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今週の一枚(2013/05/13)



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Essay 618:憎悪の動機、愛の動機

あんまり人間/世界が好きじゃないんじゃない?

 写真は、Enmore。NewtownやEnmoreあたりは、やっぱりどことなく絵になる風景が多いです。
 この店も、佇まいが絵になるなと思って、通りすがりに撮ったものです。

 あとで調べたらThe Itchy KittyというWEBもあって、パフォーミングアーティストがやってる骨董品店。いわゆる「キッチュ」「レトロ」小物の店です。まだ去年(2012)の暮れにオープンしたばかりなそうな。今度行ってみよ。


こんちくしょう! 微笑ましい自己愛と自己嫌悪

 誰かの言葉で、「人生の原動力は"こんちくしょう!"だ」というのがあって、僕も「そうだよなあ」ってよく思います。

 部活の対抗試合でボロ負けして、それはもう悔しくて悔しくて、あまりの悔しさに帰りの電車内では誰も何も言わずに、ひたすら押し黙っている。やがて、誰かが沈黙を破って「おう、明日から朝連やんぞ」「おう」「7時集合な」「「7時?甘いこと言ってるんじゃねえよ、6時だろ」「おう」とかいって、本当に翌朝5時起きして練習やってるという。

 僕も体験ありますけど、「くっそおぉぉおおお」という猛烈な感情が、まるで火口から流れ出す熔岩のように後から後から湧いてきて、アホみたいに頑張ってしまう。「こんちくしょう!」が原動力だというユエンですね。

 同じようなことは幾らでもあります。例えばダイエット。
 ほのぼの&しみじみ系のダイエットなんか普通はやらなくて、いきなりドカン!と始まる。何か衝撃的な出来事があったからです。例えば、他人からブタ扱いされたという血がカッと酸っぱくなるような屈辱感、あるいはふと撮ったスナップショップに写っているブタのような自分を見たり。「なんだ、こいつは?」「ゆ、許せん」となって、猛烈な衝動でダイエットに励む。

 英語がわからず、とことん屈辱的な思いをして、あまりの悔しさと情けなさに涙が出てくるくらいの思いをすると、「深夜に素振り千回」みたいなクソ勉強をする。受験中の模試で、よくある「死んでしまえ答案」なんか書いて、谷底に突き落とされるような点数を喰らったときは、不渡り手形を出した中小企業経営者のように手がワナワナが震える。「くっそぉぉおおお」と思う。ぬるい自分が許せない。

 まあ、この種の体験は、リアルタイムで見れば激烈な感情を伴うのだけど、でも、視点をパンして遠景で捉えれば全体としてはほのぼのしたものです。「いやあ、よく頑張ったなあ、あんときゃ」って、しみじみ回想モードで思ったりもする。

 これらのモチベーションの本質は、愛でもあり、憎悪でもあります。自分はこうあって欲しいという自己愛と、そうなっていない自分に対する強烈な憎悪。カッコいい自分でありたいと強く思うのだけど、全然カッコ悪い自分がいたりして、それを否応なく突きつけられると、「うおおお!」となる。「何やってんだよ、俺は!バカじゃねーか、もう死ね死ね死ね!」みたいに思う。自分が許せない。かわいさ余って憎さ百倍で、自己愛が深ければ、自己嫌悪も又深い。山高ければ谷深し。

 でもまあ、それもこれも、可愛いちゃ可愛いお話ですよね。愛と憎悪の対応関係が非常にシンプルだし、構造もとってもわかりやすい。

愛と憎悪の独立開業

 ところが、世の中には、わかりにくい話も多いです。
 愛なら愛だけ、憎悪なら憎悪だけってセパレートになっている。本当は光と影みたいなものだから、力学的にいってどっかに対応関係はあるはずなんだけど、やたら年月が経ちすぎて、やたら構造が複雑すぎて、もう何がなんだかわからず、憎悪が憎悪として独立開業しているという。

 それがモチベーションになっていたりして、そうなると話はややこしくなります。

 例えばヒトラーです。彼は、婚外子説もあるくらい出自が複雑で、芸術家を志すも入試に失敗し、且つ才能にも乏しく、それゆえビンボー生活を余儀無くされ、また背が低いという引け目もあり(といっても173cmあるが)、これらのコンプレックスが屈折しまくり、ああいう人になったと言われています。ま、でも、そんなに言うほどヒドイ話ではなく、誰の青年期だって大なり小なり似たようなもので「普通じゃん」って思うのですけど。

 思うに、はじめは「なりたい自分になれない自分」に対する自己嫌悪や発奮はあったと思うのですけど、どうにもこうにも上手くいかないと、今度は自己憎悪を他に転嫁するようになる。こんなに頑張ってる優秀なオレが報われないのは世間が悪いからだになる。早い話が「拗ねる」という幼児感情です。一方、自負心やプライドという自己愛感情は、本来それを裏付ける実力や実績あっての話なんだけど、見るべき実質も無い!となると、実質から切り離されてプライドだけが独立開業しはじめます。実体というアンカーから自由になったプライドは、糸が切れた凧のように天まで届く。俺様はもともと高貴な存在で、、、みたいな大ボケが始まる。

 かくして、根拠のない俺様主義的な全能感や、やたら他人のせいにする他罰的で被害者意識満載の「イヤなやつ」が徐々に形成されてくるのですけど、しかし、まあ、これだって「普通じゃん」ですよね。そんな奴は歴史上常にいたし、リアルタイムの日本にも山ほどいるでしょう。ある意味では普遍的なパターンだし、大なり小なり若い時期は誰だってそうなる(実績を積む時間的余裕がないからそうなりがちという意味で)。あなただって僕だって、そういう側面は幾分かは持っている。

 しかし、ヒトラーの才能は、これを政治的ポピュリズムという形でクリスタライズ(結晶化)していく点にあったのでしょう。心血注いで壮大な嘘の世界を構築すること、そしてそれを大衆に訴えかけるレトリックや、時機をみて転身していくマキャベリズムや政治的現実感覚が飛び抜けて上手だったのでしょう。

 今この瞬間にも「ヒトラーの卵」のような人は世界中に何億人といることでしょう。条件さえよく、遺伝子さえ良ければ孵化する。しかし、ここまで分り易く羽ばたく人は少なく、一般的にはヒトラーの毒を何十倍も薄めたような形で出てくる。


 煎じ詰めれば「拗ねる」というくだらない幼児感情から始まって、やがて「世界を恨む」という感覚になり、それを正当化するために読書や思索に耽り、壮大な自己中理論を構築する。つまりは、全ての原動力が憎悪によって賄われるようになっているという構造です。

 例えば幼少期の時に貧困に喘いで、しかもそれが故に屈辱的な扱いしか受けなかった人が、「この世は銭ずら」という「銭ゲバ」になるとか。

 あ、「銭ゲバ」というのは、ある程度の年齢層の人だったら知ってると思いますが、70年代のジョージ秋山作のマンガです。えぐいです。2009年にTVドラマ化されたそうだけど、時代相応にぬるくなってて、原作は徹底的に救いがないです。個人的には、水俣病を撒き散らす大企業の社長におさまった主人公が、被害住民につかまって無理やり水銀を飲まされそうになるシーンが印象的でした。ファンタジーに逃げないで、プロットや完成度なんかどうでもよくて、どこまでもリアルに(ゆえに醜悪に)描くという作者の意思が突き刺さってくるような名作。ヘタに読んだらトラウマになります。「銭ゲバ」というタイトルが秀逸過ぎる。

 同氏にはさらにもっと救いがない「アシュラ」という前作があります。銭ゲバは、わずかなお金が無いために目の前で母親が死んでいくのですが、アシュラはその母親に自分が喰われそうになりますから。人肉を喰らうという極限状況が、主人公の周囲だけではなく、普通に皆がやっているという。人間存在の救いの無さとか、リアルな日本史っておそらくこうだったんだろうなとか、色々考えさせれます。もっとトラウマになるかも。

 しかし、今更ながらよくこんな漫画、普通の少年マガジンとかサンデーで連載してたよなって思いますね。デビルマンのジャンプでも暴徒にヒロインが(リアルに)八つ裂きにされたシーンまで描いているし。もっとも平和ボケした今だからこそ表現の過激さという脈絡で驚いているだけですが、当時の感覚でいえばちょっと前に戦争や戦後があって、そのへんの路上に当たり前のように顔の潰れた死体やら餓死者が転がっていたのだから、「表現」がどうとかいうレベルではなかったんじゃないかな。1970年の人が1945年の終戦時を思い出すという時間感覚(25年前)は、2013年の今に1988年のバブル期を思い出すくらいの時間感覚でしかないんだから。ほんと「ちょっと前まで」ですよね。

 だもんで、表現がどうとか問題にするだけ、日本も豊かになったもんだって感じ。アシュラの過激描写に抗議の声が上がったけど、僕も子供心になにやら偽善的に写ったりもした。思えばあの頃から「臭いモノにはフタ」「イヤなものからは目を背けて無かったことにする」的な戦後日本のサニタイズ(衛生化)メンタリティが始まっていたのかも。精神的虚弱体質というか、リアルを受け止めきれない日本がだんだん嘘臭くなっていく。作者もそれに異議申立をしたかったのかもしれません。

 ついでに言っておくと、三丁目の夕陽的にノスタルジックに描かれる昭和30年代とかですが、幼心の記憶をリアルに再現すれば、あの頃の日本はとにかく暗くて、臭かったと思います。街灯も少ないし、部屋では裸電球がぷらんぷらん揺れて、下水処理その他もまだまだ十分ではないし、便所なんか普通に汲み取り式だったし。今の東南アジアの貧困地帯みたいな感じ。今の人がタイムマシンで当時の日本に行ったら絶句するかも。つげ義春のやたら黒ベタを多用した、まんま「黒っぽい世界」だったような記憶もあります。宅地開発も進んでなかったから、そこらへんに濃密な樹林があって鬼太郎的な妖怪がリアリティあったもんな。

 幼少期の皮膚感覚で覚えている僕としては、これから日本がどんどん凋落してドツボになったとしても、「またあそこに帰るだけ」って、ちょっと懐かしい感覚はあります。ぬるぬる、ぐちゃぐちゃ、生あたたかくて、生きたミミズを手づかみにしたような社会ですね。清潔で安心なんて程遠いのですが、ミミズののたうつ手の平の感触が確かな「生」を感じさせたように、今の社会のプラスティック感もまた無くなると思えば、一概に悪いことではないよと。以上余談です。

 話はそれましたが、銭ゲバ的なコンプレックスが原動力になるケースでは、「世間を見返してやる」という「世界に対する憎悪」が原動力になる。同じように、女性(男性)に手ひどく撥ね付けられた恨みを晴らすために、ステイタスや富力を蓄えて「見返してやる」とか。

 ま、「見返してやる」という心情そのものは、別に悪いことではないです。「こんちくしょう」が原動力になっているという意味では、微笑ましくもある。だけど、普通は一定レベルにまで達すると、憑き物が落ちたようにバランスが回復するものです。「なーんだ、くだらね」と、やっててアホらしくなる。

欠落補償の力学

 心の力学でいえば、自分に関する「ここが足りない」「ここがダメ」という欠落感、凹み、劣等感情は、強烈な補償動機を生むでしょう。それは例えば家の窓ガラスが割れているとか、車のバッテリーがあがったようなもので、早急な修理措置をしなければと思う。自分に○○が足りないと思えば、「早く何とかしなきゃ」と思う。それは肉体的に怪我をして血がダラダラ流れているのをみて、止血や手当をしなければ思うのと同じで、まったくもって当然の発想でしょう。その欠落感や危機感が、なんらかのアクションを呼ぶし、アクションを起こすにあたっての心的動機付(モチベーション)になる。

 凹みコンプレックスは、そりゃもう無限にあるでしょう。やれ、「美しくない」に始まって、「ダサい」とか、「喧嘩が弱い」とか、「頭が悪い」「お金がない」「学歴がない」「地位がない」「友達がいない」「スキルがない」「就労経験がない」「まだ結婚してない」「まだ子供を産んでない」「老後の準備が不十分」、、、もう幾らでもあります。ひいては「配偶者や子供とうまくいってない」「養老院でイマイチ人気者になれない」とか死ぬまでつきまとう。

 Aという欠落感が、Aの「大量発注」に結びつく場合はシンプルに幸福です。喧嘩が弱くてボコボコにされたから、ちくしょう!と思って格闘技を習って強くなるとか、勉強ダメダメで一念発起して猛勉強するとか。これは対応関係が直接的だから話は早い。どう「早い」かというと、馬鹿馬鹿しくなるのも早い。喧嘩に負けたというのは、強くなって喧嘩に勝ったという状況になれば、とりあえずは解消するし、モチベーションも一応は消える。でもって、副作用にもわかる。なまじ強くなると、もっと強い連中から目を付けられてボコられるという悪循環が始まったり、下からは挑戦を受けるし、一般の人からは恐がられて孤独化するとか、強くなったところで大して問題は解決しない。当初の問題は解決するかもしれないけど、その3倍くらい新しい問題が発生するのにも気づく。だから、「ははん、なるほどね」とわかるし、馬鹿馬鹿しくもなるし、世の中別に喧嘩が強い/弱いというシンプルな基軸で廻っているわけではないのね、というクソ当たり前なことにも気づく。つまりはバランスが回復する。

 これは学歴だって、地位だって、英語だって同じ事で、必死こいて修行して、ある程度の峰に立ったときに、誇らしいかといえば、それよりも「あ、なるほどね」と思う。「英語が完璧にできたからって別にどうということもないのね」「万能薬じゃないのね」「まあ、考えてみれば当たり前だよね」と。「誰よりも喧嘩が強くて、それがどうした?」と。これは過去に「なるほどの旅」で書きましたが、達成したらコンプレックスは「成仏」するのですよね。で、新しい視界が広がる。

代償補償 〜成仏とバランス

 しかしAという欠落感を直接的に修理できない場合もあります。Aはダメだから、その代わりBだと。キャーキャー言われるナイスなルックスに恵まれていないから、その代わり「金の力にモノを言わす」というBという方法論に走る。クラスの中でどうもモテないから、せめて勉強で見返してやるとか。

 このB代用プランは、A直接プランよりも間接的なだけに、成仏するのが遅くなるし、バランスをとるまで時間がかかると思います。目論見通りBが順調に伸びてます、人並み以上になりました、群を抜いてBが秀逸になりました、、となっても、A欠落という事実は事実として残り続けるからです。いくら金を稼いで、金の力で夜の席でキャーキャー言われようとも、本質的には虚しい。「どうだあ!」と言ってはみるものの、虚しくエコーがかかったりしますよね。だってA欠落は欠落のままですもん。むしろ「金がなかったら昔と同じダメ人間」「しょせん代償は代償」ということを、より露骨にクッキリ認識させられる。つらいです。

 B系でバランスを取るのは難易度が高いです。なぜならこの方式でバランスを取るには、自分の凹みを凹みとして認識しても、それによってそれを「(早急に対処すべき)欠落」であるとは思わず、それもこれも全部自分の個性であるという達観が必要だからです。これはある程度年取らないとダメじゃないかな。確かに自分は美しいとは言い難いご面相だし、ハゲてるけど、それもまあ自分のキャラだよねって、強がりではなく、本当にそう思えるようになる。そんなの数ある人間の側面の一つに過ぎないという広い視野が必要で、その視座を獲得するためには、やっぱそれなりの年月と修行が必要。

 といってBは全く無価値かというとそんなことはないです。Bが出来たことだし、まるきりダメダメってことはないだろう、それなりに俺も捨てたもんじゃないよねって思える。一つダメなら全部にダメと直線的に思いこまず、それなりに自分が成り立つような自信を持つ、その一つのキッカケとしてBは意味があります。そこで余裕が出来て、さてAなんだけど、こりゃもうしょうがないよね、愛嬌にしていくしかないよねと自然に思えるときが来ます。そうなると視界が平静になるので、A欠落!と昔ほど思わなくなるし、思っていたほど他人も気にしてないのがよく見えるようになるし、そもそも欠落なの?って気もする。

 これは鏡のようなもので、本人にバランスが回復して欠落感が乏しくなると、実際に周囲から見ててもそれが欠落には見えなくなる。例えば、アインシュタインやダビンチがイケメンであるかどうかなんかどうでもいいし、彼らが喧嘩が強いかどうかなんか誰も興味もない。ハゲといっても坊さんは皆ハゲてるし、実際にハゲてることが好ましく思えるような、優しい人柄の人だっている。大仏様だって、いってみりゃメタボですけど、誰も大仏さんがデブだから嫌いって思わないでしょ。大仏様が逆三角形でムキムキだったら不気味でしょ。あのふっくら具合が良いのだ。本人にバランスが回復したら、欠点は個性や愛嬌に転化するし、ひいては特徴ですらなくなる。

 どうみても美しいとは言い難い男女であっても、やたらモテてる人達がいますが、だから彼らはそれなりにバランスが取れているのだと思います。学歴が無くても、頭悪くても、英語できなくても、金が無くても、背が低くても、AであろうがZであろうが、それでも健やかに、幸福になっている人は幾らでもいる。てか、そっちが普通です。だから欠点なんか、本人がそう思いこんでるだけの幻想でしかないのだよな、、、ってのが段々分かってきたら、バランスが回復する。

 でも、その道のりは結構長くて遠い。ある程度の年月と修行は必要でしょうねえ。でも「そのうち分かるよ」って。分かって貰わないと困るんですよ。いい年ぶっこいていつまでウダウダやってると、後で述べるように他人に迷惑がかかる。

 そしてバランスが回復してから、本当の愛を原動力としたモチベーションが始まるのでしょう。世界を恨まず、自分も他人も誰も憎まず、ちゃんとバランスが取れていて、そのうえで始まるモチベーション、「こんちくしょう!」「見返してやる」ではないモチベーション。ただただ、その物事が「いい」から、美しいから、素晴らしいから、おいしいからやる、それを求めるという。
 ところが、そんなバランスの取れている人ばっかりではなく、ときとしてバランスが取れる前に、憎悪の独立開業のまま推移してしまう人もいます。開業してそのまま大企業に成長してしまう。

 ヒトラーだってある程度エラくなって皆にキャーキャー言われている時点で、バランスが回復しても良かったんですよね。「ほら、俺だって捨てたもんじゃないだろう」と思い、そのうち「んなこたあ、どうでもいいや」ってなる筈なんだけど、それまでの自分の作った憎悪世界観が強烈すぎるし、もう動き出して自走し始めるから降りられないし、降りようとも思わなくなり、やがて破滅に向かっての大ボケ人生になるという。

 それに動機が憎悪であろうが何だろうが、ある程度心血注いで努力をしたら、何事かカタチになっていくだろうし、「成功」していく。そうなると、今度は、作業性興奮という大脳作用によってか、それを進めていくこと、頑張って積上げていくことが面白くなっていく。ハマっちゃうのですね。それはそれでいいんかもしれないけど、肝心のモトの部分のバランスを回復させておかないと、全体が濁ってしまう。単に「面白いからやってます」だけだったらスッキリするんだけど、原初の憎悪フォーマットが残ったままだと、つらいものがあります。


 こういう人、面倒臭いです。出来ればお近づきになりたくない。
 でも、自分の上司とかになると逃げるわけにもいかないので、適当に「流す」ことになりますが、それは意外と難しくないでしょう。なんせ方向性がシンプルですからね。「何考えているのか分からない人」よりは取扱いは簡単。ちなみに難易度が高いのは、天衣無縫に純粋な人とか、純心だけどスキャナーのような洞察力を持ってる人で、これはもう全力で誠実に取り組まないとならない。嘘がない分気持ちはいいけど、それだけに真剣勝負で誤魔化せないから大変です。その意味でいえば、ヒトラータイプは丁寧に「よいしょ」フォローをしておけばいいから、楽っちゃ楽です。本家のヒトラーだって、「ハイル・ヒトラー!」と言っておけば良かったんだから。むしろ恐いのは洗脳されてしまうことでしょう。

人間/世界が好きじゃないんじゃない?

 本論は以上で、以下、余談かたがた関連話題を書いていきます。

 ある人の行動や表現に接する場合、この人の原動力は愛なのか、それとも憎悪なのか?ということを時折思います。別の言い方をすると、彼/彼女は、バランスが取れているのか居ないのか、この世界を愛しているのか、それともまだ憎んでいるのか。この人は根っこの部分人間が好きなのか、嫌いなのか。
<その源流はどっちなのか?と気になるときがあります。

 これは、603-2/理屈と感情の微妙な関係 でも書いたことだけど、筆者/話者の悪意が伝わってくるような場合があって、あれこれ理論的には面白かったりしても、最終的にどうなんかな?なんか腑に落ちないって思うこともあります。

憎悪モチベーション

 すごーく分かりやすい憎悪事例は、ネットの2ちゃんあたりで「死ね、カス」とか罵倒してるような「表現行為」です。あるいはKKK団などです。さらにはヘイトクライムと呼ばれる、人種、民族、宗教、性的嗜好などの偏見や憎悪がモチベーションになっている犯罪。これは具体的に犯罪行為になってるケースですが、その手前で、アジテーション(煽り)をするとか、それに基づいた論文や評論を書くとか、口頭で罵倒するとか、さりげなく差別するとか。

 日中韓でなんだかんだ議論というか罵倒の応酬(ではないな、それぞれの仲間内で盛り上がってるだけか)があり、それにもうちょっと高尚な歴史論議や考証がなされたりしてますけど、僕などは、それが憎悪モチベでなされているという時点で、もう受け付けないです。歴史がどうとか、はっきり言えば関係ないです。何をどういおうが、「要するに憎いんでしょ?」という時点でアウトです。

 それに銭ゲバのように子供の頃からイヤというほど直接体験をしていて憎しみを抱くようになったのならまだしも、直接面識もないような、しょせんは本やネットで見ただけのヴァーチャル体験(という名にも値するかどうか)しかないのに、よくそこまで他人を憎めるもんだな〜って、素朴に感心します。歴史上ヒドイ奴とか、犯罪者とか幾らでもいるし、それを読んだりしたときは嫌悪感も抱くけど、そこまで精力的に日夜憎み続けることなんかできないわ。そんなことが人間に出来るのかな?って。だから、憎悪は既に他の局面(その個人のプライベートな人生局面)で十分に醸成されていて、そのはけ口としてなにかもっともらしい物事を求めているんじゃない?と。だもんで、そんなどっかの他人のプライベートな憎悪に付き合ってるヒマはねーよと、思うのです。

 憎悪モチベって、結局このパターンが多いのですよ。ヒトラーの個人的コンプレックスは、それはそれで同情する部分もあるかもしれないけど、だからといってつきやってやる義理はないでしょう。

えせ愛モチベーション

 その鏡像にように(えせ)愛モチベもあります。
 日常的にイケてないし不満が多い日々を送っているから、せめてひいきのチームだけは熱狂的に応援するとか。まあ、気持ちは分かるし、常識的な範囲内だったら可愛いものだから全然問題ないんだけど、行きすぎると醜悪です。世界的にもサッカーの試合がキッカケになって戦争が始まる大馬鹿なケースが本当にあるし。

 甲子園でも、郷土の誇りとかいって応援しているレベルだったらまだいいけど、決勝エラーした選手を戦犯扱いして罵倒したり、監督の采配がどうのってウダウダ言ってる奴は嫌いです。文句があんならテメーがやれ、ですわ。そんなの結局、郷土を愛しているわけでもないし、スポーツを愛しているわけでもない、あるのはてめえの歪んだ自己愛だけだろがって。あんたの自己愛がいかに歪もうが知ったこっちゃないけど、他人に迷惑かけちゃいかんでしょう。

 自分の人生がイケてないから、せめて他人を愛するのは、せめて他人を憎悪して埋め合わせるのと同じくらい良くないことだと思います。この結婚は失敗だ、夫には何の愛情も感じない、だからせめてこの子だけは東大に入って欲しいって、違うだろうが。失敗したと思ったらとっとと離婚しなはれ。自分の尻は自分で拭いてください。関係ない人を巻き込まないでください。

誤魔化しは悪魔化のはじまり

 このようにバランスの取れていない愛/憎悪のモチベーションに衝き動かされている人を僕はキライです。大っ嫌いだあ。だけど、そうなる手前は大好きです。

 コンプレックス抱えて、心が弱くなって、おろおろしている状態を、僕は嫌いではない。子供がビエーンと泣き出す1秒前に顔をクシャッと歪めた瞬間のような人間存在。それは嫌いどころか、力いっぱい抱きしめたいくらい好きです。その弱さが人間のラブリーで愛らしいところだと思うもん。

 弱くたっていいんだわ。てか、僕らはいつも、弱っちくて、ヘナチョコで、おろおろしているのだ。それでいいのだ。そこで愚かな僕らが、あーでもないこーでもない右往左往し、巧まずして人間喜劇が起きるからこそ、世界はかくも美しく、愛に満ちていると思うのですよ。

 だけど、その弱さを「誤魔化す」ことは許せない。多少のズルだったら些細なカンニングみたいに許せるかもしれないけど、洒落にならない誤魔化しは、本当に洒落にならない。地獄の一丁目というか、この誤魔化しこそが「悪魔」が降りてくる瞬間だと思います。そうなったら、後はいくら突っ走ろうが、本人が救われないのはもちろん、他人にも多大な迷惑がかかる。まさにヒトラーのように。

複合事例

 複合事例ですが、純粋に愛で始まった行為が徐々に憎しみに転化していくという不幸なケースもあります。これは政治問題によくありがちなのですが、最初は素朴な好意や善意から始まります。美しい山河を守りたいな、この子達が幸せになれたらいいなって。ところが、それを阻害するような行政があったりすると、勉強したり抗議行動を起こしたりします。ここまでは普通。

 しかし、それも段々嵩じていくと、人によっては、この無能な政府や官僚機構、汚濁に満ちたシステム、それ自体を激しく憎むようになります。まあ、憎んでも普通だとは思うんだけど、段々と主客転倒して、政府を激しく攻撃したり罵倒するのが目的になっていく。何か事柄があったら、鬼の首でも取ったように大々的に喧伝し、頑張っちゃう。そのうち、そんな政府に操られているメディア、そしてメディアを盲信しているかのように思われる一般大衆すらもが憎らしくなり、侮蔑するようになり、「この世はなんてバカばっかりなんだ!」と思う。

 何度も書いてますが、「世間がバカに見えるときは自分が一番バカである」という鉄板の法則があって、そうなったら、もう悪魔に魅入られている。大体、自分だけが飛び抜けて賢くて、ひとり神の視点を獲得し、あとの全員は盲同然のアホであるなんてことが、客観的にあるわけもない。個体がそこまでユニークな個性を獲得することは生物学的にもありえない。突然羽の生えた人間が生まれる遺伝子突然変異くらいの確率でしかない。

 そりゃあ、めちゃくちゃ専門的な分野で、世間の誰も知らないし、興味もないということであれば、自分一人だけが知っているということはあるでしょう。でも、世間と自分に知識の懸絶があったからといって、自分が神の視点に立っているという保証は何処にもない。自分もまた間違ってる可能性もあるからだし、はっきりいって間違ってる場合の方が多い。知識や学問体系というのは同レベルの多くの他者からの批判を経て、研磨されていくものだからです。

 実戦的にいえば、自分(少数)VS 世間(絶対多数)という構図になってしまったときは、「なにか重大な見落としがある」と思った方がいいです。考えるのはいいんだけど、一つのことを考えると副作用として視野が狭くなる。ぜーんぜん関係ない、思っても見なかった要素に全てがひっくり返されるってこともある。

 言うまでもないけど、これは個々人の人生決定とは別のレベルの話です。自分のライフスタイルを決定するにあたっては、「自分 VS 全世界」という構図になります。それは話がもともと自分という「個」に属するからです。「こう生きていく」という決定は、ナチュラルに個別であり、孤独な決断です。それは「この人と結婚する」という決断が、世界の誰でもない自分一人だけでなされるのと同じことです。

 最初は愛的なモチベーションではじめていたことが、だんだん憎悪に転換し、また憎悪でやってると面白いもんだから、イケイケになっていってしまうというパターンは世に幾らでもあります。早い話がテロリズムです。最初は「大事なものを守る」という行動だった筈なのに、「憎い相手を叩きのめす」ことに力点がシフトして過激な原理主義になっていく。和平交渉でも、和平が守られれば所期の目的=「守る」は果されるから良い筈なんだけど、そこまでいってしまったら、そんな微温的な解決では納得できない。もう「いけいけ〜、ぶっ殺せ〜、皆殺しだあ!」ってノリになってしまう。要するにこの人達は喧嘩がしたいんですよね、攻撃したり憎悪したりすることが好きなんだろうな。悪魔化しちゃってるんだわ。

戦闘のプロ

 ちなみに純粋に「戦闘」レベルになったら、感情入れたら負けです。
 これは、法廷闘争でもそうですし、政治活動もまた権力奪取という戦闘ですし、企業活動でも、ギャンブルでもなんでも、およそ競争原理があり、勝敗的な決着がつく物事である場合は、感情に支配されてはいけない。怨恨、恐怖、意地、願望、嫉妬、同情、、これらの感情は冷静な判断を阻害するから、氷のようにクールにやらないと勝率が下がる。その根本動機に愛があったり理念があったりはするのだけど、実行局面になったらマシンのようにならないと。

 政治活動でも支援者に対して感情的な熱弁を振るって拳を突き上げているリーダーは、「これでこの地区は一応大丈夫かな」と冷静に計算してなければならない。戦闘、勝負というのはそういうことだし、プロになりきらないとダメ。プロになりきれた奴から順に勝っていく。比喩的に言えば、目の前の相手を叩き斬って全身に返り血を浴びても無表情、自分の片腕を吹き飛ばされても、なおもゴルゴ13のように無表情。そういう人って、行くところに行けば結構いますよね。何事かを成就させようと思ったら、こいつらを敵に廻して勝っていかねばならない。もうエイリアンと格闘しているようなもので、感情なんか入れてる余裕はない。

 最初は愛モチベではじまったことでも、途中でドカンと壁が出てくる。これはもう絶対出てくる。そこでなすべきは、憎悪に逃げないで、戦闘のプロになることでしょう。目的を実現したいのだったら、1ミリでもその実現に向けて、最速、最効率の手を打っていくこと。それっきゃないもん。そのために権力が必要だったら奪取する、そのために金が必要だったらどっかから調達してくる。でも、そんなとこまで踏み込めない人も多いとは思います。そりゃ殺伐としてくるもんね。楽しくないしね。でも、踏み込まなくてもいいけど、憎悪方面に外れていくのは思い留まった方が良いと思うのでした。過激派になっていくだけだから。

快刀乱麻の嘘

 「辛口」「毒舌」とかいう売り文句の批評文があります。バッサバッサとあれもこれも斬り捨てるのは面白いっちゃ面白いのだけど、その快刀乱麻的な面白さというのは、アクション映画の爆発シーンやカーチェイスのような享楽的な面白さであって、「ふはは、ここまでいうか」という程度の場合が多いです。全てがそうだと言うつもりはないけど、でも、だいたい批評や批判を真面目にやろうとすればするほど、それが辛口(否定的)になるか甘口(肯定的)になるかは、その題材次第であって、最初から決めつけられるものでもないでしょう。また、その論旨展開の表現技法が、人の感情を逆撫でするような罵倒じみたものであるかどうかは、論旨の正鵠さとは別次元のものであり、結局「辛口」とかいうことがなんで売りになるのかよう分からん部分もあります。なんかムカつくから他人を罵倒してスッとしたいということなんですかね。自分の代わりにズケズケ言ってくれるから拍手喝采って?これも文句があんならテメーで言えよって気もしますが。

 それに思うのですけど、人文科学や社会科学に、スパッと胸のすくような一刀両断的な快感を求めてもムダだと思います。ムダというか間違ってると。なぜなら、社会や人文の構成単位である人間存在そのものが、非論理的でウジウジしてるんですから(そんなパキパキ生きてる人っていますか?)、ミクロであれマクロであれ、それを対象とする立論がスッキリするわけもない。この種の学問領域というのは、ウジウジあーでもないと考えているウジウジ感がイイのであって、そして結果的にはそのどれもが大ハズレという、散々チマチマやって結局全然ダメじゃんというトホホ的な部分を味わうものだと思うのですよ、僕は。そして、そのトホホは決して無意味ではないです。明日のための肥やしにはなる。

 もっと言えば自然科学だって究極的には同じようなもので、結局、森羅万象を正確に理解できるだけのCPU能力を人間の脳や知覚器官は持ってないのでしょう。100年くらいで死んじゃうし、可視光線領域も狭いし。学問の面白さは、まさにその「わかんないけど、わかりたい」という、痛気持ちいいというか、掻いても掻いてもまだ痒いという倒錯した快感にあるような気がします。それか「わかったような気がする」瞬間のスリリングな快感というか。

あんまり人間のことが好きじゃないんじゃない?

 美辞麗句が並びまくっているんだけど、どうもピンとこなくて、「でも、結局、あなた、人間のことがあんまり好きではないんじゃないの?」「この世界を愛してないんじゃないの?」って透けて見える(ような)場合もあります。

 なんというのか、文章の温度が低いというか、ぬくもりや滋味がないというか。自然とにじみ出てくるものだと思うけど。表面的にはクールな文体で淡々としていてもいいんですよ。でも言葉選びや論理展開に、そこに至る思考の苦渋が透けて見えたりして、ああ、この人、ハートは熱いんだなってのが分かることもあります。

 これは何なのかなあ、単なる気のせいや思いこみなのかもしれないけど、なんか見えちゃうことってありませんか?「ああ、この人は結局自分しか好きじゃないんだろうな」って。鋭い理論も、優秀な頭脳も、画期的な研究も、あれもこれも結局、他人や世界に対する愛情から発してるわけではなく、単なる自己顕示や自己確認(それが悪いわけではないが)や、対立者への憎悪、無理解な世間への侮蔑によって成り立ってるんだなってわかる(ような気がする)と、すっと醒めます。

 これは感覚的なもので、もしかしたら女性の方が鋭く嗅ぎ分けるかもしれません。女じゃないから分からんけど。でも、いくら「キミのためなら何でもするよ」と優しく口説かれたりしても、本能的にその嘘はわかるんじゃないかな。

現実の突拍子もない面白さ

 なんでこんな愛だの憎悪だの、ともすれば感傷的なことにこだわっているかというと、僕自身があんまり理論的な「正しさ」とか、あれこれの立論にそれほど強い興味がないからだと思います。いや、知的興味はあるし、面白さもわかるんだけど、でも、その程度で。昔は僕も人一倍どころか人三倍くらい理屈っぽいタチだったんですけど、実務経験を経て段々変っていきました。世の中、「とんでもないこと」が起きるから、幾ら理詰めでやってても、それだけではダメなんだろうなって。

 例えばね、なんかの事件で、過去の判例やあらゆる学説を調べまくり、現地調査もし、相手の心理分析もし、徹底的に検討して、水も漏らさぬ緻密な戦略を練ったりしますけど、その通りいった試しがまず無い。なぜなら「とんでもないこと」が起きるからですよ。ある日、突然依頼者や相手方が死んじゃったとか。交通事故とか、くも膜下とかさ。あるいは係争物件である家屋そのものが延焼で燃えちゃった、地滑りによって無くなっちゃったとか。「え、嘘?」みたいな事柄。離婚事件やってたら、相手のダンナが人身事故起こして多額の賠償額を背負って慰謝料どころじゃなくなったとか、業過で刑務所に収監されちゃったとか。

 冗談みたいだけど、本当に結構あるのですわ。不動産の明け渡し交渉でも、補償金が幾らとか、借地権価格算定とか、売りたくないのは先祖伝来の土地だからってあたりまでは予想の範囲だけど、やれ地縛霊がいるとか、犬神様の祟りがあるとか固く信じて、それが理由で交渉が暗礁に乗り上げるということもあるわけです。「地縛霊かあ、そこまでは考えなかったなあ、、甘いな」と。それが現実なのですよ。理論上は「AはBに所有権移転の合意をしたが、移転登記を済ませる前に、善意の第三者Cにも譲渡した」という記号設例なんだけど、そんな純粋記号はこの世に無くて、Aは例えば狐憑きで、Bは鬱状態で、Cは奥さんの浮気が気になってそれどころではないとか、イロイロあるんですよ。「なぜAは二重譲渡したのか」という問いに「狐憑きだから」なんて答案には書けないけど、現実には似たような話になる(カルティックな新興宗教に傾倒していたり)。刑事裁判の「犯行の動機」なんてのもある程度はフィクションだしね。リアルには、本人もなんでそんなことやったのかよく分からないのだ。

 話を面白くするために無茶苦茶な設例を述べていると思うなら、神戸地震のときだって、さきの東北地震のときだって、被災地で係争中の事件は何万件もあった筈ですよ。なかには係争物件そのものが海面に水没して「消滅」した事例だってあるだろうし、当事者全員が死んでしまったというケースもあろうし、裁判所が津波にもっていかれて全ての事件記録がパーになったということもあるでしょう。どうするの?こういう場合?あるいは、地震前夜に殺人を犯して、山中に死体を埋めている最中に、死体もろとも津波にさわられて、結局殺人事件があったことすら永遠に不明ってことだってあるかもしれない。

 だから、理論は理論で面白いんだけど、現実はそれよりも面白いのです。もう何が飛び出してくるのか分からない。そういう世界観に立ってしまうと、論理や学説がどう整合するかというパズル的な面白さも分かるんだけど、それ以上に、その人が愛の人か憎悪の人かという方がもっと面白いし、現実的には大きな意味を持つように思えるのです。特に海外などにいくと、もっと何でもアリだから、目の前に立ってる人間が、イイ奴かどうかの判断が何よりも大事って感覚になるのです。

純粋な愛モチベ

 キリがないのでもう止めます。

 最後に、じゃあそんな純粋の愛モチベの言動なんかあるんかよ?といえば、そんなの幾らでもあるぞ。毎日幾つも出くわすぞ。

 例えば、「○○のラーメンは最高!めちゃくちゃ美味しい!」と熱弁を振るっている人がいます。別にその店の経営者でもないのに、お金もらっているわけでもないのに、一銭の得にもならないのに、それでも唾を飛ばして力説している。なんで?といえば、このうれしい感動を伝えたい、シェアしたいからでしょう。ここに素晴らしいものがある、その素晴らしさの認識=愛に衝き動かされてやっているわけで、他には何もない。純粋じゃん。

 また、形式的には批判や悪口であろうとも、「こうなればもっと素晴らしくなれるのに!」というギリギリ歯噛みするような熱い思いがある場合には、それもやっぱり愛モチベだと思います。

 総じて言えるのは、聞いてて/読んでて気持ちいいことです。仮にその意見の内容が私見と違っていても、不愉快ではないし、素直に聞けるのですよ。これは、親や教師に叱られているときに、愛モチベでちゃんと叱られているのか、憎悪モチベで怒られているのかを子供の頃に敏感に嗅ぎ分けられたのと同じ事です。そんなの誰にでも分かることだと思います。




文責:田村



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