当にそうか?です。

 過去に散々書いたことなので繰り返すのも気がひけるのですが、本当は真逆なのではないか?少なくとも真逆な性格の日本人も無視できないくらいの割合でいるのではないか?です。

実はちゃらんぽらん

 真逆というのは、日本人(僕ら)というのが、元来がちゃらんぽらんで、いい加減で、キチンとしていることの気持ちよさといい加減であることの自由さを比べたら、おおむね後者(自由)を好む。ただし、ちゃらんぽらんであることそれ自体に価値があるのではなく、日本人の価値観の本質は「面白いかどうか」なのだと思います。面白いものを好き勝手に追求するためには、ある程度のフリーハンド/自由さが必要です。その自由を得るための「いい加減さ」という意味で、それを好む。いい加減であることを後ろめたく思うのではなく、むしろそれを自由裁量の広さとして好む。

 簡単な証拠。僕ら日本人は「テキトー」って言葉をよく使います。本来の語義である「適当=適切にして妥当」という意味ではなく、「ああ、もう、そのへんはテキトーでいいから」等と逆の意味に使う。つまり「いい加減に」「そんなに細部にわたって精確でなくても大体合ってればそれで良い」「(場合によっては)かなり間違っててもカタチだけそれっぽかったらOK」という真逆の意味に使っているではないですか?こんなチャランポランな言葉を平気で日常で使っている人々なんですよ〜、僕らは。

 証拠その2。国民的映画になった「寅さん」にせよ、長嶋監督にせよ、日本人の好感度の高い人は、「自由奔放」「天衣無縫」、つまりは「いい加減」という系統の人が多い。寅さんなんて、住所不定無職(香具師ではあるのだが)であって、就職できないとかエスカレーターから外れただけで人生終末感を抱くという日本人の世間通念からしたら死刑相当の人間像であり、また長嶋監督にしたって、あれだけ空気を読めない/読む気がない人も珍しい。本来なら蛇蝎のように嫌われて当然なのだが、しかし、とっても人気があるのはなぜか?

絶対原理からの自由

 日本人が無神論者で、絶対原理とか絶対価値観という絶対世界観を持たないのも同じことだと思います。「面白い」ということは、その時々の感情の揺れ動きの妙にあるのであり、同じものでも面白いと感じるときもあれば、詰まらないと感じるときもある。流動的な機微がなによりも大切なので、絶対原理のように何もかも固めてしまったら面白さは活きにくい。だから絶対原理にこだわらない。

 例えば、尊皇攘夷!とか言いながら突如として全面開国!西洋化を始める。それまでの全ての価値観と文化様式をかなぐり捨ててでも西欧化を試みたのは、明治政府は当然、実利と合理性を考えてやったんだろうけど、そんなのあの時期の庶民が深く理解できるべくもない。では、なぜ一般庶民が従ったのか?といえば、「面白かったから」でしょう。西欧化を「面白い」と感じ、生理的に受け入れることが出来た。でなきゃ、あんな人格文化の全崩壊みたいなことができるわけがない。昨日まで「四つ足は不浄」とか言ってたくせに一夜明けたらモグモグ牛鍋を食うわ、ヘアスタイルもチョンマゲからザンギリ頭にするわ。服飾と食生活はかなり保守性の強い分野で、普通そんなことありえないでしょう。あなたは明日からチョンマゲで生きていくことができますか?

 普通は受け入れられない大変化をなぜか受け入れているのは、やっぱりそこに快感があったのでしょう。ポジティブな理由がなければ人間こうは変わらない。イヤイヤ我慢してたらこうは出来ない。お国のために泣く泣く髷を切り、牛鍋やライスカレーを食べ、陸蒸気(汽車)に乗っていたわけではない。「面白いから」やっていたのだと思われます。

 つまり、面白かったら従来の価値観など古靴のように平気で捨てる。捨てられる。気にしない。そんな節操のないことは普通の人間にはできない。だから、古靴を捨てきれず大事にとっていた中国や韓国は、日本のように思い切った明治維新ができず、近代化もままならず、植民地支配されてしまった。儒教という「原理」が強かったからでしょう。中韓に限らず世界中の殆どの国がそうです。西欧列強が示す近代文明の何たるかを、従来のローカル原理概念に縛られず、本質的、そして生理的に理解できたのは日本人だけかもしれない。そのくらい原理による思考拘束が少ない。

 これは、ある意味では天才的な資質と褒めちぎってもいいくらいです。
 戦後期の織田信長がその天才資質の筆頭に来るのだけど(地球が丸いということを即座に理解したり)、信長がやろうとしたことを周囲の人間も理解出来たわけであり、誰もが信長的資質を持っていたということでしょう。あの時代に、あれだけの財力を傾けて鉄砲を調達し、「飛び道具は卑怯」という従来の概念に目もくれずに戦術的に活用する。米経済社会に貨幣経済原理や市場の本質を理解して導入する。歴史を一気に数世紀ジャンプするような発想の飛躍と天才性を、しかし周囲の日本人もまた理解できている。完璧に信長クラスに理解できたわけではないだろうが、少なくとも死に物狂いで抵抗した人々ばかりではなかった。庶民は、楽市楽座のコンセプト(座という中世権力の解体と規制緩和)を速やかに理解し、活用した。

 戦後についても、昨日まで「鬼畜」の米英だったのに、一夜明けたらアメリカ万歳になっている。さっきまで精神主義全開だったのに、あっという間に物質・物量主義に転向している。それらの変化は、政治経済的にはいろいろな説明があるでしょうが、問題は一般庶民である僕らがそれにそんなに抵抗感を示さなかったことです。神様だと信じていた天皇が「実は人間でした」なんて言われたら、普通の宗教の信者だったら世界観の崩壊に匹敵し、自殺なり精神に変調をきたすでしょう。イスラム教徒に「実はコーランは全部嘘なんだよ」と言ったら発狂するか、死ぬまで信じないでしょう。でも、終戦によって発狂したり自殺した日本人は、(もしかして記録から抹殺されているのかもしれないけど)少なそうです。あっさり飲み込んでいる。今日から太陽は西から出ますと言われても、「あっそう」くらいに受け止めている。世界観が崩壊してもあまり気にしていない。

 なぜか?ど−でもいいんでしょう、そんな原理主義、そんな大価値観世界なんか。それよりも、面白いか/面白くないかです。

キチンとしているのではなく、凝り性/遊びたがりだから

 日本人がキチンとしている、細かいところまで配慮が行き届いているというのは、それが「正しいこと」だからではなく、「面白いから」だと思います。

 なんでキチンとしていると面白いのかといえば、そこには自分の能力を最大限発揮する快感があるからだと思います。日本では、どんな下っ端の労働者であろうとも、どんなペーペーのサラリーマンやバイト君であろうとも、職場については「こうした方が良い」という意見があり、「我が社は間違ってる」という意見が言える。そんなの時給仕事やペーペーに関係ないから、世界一般では考えない。考えるべきは「いかに手を抜いて給料をゲットするか」という点に集中する。日本人は頼まれもしないのに、給料が増えるわけでもないのに、職場や仕事のやり方についての改善点を考える。そして改善されないとフラストレーションを抱く。

 それを日本人の勤勉さや真面目さのためと説明されているけど、僕が思うに「面白い」「気持ちいい」からだと思います。別に勤勉だからそうしているのではなく、無駄や非効率なことを延々やってると退屈だし、馬鹿馬鹿しいし、つまらないからでしょう。

 そもそも日本人が「勤勉」だというのも嘘くさい話で、こんなに選挙に行かない国民のどこが勤勉なんだ?こんなにダイエットや禁煙に失敗している人々の何が真面目なんだ?って気もしますね。そして、地味にシコシコやらないと絶対に上達しない英語が先進国中ダントツに下手だという(下手仲間の韓国に水を開けられているし)のは、地味にシコシコやるのが下手くそであるということです。つまり勤勉という価値観だけだったら日本人は動かない。少なくとも自発的には動かない。しかし、そこにそれをやる理由=面白さ=があれば幾らでもやる。面白くなかったらやらない。

 要するにムラッ気があるというか、面白いと思えばとことんやるけど、思わなかったら全然やらない。
 これが出方によっては、ちゃらんぽらんでいい加減になったり、出方によっては勤勉で真面目に映ったりもする。しかし、そんなのは影絵みたいなもので、本質ではないと僕は思う。

 「職人気質」というものがあります。江戸時代の大工の神様・左甚五郎は木材の組み合わさる部分、つまりは絶対にひと目につかない部分にも見事な彫刻を彫ったといいますが、それって無駄といえば無駄の極致で、労働集約性や生産性の観点でいえば「サボっている」といってもいいくらいです。でも日本人はそういうのを「さすが名人」といって好む。なぜか?面白いからでしょう。

 日本人が細かい仕事をきっちりやってるというのも、一般市民や労働者の裁量範囲が本来的に狭いから、そこで面白く何かをやろうと頑張ってると、自然と「細かい」仕事が完璧のように見えるだけでしょう。細かいとか大きいとかいうサイズは本来の問題ではない。

 ご祝儀の福沢諭吉の顔の向きを合わせるのも、「そこに何か工夫の余地があるから」です。何かの改善可能性があり、それをできる能力と時間があったら、ついやってしまう。それは改善、キチンとという善的価値だと解釈されがちだけど、でもそうやって何らかの改良的なこと=「いじくること」=に変化や快感、ひいては自己実現を感じ、面白さを感じるからでしょう。だから、誰かが単にピン札で顔の向きが同じだけではなく、番号がつながってる方がもっとレアで面白いと思ったら、せめて番号の若い順に並べるとか、そういうこともやるかもしれない。

 本質的には効率とか改良とか価値増大とかどうでもいいのだ。結果的に効率性向上につながる場合もあるし、全然つながらない場合もある。たまたま「効率を上昇させましょうゲーム」として成立し、そこに面白さを感じたからやってるだけで、効率的には逆効果でもそこに面白味を感じたらやってしまう。これは過去に「Essay85:日本の高コスト構造」「Essay86:チャントリズム」で書いたことがあります。7時のニュースが7時ジャストに始まるという技術的段取り的に難しいことに「燃える」という。結果としてものすごい無駄遣いをして、予算の効率的運用を阻んでいる。

 「創意工夫」というのは、言葉を変えたら「遊び」です。自分で考えて自分で実行して何事かが変わると面白いと感じる、それを遊びというのでしょう。だから日本人がヒマにしてて手に紙片があったら、つい折り鶴を折ってしまう。割り箸の箸袋も、くしゃくしゃにして捨てるのではなく、器用に折りたたんで即席の箸置きを作る。ストローの紙袋に水を垂らして、、、など、ちょっとでも機会があったら遊ぶのだ。それを「きちんとしてる」とか「細かい仕事を器用にこなす」という捉えられ方をしているだけなのだと思う。

アンチ保守の冒険主義者

 日本人は本来的にアンチ保守的で、チャレンジングな冒険主義者だと思います。なぜなら、そっちの方が面白いからです。面白かったら命がけでやる。

 だいたい、古来こんな海の向こうの離島にやってこようという人間たちの末裔なんだから、保守的であるはずがないでしょう。日本民族は南方、北方、大陸、ツングース、いろいろな民族の混交民族だといいますが、どこから来るにしても大海原を通ってこないとならない。当時の粗末な造船技術と航海術からすれば、命がけどころか「自殺行為」に近かったでしょう。ずっと後の時代の遣隋使も遣唐使船もボンボン沈んでいるし、あの世界史最強軍隊のモンゴル軍(元)ですら玄界灘で全滅しているくらいです。その数万年前だったら「普通死ぬよな」くらいの大イベントで、今に例えれば(なんの保証もなく)「火星に移住する」くらいの冒険度だったでしょう。そんな馬鹿なことをやって成功した人々の末裔が僕らであり、そういう出自からしたら、僕らは全員、大博打野郎の子孫です。リスク大好き、面白かったら死んでもいい、面白くないなら死んだほうがマシ、くらいのイケイケ民族。

 で、「ガラにもないこと」というのは「詰まらないことを価値あること錯覚してやっている」状態のことであり、さらに自己誤認というのは、自分は「面白主義者ではない」という部分です。勤勉実直、小心翼翼、がっちり守りに入るのは、本質的に面白くないです。昨日も明日も同じような日々が続くわけで、それが平和だ、それが大事なことだ、それが正しいことだからやってるわけですけど、それは確かにそうなんだけど、日本人というのは正しいだけでは動かない。燃えない。正しいかどうかよりも面白いかどうかでしょう。

実は集団行動よりも個人技が好き

 チームワークが得意というのも怪しいもので、本当は個人技のほうが好きではないのか?
 大体、チームワークが得意だったら、なんでこんなに人間関係に悩む人が多いのだ?「得意」なんでしょう?

 日本の伝統文化や芸能というのは集団で大輪の花を開かせるというよりは、孤独にシコシコ極めていく系が多いです。剣術などは最たるものでしょう。戦国期以降、鉄砲大砲の軍事トレンドからすれば、刀や槍を振り回していてもしょうがない。にもかかわらず、宮本武蔵をはじめ、戦国期が終わった頃に剣術家が大挙して出てくる。本来だったら、ナポレオンのような砲兵術などが流行ってもよさそうなのだけど、あえて孤独に個人技を磨く。

 今ではサッカーやソフトボールも強くなったけど、もともと日本選手の強い種目は個人技が多い。水泳にしても、マラソンにしても、体操、そして柔道。野球のほうがサッカーよりも先に馴染んだのも、野球は集団プレイよりも個人技の色彩が濃いからでしょう。ピッチャーVSバッターという、まるで相撲のような個対個の局面が多い。しかも剣豪同士の試合のように、十分にインターバルをとって、睨み合って、「いざ」という感じで対決するのを好む。集団であっちにドドド、こっちにドドドというよりも馴染みやすい。個が立ってる方が分かりやすいと感じる。

 ついでに述べておくと、サムライ文化があるように、あんまり平和主義ではない。それどころか、世界的にも有名な格闘技が日本には異様に多い。柔道、剣道、合気道、相撲、古武道、、、に始まって、ボクシングでも世界チャンピオンを何人も出しているし、プロレスもすぐに流行るし、さらに時代の流れによって分岐するし、ヴァーリ・トゥードが入ってきたら即座に対応だし、もう格闘技王国だといってもいい。尚武の国。これも、個人技を磨き上げていくことに面白みを感じるからだと思います。

 技芸やアートについても、そりゃ盆踊りも能楽、歌舞伎、連歌、野点、園遊会など集団行動もあるんだけど、俳句、和歌、生花など個人的な創作活動も盛ん。茶の湯も一見ワイワイ系ながらも、基本は二人だけで、狭いところに引きこもり、そこでの小宇宙の完成度を高めることを好む。集団なるがゆえの華やぎよりも、孤高と深淵の極みを好む。

 一番いい例が、ヨーロッパあるいは中国王朝のような宮廷文化やパーティ文化が少ないことです。平安貴族は結構やってたみたいだけど、あとはボチボチでしょ。酒盛りや宴会は幾らでもあるけど、パーティ文化とかソーシャルな文化は少ない。○○伯爵夫人とハンサムな騎兵大尉がどうしたという話はヨーロッパにはあっただろうが、日本ではないかも。大名夫人はそんなところに出ないし、出てもどっかの家中の若侍とどうなったという話になりっこない。接点がない。だから僕ら日本人は、未だにパーティとかソーシャルがどっかしら苦手。明治時代に急造で鹿鳴館とか作ったけど、周囲の日本文化から浮きまくってたと思いますよ。

 仕事だって、大工にせよ板前にせよ、いかにして個人技を磨いていくかであり、丁稚→番頭→暖簾分けという、最初からリクルート社みたいに起業志向だし。農業は集団でやるといいながらも、皆で共同の田んぼを耕すというよりは、個々人の田んぼや、耕作権(小作)が分別されていた。コルホーズみたいな集団農業ではない。

 だから本当に集団行動が得意なの?やりたいの?無理やりそう思わされてない?って気がするのですよ。

 紙幅の関係でこのくらいにしておきますが、さらに興味のある人は、Essay577:「お勉強」的方法論の後半に書いた「仕組まれた日本人論とお勉強症候群」をご参照ください。

失われた20年は何故失われたか?

 さて、失われた20年といいますが、そこで突然変異のように失われたのではなく、失われる土壌はそれ以前から十分にあったのだと思います。多分高度成長くらいまでは良かったんだけど、それ以後です。70年以降の20年に「失われるべき土壌」ができてきて、それが不幸なことに実っていったのが90年台以降でしょう。

 そもそもなんで高度成長したのか?ですが、これは種々の観点から語れますが(東西冷戦という歴史段階とか)、一般庶民である僕らのレベルで言えば、かなり自由で面白い時代だったからでしょう。

 戦後の混乱などはラフでワイルドだったけど、そこには今にはない自由があった。ソニー、松下、ホンダの創業時代、あの圧倒的なアメリカ物量の象徴のようなGE(ゼネラル・エレクトリック社)やGM(ゼネラル・モーター社)に勝てるはずがない、猿真似もいいかげんにしろと冷ややかな目で見られていたといいます。だから造船や鉄鋼、銀行のように国家が箱入り娘的に面倒を見た護送船団方式から家電と自動車業界は外れた。しかし、それが良かった。口やかましい政府や財界にあれこれ言われることなく、「国産車を作る夢」「F1で勝つ夢」「電化生活の夢」という酔狂なことが出来た。それは、僕らのご先祖さん達がやってきた「普通死ぬでしょ」系の「ロマンティックな暴挙」であり、それがゆえに燃えられたのでしょう。

 ところが70年台で一息ついてからは、世界制覇に向けて戦いは佳境に入りつつも、創業時代のように破天荒で冒険的な燃焼は徐々に減り、まったりしていったのでしょうね。それでもそこそこ重大な課題は出てきました。一つは公害問題。これで環境に配慮して生産をするというキツいハンデが生じた。また2回のオイルショックで省エネ課題という制約が生じた。つまりいい感じで適当にピンチになって、燃える課題が出てきた。そしてバブルになり、今までやったことがない投資ギャンブルに燃えた。で、失敗した。そして、やることが無くなった。

 日本人が一番燃えるのはゼロからリセットでしょう。リセットボタンを押して完璧ゼロにして、そこからゲームを始めるのが一番自由で一番燃える。明治維新しかり、敗戦後しかり。なぜ燃えるかといえば、そこには広大な自由があるからであり、原っぱで遊ぶ子どもたちのように思いっきり創意工夫(=遊び)をすることが出来るからでしょう。

 その意味でいえば、バブルが崩壊した時点で大リセットをかけるべきだったのでしょう。ノンバンクや住専問題が起き、さらに本体である銀行が死に体になったときに、全部潰せばよかったのだ。三菱だろうが住友だろうが全部倒産させたら良かった。しかしその頃には、もうそれが出来なかった。あの頃、自民党政権が終わって細川政権になり、日本でも何かが起きそうな予感があったり、結構僕らも燃えていた。でも、結局肩透かしで終わってしまい、税金使って事なきをえるというしょーもない収束の仕方になった。面白主義的にいえば、最悪の方向に向かっていってしまった。まあ、保守的にいえば最善の方向なのかもしれないけど。

 僕がオーストラリアに来たのもこの頃で、「あ、こらアカンわ」と見限ったのもこの時期です。正確に言葉として表現できたわけではないけど、あえて暴挙を断行して面白い方向に向かうというメンタルの強さが無くなってるとは感じた。直感的に「詰まんなくなりそうだな」と思った。

 では、何故、そこで本来の面白主義に回帰できなかったのか?といえば、もうその時点でアイデンティティを誤解していたのでしょう。冒険主義が途方もない暴挙に思え、自分達には「到底そんなことは出来ない」と思い込んでしまっていた。そんなことは無いにもかかわらず、自分らの強さとしたたかさを忘れてしまった。

 そうなったのは、それに先立つ「失うための準備の20年」だと思います。上に述べたように、オイルショックとか環境とかテキトーに面白い課題があるから、それにかまけているうちに、より抜本的で革命的な面白さに向かわなかった20年です。ドンジリからたちあげて、追いつけ追い越せでデッドヒートを展開するのは楽しい。しかし起動に乗ってしまってからは、往年の面白さは減衰する。だから、その時点で、これまで積み上げたものを惜しげもなく叩き壊し、まったく違った次元の面白さを開発すべきだったのにそれを怠った。叩き壊すのが惜しくなって守りに入ってしまった。人間、守りに入ったら、遅かれ早かれもう終わりですわ。

 そして、「勤勉だから」「真面目だから」経済成長したのだという、「誤った」状況認識と自己認識が広まってしまっていて、今更収拾がつかなくなっていった。

 ぶっちゃけ何故日本が成長したのかといえば、もう「面白がり屋」「遊び好きだから」といった方が近いと思う。極論なんだけど、イノベーションといい、革新的といい、いい意味で「遊び」の要素がなければ無理でしょ。従来の発想の延長線上にあるような微温的な改革だったら、イノベーティブでもなんでもない。聞いたら誰もが「げ!」とのけぞるくらいの発想の飛躍があってこその革新でしょう。なんでそんなアホなことを思いつけるの?なんで出来るの?といえば、その根底にあるのは「面白いから」ってモチベーションが一番強いと思う。「こうなったらすげーだろうなあ!」って子供のような、アホみたいなモチベーション。面白がらなければ、夢を見なければバクチは打てない。

 そして飛躍というのは、その本質においてバクチなのだと思う。成功保証なんか求めていたら飛躍は出来ないもん。「必要だから」とかいう合理的で「地続きな発想」だけだったら人間は翔べません。だって成功する保証はないし、失敗する確率のほうが高いんだもん。「それでもやる!」というのは、「つまらなく成功するくらいだったら、面白く失敗したほうがマシ」という「荒ぶる価値観」が根底になければならず、それがすなわち日本人お得意の面白主義だと思うのです。

 しかし、その本来の自分らの持ち味を見失ってしまったのでしょう。
 「安全、安心、効率」は戦後日本人の宗教みたいなものだと言われますが、これほど日本人の本質に向いていないベクトルもないです。安全だったら面白くないし、安心だったらワクワク感はないし、効率考えてたら面白いことは出来ない。面白さの本質は「酔狂」にあるのであって、「なんでまたそんな馬鹿なことをわざわざ」というのが面白さにつながる。

 ということで、失われた20年からこっち、この滅茶苦茶向いてないことを延々とやり続けている。もう賞味期限も切れまくった昔の方法論を後生大事に抱えている。そんなことやってれば日毎一日社会は詰まらなくなっっていくし、ガラにもないことやってる度数は日々高まってくる。

 そりゃあ鬱が国民病になるわけですよ。もし本当にそれが日本人の精神生理に合ってるんだったら、この20年で日本人の精神健康はメキメキ増強していなければならない筈です。おまけにアレルギーもアトピーもどんどん増えてきている。アレルギーって、警報装置の誤作動のように、風が吹いただけで過敏に反応してビービー鳴ってるようなものでしょ。つまりは身体が外部環境や世界を正しく認識できていないか、防衛機構が狂っているわけでしょ。よっぽど長い時間「身体(心)に悪い」ことやってないと、こうはならないと思うぞ。どんだけ身体に悪いこと(ガラにもないこと)をやってるんだ?という。

 一般に、僕も含めて上の世代の方がメンタルもこの種の身体状態も強いけど、それは何故かといえば、一つには、好き勝手にワガママに遊んでた時間が長かったからでしょう。身体に合ってる時間が長かった。逆に言えば、ガラにもないことやってる時間が短かった。一般に上の世代になればなるほど栄養状態も悪かったし、騒がれる前に公害や食品添加物がたっぷり入った有害物質を食べてるはずなんだけど、それでも尚も強いのは、今に比べれば、ワガママ言えて生理的に気持ちいい時間が長かったからではないかしらん。

 それはともかく、70−90年台に少しづつ日本は病んでいったのでしょう。冒険主義的ビジネスではなくチマチマした点取ビジネスに向かうから、チマチマした点取技術である受験がもてはやされた。だから受験戦争が激化し、家庭は崩壊し、親子で金属バットで殺しあうような事件も起きたし、落ちこぼれや校内暴力も起きた。鬱という言葉はまだ一般的ではなかったけど、最初はノイローゼという言葉、次にストレスという耳慣れない外来語が日本語になった。まあ、「風邪のひきかけ」みたいな時期だったのでしょうね。

では、どうするか?


 こと日本に関していえば、早くリセットして面白くするしかないし、ゼロになったらまた皆が燃えるのは見えてるんだけど、でも、それを現状でできるとは思いがたいです。なんせ、これだけ複雑に利権構造がからまってしまったら、富士山噴火+東海大地震+北朝鮮の核兵器投下が同時に起きるくらいのことがないと変わらないでしょう。それでも足りるかどうか、です。

 だから国家や社会が変わるのを悠長に待ってたってしょうがないと僕は思います。「百年河清を待つ」という言葉があるけど、「上からの改革」なんてものに期待してもアテが外れる公算が高い。もちろん適切な政治参加や批判はビシバシやるべきですけど、そんなの個々人の全時間の1%にも満たないで出来てしまうでしょ。

 だとしたら個々人が勝手に面白主義に回帰するっきゃないでしょう。それぞれに面白いものを見つけ、勝手にムキになって勝手に面白がるというアクティビティに奮闘する。世の中で、やたら面白がってる連中が増えてきたら、雰囲気も変わるし、景気だって良くなるでしょうし、ひいてはそれが国家社会を動かす。今の日本は下から動かしたほうが早いと思います。

 その際の「面白さ」は、もう完全オリジナルが望ましいですよね。電通あたりの仕掛けに乗って、流行を追って、、という消費者的な面白さでは意味が乏しい。「遊び」というのは一種の自己表現であり、最初の一歩から既に自己実現が達成されているようなものです。将棋でいえば、一手目でいきなり端歩を突くとか、もう既にその一手で自己表現、自己実現が出来ているという。

 そのための第一歩としては、正しいアイデンティティ、正しい自己認識、前回との絡みでいえば第一人格の復活こそが望ましいでしょう。

 皆の動向を注視し、人の目を気にして右往左往しているのがあなたの本当の姿なのか?本当に日本人の姿なのか?と。僕は違うと思うぞ。もっとふてぶてしくて、もっと孤独癖があって、もっと酔狂な人間像なのではないか。動物でいえば、メーメーぞろぞろ移動している羊さんではなく、ここは一発カッコよく、一匹狼とか野生の虎あたりに自分を重ねたらいいのかも。あの、意味なく(意味はあるのかもしれんが)全速力で氷原を疾駆し、意味なく崖っぷちで満月に向かって吠えている狼。山野をのしのしと跋渉し、腹いっぱいになったら他愛なく涎を垂らして眠っている虎だと思えばいい。

 まあ、いきなり虎とか狼は飛躍があるかもしれないが、でも気分は悪くはないでしょ。虎が無理なら、猫くらいから始めたらどうですかね。飼い主を飼い主とも思わず、独立対等に「居てやってる」くらいに思ってる猫。いずれにせよ、「なんだかなあ」って思うところがあるならば、「ガラにもないことやってないか?」「本当にそういう人間なのか」とちょっと考えてみても良いと思います。猫にマスゲームとかやらせてみても、やっぱり無理なんだよね。


 


文責:田村



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