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今週の1枚(2013/03/04)



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Essay 608:ハードル/ボーダー発想の不毛性と盲目性


 写真は、去年の年末のPetershamで見かけたコンサートのポスター。

 今月、サンタナとスティーブミラーがジョイントでやるそうです。しかし、二人ともよく働いてはりますなあ、「ご精が出ることで」って感じ。調べてみたら、サンタナがバンドを結成したのは1966年、キャリアなんと47年。1947年生まれだから今年66歳?音楽に定年はないですね。スティーブミラーバンドも結成は同じ1966年。

 ついでに調べてみたらシドニー公演、まだ席がありました。114ドルと150ドルちょいの席。もうちょい調べてみたら、サンタナ先生、ちょうど今(てか来週、11日)大阪城ホールでやるそうです。1万2000円。値段はいい勝負だけど、スティーブミラー先生がついてくるだけシドニーの方が得か。

 サンタナの大ヒット曲「哀愁のヨーロッパ」はギター弾きはじめの頃コピーしましたけど、全然ダメでした。あの音の量感とサステイン(伸び)が無いとあの曲は意味がないです。自分で弾いたらしょぼくて話にならないという(泣)。ちなみに、これ「ヨーロッパ」といいつつスペルが"Europa"なんですよね。「ヘンだな、英語じゃないのかな、ラテンぽいからスペイン語かなんかかな」と思ってたのですが、今回調べてみて(調べてみるもんですね)、あの原題は"Europa (Earth's Cry Heaven's Smile)"であり、"Europa"は欧州の意味ではなく、木星の衛星ユーロパではないかと。

 まあ、スペイン語でも"Europa"というらしいので欧州説も捨てがたいのだけど、でも"Earth's Cry Heaven's Smile"という副題が英語で、主題だけがスペイン語というのもヘンだし、「地球の叫び、天国のほほえみ」という意味からしても、欧州というよりは木星のユーロパ(ギリシア神話でゼウスが恋に落ちたテュロスの王女の名前でもある)というコスミックな感じの方が近いかもしれない。

 しかし、曲想そのものは「哀愁のヨーロッパ」と言われた方がしっくりくるような気がしますね。刷り込みなんかもしれないけど。

無限にある評価方式のなかのハードル式


 世の中の評価判断の方法を大きく二つに分ければ、

 (1)、「合格/不合格」のようなデジタル的なオン・オフ=二者択一で決める方法
 (2)、それ以外の方法

 があると思います。

 「それ以外」というのは大雑把に過ぎるのですが、ここでは○か×かという二者択一式、何か規準になるべきボーダーラインやハードルがあり(合格とか)、それをクリアして成功したのか/クリアできずに失敗したのかという単純な二分法にだけ焦点を合わせます。したがって、それ以外は、文字通り「それ以外」として一括りにしておきます。

 いや、実際、評価のやり方なんか、考えようによっては無限にあるのですよ。例えば、合否ではない点数方式もあるでしょう。点数にしても、その採点はマークシートのように○×の集合体なのか、「頑張り」「芸術点」のようなファジーな要素をも含むのか?あるいは一科目だけで見るのか、複数科目の総合で決めるのか、平均で決めるのか。また時期的な問題もあります。一回の試験だけで決めるのか、複数回の試験の平均点で決めるのか、あるいは伸び率で決めるのか、はたまた内申書のように一定期間をべったと見るのか。さらに採点者が誰か?という問題もあり、一人の採点者が全てをみるのか、合議なのか、あるいは人気ランキングや総選挙のように膨大な集団の投票で決めるのか、、、、。ね、評価のバリエーションなんか無限にあるでしょう?

 でも、今回はそこを論じたいのではなく、(1)のハードル式=YES/NO式=合否式=二者択一方式についてだけ述べます。

 で、何を述べるかというと、この方式にあんまり毒されてはイケナイのではないか?ということです。つい無意識的に、合否式で物事考えがちであり、且つその傾向が最近の日本では強くなってるような気がするので、「それ、違うんじゃないか?」という異議申立てです。

メリット・デメリット

 (1)の方式、さっきからハードル式とか、イエス・ノー式とか、合否式とか、デジタル式とかいろんな言い方をしてますが、面倒なので以下「ボーダーライン式」ないし「ハードル式」といいます。ここから上にいけたら満足すべき成功であるという合否ライン(ボーダー)があり、それがハードルのように目の前に存在しており、いかにそのハードルを跳び越えられるか否かで物事の成否を決める。

 この方式の利点は、一目瞭然である点です。つまり、めっちゃくちゃ分かりやすい。
 ボーダーライン(ハードル)を越えたら合格!成功!勝ち組!天国!で、ボーダーを越えられなかったら失格、失敗、負け組、地獄という。大学入試の「サクラサク」みたいな、就活に臨んで見事に「いいところ」に就職できたかどうか、世の中どんなものにもボーダーらしきものがあり、ハードルらしきものがあります。

 これは何かをやろうとする場合、明快で分かりやすいだけに、とても便利です。役に立つ。
 要はハードルを越えるかどうか「だけ」だから、焦点を絞り込みやすいし、何をやればいいのかも比較的分かりやすいし、成功・失敗の規準も明快だから単純に喜んだり落ち込んだりできる。簡単です。

 この「簡単である」というのが最大の利点なのですが、世の中は常にそうですが、最大の利点は最大の弱点にもなります。

 欠点は何か?というと、多分「簡単すぎる」ことだと思います。
 つまりは "too simple" であるし、シンプルにし過ぎる。

 ここで、「"Simple is best"じゃないか、シンプルで何が悪い?」といえば、大事なものを見落とす危険があるからです。
 シンプル=ベストになるにはそれなりの条件というものがあると思います。すなわち、ある程度全体が見通せて、その中でプライオリティをつけて、敢えて涙を飲んで他の可能性をゴキゴキと削ぎ落としていく作業=引き算によってクオリティを高める作業、その腹を括った価値観の棚卸しみたいな作業をするからベストになりうるのでしょう。金も、名誉も、権力も、愛すべき家族も友人も、その全てを手中に収めながら、その全てを捨て去り、あえて孤独な出家雲水の旅に出るという作業をするからこそ、そのシンプルさに価値が宿る。ここで、最初から何も見えておらず、一つしか知らない、一つしか持たないからシンプルになっているというのでは、それはベストでもないし、そもそもシンプルですらない。それは単に世間知らずの単細胞生物だというに過ぎない。

 ボーダー式発想の分かりやすさは、分りやすいがゆえに世間知らずになるというリスクを伴う。

シンプルになるわけがない「リアル」

 もともと世の中の実相として、分り易いボーダーラインがドーンとあって、それを越えたら天国に行けて、越えなかったら地獄だよ〜みたいな現象なんか滅多にないです。あるわけがない。

 本当の「リアル」というのはもっと無定型で、もっと無秩序で、何がなんだかよく分からない。どこが起点でどこが終点なのかもわからないし、当事者が誰かも分からないし、何を対象にするのかも分からないし、どういう原理で何をどう評価判断しているかも分からない。てか、そもそも評価判断という現象自体が存在するのかどうか怪しい。

 よくある教室設例だけど、パスポートを家に忘れて飛行機に乗り遅れたという時点では、どうしようもなくドツボであり不幸なのだけど、その飛行機が墜落して乗客全員死亡ってことになったら、乗り遅れた人は一気に超ラッキーということになる。しかし、話はそこで終らない。

 この超ラッキーな人を世間が注目し、警察も注目し、もしかしてテロリストじゃないかとか濡れ衣を着せられ、馬鹿なマスコミと馬鹿な大衆がその尻馬に乗っかり、一気に「疑惑の人」になってプライバシーは暴かれ、実家には投石や放火がされ、一家離散、さらに無実の罪で拘束され、あろうことか懲役15年に処させられる。それでも無実を訴え、再審請求で戦い続けて十数年、ついに最高裁で認められ逆転無罪。手の平返したマスコミと大衆にヒーロー扱いにされ、講演や出版依頼が舞い込み、一気に評論家や活動家としての人生が開け、やがて無所属として出馬し当選。しかし、政界再編のゴタゴタの巻き込まれ、秘書の給与や政治献金が問題視され、再び疑惑の人となり大騒ぎになったところで、末期ガンであることが判明。引退し療養生活に励むが、オリジナルな自然療法が功を奏し、奇跡的にガンを克服したことから、今度はガン克服の金看板で自然療法家として話を聞きたいという人々が殺到し、一大ムーブメントになり、独自の健康食品を売り出したところ、これがワイドショーで取り上げられて大当たりになり、巨万の富を築き、大会社になる。しかし、「好事魔多し(イイコトばかりは続かない)」で、苦しい時代を支えてきてくれた妻と理事長が不倫に走り、あろうことか自分を追い落とすために隠謀をめぐらしているのが発覚。自宅内で妻と口論をしていた際にかっとなって突き飛ばしたら、老齢の妻は態勢を崩して頭部を強打して思わぬ死亡事故になる。傷害致死 or 殺人未遂で再び逮捕、裁判、服役。しかし、獄中で書いたエッセイ〜人生のあれこれを体験したがゆえに枯れていて且つ軽妙な味わいをもつ文章が大ベストセラーになり、、、

 これを昔からよくある言い方でいえば「いろいろあった」であり、「ああ、だが、しかし、人生は続く現象」ってやつですわね。

 ほーんと、人生、「いろいろ」ありますからね。失業、離婚、交通事故くらいだったら、中程度のイベント、相撲でいえば小結も無理で、前頭三枚目くらいでしょう。ましてや失恋、入試や就職失敗くらいだったら幕下かいいとこ十両。心配せんでも、もっと大きな横綱、大関クラスが待ってます。横綱はおそらく「自分の死」でしょうね。どういうカタチでいつ生じるかはわからないけど、いつかは絶対に出会えますから。

 このように、リアルな現実では、どこが「始点」でどこが「終点」なのかなんて分からない、そんな概念なんか無いってことです。シンデレラのように素敵な王子様と結ばれて「生涯幸せに暮しましたとさ。めでたしめでたし」なんてことはない。そんな「〜とさ」で括れるほど人生はシンプルではない。

 玉の輿・逆玉狙いで努力して、あの手この手奥の手孫の手を使いまくり、見事金星ゲットお!上流階級の仲間入りじゃあ!となっても、「〜とさ」にはならない。そんな土佐藩みたいなことはない。いわゆる上流階級と呼ばれる世界に、非上流の人間が入ったときの排除圧力は凄まじい。古くは「源氏物語」の冒頭、「いとやんごとなききわにはあらねど(大した階級の出身でもないくせに)」の「桐壺更衣」がとことんイジメを受け、バブル期の地上げ屋みたいに廊下に糞小便まで撒き散らすイヤガラセを受け続け、心労の挙句若くして死去。ほとんど「いじめ殺された」かのようです。現代では雅子さんがそれを地でいってたりして、千年経っても変わんねーな、この国はって気もしますが。

 合格!天国への階段の扉をこじ開けた!と思ったら、実は地獄の門だったというのは、他にもいくらでも例があります。同じ事ばかり書いて恐縮ですが、僕の場合も、試験に合格して、法曹になって、先生と呼ばれるようになってから初めてわかった。それが「地獄へようこそ!」だということが。

 始点・終点、マラソンでいえばスタート地点とゴールですが、そんなものはリアル・ライフにはない。人の一生で言えば、出生と死亡が一応それにあたるけど、別に人を単位に数える決まりもない。○○家と○○家の対立抗争の歴史みたいに、何代も続いたシガラミもあるし、国と国、民族と民族のように、ユダヤやイスラエルのように2000年単位で延々続いているケースすらある。これもどこが始点でどこが終点なのか分からないし、そんなもん無い!というのが実際のところでしょう。

シンプルにすること=ゲーム性と遊興性という付加価値をつけること

 しかし、同時に、マラソンにスタートとゴールがあり、42.195キロのコースがあり、開催日時が決められ、タイムが計測され、その大会での順位があり、歴代記録ランキングがあるように、あらゆる物事にわかりやすい決まり事があります。

 サッカーや野球にはラインが引かれ、コートが作られ、人数は制限され、点数という概念があり、試合時間が決められ、細かなルールがある。これは特にスポーツに顕著ですが、別にスポーツに限らず、将棋でもポーカーでもある。

 これは何を意味するのか、なんでそんなことするのか?というと、本来無定型・無限定のリアルに、無理やり間仕切りをカマして、時空間を区画整理し、明瞭なルールをはめこんで「わかりやすくする」点に意味があるのだと思います。なぜ分り易くするかというと、その方が「面白いから」でしょう。

 なんで分りやすいと面白いのか?というと、「ゲーム性」「遊興性」が出てくるからだと思います。ゲームというのは、一種の競争原理の基本みたいなもので、これを導入すると人間同士が競い合うという妙味が出てくる。新たな面白味という付加価値がつく。

 これは経験的に分かると思います。
 今でもやってるのかどうか分かりませんが、小学生くらいの馬鹿な男子(それはワタシです)が、給食時間に「牛乳早飲み」競争とかやって、やれ3秒で飲めたとか、2秒9の新記録が出たとかいって、キャーキャーいって、途中で失敗して暴発、白い牛乳を鼻から滝のように垂らして、絵に描いたような間抜け顔になったりします。単に「牛乳を飲む」というしごく普通の行為でも、タイムを計って競争するというカタチにすると、俄然、面白くなる。

 どんなことでもゲームとして成立させれば、ゲームとして、競争としての面白さが付加される。これは「遊び」の基本だと思います。

 ということは??
 はい、もうお分かりですね、ゲームなり競争によって生じる面白さというのは、遊びとしての面白さ、人工的で後付けの、付加的な面白さに過ぎないということです。そのもの本来の面白さとは別です。

本当の面白さ〜ナチュラルでオーガニックな面白さ

 マラソンが何で面白いのか?といえば、本質的には「身体を動かす生理快感」でしょう。
 最初は息は切れるし、足は痛いし、腹は痛いし、半泣きで走ってるとしても、だんだん身体が慣れてくると、身体中の血行が良くなり、新陳代謝が活性化するのか(理屈はわからんが)、めっちゃ気持ち良くなります。その運動生理の快感というのは、セックスや睡眠と同じような生理快感であり、まずは原始的には「気持ちいい」から走るのでしょう。これが原理。

 次にやってるうちに自分の身体との対話になります。これは「自然との対話」「神との対話」で一章別に起こしたいのですが、なんで自然がいいのか、なんでソレに打ち込んでいるのか、何がそんなに面白いのか?突き詰めて考えていくと、結局「ままならない自然」の面白さに行き着きます。いつもと同じようなことをやっているんだけど、なぜかそのとき、全ての条件、全てのタイミングがパーフェクトに揃う瞬間があって、自分でも信じられないような、まさに「神が降りてくる」かのような瞬間がある。格闘技やってる人だったら分かるかも知れないけど、毎日のように練習しながら1年に1回くらい、信じられないようにキレイに一本!決まる瞬間がある。もう全身鳥肌立ちまくり。「え、今、どうやったの?俺?」と自分でもわからない、再現できない、でも現実にある。これは他のスポーツでも、将棋でも、音楽でも、嘘のようにひらめくときがある。

 それが、まあ、自然の面白さです。人間だって自然の一部だし、自分の身体や心もまた自然の一部。コントロールしているつもりで全然出来てない。だから振り回されるんだけど、自分の身体と相談し、理詰めで詰め切れる部分は練習なり技術なりで詰めていくけど、最後の最後になると不可思議な領域が残る。そこには自然独自の法則性があるんだろうけど、複雑すぎて、奥が深すぎて、究められない部分であり、でも「幻の女」のように、ふとそこの街路を横切っていくのが見える。今たしかに見えた。でも、追いかけていくともう居ない。

 自然との対話、あるいは自然の一部である自分の身体との対話は、それが深まれば深まるほど不可解な部分が増えてきて、神との対話になっていきます。釣りでも山登りでも、技術が進めば進むほど、どうしようもない領域というのがあり、それがもうどうしようもなく魅惑的になっていく。それがすなわち自分の身体との対話であり、自然との対話であり、神と語り合ってる瞬間なんだと思います。この世の語り相手として、およそ神や自然くらい話の通じない、でも語り応えのある話し相手はいませんから。

 マラソンやジョギングは、僕はそんなにやらないから分からないけど、村上春樹のエッセイ(あの人、走ることになると実に楽しそうに饒舌に語りますよね、本当に楽しいんだろうな)で読む限り、単に走るなんて浅い世界ではなく、ものすごい知的ゲームのようです。それは大会中のペース配分というよりは、日頃の体調管理や、徐々に仕上げていくその勾配配分の難しさ、さらに自分の加齢現象やそのときどきの土地や気候風土や体調などものすごく複雑な要素がからみあって、それをどう調整していくか。同じように走っていたにもかかわらず、ある日突然激痛が生じて全然走れなくなる。いくら医者にみせようが原因不明。わからない、途方に暮れる。でも自然に治る。治ったと思いつつも、なおも身体の奥底で熾火のような予兆があるような気がする。なんなんだ、これは?走るという行為は、筋肉と、循環、心肺系統のオーケストレーションであり、それにメンタルという別の要素が色濃く作用する。到底把握しきれない。ほとんど不可能レベルに難しい。だから面白い。

 マラソンの面白さというのは、だから普通に走ってるだけでもう十分に満喫されるわけで、別に42.195キロ走らないとダメという決まりもないし、ある日ある所で「よーいドン」でやらねばならないこともない。タイムが早いことが「良い」というものでもない。体調を壊すような無理な走りでタイムを伸ばしても意味ないし、逆にタイムはダメでも「納得のいく走り」が出来る価値が高い場合もある。

 というか、ほんとのところは、それこそシンプルに、子供のように「走ってると楽しい!」からやってるだけでしょう。それこそが、ナチュラルでオーガニックな面白さであり、それが原点でしょう。

 だから本来的で原理的で、圧倒的な楽しさからしたら、スタート地点やゴールをもうけて、タイムを計って、順位を決めて、それでどうというゲーム性を持ち込むことで生じる楽しさなんか、しょせんは二次的なものでしかない。ともすれば単調でマンネリにおちいりがちなのを、イベント的なものを持ちこんでメリハリをつけるとか、その程度の「余興」的なものでしかないのだと思います。

 これはサッカーだって相撲だってなんだってそうだと思う。
 ブラジルの(あるいは日本の)子供達が、草サッカーをしているときには、ろくすっぽコートもないし、ゴールもあるんだか無いんだかだし、誰が味方で誰か敵ってのもないし、それでボールを蹴りっこして、ドリブルして、取った取られたして、それが面白い。

 格闘技などの場合、「戦場」や「ストリートファイト」という本来の原点が比較的見えやすいので、無限定・無定型の原型を考えやすいです。本物の戦場では、もちろん反則なんかないし、素手でやるとは限らないし、一対一であるとも限らないし、試合時間もない。なんでもありの状況でいかに強くあるか、いかに生き残るか。それがスポーツ化しつつも尚も残ってたりもしますよね。戦場剣術に比して道場・スポーツ剣道になったとはいいながらも、面で一本取るには、単に「竹刀が触れた」だけではダメで、「人間の固い頭蓋骨を断ち割って叩き殺せるほどに強い一打が入ったか」という規準でみて、足りないと「浅い!」「まだまだ!」と言われる。一本取って終った後でも、死んだと思いこんだ敵から逆襲を受ける可能性を考えて「残心」の姿勢を見せることとか。

 長々書いているのは、ラインを引いたり、チームの人数を制限したり、試合時間を決めたり、点数の規準を決めたり、、というのは、要するにそれをゲームとして成立させるための、付加的な、二次的な、便宜的なものに過ぎないということです。ぜーんぜん本質的なことではない。

 そして、冒頭に戻るならば、ボーダーラインを越えたら天国、合格で、、とかいう評価判断方法も、このゲーム的・人工的な明瞭化の一つに過ぎないってことです。ぜーんぜん本質的ではない。

 それは分り易く、面白いからやってるに過ぎない。大海原のように茫洋と広がる「リアル」のなかから、海面の一部分を囲って、海水プールにして競技大会をやってるようなもので、「海で泳ぐ」(実際に人生を生きる)ということからしたら、擬似的なゲームに過ぎない。

 ここは、まずドン!と強調しておきたいと思います。

にも関わらず

 このように擬似的ゲームに過ぎないボーダーライン=ハードル式発想なのですが、これが意外なくらいデカいツラをしているのではないか?という問題意識を次に書きます。

 今の日本って、このハードルやボーダーが多すぎじゃないのか。
 「しかない」と言っても過言ではないくらいで、入試にせよ、就職にせよ、そこでの成功・失敗も、ハードルを越えたかどうかという二分論が多い。婚活などの結婚「出来た」とかいう発想でハードル的です。結婚というのは、欠伸(あくび)や居眠りのように、「する」ものであって「できる」ものなのか?。やれ「イケてる/イケてない」なんてのもハードルを越えたかどうか的な二分論だし。

 なんとなく、「コレとコレとコレをしてると所定点数ゲットで合格!」みたいなフォーマットに即して何でもかんでも考えているのではないか?年金貰えたら老後はOKでとか、資金不安がなければ老後はOKで、老後がOKだったら即ち人生OKで、、、「そうなの?」という気がする。

 違うでしょう。まずもって問われるべきは、今生きている一瞬、一秒に「生きてる喜び」があるかどうか、それがナチュラルでオーガニックな喜びや快感であるかどうかでしょう。それなくして単に生存時間だけ延びたって、「ミイラになって不老不死」みたいに、あまり意味があるとも思いにくい。老後がどうのという議論は、これらの前提が問題なく充足していての話でしょう。カタチだけお金が支給されればそれで良いというものではない筈。年金が出ればOKで、年金が出なかったらもうダメで、ノーフューチャー!とか、阿呆か?って僕は思うぞ。そんな何十年後のノーフューチャーより前に、ノープレゼンス(現在)でしょう。

   子供の頃から全てがシステマティックに整備されていて、ある年齢になったらAというタスクをやらされ、そこで一定のハードル(○点)取れたら合格で、それが出来たら次はこれ、その次はこれと、次から次へといろいろ試験問題が出題され、ボーダーが設定され、合否判定がされ、人生OKかそうでないかが判定される。だんだんそーゆーものだって感じになってくる。

 大学入試は言うに及ばず、就職でも一流・有名以外にも、潰れる心配がないとか、将来性とか、潰しがきくとか、給与待遇が良いとか、最悪でもブラックはダメだとか、、、、それはそうなんだろうけど、しかないんか?という気はします。結婚相手については昔からあれこれ条件(ハードル)があって、バブルの頃には三高とかいってたけど、経済成長期には「家付き、カー付き、ババー抜き」とか言われた。条件があるんだわ。ハードルがあって、それを越えれば越えるほど「良い」とされた。子供が生まれたら、やれ○歳までに○○をやりましょうとか、マニュアルみたいなハードルがある。人付き合いでも、冠婚葬祭みたいな儀礼化したものならいざ知らず、友達同士でも○○と○○は最低押えておいて、こういう話題、こういうアクティビティにも対処出来てというハードルがある。これは今だけではなく、昔っからあった。

 でも、昔は、例えばバブル期のホイチョイの「見栄講座」のように、イタメシ屋にいったら、まず何を頼むとか、ソムリエとの会話はこうするとか、ホテルの予約はどうするとか、誘い文句はこうするとか、笑えるような実例が山ほどあった。しかし、全てに通底するものとして、これは「見栄」なんだよ、虚栄なんだよ、洒落なんだよ、馬鹿馬鹿しいんだよっていう前提でやっていた。

 馬鹿馬鹿しいのを承知で、遊びでやってんだったら問題ないんだけど(一流大学・企業に入りましょうゲームをやってるだけと割り切るとか)、なんかそこが妙に真面目になってるような気がして。妙に本気に受け止めて、「全人格的判断」みたいなってて、「牛乳を3秒以内に飲めたら人間的に優れている」かのような途方もない「錯覚」をしてへんか?と。あの、最近の日本人って、あんまりふざけないんですか?皆さん真面目なんですか?「それはギャグで言ってるのか?」と思ってたら、意外と大マジだったりして、「え、なんで?」とか思っちゃうのですね。

魔女狩的なシンプル思考

 ちょっと余談になるけど、この○○だったら合格で○○だったダメというデジタル式、合否判定というのが、世間に多くなってきてちょっと不安です。それって、いきすぎると魔女狩みたいになってきます。例えば、体罰はちょっとでも「あった」らもうダメで、無かったら合格という。イジメもあったか/なかったかというデジタル的な合否判定になってないか。

 体罰もイジメも「普通にある」という当たり前の常識的な前提にたって、個別にそれはアクセプタブルなものか、度を越えてないか、その「度」ってどの程度なのか。報道されてた体罰問題も、内容を読む限り(ってあれが事実を正確に伝えているとは全然思ってないけど、仮にそれを前提にすれば)、体罰が「ある」からダメというよりも、体罰のやり方がヘタクソだからダメなんだと僕は思いますけどね。教育行為の半分以上は、ディシプリン(躾)であり、調教であり、そこに叱責行為が存在するのは当然だし、それが叱責行為である以上、子供達がそれに不快な感情を抱くのは当然です。快感を感じてたら叱責にならんし。親も教師も嫌われてなんぼ、憎まれてなんぼでしょう。

 てか、嫌われつつも愛される。当事者達も好きなんだか嫌いなんだか「分からん」というのが本当の「リアル」なんだと思います。「尊敬しているけど煙たくもある」みたいな。そんな「晴れ時々曇りところによってはにわか雨」みたいなリアルライフにおける教育をはじめとする、あれこれの人間的イトナミの是非を論じるのは難しい。敢えていえば、医療行為のように、それが時宜に即して、感銘力もあり、副作用も少なく、適正妥当であるかどうかですけど、それとてそれが「正しい」かどうかの判定は容易に出来るものではない。自分が人の親になってはじめて親の有り難みを心底理解できるように、判定には時間がかかるし、それが正しいかどうかの保障もまたない。だから皆でぶつかり合いながら、試行錯誤し、高め合っていくしかないのでしょう。

 要は内容だと思うのですが、事柄が内容になるのであれば、一連の連続ドラマとして続いている僕らの人間的な日常において、ある断片だけ切り取ってきて、あれこれ論議すること自体が無意味でしょう。だとしたら、こういう問題を、事情を深く知らず、また構造的に知ることもできない外部の人間が議論すること自体、無意味有害だと思います。それらは内部でちゃんと議論して解決するべきことでしょ。そして外部の人間が介入するとしたら、組織内部できちんと解決できないという現象があった場合です。その組織の構成(資金、人事など)を決めるのは外部(教育委員会だの、自治体の予算だの、教育基本法だの、文部科学省の行政指導など)ですから、外部で適正な環境作りが出来るかどうかです。そしてその外部機関がまた適切に作動してなかったら、それを公論が議論批判するというダンドリになるのだと思われるのであって、その当該体罰教師といわれる人がいい人かどうかとか、正しかったのかどうかというのは、会ったこともない外部の人間には絶対(といっていいと思う)分からんでしょう。

 それをなんかしらんけど、分かるはずもないことを分かろうとして議論して、その議論の内容も、体罰があった(×)、無かった(○)という、愚劣なマークシート式魔女狩りになってるような気がするのですよ。

まとめ

 長くなったので、マトメに入ります。

 そういう○×二者択一世界観に「なんだかな」と思って(普通はそう思うだろう)、オーストラリアにワーホリや留学できても、そこでまた、勝手にハードルやボーダーを作って、それを越えたらイケてるとか、越えてなければイケてないとか、またハードル形式に陥る危険があります。

 なにか理想を持つのは良いことだし、「ああなりたい」という一定のイメージを抱くのも良い。良いとかいうよりも、普通はそうでしょう。で、そうなるために、あれをクリアして、これをクリアしてというボーター的なものを設定するのもいいでしょう。

ボーダーは便宜的な階段

 しかし、ボーダーなりハードルというのは、階段のステップ、刻み目みたいなもので、それ独自に価値があるわけではないです。問題は、その階段を上っていって、どこに行きたいの?ですよね。

 そうでないと、一回目のワーホリは4ヶ月みっちり英語学校に通って基礎力をつけ、シェア探しやバイトで現地に慣れ、資金も稼ぎ、ラウンドにでてファームで働いて二回目ワーホリの権利をゲットし、、という階段のステップばかりが浮き上がる状況になる。1回目のワーホリのゴールは何かというと「2回目の権利を得ること」だけだったりすると、じゃあ2回目ワーホリの目的は?というと、「それがよく分からなくて」になって途方に暮れる。あるいは「ラウンド」というと馬鹿正直に一周しなきゃいけないと思いこんだり。

 やってることは別にそれで全然問題ないんだけど、平均的な歩幅と体力を持っているなら、平均的な階段ステップで行くのが合理的なんだけど、問題はなんでそれをするの?ですよね。

 最初から最後まで実質しかないんだと思いますよ。それをすることによって、あなたがどれだけハッピーになれたか、楽しめたか、何を得たか〜ドツボ&ボコボコ経験を通じて甘さが取れて忍耐力や計画力などの総合人間力がついたとか、視野がバコーンと広がって考え方が変わって気が楽になった、生きていくのが楽しくなったとか、あれこれ考えさせられることが多くて、研究課題や宿題が山積みになってますとか、そういう実質でしょう。 どれだけ豊かになれたか、どれだけなりたい自分に近づけたか。あるいは失敗続きで距離的には縮まってなくても、失敗を通じてどうすればいいのか段々見えてきたり。

 それを限られた時間で、比較的やりやすいものとして階段があった方がいい。ツルツルの絶壁を爪でひっかいてるうちに時間切れでも、それはそれで一つのありようだけど、でも、内容深くやりたいなら切り込み口は合った方がいい、利用できるものは賢く利用しましょうってことでしょう。学校も、バイトも、二回目も、全部「利用できるもの」でしかない。それはやったかやらないか、ボーダーを超えたかどうかではなく、ちゃんと利用できたか、利用することによってどれだけ豊かになれたか、ですわね。

 

ボーダー・ハードル志向の盲目性と不毛性

 このようにハードルは、すぐれてその「道具性」に価値があるのであって、それ自体に価値があるわけではない。そして「道具」の特性として、正しく利用しなければ意味がないし、有害ですらある。包丁は料理には有用なツールであるが、ちゃんと使わなかったら指を切るし、場合によっては人を殺めもする。

 ハードル思考の最大の欠陥は、そのシンプルさ(わかりやすさ)に基づく盲目性にあると思います。視野を狭め、世間知らずを矯正するどころか助長する。そしてもっと恐ろしいことは、そこに改善可能性や救いが乏しい点です。

 本質=それは何度も書いてますが「ナチュラル&オーガニックな喜び」から発想していけば、評価判断は一律明瞭ではありえない。「あれは良かったけど、これはダメだった」と○×が無数に混在する。例えばレストランに食べに行くにしても、そこでの本質=「美味しいものを食べてハッピーになりたい」という観点が自然にあるから、「メインはいいけど、前菜がちょっとしょぼい」とか、「ソースはいいけど素材の鮮度が」とか、「料理は美味しいけど店の雰囲気が嫌い」とか、さらに細かく「出汁はいいけど、酸味がちょっと強すぎる」とか、幾らでも細かくなるし、幾らでも個別具体的になりうる。

 ここでボーダー式はなにかというと、例えば、その店がミシュランで星を取ってるかどうか「だけ」になることです。それは確かにガイドブックとして、ツールとしては一定限度で有用ではあるけど、全てではない。てかほんの一部でしかない。場合によっては一部ですらない。ミシュランが何を言おうが、俺が美味いと思えばそれが全てです。「おいし〜い!」「う、うめえっ!」というピュアでオーガニックな快感に比べれば、世間の評価なんかどーでもいい。

 そして、本質的な評価判断というのは、一見「美味いかどうか」というこれも二者択一的、ハードル的に見えるけど、そんなことないない。ココを間違ったらダメで、本質的な評価は、孫悟空の如意棒のように無限に伸縮自在であり、二者択一になんかなりえない。それは「○○さんと結婚して良かったと思いますか」とか、「日本に生まれて良かったですか」とか、「あなたのこれまでの人生に点数をつけたら何点ですか」という「愚問」でしかない。

 そんなもん、言おうと思ったら一晩かかっても語り尽くせない。Aという点ではすごく良いけど、Bという点では絶望的にダメダメで、でもCという視点で見ればこうで、AとBがミックスしたときはこうで、、と本一冊書けるくらい語れるはずです。それが好きなものであればあるほどそうです。サッカーが好きな人に、「なんでサッカーが好きなのですか?」と聞いたら、もう決壊したダムのように、ココが面白い、あれが最高とか幾らでも醍醐味が出てくるでしょう。

 それを二者択一的に「オススメですか?」「良かったですか悪かったですか?」なんて聞く方が悪いし、ほんと愚問だと思います。しかし、まあ、世間話では、そこまで深く考察しないし、そこまで皆も興味もないから、テキトーに端折って、四捨五入して、「まあ、いいんじゃないかな?」みたいなテキトーな答になるだけのことでしょ。逆に言えば、いい加減にやってるから、真面目に答える気がないから、それが不正確でテキトーだからこそ二者択一的に答えられるだけの話です。

 このように美味しいモノとか、好きなスポーツ、音楽、漫画、映画、趣味だったら、二者択一ではなく、「ハードル、なにそれ?」で、正しく、ナチュラルに向き合えるのに、なんでそれが就職とか勉強とか人生とか生活とかになると出来ないのよ?それが不思議だし、それがおかしいんじゃないの?と思うのであり、それがすなわちハードル式発想に「毒されている」と言う所以(ゆえん)です。

 就職や仕事における「ナチュラルでオーガニックな喜び」というのは、それこそ人それぞれだろうけど、僕が思うに、とにかく「社会に出る」という不安と晴れがましさが一つ、ハンパじゃないリアルな現実をぶつけられる「たまんない感じ」が一つ、なにか一生懸命やって、それで他人が本当に喜んでくれたときのえも言われぬ「やった」的な充実感が一つ、「なるほど、だからそうなってるのか」と世間や視野が広がっていく快感が一つ、やってるうちに自然に自分の技量が上達していくささやかな自負心が一つ、ハードな一日が終ったあとの一杯の心地よさ、いつもの居酒屋で生中を待ちながらオシボリの温もりに「はあ〜」と緊張が抜けていく快感が一つ、仕事の愚痴や不満を同僚達とこれでもかと言いあって、「そこまで言うか、おめえ」とかゲラゲラ笑ってる快感が一つ、、、、だからそんなもん一晩かかっても語り尽くせないです。

 もちろんイイコトばかりではないです。というか悪いことの方が多い。でも、現実そんなものだし、そんなことはガキの時分から知ってることでしょう?美味しい店巡りではスカが多いし、スカの方が多いし、中古CDのジャケ買いは外れが当たり前だし、マンガだってスカの方がずっと多い。当然じゃん。お宝は滅多なことでは見つからない。

 なんでもそうだけど、例えばスポーツでも、そりゃあ負けたら悔しいし、場合によっては涙が出るくらい悔しいけど、「そんなに悔しいならサッカーやめればいいじゃん」ってそんなもんじゃないでしょう。釣りだって、常に釣れるとは限らない、てか釣れないときの方が多い。でも「釣れないんだったら辞めたら」「魚屋行けば」「クール宅急便で」って話にならない。釣れないからこそ面白いのであり、なっかなか勝たせて貰えないからこそ燃えるのだ。でも、本質は勝ち負けでも、釣果の多寡でも無い。青空を滑空するボールを無心で追いかけるその無心さ、心がカラっぽになる感じ、渓流のせせらぎ音にリアル・サラウンドで包まれながら、ポンと糸をなげこむその「それしか考えてな〜い」「何も考えてな〜い」感じがいいんでしょう。

 だから本格的に楽しく、真っ直ぐに、それに向き合えば向き合うほど、ボーダー?ハードル?そんなもんねーよ、です。勝ち組?なにそれ?ですよ。あなたは、美味しいケーキを食べたら「勝ち」だと思っているのか、美味い酒が飲みたいのは「勝ちたいから」なのか?

ハードル発想に救いがない点

 最後に、ハードル発想が「救いがない」という点について書きます。

 しょせん便宜的、ツール的に使ってるハードルやボーダーですが、それしか規準がなく、その規準によってのみイケてる/イケてない、成功/失敗を考えていると、どっちに転んでもろくな結果になりません。

 なぜなら、ダメだった場合、もうそれで全人格的、全人生的に「終った」感が出てきてしまい、復活を希望するにしても、またあの「ハードルを越える」という方法論や道筋しか見えないという点です。だとしたら、何度やってもハードルを越えられないという結果しかでなかったら、そこで終ってしまう。未来が見えなくなる。

 でも、ほんとはそんなことないです。「一晩かかっても語り尽くせない」というくらい、その物事には面白さや快感が目白押しに詰まっており、それと同じくらい、自分のここがダメ、あそこがダメという欠点もわかる。例えばロックギターの醍醐味だったら何晩でも語れるけど、それと同じ質量で自分のギターのここがダメという欠点も語れる。やれビブラートのバリエーションが少ないとか、三連符がついタータタになってきちんと三分割されてないとか、コードカッティングのキレが悪いとか、どうしてもまだアップピッキングの方がダウンピッキングよりも弱くなるとか、アドリブの展開がワンパターンだとか、ひらめきがないとか、もう無限に語れる。欠点を無限に語れるということは、無限に改善ポイントがあるということであり、「やるべきこと」は無限にある。つまりは「未来への道」も無限にある。だからやる。やってて楽しい。

 しかし、コンテストに落ちたとか、売れないとか、プロになれないとかいう一元的、ハードル的評価で全てを決してしまってたら、プロになれないという段階で全てが終ってしまう。違うだろって。最初に弾き始めたときは、そんな糞みたいな「邪念」なんか持ってなくて、ナチュラルにオーガニックに楽しんでただろうに。ハードルに取り憑かれた時点で、それを忘れてしまう。忘れてしまうから明日が見えなくなる。ゆえに救いが無くなる。

 逆に成功した場合、「うぬぼれる」という失敗以上にヤバい状況に陥る。もっと目が見えなくなる。なまじ成功したから、なまじ勝ったから、それを維持するのに汲々とするようになり、どんどん楽しくなくなる。失敗した場合は、ゼロ状態から、もともと原点にあった「生の楽しさ」を思い出すだけで良いから、話はまだ見えやすいんだけど、成功しちゃうともともとの楽しさの上に「成功快感」という別種の楽しさが上書きされ、混在するから、よけい見えにくくなる。

 「ガラにもないことやってんな、俺」「こんなことしたかったんか?」とか時折思うんだけど、なまじエリート街道に乗っちゃたり、なまじ給料が良かったりしたら、今更降りられなくなる。その前提で全ての生活設計をしているから、給与が下がった時点で全てが崩壊するように作り上げてしまったから、もう壊せなくなる。抱えきれない荷物を抱え、ちょっとでもバランスを崩したらガラガラと荷物が崩落する状態で、荷物によって視界も遮られ、よく分からないままヨタヨタ歩くという人生になるかもしれない。またそんなときに限って、背中が痒くなったりするんだわ。そんなときに限って、脇の下をコチョコチョくすぐる奴がでてきたりするんだわ。大変ですよね。

 なんでそんなことになるの?といえば、遡れば、ハードル規準がアホだから、でしょう。

 何度もいいますが、あれは便宜的な道具に過ぎない。
 大きなダンドリ、大きな道筋のなかの幾つかの関門、チェックポイントでしかない。そこを通過すると近道だよ、王道だよ、便利だよ、いい道しるべになるよというだけの話でしかない。

 大好きな彼女と念願の初デート!ビーチで楽しく過して、素敵なレストランでロマンチックなひとときを過し、そして、、、わはははは!というのが「大きな計画」だとしたら、その箇所箇所で出てくるのがボーダーですよね。「○時○分発ののぞみ○号に乗る」とか、「○○高速でぶっとばす」とか。その全体関係が分かってればいいけど、分かってないでガチガチになってると、高速道路で大事故があって事故渋滞、封鎖というだけで「もう死ぬしかない!」になる。ビーチで、、というのも台風がきたら終わり、てか雨が降っただけで「死ぬしかない」になる。ハードルの馬鹿馬鹿しさってのはそれです。

 彼女と楽しく過すんだったら別にビーチに行かねばならぬというものではないでしょうに、そこがそう思えなくなる。視野狭窄とはそれを言う。入試やら、就活やらいうのも、つまりは「ビーチ」であり「高速」なんだけど、ハードルばっか見てると視野が狭くなるから、「死ぬしかない」になるってことですよね。

 カタチはしょせんカタチなんですよね。ハードルはしょせんハードルでしかないのですね。ただの棒、ただの板きれなんですよね。それに、本式のハードル競争(陸上競技の障害走)は、故意にハードルを倒したと審判長が判断した場合に失格になるだけで、別に自然の流れで蹴り倒したっていいんですよね。ハードルだからといって、別に「クリア」する必要はないという。クリアした方が「多少タイムが縮まるから有利」というだけの話です。それだけのことだと。



文責:田村



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