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今週の1枚(2013/03/18)



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Essay 610:自己規定という「呪い」

情報処理アルゴリズムへの干渉

 写真は、CityのAngel Place。
 空中に吊り下げられたカラの鳥籠群が異様ですが、これは"Forgotten Songs"と名付けられたアート作品。2009年のアート展(Laneways: By George! Hidden Networks)で出展された作品を、シティのLane Project(路地裏の潜在的な魅力を発掘する)の一環として復活させたものだそうです。

 この作品の趣旨は、人間達がこのように都市開発することによって、本来ここに居たはずの野鳥達はどこに行ってしまったのだろうかということで、だから"忘れられた歌(鳥のさえずり)”というタイトルになったのでしょう。なるほどねと思わされます。

 シドニーのシティの南は香港や渋谷みたいにアジア系繁華街っぽくなってますが、北方面は白人率も高く、ちょっとした別世界です。よく新宿に例えていうのですが、シティの南半分は新宿駅の歌舞伎町側で、シティの北半分は高層ビルや都庁側みたいな感じです。

名前を呼ぶのは「呪いをかける」こと

名前を呼ばない

 古代世界では、他人の名前を呼ぶことをタブーにしている文化が多いといわれます。付け焼き刃の知識ですが、例えば昔の中国では「字(あざな)」という日常生活での呼びかけ用の名前をわざわざ別に用意しているくらいです。

 日本においても、例えば万葉集の頃では、相手の名前を聞くというのは求愛・求婚、すなわちナンパの意味で、普通自分の名前は他人に教えなかったようです。平安時代でも貴族の女性は名前を明らかにせず、家族関係や職名で済ませています。更級日記の作者も「菅原孝標の女(むすめ)」ですし、清少納言も紫式部も職階名であって、言うならば「出納課長」「営業企画部長」といってるに過ぎない。

 エラい人になるほどそうで、日本では大体目上の人に対しては直接名前で呼ぶのではなく、とても間接的な言い方をします。「お屋形様」というのも「お館(やかた)さま」で、つまりは「建物さま」というだけだし、「殿」というのも「神殿」「宮殿」というように本来は建物の意味でしょう。「目の前にいる人」という意味で「御前さま」になる。さらに「貴き人」という意味で「貴様」になるし、シンプルに「上様(うえさま)」ともいう。今では「オマエ」「キサマ」はラフな物言いになってますが、もともとは由緒正しい尊称ですよね。

 その極致が最高にエラい天皇で、天皇にはそもそも名前がないです。「今の天皇」という意味の「今上天皇」という言い方しかなく、本当の名前は本人も知らない。というか、無い。死んでから諡(おくりな)という形でつけられる。これは天皇というVIPのセキュリティ(呪いをかけられない)のためのリスク管理なのかもしれません。同じように、次代の天皇(皇太子)のことを、その住んでいるエリアの方向を意味する「東宮・春宮」ともいいます。

 現代日本の「上の名前」である「苗字・姓」も、本当は上代における姓(カバネ=役職・家格)、氏(本姓・うじ=家系)があり、苗字は中国における「字(あざな)」の一変形らしいです。本名は「諱(いみな)」と呼ばれて別にあるといいます。

 名前に変えて、方角や地域で表現する例も多いです。
 方角でいえば、前述の「東宮」もそうですが、ポピュラーなのは「奥」ですよね。家の内務政治を執り司る正妻をはじめとした女性達は家の奥の方に詰めているから「奥」と呼ばれ、最近でもやってるのかどうか知りませんが江戸時代の「大奥なんたら物語」があります。今でも僕らは他人の妻のことを「奥さん」「奥様」と言います。さらに奥というのは設計上北側に設けられる場合が多いから、殿様の正妻を「北の方」と言ったり、秀吉の正妻である寧々さんを「北の政所」と呼んでいたのは有名なところです。

 方角ではなく地名で呼ぶ場合もあります。「永田町政治」とか、「霞ヶ関では」とか、警視庁のことを「桜田門」と言ったりします。これは英語圏でもそうで、シドニーの州政府はマッコーリーストリートにあるので、「マッコーリー・ストリートでは」なんて新聞に出てたりします。僕らでも親戚のだれそれを言うときに、「世田谷のおばさん」とか、端的に「世田谷は」とか地名で言いますよね。

 これらの傾向(間接的に名前を呼ぶ)は今でも濃厚に残っていて、目上の人に対しては役職で呼ぶのが慣わしのようになってますよね。「課長さん」「社長さん」と言います。

 新入社員が社長のことを「田中さん」とは中々言えない。より丁寧に「田中"様"」と言えばいいってもんでもない。やっぱ役職名で呼ぶ。医者や教師も「先生」というワンクッション置いた言い方をする。先輩ですら「先輩」って呼ぶ。しかし、「おう、後輩」とは呼ばない。

 ちなみに「オタク」とかいうのも、もともとあった呼び方で「お宅」ですから、「お屋形様」系の由緒正しい日本正当血統の言い方=建造物をもって二人称とする=とも言えます。

 なんでそんなに名前をダイレクトに呼ぶのを嫌うわけ?じゃあ名前は何のためにあるの?という気がしますが、それだけ「恐れている」のでしょう、呪いがかかることを。まあ、今どきそんな「呪い」とか改まって意識している人は少ないでしょうが、何となく憚られるものがある。

 逆に、親しくなればなるほどダイレクトに名前で呼ぶようになります。特に日本の場合は「下の名前」で呼ぶようになる。これが「下の名前の呼び捨て」になると、それも男性から女性に対して言うとなると、かなりステディな関係を連想させる。余談ですが、オーストラリアに来るとファーストネームで呼び合うので、日本人同士でもそれに慣れて「アキコ」とか「ジュンイチ」とか普通に呼び合います。苗字なんか知らないってケースも多い。それで日本に帰ったあと、久しぶりに飲みに行こうとか連絡をするときに、相手の自宅に電話して、たまたまお父さんが出て、「あ、すいません、ケイコ、いますか?」と言ってしまって、お父さんに「オマエは何者だ」と言われるという定番の笑い話がありました。今では携帯もFACEBOOKもあるのでそういう笑える実例は少ないとは思いますが。

名前と距離感、そして攻撃可能性

 ポイントは、昔も、そして今も、ダイレクトに名前を呼ぶことを避けようとする傾向がある、ということです。

 もちろん現代においては「呪い」なんて意識はないでしょう。
 現代における違和感は、「馴れ馴れしすぎる」という「過接近」でしょう。対人関係における距離感の誤りです。ファーストネームを呼ぶことができるのは、人間関係においてもそれだけ距離が近い者に限られるという法則。この法則は、日常的にファーストネームで呼び合う西欧ですらあります。過去に「ファーストネーム境界線」というお題で書きましたが、彼らとて、見知らぬ訪問セールスマンにいきなりファーストネームで呼ばれたくはないし、ホテルのフロントではミスターをつけて呼ばれたいと思う。英国皇室に対しては、"Her Majesty(陛下)"や"Her Royal Highness(殿下)"という、日本の「殿」「上様」に相当する敬称を使う。

 人間関係において敬意とは距離を重んじることであり、距離を誤って過剰に接近する行為は無礼なものとして咎められる。これは動物の本能的なものとして理解可能です。近距離に踏み込むという行為は「縄張りに入る」ことであり(勝手に他人の個室に入るように)、それは攻撃可能であること、武道でいう「間合い」に入ることを意味するので、無礼だとされる。

 よろしい、それは分かった。しかし、もう一歩突っこんで考えてみると、なぜ直接に名前を呼ぶことが過剰接近(馴れ馴れしい)と感じるのか?です。別に呼ぶだけであって、物質的な距離は1ミリも縮まっていない。にも関わらず、名前を呼ぶことと距離感とは何やら密接に関係している。なぜか?あまり親しくない人からファーストネームを呼ばれるのと何故僕らは不愉快に感じるのか?関係ないじゃん!呼んでるだけじゃん?でも、気になる。なぜ気にするのか?

 呼ぶだけでも何らかの「攻撃」があるように感じるのか?つまり名前を呼ぶことは何らかの攻撃行為なのか?ではその「攻撃」とは何か?それがつまり「呪い」ではないか。

古代人の感性

 なぜ古代の人々は名前に霊性と呪術性を感じ、直接呼ぶことを忌み嫌ったのか。「迷信深いから」「馬鹿だから」と言ってしまえばそれまだけど、森羅万象に対する彼らの動物的な感性というのは、それこそ馬鹿にできないものがあるのでしょう。

 (いわゆる)科学的に証明できないものは全て愚劣な迷信であると心底思える人は別として、僕らの多くはどことなく割り切れないものを抱えています。もし全てが100%合理で割り切れるのであれば、宗教なんか要らないでしょう。でも世界人口の90%以上がなんらか信仰を持っている。なぜか?

 日本は例外的に無神論者の多い国だけど、その日本ですら葬式とか弔事については非科学的なエッセンスを重んじる。仏壇、墓参り、葬式帰りの清めの塩、地鎮祭、、そもそも100%科学的に割り切れるなら葬式や墓自体も無用であり、親が死のうが恋人が死のうが、死体は死体で、物体的には腐敗が始まりかけた有機化合物でしかなく、肥料にして売った方が儲かるし、有用です。エネルギーを浪費して火葬にし、わざわざ炭素ガスを増加させるくらいなら、死体をすり潰して畑に撒いた方がエコにも優しい。純粋に合理性を貫けばその方がいい。

 しかし、当然ながら、そんな「バチ当たりな」ことは出来ない。強烈な感情的な反撥を感じる。なぜ憚られるのか?もちろん故人への思慕の念もあるだろうが、だったら火葬という「火あぶり」は良くて、土に還すのはダメとする理由がない。土葬→火葬の傾向変化は、公衆衛生というそれこそ純粋合理から出てきたものでしょう。だがここでの問題は、そもそも「遺体を有効に利用しよう・金儲けをしよう」という発想そのものが「罰当たり」な気がして、ポイントはそこです。「けっ、バチなんか当るわけないじゃん」と何故自信を持って思えないのか。やっぱそこには「なんか」あるのでしょう。

 そして、その「なんか」に対する感性は、古代の彼らの方が鋭かったと思われるところ、僕らよりも優秀な彼らがそう思うということは、多分そういう実体もなにがしかはあったのでしょう。少なくともあると思わせるだけのものはあった、と。

 これはすなわち、「言葉」のもつ何らかの呪術性、神性でしょう。「言霊(魂)」という言葉があるように、「言葉」には何らかの霊性が宿る(場合がある)、と思われている。感性鋭い古代人は、そのあたりをすごく気にしたのでしょう。

 夢枕獏・岡野玲子の「陰陽師」にも、「呪(しゅ)」の概念が頻繁に出てきますが、あれはおそらく森羅万象に対して「かくあるべし」という方向付けをし、そして現実もそのとおりになっていくという「そう唱えれば(行動すれば)→そうなる」という「主観→客観」の力の作用がベースになっているのでしょう。これは全ての魔法、呪術、あるいは超能力(念力)というオカルティックな世界に共通するようです。

 まあ、それがどこまで本当なのか?ですが、でも、あなただって自分の部屋中に「○○(自分の名前)は今日死ぬ」と大書した紙や、葬式用に黒く縁取った自分の顔写真などを何十枚も貼って暮らせますか?いくら迷信だとか思いつつも、やっぱり気分がいいものではない。単に気分が悪いだけではなく、また単に縁起が悪いだけではなく、なんか本当に死んでしまうんじゃないかって不安をふと覚えたりしませんか?

言葉の霊性

 もう少し別の言い方をすると、言葉、そして言葉を発することは、単なるサウンド、空気中における特定周波数をもつ波動の伝導だけとは考えない。言葉には、現実の客観世界に対してなんらかの「作用」「力」があると考える。

 つまりは魔法使いの呪文ですよね。錬金術師や魔方陣における「エロイムエッサイム」であり、密教や修験道でいう「オンキリキリソワカ」です。空海が開いた高野山の宗教も真"言"宗です。「真言(マントラ)」とは、正確にこれを発音すれば、あたかも念力のように現象世界を変化させることができる。つまりは呪文。

 別に真言宗や密教に限らず、「いちいち口に出して発音する」ということを宗教世界では重視します。お経がそうです。内容が重要だったら、葬式でも法事でも、現代語に訳して解説を付けたプリントを皆に配って、その場で黙読すれば済むことなんだけど、リズムをつけ、節をつけてお坊さんが「声に出して読む」ところに何らかの意味がある。キリスト教の聖書でも口に出して読む。グレイスと呼ばれるディナーの前のお祈りでも口に出して言う。「口に出す」「言う」ところにポイントがある。

 聖書といえば、旧約聖書の天地創造でも、神が「光あれ」と”言”ったら光が出来たとなっている。神が万能で天地を創造する能力を持っているなら、別にイチイチ言う必要などない筈でしょう。僕らはラーメンを作る能力を持っていますが、「ラーメン、作ろうかな」と声に出して言わなければ作れないというものではない。それと同じで、光が欲しいなと思ったら、別に言わなくたって(周囲に誰がいたというわけでもなさそうなので多分独り言だろうに)、とっとと作ればいいのに、でも言う。神ですら言う。

 このように、言葉や発語に現実変化を及ぼす何らかの「力」があるとするなら、それを人間に向けて放射するのはある意味では危険であり、無礼でもあるのでしょう。それは、その気が全くなくても、包丁の切っ先を他人に向けること、鉄砲の銃口を他人に向ける行為のように「危険で失礼な行為」なのかもしれない。そして、その他人のもっとも中枢部分、姓や苗字よりも(下の)名前に向けられる方がより危険度は高い。だから、他人の名前を呼ぶというのはナチュラルに失礼に思われたのかもしれません。

 

なぜ言葉や発語には現実作用力があるのか

 しかし、言葉や言うことによって本当に現実は変わるのでしょうか?
 お金がないな、しんどいなと思ってるときに、「お金あれ!」と叫ぶと、あら不思議、テーブルの上には札束が、、なんてことはない。

 そんなマンガみたいな話ではなく、「確かにそういうことってあるだろうな」と思われる場面や仮説は幾つかあります。まず、言葉によって客観世界がダイレクトに変わるという魔法的なことについては、全然わかりません。「それはないだろう」と思うけど、まあ浅学非才な僕の思うことですから、自分でもアテにしてません。単に自分がアホで知らないだけって可能性もバリバリあります。ただ悲しいかな、今時点では知らない。

 ただ「言葉」ではなく、言葉を発する際にある特定の波動、あるいは「気」を出すことはあるでしょう。「気」というのは主観と客観をリンクさせるものであり、外界に対してははっきりと「有形力」になるでしょう。窓ガラスをビリビリいわせる巨大な音は既に立派な「有形力」であり、レーザーは光波動ですから、波動には力がある。というか波動=力だといってもいい。人間の気にも一定の波動があり、その強弱があるなら、強い気にはそれなりに現実作用力があるでしょう。その意味で、言葉→外界変化というのはあると思う。

 もう一点、量子力学のSF版みたいな現象。観察者の存在が観察対象を決定づける、何らかの意思決定そのものが外界の変化を及ぼす、あるいは実現されていない可能性が確率分布(波動関数)によって重複して存在している「シュレディンガーの猫」理論と、ある特異点によって波動関数が収束され未来が決定づけられるパラレルワールドなどなど、このあたりは面白いけど、僕もよく分かりません。ただ、あらゆる可能性が同時・重複的に存在しているのが現在であり、その中から何か一つを選択することで、全てがその選択に即して組み替えられていくというのは経験的にはお馴染みです。その選択行為に「言葉」が関与するということは、あるでしょうね。でも、難しすぎてよう分かりません。

 今僕が言えるのは、言葉によって影響を受けるのは客観ではなく、第一には主観であろうと。
 しかし、主観が影響を受けることで結果的に大きく客観が変わるということは、これはあるでしょう。

 以下、これまで述べた「名前と霊性」というテーマとはちょっと離れていくのですが、「そういえば」で思いついたことを書きます。ダイレクトにつながるわけではないけど、そこそこ関連性はある程度。

自己暗示=情報処理のアルゴリズム

 言葉にすることで何らかの暗示にかかってしまう現象があります。これってけっこう強力だと思います。

 例えば、同じ人間が、お前は馬鹿だ、カスだ、ゴミだと事あるごとに言われ続けて生育した場合と、逆にお前は凄い、強い、賢いと言われ続けて生育した場合とでは、やっぱり差があると思われます。これは言葉によって、主観が変化し、その変化した主観によって客観もまた変化するという例です。

 自己暗示の有用性や恐さについては、本が何十冊も刊行されていることで分かります。「自分を変える!」「願望実現するパワー」などの自己啓発系には必ずといっていいほど出てきますよね。それは経験的にもよく分かる。毎日、ダメだダメだいってれば、出来ることもダメになってしまうでしょう。少なくともダメな方向に作用するでしょう。

 自己暗示といっても、目の前にコインをブラブラ揺らして「お前は今日から強い男になる」とか言われてその気になって、、というマンガの催眠術みたいな分り易い状況だけではないです。てかそんな状況なんかまず無い。改めて「自己暗示」とは思わないけど、立派に自己暗示になっている、知らない間に心がそっちに引きずられているという事は頻繁にあるでしょう。「頻繁に」というより、僕らの生活はほぼそればかりで埋め尽くされているといっても過言ではない。

 これはつまり「暗示とは何か」論です。
 僕が思うに、暗示とは、情報処理のアルゴリズム(処理方式)だと思います。そして僕らの頭の中の世界観とか、自分観、未来像、人生観なども、すべて情報処理のアルゴリズムだと言っていい。

 極端な例をあげると、例えば今世界にはアメリカという国があって、中国が経済ナンバー2にのしあがってとか、日本人の寿命は80歳以上だとか、僕らはそういう「情報」をもとに僕らの人生観や世界観を組み上げています。しかし、もしかしたらアメリカなんて国は存在しないかもしれないし、人間の寿命は実は1000歳で80歳云々は大嘘だということになったらどうなるか?もう生き方そのものが根本的に変わるでしょう?千年も生きてしまうなら、30歳かそこらで煮詰ってる場合ではないとなろうし。これらの情報を組み合わせて「世界はこうなってる、自分の未来はこうなる」という像を構築するわけですが、その構築の手順や方法がアルゴリズムです。情報の取捨選択もあるでしょう。「ワイドショーで言っていた」「日本の大手マスコミが書いていた」情報をどれだけ信頼し、どれだけ重要視するかは、その人なりの情報処理手順があると思います。

 これらの情報処理の過程においては、「言葉」はとても重要な役割をもちます。
 「言葉に騙される」とかよく言いますが、言葉によるイメージ喚起力は強力なものがあります。特定の言葉を特定の並べ方で示せば、「こういう具合に考えろ」「こういう風にものを見ろ」と、その人の脳内情報処理に強烈な方向付けを与えることが出来ます。

 ある物事、ある現象は、プラスにもマイナスにも見ることが出来る。良く悪くも言える。僕はどうせなら良い方向に見たらいいじゃんってタイプですけど、広告業界でも、同じ事を非常に言葉巧みに良いように表現する。コピーライティングですね。「鄙(ひな)びた」「古くから人々に親しまれた露天風呂」「日本人のふる里」「懐かしい風景に縁取られた癒やしの空間」という言葉を散りばめると、言葉がもつ吸引力によって「ああ、いいなあ」って思う。でも悪く表現することも可能ですよね。「要するにコンビニ一つないド田舎だろ?」「うらびれて、いかにも景気悪そうで、ジメジメしてて、ジジババばかりが陰気な顔して集まってる水たまりみたいな風呂だろ?」とか言ってしまったらミもフタもないけど、そういう言い方も出来る。

 現実は現実で常に一つなんだろうけど、その現実を僕らは100%理解しているわけではない。100%どころか10%すら怪しいものです。勝手な思いこみで、勝手な角度から、勝手にそれらしき事象を抜き出して、「やっぱそうだ」と思いこんでるだけ。だから、思いこみの方向性を決めつけてしまえば、同じ水たまりのような風呂に入っていても、「日本人の心のふる里で癒やしのひととき」と思ってしまう(それが悪いといってるわけではないが)。

 同じ顔写真でも凶悪犯として報道されればいかにも悪人面に見えるし、しかし再審無罪が確定したら「悲劇のヒーロー」みたいな顔に見える。不動明王とか、めちゃくちゃ怒ってる仏像とか沢山あるけど、あれは「神様仏様なのだ」という先入観を与えられているから有り難く見えるけど、フラットに見たら悪魔に見えても不思議ないですよ、あんな恐い顔。国家予算を配分するのは当然のことだけど、それを「バラマキ」と表現するだけでいかにも悪いことであるかのようなイメージがつくし、予算配分を一定の優先順位に従ってメリハリつけて配分するのは基本的には良いことだけど、それを「確固たる理念に基づいて」と表現もできれば、「恣意的な」と言い方もできる。語感の良し悪しだけで先入観やイメージが定着し、そのイメージだけで物事が進む。

 懐かしの寅さんの名台詞に「それを言っちゃおしめえよ」というのがありますが、「言う」というのは、僕らの発想、モノの見方、ひいては人物観世界観を決定したり、変化させたりする作用があるのでしょう。人間というのは、賢いようで馬鹿だから、全ての情報を同時に処理できない。わかってるつもりでも、一定の方向や、局所的な部分にすぐにこだわって、そこばっか見て大勢を見誤る。長い目で見れば、くっだらないことで一喜一憂してすぐに死ぬの生きるの大騒ぎをするし、何も分かっていないのだけど凄くよく分かったような気にもなる。そんなフラフラ視点が定まらず、右から風吹いたらすぐ左になびくような人間に、耳元でなにかの言葉を囁いて特定の方向付けをしてやれば、そのとおり動く。

情報処理パターンの方向付け

 思うに、これが「言葉の力」そして「呪い」の一つの本質ではないか。
 情報処理のアルゴリズム(処理パターン)に影響を与え、その人の考え方や発想、ひいては自画像、人格、さらには人生そのもの大きな影響を与える。

 呪いというと悪い方向のことですが、別に良い方向もあります。
 サークルの勧誘や、部活の練習などで、「いやあ、才能あるよ!」「お前、そんなところにくすぶってるような奴じゃないぞ」とか言われると、「そ、そうかな?」と思いつつも悪い気はしないし、それが単なるお世辞であり100%大嘘であったとしても、本人がその気になればある程度のレベルまでは行ってしまう。

 書いてて思いだしたけど、僕が物心ついたかどうかの頃、江ノ島(だったと思う)に海水浴にいって、生まれてはじめて海にはいって、背丈ほどの大波(自己身長比、客観的にはさざ波)に思いっきり向かって波にのまれてゴロゴロやってましたが、そのときに親父は「この子は勇気があるね」とオフクロ話してたのですよ。それをなんか覚えてて、子供心にも妙に嬉しくて、それがある意味生涯の支えになってる部分はあります。別に計算してそう言ったわけではないのでしょうが、今から思うとあれは立派な「呪(しゅ)」なんですよね。そう言われることで強烈な自己規定が出来た。

 その逆の事例もいっぱいあるでしょう。何気ない一言でグサリと傷つき、それが自画像を変え、世界観を変える。毎日楽しく職場に通ってたら、ある日、後輩から「先輩だけ職場でめっちゃ浮いてますよ、知らないんですか、社内でも有名ですよ」とか言われたら、ぐさっとくるだけではなく、自画像の修正を余儀無くされるかもしれない。つまり情報処理のアルゴリズムが変化してしまう。そういう新しい視点にたてば、昨日まで同僚達と「楽しくやっていた」と思っていたことは、あれは全部嘘なのか、皆本当はうざったがっていたのか、単に可哀想だから調子を合わせていただけなのか?というモノの見え方にある。つまりは世界観がガラリと変わる。そこから先は万事に自信がなくなり、オドオド卑屈になるか、開き直って傲慢になるかで、本当に人間関係が悪くなる。でもって、最初の後輩の「浮いてる」発言が、これが全くの大嘘だったらどうか?です。

 現代における「呪い」とは、こういう場合を言うのではなかろうか。
 そして、この呪術は「効く」んですよね。全然効かない人もいるけど(僕のような典型B型=「浮いてる」というのを誉め言葉だと思って喜ぶタイプ)、人によってはめちゃくちゃ効く。

心なんか傷つかない、情報処理システムが変わるだけ

 ちなみに、言葉で「心が傷ついた」とかいう言い方がありますけど、実は僕は、この種の言い回しが嫌いです。傷ついたとかいっても、血が一滴でも流れるわけでなし、要は全て自分の脳内世界での話。そして他人の言葉なんか、しょせんは他人の言葉でしかない。そんなものに「傷つく」わけがないし、傷ついたのなら、他人の言葉ごときに傷つくようなひ弱な自我しか構築してこなかった過去の怠慢を悔いろって思う。

 本当に恐いのは、傷つくことではなく、その人のそれまでの世界観なり自画像を「変化」させることだと思います。昨日までイケてると思ってたのに、実は全然ダメダメだったと変化すること。あるいは変化まではしないがグラつくことはあるでしょう。それは衝撃的だし、辛いことである。

 それを「傷つく」と言うのだよというかもしれないが、それは表現としては不正確だと思うのだ。客観的な現象としては、知人の(自分とは見解を異にする)意見によって「不愉快な気分になる」だけのことでしょう。次になすべきことは、その不愉快さの意味の分析です。それは幾つかのパートに分れ、まず他人の見解の正しさの検証であり、それが全くのスカタンだったらその人の知的能力査定を低めに補正すべきだし、その見解に幾分かの正しさがあり、また自分にも修正すべき改善可能性があるならその限度で自己査定の補訂や改善計画を練らねばならない。また同じ指摘するにしても殊更にイヤらしい言い方をするなど悪意が感じられる場合、その知人の好感度や潜在的攻撃性について「防衛計画の見直し」をしなければならない。いずれにせよ膨大な事務作業が発生する。忙しいのだ。傷ついているヒマなどないのだ。

 それに「傷ついた」と言ってしまえば、あたかも自分が被害者であるかのようなニュアンスが出てくる。自分は正しいのに、理不尽な言葉の暴力を受けた可哀想なワタシみたいな、クソみたいな自己憐憫が生じ、思考停止になる。それがイヤ。泣けば許されると思ってるチャイルディッシュな精神の未熟性にうんざりする。だから鬼の首でも取ったように「傷ついた」という「錦の御旗」をブンブン振り回している御仁とはつきあいたかねえよって思うのでした。

 繰り返しになりますが、世界観の変容を迫られるように辛い言葉を投げかけられたときに、なすべきことは情報処理システムの点検と修復です。そいつの言葉の信憑性、そしてこれまでの自分が築きあげた情報体系(自分観)、それが整合しないわけだけど、どこがどう整合せず、どこがどう間違っていて、どこをどう直せばより良いモノになるのかです。

 はっきり言って、相手の言うことが間違ってる場合も多い。数から言えばそっちの方が多い。間違った情報に振り回されるくらい愚かなことはない。他人は常に勝手な思いこみで「見損なったよ」と言うものだし、勝手な思いこみで「見直したよ」と言うものです。そんなアテにならない株の値動きみたいな他人の評価ごときに「傷つく」必要などない。しかし、他人が言うことが正しい場合もある。ちゃんと言ってくれるいい友達もいる。その場合は、虚心に反省して向上すればよく、忙しいから傷ついているヒマなどない。また、向上機会を与えてくれたことを感謝すべきであり、この意味でも傷つくどころか「よくぞ言ってくれた」と喜ぶべきでしょう。

 それは強者の論理だ、誰もがあなたのように強くはないのだという反論もあるでしょう。そのとおり、強者の論理だとは思う。だが、世の中、強者であった方が何かと都合が良いのも事実。また世の多くの犯罪が強者ではなく弱者によって犯されていることからも、強者であった方が他人に多くの幸福を与えられるし、少なくとも迷惑をかける度合は低い。だったら強者になればいいじゃん、ただそれだけのことじゃん。子供でもわかる理屈でしょう。それに、ここでは何も世界最強になれと言ってるわけではない。当たり前の事務処理が当たり前に出来る程度に強ければいいだけであり、それほど無理な注文でもないでしょう。

 そんなこと言われても、ワタシはそんなに強くない、ワタシは弱いんですって言う人もいるでしょう。
 だからそれが「自己暗示」だというのだ。「呪い」だというのだ。「呪縛」という字は「呪いによって縛られる」と書くが、まさに「呪縛」でしょう。情報処理システムにおいて一定の強烈なバイアスがかけられている状態。

 過去のエッセイでもさんざん書いたけど、この世で何がミステリーかといって、自分自身くらいミステリアスな存在はないと思います。自分を構成する精神作用のうち実際に把握している意識野は1%にも満たないと言われますよね。99%は暗い海に沈んでいる巨大な氷塊のような無意識です。実際にはこいつが全部決めている。無意識は、文字通り自分では意識できないのだから、その無意識によって事実上支配されている自分というのは、本来、意識レベルでは絶対に理解不可能でしょう。ある程度は経験的にわかるとしても、本当のところはわからない。

 また、意識・無意識とは別に「やってみなければわからない」という分野も山ほどある。ダメだと思ってたんだけど、やってみたら意外と適性や才能があったとか、才能はないけど面白くなったという経験は誰でもある。死ぬほど好きな趣味や恋人に限って、第一印象は最悪だったりもする。わからんのだ。つまり、現在の静的状態についても把握不可能、将来についてはほぼ100%把握不可能な自分ないし自分の未来について、一体なんの決めつけが出来るというのだ。空が飛べないのに飛べると思いこむように、出来るわけもないことが出来ると思いこむことは、思いこんでる時点で既にどっかがおかしい。そんな妙なことを口走ってる時点で「呪い」がかかってるんじゃないの?と思うのです。
 

いわゆる自己啓発のメカニズム

   多くの「必ず成功する自己実現なんたら」という本、特にアメリカ発が多そうですが、その種のメカニズムも上に述べたことと同じだと思います。

 要するに、新しく「ポジティブな呪い」を自分でかけるわけですよね。
 これはこれで効きますよ。やっぱ、アメリカというプラグマティズム(実用主義)の国でそれなりに成功しているメソッドというのは、それなりに実効性があるのでしょう。だから一概に否定はしないし、一定のレスペクトもします。

 ほんでも、他人に言われた手順で新たな呪いをかけるくらいなら、出来れば自前の呪いをかけたいところです。「こうすると私は元気になる」というなんかの呪文や、行動パターンや、ジンクスや、なんでもいいですけど。

 この世界、この森羅万象に本来の「意味」なんか無いと思います。本当はあるのかもしれないけど(神々の隠された意図とか)、僕ら人間が理解できるようなものではない。単に白と黒の碁石が畳一面にランダムに撒かれているように事実がそこにあるだけ。それはただ、あるがままにあるだけ、です。それを良いと思うか、悪いと思うかは、見る人がどういう意味づけをするかであり、世界観とは要するに解釈論であり、情報処理のパターンだという話はさっきも、そして過去にもしました。

 心霊写真のように、単なる壁の染みや天井の木目が段々幽霊の顔のように見えてくるように。中島らも氏のエッセイでも「点が3つあれば何でも顔に見える」と書かれていたように、脳内の幾何的情報処理では、そう思ってそう見ればそう見えるという場合が多い。「呪い」というのはそのパターンです。

 人間の脳味噌というのは意外と馬鹿だし、意外と怠け者だから、一つの決まったパターンで見てたら、なかなか別のパターンで見ようとはしない。多分「よっこらしょ」とフォーマットを変えるのが面倒臭いんだろうな。ただこれまでのフォーマットで煮詰ったり、上手くいかなかったりするなら、「よっこらしょ」をやるべきでしょう。よく心理テストにある図で、白地に黒だと思えば人の顔だけど、黒地に白だと思ったら盃に見えるように、フォーマットを変えてみる。

 「呪い」というのは、すなわちそういうことでしょう。
 でもって、やっぱり自分の脳味噌なんだから自分でコントロールしたいじゃん。他人に囁かれて動かされたくないし、また良い方向に変化するにしても「市販の呪い」ではなく、味噌汁のように「家庭の味」が欲しいですよね。自家製のカスタムメイドの呪いです。それを何十パターンも持っていると、同じ現象を見ても、「はい、今度は俯瞰でいきます」とか様々な角度で見えるし、「相手の立場でものを見る」と言うことも出来るし、なにかと便利だろうなって思うのでした。

出来りゃあ呪いなんか無い方がいい

 でも、もっと言いたいのは、そもそもそんな「呪い」なんか、出来ればないほうがいいです。全く何も無かったらこの世界は無意味になっちゃって発狂しちゃうだろうけど、発狂しない程度にないほうがいい。無ければない分、物事がよく見えるでしょうから。

 だから「良い呪い」もいいんだけど、本当なら呪いを解く方がいいんでしょうね。それはポジティブな呪いであってもそうです。「自分は○○が得意」「自分は勝ち組エリートです」なんてのも呪いだし、それによってポジティブに作用することも多いけど、でもやっぱり呪縛だから縛られてしまう面もある。Aだと思いこむとBが出来なくなるし、Cを思いつかなくなる。

 特に子供の頃から「たまたま」お勉強が出来るとされた人。褒められてその気になってよく勉強するからテストでも点数いいし、相乗効果でどんどん呪いが深まるのだけど、妙なところにプライドの支点が出来てしまって人間性のバランスが悪くなったら意味ないです。でもって上昇気流という”余計なお世話”によって高いところに登ってしまって降りられなくなる悲劇もあります。たまたま勉強が出来るだけで、エリート街道とやらにのってしまい、今では人も羨む高収入、ハイステイタスで、世間の羨望を一身を浴びて、、なんてのも、本当に自分のしたかったことかどうか?本当は、女の子と見れば口説き倒して、素敵な一夜を過して、浴びるように酒を飲んで、希代のドンファンとして女たらし人生を歩みたかったのかも知れない。そっちの方に勉強以上の天分があったのかもしれない。けど、今更そんなことは出来ない。高いところに登りすぎると降りられなくなってしまう。辛いですよね。

 だから良い呪いも、良し悪しだよなあ。てか何が「良い」のかなんて結局わからないよなあって思うのでした。

 理想は、呪いに縛られず、呪いに邪魔されず、また呪いに頼らず、普通に自分として生きたいですよね。他人が尊敬しようが、他人からコケにされようが気にしない、アレが優秀だろうが、コレが劣等だろうが関係ない。そんなこととはお構いなしに、俺はいつでも気持ち良く俺だよってなれたらいいですよね。

 そうやって自分にバイアスがかかってない分、他人も、そして外世界も歪まずに「そのまんま」把握できるだろうし、そうなると他人や世界の美味しい部分を見過ごさずにチューチュー吸えるわけで、そりゃあ美味しそうだな、生きてて楽しいだろうな、理想だよなって。

 でも、まあ、なかなかその「悟りの境地」に達しないから「呪い」は常にあるのでしょう。
 そして呪いのメインツールである言葉には、常になんらかの霊性が宿るのでしょう。霊性っていうとオカルティックで厳(おごそ)かですが、要するに「その気にさせるパワー」でしょう。その意味ではこのエッセイなんかも呪いのカタマリかもしれんけど。



文責:田村



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