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今週の1枚(2013/04/08)




Essay 613:Always think what you've got!


 写真は、Balmainのショップの店先。
 この犬がめっちゃいい味出してます。座り方といい、表情といい、座布団まで敷いてもらっていて、しかも犬(?)のオモチャまであるという。

他人の振り見て〜

 この仕事してて思うのは、一番学んでいる、一番得をさせてもらっているのは他ならぬ自分ではないか、ということです。
 これは人間相手の仕事をしていたら、誰でもそうなのかもしれません。

 「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があります。
 他人(人間)の行動をみていると、「自分もそうだよな」「あ、そこでそう考えてしまうんだ」というのが分かって、メチャクチャ参考になります。同じ人間のやることですから、そこにはどうしたって同じパターンと法則性がある。その数は無限にあって、全然気づかなかったんだけど、ふとしたヒント(他人の行動)で気づく。

 例えばイライラしてて他人に当たり散らす人を間近にみると、とりあえずイヤなもんですし、人間のあり方として見苦しいですよね。でもよく考えると自分だって似たようなことはやってたりするわけで、「そうか、あんなにもカッコ悪いものなんか」と反省する。でもって、次に当たり散らしたくなったときに、フラッシュバックのようにそのときの感覚が蘇ってきて、「う、、、今、滅茶苦茶カッコ悪いことしてるんじゃないか?」とブレーキがかかる。


 ここには他者と自分の同一性があります。
 他人も自分も似たようなもんだという同一性があるからこそ、「人の振り見て〜」という話になるのでしょう。
 でも、ついつい僕らは、自分と他者とを切り離して、「他人は冷たい」とか「世間の奴らはアホばっかりだ」と思ったりもします。「人」「世間」の中に「自分」が入っておらず、単なる他者批判をする。でも、これは中二病ですね。他人がアホに見えたら、自分だってアホだと思った方がいい。そんなに違わない。自分だけが飛び抜けて賢く、全てが分かっているなんてことは、まずない。その逆もしかり。他人がみな優秀に見えるときは、自分だってそれなりに優秀だと思った方がいいし、自分が迷っているときは世間もまた迷っている。

 いわゆる「個性」というがありますが、個性というのはもっと微細なレベルの話だと思います。
 今言っているのはもっと根源的でもっと普遍的な現象レベルです。「息を止めていると段々苦しくなってくる」とか、「トイレをガマンしてるとイライラしてくる」とか、「虫歯が痛いとそればっか気になる」とか、人間だったら誰だってそうなるようなレベルです。

 考えてみれば当たり前の話で、同じような身体と生理メカニズムを持ち、同じような社会で同じような教育を受けているのですから、大抵のことは似通ってくるでしょう。何度か書いてますが、僕がオーストラリアにきたとき最初に受けたカルチャーショックは、「なんて同じなんだ!」ということです。「違う」ことよりも余りにも「同じ」ことにビックリした。例えば、値段でも2000ドルを「1999ドル」にするとか。そうすると安く感じるというのは誰でも同じなんだ、と。

 そもそも自他の同一性がなかったら、映画や小説、芸術もないでしょう。みな同じようなところで感動するからこそアートというものが成立する。コミュニケーションだって同じ事で、感性と論理にある程度の共通性を持たなかったら、話なんか通じるわけがない。

 個性というのは最終的なテイスト部分でしょう。酸っぱい物を食べてそれを「甘い」と思う人はあんまり居ない。コーヒーを甘くするために酢を入れる人はいない。酸っぱい物はだれでも酸っぱいと感じる。身体構造(味蕾とか)に障害がない限り、味そのものは誰もが同じように感じる。個性が出てくるのはその次で、その酸っぱさを好ましく思うのか不快に思うのか、好きか嫌いかです。いわば最終段階の話です。

 かくして、「人の振り見て我が振り直せ」的に見ていくと、もう毎日がヒントの宝庫です。
 その気になって見ていくと、いかに膨大な数の法則性があることか。「最初は謙虚だったくせに、時間がたつと段々つけあがってくる」とか、「落ち込んでるときに動かないでいると、ネガ想念がガン細胞のやたら増殖する」とか、「脳内妄想は現実に触れた途端に嘘のように消滅する」とか、「人の感情というのはこれほどまでに簡単に変わる」とか色々あるわけです。

 仕事してるときは、これまで自分が生きて得てきたこれらの法則性を引っ張り出してきては、「こうするといいじゃないかな」とかアドバイスしたりするわけですが、それ以上に日々新たに「ほう、そうなんだ」と発見することが多いです。もう幾らでもある。幾らでもあるから、このエッセイもネタ切れにならない。多分、死ぬまでやっててもネタが尽きることはないと思います。

 で、今週もその「発見」から一つ。

Think what you've got, always.


 自分がいま何を持っているのか?
 何を得たのか?
 常に、常に考えるべし。

 自分がどれだけ「いいもの」を持っているのか、そして今日一日でどれだけ「いいもの」をゲットしたのか、ちゃんと知ればいいのに、なぜか気づかない人が多い。いや、ほんと、なんで気づかないのかな?て首をかしげたくなるくらいに。

 どっかの誰かが勝手にこしらえたハードル。その生成過程には全然タッチさせてもらえていないハードル。そのハードルまでどれだけ足りないのか、いかに及ばないのか、どれだけダメなのか、そういった「落差」について思いをめぐらせるのは、すごい得意。

 でも、今の自分が何を持っているか、どれだけ得てきたかということに関しては、ありえないくらい鈍感だったりします。「自分、すごい”いいもん”持ってるじゃん?」「今日はめっちゃ実りの多い一日だったよね、大漁じゃん」って言ってもピンとこないようで、「なぜ?」と真剣に思ってしまいます。

 ということは、そういう僕だって気づいていないんだな、見落としていることがあるのだろうな、もっとしっかり認識せねば、と思います。

 抽象的な話はこここまで、以下、具体例をあげます。

教訓とトラウマ

 とりあえず簡単なところから言えば、 命に関わるようなことは別として、日常での普通の「失敗」なんか美味しいです。これは事あるごとに書いてますが、「失敗」という現象は、かならずや「教訓」という果実を産む。そして、失敗なんか一過性のもので、長い人生、、というか数週間レベルで別にどういうことはなくなるけど、教訓は一生使える。どっちが得か?といえば、明らかに黒字でしょう。考えるまでもない。

 もっとも失敗は「トラウマ」という果実も産みます。
 なにかに失敗して、俺はもうダメだ、希望なんかないんだと思ってイジケる方向にいく可能性もあります。

 そこで教訓が勝つか、トラウマが勝つかという運命の分岐点になるんだけど、でも、この解決は簡単だと思います。「分岐点になる」という構造を認識するだけで解決しませんか?

 だって、失敗をキッカケに何がいけなかったのかを、生体解剖をするようにクールに分析していけば、確実になにかが分かるし、なにかが向上する。今日より明日の方がいい日になる。どっちがいい?といえば、後者でしょう。

 だから、「ここが運命の別れ道なんだ」という認識さえあれば、そうそうトラウマ方向に進んでいっちゃうこともないと思うのです。そこが交差点ではなく一本道に見えてしまうからこそ「もうダメだ」という幻想が生じるのですから。

 それに失敗の「本体」なんか「妖怪の本体」みたいなもので、突き詰めていけば、実に些細なものだったりするんですよね、通例。「え、こんだけ?」みたいなことです。笑っちゃうようなこと。相乗効果でやたら増幅しているように見えるけど、根っこの部分はくだらなーい事だったりします。なんであんなことしたのかな?と遡っていくと「本体」に突き当たります。

 例えば、、そうですね、彼女とドライブしたときに、ハンドル切り損ねて危うく交通事故を起こしそうになったという「失敗」があったとします。ここで事故って死んでしまったら終わりだし、大きな後遺症を残したら洒落にならないけど、そこまでいかない程度、あるいは事故りそうになった程度。

 それは失敗なんだろうけど、なんでそこで事故りそうになったのか?と分析していくと、「彼女に華麗なドライビングテクニックを見せつけて→キャー素敵って思われたい」という「くだらない見栄」に行き着いたりするわけです。でも、冷静に考えてみると、彼女は別にそんなに運転に興味ないし、「ギリギリのドラテクの凄味と快感」も単なる「乱暴な運転」にしか思われないだろうことは容易に推測がつく。でも、そのときはそう判断できず、「運転上手→惚れられる」という愚劣な中二思考に陥ってるわけで、それが「失敗の本体」でしょう。妖怪の本体であり、笑っちゃうような些細なことです。

 だとしたら改善ポイントは、くだらない見栄をはらないことでしょう。見栄を張ること自体、悪いことではないと思います。女の前でいいカッコしたがるのはオスの本能だもんね。孔雀の羽もその結晶だし。だから、まあ、それは良い。またそれは改善しにくいだろう。問題は、見栄は見栄でも「くだらない」という部分だということになります。クールに考えればなんの有効性もない見栄を、効果があると思ってしまったその判断ミスにこそ問題点がある。そして、冷静になればそれがミスであることが理解できるんだから、別に頭が悪いわけではない。とすると、「ときどき俺は頭が悪くなることがある」という症状が問題になる。

 さらになぜ頭が悪くなるのかといえば、「きゃー素敵と言われたときの快感」ばかり想像して、その快感にひっぱられて、判断能力が濁ったからだということがわかる。おお、これって、万馬券当てたときの快感が忘れられず、競馬にのめりこんで破産するパターンと同じではないか?という驚愕の事実に気づく。

 でも、これらの快感妄想は確かにモチベーションにはなる。全てを殺したら何もやる気が無くなるから適当に残しておく必要がある。ゆえに「快楽を求めてはいけません」「見栄を張ってはいけません」という道徳的な結論にしても効果は薄いだろう。守れっこないし。他方、快感というのはそれが本当に実現しなきゃ意味がないのだから、逆効果になるようなことをやっていてはダメだ。

 以上の思考の結果、「明日のために(その1)」の改善計画第一歩は、「快感はしっかり確実に得よう」「見栄を張るなら、もっとちゃんと張ろう」ということになります。これなら実現できそうだ、と。

 ここで思うのですけど、「トラウマ」というのは色々あるんだろうけど、失敗をちゃんと分析しないからトラウマになってるようなケースも多いのではなかろうか。「ネガティブな早合点=トラウマ」という。

 だから失敗を分析できた時点でトラウマって消えるんじゃないですかね?

 カウンセリングだって、やってることは同じようなことでしょう。「では、どうしてそのときそう思ったのでしょう?」って。一本道に見えていたものが実は交差点だった、他の選択肢も幾らでもあったということに気づく過程、そしてなぜ気づかなかったのかをさらに遡っていく。

 もちろん、ヘビーなケースで、本格的に無意識レベルまで遡らないとダメなのものは専門家の助力がいるでしょう。でも、そんなに重くも難しくもない事例も多々あるでしょう。失敗分析、教訓抽出に取り組んだ時点、分岐点に気づいた時点で、ほぼ解消するのではないかってことです。

賞味すべき世界

 さきの「失敗論」は、「What you've got(なにを得ているか)」のほんの序論に過ぎません。

 「得たもの」というのは実に様々なものがあります。
 というか、森羅万象すべてがそうだと言ってもいいです。

 だって、生まれた時点では何も持ってなかったんだもん。
 それどころか、この世に生まれること自体、棚からボタ餅みたいに、なんの苦労もしていない。

 この世に生まれるということは、この世界の全てを得た((味わう、感じる)こと、少なくともその可能性を得たことになります。

 大袈裟なレトリックだと思う人もいるかもしれないが、でも、死んでみたらわかるでしょう。全てが失われるから。死後の世界があるのかないのか分からないけど、もし全然そんなものが無いのだったら、あなたの死は、主観的には全世界の消滅と同義でしょう。何も無くなるのだから。肉体も、他者も、空も、大地も、光も失われる。全くの虚無になる。仮に死後の世界があるとしたも、今とはまったく違った様相になるでしょう。少なくとも肉体は失われるのであるから、肉体的な喜びは全て消滅するでしょう。美味しいものを食べたときの喜びも、お風呂に入ったときの気持ち良さも、ふかふかの布団で眠る心地よさも、愛する人の胸のぬくもりも、その全てが失われる。

 逆にいえば、これらのものはこの世に生まれることによって得ている。「生きてるだけで丸儲け」とはよく言ったもので、生きることで、この世界まるまるゲットできるんですからね。こんないい話はちょっと無いよ。しかも無料。少なくとも生まれるまでにあれこれ努力をしたことはないし、したとしても忘れている(1億の同胞精子達の苛烈な競争とか)。

 世界をまるごとイッコ手に入れておいて、このうえ何を欲しがるのか?
 そりゃ、「手に入れて」とかいっても自分所有の土地は1平方センチもないし、資産も微々たるものだし、何も得てないと思うかも知れない。でも、そこでいう「得る」というのは相対的なものでしかない。「他者に対して権利を主張出来る地位」を得ているに過ぎない。民法所定の私権は債権と物権とに分かれ、特定の個人に対してのみ主張できる権利を債権といい、万人に対して主張できる権利を物権というというのは法学のイロハですが、しかし、煎じ詰めれば、それらも人間同士のちっぽけな主張でしかない。あなたがある土地の権利を失ったといっても、土地そのものは厳然としてそこにある。

 ここでいう「得る/失う」というのは、生と死の絶対レベルでの話です。死による絶対的な虚無、絶対的な消滅、生による絶対的な存在。その土地どころか全世界が消滅する「喪失」からすれば、所有権の変動などの「私権の得喪(専門用語でそういう)」など、微々たる変化に過ぎない。

 もっとも存在しているだけで全然知覚できないんだったら意味がないです。でも、僕らは知覚できる。

 土地や財物を所有して何が楽しいのかといえば、それを使用し、味わえるからでしょう。土地を持ってるからと言って、その土地に穴を掘って、埋まって、土地と一体化するとかいう話ではない。その土地の上に何かをするからでしょう。例えば、広々としたグランドで思いっきりサッカーをするとか、海が見える高台に家を建てて自分の部屋から海の風景を眺めるとか。

 要は「味わう」ことです。テイストすることであり、賞味することであり、楽しむことであり、愛(め)でることであり、英語でいえばアプリシエイト(appreciate)であり、それらの賞味行為によって「得る」という行為はめでたく完結する。美味しいケーキは、食され、美味の官能を刺激し充足することで完結する。風光明媚な土地は、その明媚な風光をあなたが愛でることで完結する。愛でなかったら、持ってたって意味がないのだ。美味しいラーメンは食べてこそ意味があるのであって、眺めているだけ、単に所有しているだけだったら意味がない。それに風景がそうであるように、愛でるだけなら別に所有している必要なんか無いものも多い。

 世界が存在しながらも、世界を賞味できなかったら切ないです。おあずけ状態だもんね。でも、幸いなことに、今の日本は(オーストラリアも)まがりなりも自由がある。昔の農奴のように土地に縛り付けられ、生き方を強制されることはない。どこにでも行けるし、何でも食べられるし、誰とでも愛し合えるし。もちろん値段が高いとか、仕事が忙しいとかいう現実的な制約はあるけど、それでも絶対無理ってことはない。優先順位をバキバキつければ、大抵のことは出来る。腹を括れば大体のことは実現可能でしょう。

 芳醇な琥珀色の酒、友と快酔する宵の宴、鮮烈な新緑と渓流、万華鏡のような珊瑚礁、地平線の彼方に悠々と流れる雲、晩秋の鄙の枯れた味わい、雨上がりの古都の石畳、見渡す限りの濃緑の棚田、恋人を送っていった後に無人の交差点でぼんやり眺める赤信号、温泉宿の浴場で聞こえるチロチロ流れる湯の音、コーンとエコーのかかった音の楽しさ、お父さんの腕にぶら下がってキャッキャ喜んでいる女の子、自慢したくてたまらないというオーラ満載の男の子、、、、

 それらは、その気になったら得ることが出来る。味わうことが出来る。その場に同席して温かい雰囲気に身を浸すことができる。それほど難しいことではない。なんてラッキーな時代に生まれたことか。

 せっかく貰ったこの世界を味わい、楽しまなかったら、世界を得た意味、世界が存在する意味が色褪せてしまう。この世界とて永遠に続くものではない。それどころかあっというまに消滅する。死ぬまでのわずか100年そこそこで賞味期限が来て、目の前にバシャッ!と黒い幕を下ろされ、そして全てが消滅する。期間限定。今だけなのだ。

 ということで、世界と自由と可能性、それこそが「得ているもの」の最たる物でしょう。原理的には。

お金とスキルと知識と経験

 ミクロの失敗論と、マクロの世界論を展開して、極端なんだよ話がと思っている貴兄に、ミディアムな話を。

 「得る」といえば「お金」を真っ先に連想してしまう人もいるでしょう。いやそれが普通でしょ。

 ではお金はどうやって得るかです。
 既に得ているものは預金残高と財布をみれば一発で分かるから考えるまでもないです。考えるべきは将来どうやって得るかであり、お金を得るための「力」を持っているかどうかですよね。

 お金を得るための力とは何か?これも色々あるだろうけど、要するになにかの「スキル」でしょう。そりゃ運もあろうし、コネもあろうし、資本の原始的蓄積もあろうし、財テク知識もあるだろうけど、平たくいえば何らかの技術やスキルがあるから、より要領よくお金が稼げるし、アーニングパワーが得られる。ゴルゴ13は世界最高の射撃のスキルがあるからこそ、スイス銀行にたんまりお金を稼げる。

 スキルの内容はなんでも良いのですが、さらに進んで、では、スキルはどうやって得るか?です。
 そもそもスキルとは何かといえば、これも分解していけば知識と経験でしょう。勉強して知識を増やし、経験値を高めることでそのスキルはより上昇する。車の運転と同じです。アクセルとブレーキの位置と機能、そしてあとは路上経験を増やすことで上手くなる。

 だとしたら、あなたがどれだけお金を稼げるかは、あなたがどれだけの知識と経験を積んでいるかに(大雑把には)比例するということになります。

 そこで、本題。
 今のあなたの知識とスキルですけど、まずこの認識をきちんとすべきでしょう。なぜかというと、案外認識されてないんだなっていう印象を受けるからです。

 例えば、これまで喫茶店でウェイトレスをやってました、だから何にもスキルらしいスキルは無いですみたいな事をのたまう人がいますが、ロ〜ング(wrong)!です。スキルあるじゃん。「接客スキル」という宝石のようなスキルがあります。

 例えば医者やってたので不動産や金融は畑違いでスキルがないとかいう場合も同じ。医者だって臨床医だったら接客業なんだから、専門知識を素人に伝えるという技術、専門技術をつかって個別事例を解決していくその発想や方法論はまんま使える筈です。

 一つの職業には、思うに数個ではなく、十数個、場合によっては数十個のスキルが組み合わさっていると思います。丁度原子が組み合わさって分子になり、分子がさらに高分子化合体になるように、原子や簡単な分子にまで分解していくことが出来る。

 僕がいまやってる留学エージェント(みたいな)仕事も、前職の弁護士業のスキルがあってこそです。弁護士といのは個々の法律知識だけでは動きません。それこそ数十のスキルの集合体です。対人交渉力とか文書起案能力とか質問能力なんてのは序の口です。破産関係の案件だったら、数百人の関係者、ダンボール十数箱の資料をいかに短時間にテキパキと整理しリストアップするかという書類整理能力、事務処理能力が必要です。あるいは医療過誤になれば、聞いたこともないような病気を調べて、わけのわからん医学文献を読んで、全く未知の領域であろうがなんだろうがバリバリ食べて短時間で咀嚼する能力が必要です(血圧降下剤におけるカルシウムブロッカーとかやったなあ)。つまり「分からないけど強引に分かる能力」。さらに難件になると、正規の方法ではない場外乱闘みたいな方法論をいかに考えつくかという「魔法」を使う能力(^_^)。

 これも前に書いた記憶があるけど、弁護士はじめて半年もたった頃、異業種交流に入ったのですが、その自己紹介文で「弁護士の能力は、本当に弁護士という形でしか発揮できないのか?についてすごい疑問がある」書きました。これだけ出来たら何でもできるんじゃないか?と。そして、それは弁護士に限らず、どんな仕事だって同じじゃないかと。

 異業種交流で活発に人と付き合いながら思ったのは、仕事や職業といってもそんなに変わらないなということです。これは、冒頭で述べた「人間だったら大体のことは同じ」というのと関連しますが、その同じ人間がやってるんだから仕事だって大体同じになって当たり前だろう、と。そりゃあ見た目やテイストは全然違うかも知れないけど、でも根本まで辿っていけば、あるいは原子まで分解していけば似たり寄ったりではないか。これは、料理の種類や食材は全然違っても、でもタンパク質だの炭水化物だのという栄養素で分解していけば、意外なものが似通っているのと同じ事です。

 いろんな考え方があると思いますが、仕事の要素を分解して、(1)人間要素、(2)物的要素、(3)情報要素、(4)アート要素、と分けたらどうか?人間要素というのは、人との付き合い方です。こういう言い方をすると相手は怒るから話はこじれるけど、こういう持っていき方をすると意外とすんなり収まるという法則性、その知識と経験です。一方物的要素というのは、車のエンジンのようなもので、お世辞言っても脅しても、動かないものは動きません。物においては厳然たる物理法則があり、なによりもそれを尊重しなければならないこと。しかし、パソコンがそうであるように、機械には意外と人間臭い個性があり、機嫌の良し悪しがある。その見極めとカンドコロ。

 情報要素は、データー処理のノウハウで、書類整理能力、効率的なリストアップの能力。さらに情報の吟味能力もあります。その情報がどれだけ信用できるか、統計のマジックに騙されてないか、一次情報か、偏見や偽造の可能性はないかを正確に見抜くことです。アート要素は、同じ図表を作るにしてもデザイン的にすっきりさせるとか、印象をよくするためのファッションセンスもそうですし(あえて野暮ったくして信頼感を醸し出すとかも含めて)、店舗設計や広告DTP、そしてアート独特の個性やアクをどの程度出すか。

 あ、これ、そんな真面目に読まなくていいですよ。今適当に思いついて書いてるだけですから(^_^)。
 要は、違った切り口でいくらでも分解できるでしょ?ってことです。

 そう思って、今までの自分のやってきたことを振り返れば、それはもうスキルの山でしょう。

 多くの仕事の場合、対人関係はイヤでもつきまといます。イヤな客もいれば、酔っぱらいもいるし、ゴネる奴もいるし。客でなくても上司、同僚、部下もいる。どうつきあうか?です。じっとガマンすべきときもあるけど、ここは一番怒るべきときもある。怒ってなくても一発怒らねばならないときもある。そのとき夕立のように、いかに鮮烈な印象を与え、いかに後腐れ無く、むしろ後味さわやかなくらいに「きれいに怒る」という「職人芸」もある。あるいは、ガマンも怒りもせずに、ひたすら「流す」という技術もある。

 これって幼稚園からずっとやってきたことで、おそらく養老院までやるだろうし、死後の世界があるなら天国でも空気読んだりしてるかもしれない。そこに人がおり、そこに感情がある限り、絶対不変のスキルとして求められるでしょう。

 「一芸に秀でた人は多芸に秀でる」と言います。なにか一つ突出したスキルをもってる人は、他のことをやらしてもかなりのレベルまでいく、といいます。

 なぜかといえば、一芸に秀でるまでに、多くの基礎栄養素、多様なスキルを十分に持っているからでしょう。スポーツで言えば、何か一つのスポーツで相当なレベルまでいってる人は、既に身体が出来上がっている。筋力、心肺能力、柔軟性、いずれをとっても水準をはるかに超えるレベルにいっている。そして、何事かを習得するノウハウを知っている。だからすぐに上手になる。それと同じ事でしょう。

 ということで、単純に職業別電話帳みたいに、職種が変わったらそれまでのスキルがまるでゼロになるというのは大きな間違いです。それも大きく損をする間違いです。そして、国境線を越えようが越えまいが、その本質に変りはないです。国が変わろうがなんだろうが、腹が減ったり眠くなったりすることに変りはないのと同じ事です。

 以前、オーストラリア移住永住のためのシリーズものの最初に書きましたけど、海外に行くからといって特別に海外用に何かをしなければならないというものでもないです。それも勿論あるんだろうけど、一番大事なことは、そして一番海外に出て役に立つことは、日本にいる段階でちゃんと生活してろということであり、ちゃんと日本人であれということでしょう。これはナショナリスティックな発想でもなんでもなく、その環境に置かれたらその環境の栄養分をちゃんと摂取せよということであり、郷には入れば郷に従えが出来るかどうかであり、その過程でさまざまの生きていくためのスキルを身につけておくといいよということです。


 もっとも、栄養素が同じといってもテイストは違いますよ。
 同じスキルといっても、その活用の仕方やら、それでお金を儲けるダンドリなどはまるで違ったりします。

 それはスキルをどう活かすか、どうコンバートするか、どう再構成するか、どうアダプトするか論です。でも、スキルがある/ないという根源的な話に比べれば、相対的に小さな話ですよね。「上手くやりなよ」ですわ。

 最後に一番大事なスキルは何か?といえば、「楽しむスキル」「味わうスキル」でしょう。

 プライベートの遊びの局面でも、仕事以上に手を抜かないできっちりやる、という。ともすれば遊びだからでテキトーに流してしまうんだけど、これもローング!ですよね。楽しむため、味わうために生きているんだから、単なるゼニカネ稼ぎの仕事に比べれば、こっちの方がより本来の「仕事」といってもいいくらいです。

 ただし!やたら張り切ればいいってもんでもないです。旅行の計画でも、プレゼン資料を揃えるように広範な情報を収集し、緻密に検討し、費用対効果を計算し、水も漏らさぬ立案をし、さらにプランBからプランDまで用意しておく、、、をやればいいってもんじゃないです。「ぜーんぜん無計画な楽しさ」というのもあるからです。足の向くまま気の向くままって「旅」の楽しさは、立案したら壊れてしまう。

 だから「何が売れるか」と真剣に考えるのと同じくらい、「何が楽しいのか」「この遊びの面白さの本質はなにか」を考えるともなく考えることでしょう。全然楽しくなさそうなんだけど、やがてほのぼの温まってくるこの淡い風情を楽しむ、という「通」の楽しみもあるでしょうし、深いですよ。

 で、それらについても、これまでの人生キャリア、仕事スキルを活用できるでしょう。
 誰もがやってる、小学生の頃に原っぱで基地を作った楽しさは、あれは何が楽しかったのか?あの楽しさを再現できないのか?何が面白いのか?今だったら何をやればいいのか?です。

 楽しかったという経験は、必ずやなにか重要な栄養素を含み、スキルの素を含みます。それは何か?ですよね。スキルを使って楽しみを生み出し、その生み出した楽しみがまた新たなスキルの母になるという、この幸福な循環。



 結論めいたことを言えば、多くの場合、なんとなく考えているよりも自分は色々なスキルを持っている。実は、いろいろなことが出来る。それだけの栄養素を持っている。ただ認識していないだけ、あるいは組み合わせに戸惑ってるだけ。

 これって料理みたいなもので、一度じっくり「自分の冷蔵庫」をあけて何があるのか見てみたらいいです。
 意外と食材は揃ってるんだから。


 Think what you've got, ALWAYS!

 Then, use it, taste it, and enjoy it.

 Untill the end of the world.




文責:田村



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