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今週の1枚(2013/03/25)



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Essay 611:波や火はなぜ見てて飽きないのか?

「ゆらぎ」と快感

 写真は、近所のスーパーの駐車場で撮った黄昏の雲(場所なんか何処でも良いのだが)。

 本文に関係するのですが、空や雲を見てると飽きないです。最近とみにそうです。夕焼けがきれいだったとか、空が気持ち良かったりすると、もうそれだけその日一日は黒字。「ああ、いい日だった」と思えるくらい満足感があります。良き友と快酔した夕べのように。

 この写真を撮ったときも、雲を見てて、ああ不思議なカタチだなとか、キレイだなと思う以上に、なんか知らんけど「人と会ってる」気がした。不思議な感覚。上の写真もクリックして大判(1680)の画像を呼び出し、ディスプレイいっぱいに広がる雲を見つめて下さい。人と会ってるような感じがしませんか?

 んなこと考えていると、そもそも僕らが「生き物」で、雲とか火という自然現象が生き物ではないとかいう当たり前の区分すら疑問が出てくる。そうなの?じゃあ「生きもの」って何よ?自然現象じゃないの?どこが違うの?とかね。

波や火はなぜ見ていて飽きないのか?

 海岸に打ち寄せる波。焚き火や暖炉の火。
 単調な筈なのに、なぜか見入ってしまう。
 飽きもしないで、じーっと見てしまう。

 なぜなんでしょうね?
 なんで飽きないのでしょう。似たような現象が延々繰り返されるだけなんだけど、不思議と飽きない。

 この規則的でも不規則でもない「不思議なパターン」が波や火にはあり、ひいては自然界にはあり、それが僕らをして飽きさせないのでしょう。

 その内実は?というと、「1/f ゆらぎ」であるとよく言われます。
 「1/f ゆらぎ」をWikiで調べると、

 「1/fゆらぎ (エフぶんのいちゆらぎ) とは、パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎのこと。ただしfは0よりおおきい、有限な範囲をとるものとする。
 ピンクノイズとも呼ばれ、自然現象においてしばしば見ることができる。具体例として人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、目の動き方、木漏れ日、物性的には金属の抵抗、ネットワーク情報流、蛍の光り方などが例として挙げられる。(中略)」
 「ヒーリング・ミュージックの効能の説明にも使われる言葉であり、規則正しい音とランダムで規則性がない音との中間の音で、人に快適感やヒーリング効果を与えると主張される。(中略)しかしその根拠や効果の説明は曖昧であり、オカルトにおける波動などが基にされることもある。音楽の嗜好や受ける印象には個人差があり、万人にヒーリング効果を及ぼす音楽なるものが存在するかどうか定かでない。」

 とされています。

 つまりは、「適当に不規則」という絶妙なレシピーなのでしょう。
 完璧に規則的だったらやっぱり飽きるんだけど(それかトランス状態で眠ってしまう)、全くのランダムだったらこれもまた飽きる。適当に規則的で、適当に不規則である必要がある。

 しかし、それも必要条件であって十分条件ではない。規則と不規則がミックスすればいい「だけ」だったら、街道沿いの騒音のパターンだってそうなのでしょうが、それほど人の心を惹き付けるわけでもない。やっぱり「適当に」という配合歩合にミステリーがあり、その「適当」の数値が「1/f」なのでしょう。

 しかし、「1/fゆらぎ」と言ったところで、「一定の気持ちいいパターン法則はある」というだけのことで(それだけでも大したものだが)、どうしてそのパターンだと気持ちいいのか、なぜそんなものが存在し、どうやって発生するのか?等については殆ど分かっておらず、今後の研究テーマだそうです。

 しかし、ここでは「ゆらぎ理論」を考察するのがテーマではないです。そんなの理系音痴の僕には無理です。興味はあるけど能力がない。

 その代り、「不思議だな〜」という部分を突き詰めていきます。

 だってさ、本当に不思議なんだもん。
 この世にも稀なる不思議さを単に「不思議だね」で終らすのは勿体ない。もっとじっくり愛(め)でてみたいということです。

物語性

 ところで、規則/不規則とか法則性とか「1/fゆらぎ」の関数的な視点に引っ張られて述べてますが、別に規則性にこだわる必要もないのではないか。ここが素人の恐い物知らずなところでしょうが、例えば「物語性」という要素もあるのではないか?と思ったりもします。

 一見同じようなことが繰り返されるようでいながら、実は、ゆっくりと物語がひもとかれていく、その物語に引き込まれるから「飽きない」という心理状態になる、という解釈はどうかと。

 例えば、海の波を見ていても、単純に繰り返しを見ているだけでもないと思うのですよ。書きながら、そういったときの自分の心理の詳細を思い出していたのですが、あれ、単に見つめているだけではなく、何かを同時に考えています。何かと言えば波の大きさです。

 「おお、今、どっぱ〜ん!とデカい波がきたな。すごい波しぶきがたって豪快だな。またあんなの来ないかな。あ、来た来た、、、あ、だめだこれは小粒だ、ほらね、、、」とか見ている。そして視線は段々沖合の方に向かって、波の青田買いのように「お、あの辺のうねりはちょっと不気味だな、あれがそのまま波打ち際まできてくれたらさぞかし巨大な波しぶきが、、、あれ?どっかいっちゃった、どこいったのかな、引き波の力と打ち消し合って消えちゃったのかな、、、お、全然期待してなかった小さな波がなぜかあんなに派手な波しぶきをあげたぞ、あれ、どういう原理なんかな、、、あ、来た、また来た、文字通り”波状攻撃”だ」

 とかなんとか考えている。
 だから「繰り返し」を見ているのではなく、ストーリーというほどのこともないけど、そこには変化があり、予想があり、期待があり、意外性があり、それを楽しんでいるという。これは僕だけですか?

 同じように焚き火を見てても、ちょっとしたストーリー性はあります。
 焚き火といっても無限に燃え続けるわけではなく、木材やタキギなどの燃料を燃焼させながら燃えているわけですから、刻一刻と燃料は消費されて無くなっていきます。火勢が弱くなったらまた新たに木を継ぎ足すのですが、火にくべたばかりではまだ水分も残っていて火付きがわるい。逆に火勢がさらに弱くなることもあります。しかし、それでも持ちこたえていると、徐々に火が回ってきて、なにかのクライマックスのようにある瞬間にぼっと炎が大きくなるときがあります。でも、しばらくすると火勢がまた弱まり、しかし他のタキギが燃え崩れたりしてタキギ同士の位置関係が変化して又新しい局面になる、、、

 これもストーリーというほどの骨格があるわけではないのですが、それでも単一の状況で燃え続けているのではない、それなりに変化がある。

 変化といえば、波だって満潮干潮があるのであり、ながいこと見ていると潮が満ちてきたり、引いたりするし、焚き火だって未来永劫やってるわけではなく、適当に始まりと終わりがあります。

 つまり、一見同じ事の反復のように見えつつも、一回一回微妙な変化があり、しかもその変化にまつわる小さな物語があり、さらにそれを包み込む大きな物語があり、それらがランダムに出たり消えたりしながら、ゆったり進行している。

 この連想で思うのがマラソン中継です。あれも何の気なしに見だしたら最後まで見ちゃう不思議な魅力がありますよね。ただ単に走っているだけで、野球やサッカーのように派手な動きがあるわけでもない。本当に「走ってるだけ」です。そんなの退屈な筈なんだけど、でも退屈しない。もちろん、ランナー同士には高度な駆け引きがあり、それが分る人には手に汗を握るくらい面白いのだろうけど、僕のようなド素人にはそのあたりは分からない。だから手に汗握るところまではいかないんだけど、だからといって退屈か?というと、意外とそうでもない。同じように走ってるだけでも、微妙に順位が入り替わったり、誰かが遅れだして「ああ、、、」という切なさもあるし、誰かが追い上げてきて「おお」という盛り上がりもある。そして大きくレースが終っていく。

 「雲の動き」というのもあります。あれも飽きないですよね。朝礼のとき、バスを待ってるとき、ヒマだから空を見て、流れゆく雲を見入るときがあります。そして雲にもなにがしかのストーリー性がある。例えば、同じ雲といっても種類が違ったり、風に流されて移動する速度が違ったりします。雲のカタチをみて、「○○に似てる」というのはよく言いますが、そのカタチですら風によって徐々に変化していく。自然の彫刻みたいなものです。そして、巨大だった雲も徐々に吹き千切れて小片になり、やがては消えていくようなときは、まるで平家物語のような切なさを感じたり、逆に徐々にもくもくと育っていくときは、なにかしらイケイケムードが漂ったりします。

 この雲の動きには波や火のような「反復」がないです。繰り返しというよりは、一方向への変化でしかない。だから、不定期の「反復」が気持ち良いというよりも、ゆったりしたテンポで意味ありげに変化していく、というかその意味づけしようとする心の変化とかが面白い。だから飽きないという気もします。あれは「ゆらぎ」なのかな。

 もっとも物語性だけに全てを求める気はないです。
 ロウソクの火、ガスこんろの火、あるいはお線香、、、、これらは波や焚き火、あるいは雲のような物語性は乏しく、単純に同じことがずっと続いているようです。しかし、ガスこんろの火ですら、よーく見ていると完璧に定性を保ってるわけではない。理由はよく分からないけど(ガスの圧力の差なのか、その周囲の空気の酸素含有量の疎密によるのか)、一瞬一瞬微妙に火勢が違ってて、全く同じではない。何かしらゆらめいている。その差に気づくと、妙に見入ってしまいます。お線香でも、線香の素材の疎密で燃える速さがほんの微妙に違ったり、立ち上がっていった煙が、その時々の空気のかすかな変化に応じて複雑にカタチを変えていく。

 これらは物語というほど物語があるわけではないし、反復・繰り返しというほど一回のストロークが明確なわけでもない。そこにはただ「微妙な変化」があるだけですが、その微妙な変化が面白い。

 

再び「1/fゆらぎ」

 さて、ここで気になったのでもう少し「1/fゆらぎ」の内容を調べていたのですが、分り易かったのは右のサイトです。Wide University/School fo Internetというサイトで、渕上季代絵さんのやっておられたメディア学概論の中の参考資料 (第五回) - 1/f ゆらぎです。このサイト中々面白い試みをやっておられたようですが、残念ながら今は更新が進んでません。引用するにあたり著作権のことを調べようとしたけど、そのリンクも事実上存在せず、仕方ないので画面をキャプチャーして右に画像として一部を示します(クリックすると全体の頁画像が出ます)。

 右の画像が、「1/fゆらぎ」の内容説明になるのですが、全てを理解するのは難しいのだけど、何となく「ははあ」と思うところはありました。

 とりわけ目を引いたのは右のグラフです。幾つもある青い曲線は、周期的にさまざまな波、小さな波から大きな波までいろいろと生じている状態ですが、その時々によってそれぞれにプラスになったりマイナスになります。それらをその時点時点で合算し、プラマイ勘定してトータルでどうなるのかを示したのが赤い曲線ですが、青線のように分り易い周期性を持つわけではないが、しかし、プラス部分とマイナス部分が鏡像のように相似形になる。

 この赤線が、自然界における物事が生じるパターンなのでしょう。もちろん個々の青線の波がこんなに幾何学的になるわけではなく、実際にはもっと複雑になるのでしょうが、考え方としては同じです。

 ここから先は理系ではなく僕独自の文学・社会学脳での発想ですが、これって運のパターンに似ている。あるいは人生のパターンに似てる、というか、そのものじゃないかと。

 どこがそっくりかというと、大小さまざまな青波があることです。これを分り易くプラスを「いいこと」、マイナスを「悪いこと」だとして置き換えると、小さな波は小さな幸/不幸です。ちょっと褒められたとか、犬のウンコを踏んだとかいうささやかな幸不幸。中波はもうちょい大きく、最近仕事がつまらんとか、なんか妙にモテてるような気がするとか、予想外にボーナスが出たとか、車が故障して修理費が嵩んだとか、その種のことです。大波は、結婚や離婚、失業や転職、大病やその回復などだとします。

 それぞれがそれぞれのサイクルで適当にイイコトも悪いこともまぜこぜに起きている。普通何もかもが良いということはあんまりないです。素敵な恋人が見つかったハッピー期でも財布を落としたりするでしょうし、大小さまざま幸不幸はある。しかし、「悪いことは重なる」といいますが、多くの波が揃いも揃ってマイナスになるときもあるし、揃ってプラスになる絶頂期もある。

 実際の生活ではこんなにキレイに分析できないので、漠然とした生理感覚(最近ツイてるとか、何やってもダメダメとか)で感得するのでしょうが、細かく見ていけばそう。そしてそのトータル感覚が赤線になるのだけど、これが意外とドラマチックで、ドン底までいったあと一気に上昇します。「夜明け前が一番暗い」と言いますが、本当にそうで、何かの上昇気流に乗る直前というのはドツボが多い。個人的な経験でも、職務上の経験でも(破産管財とか離婚とか)、だいたい「こんな感じ」です。

 でもこれ、意図的にドラマチックになろうとして仕組んでいるのではなく、この図でも個々の波は極めて規則正しい周期性を持ちます。単調な波の繰り返しでも、その波がいくつもあり、相乗効果や減殺効果が得られたら、こんなにもドラマチックになるという。これは凄いヒントになります。これを数学的ではなく、文学的に言えば、「普通に生きてたら、適当にドラマチックになってしまう」ということです。何もドラマチックを目指さなくても淡々とやればいい。ただし、波が複数あればあるほど変化は複雑になり、ドラマ性は深まる。

 また、これは勝手な推測ですが、いかに小さな青線の波だって、本当はこんなに幾何学的になるわけがなく、小さな青波には、またさらに小さな事象群の相乗効果があるのでしょう。現実に影響を与える原因は、大小さまざま膨大な要素が入り乱れているのでしょうが、それぞれに大波小波の周期性があり、さらにそれらが合成されて結果として現実・現象というものが生じる。そして、それぞれの周期性やピッチが違う以上、それぞれに微妙にズレていくから幾何学的にはなりえない、ナチュラルに不規則になり、ナチュラルにズレていく。それを自然界の「ゆらぎ」というのでしょう。まあ、当たり前といえば当たり前ですけどね。


 自然界の「ゆらぎ」はなにも「1/fゆらぎ」だけではないです。もう沢山のバリエーションがあるそうです。
 「ゆらぎ」というよりも「カオス理論」と言った方がよいのかもしれませんが(よう知らんのですが)、右の図の「ローレンツの乱流モデル」というものです。同じサイトの同系資料=参考資料 (第五回) - ローレンツ・アトラクター にありました。カオスを調べるとよく出てきます。

 カオスというのは「混沌」という意味ですが、平たく言えば、自然現象にはちゃんと法則性はあるのだけど、超々々複雑すぎて計算できず、事実上予測不可能であるということなんでしょうね。ま、僕の要約ですから鵜呑みにしちゃダメですよ。

 でもこの対流モデルを見てて思い出したのですが、僕の事務所の先輩弁護士が西淀川公害訴訟をやってて、工場煤煙と健康被害の因果関係の立証で死ぬほど苦労してました。京大のえらい先生の協力を得て、当時としては破格のスーパーコンピューターをフルに駆使して鑑定意見を書いて貰って証拠にしてました。風の流れなど余りにも複雑すぎて殆ど「人智不能」レベルなんだけど、「わかりません」では住民側が負けちゃうからから必死になって頑張るという。しかし、大阪の一部分という限られたエリアの、限られた時期の、しかも限られた工場の煤煙の変化ですら追うのがこれほどまでに大変だったら、地球の温暖化とかそのレベルになったら途方もない苦労になるのだろうな、自然環境保護とかアセスメントとか気軽に言ってるけど、現場の方々の知的労働量というのは想像を絶するのだろうなと思ったのでした。

 話を戻して、このように自然というのは、一見ランダムなんだけど、完全にランダムなわけではなく、それなりにパターンがあるということですね。

 で、「1/fゆらぎ」ですが、このパターンが「マイナス1」になる場合、ちょうどきれいに反比例する場合ということでしょう。

 右のグラフは、最初に掲げたグラフの説明のページ載っていたもので(画像をクリックすると全体の説明文も出てきます)、これが「1/f」の内容です。右のグラフの横軸は周波数ですが、周波数というと音波を連想されるかもしれないけど、この場合は「発生頻度」です。一定期間に10回しか発生しなければ周波数10、1000回発生するのは周波数1000。縦軸はその現象の強さで、これはマイナスの象限ですので下にいくほど弱くなります。また、この数値は常用対数logを使って表わしているので二乗の反対。ま、詳しい理屈は僕もよう分からんのですが、大雑把にいうと以下のような事が言えるでしょう。

 周波数1000、つまり年がら年中起きている出来事の強さは弱い(0.001)。しかし、滅多に発生しない周波数10の現象の強さは0.1でかなり(100倍)強い。これをグラフ化すると冒頭の図で、小刻みに発生する波は些細な振幅、しかし大きな波は大きなプラマイ値を持つ。滅多に起きないけど、起きたときはドカンだと。雨とか晴れとかは年がら年中発生するけどその強度(影響力)は低いが、100年に一度クラスの地震が起きたときは途方もない大地震になるという、これは経験的に分かると思います。

 そして、物事にはいろいろな発生パターンがあるのですが、この説明文(クリックして表示される)にも書いてあるように、実際のゆらぎには、傾きがマイナス1というきれいなモノだけではなく、マイナス2もあれば、マイナス0.3もある。大きな変動が頻繁にある場合もあれば、小さな変動がマバラにあるだけという場合もある。この発生頻度と強度の相関関係が、ちょうど反比例=しょっちゅう起きるのは小さく、滅多に起きないのは大きくという対応関係がマイナス1くらいになるのを、別な数学的表現でいえば「1/f」になると。

 これだけだったらなんのこっちゃですけど、例えば波だったら、小さな波がひっきりなしに打ち寄せる中、ぼつぼつと中くらいの波がきて、ごくたまにデカいのが来る、、、という割合がちょうどマイナス1という比率が「気持ち良い」と感じ、だから「1/f」は気持ち良いと感じる。

 まあ、これは実際そうだと思います。どーでもいいような細かな出来事、小さな幸不幸によってチョコマカ生活が彩られ、たまーに来るのはでっかい幸不幸というパターンが良いと。毎日のように、やれTシャツに醤油を零したとか、バスに間に合ったとかいう小さな幸不幸があり、週イチくらいにちょい大きめの、月1、年1にそれぞれより大きな出来事が、そして数年に一回、さらには数十年に一回くらいすごいイイコトや悪いことがある というのは、何となく納得できます。

 これが逆にデカいものほど頻繁に起きてたら生きた心地がしないでしょう。毎日のように東北大震災並の地震に襲われるとか、毎週のように警察に冤罪で捕まったり、車で人身事故を起こしてたらやってられませんわ。逆に、あまりにも出来事の頻度&強度が小さかったら=例えば1年一回くらいポストにDMが投げ込まれ、これが1年で最大のイベントになるような生活だったら発狂するでしょう。

 つまり適度に変化があり、小さい変化は頻繁に、大きな変化は稀にという割合比率があり、その比率が「ええ感じやね」と思えるのを「1/f」と呼ぶのでしょう。そして、自然界には、この「ええ感じ」のパターンがわりとちょくちょくある、ということです。

 先ほど物語性という別の要素を上げました。しかし、物語性という別の要素があるのではなく、物語だって「変化のパターン」の一種に過ぎないのでしょう。変化の周期性だけ追っかけていけば、「f値」という関数表現になるのでしょうが、その変化パターンに僕らがお馴染みになっているストーリーパターンを擬似的に乗っけて認識すれば物語的に感じるという。物語として翻訳して認識しているというか。

 大きな雲が強風にあおられ、散り散りになってしまう状況をみて、壇ノ浦の平家みたいに「諸行無常」とか勝手に思ってるだけなのでしょう。小川のせせらぎに泡が浮かんだり消えたりするを見て、無常観を連想した鴨長明が「方丈記」で書き綴るのも同じ。川の泡は、泡なりの力学と必然性と周期性をもって生じたり消えたりしているんだけど、それになにか人生的なものや、物語的なもの、あるいは感情&感傷的なものを乗っけてしまうのが僕ら人間の認知生理であり、そうした方が分かりやすいのも事実です。

それらを文系世界(エブリディライフ)に翻訳する

 これら数学や理系理論を、無理やり日常生活や人生レベルに、つまりは文系社会学的に翻訳するとどうなるか、です。ここが本稿のメインです。

 以上述べてきたことをエブリディライフにどう応用活用するかというと、、、

「幸福のカタチ」

 人間生理にとって最も気持ちよい状態というのは、乱暴にいってしまえば「幸福な状態」でもあります。快楽=幸福とシンプルに等式で結ばれるものでは勿論ないけど、かなりニアリーではある。

 「1/fゆらぎ」状態が最も気持ち良いとするなら(個人差はあるし絶対ではないが)、幸福のグラフ、幸福のカタチというのはこのような感じになるのかもしれません。先の図をもう一度示しておきますが、生活実感としてとらえられる曲線はたぶん赤曲線になるのでしょうが、この起伏というのはかなりヘンです。そんなスムースに上がったり下がったりしない。

 ここで「世の中こんなもんだよ」というだけだったら分かるのですが、「これが最高に気持ちいい幸福パターンなんだよ」と言われたら、「そうかあ?」と思うでしょう。僕でも思う。無駄にマイナスが多すぎるし、変化も急すぎるし、予測もしにくい。とても「最高」とは思えない。でもそうみたいなんですよね。

 ま、何度もいうように個人差もあるし、またグラフのプラマイが現実世界の何を指しているのかは分からないです。必ずしもプラスはラッキー事象、マイナスが不幸事象ってわけでもないでしょう。プラスは外向イケイケ局面でマイナスは内向ひきこもり局面かもしれないし、プラスは緊張を高める戦闘モードで、マイナスはリラックスしたゆるゆるモードかもしれない。それはわからない。でも、それが何を意味するにせよ、少なくとも「真逆の局面を持つ事象が不規則なパターンで上下動していること」に変りはなく、且つそれが気持ち良さのカタチになる。

 だから幸福というのは、なんとなく僕らが天国をイメージするように、最高の状態が未来永劫同じまんま直線的に続いているものではないのでしょう。たぶん本当に天国があったとしても、そんな変化のない脳死の波形みたいなことはないと思う。

 適度に浮き沈みが「あっても」ではなく、適度に浮き沈みが「あるからこそ」気持ち良さが生まれ、それは幸福感へとつながっていきやすい。このヘンテコな曲線が!です。これはちょっと考えさせられますよね。

 

だから?

 だから、マイナスを純然たるマイナス(悪いこと)として捉え、極力これを避けるようにするのが賢い人生、幸福への近道なのだというのは、もしかしたら大間違いなのかもしれません。

 そんなことして波動を拘束すると、自然の「ゆらぎ」を殺すことになりかねない。ヘタをすれば、非常に人工的で、プラスチックみたいな味気ない質感の人生になりかねない。実際そうですしね。あまりにも合理的すぎて、もう全てが直線で幾何学的に構成されている部屋に拘禁されているみたいになる。生理感覚としては「楽しくない」という感じになるでしょう。それは分かる気がします。

 昔のエッセイで「狂気なくして創造なし」と書いたことがあったと思うけど、ここでは「破綻なくして快楽なし」ですわね。適当に振幅があって、場合によっては「うひょ〜!」というジェットコースター的な局面があってこそ快楽が生じる。

 でもほんとそうだと思いますよ。自分の過去を顧みてもそうだし、ワーホリ・留学生さんのお世話しててもそう思います。すぐにマトモに、合理的に、辻褄合わせに走ったりしがちなんだけど、まあそうすべき戦術的局面もあるのだけど、大局観でいえば、そしてエブリディライフの座右銘としては、とにかく失敗しろ、意味性を過剰に求めるな、意味のない方向へ/カタチにならない方向へと向かうといいよ〜と焚きつけてます。そうすると、生活や人生に大きな「うねり」が生じ、意外性が生じ、物事が大きく廻っていくから結果的に成果もデカいし、とりあえず快感度も高い。超短期的には不愉快かも知れないけど、数ヶ月〜1年スパンでは快感度で勝ると思います。

複数の変化が入り乱れている方が良さそうなこと

 こういったうねりやゆらぎ周期は、グラフに表現されているように細かな波の合成で出てきます。その合成する波が多ければ多いほど振幅も周期も複雑になる。波がイッコしかなかったら「ゆらぎ」が出ないので詰まらんのですよね。

 ということでAもやり、Bもやり、寸暇を惜しんでCもやりと、最低でも十数項目の波動を作っておくと、相乗効果も複雑になって気持ち良さげな気がします。まあ、多ければ気持ち良いと直結するわけではないけど、ゆらぎが出なければしょうがないので。仕事もやるけど、恋もして、ときどき真面目になって親孝行したり、ときどきワルになってイケナイことをして、ときどき健康にいいことをして、ときどき悪いことをして、いろいろな局面です。そして、アクティビティでもストロークが短い毎日作業(通勤とか歯磨きとか)と、ストロークが超長いこと(家族のお墓の相談とか)、など長短織り交ぜると「いい波」になるのかと思います。

快不快の直感判定〜マイナスはあって当たり前、その要素分析

 今時点の状況が良いのか、何らかの改善を要する残念な状況なのか、これってリアルタイムでは分かりません。「1/fゆらぎ」は数学的に出るけど、日々の生活のなにがどれに相当し、どの程度の値になるかは明確に決められないから、結局は分からない。

 でもこれって理屈で分かるべきことではないでしょう。
 ただ単純に「気持ちいいか」「楽しいか」で計るべきです。てかそれ以外に計りようがない。そうなると、快不快、楽しいかどうかの感受性がどれだけ鋭敏か?ということに帰着します。お子ちゃま味覚のように、やたら甘かったら幸福だというだけではなく、芳醇なスコッチウィスキーを賞味するように「苦いけど奥深い美味さがある」「やさしい味わいの中にも一本キリリと引き締まったものがある」とか、もう「生活快楽評論家」として身を立てるくらいに鋭敏にしておくべくでしょう。いや、マジに。

 そしてその快楽パターンを無限に近いくらいストックしておく。やたらゴージャスだったらOKというガキンチョ味覚ではなく、単なるボロなのか、それとも途方もない骨董価値を持ってたり、ぱっと見には分からない美的快楽や生活快楽が隠れているかどうか。「最初は冗談じゃないと思ったけど、やってみたらこれが気持ちいいのでハマった」という物事を沢山拾い集める。これはもう経験量の勝負であり、さらには経験を生み出すための冒険心や好奇心の勝負ですよね。

 あと、ダメダメ期は誰でもありますが、問題はそのダメダメの内容です。当たり前のような周期がたまたま合成されてマイナス値が高まっているような場合は、大した問題ではないです。例えば、機械物というのは一つ壊れるとなぜか波及的に壊れたりします。天井灯の電灯が切れたと思ったら、車のバッテリーが上がって、それを直したと思ったら今度はハードディスクがぶっとんで、さらには芝刈り機が、そして洗濯機が(僕の実話)、、、という具合に、ほんと「今日の定食」のように毎日起きる。でもそれぞれに、まあまあマトモな周期でイカれているなら、それは単なる偶然、というか殆ど必然であり、ジタバタ騒ぐことはない。丁寧にイッコづつ処理していけば、自然にそれらは解消し、それが止んだあと、ふと気づくと目の前にエンジェルが立っていて、「はいっ!」と何かプレゼントをくれる筈です。僕のこれまでの人生はそうだったよ。ドツボ期を丁寧に乗りきったら、あとで「すげーいいこと」が待っている。

 そうではなく、普通の周期では説明できないくらいバッドな状況だったら、「なにかがおかしい」と思ったらいいかもしれない。自分の生活の構成要素や各波を点検してもいいでしょう。

 ほんでも一番恐いのは、先に述べたように、ビビり過ぎるがあまり行動を制約しすぎて、波や「うねり」、ひいては「ゆらぎ」が生じなくなり、脳死波形のようにピーッと単調になって生活が詰まらなくなることです。あるいは、波はあるんだけどそう感じられなくなること。「うつ」って多分そういうことなんかもしれない。

なぜこんなことを気にするのか?

 それはですね、ここのところ書いてきたエッセイ(「マックジョブの時代」とか)のテーマと底でつながってます。従来のようなカタチで仕事を基軸とした人生設計が難しくなりつつある先進諸国の近未来の場合、生活や人生の快感(すなわち幸福)のあり方については融通無碍にやっていかなければならないでしょう。単に高収入!成功!幸福!ってシンプルなもんでもないだろうし(まあ、昔からシンプルではなかったけど)、自分なりに気持ちいいパターンというのを開拓したり構築する必要があるでしょう。そのときにこの「ゆらぎ」なんたらというのは、一つの切り口やヒントになるんじゃないかなってことです。

 つまり、気持ちいいってどういうこと?楽しいってどういうこと?という部分です。これは言い出すと長くなるので、もうこのくらいで。

 

なぜ「ゆらぎ」は気持ちいいのか?

 これは理系的には難しい問題だろうけど、文学的には簡単だと思います。
 これらのパターンというのは、自然がもっとも自然である状態であるからであり、自然に接すると人は気持ちいいからでしょう。

 じゃあ、なんで人は自然に接すると気持ちいいのか?といえば、これも簡単で、同じものだから、でしょう。自然と人間を対峙的に捉える方がおかしく、人間もまた自然の一部、というか人間=自然そのものでしょう。だって、構成要素そのものがその辺にある原子や分子、炭素だとかタンパク質で出来ているわけでしょう?その上で、この世界におけるさまざまな力、それは地球の重力だとか、自転公転の力とか、コリオリの力とか、太陽光線とか、月の潮汐力とか、遠く離れたシリウスの重力波の影響だって受けているわけで、そういった所与の前提条件の中で進化し、ここまできたわけで、存在のあり方としたらそこらへんの草花となんら異なるところはないです。物質的にはそうだと。心臓の鼓動パターンですら「1/f ゆらぎ」があるというんだから。違うとする理由が見つからない。

 だとしたら自然の運行原則のようなパターンに身体や心が親和性をもって、ふる里に帰ってきたような安らぎや心地よさを持っても当然すぎるくらいに当然だと思います。だって同じなんだもん。鍋につくった味噌汁を、おタマで掬ってお椀に入れた、そのお椀の中の味噌汁一人分が自分なんだろう。そしてその自分が、また鍋の中の味噌汁に戻されたって、イヤな気はしないんじゃないかな(死ぬってそういうことだろ)。少なくとも違和感は抱かないと思います。

 そうでなければ、火や波を見てて「飽きない」という現象は起きないと思うのですが。

結局は「人」

 最後に「1/fゆらぎ」を生活に取り入れようと様々な提案がなされています。どれもこれもなるほどと思うものですが、僕が思う一番大事な「ゆらぎ」は「人」ではないかと。人間だって自然なんだから独特の波長があるでしょうし、その時々によっても違うでしょう。

 人の性格や雰囲気に関する形容は実に多種多様なものがありますよね。「ピリピリしている」「ゆったりした包容力」「チョコマカ忙(せわ)しない」「死んだ魚の目のような」「じっと見られているだけで落ち着かない気分になる」「ぞっとするような冷たい目」「なぜか憎めない」などなど無限に近いバリエーションがあります。人というのはそれだけ多くの情報を発信し、なんらかの雰囲気とかオーラとか波動、そして「ゆらぎ」を出しているのでしょう。端的に「波長が合う」という表現だってあるくらいです。

   そして人というのは、会ってて気持ちのいい人と、けったくそ悪い人がいます。同じ人でも場合によって違う。これはもう事実の問題としてそうです。気持ちのいい「ゆらぎ」を生活に取り入れるならば、気持ちのいい人と付き合うべきだということになるでしょう。

 あるいは、以前書いた「サイコロ論」のように、その人に気持ちのいいゆらぎを発信させるようにする。同じ人でも接し方で全然変わる。こいつイヤな奴だ、馬鹿だとかネガティブに思って接すると、相手もそういう側面を出してくる傾向があります。てか、大体イヤな奴というのは客観的にイヤな奴というよりも、自分の放射したネガが鏡面のように跳ね返ってそう感じられる(心理学でいう投射)である場合が多いです。ケチな奴は周囲の人間がケチに見える。自分が無意識でイケてないというコンプレックスを抱えている場合は、周囲の人間のイケてない部分のアラ探しをするようになり、それで「周りの奴らは馬鹿ばっかり」と思う。

 逆に、その人の前に立つと、殆どの人がなぜか「いい人」になってしまうという人もいます。目指すべきはそれですが、目指すというよりも過去はそうだったのですね。赤ちゃんなんか最強にそうですから。それがオトナになるつれ段々汚れが溜まってきて、周囲にその汚れを放射するから周囲の人間も汚れて見えるという。メカニズムはとっても簡単って場合も多いと思います。

 で、「気持ちのいい人」というのは、理屈じゃないです。感じるものですが、でも結構理屈に引っ張られて人選びを間違ったりすることもあるでしょう。例えば趣味が同じとか、同じ系統の種族に属してるとか、出身地が同じとか、いろんな理由で「合うはずだ」「つきあうべきだ」と思っている。でも、実は「ゆらぎ」波長が違うので、どうも合わないという。逆に理屈的には絶対に合わない、何もかもが真逆で価値観も全然違うにもかかわらず、なぜかしっくりくる人も居ます。不思議ですよね。

 だからその辺の人選びみたいなものが「ゆらぎを活かす」という意味では一番大事かもしれないです。まあ、上司や取引先は選べませんけど、選べる局面ではちゃんと選ぶ。惰性や理屈に流されない。見た目や考え方などに騙されない。難しいですよ、これ。

 といいつつも本当の本気で人選びするのは、そんなに滅多にないです。日常においては、犯罪者とかストーカーとかいじめっ子を除いては、来るもの拒まずでやってた方がいいです。いろんな人のパターンに揉まれれば、いろんな快楽ストックができるから。「○○ちゃんと遊んじゃいけません」なんて感じでやってたら、結局タコ壺化した人格&人生になりかねない。あなたが弁護士その他の人間相手の職務に就いたら、国会議員に会った1時間後に殺人犯とじっくり話し合わねばならず(しかも味方の立場で)、エブリディにおいては、むしろ「好き嫌い言っちゃいけません」ってな感じだと思います。さもないと、周囲をイエスマンで固めたバカ殿やバカ社長になって、会社を潰す。

 そして、選ぶべき最大の局面は、結婚相手や恋人なんでしょうけど、これこそ理屈で決めたらドツボですよね。「ゆらぎ」が合わない不愉快さを一生抱えることになる。いくら玉の輿だろうが「○億円あげるから不幸な一生を送ってね」と言われたら僕はヤです。じゃあどんなのがいいのかといえば、だから、例えば焚き火みたいな、波みたいな人なんでしょうね。飽きない、無理がない、疲れない。それを一瞬の局面でどれだけ的確に見抜けるか?です。「修行の成果」というのはそこにこそ出るのでしょう。それが一番「ゆらぎを生活に活かす」ことだと思ったりもします。




文責:田村



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