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今週の1枚(2012/12/10)



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Essay 597:「現実」など無い

それは「解釈」であり、「物語の創造」である

 写真は、つい数日前に撮ったシドニー空港(国際線)の風景。
 クリスマス時期なのでクリスマスツリーが飾られています。それに問題はないんだけど、問題があるとしたら、この抜けるような初夏の青空。なんかマッチしないんですよね。
 もう長いことこっちに住んでいるのに、なかなかしっくりこない。多分一生無理かも。クリスマスも、正月も、ただもう観念的に、事務的にやってるという。セミが鳴いてるそばでお雑煮食べるのって。。。。
 唯一しっくりくるのは、ニューイヤーの花火です。花火は「夏の風物詩」ですからね。

サマリー


 今週のお題はタイトル表記のとおり、「唯一絶対の”現実”などというものは無いし、それを認識することも出来ない」「現実とはすなわち解釈であり、物語である」ということです。

 「え、なんで?」と思われるでしょうし、多少の注釈も必要でしょう。

 ここで「現実」とは、単なる「事実/現象」とは異なる意味で言っています。
 現象/事実は認識出来るし、計測機器を使って測定も出来ます。しかし「現実」というのは、それらの事実に意味性や評価を与えて初めて認識されるものだと思います。

 例えば「毎日つまらない仕事に埋もれ、リストラの不安に怯え、疲れ切ってボロい安アパートに戻ってコタツでコンビニ弁当を食べるだけの日々。はああ、未来に夢も希望も何もない。でもこれが”現実”なんだよな。もっと真面目に就活やればよかった。今更遅いけど。」というのは、数々の事実の解釈であり評価です。「事実」は「○○会社経理部でデーター入力と年金計算をしている」等のことであり、それが「つまらない」かどうかは主観的な評価です。「安アパート」というのも、事実は「○○町○○番地所在の築18年の鉄筋2階建て、世帯数8戸の共同住宅」であり、それが「ボロい」「安い」は評価の問題。「コタツでコンビニ弁当を食べる」のは事実だろうけど、食べる「だけ」と要約するかどうかは主観評価の問題。さらに、「真面目に就活」やったら今よりも望ましい状況になっていたかどうかは分からないし、「今更遅い」かどうかも評価。

 このようにどこまでが事実認識なのか、どこからが評価判断なのかが曖昧になり、渾然一体となり、それが僕らの「現実」認識になっている。

 科学、とりわけ自然科学においては、こういった曖昧さは排斥されます。特に因果関係についてはそうです。
 実験や観測で「Aという現象が発生したときにBという現象が生じる」ということが分かっても、自然科学的な結論としては「ただ、それだけ」で、「だから〜」とそれ以上に結論めいた領域に踏み込むことは許されない。「AによってBが生じた」という因果関係については語らない。それは、もう、めっちゃくちゃ厳密な証明が必要で、とてもじゃないけど軽々に言うことは許されない。これはもう「絶対に!!」許されない、らしいです。

 「Aが生じるとBが生じる」ということがコンスタントに観測できる場合、それは相関関係があるとされます。そして統計学的手法から(標準偏差がどうとか)相関度はマイナス1から1までの間のどのくらいであるとして表記されます。

 ずっと昔、医療過誤訴訟をやって、医学論文を漁っていたことがありますが、文系素人が考えるような「○○になると○○にことが分かった」みたいなシンプルな話ではなく、実験方法や結果についてウニャウニャ難しい専門記述のあとの最後の結論は、「相関係数は0.57であった」だけ。それで終わり。必死になって読んでるこっちとしては、「へ?これで終わり?け、結論は?」で突き放された気分になったものです。

 でも、それこそが「科学」なのですね。
 この奥歯にものが挟まったような、あとちょっとのところで止めて結論を焦らすような、非常にもどかしい、なんだか残尿感あふれる中途ハンパな感じが「科学」であると。そういえば、厳密に言えば「タバコを吸うと肺ガンになりやすい」ということすら、純粋科学的には証明されていないとか。

 なぜそこまで厳密に、ストイックになるのか?それは1ミリたりとも飛躍することを許さない実証精神があるからでしょう。

 素人理解で恐縮ですが、これには(1)状況や条件の問題、(2)因果の問題があるのでしょう。
 @ですが、例えば「鍋に水をいれて火にかけるとやがて沸騰する」「水を加熱して100度になると沸騰する」というシンプルな事実がありますが、これとて、いろいろな条件付での話です。まず、外気温が生活温度で、気圧が普通(1013.25 hPaプラスマイナス)という条件があります。さらに重力が1Gで、空間が歪んでおらず、時間が一定の速度で流れいることなどの条件もあるでしょう。さらに「水」とは純粋なH2Oの場合だけなのか?とか。実際、高山など気圧の低いところでは80度くらいで水は沸騰しますし、水にいろいろな物質を混ぜることで沸騰温度を上げたりもできるそうです(パスタを茹でるのに塩を入れるとか=もっともあれはコシを出すためとか諸説あるみたい)。

 これを日常生活に置き換えてみると、例えば「TOEIC800点獲得の決定版!」という定番参考書があったとします。そこそこ良くできています。しかし、本当にこれを読んでTOEIC800点が取れるかどうかは別問題です。「諸条件」が整っての話でしょう。すなわち、@買うだけではなくちゃんと読むこと、A毎日コツコツと勉強し続けられるストレス耐性のあること、B本当にコツコツと一定期間やり続けたこと、Cある程度の知的能力があることなどが条件になるでしょう。そして、本当に「TOEIC800点取る」には、DTOEICの試験当日に会場に行き、交通事故や受験票を忘れるなどの事情がなく無事に試験を受けられたこと、E試験中に体調不全やパニック障害など実力発揮を妨げる事情がなかったこと、F一連の過程を地縛霊や座敷童などの悪霊や狐狸妖怪に邪魔されなかったこと、G大地震など天変地異や戦争が起きなかったこと、H試験センターのデーターがぶっ飛んだり改ざんされたりしないこと、、など無限に条件はあるでしょう。

 そして、(2)因果関係の判断問題があります。
 例えば、、、、うーん、いい例が浮かばないけど、、、、「お医者さんに診てもらうと病状が良くなる」という現象がありますが、これを何の予備知識もなく単に外見的に見てるだけなら=例えば宇宙人が地球人を観察するような視点で見るなら=「白い服(白衣)を着ている人(医師や看護師)と接触交渉することによって病気が治る」というように観察されるかもしれません。そうなると「白い服を着ている人」であれば誰でもいいんだと誤解したり、ひいては「白色がポイント」であり、「白色は病気を治す力がある」と凄い理解をするかもしれない。

 えらくトンチンカンなことを書いているようだけど、しかし、僕らが自然を観察し、法則性を抽出する段階では、この種の突拍子もない誤解は珍しくないです。確かに多くのデーターを集めれば集めるほど「白い服の人」との接触頻度の高い人ほど病状回復が進むという法則性は出てくるだろうし、それ自体は必ずしも間違っていないのですね。しかし、そこで「白い服だからだ」「白色がキーポイント」というのは明らかにオーバーランです。しかし、この種のオーバーランを僕らはよくやる。

 いわゆる「疑似科学」と言われる領域、「○○は身体に良い/悪い」「○○ダイエット」みたいな話は、おしなべてこの種の話が多いです。確かにそれだけ見ていればデーター的に証明できたような気がするのだけど、本当にそれだけが原因なのかどうかは全く検証されてないし、なぜそうなるかも不明なまま。それでも、耳慣れない専門用語を散りばめられたら何となく本当らしく見えるという。しかし、それは「科学っぽい印象」であって、その方法論は科学的=あらゆる反対可能性を全て実証して潰す=ではない。

 疑似科学でなくても、これまで通説的にそうだと思われてきたことが、全くの勘違いだったということもまた良くあります。あるいは俗説と正確な知識がズレていることとか。例えば「暗いところでTVを見ると目が悪くなる」というのは誤りらしいです。確かに目を酷使して疲れるかもしれないけど、「疲れる→壊れる」と常に直結するわけでもない。疲労(身体負荷)が機能強化をもたらすことだってありえます。現にスポーツの筋トレは負荷と疲労を生じさせて筋肉を増強させるものですもんね。砂漠の民のように常に遠方ばかりを見ていると視力6.0など途方もない人もいるそうですが、あれだって目を酷使しているから目が良くなったと言えなくもない。

 また、そもそも「目が良い/悪い」の定義自体が間違っているという話もあります。本来、「悪い」というのは、白内障など病気にかかっているかどうか、瞳孔、水晶体、網膜、視神中枢までのワンセットに機能障害があるかどうかです。いわゆる「視力」「近視」というのは、屈折率が変化してピントが合う状況が変化しているだけのことで、機能障害ではない。赤ん坊から成長すれば目玉も大きくなるから誰でも屈折率が変化し、近視傾向になる。これは普通のこと。いわゆる「目のいい人」は生まれつき遠視気味だったから、年を取ってちょうど良くなったというに過ぎない。最もありふれた近視である軸性近視は、しょせんは目玉のタテヨコ比率の個性の差でしかない。老眼は水晶体の弾力性の経年性変化であり、白髪のような自然の変化であり、病気でも機能障害でもなく、別に目が「悪く」なったわけではない。結果として「不便」に感じられるようになっただけで、それは白髪が「髪が悪くなった」わけではないのと同じ。一方、視力の1.0がどうのというのは、人間種族の平均値でしかなく、ハヤブサのように猛禽類からすれば人間は誰でもド近眼になる。さらに「視力」というのは近眼かどうかだけではなく、静止視力・動体視力、深視力(立体把握能力)、中心視力・中心外視力、視界の広さなど様々あり、近眼・老眼は近見視力・遠見視力というイチ分野での話でしかない。

 なお、通説や俗説は自然科学だけではなく、社会科学や法律でもあります。「交通事故の現場で「ごめん」と謝ったら後で不利になる」というのは大嘘です。実際の過失割合は、本人がどういう態度を取ったかに関わりなく、警察の実況見分調書など客観的に判定しますから。それより、実際に交通事故が揉めてトラブル化するのは、「見舞いにも来ない」「あの態度が許せない」という感情的な行き違いがほとんどです。だから一般の場合の処方箋は、まずは「初動における誠心誠意」ということに尽きます。予防法学的にはそれが正しい。それでも「当たり屋」や暴力団関係者が出てきてこじれたら、速攻で出るところに出て第三者にきっちり判断して貰うべき。いきなり裁判ではなくても、調停や交通事故紛争処理センターなど第三者機関はいくらでもある。常識的にやってうまく行かないものは、専門家に任せるべきで、素人がやればやるほどドツボにはまる。「穏便に〜」なんて言ってたら、下手すれば骨までしゃぶられる。それは虫歯や盲腸を自分で治そうとするようなものです。すべて法律問題は、煎じ詰めれば「人間関係論」です。人間関係がある程度常識的に機能してたら法律問題なんか起きない。単に手続があるだけ(離婚しかり、遺産分割しかり)。困るのは「変な人」であって、変な人が出てきたら、もう「変な人専門家」に任せるべし。僕ら弁護士や警察、その種のプロは「変な人」には慣れっこですし、ヤクザが出てこようが内容証明郵便が届こうが、営業セールスや年賀状やDMくらいにしか思わない。

 余談に流れましたが、因果関係のカンチガイ例でもうひとつ。
 かなりいい線までいってるんだけど、しかし正しくはないという例として、、、、えーと、例えば「リモコンのボタンを押すとTVがつく」という現象がありますよね。リモコン(原因)→TV点灯(結果)という意味では因果関係があるように見えますが、これは正しくない。TVが点灯したのはTVのスイッチが作動したからであり、スィッチを作動させたのはリモコンから発せられる一定周波数の電波であり、リモコンボタンはその周波数を発生させるに過ぎない。だからボタンを押しても電波が出なければ(電池切れとか)TVは作動しない。TV作動の本質はあくまでもスイッチの入切にある。もし、リモコンボタン→TV作動がダイレクトの因果関係があるとしたら、電波とかスィッチとか関係なく常に作動しなければならない。

 しかしこのあたりになってくるとかなり微妙です。リモコンが「原因」だと言えなくもない。現象的には確かにそうですから。しかし、メカニズムや構造機序としてそうなっているわけではない。「きっかけ」ではあるが「原動力」ではない。これは僕らがメカニズムを明瞭に知ってるから誤りだと分かるのですが、最先端の科学領域では未知のものが多すぎるから、気をつけていてもついついそう思いがちなのは無理ないし、「どう考えてもそうとしか思えないのだが、、」ということはよくあるでしょう。「ガンの特効薬」みたいなのものも、実験を繰り返し「多分そうだろう」という仮説は高まるのだけど、でも後々の研究によってひっくり返され、単に「白い服」「リモコン」を誤解していただけだった、ということはあるでしょう。

 科学においては、あらゆる他の可能性が論理的・実証的に完ぺきにありえないと確認されるまで、物事を確定判断するのを控えますし、ましてや因果関係については極力慎重な態度でいます。究極的には「分からない」と。あくまで「関係がありそうだ」という相関関係に留める。それ以上は仮説であり、「多分そうなんじゃないか?」という「お話」「個人的意見」であるとされます。

 そして、それは、臆病でも中途半端でも煮え切らないのでもなく、森羅万象に対する、正しくも敬虔な態度だと僕は思います。

 だいたいですね、人間ごときがこの大自然を「わかった」と思うこと自体がおこがましいのだ。とりあえず能力が貧弱すぎ。例えば、視覚についても極めて限られた光線波長しか認識できず(紫外線・赤外線など人間には見えないものが余りにも多すぎる)、聴覚についてもしかり(犬笛のように犬には聞こえるけど人間には聞こえないとか)。臭覚なんか動物界の中でもかなり無能。大地震の前に鳥や獣が逃げるような予知能力、100キロ以上を帰ってくる帰巣本能、地磁気その他の体内GPS能力。またわずか100年そこそこで死んでしまう人間に、優に1億年単位で変化する自然現象が本当に理解できているのか?さらには大脳というCPUの機能的限界=例えば短時間記憶(RAM)に入れておけるメモリーの容量が限られているから関係代名詞が10以上入り組んだ論理を理解できず、ある自然法則が人間の知的能力を超えて複雑である可能性はいくらでもあるでしょう。これらは観測機器やテクノロジーである程度補うことは出来るが、最初からそれらの存在を感知する能力がなければ、そもそも補おうという意思すら出てこないし、観測された数値を立体的かつ正確に統合理解できるかどうかは疑問でしょう。

 以上は、文系ド素人が懸命に背伸びして理系の庭に踏み込んでの記述です。ボロが出ないうちに(既に出てると思うが)、ピンポンダッシュのようにとっとと離脱し、以下、文系世界の話になります。

社会科学のデーター

 前章は、科学的な不可知論(結局分からないのだ論)みたいなものですが、社会科学の場合はもっともっと曖昧で、「すごいこと」になっていると思います。

 もともと社会科学(人文科学も)というのは、自然科学のような実証や実験がしにくいです。
 社会学や経済学でも「最近の傾向」「戦後日本の○○の推移」とか実証データーを採取して研究するわけですが、まずそのデーターそのものが自然科学ほどの信憑性を持ち得ない。人口動態調査とか税務申告額とか株価とかはまだデジタルに出てきますけど、いわゆる世論調査や意識調査はデーターからして微妙。「景況感」「結婚観」なんか、「どう思いますか?」式質問だから、1分後に同じ質問をしたらもう答が変わっているかもしれない。「将来の生活に不安を非常に感じる/やや感じる/どちらとも言えない/あまり感じない/全く感じない」だって、「非常に感じる」「やや感じる」なんて気分ひとつでしょう。上司にキツい叱責を受けた直後だったら「非常に不安」に思うし、ボーナスが思ったよりも多くてホクホクしてたら「やや」になる。

 それにアンケート調査なんか質問の仕方一つって部分もあります。前にも書いたけど、マーケティング調査の専門会社の知人に言わせれば、それはそれは心理学的に考え抜かれた質問形式をします。聴く順番を変えただけで結果がコロコロ変わる。世論調査や支持率調査でも、「最近の日本では○○とか○○が問題になっているんですけど」とあれこれ失政とか問題点を並べた上で「どう思いますか」と聴けばネガティブな方向に答が引きずられるし、「なんだかんだいって○○とか○○とか改善点もあるわけですが」とポジティブに誘導することも可能。あんなの聞き方必要でしょう。

 だから本格的な市場調査では、数百万から数千万円のコストをかけて実施し、心理学的な偏差を考慮にいれて出来るだけ正確に数値を出そうとする。そりゃ開発・販売コスト数億の商品を作るか/売るかを決めるわけですから、メチャクチャ慎重に調べますし、人間の叡智と技術の限りを尽して真実に肉薄しようとします。しかし、それだけ万全の努力を払って、膨大な数値データを収集、解析しても、最後の最後は「解釈一つ」だと言います。それはそれは職人芸の世界らしいし、当るも八卦の世界らしい。そのことは、この世に「売れない商品」がどれだけ多いか、売れ続ける商品がどれだけ少ないか、コンビニの棚からどれだけ大量の商品が日々消えているかを考えたらお分かりでしょう。

 ちなみに、「聞き方一つ」というのは、証人尋問のテクニックでもあります。「天使のように素晴らしい人でしたか?」と聴けば「いやそれほどでも」と答えるし、「極悪人でしたか」と聴いても「それほどでも」と人は答えるのだ。極端な質問をされたら人は中間に戻そうという自然なバランス感覚が働く。そして前者は「それほど素晴らしくはなかった」というネガ風味、後者は「そんなに悪い人ではなかった」というポジ風味に要約されちゃったりして、それが証人尋問調書に記載され、後日の証拠になる。法廷で目の前で聴いていれば、まだしもそのあたりのニュアンスが分かるけど、これが裁判官が転勤で替わってしまったり(よくある)、控訴審になれば、この調書の記載しか証拠が残らない。ある意味、恐いですよ。だから法廷ではテクニックが必要であるし、逆にいえばテクニック一つで右にも左にもいく。

 また、日本国民全員にせーので調査するわけでもない。サンプルケースが数千から数万人ですから、人口1億2600万人規模からしたら、いいとこ0.001%でしかない。だからCDがミリオンセラー!100万枚突破!大ベストセラー、この曲を知らない奴は日本人じゃない!くらいの勢いでマスコミで喧伝されても、人口比でいえば126対1ですからね。126人中125人は買って「ない」わけですからね。ほんとにそれってベストセラーなの?という。

 こーんな曖昧なものが「データー」の名に値するのか?といえば、もちろん値します。他にこれといったものがないわけだし、不完全ではあっても、「ウチの職場の皆はそう言ってる」等のさらに極小レベルのデーターに比べたらまだしも客観性がある貴重なデーターです。が、そうであっても、この程度でしかないという。

 何を言ってるかというと、もともとこの世の実相や現実なんか分るわけが無いってことです。
 よく「揺るぎない現実!」とかドーン!というけど、本当にそんなに揺るぎないの?本当にそうなの?というと、「そう思ってるだけ」「そう感じているだけ」「そういう物語を自分で作って、その中で演じているだけ」じゃないかと。

物語

 良く言われることですが、人には誰でも「自分の物語」があり、その物語を「現実」だと思いこんでいるに過ぎない。

 「しかし、現実を考えれば」「もっと現実的になれ」とかいうけど、そこでいう「現実」って何なのだろう?僕らの「現実」は、いつだって厳しいし、「はああ」と溜息をつきたくなるくらいやるせない。夢はロックスター!で頑張って練習してライブハウスで演奏しても、観に来たのは10人にも満たない。メンバーの彼女と、あとは数名。タダ券配りまくって、このていたらく。はああ。これが「現実」、キビシーよね。

 でも、ちょっと待って。そこにあるのは、「今日のライブには、10名以下の観客が来た」という現象や事象であり、それをどう捉えるかは、すぐれて「解釈」なのだ。「スターになるという夢からすれば、ほぼ絶望的な、ミジメで情けない状況だ」というのは「解釈」に過ぎず、また「物語」に過ぎないのだ。「絶望」なんて、主観的な評価判断でしかなく、勝手にそう思いこんでいるだけなのだ。

 大体ですね、言っちゃ悪いけど、そんな日本最高峰レベルにテクニックがあるわけでもないし、ルックスが飛び抜けて優れているわけでもないし、オリジナルとは名ばかりのパクリすれすれの曲ばかり演奏していながら、この世知辛い世の中、この貧乏ヒマなしで皆さん疲れている世相でですよ、わざわざ足を運んで&金払って観に来てくれる人が、仮に一人でもいた!というだけで「大偉業だ!」と解釈することも可能ではないのですか。それに「何をしていいのか分からない」「自分が何が好きなのかわからない」という人も多い中、多少アホみたいでも「スターになる」という夢を持てて、それを一緒にやってくれる仲間がいるだけで、もう絶対的に「幸福」ではないか。そもそも音楽をやるのは、自分の好きな「音を鳴らす」という事それ自体が究極の目的であって、問題はゴキゲンな音を出せたかどうかであり、それが世間で受けるかどうか、メシが食えるかどうかは全然別問題ではないのか。また客の数よりも質、さらに反応の良し悪しという重要ポイントもある。10人しか来なくても、その10人がノリノリになって大満足で帰ってくれるのと、1万人の集客をしたけど全員からブーイングを浴びまくるのとどっちがいいのか?明日につながるのはどっちなのか?総じていえば、好きなことがあって、それを思いっきり実現できて、一緒に夢見てくれる仲間がいて、律儀に応援してくれる彼女がおって、あまつさえ関係ない人すら観に来てくれたという、すげえじゃん、これ以上何を望むというのだ?強欲すぎると天罰が下るぞよ、と言えなくもないのだ。

 だから「絶望的な現実」というのは、ほんの一つの解釈に過ぎない。「現実」なんか無限にあるのだ。無限に考え得る、解釈しうる現実の中からどれを選ぶか?それこそが問題なのだと思います。そして、そのためには、いかに多くの物語を「考えつけるか?」。これが今回一番言いたいことです。

 この種の「なんとでも考えられる」というのは、とてもとても大事なことだと僕は力説したいです。

 そして、同時に「そう思えばそういう現実になってしまう」ことも、とてもとても怖いことです。幽霊とか、地震とか、世の中怖いものは色々あるけど、個々人の日々の生活や人生において何が怖いって、この「思いこみ」くらい怖いものはないでしょう。場合によっては、いともたやすく人の命を奪いかねない。

 カウンセラーやアドバイザーというのは「物語創作補助業」だと思います。
 弁護士時代に何となくわかってきたことであり、また先輩諸氏からも「要は本人が心から納得するかどうかだ」と教えられたのですが、弁護士というのは、とある法律案件について法的アドバイスを与えたり、法的事務を代行したり、訴訟や交渉を有利に運んだりすることに尽きるものではないです。もっと大事なことがあります。離婚にせよ、破産にせよ、何にせよ、何らかのトラブルに遭遇して、それをその人がどういう人生上の位置づけをするか、どういう解釈をするか、どういう物語を作るか、です。あれこれお話しして、それを一緒に考えるのが仕事だと思うし、単に技術や知識の切り売りをするだけではプロの仕事としては不十分だと思います。

 例えば二回目の結婚も破綻した女性がいたとして、世間では単に「男運がない」「なにか性格的に欠陥がある」という「物語」に収束させがちな傾向があったりします。本人もそう思いこんで、その物語の中で生きている。そして不幸感に埋もれて疲れ果てている。もう、どうすればいいのか自分でも分からないという。そういう場合、まずはガチガチに固まった物語を分解していきます。てか、自然に話がそういう流れになります。真剣にやればやるほど、そうなってしまう。

 男運が悪いとかいっても、とりあえず二回も結婚まで漕ぎつけているんだから、むしろ男運は良い方ではないのか?全くその種の話に縁のない人だっているわけだし、一概に「悪い」と決めつけるのが正しいのか。また、離婚=失敗というなら、自分を殺し、心を滅して、ただただ世間体のために仮面夫婦を続け、シベリアのように冷え切った一生を送るのが「成功」なのか?結果的に破綻したからといって、その全ての時間が無駄と苦痛に満ちていたのか?また、それが苦い結末で終るならば、せめて何事かを学ぶべきではないのか。今回のことから何が学べたのか。そもそも「途中でやめる=不継続」は全て「破綻」という忌むべき事なのか?

 さらに、今後なにをどうすればいいのか?その上で、さて、今回の離婚訴訟は、何を目標にするのか、とにかく慰謝料をふんだくりたいのか?とにかく早く忘れたいのか?自分の意見を言えず、優柔不断に流れ、自分を押えて押えて結局はダメになるというこれまでのパターンを変えたいのか?生まれて初めて、何かに対して「NO!」と言いたいのか。男女関係だけがあなたの人生の全てなのか。

 もちろん、単に技術と知識の切り売りだけを望むクライアントもいますので、それはそれで対応しますよ。楽ちんだしね。大企業のビジネスロイヤーとか、サラ金の顧問とか、単に「仮差押え一本打っておいて」「競売かけて」とか、事務処理で済むので楽です。でも、僕のところは町医者みたいな雑然とした市民事件が多く、つまりは普通の人の普通の事件がメインであり、僕としてもそれをやりたかったです。なんといっても一番面白いですから。まあ、面白すぎて、しんどすぎて、死にそうでしたけど(^_^)。

 これは今の仕事でも全く同じです。だから、あんまり仕事的に変わったという実感がないんですよね。まあ、同じ人間がやってるんですから、どんな仕事も似たような感じになっていって不思議はないですけど。留学だ、ワーホリだ、移住だという場合、さてどういう「物語」を作りましょうか?です。そして、日々の細かい事柄やトラブル一つ一つにどういう意味づけをするか、どういう物語を作るか、です。

 よく弁護士は「黒を白と言いくるめる」と揶揄されたりしますが、はい、確かに黒を白と言いくるめる技術と力は持っているかもしれない。しかし、全ての「力」がそうであるように、「力」というのは自分や他人を幸福にするためにだけに使われるべきであり、それ以外の使い道はないし、あってはならない。

 それに僕が言っているのは、「言いくるめる」必要などない、ということです。黒も白も最初から「色」なんかないのだ。事実は常に無色なのだ。それを黒く塗ろうが、白く塗ろうが、ピンク色に塗ろうが、ウンコ色に塗ろうが、それは本人の意思次第であり、選択です。僕は、ほら、その気になったらどんな色にでも塗れるだろ?ってことであり、だからこそ選択が大事であり、じゃあ何色がいい?って問いかけているだけです。

 物語は無限に作れます。でも、どうせなら豊かな方がいい、出来れば幸せになる方がいい、出来ればその人らしいものがいい、その人の根っこにあるカラーが自然に出ている物語の方がいい、と僕は思います。


 僕らの世界観は物語に満ちています。
 それは一連の営みに限らず、自己認識・アイデンティティもそうですし、かなり客観的と思われるような状況すらそうです。ある状況をもって「着々とスター街道を上りつつある」という物語にするか、「どんどんマトモな人生からドロップアウトしている」という物語にするか、いくらでもある。「何をやっても続かないダメな私」という物語に埋もれるか「本当に本気になれるものを今頑張って検索中です」という物語にするか。「引っ込み思案な私が、勇気を奮い起こして、ささやかな、でもとても意味のある一歩を踏み出そうとしている物語」と思うか、「ガラにもないことをやってまた痛い目に遭う物語」と思うか。「日本社会は閉塞状況にある」というのも一つの物語でしょう。「閉塞」ってどっかに「蓋」があるのか?

 100人の人々と一緒にせーので何かをやらされ、頑張って頑張って、でもついには力尽きてしまった。リタイアしたのは100人中自分だけだった。ここで、「なんて自分はダメな、根性のない人間なんだろう」という物語にしがちですよね。でもね、僕なら、「よくやった」と言いたいです。なぜなら「限界までチャレンジしたのはお前だけ」だからです。人の能力や状況というのは千差万別で個人差があって当たり前。他の連中が完走できたのは、その物事がたまたま各人の限界内に納まってくれたからです。限界を超えていたら同じように倒れていたでしょう。倒れるからこそ「限界」なんだし。それをちゃんと倒れるまでやったということは、ちゃんと限界まで頑張ったということでもある。だから、一番頑張ったのはお前であり、一番根性があるのはお前だよってことになる。

 これは黒を白と言いくるめているのではなく、そういう物語もあるという可能性の示唆であり、さらにいえば物語以前の「事実」レベルの話だと思います。そうじゃないですか?成長とはしょせん限界を押し上げることであり、成長しようと思えば、とりえあず自分の限界周辺まで行かないとならない。どこまで肉薄できたか、乗り越えようとしたか、それをチャレンジといい、そこで感じられる種々の不快感やストレスはまさに産みの苦しみでしょう。これほど意味のある、これほど尊いことをしておきながら、なぜそれが「ダメ」なのか。くだらない物語に毒され、洗脳され、ごく初歩的な事実認識すら出来なくなったら、そりゃ問題でしょう。「ダメ」というのはそういう状態をいうのだと僕は思う。

 さて、他にも色々な「物語」論はあります。例えば、気持ちが揺れたり、落ち込んだりするのは、複数の物語が自分の中で走っていてせめぎあっているからだとか。人間関係、とりわけ男女間ですれ違いや対立が起きるのは、二人が持っている物語が微妙にずれているからだとか、そこはもう沢山あるのだけど、今回はこのくらいにしておきます。キリないし。

 最後に、書きながら、「そういえば」で思い出した映画があります。"Good Will Hunting"というマット・デイモン、ロビン・ウィリアムス主演の映画ですが、子供の頃虐待されたトラウマで、天才的頭脳を持ちながらグレてしまい、その日暮らしをしているマットデイモンが、ロビンウィリアムスのカウンセリングでブレイクダウンするシーンが印象的でした。辛い過去から目を背けるために、「俺はこういう人間だ」「こういう人生が一番いいんだ」と無理やりに思いこんで、そういう物語でやってきたんだけど、ロビンウィリアムスに"it's not your fault"と何度も言われていて、ついにはその物語が破綻崩壊する。いきなり泣き崩れるシーンはジンときました。その直後、ガランとした電車の中で夕暮れの車窓を眺め続けるシーンが続くのですが、暮れなずむ街の普通に優しげな佇まいが、崩壊した嘘の物語から新しい本当の物語にシフトしていく何ともいえないしっとりした落ち着いた感じを上手に描写してます。いい映画ですよ。


文責:田村



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