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今週の1枚(2012/12/17)



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Essay 598:客観が凹(へこ)むと、主観が凸(でっぱ)る

物質的な欠落を、主観で補償しようとする現象について

 写真は、Enmoreの昼下がり。
 しかし、向う正面のピンクパンサー(小さくて見えにくいだろうけど)は何を意味しているのだろうか?

サマリー


 今週のお題は、人間の基本特性として、

 物質的なものが欠乏すると、精神的なものによって穴埋めしようとする傾向

 の話です。

 簡単に言えば、「客観が凹(へこ)むと、主観が凸(でっぱ)る」ってことです。


 そして、これはプラスにもマイナスにも作用します。でもってその作用がとても激しい。極上にもなるし、極悪にもなる。ベッドに寝ころんでつらつらネタ探しを考えて、「ほお、怖いもんだな」とまで思いついたところで、「おし、今週はこれでいこ」と書き始めたところです。

 さて、で、何から書こう?

基本メカ

 「金持ち喧嘩せず」と言いますが、たしかに物質的に恵まれ、豊かな生活をエンジョイしている人は、おおむね「おっとり」してて、あまり精神的にツンケンせず、他者と摩擦を起こすことも少ない。逆に、物質的に欠乏してくると、仲が良かった人間関係がギスギスしてくるということもあります。リストラされて家計が逼迫し、ことあるごとに家の中で口論が絶えなくなり、やがて家庭崩壊とか。

 もちろん全てがそうなるというものでもないです。その逆の例も沢山あります。金持ちになればなるほどイヤミになったり友達が少なくなる人もいるだろうし、貧乏になることによって家族の絆がより強まったという「いい話」も枚挙にいとまがない。だから、一概にどうこう言うつもりはないです。

 ここでは、まず、物質的豊かさ/欠乏⇔精神の相関関係です。なんでそうなるの?どういうメカニズムでそうなるの?法則性はあるの?と。

 ちょっと前に、中国で大規模な(あの広大な国土を考えたら”大規模”といっていいのか微妙だが)反日デモがあり、盛んに報道されましたが、あれやってるのは、経済発展著しい中国内部でも、比較的割を食ってる層だと言われてます。俺の知人の○○は上海あたりで起業してちゃっかり儲けているのに、俺ときたら、畜生!なんでだよ、不公平じゃないか!って感じの不満層です。

 でも、直接それは言えないから、憂さ晴らしにように反日だ、ナショナリズムだで暴れるという。そのころ、中国の民主活動家の人が、ネットで同胞達に対して「自国の政府すら批判できない状況で、他国の政府を批判するなど笑止である」と書いて評判を呼んでましたが、下手な事を言えばあっさり殺されちゃいそうなあの状況で、よくぞ時流におもねらずにそんなこと堂々と言えるな、いい根性してんな、えらい人はどこにでもいるんだなと感心したもんです。

 で、話は中国ではなく一般論なのですが、この種の現象はどこにでも普遍的に見られます。日本の戦争末期だって、竹槍でB29を落とすというマジカル&ミステリアスな発想や、神州不滅という"宗教"が幅をきかせていたわけで、客観的に劣勢になると出てくるのは精神論です。より日常的な観察例では、例えば「無能な奴に限ってプライドがお高い」という現象は、あなたの勤務している会社の新入社員界隈でありふれて発見されることでしょう。

 ここではそれが良い/悪いを論ずるものではないです。
 まず普遍的なパターン認識として、「物質・客観がしょぼくなると、その分主観が強くなる(場合がある)」ということです。

 では、なぜか?なぜそんなことになるのか?

 推測するに、物質・客観的に思うような展開にならず、不遇感・欠落感を抱いているときは、人はその穴ボコを埋め合わせて精神のバランスをとるために、なにごとか盛り上がれるものが必要なのでしょう。

 それが他の客観的なことであれば、それはそれで帳尻は合います。
 貯金もないし、誇れるような学歴技術もない、しかし!、俺には可愛い彼女がいるんだ!とか。腕っ節は強いぜとか、○○だったら誰よりも知ってるとか、○○が上手とか、有名人の○○と友達だとか、、、そういったことで自分を立たせようとします。

 それが行きすぎると、ときとして偏った世界観や人物観になってしまったりもします。自分の得意分野を最高価値にするように、森羅万象の価値ヒエラルキーを再編成したりとかね。結局モテるかどうかが人間の価値を決めるのだと思いこんだり。あとは万能ドリルの刃先を交換するように、それが学歴になったり、家柄やステイタスになったり、金になったり、アレになったりコレになったりするのでしょう。

 しかし、それすらろくすっぽない場合。なにも自慢できるものがなく、自分を立たせられないような場合はどうするか。そうなるとよりディープな主観で帳尻を合わせるようになるのは不思議なことではないです。それがまあ、プライドであったり、ナショナリズムであったり、熱狂的にどっかのチーム応援したり、ストーカーまがいにアイドルに傾倒したり、、、。

 それは精神のあり方としては、あまり芳(かんば)しいことではないのかもしれないけど、でもでも、この種の心理学的な防衛機制は、生まれながらに人間の心に埋め込まれているメカニズムだと思います。誰でも持ってるデフォルト機能で、「ココロの耐震構造」「心のエアバッグ」みたいなものだと思う。それらが正しく作動しているという意味では「健康」であるとさえいえる(好ましいかどうかは別として)。人間、自分をとことん否定し、俺はダメだ、間違ってると100%思ってたら最後は発狂 or 自殺するしかないでしょう。無理でもなんでも帳尻を合わせないと生きていけない。

 これは個人でも同じだし、組織や社会も、国も同じ。第一次大戦後のドイツも、せっかく戦争の教訓から立派なワイマール体制を作りながらも、天文学的インフレで生活がとことん苦しくなったら、結局ハイル・ヒトラー!だもんね。日本が軍国化しはじめたのも、昭和恐慌だ、世界恐慌だ、関東大震災で左前になってきてからです。逆に、物質的な豊かだった高度成長の70年代は、やれ日中国交回復だ、やれパンダを見に上野動物園だってやってましたもん。その頃、中国では文化大革命で凄まじい人権弾圧が行われていて、本当に喧嘩するならあの時点でやるべきだったんだけど、でも「金持ち喧嘩せず」の法則で「はっはっは、苦しゅうない」って感じだったもんな。

 物質的な惨めさを補うために主観を投入する。ミジメになればなるほど激しく投入する。そのうちに主観が全てみたいになって、客観的合理性からどんどん離陸する。客観から離陸するから、目をつぶって車の運転をするようなもので、ますます現実的成功率は下がる。挙句、やることなすこと全部ダメダメダメになる。だからより狂信的に主観にしがみつく。そして行き着くところは「来世」という最終兵器が出てくるのでしょう。中世日本(特に戦国期)の厳しい庶民の生活環境で「厭離穢土・欣求浄土」(こんな汚れた世界はもうイヤだ、早く死んで極楽に行きたい)という、考えようによっては殆ど自殺サークルのスローガンみたいな用語が一般化する(仏教的な本当の意味は違うんだろうけど)。戦時中だって「靖国で会おう」とか言ってたんだし。

 もっともこれは日本の専売特許ではなく、世界で普遍的に見られる「ヴァルハラ=戦士の魂の休息所」信仰の日本ヴァージョンとして位置づけた方がいいでしょう。「風の谷のナウシカ」(映画版ではなくless famousな宮崎駿作の漫画版)にも、「さらばだ!バルハラで待っていろ!」というセリフが出てきます。もとは北欧神話から来ているとか。余談ながら、シドニーのGlebeのGlebe Point Rd(166)には、Valhallaという単館映画館があって、地元的には有名。数年前に内装を完全にやりなおして、今はオフィスユースになってます。

 ここで思ったのは、「この現象、使えるじゃん」ってことです。

 確かに、上で見たような事例においては、あまり麗しいパターンになりません。
 だからといって、こういう心のメカニズムや現象を否定できるものでもない。いくら否定しても、あるものはある。これはもう自然現象ですよね。「我々は〜、断固、地震を否定するぞ〜!」と毎日拳を振り上げて絶叫してても、お構いなしに来るときは来る。もうしょうがないのだ。

 言うならば火薬やガソリンによる爆発反応という自然現象みたいなものであろう。だとしたら、これらを一種の天然資源、、エネルギー源と捉え直すことも出来るんじゃないか。確かに使い方を間違えると一気にドカン!となって危ないことこの上ないのだけど、正しく使えば莫大なエネルギーを得られる。つまり、そういう現象があるとしたら、それをどう使うか?です。その使用法を探すためには、どういう法則性によって成り立っているのかを見極めることでしょう。少なくとも、悲惨なケースがあったからといって(火事や爆発があったとか)、それを使うのを止めなくてもいいだろうと。現象への評価と、そのイチ実現例とは峻別すべきじゃないか。

 要は、「客観+主観一体になってバランスを取ろうとする性質」がポイントであり、それは「質量保存の法則」や「エントロピーの法則」みたいなものだと。もう少しちゃんと言うならば、高校の生物で習った「ホメオスタシス」のイチ変形なんでしょうね。生体のバランスを取る「恒常性」=体温や血糖値を一定に保とうとする自律調節メカニズム。それのココロ版です。善悪でも好悪の問題でもない。

 主観によって客観の欠乏を補うということが出来るなら、それをより豊かで、より美しく、より好ましいカタチでやっていけばいいじゃんかってことです。いくら貧乏してようが、いかにトホホな状況であろうが、絶大な主観パワーで、あら不思議、全てはOK、ハッピ〜ということも出来るだろうと。

 そして、この能天気でアホアホに聞こえる発想は、過去に「うつ」シリーズで書いた「主観世界は魔法の世界」と同じ事です。要は考え方一つなんだと。そして、その考え方によって、客観が埋め合わされるだけではなく、客観そのものの認識と解釈が変わり、ひいては現実が変わる(変わって認識される)という意味では、前回の「『現実』とはすべて解釈であり物語なのだ論」につながっていきます。

 ま、同じネタを角度を変えて書いているというか、ネタの使い回しというか(^_^)。最初はそんなつもりではなかったのだけど、考えているうちに「あ、つながった!」って感じ。

ケーススタディ〜権力者による(悪)賢い応用例 

「話を逸らす」技法

 これはもう枚挙にイトマがないし、誰でも知ってるでしょう。
 例えば内政がニッチもサッチもいかなくなったら、外国を仮想敵に仕立ててナショナリズムを煽る方法。要するに「話を逸らす」だけのことなんだけど、原始的な子供だましであるだけに、原始的に強力。古今東西どこの国だって内情は苦しい。いつだって問題山積み。やれ景気が悪くて国民の生活がしんどいとか、でも国庫もカラだとか、旧態然とした差別がなくらないとか、所得・地域・身分格差が解消されないとか、教育がおかしいとか、不正や汚職が絶えないとか。誰がトップを取ってもやることは同じだし、難易度も同じ。多くの場合は「解決出来ない」という身も蓋もない事態になる。そうなったとき、話を逸らす。いくら都合の悪いことを批判されようが「この非常時にそんなこと言ってる場合か」と切り返せる。本当は「言ってる場合」なんだけど、雰囲気的に言えなくする。会社が潰れそうなときでもよくやるよね。

 と同時に、ナショナリズム的なプライドというのは無料で無限に生産できるからコスト的にも安上がりです。なんでもそうですけど、この種の精神的高揚機能というのは、一種の麻酔薬や覚醒剤みたいなもので、「一本いっとく?」で結構解消しちゃったりする。さらに、内容空疎なプライドを植え付けることで国民の批判を封じ「ガマンさせる」という凄い逆兵器にもなる。戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンに象徴されるように、国民が国家に求めること自体をあたかも「悪いこと」であるかのように洗脳することも可能です。とっても使える魔法の政策。

 ただし、魔法なんかこの世にない。覚醒剤がそうであるように、やればやるほど身体はボロボロになっていく。習慣性も強いし、禁断症状も激しくなる。これを健康体に戻そうとすれば、地獄のようなリハビリをしなくてはならないけど、重度になったらリハビリの苦痛だけで死んでしまうかもしれない。北朝鮮なんかこの状況だと思います。一国に対してこういう表現はレスペクトを欠くのでしょうが、実際あそこまでいったら、ミサイルでも花火でもどんどんブチ上げてしのぐしかない。「ミサイル、一本、いっとく?」の世界です。それを無理にリハビリしようとしたら、国家そのものが瓦解する。だからあの国に対する構えは、軍事ではなく警察と医療機能でしょう。もともとが、シャブ中の通り魔みたいなみたいなものなんだから。軍事だったらまだしも軍事ロジックもあるし、それなりに理路整然としてるけど、通り魔は非論理的で、誰にも分からない自分だけの論理で動くので予測しにくい。それに、取り押さえて制圧すること自体はそれほど難しくないけど、問題は「その後」です。リハビリ。膨大な手間暇と天文学的な費用がかかる。どの国もそれが見えてるから、出来るだけ関わりたくない。やるんだったら「じゃあ、皆でいっしょに」でやりたい。もう腫れ物化して、”えんがちょ”みたいに「触った奴の負け」みたいな感じ。下手に単独で関わってたら「今までのなりゆき」をタテにして、「お前が面倒見ろよな」とか押しつけられそうで、それが恐いんだろうなあ。余談でした。

物をあげずに名誉をあげる技法

 もうちょいミクロな世界でいえば、「物はあげないけど名誉をあげる」という帝王学がありますよね。

 うろ覚えだけど、織田信長がここらへんが上手だったとか。なかなか部下の給料を上げない(加増しない)。ケチです。それは中世封建の分権体制→近代的で強力な中央集権という天才的な時代感覚と組織感覚あってのことだと思うけど、幾ら部下が武功を立てても中々領土を上げない。でもそれだとモチベーションが下がるから、その代り褒めて、名誉を与える。手柄報告を受けたら、「うむ、でかした!」と持ち上げ、そのあたりの物、小柄(短刀)でも茶器でもくれてやる。「うぬの働き、しかと承知した!後日の証にこれをつかわす」とかなんとか言って小物グッズを上げる。サムライというのは異常に自己顕示欲が強い人が多いから、居並ぶ群臣の前で褒められたらうれしい。とーってもうれしい。しかも物まで貰うから、これが後に「家宝」になっていくわけですよね。ごめん、これが信長の史実かどうかは微妙なんだけど(説が分れてるみたい)、ここでは歴史がどうのではなく、そういう方法論があるという点です。

 これは会社経営でも、どんなサークル活動でも同じ事でしょう。給料は上げないけど名誉(役職)をあげる。
 バブルの頃とか、団塊世代がどんどんエラくなってくるので役職が足りず、めちゃくちゃ増設してたという話を聞いたことがあります。課長のほかに、課長補佐、課長代理、副課長、課長心得、、誰だがどの順番でエラいんだ?という。いろいろカッコいい名前はあるけど、給料は同じか、微々たる上昇。それでも新しい名刺に新しい肩書を刷る喜びでモチベーションはあがるという。これって安上がりだから幾らでも使えます。「○○方面特別対策本部長」とかさ、「特別」をつけたら無限に増設できるわけだし、「特別」がつくとなんかエラそうだし。なんつっても「スペシャル」なんだからという。

 なんか、書いてて犬の調教を連想して悲しくなってきた。犬でも「とってこーい」でボールを取ってきたら、頭を激しく撫で撫でして「よーし!よーし!」と大声で褒めるのがコツだと言いますよね。犬にしたら、「褒めてるヒマがあったら餌をよこさんかい」と言いたいのかもしれないけど、でも、嬉しそうだったり。

 ここで考えるべきは「褒めること」の効用です。
 「褒めて育てる」とか色々いいますし、その良し悪し(=素晴らしい人材育成法なのか、単なる姑息なご機嫌取りなのか)は、まさにケースバイケースだと思うのですが、ここでは「コストがかからない」という点に注目です。全く無料ではないけど、本来のコストからしたら馬鹿安で済みます。台所事情の厳しい権力者やリーダー的立場にある人にはオススメの方法ですね。

 

僕らの賢い利用法

 では、権力者ではない僕らの場合はどうしたらいいのでしょう?
 ご心配なく。権力に縁遠い、市井の僕らにもこの原理は適用可能です。もうなんぼでもある。

 客観の凹みを主観が補うこと----これは無限にそうで、場合によっては客観がゼロであっても主観が充実していたらそれでも満足できる。例えば、殉教者のように、客観の極小化=死すら甘受できる場合もある。多分に文学的誇張ではあろうが「これで死ねたら本望」ということは、今の時代に普通に生きていてさえ無いわけではない。

 このように「死」という極限事例すら尚も治癒できるスーパーパワーがあるなら、仕事がないとか、貧乏であるとかいう程度の「些細な客観の凹み」など、ものの数ではないはずです。

王道的利用法

 客観面に欠落感があるなら、その客観を補充するのと同時に、主観も充実させる。例えば、かなり激しく貧乏だった場合、必死にお金を稼ぎ、やりくり算段に励む一方で、主観面を徹底補強することです。

 手はじめに「なんのためにこんな貧乏をしているのだ?」という貧乏の意味づけをするのもいいでしょう。
 資格試験の勉強をしているからとか、子育てになにかと物入りだからだとか、いろいろな事情で貧乏になっているわけだけど、それはより価値あることを育むためのものであり、そのこと自体に意味はある、メチャクチャある。それが大事であればあるほど、そう簡単に実現しないから、その過程でなにかしらのハードシップはあって当然。それが貧乏というカタチで生じても当然。ペンギンの親が卵を足下で温めるため、極寒の氷原のなか一冬ずっと立ちつくすという途方もない苦行に挑むのも、全ては愛するわが子の為。

 それが大切であればあるほど、それを守り抜き、実現するのはハンパな根性では出来ない。そりゃそうですよ。今この世に存在しない価値を生じさせるのですから、無から有を生じさせる産みの苦しみはあって当然。いわば自分の肉体を少しづつひき千切って、自分をもう一人作り上げるようなものです。自分を一個まるまる擦り潰すくらいのリソースはいる。いきなり全部やったら自分が消滅してしまうから、分割払いでちょっとづつやるしかない。だから貧乏なのだと。それがイヤなら、そんなご苦労なことをやらなければいいのだ。自分一人だけで何も増えない、何も成長しないのであれば、そんな苦労をしないで済む。でもやりたい。

 このように貧乏をすることの本質的意味がわかり、納得できるのであれば、かなり主観は充実をみますし、その分客観の穴埋めになります。意味がわかり納得できる苦労ならば、それはもう「苦労」でもなんでもない。むしろ「愉悦」に近いものになる。

 第二に、貧乏することで得られるものを考えるといいです。
 それはやりくり上手になるなどの生活スキルであり、生存スキルです。まずいい加減な見通しをしなくなる。お金がなくなればドボンだから必死に計算するし、「とらぬ狸の皮算用」のように希望的観測だけで計画を立てないようになる。つまりは「甘さ」がなくなる。緻密になるし、現実に成功するためのノウハウを学ぶ。ちなみに「仕事が出来る」というのは、これが出来ることでしょう。大胆な発想と獰猛な行動力を持ちつつ、その予測には微塵も甘さがない。徹底的に緻密に計算し、安全係数もちゃんとかけておく。

 一方で下らない金も使い方もしなくなる。加えていうなら、単にケチるだけなら破綻するから、出すときは出す、出さないときは出さないというメリハリがつく。その出費が投資的機能を持つか、消費的なものに過ぎないかを吟味する。また、足りない部分は他の方法で補うから、低予算で豊かな自炊スキルもつくし、無駄なこともやらなくなる。かつ、ケチケチするだけだと人間が小さくなり、発想が矮小化し、人間的魅力が激しく減衰するから、バーンと気前よくやるときはやる。つまりは、お金との付き合い方を激しく学ぶ。これが上手か下手かで、人生設計が上手か下手かが決まるというくらいクリティカル(致命的)なスキルといえます。

 大体、大成功した人というのは、それまでに激貧時代を過している場合が多い。それを単に美談や、感動の物語として理解するだけではなく、非常に重要な学習過程を経ているのだと理解することもできます。その人がエラいのは、貧乏に負けなかったからではなく、その貧乏から多くを学んだからだと思います。どんなことからも学ぶという学習能力・意欲が高いのでしょう。

 というわけで、単にお金がないよ〜、今月ピンチだよ〜という客観的欠落であっても、その状況を分析し、主観価値に翻訳転換することできるし、それが上手にできればできるほど客観的欠落は埋め合わせることが出来ると思います。

 第三に、それに留まらず、客観的欠落を物ともしない治癒能力があるということは、それだけ強力な攻撃力を生むということでもあります。これが大きい。虎穴に入らずんば虎児を得ずですから、多くのものを得ようとしたらそれだけ高いリスクを負う必要がある。リスクテイカーとしての度量の大きさが、その人の攻撃力の大きさを基礎付けるでしょう。これが強い人は大勝負が打てる。一歩間違えたら破産するようなときでもビビらなくなる。仮に破産しようがホームレスになろうが、俺はしのぎきれるという自信があるから、勝機にガンガン攻めていける。当ればデカい。一気に倍になる。

 ワタクシゴトですが、僕自身も、学生時代の貧しくもストイックな生活体験が自分の宝物になってます。それも単に観賞用の宝物ではなく、実用的な「生きていくスキル」として活躍しています。考えてみれば、法律スキルとか海外スキルなんかよりも、こっちの方がデカいかもしれない。徹底的に現実を見つめて解析し、あれこれ方法論を考え、必要があればひねり出し、コネクトし、甘味成分ゼロの厳しい見通しを立て、同時に不慮の不幸を変数Xとして掛け合わせ、同時に不慮の幸運をも変数Yとしてかけておくという高等数学まがいのことが生理的に出来るようになる。というか、それをやらないとドボンだから必死ですよね。勿論完ぺきではないけど、カンドコロはなんとなくわかるようになります。

 そして大事なのは、それを全部やりながら、でもその苦心の完成レポートをびりびり破り、ポーンと蹴っ飛ばし、「でも夢=面白さ=が大事」と感性一発で決断することです。なーんの目算もないけど、オーストラリアにこれたというのはそのあたりあってのことでしょう。めっちゃ緻密に分析計算し(世界動向から年金計算まで)考え抜くんだけど、ある程度までやったら、それをまるっぽ捨てる。いっぺんとことこん考えていけば、考える最中にそのエッセンスは身体に染みこむから、それで十分です。それ以上に、考え抜いた「結論」まで後生大事に抱え込むのは不可!なぜなら自分で出した結論がドグマ化し、結論に引きずられ、動きが鈍くなって、ひいては瞬発力が落ちて勝機を逸するからです。それが恐いです。

 よう分からんけど、この逆のパターンをやってしまうと結構恐い気がします。

 貧乏している意味を突き詰めて考えない。なんとなく貧乏になってるだけで、貧乏をすることによって何を産み出しているかという意味性が薄れる。そうなると、ただただ無駄にしんどいだけって感じになるから、ひたすら楽になろうとする。無駄にしんどいと思ってるから、それを利用して学んだり、スキルを磨こうという意識もない。だから学べない。そして、無駄にしんどいだけだから、とにかくリスクを負おうとしなくなる。リスクを負う意味がわからないから当然なんだけど、でもそうすると「虎穴に入る」という行為をビビってしなくなるから、攻撃力がガタ減りする。攻撃しないから、得点が増える道理がなく、いきおい減点ゲームになり、失策や不幸がある度にジリジリと地盤沈下が続く。これって精神衛生上、最悪といってもいいです。特急列車「うつ」号、間もなく三番線ホームから発車しまーすって感じ。

 そのあたりをどうするかが個々人の「器量」ってやつでしょうが、何かをやろうとする場合、「うまくいったら楽しそうだな」と上手くいった場合をメインに考える人と、「失敗したらどうしよう」しか考えない人がいるけど、後者だったら要注意でしょうね。で、「どうしよう?」とかビビるんだけど、具体的に「どう」するかは何も考えないんだよね。もしこれがダメになったらプランAで補強、それもダメならプランB、それが足りないときはプランCと防波堤を何段階にも組んでおけばいいんだけど、そういうカタストロフィックな事態を想定するだけで精神的に辛いから結局恐がるだけで、何もやらない、考えない。かくして、成功率が極めて低くならざるをえない気構えで事にあたり、失敗率が高くなるにもかかわらず、失敗した場合の手当をしないから、一回コケたら最後、もう地獄の底まで一気にいくという。「恐い」というのはそういうことです。

 ほんでもって、そのあたりが恐いから、別な方法で「主観的な補強作業」をやろうとする。つまりは上に書いたようなマジカルでミステリアスな主観的慰謝を求めるという麻薬療法ですね。こうなると地獄の二番底が開くでしょう。ますます恐いです。なにがアカンのか?といえば、そもそもの出発点で、「なんでこんな辛いことやってるの?」という原点がグラグラしてるからでしょう。

 よく「やりたいことをおやりなさいな」と僕は言いますけど、それは無責任な声援でも称揚でもなく、このあたりの理由があるからです。最初の一歩が「やりたいこと」だったら、そしてそれを自覚してたら、あとはそれにまつわるハードシップは大抵は乗り越えられるし、学べるし、賢く強くなれる。その分図太くなるから攻撃力も増すし、実戦経験が増えるからカンも良くなり、次第に勝率が上がっていくという上昇気流に乗れるからです。

他者との絡み〜社交辞令と人間関係の客観・主観

 角度をガラッと変えます。他人との人間関係における客観の凹みと主観の関係です。

 例えば、借金してて返せない。本当なら今月末までの10万円返さないといけないのだけど、5万円しか返せない。どうしたらいいか?相手(貸し主)には5万円分の実損(客観的欠落)を与えるのですから、貸し主に対してそれを埋め合わせるに足りる精神的代替物を与えるといいですよね。それは、相手のハートに響くように「誠実に謝る」こと。ここがハートに響かなかったらこじれます。「なんだ、あいつ?ふざけやがって」ということになって、客観の欠落が逆に主観の欠落を招き、どんどん延焼してとんでもないことになります。

 「人間関係がこじれる」というのは大体このパターンが多い。最初は純粋に客観的な問題で始るんだけど、その対応がマズイので、どんどん主観に延焼する。借りた物を返さない、勝手に他人の物を使う、他人の物を壊す、他人の時間を無駄に遣わせるなどの客観的損失を、正しく主観的に埋め合わせないとならない。しかし、面倒臭いのでそれをやらないと、相手も「知らんぷりだもんな」「やってらんねーよ」って気分になる。立場が逆ならあなただってそう思うはず。で、こじれまくって喧嘩になったときには、「返しゃいいんだろ、返せば!」って客観的に補っても、もう「そういう問題じゃない!」ってなってる。客観→主観の延焼を食い止められなかった報いは必ず来る。

 以上がハート部分の補償だとしたら、頭脳的な補償も必要でしょう。
 借金を返せなくても「ごめんなさい」って言って貰えば取りあえずは相手も満足するけど、まだまだ完全ではない。「なんで返せないの?」という疑問が残るのです。そこで、何故そうなったのか分かりやすく事情を説明する必要があります。破産管財や民事整理をする際、ココはとても重要なポイントで、貸し倒れ被害者である債権者が求めるのは、まずもってこの点です。「なんでコケたの?」という「破綻にいたる事情」です。ここをビシッ!と説明する。誰が聞いても「ああ、そうか、なるほどなあ」と納得させ、「そうか、そういう事情があったんか」と逆に同情を得るくらいまでになれば合格。

 以上、@ハートにおける誠心誠意と、A知的情報としての経過説明、この二点は、人間的トラブルを招かない要諦だと思います。

 やたら意味なく人間関係がトラブってる人は、このあたりがダメなんだろうなって気がします。
 「ダメ」というのは、より端的には「ズボラ」「面倒くさがり」「だらしない」ってあたりでしょうね。

 特に「面倒臭い」というのは過去に何度も取りあげているけど「人生最強の敵」だと僕は思う。
 わずかばかりの確認手間を惜しんで大惨事!ってのは交通事故を筆頭に大不幸の定番ですし、この種の面倒くさがりで信頼関係を壊しているケースが多い。例えば誰かに良くしてもらったくせに礼状一本書くことを惜しむ。わずか1分の「ありがとう」メールを惜しむ。

 そこらへんをいい加減に流すのが「豪快な性格」「それがワタシ」とかカンチガイしている可哀想な人がたまにいるけど、確かにそういう「免責例」はあるが、あれはそういった欠点を寅さんのように無類の愛嬌でカバー出来るとか、モーツアルトのように傑出した才能による「天才特権」で許して貰うとか、途方もない人間力が必要で、普通の人には無理。美人だとかカッコいいだけでもダメ。「なんだ、見た目だけか」と思われるのがオチです。何かを得る場合だけ他人にすり寄ってきて、貰ったと思ったらそれきり音信を絶つのは、「け、この乞食野郎が」という深刻な侮蔑を産む。でも、そんな人は僕の経験では実はそんなにいないです。少ないだけに、それをやるとメチャクチャ目立つのですよね。これ、恐いですよ。ただでさえ人生面倒臭いんだから、これ以上無駄に敵を増やすなということですね。自戒も込めてそう思います。

 これは人生哲学とか処世術とか、そういったレベルで言ってるのではなく、単に主客一体の法則で、「客観が主観に延焼したら死ぬほど面倒臭いことになる」という現象を述べているのです。

 と、同時に、そうなると延焼した主観の凹みを埋め合わせるために、さらに客観的な「追加出費」を余儀無くされることになります。それがすなわち「慰謝料」ってやつですね。

 あなたが大事にしていた何かの物、カバンでもなんでもいいですが、それを単に盗まれただけなら、その現物が返った来ただけでそれなりに満足するでしょう。「良かった〜」って。で、壊されたりしたときも、相手に悪気がなく、それどころか「本当にごめんなさい!」って何遍も謝りながら、新品を買ってくれたりすれば、「いや、もう、そこまでして戴かなくても」とか恐縮しちゃうもんです。

 しかし、「なにこれ、ダサいカバン?」と散々馬鹿にされ、カッターでズタズタに引き裂かれ、捨てられ、唾まではきかけられたらどう思います?「買って返せばいいんでしょう?」「新品くれてやるからさ、お前、儲かったじゃん」とか言われたらどうですか?「こいつ、殺したろか」てレベルでハラワタ煮えくりかえるでしょう。そうなるとカバン(客観)の損失補填だけでは話は収まらない。もう絶対収まらないよね。ということで、客観的損害に伴う「精神的苦痛」が生じ、それを慰め、癒すために「慰謝料」という概念が出てくる。

 そこで関連して思いつくのが、社交辞令やマナーです。
 お世辞、年賀状、礼状などの礼節は、それがハートに裏打ちされずに、あざとく虚しいのがミエミエになったら、まさに「虚礼」としての浅ましさを露呈しますが、それが正しく使われるならば、かなりの効果を発揮するでしょう。それはお中元、ご贈答、土産物などに置いても同じです。「手土産の一つもなしかよ?」と、やっぱりそれなりに扱われるし、扱われてもしょうがないです。だから、ブツブツ言いながらも義理チョコは送るし、旅行にいけば土産を買う。

 このあたりのバランス感覚はとても難しいところで、やりすぎたら本当にイヤらしいし、敢えてそういうのを無視するフランクなつきあいの風通しの良い爽やかさもあります。いろんな人と付き合って、ケーススタディを積み重ね、そのあたりの匙加減を学ぶのが、まあ、修行の一つなんでしょうねえ。


 おお、チンタラ書いてたら結構な行数になってしまいました。
 本当はもっともっと類例があり、客観を主観が埋める方法論は、「弱点こそが最大の武器になりうる」論につながり、それを展開しようと思ってたんだけど、時間切れです。ブー。

 一つだけ例を挙げると、僕は強度の近視で自分以上のド近眼の人を見たことがないというくらいですが(これ以上になると弱視になる)、こういう「客観的欠損」によってかなり苦労はさせられました。しかし、同時に、それがプラスになることもあります。てか、やり方一つなんだけど。まず色彩感覚が良くなるというか、色について普通の人以上に楽しめているように思います。なんでオーストラリアにいるのか?という理由の一つに「色がきれいだから」という点もあります。服や家具を選ぶときに、色で選ぶかカタチで選ぶかといえば断然、色で選びます。まあ、それで幾ら儲かるとか金銭的なものは伴わないのだけど、でも、理屈を言えば、同じ物を買っても色を楽しむ感情が他人の二倍あったら、事実上半額で買ったような経済効果を生み、それだけ「得」と言えなくもないです。

 第二に、視界が常にボヤヤンとしているから想像力が働きます。そして、常に予測するようになるし、なぜそうなるかという全体構造やメカニズムを考えるクセがつきます。さらにボヤヤンと見えているモノがAだったときはこうするけど、もしかしてBだったらこうしようとか、同時並行的に幾つものシナリオをマルチタスクで展開するクセもつきます。要するにいい訓練になっているのですね。その一つの成果が、多分このエッセイでもあるのでしょうが。第三には、音で楽しめるようになる。第四位に、、、と、つまりは視力が弱い分、他の感覚や能力で補おうとするから、他が全体に底上げされるのですね。それらをプラス・マイナスでトータル計算したら、プラスの方が多いかも、黒字かも?という気がしています。

 こんな発想、若いときには思いつかなかったけど、段々いろいろ世間のことがわかってくるにつれ、何かが独立単体で存在することなどありえない、ということも分かってきました。一つが出張ると一つが凹むとか、一つの出っ張りがさらに他を出っ張らせるとか、必ず何らかの形で相互関連し、その全体で捉えないと外すという。それを延長していったのが、客観の凹みを主観が補うという今回の話になるのでしょう。

 さて、主観が補うにしても、好ましい補い方もあるし、おぞましい補い方もあるよねってことで、どうか好ましい補い方をされんことを。

 以上です。




文責:田村



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