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今週の1枚(2012/11/05)



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Essay 592:部族社会と互換性(2)


 写真は、今年の岸壁の造形展(Sculpture by the Sea)から。
 しかし、これ、一発芸のような作品ですね。あまりにも一発芸的なので気に入りました。

 例年快晴日に行ってたのですが、今年は曇天。しかし曇天でもなかなか味があるなと思ったのでした。

 今年の展示はもう終っちゃいましたけど、しかし、来年3月には同じ出典品でパースのCottesloe Beachでやります。その前に1月からはデンマークでもやります(AARHUS)。



 前回の続きです。
 前回は、100年スパンの未来の方向性として、国家という中間団体の役割が徐々に退潮し、その代りに今の市町村くらいの”手頃なサイズ”な集団、それは趣味・嗜好や哲学などポリシーやテイストを基軸にした部族社会のようなものが台頭していくのではないか、そうなった方が楽しそうだということを書きました。そして、世界でおそらく数百万単位になるこういった集団を規律するのは、巨大な中央政府ではなく、組織間相互の自由で透明な互換性プロトコル(約束ごと)ではなかろうかと。

 言いたいことは前回でほぼ尽きているのですが、もうちょっと敷衍したい部分を、雑談かたがた、散歩みたいなリズムで、ポコポコと書いていきます。

1%でいい

 最初に趣味を貴重にした部族社会といっても、その「部族」性は、ゆるゆるなもので良いと思ってます。「北斗の拳」に出てくる「修羅の国」みたいな苛烈なものである必要はないし、全員が狂信的に何かを信じているってものでなくてもいい。そういう「濃い」部族があってもいいとは思うけど、その殆どはもっとほんわり味がついているくらいでいい。

 例えばここにサーフィンが好きな人達の部族社会があるとします。といっても、全員が全員朝から晩までサーフィン三昧ってわけではないです。そんなに遊んでばっかりだったら社会として成り立たないし。食糧をはじめとした生産活動、教育、治安維持、金融、建築、水道電気のインフラ、医療、、ひととおり必要でしょう。サーフィンやってたって美味いものは食べたいだろうから良いレストランも必要だし、髪も伸びるから美容師さんも必要。要するに今と大した変わらないわけで、そういう人材がワンセットは要る。全活動のうちにサーフィンの占める割合はせいぜいが1%くらいでしょう。

 でもその1%に意味がある。そこに住んでるのはサーフィン好きな八百屋さんだったり、サーフィン好きな銀行員だったり、いずれもサーフィンを自分でやるか、ある程度興味があるか、少なくともサーフィンに対する悪感情はあまりもっていないこと。ココが結構重要だと思うのですね。だから、サーファーだったらツーカーで分かる絶好のチャンスのような大波が来たら、その町中の通常業務が多少停止しても「まあ、しょうがないか」と市民の理解がある。やりやすい。このやりやすさが、人間の幸福感につながるキーポイントになると思うのです。

 アホみたいな話をしてるようですが、似たような実例は昔からあります。広島の知人に聞いたのですが、あそこはカープファンが多いから、広島市民球場で広島戦をやっていて、盛り上がってきて7回裏カープの反撃、くらいになると、残業中の市役所の職員さんたちが、「さて、、」という感じで席を立ち、球場に行ってギャンギャン応援し、いい汗をかいてからまた職場に戻り、残業を続けるという。勤務時間中に野球観戦などとはケシカラン!とは、あまり誰も言わない。まあ、本当の話かどうか知りませんが、いい話だと思います。ファシズムのように他者に強要したらダメだけど、ほんわかと許されている程度のレベルであったら、これは微笑ましい話なんだと思うのですよ、僕は。

 この種の事柄は、実は昔からどこでもあります。京都の古くからの町衆だったら祇園祭に燃えるし、東京下町は三社祭とか、博多どんたくとか、スペインの闘牛とか、イタリアのサッカーとか、オーストラリアのメルボルンカップとか。「この日は真面目に仕事しなくても、まあ、いいよね」みたいな日があるし、許されている。この「許されている」という春風のような感じが僕は好きです。

 だったら今のままでも良いじゃないかって言われるかもしれません。いや、それでも別にいいんですよ。ただ、もう少し積極的にこの「ええ感じやね」ってのを認識し、広めたらどうかと。今は、たまたまそこに生まれ育ったとかそういう宿命的で受動的なもので決まっちゃうけど、もっと主体的、能動的に、自分にとって「気持ちのいい場所」を探す自由を増やしたらいいんじゃないかと思うのです。

精神的幸福の調整

 すごい原理的な話をしますと、大体において人間の幸福とは、餓えない程度に食糧があって、そこそこ健康であったら、あとは精神的なものばかりでしょう?マズローの欲求段階説でもそうですが、認められたいとか、チヤホヤされたりとか、自分らしくありたいとか、その種の精神的な欲求です。

 今の日本や先進諸国は景気は悪いかもしれないけど、だからといって即餓死するってほどの危機ではないし、ある程度の健康や医療は整ってます。「盲腸になったらもう死ぬしかない」みたいな状況ではない。だから、ここから先は、精神欲求メインの世界になります。消費社会、物質社会と言われているけど、そこで幾ら物質的なものを追い求めようとも、基本的にそれらは精神的価値に換算して消費されている。

 なんで流行のファッションがいいの?といえば、それによって周囲に認められたい、ちょっと鼻高々になりたい、新しい装いの自分になって良い気分に浸りたいという精神的価値でしょう。なんで勉強して+仕事して+お金持ちになって+勝ち組になりたいの?といえば、今の10倍の量のメシを食いたいというよりは、それに伴う達成感であったり、周囲の賞賛であったり、自分がそれなりの人間であることを確認して「いい気分になりたい」という精神的な価値でしょう。いわゆる負け組になったからといって、いきなり死んでしまうわけでもないし、耐え難い身体的苦痛が襲いかかってくるわけでもない。

 つまり、一定限度の物質レベルに達した後は、いかに精神的に満足するか、どう「感じるか」というメンタル面でのチューニングがメイン作業になるわけだし、ならなければならないだろうと。これは「うつ」のシリーズで主観的価値世界でも書きましたが、これだけ食うに困らない恵まれた環境にいながら憂鬱な気分が抜けないのであれば、それはメンタルチューニングに失敗しているのだと疑った方が良いのではないか。

 では、人の精神的充足はどういうパターンによりよく満たされるか?です。それは無数のパターンがあるのでしょうが、部族社会論とのカラミでいえば、二つ思いつきます。@周囲の人間と波長が合うかどうか、A主体性があるかどうか、です。

「合う」空間

 周囲の人々の雰囲気や空気感によって僕ら個々人の精神的快・不快は大きく左右されると思います。
 これは人生のハイライトみたいな特別な瞬間(甲子園優勝!みたいな)よりも、24時間エブリデイ・ライフにおいては、かなり決定的だと思う。なんとなく価値観の異なる人達、まとっているオーラや雰囲気が違う集団の中にまぎれこんでしまったら、精神的にやっぱりツラい。例えば、宗教カルトの中に入ってしまって「ついていけない」と思ったらキツい。また、暴力団のように「気に食わない奴はぶっ殺しゃいいんだ」と本気で思って、いきなり手を出すような連中ばっかりの中にいたら、そういうのが好きでない限り、しんどいでしょう。人間の価値は、家柄・身分さらには偏差値・一流・有名等そこらへんのことで決まるのだと心の底から本気で信じているような人達ばっかりだと(たまにいるよね)、僕はやっぱり「うぎゃー」って言いたくなります。

 雰囲気とか空気感というのは、とても曖昧な概念で、目に見えるものではないのです。でも実在としてそういうものがあるというのは異論ないでしょう。そして、それは「絶対的」といっていいくらい日々の幸福感を決めると思います。「馴染めない」というのはやっぱりツラい。この感覚については、古くから「肌が合う」「水が合う」「波長が合う」「馬が合う」と色々な表現があるくらいで、そこが「合う」=マッチングが良ければ人間というのは他愛なくハッピーになっちゃうものだと僕は思うのですよ。

 でも、今のところ、この波長同調は、かなりの部分を偶然に頼ってます。職場の雰囲気、クラスの雰囲気、住んでいるエリアの雰囲気など色々あるけど、波長重視で選んでいるわけではない。給料とか、キャリアとか、偏差値とか、家賃とか他のソリッドな要素で選んで、「たまたま」配転された職場なり人間集団が合うかどうかという偶然性が強い。

 だったら、それをもっと自由に、積極的に選べるようにしたらいいじゃないかってことです。

 今の人類は、ソリッドで物質的なことは十分満たせるくらいの科学技術を既に習得している。ESSAY 534/愛という名の「通貨」でも書きましたが、古来人類が発明・発見・改良・工夫&試行錯誤を数千年にわたって営々と頑張ってきたのは何故か?といえば、「もっと楽になる・ハッピーになる」ためでした。その甲斐あって、今や石器時代よりも数千倍の農業生産力が得られている。だったら数千倍、楽でハッピーになってなければならない筈です。でもそうなってない。むしろ技術が進歩し、頑張れば頑張るほど逆に失業の危機に瀕したり、将来が見えなくなったりする。おかしいじゃないか。何か間違ってないか。

 何がイケナイの?といえば、頑張った分の「果実」が、途中から皆の手に入るのではなく、「利潤」という形になってしまうからでしょう。幸福(楽ちん)追求のための行為が、いつしか利潤追求になってしまい、やがては利潤のための利潤になってしまっている。

 だったら!です。かつて人類が夢見たような理想社会の、少なくともマテリアル(素材)だけは揃ってきているんだから、とっととそれを賞味すればいいじゃないかと。はっきりいって80年代中ば以降、「絶対にこれが欲しい」という物質的なものは少なくなっている。商品も、目先を変えたり、飽きさせたり、プレミア付けたり、ステイタスに訴えたりという浪費のための浪費みたいなものが多い。前述のように今は精神的満足を売る時代だから、逆に皆に精神的に満腹して貰ったら困る。だから、あの手この手で精神的飢餓感や欠落感を植え付けて、それで買わせようとする。「いまどき恥ずかしい」とか、古いとか、ダサいとか、もうダメだと、不安だとか、、、しかしね、この先、未来永劫こんなことをやり続けるのか、それで未来は明るくなるのか。

 これって、何かに似てるな?と思ったら、「積ん読」に似てるのですね。英語を勉強しようとして、せっせと情報を集め、良いと紹介されている参考書やメソッドがあったら買い集め、レアアイテムも買い揃え、、ってコレクター心理にかられてしまって買うんだけど、で、読んでるの?勉強してるの?というとやってない、という。YouTubeでも何でも、「お!」と思うものがあったらガンガンとダウンロードするし、する度にまた新しいクリップが見つかり、興味をそそられ、芋づる式に山ほどダウンロードするけど、見てるの?というと見てないという。

 生産とか社会とか経済とか効率とか国家とかいうけど、とりあえずメシが食えて、そこそこ安全だったら、もうそれで良いことにすればいいじゃん?そこから先はココロの問題、趣味の問題なんだからさ。それを生産とか経済とかで解決しようとしたって無理でしょう。ココロは商品化できないし、してはいけない。経済の上に乗っからないし、乗せてはいけない事柄でしょう。

 それを無理に「経済発展して解決」なんて古い方法論にこだわってるから、「幸福もどき」みたいな疑似幸福ばかりが増える。余暇の使い方や遊び方なんか、すぐれて精神的なもの、個別的なものなんだから、カタログのなかから購買活動をしてるばっかりが能じゃない。アニバーサリーだって、別にバラを送ったりワインを開けたりしなくても(それが悪いわけではないが)、ちゃんと相手の目を見て、心のこもった言葉を伝えればいいだけでしょう。10年目の結婚記念日は、気恥ずかしくても、「結婚してくれてありがとう。ほんと、感謝してる。これからもよろしくな」って言えばいいわけでしょ。そりゃこっ恥ずかしいけど(書いてるだけでも気恥ずかしいし、自分でもやってないが〜次回頑張ろう(^_^))、でもその真心が大事でしょう。でもマゴコロは商品化出来ない。真心を表現するバラの花束とか、そういう商品になる。それは良い。でもそれだけだったら疑似でしょ。あればいいってもんじゃないし、無ければダメってもんでもない。

 オーストラリアに来られたワーホリさんにはよくラウンドを勧めるのは、どっかの町のどっかの仲間とたまたま波長が合う状態に出くわすからです。そうすれば、とりあえず食うところと寝るところと、あとはいい仲間がおれば、実は人生ほかに何も要らないってことが分かるからです。それは一瞬かもしれないけど、その感覚はかなり大事なもので、大袈裟にいえば「悟り」みたいなものです。そこが一旦ストンと腑に落ちたら、人生ずいぶん楽になります。怖くなくなる。僕自身はラウンドのような経験はしなかったけど、20代から30代はじめくらいの10年間であれこれ綱渡りみたいなことやってきて、、「ストンと腑に落ちる」感じは分かった。どっかでそういう体験は必要だし、20-30代の間にそれをやっておくかどうかってのはかなり大事なことだと思います。それをゲットするのがこの年代の最大の課題だといってもいいくらいかも。

 で、部族社会論に戻るのですが、その程度のベーシックな物質的レベルだったら、市町村の規模の集団だって、ある程度なんとかなるでしょう。勿論、なにもかも自分らで生産するわけにはいかないけど、自給自足しなきゃいけない必然性もない。これまで培った取引や流通の膨大なノウハウがあるんだし、活用すればいい。「取引で何とかする」なんてのは、シルクロードの昔から皆やってたことなんだから別に不可能ではないし、そんなことも出来ないようでどうする?です。

主体性

 精神的充足をもたらす第二の要素は「主体性」だと思います。

 あてがわれたり受動的でいるのは、楽かもしれないけど、面白くないです。お腹はふくれるかもしれないけど、ココロは満たされない。刑務所の受刑者みたいなものです。やっぱり自分で考えて、自分で動いて、自分で形にしていくその過程が面白い。

 前回ちょっと歴史の復習したように、中世封建社会は、そのあたりが決定的に欠落してました。当時の一般庶民は、農地という生産手段の付属品みたいな扱い(農奴)だったから、ガンジガラメに土地に縛り付けられていた。彼らが自由に移動できちゃったら封建支配システムというのは根本的に瓦解してしまう。ココはかなり重要なところで、だからこそ憲法22条に職業選択の自由のほか、「居住移転の自由」や「海外渡航の自由」がわざわざ明文で書かれているわけです。僕も法学部に入った当初は、「引越の自由」なんて、なんで憲法で書くんだろう?と不思議だったのですが、歴史的にいえばココが決定的な分水嶺になる。今だって話は同じで、仕事と住まいの自由が制限されればされるほど、やっぱ幸福感は低くなる。それは人生の主体的な創造性を大きく制限されてしまうからでしょう。

 ゆるい部族社会ネットワークがいいなと思うのは、この主体性を最大限に発揮しうるからです。
 一つは、自分の性格や、その時点での人生のテーマにあわせて住む場所を決めたり、仕事を決めたりするのが自由になる。そりゃ100%は難しいけど、今よりはやりやすくなる。日本はおろか世界中にいろいろな特色をもった部族社会があって、基本的にいつどこに入るのも出るのも自由ってしてたら、面白くないですか?「音楽の町」だけでも世界中に10万町くらいあって、さらに細かくバロック時代のチェンバロに特化した町とかあったりして。それに、一生に一度は住んで修行してみたいという「虎の穴」みたいな町もあったり。

 その自由は、単に自由だという価値だけではなく、自由だからこそやる気も欲も出てくるし、それが主体的な人生の組立てにつながっていく点で意味がある。20代までの世界中の町々を最低でも300から500巡り歩いて、武者修行する。その上で、燃えられるテーマを見つけ、10年くらいは修行三昧、さらにそのスキルをもとにやりたいことが出来たら、それに相応しいところに移動して展開し、「俺は確かに人類に貢献した」と胸を張れるだけのものを作り上げたい、でも60歳過ぎたらスパッと引退して、文学の村に籠もって朝から晩まで文学三昧、夜は仲間と快酔しながら青臭い文学談義で花を咲かすとか、「組立て」が出来るようになるでしょう。それが狙いで、それが幸福感を高める。

 もう一つの「主体性」は、その部族社会の運営を全部自分らでやらないとならないことです。
 国や都道府県がやってたことを自分らでやらないとならないんだから、ハンパじゃないです。上下水道の整備とメンテ、動力源を得るための発電所。医療教育福祉の社会インフラ。経済活動の奨励と規制。そして対外外交。超大変なんだけど、でも、自分らで、それも比較的波長の合うような連中といっしょにやっていくのは楽しいですよ。やりがいもある。かなりのフリーハンドを得られるから、今のように、一定から上のレベルになったら、結局国政や法令の壁に邪魔されることも少ないし。

 何が言いたいかというと、今と同じように普通に仕事して、普通に生きていたとしても、「なんでそれをやってるの?」という文脈が自分で納得できたら楽しく感じるだろうって事です。しょうことなしに、もうこれ以外の選択肢がないからみたいな感じでやってると、やっぱり閉塞してくる。あらゆる可能性が開かれつつも、でも敢えてこれを選んだという主体性があれば、そしてその文脈の中で仕事をすれば、生きていく充実感も出てくるでしょう。

 余談ですが、多分人類の営みの中で最高に面白いのが「国作り」だと思うのです。僕自身、仕事で自己実現とか、気の合う仲間と会社つくったりネットワークやるとか、ポーンとオーストラリアにやってきて必死こいてメシが食える程度の自営業を形にしていく、、、ってやってきて、これ以上に面白いことといえば、もう国を作るしかないよなって30代の頃に思ったもんです。

 国家というのは、国際法上、領土+国民+統治機構があれば基本的にテンパって、あとはリーチかけて(独立を宣言して)他の国々から「承認」されるかどうかです。現時点でも、実体は国なんだけど承認されてない(てか、途中で日米に手の平返されてしまった)台湾(中華民国)みたいな存在もあります。グルジアの南オセチア共和国もそうだし、パレスチナは世界で130国が承認しているけど日本政府は承認していません。

 ま、そこまで国際法的にかしこまって考えなくても、本質は、トータルで自分達で考えて、デザインして、実際に作っていくという主体的な部分が面白いということです。やるべきことは死ぬほどあります。財源、資源、インフラ整備、行政システム、なによりも集団を貫く理念を考える。数百部門にわたる専門プロが一セットは必要です。僕ら法律屋は、憲法から細かい行政法規まで「六法全書を全部自分らで作る」という気違い染みた作業が待っているでしょう。わはは、燃えるぜ。それと、今だったら英語教育のカリキュラムくらいだったら助力できるかも。他にも、それぞれのスキルに応じて、アホみたいに仕事をして貰わねばなりません。あなたが銀行関係者だったら、「じゃ、銀行作って」と言われてしまうという。メチャクチャ大変ですし、発狂しそうなくらい勉強も努力も必要ですが、それだけにメチャクチャ面白くもあります。明治初期はこれを皆でやってたんですよね。「2年プロシアに留学して、帰ってきたら同じものを日本に作れ」って。畜生、楽しかっただろうなあ。

 他にも対外関係を円滑にすすめるクレバーな外交も必要だし、必ず生じる内部での派閥争いとか、妥協点の模索とかもやらねばならない。政治というものがどこか遠い世界の関係ない人達の話ではなく、自分らの話になります。文句垂れてるだけでは1ミリも前に進まないからやるっきゃないし。でもやっただけの収穫は全部自分らのものですから、達成感も凄い。大の大人が本気になって遊べる最後の聖域でしょう。

そんなこと出来んの?現実性あるの?論

時代が動く

 ここは当然出てくる疑問だと思いますが、出来るかどうかといわれれば僕も分かりません。てか、分かってしまうような未来じゃ面白くないし。それに、今日明日、そしてここ数年にどうなるって話ではなく、ゆっくりと時間かけて22世紀のアタマにくらいには大分形になってくるんじゃないかな?くらいのタイムスパンです。欧州の中世封建社会が都市国家や絶対王政に変化したのはかなり天地がひっくり返るくらいのドラスティックな変化でしたけど、でも、基本的には自然のなりゆきでそうなってるわけだし。

 歴史を動かすのは、少数の英雄によるのではなく、経済環境とか技術の発展とかそれによる人心の変化という下部構造がマントル対流のように動いたからでしょう。ルターの宗教改革はキリスト教2000年の歴史の中でも最も大きな革命だったけど、ルター以前にも同じ事を言ってた人達がいて(フスとか) 、でも彼らの場合は時機が熟してないから反逆者として火あぶりにされてしまった。

 明治維新もあのタイミングだったから成就したのであって、それ以前に幕府に楯突いたのは大塩平八郎の乱があります。これは1837年。黒船が来たのは1853年だから15年早かった。ちなみに大塩の乱は、事柄の本質からいえば、しょせんは政権交代クーデター&内戦であった明治維新よりも、よっぽど純粋に市民革命としての性格を帯びており、もしあれが成功してたら日本はフランスみたいな国=市民の精神的なバックボーンに革命が入る=になってたかもしれないです。企てそのものは半日でポシャったけど、幕府や一般の日本人に与えた衝撃は大きく、その後もこの種の反乱は続いたし、幕府の権威はかなり下がり、「幕府なにするものぞ」という気風が後の幕末の精神的土壌を作った。

 このように変化というのは波状に生じる。Aという人為的イベントによって、Bという環境(人心や経済構造)がわずかに変化し、その変化がまたCという人為を生み、CがDという環境変化をさらに促進する。360度の角度からすれば1度変わっただけでは、実際にはその変化はほとんど感じられない。しかし、そのほんの僅かな変化が180回続いたら、いつのまにか180度真逆になっている。1年に1回1度違うと180年、1年に2回で90年、年に9回(4か月に3回くらい)だと20年でガラリと変わる。日本で言えば、あのシャープが潰れそうですとか、検察庁の正義はもう信頼しにくいとか、原発の安全性とか、ちょっとづつ変わってる。10年前だったら本格的な政権交代なんか絶対に日本では起きないと思われていたし、毒入りギョーザとか輸入食材の危険性を言ってた頃はまさか国産食材の方が危険に感じるなんて誰も思わなかった。20年前だったらオウムのように日本で宗教にからんで反社会的な企てが起きようとは誰も予想をしてなかった。

 You Can't Change the World, But You Can Make a Dentというのは、よく引用される英語表現ですが、「あなたは世界をガラッと変えることは出来ないが、世界に凹みを与えることは出来る」。一気に全てを変えることは誰にも出来ない。しかしその凹み=それは人の営みであったり、事件であったり、それにともなう人心変化であったり=が積もり積もっていくうちに、気がついたら東向いてたのが西向いてるようにガラリと変わる。時代が変わるというのはそういうことで、どっかの政治家の壮大なビジョンで変わるわけではない(それが一つの凹みをもたらすことはあるし、全ての条件が整った時点でたまたま果実を拾うかのような政治勢力があることもある。)

 だからこれは出来る/出来ないという問題ではないです。地下のマントルの動き、100年スパンのゆっくりとした、しかし争えない動きを感知し、想像しながら、そのエネルギーを用いて、波乗りのようにどっちに方向にどうなればよいと思うか?でしょう。

国家のサイズ

 僕ら日本人が何となく思ってる国家のサイズというのは地球平均でいえばかなりデカいです。まずをそれを知るべし、でしょう。日本というのは経済面以外でも意外と大国で、世界200カ国くらいあるうちに、人口数でいっても、言語話者数でも世界のベスト10に入ります。問答無用の大国ですわ。

 デカさ(面積)については世界64位ですが、これだってそこそこデカい。なまじ周囲に、中国、ロシア、米国というマンモス級の国々に囲まれているから卑小感があるのだけど、実はそんなに小さくない。日本よりも大きな国は、むしろ広大な領土をもてあまし気味の発展途上国が多く、先進諸国は日本よりも小さい場合が多い。ドイツは僅かながら日本よりも小さいし、イタリアは日本の80%、イギリスは6割ちょい、韓国は4分の1ちょい、北海道よりも小さな国は、オーストリア、アイルランド、デンマーク、九州とオランダがほぼトントン、イスラエルは四国を一回り大きくした程度であり、ずっと昔に書いたようにレバノン(ジャマイカも)=岐阜県(ないし新潟県)です。リヒテンシュタインは浜松市とほぼ同じ、カジノで好景気なマカオの大きさは福岡県太宰府市や東京都府中市くらいです。世界で一番小さいバチカン市国は、東京23区で一番小さい中央区のそのまた半分以下でしかない。

 何を言ってるかというと、アメリカや中国などをみて、あれを「国」だと思っていたら大間違いだということです。それはアフリカ象をみて動物を全てああいう大きさと思うような、クジラを見て魚はみんなあの大きさと思うくらい間違っている。平均すればもっと「手頃なサイズ」です。ともすれば、日本は「ちっぽけな島国」的なアイデンティティを持ちがちだけど、イギリスはもっとちっぽけな島国なのだ。最弱点である面積ですら結構なモノなのだから、これが得意科目の経済力とか人口でいったらさらに凄く、極論すれば都道府県が全部独立国になったって、実はそんなに突拍子もない話ではない。

 さらにいえばシステムとしての国家というのは、あくまでもツール概念であり、状況に応じて「使い勝手のよいサイズ」に区分けすればいいのだ。結果としてのサイズに意味があるのではなく、要はそれが人心・経済・社会環境にマッチしているかどうか、使い勝手が良いか/悪いかです。

ネットワーク社会

 ところで、インターネットをやり慣れている人だったら分かると思いますが、ネットには「中心」というものが無いです。必要ないし、観念もできない。ただ互換性のあるプロトコルで情報が流れさえすれば、それでいい。もちろんプロトコルの管理であるとか、ドメインネームの登録とかそういう管理事務はあるけど、巨大なインターネット帝国みたいなご本尊があるという感じではなく、河川敷のグランドの管理事務所みたいな存在に近い。

 社会そのものもネットワーク化していると思います。これは単にFaceBookなどSNSが盛んになったとかいうレベルの話ではなく、今大量に書いて長すぎたから全部削除した(いずれまた載せます)企業活動と価値=ネットワーク構築能力になっている経済的背景もさることながら、堺屋太一さんが15年前に書いた「職縁社会から好縁社会」という主張にも連なります。昔に比べて、一つの会社にしがみついてもあんまり人生の展望やふくらみが出てこなくなったし、転職転業、あるときはボランティアに、あるときは勉強と、あれこれ織り交ぜながら社会をナナメに突っ切っていくような生き方が普通になっていくだろうと。そうなると、いろいろな出会いと、それによる小規模集団社会と、またそれらとの関係と、要するにネットワークが基調になるだろうと。

 まあ、世がネットワーク化するといっても、直ちに国家がグランドの管理事務所化すると極論を言うつもりはないですが、大きなベクトルとしてはそうだろうなってことです。国家がお船で、企業がエンジンで、国家が企業に水と肥料をやって育てて大きくして前に進んで、乗客である国民はそれによって安泰ですってモデルは少しづつフェイドアウトしていくかなと思います。
 ところで、社会のネットワーク化とかいうのも、実は古い主張であります。ほんと今更って感じで、30年前から語られていたことです。僕が最初に知ったのは、1986年に出版された金子郁容さんの「ネットワーキングへの招待」でした。当時としては斬新な名著で、スタンフォードでPhD取って、アメリカで10年ばかり教鞭を取って帰国した著者が出した気鋭の一冊です。僕も結構影響は受けました。当時、弁護士という単一職能世界に限界を感じてて、せっせと異業種交流などのネットワーク作りに励んで(てか、単純に面白いから遊んで)たころ、ネットワークの可能性を考えさせてくれました。

 実際やってみたらこんな面白い遊びはないです。日本でインターネットや携帯電話が普及するよりもずっと前のパソコン通信時代(同時期にダイヤルQ2とかあったけどあの時代)から、今に至るまでやってるわけだし、このAPLaCでもネット以外の集客は一切してない(ネットですら広告や相互リンクは一切なし)、それで十数年間まがりなりにもメシが食えているのは、やっぱり初期の頃のネット体験が貴重だったのだと思います。いい勉強になったのです。

 それはそれで別に一項起こしてもいいのですが、簡単に羅列すれば、、、
 タテ社会の予定調和ではなく、ヨコ社会のランダム性にこそ妙味があるということですね。もう一つは、全く違う人達がたまたま巡り会っても結構うまいこと廻っていくのだということ、むしろ全く違うからこそ廻っていくということ、あるいは、自主性や主体性が無ければ全ては不毛だということ。参加者の主体性を最大限尊重しなければ、常に自由意志を最高価値にしなければ、何をやってもうまくいかないこと。

 さらに、分かりやすい「カタチ」にしてはいけないこと。なんだかよく分からないんだけど、その本質的なメッセージだけは突き刺さるようによく分かるにする。それが遺伝子になり、広がりになる。仲間を増やすとか、組織を大きくするという文脈で物事を見ないこと。増やすとか大きくとかではなく「感染させる」と考えた方がいいこと。

 人間関係論でも、仲間とは鍋料理をつつくように幸福をシェアする人々であり、そこに上下関係はなく(てか論理的にあり得ず)、また虚栄心やエゴの道具として他人を使わないこと(子分が増えて気持ちいいとか)。創立メンバーは、ほっとけば最後には石もて追われることになるし、自分の存在が組織の健全な成長に対する最大のガンになりうるので、どっかで去ること。自我を過剰に投入しないで、どっかで突き放しておくこと、、、などなど、学んだことは幾らでもあります。

 今、ここで、部族社会がどうのとか、与太話や世迷い言を情熱的にパコパコ打ってるのは何故か?と言えば、やっぱり面白いからですね。ほーんと、暴力的なまでに面白いですよね。子供の頃に基地遊びをした人なら分かると思うけど、あんな知恵も技術も資本もないガキンチョがやっても面白いんだったら、知恵も技術も資本もある大人がやったらどれだけ面白いか?です。あれやって、ちゃんと生計もなりたって、人生乗っけられたら最高じゃんって思うのですよね。このあたりの感覚は、今、NPOなどを主体メンバーで現場の第一線でやってる人なら分かると思います。

旧体制的寡占の崩壊

 雑談的に脈絡なく書きますが、思わぬところから寡占が崩壊するという「ああ、時代が変わってきてるんだな」という実例は、最近のオーストラリアの報道にもありました。

 Apps put NSW taxi 'monopoly' in doubtという記事で、内容は、シドニーのタクシー業界の無線システムはCabChargeとPremierの二社(実質的には一社に近い)に牛耳られており、タクシー運転手はここに強制加入させられる独占状態になっており、クレジットカード利用の場合は10%もチャージして濡れ手に粟で大儲けをしているという現状があり、消費者団体のCHOICEの今年のSHONKY AWARDにも選ばれています(ちなみにチケットのTicketekもぼったくり会社として選ばれている)。

 ところがiPhoneなどスマホの普及、さらには新型アプリで、タクシーが今どこにいるかを一目瞭然に示し、個々のタクシードライバーと直接交信でき、支払も済ませられるというアプリが出てきました。それも、GoCacthなど二つも。そうなるとこれまで独占寡占で美味しい思いをしてきたCabChargeは壊滅的な打撃を受けます。州政府は無線組合への強制加入という法律を規制緩和しようかと考え中らしいですが、CabChargeは猛烈なロビー運動を行っているとか。

 結果的にどうなるかは分かりませんが、しかし、規制や独占で保護されて甘い汁を吸ってきた図体のデカい覇者が、まったく予想もしていなかったカタチで、つまり強大なライバルが出てきてぶん殴られるという形ではなく、しらないうちに病原体に感染しているかのようにしてその力を奪われるという実例がここにもあったか、ということです。

 それとは規模も論理も違いますが、例えばWikLeaksみたいな例もありますよね。
 これまで国家が何故強かったかといえば、軍備力もあるけど、圧倒的な情報寡占力でしょう。とにかくいろいろな秘密情報を持っている。これが国家という存在を強力たらしめていた所以ですけど、でも、Leaksみたいにダダ漏れになってきたらその強さは大きく損なわれる。直ちにどうのということは無いにせよ、密室の中で秘密にあれをやろうとも、これをやりたくても、「いつかはバレるかもしれない」となったら、その力を大きく削がれるでしょう。

 また、ハッキングによるLeaksという形によらなくても、どっかの思慮の足りない従業員がぼそっとツイッターやらFaceBookで漏らして、それが大騒ぎになるということもある。昔よりも遙かに増えている。昔だったら、赤提灯の居酒屋で酔った挙句にぼろっと失言するくらいであり、それを聞きとがめるのも周囲の酔客数名くらいだったのが、今は文字通り数億レベルの人が見る。機密保持というのが今くらい難しい時代はないでしょう。

実は沢山ある実例

 えーと、このお題に関しては、幾らでも出てくるのですが、今回はこれで最後にしましょう。

 部族社会っていっても、別に全ての人がどっかの「部族」に強制加入しなきゃいけないってものでもないです。学校でも帰宅部があるように、別に特に何もしたくないってのもアリだし、生まれ育ったところに普通に生きて死んでいきたいというのも全然アリです。先祖伝来の土地がいいとか。また、部族といっても「普通部」みたいな、なんでもかんでも普通、中庸をよしとする人達の部族でもいいわけだし。

 あと、既存の市町村が部族国家化するのもアリです。村おこしで利用してもいいし、もともとそういう地域特色があったものを全面に分かりやすく打ち出すというのもアリです。もともと、昔から「○○のメッカ」「本場」みたいな土地は日本にも世界も山ほどありますし、「小京都」と呼ばれる地方の文化都市に全国の風流人が集まってレベルの高い芸術村になっていったって実例もあります。

 リアルタイムの村おこし的な実例ですが、実は、幾らでもあります。
 Wikipediaで「ミニ独立国」の項目に掲載されているものを以下にコピペすると、シャンシャン共和国(北海道室蘭市)、別海ミルク王国(北海道別海町)、ウソタン砂金共和国(北海道枝幸郡浜頓別町)、サンライズ王国(北海道紋別郡雄武町)、秋田カエル村(秋田県西仙北町)、カシオペア連邦(岩手県二戸市、一戸町、九戸村、浄法寺町、軽米町)、吉里吉里国(岩手県上閉伊郡大槌町)、ジパング国会津芦ノ牧藩(福島県会津若松市)、ニコニコ共和国(福島県二本松市岳温泉、2006年、日本国と合併)、まほろば連邦(宮城県大和町ほか、平成の大合併に伴い、2004年4月18日に解散)、アルコール共和国(新潟県佐渡市)、立山連邦王国(富山県高岡市)、白山連峰合衆国(石川県旧鶴来町ほか、平成の大合併に伴い、2004年11月30日に解散)、銀杏連邦(東京都八王子市)、西さがみ連邦共和国(神奈川県小田原市ほか)、いかんべ共和国(栃木県那須郡南那須町)、天狗王国ゆづかみ(栃木県那須郡湯津上村)、チロリン村(京都府宮津市)、カニ王国(兵庫県城崎郡城崎町)、そやんか合衆国(大阪府大阪市)、ツチノコ共和国(奈良県吉野郡下北山村)、イノブータン王国(和歌山県すさみ町)、いずもオロチ王国(島根県出雲市)、新邪馬台国(大分県宇佐市)、ひしかりガラッパ王国(鹿児島県伊佐郡菱刈町)、ヨロンパナウル王国(鹿児島県大島郡与論町)、銀河連邦(サンリクオオフナト共和国(岩手県大船渡市)、ノシロ共和国(秋田県能代市)、サク共和国(長野県佐久市)、サガミハラ共和国(神奈川県相模原市)、ウチノウラキモツキ共和国(鹿児島県肝属郡肝付町))、 しそう森林王国(兵庫県宍粟郡)、、、などなど。

 個人レベルではオーストラリアにありますよね。おっちゃんが独立国を唱えていて、入るときにはマジにパスポートにハンコを押されるという(いいんか?って感じだけど)。老舗ではムツゴロウの動物王国みたいなのもありましたね。

 要するに、そんなに突飛なことを言ってるわけではなく、視点をちょっと変えれば、昔からある普通の発想や実例であるということです。それを今の時代、もう少し積極的に使っていけばいいのでは?ということです。

 それ以上に、全体の経済とのリンクはどうするとか、内部的に社会主義みたいになるのかとか、法体系の整合性はどうするとか、市民になるには永住権審査みたいにするのかとか、社会科学エンジニアリングとして面白いネタは幾らでも出てくるのですが、ま、今回はここまで。


文責:田村



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