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今週の一枚(2013/05/06)



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Essay 617:引き出し・引き出せ


 写真は、Chatswoodのマンダリンセンターのフォードコートにて。

 先日、たまたまメシ食ったときに撮った一枚。日々巨大化するチャッツウッド(今も高層ビルが同時に4本建築されている)ですが、このマンダリンセンタービル(一階にDAISOが入ってるビル)。いつまでたってもオシャレになりきれない、どことなくうらびれた雰囲気がいいです。同じChatswoodのレモングローブといい勝負です。アジア系ビルの宿命か、20年近くテイストは変りません。「ダシは変えない」って感じ。

 このフードコートにいつぞやいったとき、この店だけサラリーマンとおぼしき人々が「門前市をなす」状態で混んでて、一回トライしてみようと、まだ空いている11時台に行きました。確かに美味かったし安かったです。

 それだけではなく、この一枚は、なんかちょっとコミカルな映画のシーンのようなおかしみがあるのですね。皆妙にシリアスな顔しているし、それがシリアスであればあるほど不思議な諧謔味があって。じーっと見てると笑えてくる。


引き出しが「ある」だけでは勿体ない

 「あの人は引き出しが多い」など、「引き出し」という言葉が最近よく使われます。その人の多面的な才能や知識を示すことですね。

 しかし、それは既にある「引き出し」を、ただ何となく認識して語っているだけです。
 「それじゃ勿体ないだろう」と思って今回のエッセイを書きます。

 さらに一歩突っこめるんじゃないか、
 どうやったらもっと沢山引き出しをみつけられるか?
 引き出しが「ある」だけではなく、どうすればその引き出しを引き出せるか?

 引き出しが単にあるだけだったら、あんまり意味なくて、それはリンゴを眺めてリンゴだなあって言ってるようなもんでしょう。やっぱり食べなきゃ。引き出し=なにか良いもの=というのは、活用したり、賞味したりして豊かになっていかないと勿体ない。


 なんでこんなことを思ったのかと言えば、日常業務における経験です。
 例えばシェア探し、例えば英語学校、例えばラウンド、例えば仕事、例えば日々の暮らし全般、、要するに全部ですけど。

シェア探し

 シェア探しについては、歴代の先輩達から「シェアは人で選べ」「最低10件は見ろ(人によっては30件という人もいる)」など申し送り事項のように伝えられています。僕はそれを"申し送る"だけです。そして、人で選べも最低10件も、同じことを言っているのですね。

 なんで10件という規準が出てくるのかといえば、最初の頃は「心ココニアラズ」状態で緊張しており、「見る」といっても物理的に目を動かしているだけで、よく分からないからです。しかし数をこなすにつれ、それが段々落ち着いてくる。英語がさっぱり分からないという悪夢のような状況にも慣れてくる。すると家の様子もわかるようになるし、住んでいる人もよく見えるようになる。いわば免許取り立ての人間が路上に慣れるための慣らし運転のような時期です。

 落ち着いてくればくるほど、そこのオーナーさんや同居人達とじっくり話ができるようになる。雑談もするようになる。そうなると向うも色々と人間的な側面を見せてくれる。仕事は○○をやっていて、どういうライフスタイルで、何が趣味で、実は日本にも行ったことがあって、、、という「引き出し」が見えてくる。引き出しが見えるほど、そしてその引き出しが開かれるほどに、その人の人間的な奥行きが見えてくる。

 「人で選べ」というのは、別にシェアに限らずなんでもそうでしょう。人間関係の要素が一定以上の重要性を占めれば、部屋や建物という容れ物の優劣よりも、人の好悪の方にポイントがシフトする。そのことはこれまで生きてきた経験からも容易に推論できるでしょう。

 例えば、人間関係が大きな意味をもつ家族や恋人ですが、あなたは、@大好きな人とボロ家で暮らす、A大嫌いな奴と豪邸で暮らすのとどっちがいいですか?実家は常に故郷のようなものですが、実家の価値の本質はそこに家族が住んでいるからでしょう?その家族との折り合いの良し悪しによって実家に対する思いも変る。ここで実家が木造平屋建であるか鉄筋二階建であるかということは、大した要素にならないでしょう。さらに、実家の構成メンバーが替わる(お父さんが再婚して新しいお母さんが来るとか)のと、実家が改築をするのと、どっちがデカいですか?

 物件それ自体が価値を持つのは、人間的要素が限りなくゼロ(他の宿泊客と没交渉なホテル、不動産投資、店舗設営)か、あるいは人間関係に全く変化がない場合(一家で新しい家を探す場合)です。一緒に住むわけでもない職場においてさえ、(給与や将来性は同じだとして)ピカピカのビルに勤務して陰湿ないじめを受け続けるのと、ボロいプレハブだけど皆いい人で温かい職場とどっちがいいか?です。

 こう考えれば「人で選ぶ」のは自明の理ではあるのだけど、初めての海外の地で魂が浮ついてしまうのはやむを得ない。当たり前のことが分からなくなるのも無理もない。ただ、当たり前のことを当たり前に認識できない精神状態で物事を決断することは避けねばならない。ふわふわ人魂のように浮いているのが、経験を重ねることで徐々に接地し、アースしてきます。そうなると目の前の人のことがよく見えるようになり、引き出しの存在にも気付き、あれこれ親交が出てくる。好悪もわかるし、波長の合う合わないもわかる。

 大体、向うにしたって、ガチガチに固まって、英語もわからず、ぶっ壊れたロボットのように「あうあう」言ってる人が来ても、人間同士の付き合いを展開する余地にも乏しいし、雑談その他で引き出しを示す機会もないでしょう。

 もっと言うならば、最初の頃はシェア=「他人と暮らす」という事柄の意味がよく分かってない。物事の本質を把握していない。もっとも、10件見たら必ず分かるというものでもないですよ。最終的には住んでみないと分からないだろうし、住んでも分からないかもしれない。いろいろな経験を積んで自分が成長したりノウハウを学んばないと分からない。しかし、目の前の現物に触れ続けているうちに(頭の中で勝手に妄想しているのではなく)、徐々に本質が見えてくるでしょう。少なくともベクトルしてはその方向に向かうでしょう。そして本質が見えなければどこにどんな引き出しがあるかも見えないです。

英語学校

 シェアを単に物理的な居住性だけで把握するのが間違っているように、英語学校も似たようなミスはあります。英語学校=英語を勉強するところと「だけ」考えることです。

 違うでしょう。それは小学校や中学校を「勉強するところ」と「だけ」思うくらい間違っているでしょう。確かに勉強はしますよ、どちらも。でもそれだけではない。てか、それ以外の要素の方が遙かに大きい。小中学校では、人間集団に揉まれるという社会性涵養の大きな土壌になります。いい友達がいて、イヤな奴がいて、色々な性格の奴がいて、勉強はかったるくて、先生は恐くて、、、という社会のあれこれを学ぶ場でしょう。第一、あなたは、小中学校の頃、そんなにクソ真面目に勉強一途にやってましたか?100%ガリ勉生活をしていたか?

 英語学校も同じ事で、もちろん英語は勉強しますし、一人でシコシコやってるよりは遙かに効率はいいです。その原理とメカニズムはテーマが違うので割愛しますが、英語学習という効用は確かにある。だけど、それだけではない。一つは社会性で、今度は国際社会性。いろいろな国の、いろいろな出身の人達とどう付き合うか、それも英語を使ってどうやって親交を深めるか。というか自然に親交は深まるんだろうけど、深まる過程で英語はどういう役割を果すか、またどういう役割を果すべきか。そのあたり自覚的に考えている人と、いない人とでは収穫量が格段に違う。

同じ国で固まる問題

 ここで「同じ国の人ばっかりが固まる」という定番の愚痴が出てきますよね。特にレベルの下の方はアジア人が多く、さらに日本人が多いという(こういう現象自体が国辱ものなのだが)。ここで勘違いする人は、国籍がバラけていれば自然と他の国の人とも仲良くなれるから効率がよいとか思うのですね。それはそうかもしれないよ。でも、将来的に国際環境で働くとか、英語を駆使して自分の人生を開いていくという状況を考えてみたらいいのですが、世界のどこにいってもやっぱり同じ国の人同士ナチュラルに固まるのだ。少なくとも固まろうと思えば固まれる環境が多い。世界各地にチャイナタウンがあるように、リトルイタリーはあるし、リトルトーキョーみたいなエリアもある。

 日本人だったら日本人同士固まってる方が遙かに気が楽で楽しい。それを敢えてミックスさせていくところに意思があり、技術があり、ノウハウがある。固まりたくても固まれない環境というのは、ある意味では楽ちんなのですよ。そうせざるを得ないから(しかし、そうすれば成功するという保証は全くない)。しかし、片ら誘惑の道がありつつ、片や荊の道があるという環境で自己決断を日々繰り返すのはワザが要ります。

 世界に散らばっている在外日本人は現在120万人くらいいるけど、企業駐在員にせよ、永住者にせよ、日本人同士固まって〜というパターンも多い。日本人専用のようなラウンジで、日本人のワーホリの女の子に水割りを作ってもらいながら、「け、これだからこの国はダメなんだよ」と吐き捨てるように言いあってる人々はいる。それが良いとか悪いとか言ってるわけではなく、現象としてそういうものがある。「同じなのだ」ということが言いたいのですね。英語を修めて、見事海外職場だ!といっても、目にするのはクラスと同じ光景だったりするわけですよ。だから良い修行の場になるわけです。

 現地で、「日本恋しや〜ほうやれほ」「本社恋しやほうやれほ」と言ってる人々も居る中、しかも彼らと上手に付き合っていかないとビジネスが成り立たないという状況で、いかに自分を失わず、流されず、距離を置きつつも置きすぎず、「絶妙な間合い」をとって自分の人生なりビジネスキャリアを豊かにしていくかです。これは日本人に限らず、世界中どこでも同じで、「リオが恋しや」「北京恋しや」「ムンバイ恋しや」とほうやれほ節を歌ってるわけですわ。彼らとどう付き合うか。そこまで考えて英語学校通ってる人は少ないと思うのですが、だから、「引き出しなんか探せば幾らでも出てくる」ということですよね。

 あ、ちなみに「ほうやれほ」という意味が分からない人は、説話の「安寿と厨子王」、それをリライトした鴎外の「山椒大夫」を読んでください。古典的な貴種流離譚(きしゅりゅうりたん=貴い身分の人間が運命のイタズラで放浪する話)です。人買いにさらわれ、奴隷として叩き売られた母と幼い姉弟が、それぞれ過酷な運命を経たのち、偶然再会するフィナーレ(鴎外作の場合)の場面で「ほうやれほ」は出てきます。姉安寿の犠牲のもとに逃げおおせた厨子王は、やがて立派に成人し高貴な身分を取り戻して丹後の領主となる。人さらいの山椒大夫にキッチリ落とし前をつけて復讐し、さらに離ればなれの母を捜す。その道すがら、ふと盲目の老婆が口ずさんでいる歌、その歌詞に「厨子王恋しや、ほうやれほ」と出てくるのに気づいて、、、という大団円です。泣けるぞ。

モチベーション議論の虚偽

 もう一点、レベルが低い方の日本人学生にモチベーションが低い生徒が混じってる問題です。これは確かに問題だろうけど、しかし、ここでも考えてみるべきポイントは多々ある。

 まず、そんな低いレベルのクラスに、モチベーションが高いと自負しているあなたが何故いるの?です。思うに、ある程度真面目に中学高校の英語をやって、大学入試をクリアして大卒を名乗る人であるならば、レベル4(中級、インターミディエイト)には入ってなければ嘘でしょう。いきなりレベル5、6って人だっているんだし。なんであなたが1〜3にいるわけ?

 ということは、自分も過去においては、そんなにモチベーションが高くない時期があったということでしょ?今、たまたま「英語じゃあ!」って思ってるから、モチベーション低くタラタラやってる連中が苦々しく思えるだけで、要するに時間差です。そういう気分になってる人と、そういう気分になってない人がいるだけのこと。自分だって、モチベーション低い過去においては、「け、何しに学校に来てるんだよ」ってどっかの誰かに思われていたかもしれないのだ。

 さらに突っこんで考えて欲しいんだけど、じゃあ、モチベーションが低かったあなたの中高時代は、ほとんど人間のカスで生けるシカバネ(屍)でしたってわけでもないでしょう?それどころか、勉強しなくても、いや勉強しないからこそ、キラキラ輝くような時間を過していたのではないですか。やれ三角関係がこじれたり、やれ部活でレギュラーになれたり、やれ文化祭で燃えたり、ひたすら本や音楽に浸っていたり。

 だから同じ事なのですね。周囲にモチベーションが低い人がいたとしても、それがどうした?です。勉強意欲の低い奴=語るに値しないカスなのかどうか。そんなさ〜、中高時代に一人はいただろうムカつく教師が言いそうなセリフを、こともあろうに自分が吐いているんだぜ、その滑稽さに気づけよって。

 それに厳しいこと言うなら、周囲によって上がったり下がったりするようなモチベーションなんか意味ないです。本気で何事かを習得しようと思ったら、プロボクサーレベル、あるいは中高の部活レベルでやらないと身につかない。ほとんど「人間やめてます」レベルで精進しないとダメ。厳しいシゴキに耐え、苦しい減量に耐えている連中は、「け、世間の連中はモチベーション低くて」とか思ってる余裕はないでしょう。

 それはともかく、勉強についてはモチベーションが低い人だって、その他のモチベーションはあるかもしれないのだ。中高時代の自分がまさにそうだったように、勉強以外に「もっと大事なことがある」といわんばかりに何かはあるでしょ。そんなの人によるのだ。永住権や進学のために何がなんでもIELTS6点とか7点を取らなきゃいけないと思ってる人もいれば、ぜーんぜん違う目標、例えばイケメンのオージーや金髪のおねーちゃんと「よろしくやる」という「骨太なプラン」をひっさげている人だっているわけですよ、なんだっていいのだ、過去の自分だってそうだったんだしさ。

 あとは単純に人間的な好き嫌いがあるだけです。でも、これはモチベーションの有無とは関係ない。全然勉強してない人の中にも好きな人はいるし、よく勉強している人でも虫が好かない人はいる。それは純然たる趣味の問題だから、別にどうということもない。ただし、あまりに露骨に好き嫌いのレベルで語ってると、なんか子供っぽくてカッコ悪いから「モチベーションが低い」という言い方をしているだけじゃないですか。でもそれは一種の不当表示でしょ。問題は、詐称であると自分でわかっていればいいだけど、自分でつけた間違ったレッテル貼りに自分が騙されてしまってはしょうがないでしょ。

誰にでも引き出しはある

 さて、「よろしく」系の野望はさておき、引き出しの話で言えば、100%真正にボケ〜っと生きてる奴なんか本当は居ないんだから(居たら逆に凄いよ)、皆、何か考えて何かやってきているわけです。自分がそうであるように。そして、自分が持っている色々な引き出しの中で、英語の引き出しがどれだけ長いかです。浅々でしょう?その代わり、○○についてはちょっとうるさいよ、○○については世間の人よりは経験ありますよってことの一つや二つ、10や20はあるでしょう。だから他人だって同じです。

 かくも目の前に豊富な、何百段あるのか見当もつかないくらい引き出しがありながら、勉強やる気がないとか、日本人同士つるんだらダメだからというクソ狭い料簡で、一切合切見えなくしたら、そりゃ損ってもんでしょう。学ぶべき事は、英語以外にも多々あるのだ。逆に学ばなくて良いことなど一つもないと言ってもいい。

 どんなに雑多な断片知識でも、必ず役に立ちます。少なくとも自分の母国に関しては、全ての業界に精通し、全ての地域に精通しておくこと。無理だけどさ。でも、バンバン聞かれるんですよ、世界に出たら。なんつっても否応なく「日本代表選手」にさせられてしまうわけで、そこでは「当然知ってるでしょ?」ってノリで聞かれてしまうのだ。一方、将来的に営業やるとか色んなお客さんや依頼者と付き合う場合、その業界知りません、その地域知りませんでは雑談一つ弾まないです。また、具体的な形で役に立たなくても、知った分だけ視野は広がる。

 それに専門の人の話は面白いです。役に立たなくても「面白い」という果実がある。例えば技術系の人に、その分野の話を聞くといいです。以前、DVDなどのメディア(記録素材)を作っている人がいました。DVDなどにバックアップ取っておいても時間が経ったら読み込めなくなったとかトラブルがあるけど、あれは何故?と市販の安いブランクメディアをについて聞いたら、「あんなのちゃんと動く方が奇跡」って斬って捨てるように言われました。技術系の世界では「そ、そうなんだ?」って発見があって面白いです。また、別の機会に、NHKのアナウンサーの人と話してて、その方は神戸地震発生のときのアナウンスもしてたそうだけど、自分だって内心はえらいこっちゃと思ってるだけど、いかに冷静に、いかに淡々と事実をアナウンスするかが勝負だったという「アナウンサー魂」みたいな話を聞かされて「なるほどねえ」と思ったもんです。

「引き出し」とは何か?

 ここから先は過去のエッセイで述べてきたこととリンクします。何を書いても同じことになるという、いつものパターンですけど。

 「引き出し」というのは、要するに「快楽」であると思います。この森羅万象の世界から気持ち良いこと、面白いことを文字通り「引き出してくるポイント/チャンス」でしょう。引き出しが多い人というのは、多趣味な人であるけど、より突っこんで言えば「快楽を得る方法をたくさん知っている人」です。

 引き出しの多い人からは、いろいろな快楽の方法を教えて貰うといいですよね。誰だって何かについては「師匠」になれると思います。それがパチンコや競馬であれ、釣りであれ、ケーキ作りであれ、手作りフォントであれ、ハーブの育て方であれ、写経であれ、石愛好家(自然の石を愛好する、専門雑誌もある)であれ、菊栽培であれ、なんであれ、誰かが面白いと感じてハマっているものには、必ずや「なんか」あるはずです。

快楽への進入角度と秘密のドア

 快楽にはツボがあり、進入角度があります。この角度×強さで接すると面白く感じるけど、ちょっとズレると全然面白くないって不思議な要素がある。宇宙船の大気圏突入のごとく、ちょっとでも角度が浅いと大気圏にはね返されて宇宙の彼方にさようならだし、角度が深いと大気圏の摩擦熱で焼失してしまう。快楽というと、いかにも楽ちんに得られそうだけど、とんでもない!多くの快楽というのは、ボケッとしてたら引き出せない。ちゃんとアプローチしないと「あ、わかった!」という奇跡の瞬間が訪れないです。難しいのだ。「面白いことがない」という人は、進入角度の魔術を理解していないのかもしれません。

 引き出しの多い人は、格好な水先案内人になってくれるかもしれません。
 ここで「かも」というのは、その面白さを理解してハマることと、それを素人に分り易く、的確に表現し、引っ張っていくことは別次元の話だからです。名選手必ずしも名監督にあらず。いくら聞いても「まあ、好きずきだから」「言葉では言えない」「イイものはイイんだよね」で終ってしまう残念なケースも多いです。

 一方では評論家っぽい人もツラいものがあります。○○はもう終った、○○は全然ダメだとか批判ばっかりで、「なぜそれが楽しいのか」「どこに快楽のツボがあるのか」を教えてくれないから。僕もあれこれ書きますが、ネガ的なことよりも、どう面白いのか、どう楽しいのかに力点を置いて書くようにしています。ネガ的なことを書いたとしても、それはそれに対置さるべき「気持ちいいポイント」を書き、それに達していないのが惜しいという書き方をしようとします。ネガだからダメなのではなく、ネガも必要なんだろうけど、それもこれもどうすればポジをゲットできるか?というフォーマットに貫かれてなければならないと。ま、これは趣味だから、一般化するつもりはないけど。ほんでも、情報というのはハッピーになるためのツールに過ぎないと思うもん。ツールそれ自体に大きな意味があるわけではなく、問題はハッピーになれるのかどうか、それだけでしょ。

 うまいことヒントをくれる有り難い人々もいます。

 僕に日本酒の地酒の美味しさを(地酒ブームのもっと前に)教えてくれた友人がいて、この人は滅茶苦茶教え方がうまかったです。教え方というより「誘(いざな)い方」ですね。知る人ぞ知る、教えて貰わなきゃ絶対分からない店に連れて行ってもらいました。そこのマスターは「病膏肓に入る」レベルの凝り性で、ヒマさえあれば全国行脚して酒蔵をめぐり、杜氏さんに「こいつは酒が分かる奴だ」と認められ、特別に卸して貰うという流通ルートをもってました。銘柄は同じでも全国流通しているものとは違う、秘蔵中の秘蔵の年間数百本という酒をゲットしてくる。そこで飲ませて貰った地酒は驚天動地というか、世界観も人生観も変るくらい美味しかったです。美味しいというより、ただびっくりした。

 でも、その友人も凄いのですよ。能書きとかあんまり言わずに、芯から美味しそうに飲むのですね。そしてその美味しさを表現をする語感が凄い。語彙的にはそれほどでもないのだけど、言い方が凄い。「これ、ほんま、ごっっっつう、くるやろ?これな、途中で味、変ンねん。3回変る。最初は、なんや水みたいやな思うねんけど、数秒たったら口ン中で桜の花が満開になったように広がりよんねん。ほんでな、それが去っていくんやけど、その去り方が桜の散り方のように、ごっつ綺麗な消え方やんか?まだあんねん。喉越しや。これが、もう、長いんや。喉の長さが3倍になったんかと思うくらいすーーーーっと味が続くんや。ほんま、たまらんで」とか、本人自身が心から美味しそうに、幸せそうに飲むのですね。その幸せオーラが凄くて、「ほう、そんなもんか」とつられるのですよ。進入角度バッチリです。

 今でも覚えていますけど、「緑川」と「春鶯囀(しゅんのうてん)」が美味かった。ただ市販されてるのと違うやつだったと思いますけど。どちらも天国レベルに美味しかったけど、「美味しい」というのとは違うな。「トリップした」というのが近い。どっちだっけな、いきなりパッと画像が浮かんだ。動いていたから動画か。日本の故郷のような春の野山の木の下で、居るはずのない自分の孫娘のような女の子がニコニコ笑ってる絵が浮かんだ、、てか、その場に行ってしまった。そして、自分はといえば、俺はここまで人を愛することができるんか?ってくらい、まさに「目に入れても痛くない」という言葉の本当の意味が分かったってくらい、その子のことを溺愛しているのですね。何という至福。そういった時空間に行ってしまったという。一瞬だけど永遠だって感じ。でも滅茶苦茶クリアで、20年以上経った今でも再現できます。前世の記憶かなんかか?「日本酒というのはこういうものだったのか」という、ガツンとぶん殴られるくらいの衝撃で、「こりゃハマるわ」と思った。快楽というのはこういうことかと。有名な「天狗の舞」の特別ヴァージョンも良かったです。「天狗の舞」とはよくぞ名付けたという喉ごしの長さ、スムースさ、まさに天狗が八つ手の団扇で滑空しているような感じ。「銀河鉄道」はさらにその上をいって、もう酒のレベルを超えてました。

 ただ、あまりにも良い酒を飲んでしまうとあとが大変で、その後、一般に売られている酒を飲んでも飲んでも「あ〜、違う」ってなってしまって、逆によっぽどいい酒じゃなければ飲まなくなってしまった。副作用ですね。
 中学の頃、買えもしないのにオーディオにハマって秋葉原(当時はオーディオの街だった)に通い、JBLだのタンノイだのを試聴したりしてました。アホな中坊でもこれだけ聞いてりゃ音の違いは分かってくるし、とある専門雑誌に「このスピーカーはよく"喋る"」という表現をみて、軽く目から鱗でした。あ、スピーカーって喋るものなんだと。ジャズのサックスやドラムにも「喋る」という表現があって、たしかに音楽とか、楽器演奏として聞くのではなく、人が喋ってると思って聞くとわかるような気がします。

 後日自分でもギターを弾くようになって、つくづく途方に暮れましたが、自分の出す音が、一個の生き物のようにウネウネと動き出すように演るのがどんだけ難しいか。逆にそれをやってる演奏とか聞くと「す、すげえ」と言葉が出なくなる。これはバンド全体のグルーブにも言えていて、凄いバンドをライブハウスで間近で見ると、もうヒグマに襲われているような恐怖感を抱くことがあり、そういうときは鳥肌快楽です。これ、あんまり上手い下手は関係なく(下手過ぎたらダメだけど)、なんというか存在感というか、"気"というか。音の快楽というのは途方もないものですね。自身でやられた方なら同意いただけると思いますが、音楽というのはライブで聞いてなんぼです。どんなに音がいいCDでも違う。それはもうエロ本と本物のセックスくらい違う。てか、音楽というのは「音とセックスすること」と誰かが言ってたような気がするけど、同意します。

 このように、快楽に辿り着くためには進入角度があり、それがズレたら分からない。この角度は人によっても違うでしょうし、体調や気分によっても違う。快楽の世界という異次元空間につながる「秘密のドア」がどっかにあって、ぱっと見た分には全然わからない。でも、あるとき、ある角度から見るとドアが見えるんですよね。引き出しを持ってる人、それも多く持ってる人は、「秘密ドア発見体験」がそれだけ多い人だということで、進んで師事すべし!です。

 でも、そのためには自分自身が良い生徒にならないとダメです。良い生徒の条件で、おそらく一番大事なことは、「面白がる」ことでしょう。好奇心キラキラで、心が弾んでいることですね。心がゴムボールみたいに弾んでいる人は、秘密のドアもみつけやすい。

「快楽」にしてしまう

 さらに上級?になると、全然面白そうではないことでも、無理やりに面白くしてしまう剛腕級があります。

 例えば平凡そうな仕事でも、本当に「平凡」なんてことはこの世にないです。平凡というのはマクロ認識であり、マスゲームで遠くからみたら字に見えるようなもので、個別にミクロに見ていけば個性をもった人々であることに変わりはない。

 だから、「お仕事は何を?」「いや、そんな面白い仕事じゃないですよ、ただの市役所の戸籍係で」という流れでも、「戸籍係!めっちゃ面白いじゃないですか!」という展開もアリです。自分がイチ消費者としてカウンターのこっちに立つ場合は、単に書類を受け取るだけの話で面白くもなさそうなんですけど、でも、カウンターのあっちに立ったら、実にいろんな人が来るでしょう。もう、根掘り葉掘り聞きたいですね、僕は。「やっぱ、アレですか、婚姻届を出しに来るカップルは幸せそうで、離婚届を出しにくる人は沈痛な面持ちで、、とかあります?」「てか、離婚届を二人で出しに来るってのは普通ないですよね?」「フクザツな戸籍とか、なんだこりゃ?って戸籍ってあります?」「ホームレスの人から戸籍の売買とかいうけど、そういう話って実際あります?」とか、幾らでも聞きたいことはあります。

 以前、異業種交流やってて、何が面白いかってこれが面白かったです。本人にとっては至って平凡な職場の風景であっても、それは慣れてしまったからそう感じるだけで、外野からみたらどんな職場もワンダーランドです。もうあれこれ聞きました。味わい深い話が幾らでも出てきます。

 大体、人がひとりそこに居る、というだけで、もう途方もなくワンダーですよ。どんだけ情報が詰まってるんだ、という。
 同じように、町がそこにある、そこに山があるというだけでワンダーです。どんな町にも引き出しはあり、どんな海にも引き出しはある。そしてどんな原っぱにも引き出しはあるわけで、子供の頃はただの原っぱで無限に遊んでいられたじゃないですか。あの頃は引き出しが無限に見つけられたのに。

 以前、人間関係サイコロ論を書きましたが、相手のサイコロの出目(いろいろな人格)を呼び込むのは自分です。全てはインタラクティブであって、自分がこう動けば、相手もこう動くという相関関係があるのでしょう。面白い人/モノが「ある」だけではなく、面白い人/モノに「する」のだと思います。

 ということで、引き出しというのは、引き出してなんぼです。
 そこに把手があるならば、まずは引っ張ってみよう。ヘンなモノが出てきて、心がときめきますよ。




文責:田村



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