1. Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の1枚(2013/01/14)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 602:中(厨)坊症候群〜正当化理由の嘘

 「迷惑かけてない」という自由論、「人は人」という価値相対主義
 写真は、先日の猛暑(8日木曜日に42.3度)になったときの夜のスーパーの風景。

 「猛暑のために冷蔵庫が壊れたので衛生のために廃棄処分にしました」となってます。
 その日、食べに行ったレストランでも冷蔵庫(の一部)がダメになって、クーラーボックスで飲み物を冷やしてました。

 


厨坊症候群とはなにか

 知らない人のために一応書いておくと、「厨坊(房)」というのは「中坊(中学生への軽い蔑称)」を意味するスラングで、ネット世界でよく使われます。

 なんで「中学生」なのか?というと、思春期に入って自我の置き所がなく、プライドは高いが基本的にアホだから、その言動が妙にひとりよがりで、滑稽で、「おいおい」とたしなめたくなるような感じを意味します。10年ほど前に「中二病」って言葉が一瞬流行って、その前にはさくらももこさん(ちびまる子ちゃんの作者)のエッセイ(の方がマンガよりも面白かったりして)にも「馬鹿な中学男子」とクソミソに、しかし正確に、描写されていました。

 最近でも「中学生的メンタリティ」というのは、例えば右翼的な言動などで評されたりもしますよね。
 いわゆるポピュリズムの幼稚性ってやつで、このエッセイでも過去にEssay 588: 錯覚マッチョEssay 166/タカ派意見への傾向と対策でもチラと触れました。複雑な国際外交を単なる番長マンガのノリで「一発バシッとキメたらんかい!」で済ませようという感じですね。これって、中学童貞男子が、「けっ、お前なあ、女なんてもんはよお」って吹いているのと変わらないのですが、この中学レベルの精神年齢のまま中高年&老年男子になる人もいますね。いい年して、また同じようなことを言うわけですな。「ニートなんて連中は、まとめて自衛隊に叩き込んでビシバシ、、、」とか。いやあ、爽やかなまでにシンプルな世界観だわ。

 ほんでも、伝統的に「海外童貞」民族である日本は、残念ながら昔っからすぐ中二病になります。
 黒船がきたら彼我の戦力差も考えずにやたら攘夷と騒ぐし、日露戦争で僥倖的に勝てたらポーツマス条約を弱腰呼ばわりして焼き討ち事件を起こして、そのまま破滅に向かって一直線だし。今でも30年前の"JAPAN as NO.1"の大昔の栄光にしがみついていたり。戦後の占領軍のマッカーサーが「日本人は精神年齢13歳」と言ったとか言わないとか。13歳といえば、まさに中学二年であり、「当ってるじゃん」です。

 誤解のないように書いておくと、これは"童貞"(未経験)ゆえの特性であって日本人の本来の特性ではないです。誰だって未経験だったらアホになりがち。問題は経験してもまだアホかどうかですが、日本人の場合これは凄いと思う。あっという間にジゴロになる。だからこそ徳川家康は鎖国したんでしょう。国民に賢くなってもらったらヤバいから外部の情報を遮断した。今の中国もそうです。異様に嫉妬深いダンナが嫁さんを家に縛り付けておくような感じ。外の男と比べられたら困るのだ。それでも、日本人は、好奇心旺盛な少年がこっそりエロ本をのぞき見るように、長崎の出島という針の穴のような外部情報に注目し、蘭学という西欧語学・科学を学んだりした。思い起こせば、遣隋使、遣唐使、聖徳太子、空海、、、海外のものを徹底的に極めた人が日本の骨格を作ってきた。ジゴロレベルというのはそこですね。

 むしろ問題があるとしたら、童貞男子が適当にモテるにようなってからです。なんとなく世界が分かったような気になって「つけあがる」という悪い癖がある。上り坂には強いが、尾根道には弱い。モテるなんてのは、男女の深遠な修羅道からしたら入門編ですらないにもかかわらず、それで全てが分かった気になって学ぶのを止める。そして転落が始まる。異性に対し、あるいは異文化に対し、勝った/負けたではなく、上か下かでもない、謙虚に異なる価値観を学ぶということをしないから、「勝った」と思ったらそこで終る。モテりゃいいんだ、勝てばいいと思ってるという意味で、そこが中二病なんだと思います。謙虚さこそ日本人の精神特性の最大の美点の一つなのに、妙にモテると舞い上がって忘れてしまうという。

命長ければ恥多し

 で、厨坊症候群ですが、例えば、やたら世の中ナナメに見れば良いと思ってる、ポジティブな見方よりも、ネガティブなものの見方の方が「正しい」と思ったりするなどが典型例です。

 この世の中の良きもの/素晴らしい事柄を、そのど真ん中で味わえばいいものを、わざわざ辺境のボーダーまで歩いていって「ここが限界だ」「ここから先はもう無い」と言って一人真理を見つけたかのような顔をする。口癖は「しょせん」「どうせ」。「しょせん教師だってサラリーマンなんだから」「どうせ友達とか親だって、結局は他人なんだよ」という。クラスの皆で体育祭や文化祭で盛り上がってキャーキャーやってればいいのに、「あんなの所詮は現実逃避だよな」「青春ごっこしてればいいのさ」とうそぶく。学校や社会はしょせんはエリート/奴隷の選別システムであり、僕らは皆ベルトコンベアに乗せられている哀れなブロイラーであり、それに気づかない「クラスの馬鹿ども」とはやってらんないよな、とか言う。

 あー、はずかし。顔からブッシュファイアーですわね。
 他人事のように書いてますが、いや、なに、程度の差はあれ、誰でも多少はそういう部分があったとは思いますよ。僕も中学時分はそうだったし、今でもそうかも?と密かにドキドキしてたりしてます(^_^)。あなたはそんなことないですか?

 ずっと昔、このエッセイの前身のシドニー雑記帳の「カッコいい」にも書いた記憶がありますが(十数年前だが)、大体こんな雑文書いて一般公開しているということ自体が、途方もなくカッコ悪いわけで、「恥ずかしさのあまり、ふとHPのコンテンツを全部削除したくなる衝動にかられる」と書きましたが、今もそうです。自分の一番辛辣な批判者というのは、他ならぬ自分自身ですからねえ。時々、「け、くっだらねえもん書きやがって」って氷のように冷たく思えてしまう瞬間はあります。

 しかし、これもまた当時に書いたように、カッコ悪いのを百も承知、「命長ければ恥多し」で背負っていくしかないと思っているのも同じです。生きること=恥を晒すことであり、何をどうやっても本質的にカッコ悪いのだ、だからいいのだと開き直れという。それに恥をかかないようにと妙にイジイジやってるのは、もっともっとカッコ悪いですもんねえ。神の視点からすれば、僕らは死ぬまで厨坊的にカッコ悪いんでしょう。しゃーないよね、引き受けるしかないよね。

隠謀史観とプロの生活人の厚み

 さて、厨房メンタルですが、これは大人になっても残る人には強く残ります。

 典型的なのは、、、そうですね、なにかにつけて「絶対、裏がある」とばかり言う人。コンスピラシー・セオリー(隠謀史観)という英語があるくらいだから、日本だけではなく世界共通ですが、やれユダヤ資本が全てを握っているとか、アメリカとソ連(今は中国か)は一見険悪だけど実は出来レースとか。書店によく平積みされてたりしますよね。僕は「厨二本」と密かに呼んでますが。

 「大人」の皆さんにはイチイチ言うまでもないけど、この世の全てが一握りの人々の隠謀で動いているわけではない。そんなことあるはずがない。そりゃ影響力のあるグループは世界で幾つもあるし、「世界は私達が支配している」とチョーシこいてる幸せな人々もいるでしょう。しかし、それは「そういうものの見方に立てば」に過ぎないです。「現実=物語」というのは最近よく書いてますが、この場合も同じです。そういう物語にどっぷりハマればそう見えるだけです。でも、世の中の物語はそれだけではない。70億以上の物語があるのだ。

 『どんな大理論も、どんな先鋭な政治システムも、凡庸な一人の人間の「生活の厚み」ほどの内実はない』というのは僕の好きな言葉ですが(出典は高橋和巳の作品、「憂鬱なる党派」だったかな)、人間一人の生活の幅というのはそれほど広く、重いのだと思います。どんなに平凡な、ほとんど社会のみそっかすのような立場にある人でさえそうです。

 それは物語の視点が違うからだと思います。一個の人生からすれば、大地震があって帝都が崩壊しようとも、戦争があろうとも、空襲で家が全焼しようとも、国の秩序が180度変わろうとも、「いろいろあった」に過ぎない。そこでは、「最近、物価が高くてやんなっちゃうよ」という生活感覚に全てが消化され、物資統制令で配給制になろうが、オイルショックでトイレットペーパーの買い占めに走ろうが、「やんなっちゃうよ」という感覚に溶け込んでしまうのだ。何が起きようが、「なにかとイロイロ大変だけど、まあ、がんばろう」に総括されてしまう。

 それがイチ庶民、それが「プロの生活人」のしたたかさと逞しさであり、その犀の皮膚のように分厚く鈍重な生活感覚バリアの前では、全ての大理論も、どんな政争・戦争も、ただのお天気と同じ外部環境でしかない。だから、一部のインテリさんの高踏的な議論も馬耳東風だし、憂国の志士の血を吐く叫びも届かない。「そんなことより」と思う。「今晩のおかずはどうしようかな」と。それは愚昧といえば愚昧だし、賢いといえば賢いが、そんな賢愚の尺度すら関係ない。そこにあるのは「存在してしまうものは、どうしようもなく存在してしまうのだ」という、物語性すら歯が立たない存在論的な圧倒的な確かさでしょう。

 これは海外に来た人も同じで、360度何もかもが全く異なる環境で超激変!なのにも関わらず、「物価が高くてやんなっちゃうよ」って良く言いますもんね。お前、せっかく海外に来ていながら、物価以外になんか感じることがあるだろうが!って普通思うんだけど、だから、それが「生活」というものの強靱さなんでしょう。

 僕も未だに修行の甘いガキだからよく分からない部分もあるけど、たぶん、人間年を取っていろいろ体験してくるとそうなっていくのでしょう。そして、この「やんなっちゃうよ」が分かるようになると、演歌やブルースの本当の良さがわかったり、酒の本当の味がわかったりするようになるのかもしれません。

 そういう感覚で考えれば、隠謀?なにそれ?です。確かに誰もがそれぞれの絵を描きます。企画もするし、野望もある。だからこそ一人の企画が無人の野を行くようにスパッと通ることはない。必ずライバルがいて、必ず足を引っ張る奴がいる。一部の強力なグループがあったとしても、それが強力であればあるほど必ず内部紛争はあるし、派閥はある。それが人間ってもんでしょう。だいたい「支配」って何なの?です。一部のシステムは支配できるかもしれないけど、一個の人間を支配するのは大変ですよ〜。今からは想像もできない強大な権力を握っていた昔の覇王達でも、やれカミさんが悪妻で頭を悩ましていたり、子供が言うこときかなかったり、腹心の部下に裏切られて「ブルータス、お前もか」といって事切れてみたり。結局、彼は誰を支配したというのか?

 猫好きなあなたなら分かるでしょうが、僕らは猫を飼っていると思っているが、猫は必ずしも飼われているとは思ってないようです。むしろ人間を召使いくらいに思ってて、「まあ、居てやるか」くらいに寝泊まりして、メシを食っているに過ぎない。だから上げた餌が気に食わないと、「今日のは口にあわぬ」とばかりに前足をクイクイと動かしてダメサインを出し、とっとと外に出て行ってしまう。「まったく使えぬ奴らばかりでたまらんわ」と、王の憂愁を猫の額に漂わせて。

 こんなの見方次第、物語次第なのだ。ゴキブリからすれば地球の支配者は自分達だと思ってるだろうし、腐敗を担当する微生物にすれば自分らが居なければ生物界は廻らないと思うかもしれない。酸素を作る光合成を担当する植物は、自分らこそが、と思うかもしれない。世界の金相場やダイヤモンド相場は一部で決まると言われているが、それもただそれだけの話です。だから自分らこそが世界を支配していると思うのは勝手だけど、自分の家族すらろくすっぽ掌握できないであろう奴に何を言われてもね、って。

 政財官界のお偉方は僕ら国民を支配していると思っているのかもしれないけど、まあ確かに「影響」は受けるし、その影響も「迷惑」と呼んだ方がいい場合が多いけど、でもその程度です。愚昧なる大衆を選ばれた賢人が導くのだ〜って思ってもらうのは「ご自由に」ですけど、それってどことなく厨坊的な滑稽感が漂うんですよね。「はいはい」「わかった、わかった」って感じ。そんなことより今夜のおかずですわ。

 これも誤解して欲しくないのですが、だからといって天下国家や社会正義を論じるのは不毛だとかクサしているわけではないですよ。天下国家、大いに論ずるべし!社会正義に関心を持つのは、社会人として最低限の義務だとも思います。大いにやるべし。確かに生活感は圧倒的なんだけど、圧倒的な麻酔薬でもあるのですね。生活にかまけていれば大抵のことはシカト出来る。その無痛覚が、時代の激変への格好の抵抗力や麻酔薬になる反面、とんでもない間違いや、とてつもなく可哀想なことに気づかないことにもなります。車でバックするときに、小さな幼児を後輪で轢き殺しているんだけど、それに気づかない、、みたいな、あとでそれを知って死ぬほど心が痛むという悲劇を生む。

 だから大いに関心を持つべし、論ずべし、なんだけど、それをやるときに、片足は常に大地につけて「アース」しておかないと不毛な観念論や感情論、いわゆる「空中戦」になってしまう。そうなると結局空回りですから。このバランスが難しいということですね。ま、わかると思いますけど。


 さて、数ある厨房症候群のなかから、もっともよく使われつつ、同時に正しい時代精神でもありながら、しかしものすごく難しい概念である価値相対主義について書きます。
 

価値相対主義 〜 ありがちな中坊屁理屈

 価値相対主義というのは、この世に絶対的な価値観は「無い」という考え方です。
 「ある」という考え方を価値絶対主義といいますが、これは昔からよくあります。問答無用に天皇が一番エラいとか、すべては神様の思し召しとか、愛こそが全てとか、勤労の美徳やら、「人並み/普通」がベストであるという、この世界を貫く揺るぎない価値体系があって、全てはそれに沿って序列が決まるという考え方です。

 価値相対主義はそれを否定し、何が一番大事かなんか人それぞれだし、その人の価値観で決めればいいのだと。近代の自由主義は価値相対主義をベースにしています。ここで難しい法哲学や憲法論があり、ちょっと書いたのですが、無駄に難しくなりすぎるから割愛します。ここでは、「人は人」「それぞれ勝手に自由にやればいいじゃん」って発想が価値相対主義のベースにあるということです。

 これは分かりやすいし、耳になじみやすいでしょう。
 誰もが自分が正しいと思うことをやる自由がある。他人から、あれしろ、これしろと強制されるいわれない。あなたはあなたで自由に生きろ、僕は僕で自由にやらせてもらうぜ、という。わかりやすいよね。いいよね。

 ただし一つ制約があるとしたら、好きにやるのはいいんだけど、他人に迷惑をかけるな、という点です。自由とは「他を害しない全ての自由」をいうのだという、啓蒙時代の有名なフレーズがありますが、これもわかりますよね。他人を踏みにじる権利は誰にもない。他人を不仕合わせにする権利もない。好きなことをやってもいいけど、それは自ずと他人を侵害しない限度での話であり、他人に迷惑をかけなければ何をやってもいいんだと。

 これが思春期の中坊君にはとても爽快に、正しく、魅力的に響くんですよね。
 なんせ自我が芽生えて自立したい年頃ですからね。でも、親だの教師だのにあれはダメ、これはダメって言われまくる日々の生活ですから、自然と鬱屈してくる。だから「だー!」となって反撥したり、その代償行為として激しいロックを聴いたり、バイクで突っ走ったりする。ありがちな。

誰にも迷惑かけてないもん!の嘘

 で、出てくるのは、「私の勝手でしょ!」「誰にも迷惑かけてないもん!」という常套文句です。
 期せずして、近代人権論の初歩である自由論が出てきて、価値相対主義宣言!が行われるわけです。髪型がどうであろうが、服装がどうであろうが、誰とつきあおうが、そんなの私の価値観だ、誰にも迷惑かけてないからいいじゃん、好きにさせてよ!という。

 でも、これ、中坊論理ですわ。屁理屈ですわ。

 まずは、同じレベルに立って、同じ屁理屈で論破しましょう。

 まず、「迷惑かけてないもん」っていうけど、「迷惑」なんだわ。すげー迷惑。
 第一に、存在それ自体が迷惑なんだわ。人が一人そこに生きてるだけで、空間を無駄に遣うし、酸素は無駄に消費するし、口から二酸化炭素を出して温暖化を進行させるし、生き物(動植物)殺して食って生きながらえているわけで、存在するだけで周囲に大きなマイナスを与えている。いわば原罪的な迷惑。

 ここで「そんなの誰でも一緒じゃないか」って言うかもしれないけど、「皆と一緒だったら良い」というのは、徹底的に個を重視する価値の自由性や相対主義に本質的に矛盾する。「皆と同じ」がなにかの免罪符になるなら、皆がガマンしてるんだったらお前もガマンしろという理屈が成り立つ。それに反撥して個の独自性を主張しているんだから、その過程で「皆」を持ってくるのは反則だろ。

 第二に社会的に迷惑。働きもせずになんで生きていけるのか、衣食住は誰が面倒見てるのかといえば、多くの場合は親、ないし保護者、ないし国家などの施設であり、それも遡れば税金や募金という第三者。つまり他人の金を無駄に遣ってのうのうと生きているわけで、いるだけで迷惑なんだわね。この金食い虫が。

 第三に感情的、風景的に迷惑。自分でも何にも出来ないくせに、いっちょまえに理屈ぶっこいて得意になってるクソガキがいる。どれだけ人類社会に貢献するいい仕事をしてるかといえば何もしてない。口を開けば他人の感情を逆撫でするようなことばっか言う。こんな奴(=なんらプラス貢献をせずマイナスばかり生産する)は人間的な価値論でいえばゴミ同然の最低ランクで、そんな腐ったゴミを目の前に突きつけられれば誰だって不愉快だし、それが迷惑。

 第四に、じゃあ私なんか無価値なんだ死んだ方がいいんだっていうアホがいるが、それも迷惑。自己憐憫たらたらの感傷的な態度が不愉快。それで本当に自殺したら、もっと迷惑。どんな死に方にせよ、家の中で死ねば不動産価値が激減するので数百万円の損害を他人をかける。屋外で死ねば、誰が千切れた肉片の後片付けすると思ってるんだ?その清掃費用も馬鹿にならないし、もちろんそのための迷惑料を先に預金しておく資力も、気配りもない。これ以上の迷惑はない。

 第五にこれだけの明白な迷惑事実がありながらも、全く気づかず「迷惑かけてないもん!」と言い切る知能の低劣さが迷惑。「そこに馬鹿がいる」というだけで、そこにゴキブリがいるというのと似たような不快感を与える。迷惑じゃ。

 こんなの幾らでも言えます。昔の自分を論破しようと思ったらなんぼでも言える。
 しかし、これらの反論も全部屁理屈です。屁理屈いうから屁理屈で返しているだけの話です。

 だから、そんなこたぁどーでもいいのだ。一番大事なことがまるっぽ抜け落ちている。物事の捉え方がまったくもってスカタンで、話にならん!というレベルです。つまり迷惑をかけていない=○、迷惑をかけている=×という図式がアホアホであって、そんなフォーマットで何を論じても不毛です。

フランス人権宣言の自由論

 もう少し順を追って説明すれば、まず「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある」という有名なフレーズは、フランス人権宣言第四条です。

 しかし、これは、自由を謳い上げた一節というよりは、むしろ自由には制約があることを述べたものです。冒頭のこのフレーズの直後に「したがって」と以下の文章が続きます。「したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない」と。

 自由論というのは、第一段階においては王権、神権という絶対的な圧制者に対する抵抗の論理として語られます。しかし、それが語られるときというのは語っただけではラチが開かない。そんなことを言っても圧制者である王族貴族が耳を傾ける筈もない。むしろ言った瞬間に火あぶりにされる。第一段階の自由というのは、自分の生命と引替えに語るものであり、そのくらいの根性がいる。そして語ったところで何も解決せず、そこでは血と暴力という実力行使で話が進む。

 自由論の第二段階は、革命が成功してからの話です。そこでは、先人の偉業を称え、原点を確認するという意味で「他を害しない全ての自由」という理念論、原則論が高らかに唱えられるが、そんなものはマクラであって、本題は自由の制限・調整にある。

 実際問題、普通に生きていたら「他を害しない」なんてことはありえない。日本列島に3人しか住んでないんだったら、他を害しないこともありえようが、1億人も住んでたらどうしても他人とぶつかる。Aの自由とBの自由が衝突するのがむしろ常態。それに日本に3人みたいな完全自由の環境だったら、そもそも「自由とは」なんてことを考える必要もない。したがって、基本的に自由な社会における自由論とは、いかに合理的に自由を調整するか論です。

 もっかい整理すれば、「自由だあ」と唱えて物事が成就するなんてことは、かつて人類史上一度もなかったし、未来永劫無いでしょう。真に圧政からの自由を唱えるときは、唱えただけでは意味がなく、そこで求められるのはむき出しの「民衆の力」です。次にまがりなりも自由が認められるようになってからは、自由と叫んだだけでも何の解決にもならず、求められるのは調整技術であり、話し合いです。

 さきの「迷惑論」は、この自由の調整論というフレームでなされます。そこでは、実質が緻密に検討され、議論されなくてはならない。「誰にも迷惑かけてないもん」といったところで、それは一方当事者の主張に過ぎず、「迷惑なんだよ」という同じ(低)レベルの反論がきたら、あとは不毛な水掛論になるだけです。

 より大きなフレームで物事を捉え直さなければ解決しない。

コンビニ・ロケットのミスマッチ

 根本的なことをいえば、やれ髪型がどーのとかいうドメスティックな話に、フランス人権宣言の大仰な自由論や価値相対論を持ってくるというのが、そもそものミスマッチです。それは近所のコンビニに買出しにいくのにロケットでいくとか、タバコに火を付けるために原発を稼働するようなもので、大袈裟すぎ。

 自由論は、人類社会の根本ドグマをどうするかというギリギリの修羅場で語られるものであり、そんな生きるか死ぬかの大原理だけで全てを解決しようというのが間違い。平和な世の中においては、生きるにしてもどうやって生きるのか論、そのために何をどう整備するか論、その費用をどう徴収するか論、稼働や規則をどうするか論、、、と何十ステップも細かな現実的なダンドリが必要になります。その過程で、生きるか死ぬか以外の多くの要素が入ってくる。

 ここに絶対的な飢餓状況にある人々がいて、乏しい食糧をめぐって殺し合いをしている。しかし、このままいけば全員共倒れじゃないか、馬鹿馬鹿しいじゃないかということで、力を合わせて食糧を集め、平等に分配しようという話になる。大原理というのはそのくらいのレベルでしょう。そして、狩猟と農業が行われ、能力に応じた人員配置がなされ、作付けの研究が進み、冬に備える保存食も開発され、年をとって働けなくなっても養う方法が考え出され、次の世代にやり方を教え育てるシステムが作られ、だんだん余裕が出てくると農作業が終ったときは祭りをやって息抜きをしたいとかいう遊びの要素、楽しい要素を織り込むようになる。

 豊かになるにつれ、生死以外の価値がいろいろ出てくる。最初は生存のためのカロリーが絶対的だけど、だんだんどうせなら美味しい方がいいよねという「美味」という価値が出て、いつも同じ物ばっかりだったら飽きるという「楽しさ」「好奇心」という価値も出てくる。しまいにはダイエットという、初期のカロリー目的からすれば真逆な価値すら出てくる。

 それぞれのステージに応じたそれぞれの議論のフレームがある。
 それを無視して、いきなり先祖返りして「自由だあ!」という荒っぽい原石のような原理を持ち出しても場違いです。それは確かに原点確認という意味はあるけど、それだけです。確かに荒っぽい大原理で全てを一刀両断するのは気持ちいいけど、だったらより遡って「弱肉強食」という自然界の大原理を持ってくることも出来る。「気に食わねえ奴あ、ブッ殺しゃいいんだ」という。それじゃダメだというのが原点でしょうが。そのために人類はこれまで、大原理の上に営々と努力を積み重ねてきているわけであって、大原理を持ち出すというのは、絨毯をひっぺがすように、これらの努力を一気にチャラにするわけで、人類への反逆といってもいい。それだけの罰当たりの荒技を、たかだか自分の卑小な欲望を押し通すために持ち出すのってどうなの?です。

「いかに迷惑をかけないか」ではなく、「いかに価値を創造するか」

 迷惑云々の話でいうなら、いいんだわ、迷惑をかけても。
 誰だって不可避的に他人に迷惑をかけているし、生きること=迷惑をかけることとも言える。だから迷惑をかける/かけない論で何を論じても無意味です。どっち転んでも絶対迷惑かけるんだから。大事なのは「迷惑のかけかた」であり、その「迷惑の質」です。優秀な迷惑は、既に迷惑ではない。大いなる喜びと幸福を他人に与える。

 赤ちゃんなんか迷惑の権化です。夜泣きはするわ、気分屋だわ、「せめて食費くらいは」って入れてくれる赤ちゃんなんか人類史上一人もいない。もう周囲に迷惑をかけるためだけに存在しているようなものです。迷惑という単一視点で言うならね。しかし、その迷惑こそが、親にとってはこの上もない幸福なのだ。自分が世話をしなければすぐに死んでしまう、このか弱く愛しい存在が、やれミルクが欲しい、オムツが濡れたといってギャースカ叫ぶたびに、「はいはい」といって世話をする。もちろん親だって人間だからうざったいときもあろうし、虐待しちゃうケースもあるだろうけど、大勢はそれを甘受する。甘受するんだ。「甘いものとして受け入れる」のだ。今、リアルタイムに地球上で数億規模で繰り返されているこの現象(迷惑=ダメ論と真逆な現象)が数限りなく繰り返されている事実をどう説明するのだ。

 つまり迷惑論だけでは何も説明できないし、解決しない。
 そんな視野が狭く、頭の悪い、単眼的パースペクティブを持ち出したところで、屁の突っ張りにもならない。だから屁理屈呼ばわりされるのだ。

 もっともっと豊かで、多様な価値がこの世には充ち満ちている。
 求められるのは、いかに「迷惑をかけないか」という消極的で逃げ腰な視点ではなく、いかに迷惑を上回る価値を産み出すか、でしょう。

 親(or 大人)にしてみれば、中坊の自由に関する大演説も価値相対主義宣言も、赤ん坊が夜泣きしているのと変わらない。「はいはい」てなもんですわ。それでいいのだ。ギャンギャン言え、反抗しろ。泣く子は育つというでしょう。なんでそんなにド迷惑かけられても許せるかといえば、それは自我の成長過程に出てくるものであり、やがては大きく成長してくれるという「大いなる価値」があるからです。

 僕には子供がいないので「多分そうだろう」と想像するしかないのだが、親にとって、自分の子供が正しく成長し、人間的に豊かになり、押しも押されもせず自分の人生に大輪の花を開かせ、いわゆる「立派に」なること以上の幸福というのは、多分、この世にないと思う。そうでない例外もあるだろうが、多くはそうでしょう。だからこそ、自分の子供の命を救うためなら、自分が犠牲になってもいいと自然に思えたりもする。およそありえないような自己犠牲がすんなり出来てしまうというのは、それだけ価値創造がいかに強力無比かということでもある。太陽を一個産み出すくらいの価値がある。

 子供は確かに迷惑のカタマリではあるが、同時に価値のカタマリでもある。存在それ自体が、ダイヤモンドなんか比較にならないくらい価値そのものなのだ。そのまばゆいばかりの価値の輝きが、多大なる迷惑をかすませるのだ。この力感あふれるダイナミズムこそが、生きることのダイナミズムであり、人間関係の醍醐味である。そういう大きなフレームワークを理解できないで、何が迷惑だ、価値相対だ、馬鹿も休み休み言えってもんでしょう。

 だからこそ激しくギャンギャン反抗してた子供達も、やがて逞しく成長し、自分の足だけで揺るぎなく立てる大人になるにつれ、反抗しなくなるし、優しくもなる。

 だからこれは迷惑論とか自由論の問題ではないのだ。そういう側面は確かに含むが、より本質的なことは、この価値ある自分(子供)、この掛け替えのない価値存在を、いかにしたらより高められるかという方法論であり、教育論であり、プロデュース論の路線闘争だといっていい。大人からすれば、広く世の中を見て、いかに「成長に失敗した大人」が多いかを知っている。その人生が、いかにミジメで、いかに怨嗟的で不毛かも知っている。どういう経路でそうなるかも知っている。だからこそ親は親でギャンギャン言う。あれしろ、これしろという。黙々とこなす訓練、そしてそれをなしうるストレス耐性こそが何事かを成就するための必須アミノ酸のように貴重なものだと知っている。一方で、子供は子供で、芽生えかけた自我を育てたいと思う。芽生えた自我はまさに自分の子供のようなものであり、それを守るためだったら命がけで刃向かう。そこで激しい激突が起き、世界中の家庭で似たような光景が延々繰り返されるわけです。

 客観的にいえば、親世代の言うことは経験論から出てくるので確実性に勝る反面、どうしてもタイムラグがあり、ナチュラルにアウトデイトしている。つまりはどっかしら古い。しかし、子供世代は絶対的な経験不足によって視野が狭く、飛躍だらけの話になる。どっちもアウトであり、いわば目くそ鼻くその争いなのでしょう。しかしそんな客観的な正しさなんかこの際どうでも良いのだ。大事なのは「ちゃんとぶつかってるか」でしょう。

 このぶつかる過程こそが最大に栄養分豊富であり、親はアップデートする機会を得られ、子供は至らなさをビシバシ指摘され、ともに成長する機会になる。また、激しく対立し、戦うことでしか相互理解を深めることが出来ないこともある。そういう人間関係の一局面も、世の中には普通にあるのだということを知ること。この認識は結婚したあと、思いっきり役に立つでしょうしね。

 だもんで、僕の私見でいえば、この種の対立をどうしたらいいでしょうか?と言われたら、バンバンいけ〜!です。もうガチにいけ、真正面からいけ、目え逸らすな、逃げんなです。実際、これをやらないと「成長し損なった大人」になってしまうリスクが高い。サナギになっても羽化しない、羽が生えてこない、サナギにすらなれないってこともある。

 もちろん喧嘩すればいいってもんじゃないですよ。別に仲良くやってたっていいんです。ただ、生きている限り、いやが応でも他者と関係してしまうのだ、そこから逃げることは不可能なのだ、だったら腹括って対峙しろ、自分をぶつけるしかないだろうってことです。

ヘタレの価値相対主義

 最後に、この中坊的な価値相対主義が、なんとなく世間にはびこり出しているような気がするのですね。その問題点を挙げておきます。

 何かというと、「他人とぶつかりたくない」という、良く言えば平和主義、悪く言えば事なかれ主義が、適正な限度をこえて広まって、結果として「他者と関係し、ぶつかり、高め合う」という人間関係のダイナミズムが損なわれているような気がするという。

 「人それぞれだから」というのが合言葉みたいで、一見それは風通しの良い、理解のある言葉にも聞こえます。もちろんその内容自体は正しいし、他者に対する適切な冷淡さ=「淡交」をもって尊しとなすのは、古来より都会人の一種の礼儀ですらある。それは分かる。

 「おや?」と思うのは、その動機ですね。なんでそんなこと言うの?というと、ときとしてヘタレの正当化として便利遣いされているキライがあると。他人とガチに対決するのが恐いというヒ弱なメンタルがそう言わしめている。友達同士、熱く、「お前、それは間違ってるぞ!」「なんでだよ!」とやりあうのが普通なんだけど、「ま、いろんな考え方がありますからね」で流そうとする。人間関係なんて自然と暑苦しいもんだし、迷惑かけあってなんぼなんだから、そういうことのあってこその日々の人生でしょうと思うのだけど、そういうのを避けたがる。

 かといって、「人は人」という達観した枯淡の境地に達してるかといえば、そんなことは全然ない。他人のあら探しは以前に比べて活発にやるし、他人の目を気にしてビクビクする度合いも高くなってるように感じる。その証拠に、やれ生活保護の受給がけしからんとか、○○してる奴はありえないとか、他人の箸の上げ下げにやたら文句をつける。おいおい「人は人」じゃなかったのかよ。それに移民を受け入れるとか、ワケ分からない外国人が沢山入ってくるのも嫌がる。人は人だったら、隣に誰が住んでようがいいじゃん。誰が何をしようが勝手なんだろ。

 要するに「人は人」という価値相対主義を達観しているわけでもなんでもない。異なる価値観を受け入れ、レスペクトし、学び、自分を豊かにしようというわけでもない。自己と同一の心地いい羊水のような環境でぬくぬくしていたいだけでしょ。ガチ対立するなんてことは恐くてしたくないし、やってないからどうすればいいのかも分からない。そして羊水世界をかき乱すような、自分の価値観と違うような生き方・振る舞い・言動をしている人を激しく非難し、排斥する。しかし面と向かっては言えない。匿名で後ろからワイワイ言うのは言うけど、言ったら反論されるかもしれないという白兵戦ではスルーしようとする。

 これってただのヘタレじゃん。そのヘタレぶりを優しく正当化してくれる守護神論理としての価値相対主義です。こんなことに「自由」を使われてしまったら、フランス革命の人々も草場の陰で泣いているでしょう。

 それの何が問題なんだよ、そんなの他人の勝手だろ、ほっとけ馬鹿野郎って言われるかもしれないけど、同レベルの屁理屈で水平に返せば「俺が何をほざこうが俺の勝手だろ」です。

 が、そんな低次元なレベルではないです。幾つか言うべき必要性があると思うからです。

 @、人間として不健康〜公衆衛生の視点
 一個の人間として他者に関心を持つのは極めて自然のことであり、他人と接触を試み、そこで自我を軽く接触させてみるのも当然でしょう。それが普通の人間、健康なありようだと思う。それを、他者と接触するのをやたら忌避するというのは、とりあえずメンタル的に不健康であり、且つ、そういう風潮が世を覆うならば、健康な人まで不健康になるという意味で、感染病に似ている。事柄は公衆衛生に関わる問題なので、おかしいんでねーのと思った人から、どんどん声をあげていくのは、問題の早期発見、早期解決につながるので意味がある。

 A、経済的視点〜ビンボーになっちゃうよという視点
 幾つかあるけど、一歩海外に出たら、そんなヘタレメンタルは通用しないです。言うべきことはちゃんと言う、正しい自己表現が出来るのは最低限の礼節でしょう。大体、世界の人はもっと”健康”だから、ナチュラルにもっと暑苦しい。どんどん近寄ってくるし、話しかけてくるし、人間関係のダイナミズムを構築し、解毒していく技術が上手。温かいけど暑苦しくないという距離感とか、全く相容れない立場どうしでやっていく「気にしない技術」とか。

 個人主義の本場の西欧では、基本「人は人」だけど、自己主張はするし、他人と真正面からガチでぶつかることを恐がらないし、恐がらないように教育されてきている。1万人の大会場の中でも「おかしい」と思えば平気で挙手して発言するし、 1万人を敵に廻しても言うべきことは言う。そのくらいの根性は普通にあるし、それが当たり前くらいに思ってる。

 時代背景としては、これからは宝の山は国外にあるので、どんどん出てってつかみ取ってこないとならない。そうなると、その種のタフなスタンダードに慣れてないと精神的にまいってしまい、経済的に成功しない。個人も国もビンボーになる。

 国内的にも、一致団結チームプレイで良いモノを作るというお家芸が衰退する。強いチームというのは、構成員の自我のぶつかり合いが「雨降って地固まる」効果でものをいう。強かった頃の日本人は、今よりももっと荒っぽく、机ぶっ叩いて激論していた。でもそれが結果的に良いモノを産んできたという経過もある。全てがそうだとは言わないけど、やたら対立を避けたり、あるいは反抗を恐れる余りに逆に管理抑圧的になったら、結果としてのクオリティは落ちる。「なあなあ」でモノ作りをしても画期的なものは出来ない。むしろソ連時代みたいな官僚製品になりがちでしょう。売れなくなる。結果、個人や国がビンボーになる。


 B、いじめられる
 この種のヘタレメンタルが、いじめられキャラにかぶってしまうと相乗効果になる。常にというわけではないだろうし、ヘタレだからこそ集団ないし匿名でいじめる側に廻る場合も多いかもしれない。しかし、匿名や集団の尻馬に乗るような人は、単体としての強さに欠けている場合が多い(だからこそ衆を恃むのだろうが)。

 「人は人」と一見もっともらしいことを言いながらも、その本質に「対立を恐がる」という弱さが透けて見えた場合、ピラニアのようないじめっ子を惹き付けるリスクがあります。もともと「正当化する」という作業は、「正当化しなければならないような引け目(弱点)がある」という「弱さの自白」でもある。浮気を誤魔化すために、その日に限ってやたら饒舌に説明して、それで逆に墓穴を掘ってるようなものです。

 思うにイジメにも二種類あるのでしょう。一つには資質的に他人を苦しめるのが好きという性格異常者です。いわゆる「ドS」なんてレベルではなく、赤ん坊のほっぺたを針で刺し、火がついたように泣き叫ぶ赤ちゃんを見てゲラゲラ笑うような、盲目の人の白い杖を奪って困らせて喜ぶようなサイテーの奴らで、これはもう性格異常だと思う。しかし、こういう連中はピラニアみたいなもので、暴力団なんかが特にそうだけど、人の弱味を見つけるのが動物的に上手い。そしてピラニアが血の臭いに群がるように、人の弱さに群がる。最近でいえば尼崎事件なんか多分これだと思う。

 彼らに対して、理屈で「人は人」などの正当化論理をふりかざしても、歯牙にもかけないし、むしろ小面憎く、こましゃくれている態度が加虐欲求を加速させる。「いじめて〜」と言ってるようなもんです。自分の中の中核的な「弱さ」が「いじめてフェロモン」を発散し吸引力をもたらしている。

 さきに述べた「迷惑かけてないからいいんだ」論は、くだらない屁理屈レトリック技術論でいっても愚策です。なぜなら「いや迷惑だ」という反論は、ヤクザの因縁と同じで無限に考えつくのだ。「不細工な顔が気に食わない」「いるだけウザい」「臭い」とか幾らでも言える。一方、迷惑をかけて「無い」という証明は、過去にも書いたけど「悪魔の証明」であり本質的に不可能。ゆえに口喧嘩をするにあたっては、「無い」側に立つのは絶対に避けなければならない。バンバン反論された挙句、「この迷惑をどうしてくれる?」「当然慰謝料だよな」「明日までに○万円もってこいよな」につながっていく。

 いずれにせよ、こういう精神異常者にかかわるのは蜂に刺されるとか犬に噛まれるような事故だから、可能な限り逃げるか、あるいは逆に「出るところに出る」という方法=警察や裁判沙汰にして出来るだけ事を荒立てるしかない。以前、右翼の街宣車に乗せて貰った少年が、「やっぱり辞めます」と言うと、実家の喫茶店を襲われ、テーブルとか椅子をひっくりかえして暴れられたという事件をやったことがありますが、その日のうちに証拠写真を撮って威力業務妨害罪で刑事告訴し、それ一発で後腐れ無くケリがつきました。こういう手合い相手に「穏便に解決」なんか出来るわけないし、穏やかに解決したいという心の弱さにつけこんでくる。だから間髪入れずに告訴。「手を出したらただでは済まない」「大騒ぎになる」というのを相手に叩き込むのが一番安全です。そこで、「人は人」みたいな温くて弱いスルー理論、くだらない正当化や理論武装は、弱さを相手に晒すだけなので、かえってリスクを高めます。やればやるほど弱さフェロモンがでて嵐を呼びます。でもって、こんな狂犬相手に仕返しとか考えなくてもいいです。ほっといても、大体最後は刑務所行きだから天罰システムに任せておけばいいです。どーせろくな死に方せんし。

 ただしこういう狂犬ケースは数でいえば少ないです。


 むしろもう一つのパターンが問題で、普通の人をムカつかせていじめっ子にしてしまうというパターンです。これは避けられるし、避けた方がいい。おそらくいじめている人々にはいじめているという意識は少なく、「正義の実現」くらいにしか思ってない部分もあり、且つそう思うのもむしろ自然であることです。

 ここで冒頭の厨的描写と結びついてめでたく完結するわけですが、拗ねて、ひねくれて、「クラスの馬鹿どもが」なんて思ってる奴が「正しい」か?その上から目線の圧倒的な落差はどこから来るの?何にでもできない、魅力にも乏しい、すぐに気弱げに目を逸らすような奴が、なぜか孤高に立って「馬鹿ども」を見下ろすという構図は、普通に考えたら「不正義」ですわ。で、そう思ってるというのはいくら押し殺しても、何となくオーラ的に伝わるんだわね。下から見上げる、その上目遣いの目の、白目と黒目の配合比率で、人間は実に的確に見抜く。

 そうなれば、周囲の人としても、その不正義を質したくなってしまって当然。寂しそうだからと心配して声をかけてくれる級友に「ほっといてよ!」と冷たくピシャッと手を振り払う行為は、人間として正しいのか?やってもらって「ありがとう」の一言も言わない態度はどうなの?そういうのは普通「礼儀知らずの馬鹿」でしかなく、本人が内心どう思ってようが客観的には弁解の余地なく馬鹿であり、だとしたら馬鹿罪に相当する罰を与えるのが正義ってもんだろうと。だからいじめるというよりは、普通に嫌われ、普通に排斥される。

 で、嫌われたら嫌われたで、「天才は理解されない」とか馬鹿のくせにまた思ってしまうという。それがオーラになり、フェロモンになりまたジワジワと発散するから、第二第三の襲撃を呼ぶ。あーもー!ですよね。なんでそんなにヘタクソなのよと。

 価値相対主義にせよ、自由論にせよ、くだらない正当化はやめるべきです。それは上にみたように、招かなくてもよい災いを招くのが一つ。より本質的には、なんでそんな正当化をしなければならないのか?です。正当化にかまけていて、抱えている自分の弱さを見つめ、受け止める機会を失うという点が一つ。特に後者は超重要で、過去に何度も書いているように、弱いことは悪いことではない。ただそれを誤魔化そうとするから話がややこしくなる。一番最初の出発点に問題があるから、あとは何をどうやっても解決しない。このボタンの掛け違いは、下手すれば一生続くから、一生まるまるロスをするくらい恐いです。


 さてさて、めっちゃ長くなっちゃいました。もうしめます。

 締めとして、中坊症候群を定義すれば、自分は本来的に抱えているなんらかの「欠落」を、精神のひ弱さによって直視せず、あるいは知能の低劣さによって認識できないまま、その欠落を無視し、あるいは隠蔽&正当化しようとして、途方もなく場違いな大理論や狂ったレトリックを持ってくることであり、それがアホな所行であるということに気づかない「痛い」感じってところでしょうか。

 あ、でも、これ、本当に中学生がやってるんだったら「ほほえましい」出来事なんですよ。中学生って、ついこないだまで小学生だったんだから、そんなに一気になにもかもが分かるわけがない。分かったら気持ち悪いわ。だから、成長過程でなんだかんだやるのは、極めて自然なことだし、健康なことだと思います。

 問題は、とっくに中学を卒業しているにもかかわず、「まだやってる」という場合ですよね。

 でもって、いや〜、書けば書くほど自分もそうかも?って気がしますね。汗出そうですね。がんばろっと。



文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る