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今週の1枚(2013/04/01)



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Essay 612:「ゆらぎ」から「うねり」へ


 写真は、Camperdownのゴミ出しの風景。
 オーストラリアのゴミ出しは、このような大きなゴミ箱(garbage bin)に入れて、家の前に置いておきます。そうするとゴミの回収車がやってきて、自治体(カウンシル)によるけどマンガのようなマジックハンドで、あるいは屈強な回収人がひょいと持ち上げて(あのパワーには感動します、どんだけ力持ちなんだって)処理していきます。

 ゴミ選別もあってゴミ箱の蓋の色で判別します。これもカウンシルによるのだけど、ウチのカウンシルでは黄緑がガーデン・ガーベッジといわれる庭仕事のあとの草木系、ブルーが紙系、黄色がビンやペットボトル系、深緑(胴体と同じ色)が一般ゴミです。「燃えるゴミ」かどうかという「燃える」かどうかは選別の基準になりません。あれは国土の狭い国が埋めるところに苦労しているからであり、国土の広い国はそういうことは問題にならない。むしろ「リサイクル可能」かどうかで、実はかなり細かい選別があります。あんまり気にしてない人も多いけど。

 この写真は典型的なサバーブのゴミ出しで、玄関がある方の通りをストリートとかロードと呼び、裏の小道をレーン(lane)と呼び、裏庭経由でレーンにゴミ出しをするという。僕の前の家もそうだった(この写真の近所だった)。もっとも、StreetやLaneに決定的な法則性があるわけではなく、laneといえば一般に小道が多いんじゃないかって程度です。京都の有名な「哲学の道」も、英語で Philosopher's Lane(あるいはwalk)と表記されたりします。

波動合成図、ふたたび

 先週(Essay 611:波や火はなぜ見てて飽きないのか?)は、「1/fゆらぎ」など自然界での気持ちのいいランダム性の話でしたが、今回はそれとかなり関連するのだけど根っこのテーマが「気持ちいい・悪い」というのとは全く別の話をします。前回の最後に載せても良かったんだけど、本質的に違う話なので分けました。


 右の図は、先週に使った図です。
 またぞろこれを持ち出します。

 この図は、小さな波から大きな波まで規則的に周期がめぐるとして、その時点その時点での各波のプラスマイナスを合計した値を赤字の曲線で書いたものです。

 ポイントは右の図に尽されています。
 前回書いているとき、この図をじっと見ていたら、「ゆらぎ」とはまた違った法則性が含まれているように思いました。なにかというと、、、

 その時点のポジションを決定するのは、結局のところ、一番大きな波動だけである

 ということです。



 もう一度同じ図をやや拡大し、そしてマーカーを塗って分り易く加工したものを下に示します。


 左図において、大〜小波の相乗&減殺効果によって最終的に出てくるその時点での合算値がピンク色で塗った曲線になります。

 このピンク線は、小刻みに、そして細かな上下動を伴いつつも、大きくうねっています。

 ではこのピンク線は何によって規定されているかというと、小さな波々の影響もあるけど、一番大きな決定因子は、最も波長が長い大波(黄色)です。

 グラフ左手、線が始まった直後は大波(黄色)もまだ小さな値ですので、小波や中波の影響が大きく、小波中波が全てプラスのときは、大波はマイナスであってもトータル(ピンク)はプラスを保ちます。しかし、黄色が大きくマイナスに向かうと、小波中波がいくらプラスになっても焼け石に水で、トータルでのマイナスは動かしがたいです。

 黄色がマイナスの底を打って上昇に向かっても、なおも他の波の影響によって引きずり下ろされますが、しかし黄色大波の上昇が本格的になるにしたがって、ピンク線は急上昇の局面を迎えます。

 大波がプラスに転じさらに上昇するとき、特に全ての波が揃って上昇に転じたときはまさに破竹の勢いになりますが、ここまでくると小中波が多少マイナスになろうがどうしようが、これまた焼け石に水で、黄色大波によってもたらされた絶対的なプラスは動かしがたいことになります。

 そうなると、意識的に注意すべきは黄色大波だけであり、あとの中波小波というのは、こう言っては可哀想だけど「ザコ波」みたいなもので、多少のふらつきやタイムラグ程度の影響は与えられるけど、大勢を決定づける要素ではない、ということです。

周期の長さと振幅の大きさは比例するのか?

 ここで、「周期性が長いほど振幅がデカくなる法則」というのはあるのか?ですが、一般にはあると思います。そりゃ小さな上下動が長いストロークで繰り返される事象というのもあるのはあるでしょう。でも、それは力学的に難しいんじゃないかな?というのは、なんでロングストロークになるのかといえば、ロングストロークにするだけのパワーがそこにはあるからだと思うわけです。

 縄跳の縄を二人で持って、ピーンと張って、一人が片方の端を上下に動かして波を作りますよね。小さな波を作るときは小刻みに動かす。つまり上下動を小さくすると小さな波になる。大きな波を作りたかったら、ゆっくり大きく上下に揺らすと、うわーんという大きな波になります。

 これは単なるイメージではなく、実際にそうなるということは、自然の力学法則に従った一種のモデルパターンなのでしょう。大きな上下動を伴うからこそ、それがワンサイクル終えるためには相応の長さを必要とする。多分、物理あたりの波動方程式にそんなのがあるんじゃないかな、面倒臭いから調べてないけど。高校の物理でやったような気がする(あくまで"気がする")。

 だから、「周波の長さと振幅の大きさは比例する」法則というのがあるとしても、それは周波が長いから振幅が大きくなる」というよりも、振幅の大きなものはそれだけの長さや尺を必要とするのかもしれません。大きな変化を現実に生じさせようとしたら、それなりの時間がかかるという。「ローマは一日にしてならず」だと。

 ここではそれ以上詰めて考えません。精密にみれば幾らでも例外はあるでしょう。またそこには別の要素も出てくるでしょう(絶対的なスケール差とか)。でもここでは、考えるためのイメージやヒントの問題であり、それが単なるイメージなのではなく、背景にはそれなりの理屈もありそうだということに留めておきます。

それがどうした?というと、、

 これって、運気のパターンであると同時に、ひとつの「人生の真理」だと思います。万物の普遍的パターンといってもいい。大袈裟なようだけど大袈裟ではないと思う。

 なぜそこまで言うかというと、自然現象も、そして日々の局面や人生も、似たようなパターンを辿ると思われるからです。つまり「より波長の長いものがより支配的な影響力を持つ」という。

 例えば、自然現象を見てみましょう。
 毎日の気温の差は、小刻みに変動します。オーストラリアほどではないですが、日本でも「今日は暑い」「今日は肌寒いね」とか言います。これが小波です。中波は四季の変化です。幾ら冬に季節外れの「汗ばむ陽気」になったとしても精々20度近くにいくくらいで、本格的な真夏の「肌寒い日(20度台前半)」にはかないません。コートを着ていて汗ばむ日とTシャツ一枚で肌寒い日とでは絶対値が違う。つまり、1日周期の小波よりも365日周期の季節変動の方が、絶対的な寒暖については決定的な影響力を持つということですね。

 しかし、1年周期の季節変動なぞ、数千から数万年単位の長期波動には太刀打ち出来ません。地球には周期的に氷河期がおとずれます。1万前ほど前に氷期が終わり、今はたまたま間氷期という温暖期が続いているのですが、これとて永遠ではなく、あと数千年や5万年で(説による)、再び氷期になります。人類の全文明なぞ、束の間の温暖期に芽生えたものに過ぎません。また氷河期になったら、僕らの生活スタイルや文明は根こそぎ持っていかれるどころか、人類という種の衰亡にも関わるでしょう。これはもう暑いとか寒いとかいうレベルではないです。

 しかしそれとて、より長期の周期=「星の一生」を考えれば微差に過ぎない。太陽が終焉を迎え赤色巨星化したら地球の生物なぞ当然のように死滅するし、さらに太陽系の消長など全宇宙の周期からしたら無に等しいほど微細なものでしょう。

 このように小波から超々大波まで様々あってキリがないのですが、幸か不幸か僕らはたかだか100年程度しか生きられません。数千〜億年スパンの大波変動があったとしても、それによって影響を受ける確率は低く、一般には無視してもいいでしょう。5000年後に氷河期が来て人類が死滅するかも?といっても、だからといって今日明日どうなる話でもないし、僕らが死ぬまでどうなるものでもない。もっとも、さきの東北地震が千年に一度確率だとしたら、その確率だってゼロではないのですから、「天災は忘れた頃にやってくる」という昔の格言を折にふれて思い出すべきではあるでしょうが。


 これを日々の生活や将来設計に応用して考えると、一生レベル、或いはそこまでいかなくても10年単位で移りゆくようなロングスパンの波に意識的になると良い、ということです。これが一点。もしそんなのが無ければ、作った方がいいよというのが第二点、そして日々の細々としたザコ波はどうでもいいから一喜一憂すな、というのが第三点です。

 以上です、で、終ってもいいんですけど、わかりにくいので少し解説しておきます。

考え方の応用

経年性変化=成長と老衰

 端的には年齢変化です。生まれて、成長して、思春期になって、青年期、実年期、老年期で死んでいくという大きな波があります。なんだかんだ言って、これが決定的な因子(の一つ)になるでしょう。

 まず生まれてしばらくは、一人では何も出来ない幼少期を過します。ここで温かい家庭であふれんばかりの愛情を浴びて育つという幸福な人もいるだろうけど、そうでない人もいます。日本では滅多にないけど、海外のあるエリアでは、幼児や子供を売買するというケースもありますし、日本でも「娘を女郎屋に売る」という話がありました。これははるか昔ではなく、バブル期にも実例を仄聞したことがあります。そこまでではなくても、両親に疎まれ、あるいは養親や環境に恵まれず、あるいはたまたま通った学校やクラスがミスマッチでいじめられ、、、というケースも珍しくはない。

 幼年期から思春期までは絶対的に弱い存在です。弱いから自分で環境設定が出来ない。だから偶然の環境次第で幸にも不幸になる。「自分で決められない」という時点で既にマイナスだとすることも出来るでしょう。これを先の図でいえば、はじまってすぐにマイナスが続くという軌跡に似ている。

 それが徐々に独り立ちするようになります。大体高校卒業するころから底を打ち、上昇に転じていきます。大学で一人暮しをし、バイトをして個人収入も増え、やがて就職し、最初はボコボコにされるけど徐々に仕事を覚え、信頼され、責任ある役職に就き、、と上昇気流にのっていきます。底を打ったと言いながらも、他の小波中波の影響で、一直線では上がらず、もたついたり、一時的にもっとマイナスに落ちたりするあたりも、実際のライフサイクルに似てます。入試や就活に失敗したという小〜中波が重なると、大きく底を打って上昇しつつも、それにひっぱられてマイナスを感じるという。

 仕事も快調、結婚もし、子供も出来て、段々エラくなっていきますというのが図でいえば絶頂期になるのですが、小波中波の影響で上下動しつつも、徐々に衰退していき、最後は衰弱して死に向かいます。

 これらは一般的な人生スゴロクみたいなものですが、そのスゴロクを裏打ちする大前提となるのが肉体&精神的な成長、成熟、健康、衰亡でしょう。いくら絶頂期にいようが、いかに社会経験を積み、評価賞賛されようが、大病や事故で半身不随になってしまったら、そこで急落するでしょう。「健康こそが唯一の資本」といいますが、ほんまですな。

長周波(うねり)の創造

 しかし、人生の長周波は何も肉体の経年性変化(成長と老衰)だけではないです。それらは確かに絶対的だけど(死んでしまえばそこで終わりという意味でも)、同時並行的に走っている他の長周波があります。

 それは例えば仕事であり、例えば人生の伴侶であり、例えば子供であり、例えば本格的な趣味であり、例えばボランティアその他の活動であり、、、ライフワークと呼ぶようなものです。これらは、自分の意思で創造できます。まあ、諸般の事情やシガラミで完全自由とはいかないまでも、裁量の自由度は高いでしょう。

 人生全体への波及効を考えた場合、チマチマしたザコ波ではなく、上下の振幅が大きくストロークの長い周期をもつものこそが支配的な影響力を持ちます。「大きく、長い物語」を紡ぐように、長周波がライフスパンに大きな「うねり」を生み、ドラマを生み出す。

 ちょっと興味があるからかじってみました→飽きたから止めました、又ちょっとやってみました→すぐ辞めました、、、というショートストロークを幾ら繰り返しても全体への波及効は限られています。ちょっと長い目でみたら殆どゼロに近く、やってもやらなくても同じくらいですらあります。

 これらはいわゆる普通の「人生設計」で語られていることで、就活をどうするか、いつ結婚するかとか、いつ子供を産むかとか、仕事はどうするとか、老後はどうするという話ですよね。でも、思うに、単純に与えられたメニュー作業をこなすようにやっていても果実は乏しいのではないか。それが人生全体へどういう波及効をもつか?という立体的な観点で考えた方が良いのではないか。

 というよりも、そういう個々のトピックが大事なのでなく、個々のトピックが生み出す長期波動(うねり)こそが大事なのだと思います。やりさえすればいい、カタチとして整えればいいってもんじゃないくて、それが「大きな物語を紡ぐかどうか」だと思います。

 またカタチではないというのは、典型的なモデル波長だけが全てではないということです。
 例えば大恋愛して結婚までいく直前、まさかの事故で死別してしまった!という悲劇で途中でブチ切れて波動が終ってしまったとしても、それでも人生は続くのですから、また新たな恋をして、あるいは恋愛ではなくほかの方向に向かって、、と「物語」は続きます。それらをひっくるめて死ぬ直前に振り返れば、男性遍歴・女性遍歴という遍歴譚になるでしょう。源氏物語の光源氏だって、マザコン少年の見果てぬ憧憬の物語ともいえるし、男女のあらゆる愛の形を学ぶ旅路であるとも捉えられるわけです。波というのは常にわかりやすいパターンを辿るわけではない。

 仕事についても同様でしょう。一つの仕事をやりとげました、凄いです、立派ですという物語しかないわけです。自分と仕事との距離の置き方が分からず、悩んで悩んで試行錯誤しつづけて、ついには終生分からなかった男の物語、でもいいわけでしょう?要はそこに「うねり」があるかどうかです。

スキルと生計

 ここで過去のエッセイでも折にふれ書いている「資格(だけでは食えない)」論をまた書いてしまいます。
 医者にせよ弁護士にせよ、それでメシが食える、それで押しも押されもしない金看板をおっ立てるまでには長い年月が必要です。学生時代の勉強からカウントすれば、最低でも10年はかかるでしょう。実際10年程度では、かつかつメシが食えるかな、どうかな?くらいでしょう。医者だって6年も学校いって、試験通って医師免許をとっても、最初は研修医というパシリ稼業でこき使われるだけです。4年目くらいだったら、どうかな?一人前かな?まだまだだろうな、でしょう。

 弁護士でも僕らの時代は難しく、試験に受かるまで平気で6年とか8年とかかかってました。平均合格年齢が28才以上ですから、学部の回生でいえば10回生ですもんね。それから2年修習やって、実務についても最下層のパシリとしてこき使われ、こき使われ、こき使われ(^_^)、、、、僕も勉強開始(20才くらい)からカウントすれば14年くらいやった計算になりますけど、それでも一人前と呼べるかどうかも怪しいです。「押しも押されもしない」どころか「吹けば飛ぶよな」存在でしょう。

 これらの資格やスキルは非常にロングストロークです。それだけに波の振幅が激しく、合格する前は地獄をみます。僕も、あと一歩というところでまさかの敗退、また一年、おまけに結婚まで約束してた彼女で別れてしまい、「なんもなーい」という焼け跡に取り残された少年みたいな感じでした。夜明け前が一番暗いね。ほんでもその時期が大事で、最初のカミさんと出会ったのもその頃だし、リンボー(煉獄=天国と地獄の境界にある世界)に1年取り残されることで、「たかが試験」「たかが仕事」と考え直すいい機会になった(これが伏線になって後のオーストラリア行きになる)、つまらんエリート意識も脱臭できたと思うし、すごい価値ある一年でした。で、合格してからは一気上昇で、結婚するわ、先生と呼ばれる身分になるわ、さらには年収も比較にならないくらい増えるわ。

 ロングストロークは振幅が激しいだけに波及効も抜群で、リターンも大きい。それ次第で人生がガラリと変わる。しかしショートストロークのもの、例えば1−2年で取れてしまうような資格・スキルは、これほどの波及効を持たない。いまは司法試験もかなり楽になったけど、その分、波及効が厳しく限定されて、昔のように食えるという保証は無くなりました。最終的には実力社会なので、本当の実力があれば今でも問題なくやっていけるのですが、間口が広がった分、食えない程度の実力でも受かるようになったので、規準や関門としての意味が薄れ、同時に人生保証パワーも劣化したに過ぎないとも言えます。「食う」ための努力の絶対量そのものは全然変わっておらず、資格試験という第一関門の位置を手前に置くか奥に置くかだけの違いでしょう。

 文系の難関資格は司法試験と公認会計士ですが、これに準ずる難関が司法書士と税理士と言われます。しかし、これらの仕事を資格一本「だけ」でやるのは不可能に近いでしょう。第一関門を潜り抜けてもまだまだ長い道のりが残されている。すなわち「営業努力」がモノをいいます。税理士だって、教科書通りの税務だけやってれば良いわけはなく、いかに合理的で実戦的な節税メソッドに精通しているかが問われるでしょう。さらに経営コンサルタント的な実力すらも求められるでしょう。というかその方が「売れる」。これも理屈だけでは無意味で、各業界に蜘蛛の巣のように人脈を張り巡らし、実際の経営に役に立つ、まさに切れば血が出る実戦的なノウハウや人脈紹介ができるかどうか。だからこそ依頼者も「先生、ひとつ、おねがいします」とお金を払うわけです。客は資格や知識にお金を払うのではなく、具体的な実利に対してのみ払う。つまり希少価値性を産み出すには、プラスの付加価値を沢山積上げないとならない。

 これらは難しいし時間もかかる。でも、難易度や時間が重要なのではなく、難易度が高く時間がかかるからこそ、競争相手が少なくなり、希少価値も出てくるからよく売れるようになる、という点にポイントがあるのだと思います。で、その希少価値性を獲得するのは難しいから当然のように難易度があがり、且つ時間もかかるという関係になる。

需給ギャップと千年仕事

 もっとも難しければいいわけではなく、比較的簡単に取れるけど就職に困らないというニッチな資格も多いです。ただし、これらの資格スキルは社会変動の影響を受けやすい。例えば医療関係の資格でも、医療機器の画期的な進展や国の医療制度の改革によって仕事そのものが消滅する可能性もあります。どんな世の中になっても医者的、看護婦的なポジションは必要とされるだろうけど、それ以外のパラメディカルは激しく進歩・変化するから立ち位置も不安定かもしれない。

 何を言ってるかというと、なんで簡単に取れて仕事に困らないという夢のような状況が出現するか?という構造です。これは大きな需給ギャップがある場合に生じます。需要は日々高まるけど、それをやる人が少ないから「仕事に困らない」という状況がある。需要が激しいほど、半人前だろうが猫の手だろうが奪い合いになる。だけど、そんな需給ギャップはいつまでも続きません。

 そもそも何故にそんな需給ギャップが生じるかといえば、大きく社会が動いたからでしょう。地殻変動のように社会が変化したから、大地や山にクラックや亀裂が走り、深い谷が出来る。ギャップが出来る。だから「おいしい話」も出てくる。でも、地殻変動は一回ポッキリで終らず、尚も続く。またゴゴゴと揺れていくうちにクラックが閉じてしまうかもしれないし、別のところにポカッと亀裂が走るかもしれない。つまり変動があった故に生じた「おいしさ」は、変動ゆえにまた不味くなる可能性もあるということです。

 ここしばらくは日本の高齢化も続くでしょうから、シルバービジネスや介護ビジネスが盛り上がると言われ続けてますし、実際そうではあるでしょう。しかし、永遠に高齢化し続けるわけがない。平均寿命だって無限に伸びるわけでもない。てか、今の60才以上の団塊世代が徐々に鬼籍に入り始める20年後くらいからトレンドは変わるでしょう。やがては高齢者が相対的に減ってくる。しかし、その時点では膨大な需要に間に合わせるため膨大な供給者がいるわけで、あとは壮絶な仕事の奪い合いが待っていることになるかもしれない。これはベビーブーム&高学歴化で弱年産業(産婦人科から大学院まで)が盛り上がっていたけど、徐々に破綻を迎え、産婦人科は苦戦し、ポスドク難民が漂流しているのと同じ事です。

 そうなると1000年前からあるような普遍的な仕事の方が強い、安定感があるということなるでしょう。病気はおそらく無くならないからキュア(医師)とケア(看護士)的なポジションは何らかの形で存続する。人と人の争いは無くならないから弁護士も政治家もある。メシを食うという行為は絶対不変でしょうから飲食ビジネスそのものは無くならない。もちろんスタイルは変わるでしょう。激しく変わるかもしれない。ただ一過性の変動ギャップではないので、安定性はあるということですね。千年くらいで遺伝子が変わるとは思えないので、千年後もおそらく人間の頭髪は伸びるだろう、だから美容師的な仕事はあるでしょう。ま、古代の遺跡で出てくるようなことは1000年後も変わらずあるでしょう。装飾品が発掘されたということは、人は着飾り装うという楽しみを手放すことはないだろうし、壁画があればアートは不滅に残るでしょう。

 ただし、昔からあるような仕事は技術も洗練され尽しているから学ぶことが膨大にあり、且つレベルも途方もなく高い。また志望者も多いから激烈な競争がある。そうそう一朝一夕に身につくようなものではない。だから時間がかかり、難易度も高い、、、という関係になるのでしょう。

 これを人生レベルに翻訳していえば、身につけるのに時間がかかるスキルであればあるほど希少価値性が出て、生計は一般に立てやすくなる。あくまで「一般に」ですけどね。だから簡単に出来るようなことやっても希少価値がないから生計という意味では大して役にたたない。平たく言えば人生変わらない。英語なんかちょっとやそっとでは身につきません。1年留学したところで、まあ初等講座修了程度で、ある程度モノになるには3年修行は必要でしょう。それすら地道に出来る人は少ないから希少価値はそこそこあります。

 本気で安定したかったら、30年モノ、50年物がいいですよね。一人前になるまで50年かかるような仕事。日本刀の鍛冶とか、前にも紹介した(性賢説と性愚説)宮大工とか。僕も法曹やってないで、もし宮大工を17才のとき知ってたらやってたかもしれません。木材の買い付けのために、1000年樹木が生えている状態を見に台湾まで行くなんてワクワクしますね。1000年単位の仕事というだけで、やる意味あります。

 

生計ではなくテーマ性

 ただし、誤解しないで欲しいのは、上で僕が書いているのは、資格→生計という局面に限定しての話です。
 現実社会にはそんな限定なんかなく、もっと自由です。さらに言えば「限定」なんかすべきではなく、その「限定」こそがショートストロークの不毛性を産むのだと思います。

 難しい資格や試験に挑戦するというのは、単に高収入だからというだけでは続きませんわ。ハンパな努力じゃないもん。ときによっては人間やめるくらいの苦痛を伴う。それでも「やる」というのは、ゼニカネ以外のテーマがあると思うのです。例えば医療に携わりたいという人は、医療技術によって、あんなに苦しい思いをしていた人々が明るく笑えるように回復する、それはもう奇跡のようなもので、その素晴らしさに感動してやりたいと思ったりもするでしょう(人によるだろうけど)。

 僕の場合も、生計とか収入とかそりゃ考えるけどメインではないです。
 何がメインかというと、誰かに頭ごなしに命令されるのが大嫌いだから、できるだけ自分の戦闘能力を高めるという意味がありました。相手が暴力団だろうが、大企業だろうが、国家権力だろうが、素の一個人がどこまで我を通せるか、どこまで戦えるか、その最高水準の戦闘技術とノウハウを身につけたかったというのが大きかったです。同時に、弱いがゆえに虐げられている状況を見るとメチャ腹が立つので、力を背景にエラそにしてる奴らの向こう脛を蹴っ飛ばしてやる快感もあります。いわば自衛隊的な欲求であり、「趣味の喧嘩」みたいなものです。生計は大事だけど二の次。もし億万長者で働く必要がなくても、やっぱ無料でもやってたと思うし、実際弁護士の仕事は手弁当とかボランティアが多い。ビジネス原理から逸脱するくらい多い。なんでやるの?といえば、やっぱ面白いからやってるんでしょう。

 一言でいえば、「素の個人が世界を相手にどこまで戦えるか?」というのが基本テーマみたいなもので、それが僕のロングストロークの本質なのかもしれない。今の仕事だって、海外という絶対的にアウェイな環境、全てが逆境という状況で、素の個人がどこまでやっていけるかのノウハウの伝授という意味では同じことなんですよね。「ひとりぼっちで世界を敵に廻す」という構造が大好きなんだろうな。

 とにかく「個」にこだわる。組織や権力の力をアテにしないで個人としてどこまで出来るかにしか興味がない。それは格闘家がどんな技でもアリにするけど、ただ一点「素手」という条件だけには絶対的にこだわるのと同じだと思う。こういったテーマ(改まってそう思ったことはないけど)は、子供の頃から営々とやってきたことで、おそらくは一生やってるでしょうし、そのことに不満も悔いもないです。自我を殺して安泰になるくらいなら、突っ張ってボコられた方がマシ(そのときの状況によるけど)というのは、自分の初期設定みたいなもので、ここまでくるとロングストロークのテーマなんだか、ただの性格なんだか分からんのですが、それだけ自分に合っているということでしょう。

 そういう価値判断からしたら、「生計」は大した重要性を持ちません。生計は、そりゃ立たないと何かと面倒だけど、立てばそれでいい。「テキトーに立ってりゃそれでいい」くらいの感じです。でなきゃ、やってませんわ、今の仕事は。

好きなことと「うねり」

 こういう大きなテーマ、ロングストロークを持つと、大きな「うねり」が生じます。

 例えば、役者さんとして大成するとか、古典的な職人芸を継承するとか、シュリーマンのトロイ遺跡のように個人の研究を偏執的にまで追求するとか、、、、もう一人前になるまで50年かかるとか、そもそも成功するかどうかすら不明、てかまず間違いなく失敗するだろうけど、それでもやりたい、やってるだけで幸せってテーマです。

 これは何もご立派な事業とか「仕事」と呼ばれるものでななくてもいいんです。どうやったら自分は、ひいては人は、心が本当の意味で平穏になれるのだろうか、「静謐(せいひつ)」という言葉がドンピシャに合うくらいの絶対的な心の平安というのはこの世にあるうるんだろうか?どうしたらいいんだろうか?というテーマを一生考えるのでもいいです。それか、史上最強のケーキを作ってやる、食べてやるでもいいでしょう。なんでもいいのだ。

 一生レベルでその種の好きなことが見つかった人は幸福です。強烈なロングストロークを手中におさめているのだから。それがロングであればあるほど、大きな「うねり」が生じる。上下の大きな振幅が生じる。ゆえにドラマが生じる。「30代の頃は、暗中模索というか、ほんと辛かったですね」みたいな大きな物語がある。

 若くして売れてしまった画家などは、中高年になるほどに自己模倣との戦いを展開し、新たな境地に挑んでも世間からボロカス言われてしまうし、同じ事やってるとワンパターンとバカにされるし、ほんと苦しいと思います。過去の自分の作品が最大の強敵になる。誰かのエッセイに、ワンパターンと言われている画家の展覧会をみたら、一生を通じて、彼が自己模倣との過酷な戦いをいかに誠実にやり続けたかがわかって感動したと書かれてましたが、僕はそれを読んだだけでも感動しました。ほんとに辛い戦いだったろうなって思うし。でも、一生を通じて戦えるものがあったというだけで、それは素敵な一生だったんだろうとも思う。

 このエッセイでも過去に、口が酸っぱくなるくらい(腱鞘炎になるくらい)、「好きなことをやればいいじゃん」って書いてますが、今回もそれです。何をどう考えてもそこに行き着く。どっから登っても頂上は一つみたいな感じ。好きなことは結局やっちゃうし、やり続けるから長続きするし、凝り倒したりするからディープにもなる。つまりはストロークも振幅も長く大きくなる。それに伴って「うねり」も出てくるのでしょう。人生に春秋あり、起承転結や序破急ありです。

 念の為にいっておくけど「好きなこと」って、リアルタイムには「好き」というスィートな感覚はないかもしれませんよ。分かっているとは思うけど。英語だって、真剣に根を詰めて勉強してたら、英語を聞いただけで吐き気がするようになるもんね。没頭すればするほど頭も精神も飽和状態になる。しまいには「好き」どころか、激しく憎むようにすらなる。

 だから「好き」という表現は正確ではないかもしれない。なんらかのディープな「かかわり」とでも言うべきか、英語で言えばコッミトメントとでもいうのか、、、でも、ドンピシャの言葉がないから「好きなこと」にします。ほんでも「好き」という甘味感ある語感にひきずられて迷宮に入り込まないように。

 あと、「一つのこと」というのも、語感に縛られない方がいいかもしれない。
 逆説的なんだけど「三日坊主を死ぬまで繰り返す」というのも、見方によってはアリだと思います。これはもう、その人の気持ち一つなんだけど。もし、何かで成功したいとか、生計を立てたいとかいうことであれこれやってはすぐ挫折だったら、あんま意味ないです。でも、「この世の全てを味わいたい」という極端に「広く浅く」というのがテーマだったら、それは全然アリです。とにかく「はい、次!」「ネクスト!」ってやっていきたいから必然的に短くなる。個々のものは短周波だけど、「味わい尽す」という大きなテーマでみればロングストロークなんだという。「波」をどう考えるか、どう捉えるか、でしょう。

一喜一憂すな

 以上のことから必然的に出てくる結論は、細かなザコ波なんか「どーでもええわ」ということです。

 やれひげ剃りに失敗したとか、虫歯が痛いとか、上司に怒られたとか、携帯無くしたとか、英語が伸びないとか、就職で苦戦してますとか、それもこれも、あれもどれも、一生スパンでみてザコ波だったらどうでもいいです。死ぬ間際の走馬燈のスクリーンに出てこないようなことは無視してよし、気にすんな、です。

 もちろん個々の失敗は、個人の責任でキッチリ落とし前つけるのは最低限の生存資格だし、そこで学べるものは貪欲に学んでおくべきだけど、それは学べばいいだけの話で、それ以上に話を膨らませる必要はない。してはならない。就活が思わしくないというミジンコ波ごときで、もしかしたら全人格的にダメかも、人生終ったかも、なんて話を膨らませるたり飛躍させたりするのはNGです。

 逆に言えば、ザコ波ごときで一喜一憂するような、心が乱れてもう眠れないような人は、大きなうねりを持ってないということでしょ。最初の表でも黄色の大波がもし無かったら、ピンク色波形はどうなるかというと、より些細なものに強く影響されるようになる。細かなことが細かなことだと思えないこと、それは大波やうねりをもってないこと、あるいは持っているけどそれに気づいていないことであり、真に考えるべきはその点でしょう。

追補 マイナスが悪いわけではない

 上のモデルの図でマイナスになるときは、いかにもドツボで不運で死んじゃいたいような不遇な時期であるかのように思えるかもしれません。ま、話が分かりやすいので、最初はそう思っててもいいけど。

 でも違います。
 確かに局面的にはマイナスなんだろうけど、だからといってそれが不幸感につながるというものでもないし、局面がプラス絶頂になればそれだけ幸せ絶頂になるというものでもない。そんなに世の中シンプルなわけないっしょ。

 上に書いたように子供時代は無力で弱い存在で、環境や他者によってたやすく翻弄されます。しかし、だかといって子供は全員不幸か?というとそんなことはないです。それどころか子供時代の方がむしろ幸福感があったりもする。無力で弱い存在であったとしても、です。理不尽に親や教師に怒られてピーピー泣いているとしても、です。

 未来のデビューを目指して黙々と練習しているアーチスト、チャンプを目指す選手、成功を夢見て起業準備をしている人、家族が寝静まってからおもむろに教科書をひろげて資格取得の勉強をしている人、、、、ここ当分は、やってもやっても結果が出ない、報われないマイナス時期が続くでしょう。僕もそうでした。

 でも、今から振り返るとマイナス時期の方が楽しかったんですよね。受験だって、ゴミみたいな答案書いてはズーンと奈落の底に沈み込むような日々でありつつも、時給480円のバイトでセコセコ貯めてた時期であったとしても、それでもあの頃の方が楽しかったなあ。英語だって出来ないで四苦八苦して、四六の蝦蟇のように油汗流していた当初の方が、冒険的に弾けて楽しかった。会社でも創業メンバーが昔のアホみたいな貧乏時代を懐かしんでは「あの頃が一番面白かったな」というのは、年寄りの繰り言でもなんでもなく、真実そうだからでしょう。

 むしろプラス局面の方が詰まらんことが多い。守るべき事が多くなり、義理やらしがらみやら出てくるから意にそぐわぬことも多い、お金は入るが無駄に出ていく量も桁違いに多くなるし、プライベートはどんどん痩せ細るし、、、。これは売れてしまったミュージシャンが抱える悩みと同じでしょう。仲間と好きに音を出してた時代の方が、全然食えなかったとはいえ楽しかったと思う。これを「贅沢な悩み」と人は言うだろうけど、いや、でも「贅沢」ではないよ。普通の悩みだと思う。

 恋愛だってプラス時期だけが幸福なわけでもない。めでたく結ばれたら、「日常」という何を洗っても色落ちする洗濯機みたいなメカニズムが作動し始めるしさ、「こんな筈では」ってことの一つや二つ、5つや6つは誰でもあるしさ、それがだんだん「もう限界」「やってられるか」になったり、、でも、それでマイナスに落ちていくんだけど、今度はマイナスだから絶対ダメかというと、案外それでも続くんだわね。今度はその「日常」の力強さに支えられたり、ふとしたとき結局頼りにしてるじゃん、心のよりどころにしてるじゃんというのに気づくとか。

 だもんで、プラスとかマイナスとかいう垂直の書き方があかんのかもしれないけど、+−に大きな意味はないです。西と東とか、右と左にしてもいいくらいです。そんなことより大事なのは「うねり」があることでしょう。



文責:田村



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