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今週の1枚(2012/10/01)



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Essay 587: ハードルの高さ

目標が高いほど、ハードルは低く抑えるべき
 写真は、Annandale。
 陽光輝き、ラベンダーが咲いているという。春爛漫です。

 もっとも、つい先日、日中33度の真夏並に上がったと思ったら、翌日の最低気温は9度まで下がりました。暑くて、晩飯は素麺でいいかとか言ってた翌日に、また湯たんぽを入れて寝ているという、相変わらずの荒っぽい大陸性気候です。



 今週はバタバタして、時間もないので、軽めにいきます。
 テーマは表題のとおり、「達成すべき目標がデカければデカいほど、当面のハードルを低めに設定すると良い」ということです。

 一般に目標が高いほど、ハードルも高くしがちです。「世界チャンピオンになる」「総理大臣になる」など野望がデカいほど、超絶的な努力が必要とされます。もう生半可な根性や努力でどうなるものでもない。だから、そんなとんでもない大決意をしたときというのは、メラメラ燃えるような思いでいたりするわけですから、めちゃくちゃ激しく頑張りたくなるし、毎日のハードルも高くしたくなる。

 しかし、そこを敢えて逆に考えるのがミソです。
 野望が大きいほど、ハードルは低めに設定せよ。

 矛盾するようですが、理屈を考えたら極めて当たりのことです。

理屈編

 今ここで、目標設定をドーンと破格に上方修正した人がいるとします。

 例えば英語。今ちょっと勉強しようかな、TOEIC500点くらい欲しいなという慎ましくもモデレートな「野望」を抱いている人が、ある日、何らかの事情(彼女に言われたとか、リストラの危機とか)で、いきなり「目標900点!」などと思い立ったとします。この目標設定の落差は2倍どころではなく、数倍から10倍くらいでしょう。はたまた、軽いフィットネス気分でボクシングをやってた人が、いきなり「プロボクサーになる」それも「世界ランカーになる」とか思ったら、その野望の巨大さは10倍はおろか、100倍でもきかないかもしれない。

 目標が100倍難しければ、努力も100倍要る、それはそう。
 まあ、必ずしも100倍=100倍と数値的に一致するわけはないでしょうが、比例関係には立つでしょう。難しいことに挑戦すれば、それだけ沢山練習や勉強をしなければならない。

一日の分量

 だけど、1日で100倍出来るわけがない。

 人間が一日で出来る量など限られています。幾ら気合い入れようが、いつもの100倍の量が出来るわけがない。実際のところ2−3倍が限界でしょうし、もっと日常的には、いいとこ1.3倍くらいでしょう。毎日100通メール処理してるのを、今日は頑張って130通やりましたって感じでしょ?

 この認識が全ての基礎になります。
 1日に10倍も100倍も出来るのであれば、ちゃっちゃとやってしまえばいいです。しかし、そんな変化率を10-100倍単位で動かせるような物事は滅多にない。気分的には燃えてるから100倍やりたい、でも出来ない、これが原点になります。

高さや量ではなく、「長さ」の問題

 一日の量が限られている中で、全部で100倍の量をやらねばならない場合、どうなるか?

 これはもう言うまでもないです。
 論理必然的に「長さがのびる」ということになります。

 つまり全体量が増えた場合、単に量が増えたと考えるよりも、より実戦的には「やる時間が長くなる」と考えた方が実体に合致しています。

 お金でいえば、分割・ローン払いのようなものです。
 毎月のお小遣いが3万円の人が、300万円のものを買おうと思ったら、一回では到底買えないわけですから、期間を長くしてローンで買う。小遣い全額3万円を毎月払って100か月の分割払いになる。

 目標を高く設定すると、「高く」という語感から、なんとなくハイジャンプや棒高跳びみたいな垂直的なもの思い描いてしまうのですが、実際には、短距離走→長距離走になると思った方が正しいです。一気に気合をいれてピョーンと飛ぶのではなく、淡々と長い道のりを走っていくイメージです。

金利がつく

 そして、ここがさらにキモなのですが、実際の長さはもっと長くなります。
 100倍の目標→100倍の量→100倍の長さ、になりそうなんだけど、実際に計算するときは、150倍から200倍の長さと思ったらいいです。

 これはお小遣いの比喩でも明らかですが、毎月小遣い3万円を全部それに注ぎ込むなんてことが出来るわけがない。だって他に一切使えないから、事実上小遣いゼロになるのですよ。そりゃ1回か2回は息を止めるような思いでやれるかもしれないけど、3回、4回は無理です。ましてや100回ぶっとーしでやれるわけがない。まあ、いいとこ3万円小遣いのうち返済は1万円くらいじゃないすか?それでもキツいでしょう。

 第二に、実際の分割ローン払いには利息がつきます。100回のような長期になったら利息分だけで元本以上になったりする。だから300万円ローンだけど、実際に返済する合計額は600万円になる。仮に3万円全部返済に充てたとしても100回ではなく200回分割になる。

 これを例えば勉強に置き換えるならば、毎日10個づつ英単語を覚えて、100日間で1000個覚えられるか?というと、到底無理です。そんなにガッシリ積み上がっていかない。なぜなら「忘れる」からです。この忘却率が利息みたいなもので、結果的に1000個英単語を記憶しようと思ったら2000回覚えないとならない。実際の忘却率は90%くらいあったりするから、1000個覚えようとしたら1万回覚えないとならない。めちゃくちゃ利率が高い。

 だから、100倍の目標→100倍の量→100倍の長さではなく、千倍とか一万倍の長さになるくらいに思っていてもいいわけですね。

 つまりは、「途方もなく長くなる」と。

持久走的な方法論

 そうなると、同じ「頑張る」にしても、短距離走的な瞬発的な方法論ではなく、長距離走的・持久的な方法論になるべきです。

 前者は、いかに短期間に詰め込むかというアドレナリン炸裂の「ファイト一発!」系のやりかたですが、後者は、いかに無理なく、長続きさせるかというやり方です。そこでは「頑張る!」というリキむ感じですらなく、リラックスして、負荷を減らしてサステイナブルにしていくかがポイントです。前者が、「いかに異常になるか」というベクトルだとしたら、真逆に「いかに平常にするか」です。もう180度方法論が違う。

 そして、これはペース配分とか体調管理という身体部門におけるクレバーさだけではなく、いかに飽きずにやっていけるかというメンタル管理のクレバーさが求められます。それは、もう、かなり厳しく求められると思っていいです。マラソンでも、自分自身の心身の調整、逸る気持ちをいかに抑えてオーバーワークにならないように本番ベストに仕上げていくか、そして本番中もペース配分や駆け引きやら、相当に頭を使う高度な知的ゲームだと言います。それと同じ事です。

 野望がデカくなればなるほど、それは長距離走になるのであり、肉体勝負でありつつも実は知的勝負であり、さらにその焦点はメンタル管理の上手下手に帰着していくのでしょう。

 メンタル管理は、それはそれで何本もかけるくらいの奥行きを持っているのでしょうが、その中に「敢えて日々のハードルを低くするワザ」があると思います。

理由その1〜蓄積疲労

 なぜ日々のハードルを低くするのか?
 一つにはあまりに1日のノルマを多くし過ぎると疲れちゃって、結局長続きしないからです。一晩寝たら絶対疲れが取れるというところに押えておく。そうでないと蓄積疲労になって途中でポシャる。特に、人生のように30年モノ、60年スパンの長丁場の場合は、ココは非常に重要なところです。命にかかわるといってもいい。

 若い頃にガンガンやるのはいいのですが、やりすぎてしまうと、その反動が30代とか40代に来るのですね。
 とりあえず過労死があります。また肝臓や心臓系の成人病があります。

 さらにメンタルが怖い。一心不乱にムキになってやってるほど、一旦レールを外れると大脱線しちゃう。順風満帆のエリートコースでぶっ飛ばしてきた人ほど、挫折に弱いといいますが、なまじスピードも慣性もついてるからコケたときが悲惨です。もう新幹線が脱線したみたいになっちゃう。もっと怖いのは、今まで夢中になってやってきたことが、ある日突然、ぜーんぜん無意味なように思えてしまうことです。事業欲がデカくなると厭世観もデカくなると言いますが、これ怖いですよ。中年期鬱は、青年期のそれよりも遙かに深刻で、ある日突然、ホームに飛び込んだりしちゃうし。

 ガムシャラにやるべき時期もあるし、やった方がいいんだろうけど、トータルでの蓄積疲労という点もある。だから、数年に一回くらい、挫折したり、スランプに陥ったり、左遷させられたり、フラれたりという「不幸」は、結果的に「ペースダウン」効果になったり、人生の枠組みや価値観を見直す時期になったりするのでしょう。そのときの気分は最悪なんだろうけど、それが大きな目では役に立っている。プラマイでいえば、むしろ黒字って場合の方が多いんじゃないかな。

 よく聞く話ですが、バリバリ精力的に仕事の鬼でやってきた人が、大病煩って入院生活を余儀無くされて、結果的に人生を見直すキッカケになって良かったという。そのときは、これで俺のキャリアもおしまいだと自暴自棄になったり、俺がいなければ現場は廻らないという過剰な責任感でヤキモキします。が、それでも結構会社が廻ってたりして、それで又「別に、俺、要らないかも」とショックを受けたり。でも、時が経ってくると「何やってんだ、俺?他人の金儲けの片棒をうれしそうに担いでさ、得意になってさ、阿呆か」とか達観してくる。

 こういう時期がないまま一気に中高年になってしまうと、反動キツいです。ドラマ風にいえば、ぶっ壊れた家庭、誰もいなくなった廃墟のような自宅のリビングルームにポツンと一人残されて、アグラかいて冷や酒飲んで、「はん、これまであんなに頑張って、その結果がコレかい?笑っちゃうよな」とか。だから、定期検診のように、適当な間隔で左遷食らったり、リストラ食らったり、離婚してるといいですよ。「いいですよ」とか、我ながら凄いこと言ってるけどさ。でも弁護士やってたとき、破産や離婚した人が、まるで生まれ変わったように元気になるのを何度も目の当たりにしてるし、ああ、あれはオーバーホールなんだな、だから「新品同様」になるんだな、って思いましたもん。

 自分が中高年になったからこそ言えるのかもしれないけど、20代30代に描いた絵なんか、まずそのとおりになることないです。どっかで大きく変わります。会社や家族に裏切られるかもしれないし、時代に裏切られるかもしれないし、いきなり津波が全てを流してしまうかもしれない。仮に形だけそのまま維持していたとしても、その意味性は若いときに思ってたのとガラリと変ったりして。ま、絶対そうなるなんてことは言えないけど、結構な確率で「なんか起きる」でしょうね。仕事面では変わらなくても、子供が自殺しちゃったりとかさ。

 そういうとき、これまで適当に挫折したり、冷や飯食わされたり、地味に落ち込んだりしてきた人は、「慣れてる」だけに対応しやすいんでしょう。人にもよるだろうけど、一般に精神的に強く、というか柔軟というか、結果的にそうなってる。戦争体験世代は、大地震があろうが、何があろうが、「ま、起きてしまったことはしょうがないべ」とか淡々と受け止めたりするのだけど、平和でひ弱な僕らは、ささいな事故一つでトラウマになったりする。結局は「慣れ」なんだろうけど、でも「慣れる機会」ってのは大事だよなと思います。

 話が逸れましたけど、「やりゃあいい」ってものばかりでもないし、ドツボの時期にはそれなりに効用があるということで、要はトータルでの収支決算と各時期のペース配分ですね。だから、毎日のペース配分を無理目に設定しすぎると、トータルでは大きなロスを生む。これは別に人生レベルでなくても、数日以内に「三日坊主」という結果が出たりするから分かりやすいですけど。

理由その2〜喜びの分割

 さて、それ以上に、ハードルを低めにする意味があります。喜びの分割です。
 ここが本稿の目玉です。

 人間、楽しくないことは続きません。だから、続かせようとしたら、楽しくなるように仕掛けないとならない。これが頭を使う部分です。

 1日仕事で済むんだったら、1日が終れば全部完了、達成感があるから簡単です。でも、これが100日仕事で、100日目にしてようやく達成感が訪れるんだったら、それに至る99日が詰まらな過ぎて続きません。だから100日あるんだったら、喜びも100個分割で用意することです。

 そして、この「喜び」=「ハードル」なのですね。ハードルを越えた、出来た!というところで達成感が生じる。楽しいと感じる。だから味をしめて、また明日もやろうという気になる。

 ここでムキになって高いハードルばっかり作っておくと、毎日毎日挫折の嵐ですから、段々イヤになってくるのですよ。だからコツは、適当に低いハードルにしておいて、「やった!」という感じになれるようにすることです。

 3か月で「あそこ」まで行こうと思ったら、3か月=アバウト100日ですから、要は100回分割です。今日はその100分の1だけ達成すれば良しとすべきです。100分の1だけでいいんです。ただし、しっかり達成すること。これがコツ。

達成感の小刻みな設定

 抽象的に言ってますけど、これは誰でも分かると思います。よくある話は、マラソンで走っていて、もうダメだと思うときに、「とりあえずあの電柱まで走ろう」と思って走る。電柱まで走ったら、よし、出来たぞ、まだ走れるぞ、ここで止めてもいいけど、でもまだ出来そうだから、今度はあのポストまで走ろうとやっていく。聞いたことあると思います。これが「喜びの分割」であり「小刻みな達成感」であり、「手頃なハードルを100個思いつく」ことです。

 実際的な難しさは、千差万別の「あそこ」に対して、何をどうやって100回分割するかです。マラソンだったら「ポスト」とか「電柱」とかのハードル設定がしやすいのですが、「プロテスト合格」「永住権取得」「起業成功」という漠然としたゴールに対し、それまでのステップを小刻みにし、具体的に手頃な「今日のハードル」を設定する作業が難しい。

 もっとも、最初の段階でキッチリ100ステップが見えたり、書き出したり出来るわけではありませんよ。最初は、大雑把な目分量で「100分の1」くらいの感じのステップを刻み、それが出来たら、また今度は残量の99分の1くらいのステップを考え、それが出来たら98分の1くらいの、、、という。そんな計数的な正確さで出来るわけはないけど、気持ちそんな感じ。だから、「思いつく」といっても、一気に全てを思いつく必要なんかなくて、ポストを思いつくのは、電柱まで走ったあとでいいです。「100個思いつく」と言うよりも、「100回思いつき続けられる」といった方が正確かもしれません。

 まあ、そうであっても、なかなかそんなにポンポン思いつくものではないので、それなりに難しいし、コツもあるでしょう(やって慣れていくしかない)。でも、それが出来るようになったら、どんなことでも淡々と走れるし、積上げていけるから、大抵のことは出来るようになります。ここが分かれ目になるのだと思います。何事かを成し遂げられるかどうか、成し遂げられる人であるかどうかは、結局、それが出来るかどうかに帰着するのではないか、と話でした。

 基本的な理屈は以上です。

実践編

結果はハードルにしない

 僕がやってる一括パックは、海外初めて、飛行機も初めて、英語力ナシという人でも、一週間で、英語で電話してアポ取って住所聞いて、どこであれバスと電車を乗り継いで訪ねて行けるようになり、のべ100人くらいとは英語で話し、しかも「まあ、その程度くらいだったら出来て当然でしょ?」というレベルにまで持っていくカリキュラムです。

 すごい飛躍なんだろうけど、実際問題、根を詰めれば2日で出来ます。それを7分割している点がミソです。毎日ちょっとづつハードルを上げる。ただし高すぎないように。初日は疲れを癒し、近所の徒歩10分の商店街まで行って帰ってくるというだけ。翌日は、バス乗って自力で帰ってきて、シェアのアポを取る。ここが一番キツイのですが、でも、ハードルそのものは、アポを取るところまで設定せず、「とりあえず電話をかける」というところで止めておきます。なんせ最初の電話くらい怖いモノはこの世にそうそうないですからね。だから電話をかけても、全然通じず、電話を切られてもいい。あるいは全部話し中や、留守電ばっかりでもいい。とにかく「電話をかける」というところまでをハードルにする。

 そのココロは、ここでアポを取るところまでハードルにしちゃうと高すぎるからです。高すぎるハードルは、不安心理を一層高めるから、結果として成功率も低くなる。で、最初に電話一本かけたら、それで合格!です。よくやった!です。でも、ここまできたらアポを取りたいのが人情だから、「もうちょっとやってみようかな」という気分になり、大体アポが取れちゃったりします。ここでかなり嬉しいですよね。成し遂げた感バリバリでてきますし、ほんとはこれだけでもいいくらいです。この体験一つで人生変わってます。あとは変わった人生を確認する作業があるだけって感じなんだけど。

 翌日は、おっかなびっくり一人でアポを取ったシェア先を訪ね、それが終ったら、近場の物件にその場で電話してアポを取り、見て回り、さらに翌日分のアポも取っておく。ここでもハードルそのものは、「その家に行く」だけです。別に会えなくてもいいし、道に迷って行き着けなくてもいいし、他のアポが全滅でもいい。とにかく「行く」だけ。それで合格!にする。

 お気づきでしょうが、ハードル設定は、やるか/やらないかだけにしておくのです。アポが取れるかとか、相手が不在とかいい人だったとかいうのは、運の要素が入ってきて、自分の努力だけではどうにもなりません。不確定要素まで結果としてハードルに組み込んでしまうと、かなり精神的に負担がくる。だから、結果は問わず、やるか/やらないかというハードル設定にする。結果については責任は負わないという形にする。

 以後、3日、4日とハードルが変わっていきます。同じ事の繰り返しのようでいながら、アクセスやアポ取りが難しいエリアに挑戦していきますし、さらに抽象的には「中だるみと戦う」「運の波浪に慣れる」「小さくまとまろうとするか問われる」「何をしに来たのか突き詰めて考える」などなど栄養素満点のハードルがあります。ここでも、「やってみる」「考えてみる」「悩んでみる」という、結果ではない、行為レベルのハードルに抑えます。


 結局、最後まで「結果」そのものをハードルの要素にすることはないです。それどころか、シェア探しなんだけど、「別に見つからなくても良い」って言うくらいです。「もっと大事なことがある」と。

 なぜ結果をハードル要素にしないか?
 第一に、「結果」といっても運やなりゆき等で千変万化するから、報償メカニズムが不正確になり、これがモチベーションに(悪)影響を与える点。

 第二に、最初から物事をキメ打ちすると、行動や発想の自由を奪ってしまう点です。やりもしないうちから「結果」として想定できるような事なんか出来てもしょうがないって部分もあるのですよ。予測可能で予定調和で、自分の枠を打ち破るような意外性も発展性もない。やればやるほど、ちんまり小市民的にまとまっていくだけの「結果」を目標設定することに意味があるのか?ましてやそれによって発想の自由を制約し、飛躍のチャンスを失わせるんだったら愚の骨頂です。

 第三に、「結果」とは何か?です。それを良いと評価するのか悪いと評価するのかは、究極的には自分であり、要は自分がどう納得するか、どういう具合に納得したいか、です。客観的な「よい結果」などこの世に実在するわけもなく、とある「現象」を主観的にどう判断するかに過ぎない。そしてそれは「判断」という理性的なものというよりも、もっと生理的で感覚的なものです。この客観から主観への変移こそが最大の"結果"でありハードルともいうべきものなのだけど、これはかなり高度なハードルなので言葉にしてもわかりにくいし、まあ、何となく、そんな感じの世界、ふわっと無重力になるような感じに浸ってもらえたらOKです。それをどう咀嚼していくかはその人の自由。

 いずれにせよ、小刻みなハードルを設定する場合、結果などの不確定要素、運の要素などは、出来るだけ排除するとやりやすいです。

不確定要素とハードル

 ただ、いずれにせよ、どこかでこの不確定要素と戦うことになりますが(最終合格とか、就職成功とか)、そのときは、毎日小刻みではなく「○か月以内に」くらいのアバウトなハードルにしておくといいでしょうね。それも長めに。来年合格したくても、「3年以内に」くらいに敢えて延しておく。何となく思う希望期間の倍から3倍くらい。そのくらい長くしておくと、いい意味で諦めもつくので「焦り」が消えますし、腹も括れる。「おっし、長丁場!ペース守って行こうぜ」って気分になれる。堅牢で軽快なステップを心がけるようになる。

 あと、大きな不確定要素でありながらも、どこまでも確定要素に分解していく方法もあります。微分みたいなものですが、入試合格とか、いよいよ試験本番!というときでも、いきなり「合格」とかゴロンと大きなまま思うのではなく、「とりあえずベストを尽そう」とか、「事故を起こさず試験場まで行こう」とか、「忘れ物をしないようにしよう」とか、「弁当だけは最後まで美味しく食べられるような気持ちを心がけよう」とか、「なんだかんだ言って好きなことやらせて貰ってるんだから幸福なことだよな、と無理にでも思おう」「緊張でガチガチになるよりも、ワクワク楽しめるくらい強い自分になろう」とか、「全然わからなくても、自暴自棄になって見苦しく取り乱すような真似だけはするまい」とか、分割していけると思います。

 どこまでいっても、自分に出来ることは「やる」ことしかないわけで、その因果の流れで結果が吉と出るか凶と出るかは、もう天命ですわ。「それは神さんの仕事、試験官の仕事」「俺の知ったこっちゃねえ」くらいに突き放すしかないし、突き放せるかどうかです。

 ハードルというのは飛び越えて良い気分になるためにあるのであって、飛び越えられなくてミジメな気分になるために設置するものではないです。

 だから、どこまでいっても100%コントロール不能なもの(大概の物事はそうだが)を、コントロールしようとする、つまり無理なことをしようとするから、しんどく感じるし、不安も、焦りも出てくる。飛べるわけがないハードルを設置するくらい無意味有害なことはないです。

身体を慣す期間

 ハードル設定を低めにするのと、やや矛盾するかもしれないですが、全くの初体験の時は、「無茶苦茶な量に身体を慣す」というプロセスがあります。つまり、ハードル低めどころか、あり得ないくらい高いハードルが最初にドドドと押し寄せて潰されてしまうくらいの感じ。

 これは体育会系の部活とか、仕事(特に肉体労働系)なんかそうですが、あまりのハードさに初日は立って帰れないくらいだったりします。僕の高校の柔道部の初日は、駅の階段昇るのに苦労しましたもんね。新入生一同、みな四つん這いで犬みたいに這って昇ってた。「絶対明日辞めてやる」とか口々に言いながら。どんな領域、どんな業界でも、最低限の基礎体力のレベルというのがあって、まずはそれに身体を慣す。司法試験やり始めのときも、一日12時間から16時間勉強という、発狂しそうなことを苦行僧のように課して、強引に身体を慣らせました。慣れてしまえば、どってことないんですよ。部活のときも、1ヶ月もしたらヘラヘラ笑ってやってたし、受験勉強も「やって当たり前に」になるから辛くも何ともなくなる。

 この身体を慣す期間と、ハードル設定とはゴッチャになりやすいし、見た目真逆なのですが、意味も段階も全然違います。ペース配分とか、ハードル設定というのは、とりあえずその世界に入ってからの話です。

弱さの罪

 以前、弱さの罪という回で書いたことが、ここでも該当します。
 なんで、高めのハードルを設定してしまうのか?弱いからでしょう。弱いから、つらく感じるから、早く楽になりたい、早く解放されたい、その一心に凝り固まるから、持久走的にペース配分〜とか考えられない。一刻も早く終らせたいから、マラソンなのに、スタート地点から100メートル走のように全力疾走して、100メートル経過地点で疲れ果て、つまりあと42・095キロを残しながら挫折ということになる。

 ここまで極端ではなくても、なんとなくオーバーペースになりがちな場合、早く結果を出したい、楽になりたい、安心したいという不安心理の裏返しである場合が多いと思います。でも、そう思ってる時点で、既に精神は平衡を欠いているので、成功率はかなり下がるでしょう。

 逆に言えば、「ふむ、ま、今日はこのくらいにしておくか」と冷静に、抑えたハードル設定&実行ができるのであれば、かなり成就率は高くなるでしょうね。おそらくは、ほとんど事務作業のように成功するでしょう。なぜなら、事務作業レベルまで落とし込むことに成功しているんだから。


文責:田村



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