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今週の1枚(2013/02/25)



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Essay 607:「初期設定」の大切さ

「"とりあえず"の食い逃げ」は死刑!

 写真は、オーストラリアのセブン・イレブンのガソリンスタンドで。
 「オーストラリアにもセブン・イレブンがあるのですね」とか良く言われるのですが、あれはもともとアメリカの会社です。1927年テキサスのサウスランド・アイス社が前身。終戦直後の46年にセブンイレブンという社名になり、日本にやってきたのは1973年。イトーヨーカ堂がライセンス契約を結んで日本で展開。ちなみにオーストラリアのセブンイレブンは4年後の1977年。オーナーはWithers/Barlow familyで、ラインセンスを取得。

 その後本家アメリカが経営破綻になったのがバブル崩壊時の1991年で、日本のヨーカ堂(その子会社のセブンイレブン・ジャパン)が支援、買収してます。セブンイレブンはアジア各国、北米、北欧にもありますが、世界4万6000店舗のうち1万5000弱が日本、つまり3分の1は日本にあるので、「日本のセブンイレブン」といっても良いかも知れないけど、資本関係で言えばアメリカ本社と日本くらいで、あとは単にフランチャイズのラインセンス契約を結んでいるだけでしょう。

 オーストラリアのセブンイレブンは、600店舗ほどありますが、うち300店舗はモービル石油のガソリンスタンドチェーンを買収しているので、実際にはコンビニというよりはガソリンスタンドチェーンという感じです。オーストラリアはCBD以外にコンビニないし、あっても使えないし。


 もう一点。巨大なタンクローリーのプレートに不思議な文字が並んでます。"YOU ARE PASSING ANOTHER FOX"という文章ですが、これはよく見かけるのですが、最初の頃、この意味がよく分かりませんでした。「あなたは他の一つのキツネを追い越そうとしている?」なにそれ?という。これは英語の良く出来る知人に教えて貰いました。

 まず"FOX"ですが、これは"Linfox社”という大手運送会社があります。日通みたいなものでしょうか。これが「キツネ」の意味です。

 そして、英語独特のニュアンスとして難しいのが "another" の概念です。辞書的には、an + otherで"other"が一つの場合、だから「もう一つの」という意味だよってことですが、実際の英語世界ではもっと広くて深い含みを持たせますよね。

 それは「いわゆる一つの」「よくある」「ありがちな例」「また別の」「さらにもう一丁」というニュアンスで、これを日本語で説明するのが意外と難しいです。「同種・同量の、よくあるものが、さらにまた一つ登場」くらいの意味なんですけど、こう説明しても全然分からないでしょう。だから事例で覚えるしかない。

 例えば、レストランでビール瓶が空になったときに「おかわり」に相当する言葉が"another"です。「もう一本下さい」と言いたいなら、"one more""same one"とか言わないで、"Another one, please"で通じます。「で通じる」というよりも、そう言わないと通じないくらいの感じ(まあワンモアでも通じないことはないだろうが)。

 これは簡単なんだけど、より核心に向かっていくと、例えばすごいモテる友人がいて、見る度に違う女の子と歩いてたりします。やれやれまた新しい子をみつけたんだなというときに、"Oh he's got another new girl friend"と言います。あるいは、クルマがトラブル続きで、パンクを直したと思ったらバッテリーがあがって、バッテリーを変えたと思ったら、今度はライトが切れて、、というときに、「またトラブってるんだよ」というのを"I've got another one"とか言うでしょう。

 で、ここで"another FOX"はどういう意味かというと、「全オーストラリア中をあまねく走り回っているリンフォックス社のトラックに、あなたは又出会いましたね」というニュアンスがあります。"another"のもつ、「ほら、また別の」という普遍的な意味を逆手にとって、「どこにでもいる」=「私らはどこにもいまっせ」「売れてまっせ」という企業イメージの広告になってるという。わかります?

 あとはキツネにひっかけ、そしてこういうプレートを読むときは、長い直線で追い抜きを掛けようと睨んでいる場合が多いから、「追い抜こうとしている」という表現にしているのでしょう。

 "another"ひとつにそれだけの意味が込められているから、英語(言葉)は難しいんですよね。

「Essay604 結果として」の続き

 ちょっと前にESSAY 604/「結果として〜」を書きました。自分のやりたいことをやって、ちゃんと楽しく生きていけば、「結果として」得るべきものは自然にもたらされる、というお話でした。あのエッセイの後半に書いたのだけど、あまりにも長くなりすぎたのでバッサリ削除したこと、今回改めて書き起こします。

 要旨は、結果として良いモノを残すためには、それなりの 初期設定 が必要だということです。

 「初期設定」というのは、楽器や自動車でいえばチューニングのようなものであり、パソコンでいえばコンフィグレーションやレジストリみたいなものです。
 この最初の設定が間違っていたり、好ましくなかったり、不本意なものだと、「結果として」もたらされるものも、また不本意で好ましからざるものになってしまうでしょう。

 これは何となく分かると思います。「結果として豊かな実りをもたらす」という現象は、漁業でいう定置網のようなもので、ちゃんと魚群の回遊ルートに設置しておけば、ほおっておいても魚は捕れます。しかし、ぜーんぜん関係のないところに設置したり、設置の仕方が甘くてちょっと波が高くなったらすぐに流されてしまうようでは予期したほどの実りをもたらしません。最初の「設定の方法」がとっても大事です。どこにどうやって設置するか。

 普通に日々の生活を過していても、結果として何かを学んだり、技術や知識が身についたり、知らない間に人間的に深くなってたりするためには、最初の設定がちゃんとしてないとならない。ここが間違ってたら望んだような結果もでないし、それどころか、やればやるほど堕落していくという逆効果もあります。このように初期設定は重要であり、重要であるだけに恐いのです。

 が、それだけではない。
 初期設定(&調整)はめっちゃくちゃ難しい!という点があります。
 意外とわかってるようで分かってない。「ちゃんと設定」というけど、その「ちゃんと」の意味が実戦的に理解しにくい。

 特に、日本人がなんとなく考えてる初期設定のパターン=「とりあえず」「それらしい形」にして、形になったらもう安心してしまう=では、本当の意味で「豊かな結果」をもたらすようなものにはならないのではないか?という問題意識があります。

 以下順次書きます。

オーストラリアの初期設定

 オーストラリア人(てか西欧系)の「初期設定」にかけるパワーはすごいと思います。相当な時間と労力をかけてそれをやる。例えば、家を買うにも平均で300件は見るとか、カジュアルな仕事探しですら1日100軒の履歴書配りという桁外れのパワーでやる。自営でなんか始めても、ビルの最上階から1階まで全事務所を飛び込み営業で訪問し、また次のビルへとやっている(ときどきやってる人を見かける)。普通の就職でも数百単位でトライし、そうまでしてゲットした仕事であっても「違うな」「くだらん」と思ったら速攻で辞める。

 これらの数値や傾向は、大体がアネクドータル=僕が見聞きした話、街の噂程度のことで、確実な統計資料があるわけではないですが、問題は数値の多寡や正確性ではなく、そこから窺われる発想や行動のパターンです。

パワフルさ

 まずもって学ぶべきは、このパワーの絶対量です。ちょっと探して手頃なのが無かった場合、そう簡単に諦めない、妥協しない。しかしそれ以前にトライする絶対量が多い。職でも住まいでも、5〜10件なんてレベルではなく、20や30というレベルでもなく、数百、場合によっては数千というオーダーでやる。

 そのことの是非は後で書きますが、まずは「パワフルである」ということです。これはもう肉体的なエネルギーの絶対量もあるのでしょう(こっちの連中の基礎体力はけた外れ)。しかし、そういったフィジカルなことよりもメンタル、マインドセットとして、最初から「そーゆーもんだ」と思っている点が大きいと思います。

 僕がオーストラリアで最初に賃借したフラットは、最初に見た一軒で決めてしまいました。予備知識がほとんどゼロ、英語分からない、何がなんだかさっぱり分からないという状況であることに加えて、十数年前のオーストラリアの物価水準は日本よりもずっと低く、日本的な感覚では十分に満足できる物件だったからです。ところが1年後に家を借りるときは結構見ました。実際に足を運んだものだけで十数件以上、広告チェックだけだったら百件越えたと思います。そしてその次(今の家)を借りるときは、足を運んで見たものだけでも数百件あります。探す期間も7か月くらいありました。段々こっちの環境に馴染むに従って増えてくる。

 なぜかというと、「やればやっただけのことはある」というのが理解できたからでしょう。決して無駄な努力ではない。"It's worth"なのですね。と同時に、この初期設定がいかに重要であるかも骨身に染みて理解できるようになったからです。納得のいく居住環境があるか/ないかで、日々の生活快感は全然違うし、それって積もり積もりば「いい人生だったかどうか」にもダイレクトにつながる。そのあたりの因果関係が露骨にわかってくる。特に外国に住む場合、シガラミとか固定観念とか鬱陶しい要素がなくてシンプルな分、そのあたりがストレートに見える。

 でも、そういった動機や理由はさておき、ここではまず数百件見れるだけ「パワフル」になったということであり、それは単にパワフルであるというだけではなく、そのくらいのパワーをかけるものだということ、「そーゆーもんだ」という発想になっていったことです。

 ワーホリ・留学生さんのバイト探しでもそうです。良く体験談などを聞いてますと、ヨーロピアン連中と付き合ってみてはじめて「そーゆーもんなの!?」と目からウロコで仕事の探し方が理解できたという人が多いです。要は「とにかく動く!」。求人広告なんかろくすっぽ見ない。つねにレジュメ(履歴書)をバッグにしのばせておき(或いは無くても)、バス停でバスを待ってる間でも、「お!」と思ったらそこらへんの店に入っていって、「ハーイ!仕事ある?」と明るく声を掛けていく。これが日本人同士とか、不慣れな留学生同士だと、数件ないし十数件程度の職探しで思わしくないと「もうダメぽ」とか思う傾向があるのだけど、彼らにとって十件内外なんかゼロも同じ、探してないのと同じ。

 「仕事ある?」「今はないな」「おっけ〜」だけだったら数十秒で済む。1件1分だとしても2時間あったら100件はいく、4時間あったら200件。でもって奴らは普通にトライアスロンとかやっててクソ体力あるから、その程度の作業は屁でもない。1日200件、10日で2000件、1か月で6000件。同じ店にも何度も何度も行く。恥ずかしいとか1ミクロンも思わない。でもって1000件もやってたら、そのうち1件くらいは酔狂で雇ってくれるだろうから、「それでいいじゃん」「はい、問題解決!」という。

 でも、この「いい加減さ」があってこその「カジュアル」ジョブなのですね。これが真剣にフルタイムとかキャリアとかになったら話は別ですけど(手数と期間はもう10倍増えるが、検討吟味もする)、しょせんカジュアルなんてそんなもんよ、という。実際、そんなもん、なんですよ。だからろくすっぽ求人広告も出さない。その必要がない。毎日幾らでも飛び込みセールスのように誰か入ってくるし。

 「英語が不慣れだけど大丈夫でしょうか」「この業界は初めてだけど無理じゃないか」とかいうのも考えない。そんなことは経営者や雇用者が考えることであって、こっちはオファーをすればいいだけであり、それ以上の配慮はむしろ”越権”行為ですらある。いくら不慣れな業界だろうが、ゴミ出しやモップ掛けくらいだったら誰にでも出来るだろうし、今現在どんな仕事が必要とされているかなんかこっちからは分からない。だから、それはマネージャーが考えることであって、アプリカント(志望者)が考えることではない。考えてもしょうがないことは絶対考えない。そのあたりは徹底してる。

 初期設定というのは、ある意味では宅地造成みたいなものですから、納得がいくように地盤を造成するためには、それなりにパワーが要る。潮干狩のミニスコップみたいなのでチマチマやってても埒が開かない。やるときはブルドーザーで一気にドドドとやる。まずこのパワーが第一。

メリハリ〜プライオリティ

 第二にメリハリが異様にクッキリついている点です。
 世の中にはどーでもいいことと、どーでも良くないことがあり、その白黒のコントラストが異常なまでに鮮烈。

 どーでも良くないこと、ゆるがせに出来ないこと、それは自分が幸福になることであり、自分の幸福を基礎付ける重要ファクター、つまりは初期設定については徹底的に妥協しないでやる。もちろん現実は思い通り行かないから段階的に適当に妥協しなきゃいけないけど、それでも「次はこうする」と先まで見据える。諦めない。これ以上大事なことはこの世にないんだから、「まあ、いいや」「しょうがない」という結論や処理は本質的にありえない。

 自分同様に大事なことは、身近な人間、あるいは「誰か」が幸福/不幸になることであり、これもおろそかにしない。どんなエリートキャリア職にいても、奥さんや子供が病弱で自然の多いところに住もうとなれば、あっさり退職して田舎に行く。そこには「苦渋の決断」「自己犠牲」というニュアンスすらあまり感じられない。つまり最初からプライオリティがハッキリしているのでしょう。同じようにボランティアでも、そのレベルの高さと忍耐力では、正規の仕事以上の質と気合でやる。なぜなら人の幸福に直結するから。これは政治でも同じで、納得いかなかったら一人でも路上に立って訴え、ビラ配りをする。

 一方仕事系に関しては、「ええ加減にせんかい」と天を仰ぎたくなるくらいいい加減だったりします。もう金曜の午後なんか仕事する気ないもんね。つまりゼニカネに関することは「最小の労力で最大の収入」というゲームのルールがあり、それだけであり、それ以上の感情移入は(自己実現的仕事や起業は別として)、ない。だから、びっくりするほどあっさり退職するし、びっくりするほど簡単にクビにする。

 それ以上にびっくりするのは、新装開店!した店でも、初期の数ヶ月経過した時点でもう閉鎖されている点です。多分、これ以上やっても経費率が収入を越えて赤字が続き、仮に何らかの大逆転が起きて黒字転化するにしてもその数学的確率は少ないのでしょう。そういう統計的なフォーマットがあるのでしょう。ビジネスというのは、畢竟(ひっきょう=とどのつまり)、お金の有効投資であり、1000万投資して1010万だったらリターン率1%であり、だったら銀行金利の方がマシだという、ただそれだけです。

 つまりゼニカネごとには、ゼニカネ以上の付加価値をつけない。感情移入をしない。普通日本人だったら、感情移入しますよ。脱サラして、独立して、最初の自分の店だったら何がなんでも頑張ろうとするけど、でもそうしない。てか、資金の貸し主の銀行がそうさせない。ちょっと支払が滞ったら「はい、終わり〜」で手を引かれてしまう。だってゼニカネなんだもん。ゼニカネ入らないことやる意味なんかゼロだもん。

 なんでこんなにパキパキ割り切れるのか?といえば、最初から優先順位(プライオリティ)が明確に付けられており、プライオリティを生み出す価値観がクッキリしているのでしょう。そこがハッキリしてるから、あとはスポーツやゲームのように「ルールに従って厳正に」やってるだけなんでしょう。

損益分岐点

 価値観の明確化は、「損益分岐点」という明確化とも言えます。
 100という価値を得るためには、99までの労力を費やすけど、これが101以上の労力になったら赤字だからやらない方がマシ、むしろやってはいけないくらいの感じ。

 自分の人生において何が価値があることで、何が価値がないことで、それがどの程度にそうなのかが、僕らから見るとわりと明瞭に見えているんじゃないかって気がします。別の言い方をすれば、自分にとっての「幸福」というのは「こーゆーもの(こと)」というのが感覚的にも、あるいは計量的にも見えている。

 そこが見えてるから損益分岐点も見えていて、分岐点を下回ったときは、驚くほどクールで、時として冷酷ですらある。配偶者とラブラブなときは、愛し合う至福の時空間の価値が非常に高い。だから大抵のことは犠牲にできる。キャリアであろうが何であろうがあっさり犠牲にする。多分「犠牲」という血を流すような意識すらないんじゃないかな。せいぜいが野球における「犠牲バント」くらいの感じでしょう。

 それほどまでに全身全霊デヴォーション!(献身)なんだけど、そこが強烈なだけにコンフリクト(葛藤、対立)も強烈で、ド迫力!の夫婦喧嘩になる。そして、愛が醒めて白々したり、「これ以上やってても意味ないな」となったら、あっさり離婚する。この炎のような熱いパッションと、氷のように冷酷な行動というのは、僕らアジア人からしたら、ほとんど二重人格のようにすら見えるのですけど、彼らは彼らで正直であり、また誠実なのでしょう。

 生きるか死ぬかの恋愛沙汰ですらそうなんだから、しょせんゼニカネでしかない仕事なんざその程度のプライオリティであり、それだけに損益分岐点も明確。さらにカジュアルジョブに至っては、彼らにとっては子供が親の肩叩きをしてお小遣いを貰う程度のものでしかないのでしょう。大のおとなが一喜一憂するようなレベルの話ではなく、一喜一憂すべきことはもっと他にある。

 特にカジュアルジョブをする若い世代においては、これから未来の自分の人生構築の強烈な柱を作ること、それだけ鮮烈な価値体系を自分のなかで組み上げることの方が100倍大事でしょう。そして、その価値観を育むためには、あらゆる経験の絶対量が必要です。だから彼らは当たり前のように若い時代に世界一周とかするのでしょう。面白いからというよりも、「生きていく上で必要だから」という感覚はあるのだと思う。だって、押しも押されもしない自分「だけ」の価値観が構築できなかったら、一歩も人生進められないのだから。

 ちなみに、QOL(クォリティ・オブ・ライフ)というコトバは日本でも使うようになりましたが、こっちはもっとキツい意味でも使います。つまり幸福度がこれ以下になったら「死んだ方がマシ」という凄い基準にも使われます。それもあってかオーストラリアではユーソネィジア(安楽死)が常に立法議論になっているし、ずっと前のエッセイでも現地のTV番組のレポートをしました(ESSAY 311/ オーストラリアの高齢者の自殺状況(前編)TVプログラム「Four Corners」の"Final Call"より同・後編参照)。それに動物病院でも、もう寿命とか、もうあとは苦しいだけになると、すぐに"put on sleep"という安楽死の話になる。

 つまり「幸福でなかったら生きててもしょうがない」というもの凄い基準があるみたいで、だからこそ幸福であるかどうかは、生きるか死ぬかの絶対基準であり、そこにこだわる。もうメチャクチャこだわる。

幸福追求権と初期設定

 でも、「幸福」って難しいですよね。「こーふく!」と唱えたところで何が分かるわけでもない。
 ちょっと考えた位では分からないのだから、何に価値を置くか/置かないかは、それこそ物心ついた頃から考えに考え、しまいには習い性になって考えるともなく自然に考え、やがては「生理的に感じる」というレベルにまでもっていくのでしょう。

 「幸福」という抽象概念を、日常的な生理・生活感覚に翻訳すれば、「気持ち良さ」「納得」という感じで認識されるのでしょう。つまり日々生きているなかで、「楽しいな」「好きだな」「イヤだな」「気持ちいいな」と思うサンプルケースを出来るだけ沢山集め、考えるともなく考えていく。そうすると、バトルロイヤルだか、相互互選だかで、自然と番長やリーダーが決まってくるのでしょう。自分が生きてて最も楽しいと感じること、もっとも充実すること、もっとも価値があるのは何か?が、最初はボヤヤンと、でも徐々に明確に見えてくる。

 ある程度の価値体系が出来てくると、そのボス猿的な根本部分が納得できるかどうか、そこが満たされるかどうか焦点を絞り込めるようになる。これらは時と場合によって違うだろうし、自分の経験範囲や年齢によっても変わるでしょう。常に不明瞭な部分はあるし、もっと見極めたい気もするでしょう。だから3年かかろうが、30年かかろうが探そうとするし、絶えずヴァージョンアップさせていく。自分はもっと良くなれないか、もっと素晴らしくなれるんじゃないか。こうしたらどうか、ああしたらどうか?

 オーストラリアでは50代以上になってから大学に入る人が、かなり普通にいますが、それも「絶えざるヴァージョンアップ」のイチ形態であろうし、そこでは「定年退職」なんかも単なる結節点に過ぎないのでしょう。彼らのプライベートライフの獰猛なまでの充実ぶりを見てると、ほんと仕事なんか単なるエピソードに過ぎないんじゃないか?というのが実感として分かります。

 それが、まあ、近代憲法の人権カタログの根本にあるといわれるパースート・オブ・ハピネス(幸福追求権)なのでしょう。アメリカ独立宣言に高々と掲げられた「Life, liberty and the pursuit of happiness」であり、日本の憲法13条に書かれているものです。

 ここで大事なのは、「幸福権」ではなく、幸福「追求」権だということです。幸福になる権利でも、幸福にしてもらう権利でもない。そんなことは「幸福」の内容が人によって違う以上、ありえない。だから、幸福になるかどうかは個々人の甲斐性にかかっているわけで、それを他人は助力できないし、またアテにしてもいけない。ただ自分の甲斐性で幸福を「追い求めること」だけが保障されている。つまりこれは「勝手にやらせて貰うぜ」権です。

 さて、こういった幸福を基軸とした人生観・世界観と、今回のお題の初期設定との関係です。

 これはそんなに難しいことではないです。
 自分の幸福がある程度見えていれば、そのゴール(幸福)への道筋、戦略、ダンドリもまた自然と見えてくるでしょう。そのためには、生活や人生の初期設定も、同じように「こうした方がいいな」というのが自然と見えてくるでしょう。

 例えば、色んな所に行き、いろんな人達と会い、あれこれ様々な体験を積んだ結果、自分はどうも「山」が好きらしい。自然が好きなんだけど、海よりは山がいい。それも仙人がいそうな深山幽谷ではなく、里山や裏山が好き。人間の生活と山とがナチュラルに溶け合ってる感じが好き。それは無理やり山を切り開いて新興住宅地にしましたという敵対的開発的な関係ではなく、山に入ってキノコや山菜取ってくるような共生的な感じがたまらなく好き、、、というのが分かったとします。

 だとしたら、生きていく初期設定も、それに合わせて考えるでしょう。出来ればそういう土地に住みたいけど、田舎は田舎で閉鎖的で中々入っていけないぞ、でも新しい農業ビジネスやら、田舎暮らしのグループもあるし、有機栽培の菜園をやるとかいう方法もあるぞ。でもいきなりやるには農業知らなすぎだから修行しないとならないぞ。農学部に入り直すのも手だけど、そういう関係の仕事についた方が早い気もする。あるいはそういうムーブメントを取材したり雑誌として刊行している会社に入るのもアリかも。そのあたりは全方位でアンテナ張りつつ、いきなりは無理だから「5年以内に実現」と仮目標を設置し、当面は都会に住まざるをえないにしても、出来るだけ山に近い環境がいいな、同じエリアのマンションでも部屋の窓から山が見える方がいいなとか、、、

 このように基軸が一つ決まったら、大きなことから小さなことまで、方針というのが自然と見えてくると思います。あれもこれも捨てがたいという複数の価値観があるなら、その中でよりディープなもの、より堪能できるものという決定指針もでてくる。


 これが僕のいう「初期設定」です。

 ここは本当に、結構念入りにやった方がいいと思います。
 ゴルフのアドレス、ピッチャーのマウンド、ドラムスの皮の張力チューニングみたいなもので、ここがズレてたら、その後に同じ努力をするにしてもパファーマンス効率が全然違ってきます。それどころか、全然アサッテの方向にアドレスしてたら、やればやるほど自分のやりたいこと、幸福から遠ざかり、やればやるほど気持ちは落ち込み、何を楽しみに生きているのかすら忘れてしまうという。もう最悪です。

 でも、それもこれも、自分が何をしたいの?どうなりたいの?どうすると気持ちいいの?何が幸福なんだろうね?がしっかり確立しているかどうかにかかってくるでしょう。

 そして、「確立」といっても、揺らぎなく、ブレなく、自信をもって「俺はコレだ」と思えるには、それ相応の経験が必要でしょう。井の中の蛙が、一つのことしか知らないから「これだ」と思ってる場合もあったりするけど、そんなにちょっと「波(違った種類の経験)」を被っただけですぐに転覆しますもんね。

日本の問題点  カタチ+とりあえず+面倒臭いの三点セット


 ところが-------
 上に述べたオーストラリア(てか西欧一般)に比べてみて、日本人はこの初期設定にそんなに時間をかけて努力していないんじゃないか。あるいは現在の日本の生活様式というのは、この努力をしにくいアゲインストな環境であり、さらにはアゲインストな人生哲学があるように思います。

 何かというと、日本人の大好きな@「カタチ」です。
 そして、多くの場合に「形」にカップリングされるA「とりあえず」メンタリティ。
 それにプラスして、あとで形を変えることをとてつもなくB面倒臭く感じること。

 この、 カタチ + とりあえず + 面倒臭い の三位一体方式 で、初期設定がおざなりにされているのではないか。
 さらに詳しく書きます。

 まず日本では「とりあえず形になってる」ことを重んじる形式主義的なところが強いですよね。
 卒業したらとりあえず就職するという。内容はなんでもいいから「とりあえずカタチにする」のがとっても大事。

 もちろん「型から入る」というのも重要な方法論だし、古典芸能なんかでも「型」はエッセンスの集約だから、そこからやるのは大きな意味がある。しかし、それほど意味が無くても、とにかく「型」「形」にこだわる形式主義がある。形は無意味というつもりはないけど、型に意味があるのは、それが実質に裏打ちされているからであり、あくまで本質は実体部分にある筈。型だけ整えて、じゃあ実質は?というと、実はそんなに突き詰めて考えてないんじゃないか。

 で、もっと問題なのは、「とりあえず」で決まってしまったものを変えようとしないこと。一旦それが形として収まってしまえば、あとでそれを変えるのを面倒臭いと感じる。それがあまりにも面倒臭く感じるから、一回形になったものを後で変更するのは困難になり、途方もない労力が必要になる。

 つまりは「慣性の法則」が強いというか、「なしくずし」傾向が強いというか、超面倒臭がり屋というか、「形」を変えること、それも一回決まって、それで日々運用されているパターンを変えるのが、実際以上に難しくなる。

 そうなってくると、一体、いつ「実質」を考えているのか?です。実質を考えて決断し、実質に即して行動するという段階が何処にもないでしょう?

 

「とりあえず」と言ったら死刑!

 そのあたりを脱却したいなら、「”とりあえず”と言ったら死刑」みたいな法律作ったらいいかもしれません。わはは、冗談ですけど。でもそこが諸悪の根源の一つだと思うぞ。

 「とりあえず」「とにかく」という語法は、「暫定的に」「テンポラリーに」「全然本質的じゃないんだけど」「モノのダンドリとして」という意味でしょう?

 「とりあえず」で始めるのはいいけど、そこで終らせてしまうことは許されない。それはもう絶対に許されない。ボケをかましているのにツッコミが無い!というくらい許されない。

 「とりあえず」という言葉が許されるのは、その次、そのまた次、さらにその次という、向う3ステップの戦術やダンドリが即答できるのが条件。将棋の戦術みたいに、まず歩を突いて→相手の銀で取らせて→その頭に香車をぶつけて→銀が逃げたら香車を敵陣に成りこんで、、、というダンドリがあってこそです。そこまで絵が描けている人だけにのみ「とりあえず」を使う資格がある、と。

 あるいは「とりあえず」=「情報収集・偵察・斥候行為」です。
 何もかもが分からない、ある程度はわかるけど「本当のところ」が分からない、だから「とりあえず」何でもいいからやってみて、「どんなもんか」ということを知る。そういった得難い現場情報をゲットする、戦争でいえば「斥候・偵察」行動のような意味があるなら分かります。

 例えば、海外で住まいを決めるにしても、現地も知らず、生活実感も分からず、どういうライフスタイルになるかも分からず、決められるはずがないという認識から、「とりあえず」が出てきます。とりあえず、適当に良さげなところにバクチ的に住んでみる。そしてその段階でやるべきことは「情報収集」であり「偵察」であり「学習」です。

 住んでみたら「なるほど!」と分かる。「なるほど」の内容は人によるでしょうが、「安いだけのことはあるな」「でもしばらく住んでたら気にならなくなるな」「意外と地図で見るほど遠くもないな」「しかし洗濯が不便だ」「陽射しはやっぱり必要だ」「別にこんなもん要らんな」とか、いろいろ分かる。その上でヴァージョンアップを重ねる。

 いずれにせよ「とりあえず」というのは、その判断・行動では「ダメなのは百も承知で〜しかし敢えてやる」という意味であり、その「とりあえずステップ」で得たものを全体にして、「次に必ずヴァージョンアップする」という見通しとワンセットになっていなければ意味がない。

 そこを「とりあえず」=暫定=で決めたにもかかわらず、何となくまた動くのが面倒になったり、問題意識が摩耗したり、現状に悪慣れしたらダメでしょう。これはみすみすヴァージョンダウンしてるのと同じことですから、場合によっては致命的。

 「とりあえずといったら死刑」といいましたが、「とりあえず」とフットワーク軽くとにかく動くこと、実行することは、死刑どころが叙勲してもいいくらいイイコトです。問題は、「とりあえず」と言いつつ、後で何もしないこと、あるいは何もする気がないにもかかわらず(つまり、いい加減に決めようとしているんだけど)、それを誤魔化すために「とりあえず」と言う「乱用」ケースです。言うならば、「とりあえずの食い逃げ」みたいなものです。だから、これは死刑ね(^_^)。

 ちょっと話題が離れますが、政治とか、世間のトラブルなんかではこの「とりあえずの食い逃げ」が多いです。自衛隊と憲法9条だって、消費税の増税だって、沖縄の米軍基地だって、あまりにも難しい問題なので、「とりあえず」現時点での適当な落し所を決めておいて、一旦決まったらもう既成事実化して、動かなくなり、そのうち問題意識も風化するのを待つという。

 立法技術でよくあるのですが、議論のあるところでは、往々にして「3年後に見直す」という「見直し条項」がついてたりするのですよ。「とりあえず動かしてみましょう」、そして「やってみた結果、良くないところがあるとか問題があるとかそういった実際のデーターを収集し、それを踏まえてより深い議論を行い、○年後に正式に決定しましょう」という。そのこと自体は間違ってないのですが、実際に○年後になってしまえば、もうそんな議論は風化してたり、マスコミも騒がなかったり、忘れたりして、しれっといってしまうという。

 日本社会で問題解決やトラブルシューティングをやろうというなら、まず「現状絶対有利」「既成事実になったらその時点で事実上終わり」という日本社会の特殊性をくれぐれも念頭に置かれるといいです。幾ら契約書に書こうか、いくら法律で明記しようが、いくら明文に反していようが、現実がそういうカタチになっていたら、それを後でひっくり返すのはメチャクチャ難しい。これは余談ですけど。

初期設定のミスが一生祟ること

 さて、なんでここまで強調するかというと、「とりあえず」には、大事な初期設定をいい加減に済ませてしまうリスクがあり、初期設定のミスは一生レベルで祟りをなすからです。

 初期設定の間違いは全てに及びます。
 もう何ら何まで全てに悪影響を及ぼすから、頑張っても努力に見合った成果が出ない、嫌気がさして腐る、健康も悪くなる、意欲が無くなる、頑張らない、何とかしなきゃと思うけど、気分的に追い込まれているから、さらに最悪な手=「とりあえずパート2」を選んでしまう。そしてさらに状況は悪化する、、、デフレスパイラルみたいになる。全生活、全人生を浸蝕しはじめる。要するに「とりあえず」には、良くて麻酔作用のモルヒネ投与、悪くて「ガン細胞」みたいなリスクがある。

 初期設定のミスは、時間がたっても絶対に自然治癒しないというイヤらしい特性があります。
 それは姿勢が悪くて背骨がズレているように、年月が経っても治癒しない。むしろどんどん見えない形で悪くなる。背骨がズレても若い間はパワーで誤魔化せるけど、だんだん無理がきかなくなってくると肩凝りや腰痛を発生させ、それが慢性化すると今度は胃腸がやられ、血行障害を招く。ますますかったるくなるから運動しなくなるし、バランスの良い食事もしなくなる。

 一番最初に掛け違えたボタンは、時間がたったからといって自然と解消することはないのだ。

 その一方、人間という生き物は、どんなことでも毎日やってりゃ適当に慣れます。人間の「習慣」という麻酔効果は凄まじいです。大抵のことは慣れる。戦場での人殺しですら、毎日やってりゃ慣れてしまうっていうくらいですから。

 だから「とりあえず」の次は、この麻酔効果(慣れ)との戦いでしょう。
 本当にこれが最高なのか?こんなことするために生きているのか?もっと素晴らしくなれないか?です。そこで大逆転をするために「とりあえず」でやってる筈だったんだけど、でも麻酔が効きすぎると悪落ちつきしてしまう。

 でもって、「分相応」「足るを知る」とかそのあたりのレトリックを使う。全然「知って」ないって。「足る」かどうかを単に考えなくなるだけでしょう。だからその環境が何かの事情でひっくり返ったら途方に暮れる。基本ラインや全体構造を忘れてしまってるから、何をどうしたらいいのかチャート(海図)がなくなり、迷子になる。

具体例

 抽象的にいっていても分かりにくいのでいくつか具体例を述べます。もうそろそろ紙幅も尽きてきたので次回に廻してもいいのだけど、簡単に。

 僕が仕事で最初のシェア探しのサポートをムキになってやってるのは、もうこの初期設定の重要さに尽きます。最低10件は見るというのも、そのくらい見ないと選球眼が養われないのが一点。二点目は、それだけ見たら探すこと自体がそれほど苦痛ではなくなります。そこが苦痛だと「早く楽になりたい」「カタチにしたい」という無意味有害な形式主義、「"とりあえず"という名の逃避」に走り、最初から負け癖をつけるリスクがある。第三に、数をこなすと信じられないくらいのバリエーションがあるのが分かるし、数を撃てば本当に良いところが出てくるという意味もわかってきます。第四に、単に「安くて、近くて、キレイで」という一般的でクソみたいな選択規準ではなく、何のためにオーストラリアまできたの?その目的のためにはどういう生活環境を構築すべきなのか?という本質に至ることが出来ます。

 やれば絶対誰でもその核心まで到達できるとは言いませんけど、やらないよりはやった方が遙かに良い。少なくとも、楽になりたい一心で適当なところで妥協して、それで「なんだかな」に陥って、でもどうしたらいいのか分からないスパイラルに陥るのよりはよっぽどいい。

 この原理は何でも同じ。「シェア」を「就職」「進路」「恋人」「ライフスタイル」に変えても通用します。

 早くカタチにしなきゃという強迫観念や、楽になりたい一心で適当に妥協してカタチにする。そこでの基本モチベーションが苦痛と不安だから、せっかく世界を見て回るチャンスも単なる「辛い記憶」にしかならない。学ばない。で、適当だろうが妥協だろうが、極端な話失敗だろうが、一回決めたら動きたくなくなる。なぜなら探すという初期設定をこなしてないから、再設定というヴァージョンアップも単なる苦痛過程でしかないからです。だからやりたくない。やったところで、また適当なところで決める。全然積み上がっていかない。

 これらは初期設定をやってないとか、やり方が間違ってるような場合です。

 次に、初期設定が合ってる場合とズレてる場合との落差ですけど、これが強烈なんですよね。
 だって環境って大事ですもん。大きいのが人的環境です。「類は友を呼ぶ」というけど、よい設定が出来ていたら=自分がより良くなれるような環境になっていたら、普通に暮しているだけで楽しいし、刺激を受けるし、モチベーションも出てきます。ハッキリ言って、ネットで100時間サーフィンしてるよりも、刺激的な人と3分間サシで話す方が人生変わりますもん。「そっかあ!」という鮮やかな衝撃がある。これ、分る人には分かると思います。

 僕自身の経験で言えば、大学で司法試験やり始めた3回生の頃、朝9時から夜9時まで12時間図書館に籠もってひたすら勉強やって(勿論自宅でもやって)、それを1年やりつづけて、結構自分で浸ってたんですよね。「俺ってやってる〜」みたいに。ところがキャンパス内にある法職過程という「虎の穴」な研究室に入室が許可され、中に入った瞬間、ガーン!と叩きのめされました。もう全然!オーラが違う、気魄が違う。今まで俺のやってたのは単なる「勉強ごっこ」だというのが、問答無用でわかった。もう10秒、といわず3秒で、いや1秒で分かった。

 その後、その環境になれた頃、今度は別の大学の別のところを見せてもらう機会があったのですが、そこでもバシーン!とやられた。もっと凄い奴らがいる、鬼だ、それもこんなに大量に、もう鬼だらけ、、、と世間の広さを知って、また打ちのめされました。いい経験です。多分あのまま図書館にいたら、今でも合格してなかったことは確実ですね。これ、ギターでも柔道でも何でもそうでした。「凄い人」を目のあたりにしたら、一瞬で分かる。「ギターが上手いというのはこういうことだったのか!」と目からウロコがドバドバ落ちる。

 逆にダメ環境だったら、ダメが感染するのですよね。大体、自分で「ダメ」「なんだかな」と思うような状況というのは、自分の発想や行動パターンが「そんなことしてるからダメなんだよ」という事をやってるからだったりします。しかし、周囲の人間も同じようなパターンだったら、「いいよね、別にこれで」と、つけてはいけない自信をつけたりする。あるいはもっとダメダメな人を見ても、そのダメダメ方法論が「もっと上手い方法論」に見えたりもするのですよ。で、スパイラルを描いて落ちていく。

 だいたい周囲の環境が良くないと思えるときは、その環境を呼び込んででるのは自分自身だったりします。というか、同じ環境でもその解釈、利用法、賞味の仕方の違いがあるのであって、出来る奴はどんな環境でも何事かを学ぶし、その自然に学ぼうとするポジティブな姿勢が周囲のポジティブな人を呼ぶし、またポジティブな雰囲気に変えるし、物事を勝手に好転させていく。このあたりは細かく論じれば一本分くらいテクニカルに言えますが、ここではこの程度に。

 あとは生活環境とか身体環境とかもそうです。健康とか癒やしとか、毎日ちゃんと美しいものを見ているのかとか、見えるような状況を設定しているのか、ちゃんと鑑賞できる心の余裕があるのか、ちゃんと美味しいもの食べているのか、食べるべく努力してるか、ちゃんと寝てるか、ちゃんと寝れる環境を構築してるか、ちゃんと感動してるか、ちゃんと馬鹿やってちゃんと笑ってるか、、、このあたりの初期設定です。

 このチューニングは凄い大事で、まずベーシックなレベルで大事。人間個体がすくすく成長するか、腐ってダメになるかの別れ道でしょう。次に、前半に述べた「こうなりたい」という「幸福」に向かってのステップストーンが、ちゃんと配置されているかどうか。

 同じような仕事、同じような日々でも、やればやるほど消耗して擦り切れるのか、なにごとか良いものが積み上がっていくのか。時が経てばたつほど有利になるセッティングを最初にしているかどうか。例えば、お金というのは使えば使うだけ減りますが、技術というのは使えば使うほど増えます。時の経過とともにどんどん良くなるように最初にセッティングが出来ているかどうか。


 あれこれ書いてますけど、でも、そんなことは誰でも知ってると思うのですよ。

 でも、知ってるのと、実際にそれを実現できているのとでは違う。上に述べたようなこと、つまり自分の幸福や価値観のプライオリティが見えていること、見えないなら考え、体験して膨らませていくこと。そしてそれに応じてどーでもいいことと、どうでも良くないことに分けること。そして何かを決めるにしても、その後に響くようなことは、初期設定としてちゃんとチューニングすること。カタチにならない恐怖に負けて、「とりあえず」で適当に決めて、あとは面倒臭くなってほったらかしにしないこと、でしょう。

 なんかこうして勘定していくと、やるべきことは山ほどあります。僕も全然出来てない。でも山ほどやるべきことがあるということは、自分がもっと良くなる可能性が山ほどあるということで、こうしちゃいられないぜ!ってことでもあります。



文責:田村



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