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今週の一枚(2013/06/03)



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Essay 621:GO AHEAD!〜「前に進む」気持ち良さと覚悟の量


 写真は、つい先週に撮ったArtarmon駅の裏手。オーストラリアは常緑樹が多いので(ユーカリとか)、なかなか季節感がないのですが、それでも所によっては落葉樹・紅葉樹があり(昔に移植してきたものだろうけど)、「晩秋だなあ」という風情を味あわせてくれます。

 まあ、日本の「錦繍(きんしゅう)」(というカッコいい日本語がある)という表現がはまる、凄まじいばかりの紅葉には及びもつきませんが、それでも多少は雰囲気が味わえます。


「前に転ぶ」

 「前にころぶ」という言い方があります。
 なにかに失敗してコケるんだけど、同じコケるにしても前にころがる。その場にへたりこんだりもせず、ましてや後ろに戻るのでもなく、前に転ぶ。体育のマットの飛び込み前転のように、柔道の前回り受け身のように。一つの失敗や不運を糧にしてさらに前に進む。コケたことによる体力の損耗、時間のロスなどのマイナス面を補って余りあるくらいのプラスを得る。

 仕事でもなんでも、「いやあ、出来る人は失敗してもやっぱり前に転ぶねえ」とか言います。

 これって本当にそうで、やりようによってはコケなかったときよりもコケた方がパワーもスピードもアップしている。逆にダメ系になると、もううんざりして心が折れて、その場に座り込むという「もういやダウン」をしたり、「こんなことならやるじゃなかった」的に後ろ向きになる。

 言っている意味はお分かりになると思います。
 何かの失敗を教訓にして次回に備えること、これはすぐに思いつくでしょう。しかしそれだけではないです。


 例えばこれは実例ですが、日本からオーストラリアにやってくる際、航空会社の都合(機体整備とか)で経由地で降ろされ、ワケのわからない人里離れたホテルで不安な一夜を過ごさせられ、やっと着いたと思ったら急な便変更で荷物が出てこない。空港内のビルをあっち行けとかこっち行けとかタライ廻しにされる。しかもその全てが何を言ってるのかよう分からん英語でやられる。もう散々な思いをするのですが、しかし、それによって「慣れた」「くそ度胸がついた」という人がいます。それまではビビって「万事無事にいきますように」と神に祈るような気持ちだったのが、これだけ滅茶苦茶になってしまうと、逆に「もう、”なんでもこい”って感じですよ」という気分になり、さらにそれまでだったら到底ビビってやらなかった選択肢もリアリティを持ってきて「いっちょ、やったるか」ってノリになる。

 ガッチガチに緊張しまくっていた大舞台とか勝負の日、いきなりしょっぱなから大失敗ぶっこいてしまう。およそありえないくらいの最悪の展開になるのだけど、逆にそれによって「吹っ切れた」ということはあります。守りに入らず、攻めに転じる。「何を後生大事に守ってるんだよ、俺はよ!どーせ大したものなんか持ってないくせによ。好きでやってんだから、好きにやればいいんだよな。おーし!」って、やけくそ的にリラックスして、のびのびできるようになる。

 これらの事例も「前に転ぶ」パターンだと思います。
 もちろん、ここで前に転ばないパターンも十分あえります。最初から「ケチがついた」とかいって、いきなりやる気を無くしたり、キツい洗礼を浴びて心が粉微塵に砕けたり、思いっきり後悔してとにかく逃げに入りまくり、隙あらば退却したくなり、でもそのまま逃げるのはカッコ悪いから、カッコつけの言い訳探しをはじめたり。まあ、ありますよね、そういう場合も。そっちの方が多いかもしれないけど。

 同じコケるという現象があったとしても、そのパワーを使って前に進む人&場合もあれば、それによって頓挫・後退する人&場合もあるということです。ここまでは分かりやすいでしょう。このエッセイがこんな普通の落とし所で終わるわけがなく、以上は単なるマクラ=ネタ振り=に過ぎません。

 今回のテーマは、「なぜ前に進まないといけないのか?」です。

 これらの話の前提には、前に進むこと=良い事、停滞・後退すること=悪いことという価値判断があるわけですが、それって本当にそうなの?なんでそうなの?「前に進む」とどんな良い事があるの?さらに「前に進む」ということの意味はなんなの?ここらへんがテーマです。

前に進まないと腹が立つ

 桃太郎の話があります。猿やら犬やらを連れて鬼退治に行く日本昔ばなしです。
 あれって、話がとんとん進みますよね。だから気持ちいい。「よし、鬼退治にいこう」と決めたら、足取りも軽くとっとと旅立つ。途中で犬やらキジやらをきび団子と引き換えにトレード交渉して戦列に加え、一直線に鬼が島に赴いて目的を達する。一連のストーリーが小気味よいテンポで進みます。

 しかし、実際にはこんなことは少ない。特に日本社会では少ない。
 まず鬼退治に行こうなんて考えない。「警察に言えば、、」とか考え、警察がろくに動いてくれないと「社会が悪い、腐ってる」と嘆き、ネットに激しい書き込みを行う。いよいよ行くにしても、またまたネットで鬼の情報を集めるんだけど、逆に「鬼はこんなに強い」という恐怖情報ばかりに目がいき、だんだんビビってくる。また、武器やGPSナビシステムを完備しよう等とギア集めに走るうちに、どの機種がいいか、何がお買い得か、段々と装備を揃えることが自己目的化して夢中になる。でもって、いよいよ行くとなったら強烈なビビリが走って、「き、今日は日が悪いから」「いまいち体調がすぐれないから」といって先延ばしにしようとする。犬や猿の勧誘も、きび団子を微妙にケチったりするから交渉がこじれたり、破談になる。犬に続いて猿も勧誘しようとすると、犬が「私だけでは不足なのか」と文句を言ったり、「新人の猿が使えない」「職場の和を乱す」とかいっていびり出しにかかる。さらにキジも加入したら3者になり、何をやろうとしても、いわゆる「三人旅の一人乞食」「2対1派閥」ができてギクシャクする。いよいよ鬼ヶ島が近づいたら近づいたで、乱戦になったら敵味方の区別がつかないからユニフォームを新調しようとか愚劣なことを言い出す奴がいて、そんなもん4人しかいないしキャラ立ちまくってるから心配いらないと一蹴すれば良さそうなものだけど、「万が一ということがある」という「万が一の正論」を強く言われると反対もできない。しかしユニフォームの企画デザイン段階から激しく意見が対立し、そうこうしているうちに納入業者と猿が癒着しているという怪文書が乱れ飛んだり、、、。

 なーんてね。ありがちですよね。
 僕らは眉間にシワを寄せて「ビジネスでは〜」「実社会では〜」とか言ってますけど、一皮剥けば、まあこんなもんでしょう。だから難しいんだけど。

 これはこれで面白いかもしれないけど、とりあえずはイライライしますよね。「そんな事はどーでもいいから、とっとと鬼ヶ島に行けよ!」ってツッコミを入れたくなります。ほんと、どーでもいいことをウダウダやってられると、とりあえず腹がたちませんか?

 でも、なんで腹が立つんだろう、なんでイライラするんだろう?
 この感覚が、「前に進んだ方が良い」という理由の実体だと思います。
 前に進む=気持ちいい、なかなか進まない=気持ち悪い、という。


 では、次に、なんで前に進むと気持ちがいいのか?です。

 いいじゃん、別に進まなくたって、何処に居たって同じじゃん。距離的に言えば、どーせ「地球のどっか」にいることに変わりはないんだし、時間的にいえばどーせ最後は死ぬんだから、いつの時点で何処に居ようが本質的には関係ないじゃんって考え方もありそうです。

 でも、なかなかそうは思えない。そこまで達観はできない。やっぱりチャッチャと物事が進むと心地よく感じる。それはなぜか?

 その理由は僕にもわかりません。
 しかし、例によって思いつきで適当にいろいろ挙げてみることはできます。

宇宙の時間、世界のテンポ

 一つは絶対的な宇宙時間とか生命速度みたいなものがあるのかもしれません。これって「時間とはなにか」という理論物理学や哲学課題になりそうで手に負えない予感はしますが、この宇宙には「このくらいの時間がたつとこのくらい物事が進む」という大雑把な(あるいは超精密な)基準みたいなものがあるのでしょう。例えば、クォーツ時計の基礎になる水晶の固有振動は常に1秒間に3万2768回(2の15乗)振動することになってます。原子時計はセシウム原子の振動(91億9263万1770回)を基礎にするらしいのですが、これはもう決まっている。「そーゆーテンポで物事が動く」というのが大宇宙の約束で、そんな時間的な約束事が森羅万象全てに散りばめられている。

 それをもとに、地球に住んでる人類の場合には、「このくらいの時間感覚」というのがあるのでしょう。例えば生物的に受精してから10月10日してから出産するとか、このウィルスの潜伏期間は○日であるとか、爪が伸びるのはこのくらいの速度であるとか。個人差はもちろんあるけど、「大体こんな感じ」という時間感覚、物事が進んでいく適正なテンポというのが自然にあるのでしょう。これがズレると妙な感じがする。受精してから出産するまで10年かかるとか、髪の毛が毎日30センチ伸びるとかいう現象があると(無いけど)、すごーく変な感じがする。

 そういった自然科学的な時間感覚の上に僕の社会は成り立っており(○歳になったら成人とか)、さらに社会的な時間感覚というものが組み上げられる。社会的にこれだけのことをするにはこれだけの時間がかかるという。そのテンポが、なんとなく普通&自然に感じるものよりも早かったら「忙(せわ)しない」と感じ、かなり遅かったらトロトロやってるように感じる。そのズレが激しいと「異常」な感じすら受ける。300m先のコンビニに買い物にいって帰ってくるんだったら、10-30分もあれば十分だと思うけど、それが3時間もかかってたら「どっかで道草してきただろ?」という感覚を抱くし、行ったきり一週間も帰って来なかったら警察に捜索願を出すでしょう。

 つまり、自然界ないし人間社会においては、それぞれに「適正なテンポ」というのがあり、それは人により、国により、時代によってマチマチではありながらも、大よその目安のようなものあって、そこから逸脱すると(話がなかなか前に進んでくれないと)変な感じがするということでしょう。

ストーリー展開

 もう一つは、ストーリーの論理的な展開です。どんな物語にも定番のパターンがあり、ドラマツルギー(製作手法)においては、起承転結など正しい順番×正しいテンポで進んでくれると理解もしやすいし、気持ちも良い。これがズレると気持ちが悪い。起承転結で進むべきなのに、起起起承承承承承承承承、、、と延々続けられると「いい加減にしろ」という気分になる。「ウサギと亀」の物語でも、早足自慢のウサギ君がピョンピョン快足を飛ばしてたら、少女アリスに追いかけてこられ、そのまま不思議の国に行ってしまい、やっと戻ってきたと思ったら、今度はピーターラビットのマスコット役に抜擢されてメジャデビューし、、一方、ケナゲ系の亀君がせっせと歩いていたら近所の悪ガキにいじめられてしまい、そこを通りがかった浦島太郎に救われて、お礼に竜宮城に連れて行くことになり、、、、という具合に話が展開していくと、読み手は「おいおい、なんの話なんだ?」という不安感にかられる。気持ち悪い。これを逆手にとって、前衛的な演劇や映画では、定番パターンをわざとズラして観客を迷宮に誘い込んだりもしますよね。

 何が気持ち悪いのかというと、論理的に話が進んでくれないからでしょう。辻褄が合わないまま物事が進むことに不安や苛立ちを感じる。だから「おいおい、どうなってるんだ?」「責任者、出てこい」って気分になる。


 では、なぜ自然なストーリー性がないと不安な気分になるか?ですが、因果律が狂うと困るからでしょう。「こうすれば→こうなる」という因果法則は、僕らがこの世で生きていくために必須のフォーマットです。この世のもっとも基本的なルールみたいなもので、これが揺らぐと世界観そのものが揺らぐ。昨日確かに死んだ人が、翌日、何事もなかったように「おはようさん」と出社してきて、周囲も何事もなかったように進んでいたら、「なんでじゃ〜」と発狂したくなります。「死とは何か?」というものすごい根本的なところが揺らぐから、この世界のありようがわからなくなり、どう生きていけばいいのかわからなくなる。そこまで極端ではなくても、当たり前だと思っていた大前提がズルっと外されるとすごく不安になる。なぜなら自分の生存のための方法論や技術がおかしくなっているのでは?もしかしたらとんでもない大損したり、災厄を被るかもしれないと思うからです。頑張って学歴つけて、キャリアつけたら人生が向上するハズという因果律が揺らいでくると、「本当にこれでいいのか?」という気分になる。

 適正なテンポ×展開で物語が進んでくれない不快感は、因果律や論理則が揺らぐことによる不安と不快感なのでしょう。だから、適正なテンポと展開で物事が進む=「ちゃんと前に進」んでくれると、それを快適に感じる。

飽きと効率

 もう一点、単に「ヒマ」「退屈」ということがあるでしょう。本質的に代わり映えのしないことを延々繰り返され、適正なテンポで場面転換が起きてくれないと、眠くなったりトランス状態になったりしますが、人間の大脳生理はそういうものなのでしょう。

 そのとき、気分の赴くままスヤスヤ寝られるんだったら、それはそれでハッピーではあります。講義中に講師の声を子守唄代わりに机に突っ伏してヨダレを垂らして居眠りをするのは、あれはあれで気持ちいいですよね。しかし、一人前の社会人たるもの、そんな気が向いたまま寝ているわけにはいかない。車のハンドルを握っている最中にスヤスヤ寝ていてはいけないし、大事な取引先との接待で寝るわけにもいかない。しかし、詰まらん、退屈だ、早くチャッチャと済ませてくれよと思う。

 車の渋滞などでイライラするのは、多分この心理でしょう。ぜーんぜん動かない長蛇の列。もう高速道路なんだか駐車場なんだかってくらいビクリとも動かない。とりあえず退屈。かといって、未来永劫渋滞するわけもなく、時がくれば自然に抜け出せるに決まってるし、要は時間の問題でしかないのだから不安感はない。でも詰まらない、不愉快だと。

 これに加えて一刻も早く目的地につかないとヤバイことになるという場合には、さらに激しくイライラします。「走れメロス」の主人公が、日没の直前にお城に帰ってくるそのちょっと手前、道路工事で交通制限とかされてたら「だー!!」って気分になるでしょう。「ご迷惑をおかけてしています」なんて謝られたって心は収まらないでしょう。これは物事が初期の段取りどおり進んでくれないと、すごーく効率の悪いこと、すごーく無駄なことをしているような気分になり(実際そうなのだが)、すーごくイヤな気分になる。

 前者は退屈であるという点で、後者は効率の点で、不快になる。これらの点から、物事がちゃんと前に進まないと、それも適正なテンポで進んでくれないと、僕らの気分は悪くなる。

 でも、もっともっと本質的な理由があるような気がします。

それが自然の摂理だから〜時間が一方通行だから

 一言でいえば万物流転です。物事は常に進んでいる。かたときも休まず動き続けている。
 今、この瞬間にも地下のマントルやプレートは動き続けているし、僕らの体内では新陳代謝がおき、毎日50億個の細胞が死に50億個が生まれている。その際のDNAのテロメアが短くなってきてDNA複写異常の発生頻度が高くなり、徐々に機能不全の細胞が増えつづけ、かくして「老化」という現象が起きる。それが何万世代も続く中で進化がおきる。一方、冥王星は太陽の周りを約250年かけて一周する。そして太陽もまた、約2億年かけて銀河系を一周し、その速度は秒速220キロ(=時速80万キロ=マッハ660か)だという。ということは、僕らもまた太陽と一緒に途方もない速さで銀河系を疾駆していることになります。

 なにもかもが「すごい」スピードで動いているのですね。超高速で宇宙空間を横切りつつ、超低速(年間数センチ)でプレートが動き、造山運動が起き、珊瑚礁もまた1年で1センチ成長する。早かろうが遅かろうが、しかし止まっていない。常に常に動き続けている。そして、時間は一方にしか流れない。全ては不可逆的に動き続け、変わりつづけ、死に続け、生まれ続ける。

 「進む」というのはそういうことなのでしょう。
 何もかもが動き続けるこの世界において、僕らもまた否応なく動き続けている。否応なく物事は進み、否応なく時は流れる。「ずっとこのままでいたい」と思いながらも、時がくれば切ない別れがやってくる。巣立ち、旅立ち、卒業、別れ。会うは別れの始めであり、一期一会。物質においても経年性変化で、分子間結合がゆるんだり、金属疲労が生じたりして、やがては壊れ、変質し、風化し、原初のエントロピーに回帰していく。

 「だから」なのでしょう。
 何もかも動き続けるこの世界に棲む生き物である僕らは、だからこそ、なんらかの形で絶えず動き続けているのがスタンダードなありようなのでしょう。動いてなんぼ、動いていて当たり前。時の流れにしたがって、AだったものがBになる、その変化をもって「進む」のだといえば、進んでいるのが常態であり、進んでいない方がむしろ異常ですらある。それは進行中の電車から振り落とされるようなもので、普通はありえない。

 僕らが「進む」ことに対して本質的な親和性を感じ、ナチュラルに良いイメージを抱くのは、それは世界がそうなっているからであり、その世界に生まれた存在としてのデフォルト状態であるからなのでしょう。

 

なぜ進まないのか

 これほどまでに僕らは自然状態で「進む」ことに親和性があり、それは大宇宙もサポートしてくれているにもかかわらず、しかし、世間ではそんなにスイスイ物事が進まない。日本などでは、失われた20年で物事が進まない。特にここ1年くらいはむしろ逆行しているようにすら感じるし、どうかすると進むことに対して疲労感や嫌悪感すら漂っているかような今日このごろ。

 なんで?なんでそんなに人間として、というか生き物として、というか三次元世界の存在形象として不自然なのか?

 物事が進むべきなのに一向に進まないときというのは、やっぱり何らかの原因があるのでしょうが、これもいくつかのパターンがあると思います。

「前」の定義が違う

 単に進むのではなく「前に進む」べきなんだけど、その「前」というのはどっちの方角かについての認識が一致しない。人によっては西をもって「前」だといい、人によっては南東を「前」だと思う。ベクトルがバラバラであり、相互に相殺しあって結果として動かない。

 そもそも「前」とは何かです?が、これは「あるべき状態」「より良い状況」でしょう。「こうなったらいいな」という理想ですが、こんなもんは価値観一つで西にも東にもなります。人によって違う。全体の風潮が西に向かっているとしても、それが自分の価値観的に逆行していると感じるなら、その流れに精一杯抵抗するのが、その人にとっての「進む」ことでしょう。例えば、世の中資本主義が行き過ぎ、拝金主義になり、他人を騙そうが、人のつながりが風化しようが、金さえ儲かればそれで良いのだという流れになっていった場合、「いや、それは違うだろう」と思う人が、その流れに逆らうことは、その人的には「進む」ことになる。流れに乗ることは逆に「後退」になる。

 こういう事例は沢山あるでしょう。グローバリズムだからといって、どんどん国内の労働者を切っていって身軽になって収益性の高いの企業体質にすること、これは経営的にいえば正しいでしょうし、それを推し進めることが「進む」ことになるでしょう。しかし、地場産業や家族経営、ローカル性の強さと原始共産的な部分がその企業の本質にある場合、グローバリズムに走ることは本当に正しいのか、進むことなのか?という悩みはあると思います。

 あるいは子供の教育方針でも、これから就職が激化し、欧州の若年失業率は国によってはすでに60%を超えているという現状をみれば、この子が泣こうが喚こうが無理矢理にでも勉強させ、超一流に育てていくしかないのだという考え方があるでしょう。他方、そんな人生がこの子の本当の幸福なのか、まだ自我も確立してない段階で自我を押し潰すようなやりかたが教育なのか?という反論もある。しかし、そんなクソ甘いことをいってたって、実際就職できず、自尊心も保てず、ニート、ひきこもり、鬱、自殺となっていったらどうするんだ、馬鹿(理想)も休みやすみ言えって再反論があって、結局、優秀だけどサイボーグのような嘘臭い自我と、純正オーガニックだけど惨めな自我とどっちがいいんだという救いのない話になっていって、「前」がどこかわからなくなる。

 こういった「前はどっち?」論のレベルで議論が紛糾し、結果として話が先に進まないのことがよくあります。僕の考えでは、そーゆー場合は全然OKだと思います。話が進んでないようだけど、こうやって議論を深め、考えていくことそれ自体が「進歩」だと思うし、結局決め切れないで全てを失ったとしても、それはそれで全体からしたら貴重な一つのステップだと思います。

 要するに「進む」といい「前」というけど、これらの本質はカタチではないのでしょう。言うならば「より生産的な方向に向っているか」であろうと。議論が紛糾し、喧嘩別れになり、全ては空中分解になろうとも、大きくみて物事の流れの一環を構成し、不可避的な過程であるならば、それもまた重要な一過程であり、それで良いのだと。晩秋になって葉っぱが落ち、枯れ木になるようなもので、一見どんどん不毛になっているようでいながら、大きな循環や流れの大事な一局面を構成するのであれば、それもまた「進む」という現象のひとつのありようである。

 しかし、そんな意義深い「無・反進化」ではなく、「とほほほ」と嘆きたくなるような、無意味な停滞もよくあります。
 これも幾つものパターンがあり、思いつくまま列挙するなら、

本気でやろうと思ってない場合

 口先だけで「やるやる」言ってるけど、本当の本気でやろうとは思ってないケース。あるいはやろうとは思っているんだけど、それに伴う犠牲を払う覚悟が十分に固まっていないケース。

 「ダイエットをしよう」「英語の勉強をしなきゃ」とか思うし、その思いに嘘はないかもしれないけど、それに伴う犠牲や苦痛=美味しいものが食べられない辛さ、砂を噛むような勉強を延々何千時間も続けていく精神的苦痛をひっかぶってビクともしないだけの覚悟はなかなか得られない。また、それがどれだけ苦しいことかの想像も足りないから、実際にその苦痛が本当に始まりだすと、あえなくダウンしてしまう。

 これはもう人間の愛すべきサガですし、僕自身その権化みたいなものですので、全然批判する気はないです。ただ、自戒を込めて思うのは、僕ら人間というのは、妄想とかは好きでよくやるくせに、本当の意味での想像力、てか緻密なシュミレーション能力は貧弱ですよねえ。幸福に対する想像力の貧困も困ったものですが(だからどうなればハッピーになれるかのアイデアがすぐ枯渇する)、苦痛に対する想像力もまた貧困です。単に英語が通じないというだけで、これほどまでに人間精神を圧迫し、人を卑屈にさせるのかという想像が足りないから、いざ現場でこれに出くわすと焼きごてのようなトラウマをジュ〜っと押し付けられたりもする。

 ちょっと横道にそれるので別稿で述べるべきなのだろうけど、ある物事を意欲すること、意志を持つこと、「前」を設定することというのは、それに伴う犠牲や苦痛を引き受ける覚悟あってのことでしょう。そして覚悟の具体的な中身は「その苦痛を正確&リアルに想像できる」ことであり、それは過去に同じような苦痛を潜り抜けてきた人でないと難しいと思います。いわゆる「修行」の成果の一つはそれで、実際の苦痛(克服)経験値が高ければ高いほど、より大きな意志や欲求を抱くことができるし、それを実現することができる。その経験もなく、ストレス耐性もない人が、いかに何を希望しようとも、実際にそれに伴う苦痛が発生した途端、目の玉を針で突かれるような「耐えられない苦痛」に感じてあっさり挫折ということになりかねない。

 そういえば小泉さんのときに「痛みを伴う改革」ということで皆も賛成したけど、その「痛み」をリアルにどれだけ想像できたのか。なんか抽象的に「厳しい」くらいのボヤヤンとした感じでしかないとも思うのです。リアルな痛みというのは、首になったり、一家離散したり、自分がホームレスになったり、真冬の公園で新聞紙にくるまって寝るときに歯の根も合わないくらいの寒気と苦痛まで想像して、その上でその苦痛を引き受けて覚悟し、態度決定すべきなのでしょう。僕もこっちに来るときは、野垂れ死に覚悟というか、いよいよどうしようもなくなって、ひもじさの余りそこらへんの雑草を食ったら苦くて食えたもんじゃなかったって想像をリアルにしてみて、その苦さを口中に想像再現してみて、「それもアリだな」と腹に落ちたから来ました。何かを決める、やるというのは、そういう覚悟あってのことだと思います。

 その意味でいえば、今まで国債をどかどか発行して、ありえないくらいの借金まみれにしているわけだけど、それだけの覚悟はあるのだろうか。まだ生まれていない世代を救うためなら、今生きている日本人は全員餓死してもしょうがないよねって、そのくらいの覚悟はあってしかるべきだと僕は思うのです。それだけのことをしてるんだからさ。子供の火遊びじゃないんだから、「まさか、こんなことになるとは」なんて泣き言は通用せんでしょう。少なくとも、なんだかわからないけど自分だけは助かるだなんて夢みたいなことは思わんほうがいい。なぜなら覚悟が乏しければ、決断が鈍り、行動が鈍り、そして物事が「進む」こともないまま推移し、最悪のパターンに落ち込んでいくからです。覚悟することは辛いことだけど、覚悟しないことの代償苦痛(ツケ)はその数倍になるのが通り相場ってもんでしょう。

 以上のほか、「本気でやろうと思ってない」パターンには、単に周囲の空気に同調して「やろうやろう」と言ってるだけで、真剣に考えてさえいないというケースもあるでしょう。でも、ま、こんなのは論外なので(数は多いとは思うが)割愛。

実は別のテーマが並行して走っている場合

 これもよくある。常にそうだといってもいい。
 例えば、プロスポーツのチームプレイで、チームの勝利のために頑張るんだけど、同時に自分の選手としての価値を高め、アピールするという「別のテーマ」も並行して走っている。それはプロ選手としては当然だと思います。プロというのは、ビジネスマンであり、個人商店でもあるわけですから、経営戦略的にものごとを考えても不思議ではないし、むしろ当然でしょう。レギュラー選手の負傷欠場は、チーム的には非常にマイナスなんだけど、自分的にはチャンス到来として歓迎すべき出来事になる。密かにほくそ笑んだとしても、それは不道徳といって責めるべきではないでしょう。その矛盾を矛盾として平然とバリバリ噛み砕いてこそプロなのでしょう。

 これが民間企業やお役所になると、個人の出世や派閥力学が、組織体の利益追求という第一目的と並行して走るようになる。場合によっては、てか往々にしてこの両者が矛盾し、矛盾するばかりか第一目的を平然と犠牲にするようにもなる。例えば、ライバル派閥が多大な営業上の功績をあげようとしたら、あの手この手で足を引っ張ってダメにするという。会社にとっては大損なんだけど、会社を犠牲にしてもなお自分たちの利益を優先しようとする。

 これはロシアの民芸品マトリョーシカ人形みたいなもので、何重にも入れ子になってますよね。かつて(今もか)、お役所の世界は「省益あって国益なし」(国家の利益を犠牲にしても自分の省庁の利益を優先する)とか、さらに細分化され「局益あって省益なし」とか言われたものですが、その国益だって、「国益あって国民益なし」てな状態だったりもするわけです。

 これは大企業病や官僚だけではなく、ごく普通のサークルでも、あるいは単なる仲良し仲間内にもありますよね。常に女王様でいたい人とか、リーダー的でありたい人とか、逆にそういう人を激しく嫉妬している人とかが居て、自分と全く同意見であったとしても、その人の提案であったり、その人の手柄になりそうだったら、もう意地になって潰しにかかるという。そのためにはどんな滅茶苦茶なレトリックでも使う。

 この場合、「万が一」「責任取れるのか」論というのは万能ストッパーであり、これさえ言っておけば大抵の物事の進行止められる。他にも話を前に進ませないテクニックは山ほどあり、うだうだ言ってて結局なにも決まらない、何も進まないという不毛な事態になっていく。


 その昔、異業種交流やってるときも、このウダウダに落ち込むのがイヤだったので、あれこれルールを作ったりしました。「言い出しっぺ必動の原則」などと命名し「言った分だけ動け」「じゃあお前がやれ」と。批判は、それを上回る素晴らしい現実を構築することによってのみ許されるとか。なあなあで済ませるくらいなら最初からやらない方がマシとか、唯一の基準は面白いかどうかだけであり、それ以外のもっともらしい要素は排除するとか。それは僕自身の気質でもあり、結果出してなんぼという実務家気質でもあり、そして大阪という「ええカッコしい」が大嫌いでプラグマティックなローカル風土でもありました。だから面白いように物事が進んだし、とんとん物事が進んでいく場には、面白い人材が集まってくる。ウダウダやってる場にはウダウダした奴しか集まってこない。

 でも、この種の物事というのは、やっぱ「気魄」みたいな要素が決め手になるのかもしれません。精神性の強い言い方になってしまって恐縮なんだけど。これからもどんどんNPOないしそれに類似した組織が増えると思うのですが、その昔NPO的な組織に多少関わった経験でいうと、この種の組織というのは参加者の善意がモチベーションになっているだけに、一般組織(企業や役所、軍隊あるいは暴力団など)に比べて「鉄の規律」が敷きにくい。

 組織的に物事を「前に進める」ためには、一部の構成メンバーにかなり不愉快な思いをさせなければならない場面が多々ある。潰れそうな企業を立て直すためには、首切りも減給も下請けカットもしなければならないかもしれない。一部どころかほぼ関係者全員を敵に回すような局面もあるでしょう。それでも断乎として行うという気魄が必要で、そこで顔色うかがったり、いい顔しようとして腰砕けになったら何も進まない。そのためには非情なまでの鉄の戒律が必要なのだし、それを裏付ける実質的な利得(給与など)も必要。十分な実質利得と非人間的なまでの戒律が浸透している組織は、動くという点に関してはよく動く。

 ところが、善意的要素が濃くなりがちなボランティア組織の場合、そのあたりが非常に難しい。通常企業以上の経営手腕と人間力が必要でしょう。それだけに今現在もキビキビ組織を動かしておられる方々には、本当に頭が下がるというか、どえらいことやってるな〜と思います。規律や欲得で縛ることができない分、断乎としてやる!やると言ったら本当にやるという触れればスパっと切れる鋭利な刃物のような緊迫感が必要でしょうし、それを醸しだすのはリーダー的立場にある人々の気魄であり、覚悟だと思います。決まり事をいくら作っても、それを実行するかどうか、魂をいれるのはその運用如何ですからね。

 この覚悟論や気魄論は、組織だけではなく、個々人レベルの決断や動きにおいても同じ事でしょう。

 前に進むことは、自然に摂理にもかなっているし、生理的に気持ち良いことでもあるのですが、実際の日々の生活においてそれをなそうとするならば、結局は覚悟の量によって推進力が決まっていくのだろうなって感じます。



文責:田村



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