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今週の一枚(2013/05/27)



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Essay 620:強者が弱者を喰らう法

許される弱肉強食と許されざる弱肉強食

実際にはこんな感じで見えてる
 写真は、Rhodes(ローズ)の新興開発地(だと思う)。

 いやあ最近のシドニーは、ちょっと目を離すとこんなエリアが増えてきました。
 撮影場所は、EastwoodからDenistoneに向かう高台の眺望の良い場所(結構好き)なのですが、Google Mapでいえばこのあたりです。

 先日通りがかって遠望してたら、「げ、なんだありゃ!?」という異様な風景が目についたので超望遠で撮影しました。

 ←写真左は「実際にはこんな感じで見えてます」写真ですが、写真真正面やや右寄りのあたりです。写真左端はシティが見えています。

 何処が見えているのかよく分からず(最初はトップライドあたりかと思った)、あれこれ探していたら、多分ローズ(Rhodes)の西岸開発地だと思います。

やっぱオーストラリアはこれでしょう
 ミルバックやメリトンなど各デベリッパーのサイトをみると、多分、これとか、これこれ、あるいはこれなんかそうじゃないかな。しっかし、2LDKで分譲7000万円かよ。

 まあ、そこに住んでしまえば、水の近くで眺望も良さげなんだけど、それでも20年近く住んでるシドニー住民の目からみたら「異様」であり、正直いえば「気持ち悪い」くらいの感じですらありました。

 しかし、しょうがないのかなあ。以前、シドニーでは「毎週1000人、人口が増えている」と言われてましたが、今でもそうなんでしょうね。ランチの際の駐車スペースを探すのは日々困難になってるし、「人多すぎ」感はあります。こんなんでも建てないとどうしようもないのでしょう。といっても、東京首都圏の人口密度の6-7分の1(数字は適当=首都圏3000万VSシドニー500万弱の目分量)で、まだまだスカスカなんですが、オーストラリア平均人口密度の「日本の100分の1」に比べればかなり「人だらけ」ですな。

 撮影を終えて、車に戻るときに振り返ると、視界が右のようなもの(→)に戻りますが、ほっとしましたねえ。オーストラリアはコレでしょう、これ。いくら人口稠密なシドニーといえどもこのくらいのスカスカ感は欲しいです。ま、今でもシドニー全エリアの99%(多分そう)はこんな風景ですけどね。
 


許される弱肉強食と、許されない弱肉強食

 弱肉強食は自然の掟であるといいます。確かにそうでしょう。

 「弱肉強食」のAKA(別名="also know as"の略。AKBではない)は「自然淘汰」でしょう。環境変化に適応できない恐竜が滅んでいったように、自然には常に淘汰圧が働く。

 もう一つの別名は「食物連鎖」。生命体のうち、植物界は別として動物界では(他にも菌界、原生生物界、モネラ界とかあるらしいが)、他の生命体から栄養分を摂取しないと生きていけないように初期設定がなされている。鉱物、酸素、日光などの無機物だけでは生きていけない。他の有機体(生命)を喰らわないと死ぬ。草食動物だって植物(生命)を喰らっていることに変りはない。昆虫から猛獣までそれをやっている。強い生物が弱い生物を食い物にする。弱い生物の中でも劣ったり、運の悪い個体から先に喰われていく。足の遅いシマウマから先に喰われるがごとく。

 人間も又、自然界の一部である以上、その法則から逃れられません。疫病や天災が起きたら、抵抗力が弱く、運の悪いの個体から順に犠牲になる。また、オットセイの雄やサル山のボス猿選びのように同族(人間)界の中でも弱肉強食が起きる。放置しておけば、ホッブスが言ったように「万人の万人に対する戦い」というバトルロイヤル状況になって、結局は強い人間が弱い人間を支配するようになる。戦国時代や、MAD MAXや北斗の拳に描かれているような殺伐とした世界になる。

 まあ、本当にそうなるかはわかりませんよ。北斗の拳にケンシロウやバットがいたように、戦国時代だって親子の情や友愛はあったでしょう。そんなに誰も彼もが寸暇を惜しんで殺し合いばっかやってたわけではないでしょう。しかしながら、大きな流れとしては、強大な暴力=軍事力を構築した人間が、その軍事力を使ってこの世を自分の好きなように秩序だて、それに逆らう人間は容赦なく殺された。始皇帝しかり、信長しかり。

 人間は性悪なのか性善なのかという議論がありますが、両方あるのでしょうね。一年に四季があり、寒いときは寒いし、暑いときは暑いように、温かい人間性を発揮する局面もあれば、エゴ丸出しで他人を踏みつけるような局面もある。それは「自然」は性悪なのか性善なのかと問いかけているように、問いそれ自体がズレている部分もある。

バランスと線引き

 結局はそのバランスなのだと思います。
 人間の素朴な感性においては、許容の限度内の弱肉強食と、「許されない弱肉強食」があるのでしょう。

 まったく弱肉強食原理が働かなかったら、これはこれで面白くないし、世の中沈滞するかもしれない。
 「弱肉強食」と表現するから極悪なニュアンスがするのであって、競争原理・優勝劣敗と言い換えれば世の中の基本原理の一つでもある。真面目に努力して、それなりに実力をつけた人間が、それ相応のご褒美を貰えるからこそ頑張ろうという気になる。入試だってスポーツだって、点を沢山とったチーム(個人)が「勝ち」という原理(ルール)があるから面白味もでる。野球で5対4で試合が終了したら5点とったチームの勝ちにならねばならない。何点取ろうが試合終了と同時にカシャッと0対0に戻って「引き分け」になるんだったら、馬鹿馬鹿しくて点を取ろうという気にもならないでしょう。さらに、なぜか4点のチームの勝ちということになったら、「正義に反する」ってくらい腹が立つでしょう。ここでは、強い奴が勝つのは正義であり、モチベーションの原動力でもあります。

 およそ「頑張る」「面白い」「やり甲斐」という積極的なモチベーションにつながるものは、大体において競争原理、つまりは弱肉強食原理に基づいていると言ってもいいでしょう。

 しかし、これも行きすぎたら殺伐としてきます。
 何がなんでも強い奴の勝ち、強ければいいんだ、勝ちゃいいんだになってしまったら、なんとも救いがないような気もしますし、逆に面白味もなくなる。なお、ここで「強い」というのは腕力暴力だけではないです。今どきそんなもんで話が決まるようなシンプルな局面は少ない。現代の「強者」とは、例えば頭がいいとか、物知りであるとか、何かの技術が卓越しているとか、才能があるとか、ルックスが良いとか金持ちの家に生まれたとかそういうことも含みます。

 なかには頑張ってどうなるものでもない部分も多い。持って生まれた先天的な条件の差で殆ど勝負がついてしまうことも多い。これじゃあ面白くないです。ある程度はしょうがないにせよ、何もかもそうなるということは、貴族の子は貴族で奴隷の子は奴隷という階級社会になり、たまたま弱く生まれてしまえば、ヤンキー高校のいじめられっ子のようにひたすら虐められ続けて一生を終える。それでは救いがないし、面白くもない。

 ということで、いくら弱肉強食原理といっても、それなりに修正がカマされているようです。
 強者が勝つのはいいんだけど、「強者になる過程」もちゃんと加味して審査される。また弱者に「強くなる自由/権利/チャンス」が保障されてないと面白く感じない。何というのかな、弱肉強食の過程の透明性というか、公平性というか、自由度みたいなものが一定限度無いと、僕らは釈然としないのでしょうね。

 例えば、持って生まれた素晴らしい才能でアーティストが有名になり売れるのは、これはこれで良い。先天的なものなんだけど、それは賛美する。裕福な家に生まれたから良質な教育を受ける機会を得、それでキャリアを積んでビジネス的に成功するのも、多少やりきれない気分を抱きつつも「許されざる不正義」とまでは思わない。ところが、凡庸な人間が、親の七光りのような権力をつかって有名になったり、章を取ったりすると、これは納得いかない。また、優れた作品を発表したにもかかわらず、下層階級の出身だからといって何の賞も貰えず、メディアにも意図的に黙殺されたりすると、おかしいと感じる。

 ある程度は「世の中そんなもんよ」と達観はしてみるものの、「そんなもん」の内実は人によって様々であり、またケースバイケースでも違う。コネ入社は、ギリギリセーフくらいに世間で認められているけど、コネ入学は微妙にヤバイでしょう。少なくとも公開されたら問題視される。そのあたりが限界グレーゾーンでしょう。

 世の中には、許される弱肉強食と許されざる弱肉強食があり、その線引きをどうするか問題なのだと置き換える事も可能かと思われます。その線引きは、これはもう時代により、人によって様々でしょう。

 しかしこの線引きは常に難しく、そしてそれにまつわる「不正」のようなことも行われる。許されざる弱肉強食なんだけど、あたかも許されるかのように見せかける。あるいは、非常に巧妙に、見えないカタチで徐々に包囲網のように敷かれていく場合もある。今回はそのあたりの話です。

弱肉強食になっていく背景と傾向

 弱肉強食がより鮮明になっていくのは、総じて社会全体が落ち目のときでしょう。
 皆が豊かで満足していたら、あんまり争いも起きないし、あったとしても趣味的であり(甲子園に出るんだ!とか)、また敗者にも十分な手当がなされるから問題視されるケースは少ない。日本の高度経済成長時代は、わりとそういう感じだったと思います。しかし、右肩下がりに日々ダメダメになっていくとベクトルも180度変る。どんどんパイが減っていったりしたら、どうしても奪い合いになる。奪い合いの熾烈さはパイの大きさに反比例する。パイが小さくなればなるほど、競争は激しくなる。そして極限状況にもなれば、タテマエも人間性もなく、実の家族ですら骨肉の争いをするようになる。

 もはや常識化しつつあるので多くは繰り返しませんが、今の日本や先進国は総じて落ち目です。これまでが特権階級的に、餓死者累々の第三世界を踏み台にして「飽食の時代」とか言ってたんだから、世界は正常化しつつあるともいえます。

 余談ですが、このあたりの感覚が日本に居たらわかりにくいかもしれないです。シドニーでは日々中国系、インド系、さらにはアフリカ系の人達が続々と詰めかけてきています。かつてはシドニーの中でいくつかのサバーブがチャイナタウンだったけど、今ではシドニーそのものがチャイナタウンと言ってもいいくらいになりつつある。また、インド系の人も増えました。シェア探しの手伝いを毎週のようにやっていると、そのシェア広告の変化が殆ど毎週のように生じているのが分かります。「インド系、ネパール系求む」という広告がどんどん増えているし、またエリアも拡大してきている。

 シェア移動などで他人の家に行ってみるとさらに分かる。こないだスーダン人に会いましたけど、スーダン系が多いサバーブとかも出てきている(ブラックタウンとか〜Sudanese Stories a Blacktown community history project参照)。マンションのエレベーターに乗るとインド系やらアフリカ系の色の黒い人達ばっかり10人くらいに取り囲まれるようなったりします(面白いけど)。つい先日もビザのための健康診断に付き添ったんだけど、待合室の半数近くがインド系だったかな。そのあたり、こちらに居ると世界の息吹をリアルタイムに感じます。20年前にそれ(世界)を知りたくてこっちに来たのですが、こういうのって皮膚感覚で感じてないと将来判断を誤る。頭でウダウダ考えていても外しがちですから。

 繰り返しますが、これは世界のためにはイイコトだと思います。大航海時代やコンキスタドレス以来の西欧人の暴虐=まさに弱肉強食=に蹂躙されてきた第三世界の傷が徐々に癒えてきているわけですから、人類的には慶賀すべきことです。数百年来の不正義が少しづつ是正されようとしている。

 しかし、そうなると、貴族階級だった日本を含む先進国は、毎週のようにライバルが増えていくのですから、長期低落になります。これまでが理不尽に良すぎたんだから当然ですわね。ただ、そうなると弱肉強食がひどくなります。激しい奪い合いになる。

 そのこと自体憂慮すべき問題でしょうが、これはもう特効薬もないし「個々人で頑張るっきゃないよね」って結論にならざるを得ない。
 「頑張る」というのは「競争に勝つ」という方法論もさることながら、「競争以外の幸福追求ルートの新規開拓」もあります。どっちかといえば後者の方がこれから有望でしょう。これは20代以下の若い人なら(人によるだろうけど)本能的、体感的に悟っていると思います。今どき公務員や大企業に入れたから「これで一生安泰だ」なんて思ってる人はおらんでしょう。上の世代の方が、むしろ頭や理屈では分かってるけど、体感的・動物的な本能としては分かってない(人もいる)と思います。「大変だ」とか口では言うんだけど、心のどっかで舐めているというか、世間は大変なんだけど、まさか自分だけは大丈夫だろうと。大地震と同じですな。

許されざる弱肉強食

 クラス全員に給食が配られていたんだけど、物資欠乏で半数しか配れないことになりました。さてどうするか?です。今の日本&先進国の直面している問題を乱暴に要約すれば、こういうことでしょう。

 いろいろな対処法があるでしょうが、大きく分ければ、

 @、自然状態の暴力的弱肉強食を展開させ、勝った半数は今までどおり食糧を得て、負けた半数は餓死するという「わかりやすい」方法論
 A、量を半分に減らし、全員に配るという方法論

 僕らが普通に思うのはAだと思うのですが(あなたは違う?)、@が資本(自由)主義的だとしたらAは共産主義的です。なんと!僕らは普通の発想として共産主義者になってしまうのですね。でも、普通の話だと思います。「皆で助け合って」「手をとりあって」「絆」という発想は、ナチュラルに(原始)共産主義に親和性がありますから。

 震災直後の被災地のように、状況が困窮すればするほど共産主義的になります。それは思想信条とかそんなレベルではなく、生存のための合理性です。雪山で遭難したパーティが手持ちの食糧を分配するのと同じで、そんな状況で「自由競争」の奪い合いなんかやってたら体力が枯渇して全員死んでしまう。だから、共産主義というのは、生き延びるためには合理的な方法論です。日本の戦時中なんか、全産業が軍の支配下になったり、物価統制令だの何だの完璧な共産体制になったし。

 しかし、ご存知のように、共産主義には致命的な欠陥があります。まず共産主義が成り立つのはそれが「公正に分配されたら」の話であって、実際には公正にやらない。人間なんかヘタレだからズルが横行する。党幹部が貴族化し、ソ連時代のノーメンクラトゥーラのように一部の人々が特権階級化する。これが欠点その1。その2は、自由競争による創意工夫やエネルギーを生み出し得ないってことだけど、こんな表現じゃピンとこないだろうから思いっきり意訳すると、「面白くない」ってことでしょう。つまらんのだわね。頑張ろうが頑張るまいが給料同じ、配給同じだったらサボった方が得じゃんって。「皆で助け合って」ってのは、緊急事態には切迫感があって、やり甲斐もあるし、心も温かくなるんだけど、平常時にやってると段々リアリティが失せてきて、嘘臭くなって、タテマエだけが横行し、まったりしてくる。平常時には、やっぱ「正々堂々と勝負じゃあ!」ってメンタリティの方が面白い。やればやっただけの報酬があるから自己実現が果されやすい。

 マズローの欲求五段階説でいえば、ベーシックな食欲とか原始欲求のレベルだったら共産主義の方がいいけど、カッコつけたいとか、自己実現とかの中高度の精神欲求になったら自由資本主義の方が向いているってことなんでしょうね。

 ということで@もAもあるんだけど、状況によって@とAの配合ブレンド割合を変えていく、というのが正解なんでしょうね。今先進国はどこも(オーストラリアだって基本はそう)落ち目で、基本は@からAに向かっているとは思うのだけど、時期をみてどう配合ブレンドを変えていくかです。

 そして、again、自由主義においても公正にやられるとは限らない。てか、まず公正にやられることはない。ズルが横行する。そしてそのズルは、強い奴が弱い奴から収奪するというカタチでなされることが多い。つまりは「許されざる弱肉強食」です。

 以下、「自分が強者だったらこうするけどな」という観点から、いろいろなテクニックを考えてみましょう。

強者たる構造の確保

 強者が強者たるには、それなりの理由や実質構造があるでしょう。政治学でいう政治的支配の正当性とかいうやつなんだけど、固い話は抜きにして、「なんか」ないとあなたは「強者」になれない。

 これが北斗の拳みたいな世界だったら話は簡単です。暴力的に強いか弱いかで決まる。残酷ながらも美しいまでにシンプルです。が、現実社会はそこまで美しくも、シンプルでもない。暴力団では腕力よりも集金能力がモノを言うし、組織内では権謀術数もある。ヤンキー世界、ひいては子供の世界だって「親が実力者(暴力団の組長とか理事長とか)」で強者になっているケースはある。だから北斗の拳ほど世の中純粋ではない(^_^)。

 「なんか」の内容は千差万別で、お金を沢山持っているとか、有力者とのコネが多いとかイロイロでしょうが、話を今の日本に限定すれば、複雑に入り組んだ利権構造と組織の中でのポジショニングでしょうね。例えば大企業になればなるほど潰れそうになると政府が面倒を見てくれる、同じ大企業でも政府に近いスジほどそう。半官半民みたいなところも美味しい。面倒をみる政府(官僚)もその見返りに天下りがあり、アレがあり、コレがありってことになる。ところが僕らのような一般平民になると、潰れそうになってもあんまり面倒見てくれない。せいぜいが中小企業への融資援助とか、雇用促進とか、生活保護くらいです。でも大企業になると、経営が苦しいと税金で億兆単位の支援があるし、円安誘導なんかもしてくれる。あれも一種の経済的な「生活保護」みたいなものなんだけど、それを堂々と破格の規模でやってくれる。でもって、個々人的には、退職したらドカンと退職金が出るし、さらに天下りがありーの、恩給がありーのと至れり尽くせり。ま、早い話、今の日本でそれなりに強者的に甘い思いをしようと思えば、大きな組織でエラくなれってことですね。

 ここまでは常識レベルでした。さて、そういう構造があるから強者は強者たりえるのですが、しかしその構造がガラガラと崩壊したら強者は弱者に転落する。強者としてはそれが恐い。しかしながら、その強者利権構造そのものが非効率や時代後れになっているどころか、そもそもの低落の原因にもなっており、ゆえに改革しなければならないという話になる。もう30年以上同じようなことを言っている。でも、強者としては本気でバシバシ改革されたらたまったもんではないので、あれこれ抵抗する。ちょっと前に流行った「抵抗勢力」ってやつですね。

 ここで利権むき出しにして抵抗しているといかにもイメージが悪いので、当然いろいろ考えます。ひとつは「話を逸らす」「問題点をすり替える」ことですね。このあたりの大衆心理操作です。あるいは「うやむやにする」「やってるふりして骨抜きにする」ことです。一番いいのは「気づかれない」ことです。余りにも構造が複雑で一般人にはわからないし、メディアが取り上げても複雑すぎて反響に乏しいから政治課題化しない。これ、たーくさん、あるでしょ。日本全国津々浦々、一つの町に最低一つはこういうことはあるでしょう。またメディアに対して取り上げさせないという手もあります。そのメディア自身も問題ありありなんだけど、自分のことだから言わない。要するに問題が無かったかのように見せるのがベストであるということです。

 そういえばちょっと前、行政組織の無駄遣いについて散々叩かれ、民主党のときに「事業仕分け」とかやってて、それが手ぬるいとかパファーマンスだとか批判もあったけど、この1年くらいは「仕分け」の「し」の字も聞かれなくなりましたわね。話題にもなりませんね。温存ですよね。してやったりって感じかしらね。

 強者というのは、やっぱりそれなりに強いです。素でも強い。彼/彼女が強者的地位に辿り着くためには、人並み外れた能力やら環境が必要で、それを持ってるんだから頭が良いか、社会的影響力を持っているか(多くは両者ミックス)であり、彼らが必死に守りを固めたら、かなり手強い。難攻不落に近いくらいになる。

借金のリアル

 まあ、上の段階くらいだったら、僕ら庶民も「けっ」とか言いながらも、何とかガマンも出来た。ガマンすべきではないのだろうし、心安らかではないけど、だからといって直ちにこっちが困るってことはなかった。「ちぇっ、ズルいなあ」って言うくらいでしょう。

 しかし、ここから先さらに低落が続いていくと、ますますパイが減ってくる。「低落」というのは目先の景気動向ではないです。トータルとして借金(国債)が増えていたらやっぱ低落でしょう。だって、自分らの支出分を自分らで稼ぎ出せておらず借金を重ねているだけなんだから。そうなるとパイ争いが激化する。

 そうなると就職が厳しくなるとか、失業不安があるとか、生活が厳しくなるという一般的な傾向に加えて、「さらに弱者から収奪する」という方向性がありうると思います。今回のテーマはココです。「許されざる弱肉強食」が増えていくのでは無かろうかと、と。

 今ここに国債の借金が1000兆円あります。でも国民が債権者だから大丈夫ですとかいうんだけど、国民のなかの誰かが1000兆円被らないとならない。それは持ってた国債の価値が下がるとか、返ってこないというカタチで生じるかもしれないし、返済用に新たに増税その他のことがなされるというカタチになるかもしれない。まあ、それはそれで良い。良くはないけど、借金とはそういうものだし、精算とはそういうことです。

 ここで、「緊急時には共産的に」の原則通り、皆で助け合って借金の負担を背負うなら良いでしょう。公平にといっても国民間に資力に差があるので全員均等頭割りで1000兆÷一億人で一人頭1000万円(正確には1億2600万人だから793万だが)出してくださいって言っても普通は無理でしょう。赤ん坊も含まれているから、4人家族だったら世帯で4000万出せというのはもっと無理。だから国民個々人の生活水準をキープしながら、「ある人が払う」という傾斜方式の精算が望ましい。つまりは低所得者の負担は軽く、富裕層には5000万とか億レベルで出してくださいってやるのがいいのでしょう。あるいは持ってる国債チャラにしてくださいとか。

 でも、ま、強者は普通そんなことはしませんよね。強者が弱者のために自腹を切るということは、ミクロ的には多々あるけど(上司がメシをおごるとか)、マクロ的にはあんまり無い。期待しにくい。そうなるとどうなるかといえば、やっぱり弱者に尻ぬぐいをして貰おうと話に自然になっていって、あの手この手でむしり取るようになるでしょう。増税なんかまだ分かりやすくて公正な方で、もっと見えないカタチで公共料金があがったり、手数料があがったり、控除が減ったり、手続きをややこしくして脱落者を増やしたり、、、まあ、その種のテクニックは山ほどありますから。

 ちなみに、素朴に考えると、1000兆円国債借金があって、その貸し主が国民だってことなら、僕ら国民の総資産は1000兆円あるということになります。ほんとか、おい?いくら「持っている人は持っている」といっても、せいぜいが数億レベルで、僕の知ってる過去の依頼者でも最高で1000億かそこらです。それとて個人資産1000億円の日本人が1万人もいるのか?本当か?「日本で1万人」の感覚というのは、例えば日本中の裁判官の数は全部で3400人くらいしかいません。検事になると2400人。1万人って結構居ますよ。人口1万人に一人(1万×1万=1億人だから)の割合ですから、例えば広島県は人口300万人だから、広島には1000億円の超金持ちが300人もいる計算になる。それは無いでしょう。そんなに皆が金持ってるなら、世の中フェラーリだらけになってても不思議ではない。じゃあ、国債って誰が持っているんだ?

 本当のことをいえば、「国民が貸し主」とかいうけど、国民個々人はそんなに持ってません。金融機関が持ってる。銀行は本来の与信業務なんてそっちのけでせっせと国債を引き受け、さらに保険会社や年金事業団などがそれ以上の高率で持ち、それでも足りないから今度は日銀が持つという。要するにお金を「あること」にしているだけの幻想マネーでしかない。そういえば、子供の頃、草野球やって人数足りなくて「透明ランナー」とかやってましたけど、あんな感じか。「いることにする」というお約束。ま、貨幣なんか本質的にお約束で「価値があることにする」という幻想なんだけど。

 このあたり、国債に関しては、最近読んだ「デフレ脱却」は危ない ~アベノミクスに突きつけられるジレンマが面白かったです。この著者の高橋さんが、なんとこのエッセイの読者で、自著をわざわざオーストラリアまで献本していただきました。これも一種の相互リンクなのかもしれないけど(相互リンクはやらない主義なんだけど)、これは内容的に面白いので紹介しておきます。

 話を戻して、「弱者からさらにむしり取るトレンド」は今でもあると思いますが、根本的なトレンド(先進国の自然凋落)が変らない限り、これから先もっとそうなるでしょう。もう乾いた雑巾をさらに搾り取るように。その昔の「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)な執達吏(しったつり)」というか、年貢を納めないと鞭打ち百回!みたいな。ま、そんな体罰なんかやってても一文の得にもならないから、もっとソフィスティケイトされたやりかたになるでしょう。

 で、どーゆー「やり方」があるかというと、、、

 一番簡単な対症療法は、このまま借金を重ねることです。そんなもん自己破産者の定番、覚醒剤常用者の定番パターンなんだけど、とりあえずは何とかなる。あとで大変なことになるのだけど、それも加速度的にカタストロフィックに凄くなるんだけど、でも今は何とかなる。で、割を食うのはご存知のように孫子の世代なんだけど、未だ生まれていない世代というのは、弱肉強食でいえば最弱者です。存在すらしてないんだから、もうやられ放題。

 「親のすねをかじる」という言い方がありますが、今の日本は高度成長時代の遺産を食いつぶしているという意味では「親の脛をかじって」ますが、それよりも「孫の脛をかじる」こともしているってことでしょう。まあ、真面目に働くよりも、脛囓ってた方が楽だもんね。で、とかく楽な方へ、楽な方へ流れがちな昨今、そうなるのも無理ないです。だから良いとは言ってないけど。

 ほんまのことを超リアルに考えれば、今この瞬間に僕ら一人頭1000万円の借金を押しつけられたような状態が「本当の姿」なのでしょう。親の借金を相続したような感じで。年利1%でも1000万円喰らったらヤバイっすよねえ。生活ぶっ壊れますよねえ。でも、本当はそうなのだと。計算上はそうなる。しかも、それすら、ありえないくらい最高に公平にやっての話であって、現実には弱者にもっとしわ寄せがくるだろうから、一人1300万とかそのくらいになるかも、です。到底受け止めきれないリアルだからこそ、皆して幻想世界に浸っているというのが、実際のところなんでしょう。ま、でも、貰うべき給料を貰ってないという逸失利益でいえば、既に数百万くらいはむしり取られていると思いますよん。

 さて、さらに話を進めて、そうやって数では圧倒的に多い、大衆に散在する弱者達に負担を押しつけるにはどうすればいいか?なるべく波風立てずに、問題視もされずに、より静かに、より効率的にぼったくるテクニックにはどういうものがあるか?

弱者の把握と囲い込み

 一つは囲い込み、逃げ場を無くすことです。定石ですよね。
 もう漁法といっしょで、トロール船や渓流に網をしかけるみたいに、それこそ一網打尽にする。塵も積もれば山となると言いますが、1億人もいれば一人一円取ってるだけで1億円ですからね。ところが網のあちこちに穴が空いていると、どんどん逃げられてしまう。一人ひとりは大した額ではなくても、まとまると馬鹿にならない額になる。だから穴を少しづつ減らそうとする。

 ここ10年くらいで僕らの個人情報や存在というのは、四面楚歌のように包囲されてきているように思います。日本の金融機関で盛んに行われている「名寄せ」ですが、匿名とか無記名を減らし、しっかり把握しようとする。それはそれで脱税防止という意味ではいいんだろうけど、真剣に脱税(節税)やってる真の資産家層はそんな幼稚な手をつかわず、世界最高水準のテクニックをつかって(ケイマン諸島に子会社作って出資して名画買って破産させて、更正させてまた子会社を作って今度は、、、とか)やっているでしょう。もっと強者はそもそも自分達には税金がかからないような法律を作るし(租税特別措置法とか)、税務署なんぞ一睨みで黙らせることが出来る。だもんで、犠牲になるのは、小金持ち的な弱者ですね。恒久資産10億円以下のちょっとFXで儲けました、自営業で利益が出ましたあたりの層。僕のようなオケラ系庶民からすれば彼らは強者に見えるけど、真の強者達からみれば吹けば飛ぶような弱者でしょう。ホリエモンがそうであったように。

 これにGoogleやFacebookなどソーシャルメディア系の個人情報が微妙に&膨大に膨れあがり、合併だの買収だのしてるから、自然と名寄せがされてしまう。向うにその気がなくても、とんでもない個人情報のデーターベースがナチュラルに構築されてしまう。グーグルは「邪悪なことはしない」のが創業以来の社訓ですが、もし僕がグーグルあたりのトップで邪悪だったら、これらのデーターを弱者から搾り取りたい各強者に売りつけるなり、有利な交渉を引き出したりすると思います。もうとっくにやってるのかもしれないけどさ。

 ほんでもって、先週ですか、国民総背番号制が可決されちゃいましたね〜。「マイナンバー」ってなにそれ?シドニーの交通機関みたい(マイバスとかマイマルチとか)。「国民総合管理法」と正確に言って欲しいですね。でも、「すげえな」って思っちゃいました。僕が学生の頃だった頃にも似たような話があって、そのときは猛反対にあってコケてて、その後、同じような話が出ては潰れていたんだし、それが健全な自由感覚だと思ってたんだけど、あっさり通っちゃいましたね〜。しかも殆ど話題にもならず。てか、橋下君の慰安婦なんたら発言でもっていかれてしまいました。これ、最初から皆の出来レースだったという説もありますが。

 この問題点は、よく言われているように個人情報の流出=悪徳業者や犯罪利用も勿論あるんだろうけど、本質的には囲い込みの布石でしょう。直ちにどうこうというほど底の浅いものではなく、あちこちに網をしかけて徐々に絞り上げていくという一連のアクティビティの一環でしょう。大体、情報流出といっても、もっとも流出されたくない先=情報を得て最大限有効に活用できるのは誰かといえば国家ですもん。細かな議論はやまほどあるけど、細かいです。行政の効率化といっても、それで浮いた分公務員を○○人クビにして人件費を浮かすとか、手数料を下げて国民に還元するとかいう実益のある話にならないで単に効率化といっても意味ないし。住基ネットで便利になったのかという別にそんなこともないし。これでまた、2000億円+毎年数百億のメンテ代で電算メーカーは一息付けるという意味では強者間の「いつものアレ」なんでしょうけど、それとて全体からみたら些細な話。。

 中長期的には、日本のプチ富裕層の資産の国外流出を防ぐという意図はあるでしょう。中国の富裕層が必死にそうしているように、いざとなったら預金封鎖や金融資産の凍結とかやられたらたまったもんじゃないから、目端のきく人から資産の(自分も)海外に移したり、リスクヘッジをかけたりしますが、そんなことが広まって日本の個人資産が空洞化していく。そうなったら「打出の小槌」の国債発行にも陰りがでますし、いざというときの大精算のときにも困るから、さりげに出口を塞いでおこう、塞ぐ準備を着々と整えようってことでしょう。タレント志望の女の子を事務所に呼んで、さりげにドアのロックをポチと押すようなものかしら。

 しっかし、それよりなりより、昔はあれだけ大反対だった国民の声も小さくなったもんだって感慨が一番デカいですね。「ほお、もうそんなところまでいっちゃいましたか」という、そこはちょっとビックリしたな。それも大反対を押し切ってとかいうのではなく、殆ど大した話題にもならずになっちゃうところが凄いよね。これじゃあ徴兵制だって、その気になったらイケそうですよね。もちろん「徴兵制」なんて波風立てるようなネーミングではなく、最初は「防災ボランティア促進法」とか、とてもスィートで口当たりのよいところから始めて、もちろん強制参加ではないんだけど、やってるうちに徐々に参加しないと居心地悪いようにして、、って出来ますからね。日本人動かすには立法なんか要らんもん。雰囲気と居心地だけで十分に動かせる。

心理操作〜無力感と奴隷化

 第二に、僕が強者で弱者から搾り取りたいのだったら、「逆らっても無駄」「どうしようもない」という自分の無力感を染みこませることでしょう。

 これもダンドリが難しく、いきなりやったら猛反発を喰らうに決まってるから、少しずつ少しずつ、「あきらめ菌」みたいなものをバラ撒いて、皆の心のなかに繁殖していくように仕向けるでしょう。

 これは刑務所なんかでもそうだけど、絶対に逃げられないという威迫的な環境を構築することで収容者の反抗を未然に防ぐ。どうせダメ、やっても無駄って悟ってもらう。これが、鉄条網しかなくて、しかもユルユルでそこかしこに穴とか開いてたら、「もしかしたら?」という希望が出てきますよね。そうなると、人間活発に動き出しますからね。なんとかして!って思う。映画の「大脱走」のようにそれ自体にロマンを感じてしまったりもする。そんなにピキピキ生きが良く動かれたら困るから、精神病棟で精神安定剤を飲ませるように、あきらめて貰う。

 囲い込みというのは、情報がどうとかいう以上に、こういった包囲網や監視網によって徐々に自発性や抵抗意欲を減らしていくという心理効果の方がデカいと思います。

 無力感が強くなればなるほど、不安感や恐怖心、依存心も強くなりますから、操縦する側としては操りやすいです。何を言ってもやっても「しかたがない」ってあきらめてくれるから楽です。中国ヤバイです、北朝鮮危ないですってジャンジャン言い続ければ、徴兵制も「しかたがない」って諦めてくれるかもしれない。一足飛びにはいかないけど、憲法だのなんだの布石は徐々に打たれているし。

 ちなみに、戦争くらい強者にとって美味しいものはないかもしれません。だって強者は自分(や家族)が戦場にいく気遣いはないし、軍需産業めっちゃ潤うし、あらゆる国内問題を「非常時」の一言で棚上げにできるし、ドサクサ紛れになんでもできるし、国債だってチャラにしやすいし。もっと恐いことを考えれば、国家にとって搾り取る資産もろくにない、僕のような素寒貧な国民は、はっきりいって寄生虫的に迷惑でしょう。国としてもいいカッコして保護してやらなあかんわ、金もかかるわ、困窮のあまり犯罪を犯すかもしれないから治安コストもかかるわ。できれば一掃したい。オーストラリアなんかその必要性(島流し)で出来た国みたいなものですもんね。

 そういう意味では戦争は使えます。軍隊はいい就職先だし、メシも食えるから彼らも入隊するし、しかも徴兵すれば気に食わない奴を徴兵できる。でもって絶対に生きて帰れそうもない熾烈な戦線に送れば合法的に殺せるし、穀潰しみたいな国民どももまとめて「清算」できます。これは過去に「間引き」のところで書いた、北海道の開拓団と同じ構造です。「死んでくれた方が経費が浮くから都合がいい」と公文書に書かれているという。正直な時代だったのね。もし日中首脳が邪悪の権化のような人物だったら、尖閣諸島もなにもかも最初から出来レースだったということもありうるでしょう。「困ったもんですなあ」「ウチもですよ、うるさいのが多くて」「いっそのこと消しちゃいましょうか」って。ま、でも、どちらもそこまで政治家として「優秀」ではないとは思うが。


 無力感といえば、もともと日本人にはそういう部分が濃厚で、そのメンタルの弱さが失われた20年の核心にあるんだとも思うのですが、これ以上不安感と無力感を煽ってどうする?って気もします。鬱なんて、不安で無力感を抱えてないと中々ならないでしょう。

 でもなあ、世界的に見て(って別に全部がわかってるわけではなく、シドニー的にだけだけど)、日本人が無力感を抱かねばならない実体的根拠なんか何処にもないんですよね。なんでそう思うのか不思議。こんだけ平均的に高等教育を受けていて、こんだけ真面目で人柄が良くて、こんだけ仕事に感情移入が出来て、こんだけ視野が広くて、グローバリズムに最適性を備えていて、どこが無力じゃ?って思うぞ。

 後者の「視野」「適性」は注釈が必要で、注釈だけで一本かけちゃうくらい長くなるから簡潔にいえば、資質としてはそうだということです。アクティベートされてなくて、まだ能力が眠っている、眠れる獅子状態だけど。なぜなら、無神論であるという精神的な不安定さと引替えに、全てを相対的に眺めることができるという視座を得ている。これがイスラムとかキリスト(なんでもいいけど)宗教的(特にカルト的に)凝り固まってるとこういう視座は得られない。また、カーストとか人種とか国内での民族&エリア対立がどうとかいうローカル的な呪縛も少ない。

 適性は、いい意味でミーハーであり、どんな文化も食い物も面白かったり美味しかったらすぐに取り入れるという柔軟性がある。思想呪縛もないから、尊皇攘夷!→あっさり開国しちゃいました、でも誰も文句を言わないし、鬼畜米英!→今日からアメリカ万歳だぜ、になっても文句を言わない。ただ目の前の現実をリアルに受け止めて行動する。めっちゃ合理的で実務的。こんなの普通の人類には中々できないよ。

 だから「資質」としては非人間的にまでに優秀なんだから、無力感を抱く必要性などサラサラないです。強いていえば、「押しが弱い」「こだわりがない」ことだけど、これは物事の両面であり、だからこそ柔軟でありうる。「柔らかいから硬くない」だけのことでしょ。

 そういう意味では、日本の現状を「仕方がない」「やれやれ」と思ってやり過ごすのも、単に腑抜けの根性無しであるというよりは、無限の柔軟性で受け止めているだけって言えなくもないです。でもさ、だったら、無力感ではなく、こんなことすら気楽に流せる俺はなんて強靱なんだって無力感ならぬ「有力感」を抱いても良さそうなんだけど。放射能OK!地震OK!破産OK!何でも来い!って。だって実際にそうじゃん。これ、皮肉でも揶揄でもなく、そう思いますよ。「日本が破産しました!」「あ、そう」ってな感じ。心の底ではそのくらいふてぶてしいんでないの?ま、また目の前の現実をみて、テキトーにやっからさあ、そんなに心配すんなよって感じ。

 なお、話はアチコチに飛びますが、強者は、彼が真の強者でありたいと思うならば、さらに自分よりも強い奴に挑まねばならないと思います。もっと強くありたいと無限のチャレンジをするところに強者の強者たるユエンがあり、プライドがあり、強さの源泉があるのだと。というかね、本来、強者は強者にしか興味がないんじゃないか?宮本武蔵だって、自分よりも強そうな奴しか興味が無かっただろうし。彼らからみたら弱者は全然別リーグの存在だから、むしろ親が子供を育てるようにアレコレ世話してしまうんじゃなかろうか。中には子供を食い物にするような親もいるけど、でも、その程度。

 だから、こんな弱者から収奪しようという弱いものイジメ、それも姑息な手段でやろうという奴は、そもそもが「強者」ではないのかもしれないです。たまたま強者的に立場にたってしまった弱者に過ぎないというか。だもんで、この構図は「許されざる弱肉強食」なんだけど、その本当の問題点は「強者が真の強者ではない」点にあるような気がします。さらに言えば、本当に強い奴(つまり庶民)が自分を強いと思っておらず、それどころか無力感を注射されている一方、本当はヘタレで弱い奴が自分は強いと誤解しているから妙なことになっているんじゃないかって気がします。もっともっと言えば、その気になったら何でも自分達で出来てしまう、やろうとしてしまう日本人にとって、本当に「国家」なんているの?町内会や自治会で間に合っちゃうんじゃないの?って部分にまで至るのですが、そこまでいうとファーフェッチなのでこのくらいで。


 で、テクニックのその3は、価値観統制ですね。お金がかからず名誉を与えて喜ばせて不満を抑えるという。そのためには全体の価値観を一つにまとめておいた方が良い。「良い」というよりも、これは絶対条件でしょう。ナチスの第三帝国とか、神州不滅とか、偉大なる首領様とか、アメリカは自由の国だとか、社会全体の価値観を統一しておくと何かとやりやすい。

 そのためには、、、って、ああ、もう書き過ぎか。結構な分量書いちゃったので、今回はこれまで。気が向いたらまた書きます。




文責:田村



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