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今週の1枚(2012/09/24)





Essay 586: 一般解 と 特殊解

 写真は、Upper Northshoreの高級住宅地、Gordon駅の春。
 
 ノースは北に行けば行くほど自然が多く、環境が良くなるのですが、こういうのほほ〜んとした雰囲気はいいです。
 また、シドニーに桜は少ないのですが、梅のような花はちらほらよく見かけます。白あり、赤あり、ピンクありで種類も結構あります。 


一般解と特殊解A・特殊解B

   「一般解」と「特殊解」という言葉があるそうです。
 もともとは数学用語で、一般解とは「方程式などの解に任意の定数を含むもの」とか、「任意定数や、任意関数を含む形で書かれる解のこと」と言われたりします。こういう数学的タームを使って表現されると、よう分かりません。特殊解とは「一般解に含まれる任意定数や、任意関数に特定の値や関数を与えることによって得られる解、即ち、一般解に含まれる個々の解のこと」と説明されるのですが、これもよう分かりませんなー。

 ただし、数学的な言い回しを取っ払って、純粋に内容だけにしてしまえば、非常になじみ深い話です。一般解とは「一般的な法則性」「一般論」のことであり、特殊解とはその一般論を個別事例にあてはめていることです。

 抽象的な言い方だけではピンとこないでしょうから、ここで思いっきりくだけた事例をだします。「異性にモテる!」という現象なんぞはいかがでしょう。

 モテるための原因や要素を個々人のスペックに置き換え、そのプラマイ合算で合計値が高いほどよくモテるという法則があるとします(そんな法則無いと思うけど、話をわかりやすくするために)。偏差値のようにモテ度を出すわけですね。あなたのモテ度数値(X)は、A+B+C..という各スペックの合算になる。X=A+B+C..です。このABCに、A(ルックス)、B(身長)、C(学歴)、D(年収)、E(人柄)などが入り、ときにはマイナスのスペックとして「前科がある(マイナス20点)」とか「しかも性犯罪の前科である(マイナス40点)」とかいう感じで、割り振っていき、合算数値が高いほど、その人はモテるという一般法則があるとします。

 このモテ度法則性を「X=A+B..」という数学的な式表現をしたのが「方程式」であり、そういう一般的な法則のことを「一般解」という。では「特殊解」は?といえば、個別の事例にあてはめたものであり、例えばあなたの場合、ルックスが○点で、身長が○点で、、と合算していって、総合得点○○点だという結論数値を出すのが「特殊解」なのでしょう。だから「特殊解」というよりは「個別解」と言った方が分かりやすいかもしれません。まあ、本当は数学的には違うのかもしれず、こんな要約の仕方をしてたら数学者にぶっ飛ばされるのかもしれないのですが、数学をやることがここでの本義ではなく、それにインスパイアされた何か他のことを書きたいのです。

 さて、ここまでは簡単だし、これだけのことならエッセイのネタにはしません。

 まず思ったのは「特殊解」です。
 単に一般法則の個別当てはめでしかない特殊解だけではなく、それ以外の特殊解もあるぞと。特殊解A特殊解Bがあるぞ。

 特殊解Bというのは、一般的にはそう言われているけど、でも個別の、この場合はそうではないという場合。さらには一般的な法則なんぞ、究極的にはどーでもよく、要は個別のこの一例だけがどうが全てであるという。

 それって、このエッセイや、HPの他のコンテンツで常々書いていることでもあります。「なるほど、一般論としてはそうだろう。しかし、ここでの問題はアナタがどうか?ということだ」と。同じことじゃないかと。これまで手段/目的論や、いろいろな構造論的に説明していたことも、一般解=特殊解A・特殊解Bという仕分けをすると、より見えやすくなるかもしれないなと思ったのですね。ああ、そういう理解の仕方もあるなと。

 僕らが直面するさまざまな悩みや意思決定で、なぜ迷うのか、なぜ分からなくなるのか?といえば、一般解を求めているのか、特殊解を求めているのかがグチャグチャになってるからではないか。あるいは一般・特殊と截然と区分けできるものなのだろうか?相互のフィードバックもあるのではないか?そのあたりのことを書きます。

 ところで純粋数学的には「特殊解B」なんてものを持ち出すのは反則なんでしょうね。特殊解Bが出てきた時点で、その一般解は既に一般解たりえなくなっているわけですから。でも、前述のように、ここでは数学を論議するつもりはないです。発想を借用し、発展し、うだうだ考えたいだけです。


 今回のテーマを考えるキッカケになったのはAERAという雑誌の記事で「女の子はなぜコンピューターに弱いのか」論でした(2012年09月10日号)。確かにIT系のGEEKオタクは男が多い。色々な意見の中に、女性は「私だけの」特殊解発想が強く、男性は普遍的な一般解発想が強いと。

 引用するよりも記事現物を見てもらった方が早いのでスキャンしたものを右に載せておきます。マウスを乗せると大きくなり、クリックするとさらに大きな画像になります。くだんの箇所は最上段の右側です。ラインマーカー塗っておきました。

 ここに「世界を俯瞰して抽象的な一般解を出す力」「私だけのモノという特殊解」と対置されてます。これを読んで、「ほほう、なるほど」と思って、今回のエッセイのネタが出来たわけです。

 面白い記事だからそれ以外の部分もちょっと多めにスキャンしておきました。次の指摘の男の子特有のズボラさやイタズラ好きな部分(ズルをすることに燃える)、意味性を求めずにスペックそれだけで喜べてしまう心情傾向なんてのも確かにそうですね。


 一般解の例として、コンピューターが出てくるのは分かります。
 たしかに、プログラミングなどでは、いついかなるときもコンスタントに作動する堅牢な全体構造が必要ですし、全体を大きく捉えて構成していく目と頭脳が必要でしょう。ユーザーのPCがどんなスペックであろうが、どんな通信環境であろうが、どんなソフトを使ってようが、どういう直感的把握力をもっていようが、誰でもいつでもどこでも軽快にわかりやすく使えるようにする。ありとあらゆる場合を全て想定して設計する。なるほど、いかにも一般解です。

 これに対する「私だけの」という女の子的な特殊解もわかります。これは特殊解B型ですね。「二人のために世界はあるの」という大昔の恋歌がありましたが、一般解的にいえばその命題は「偽」「誤」です。キミら二人のためだけに世界があるわけではないし、そもそも世界は誰かの為にあるのではないと。しかし特殊解世界では、そんなことは野暮天のいうことであり、あたかも世界は二人のためにあるかのように感じられること、そんな愚かしくも素敵な感情が芽生えてしまう瞬間の、その素敵さこそが大事なのであって、「世界の真実」なんかどーでもいいのだ。

一般解

 

一般解=世界マニア・理想おたくは男が多い

 男女の性差論をやると話が微妙に逸れるからマズイのですけど、でも、付言したくなっちゃいます。昔から「女と坊主には政治は任せられない」という言い方があります。坊主というのは政教分離の俗世的な戒めでしょうが、女に政治はできないのか?論としてよく物議を醸します。

 結論から言えば、女性で優秀な政治家はいくらでもいます。エリザベス女王にせよ、サッチャーにせよ、インディラガンジー、アンサンスーチー、帝政ロシアのエカテリーナ、古代日本の卑弥呼。ただし、それこそ一般解的にいえば、政治経済が得意なのは男が多い。法学部でも男が多い。それは未だに男女の不平等があるからだという指摘は、それはそれとして正しい。そうなんだけど、でも、本来の性格として、興味があるか、面白がれるか?というレベルでいえば、男の方が面白がれる傾向がある。

 ここでボソッと言ってしまいますが、一般解というのは面白くないし、実益に乏しい。
 だって「普遍的」とかいうと聞こえはいいけど、非常に抽象的で思弁的なものになりやすい。「人類の理想社会はいかなる形態によってもたらされるべきか」とかね。それは大事なことだろうけど、そういう一般解をいかに考えようが、極めようが、それによって個々人の生活が快適さが増すわけではない。「腹はふくれない」ってやつですね。それどころか、個々人の生活、ひいては考えている本人の生命すらも危うくなる。

 北インドのプリンスとしてゴージャスな人生が保障されていたゴータマ・シダッルタは、止せばいいのに「この世はなぜ苦しみに満ちているのか」と余計なこと=一般解に取りつかれ、城を飛び出し、荒野を放浪し、時には命すらも危うくする。後世の人々は仏陀を「聖人」として崇め奉るのだけど、自分のダンナがそんなことやりだしたら溜まったもんじゃないでしょう。ヤショダラさん(シッダルタの許嫁)可哀想。

 文豪として富と名声を博したトルストイも、晩年にはこの世の不平等と不条理を改めるべく起ちあがり、膨大な私財を放棄しようとしています。奥さんとしてはたまったもんじゃないから強硬に反対し、世間では「一般解を理解しようとしない狭い特殊解世界に生きている狭量な女」として批判されているけど、でもそれが普通だろうし、また「世界のため」という美名のためにトルストイの富に群がるハイエナのような連中は沢山いたでしょう。それが奥さんにはよく見える。でも一般解という甘美な理想毒に犯されたトルストイにはそれが見えない。板挟みになったトルストイは挙句の果てに最晩年に逃避行に出て、シベリアかどっかの名も知れない片田舎の駅で死にます。そのあたりを描いた映画があるそうです。見てないけど。

 だから一般解なんぞを出そうとする、それも自分の生命すら投げ出してまでやろうとするのは、もう「得意」「長所」「向いている」とかいうレベルを超えて「マニア」「業」ですわ。そして、この種のマニアは男が多い。世界マニア、理想おたくです。

政治と法は一般解

 政治や法律は、まさに一般解の世界です。
 いついかなるときもで、全ての人々の利益を考量しなければならない。神のような鳥瞰的な視野を目ざし、社会のプログラミングをしなければならない。法律はそのド典型で、ある事例では誰が考えてもAを勝たせるべきだけど、でもその理屈でいくと、今度は誰が考えても勝たせるべきではないBを勝たせてしまうことになる。「むむむ、困った」というのが法律の原点です。そのために「これは例外」としておくけど、どっちが原則でどっちが例外にしたほうがいいのか、あるいは原則と例外をわける基準は何か、その基準は誰の目から見ても一義明白に分かりやすいものなのかなどなど。

取得時効は正義か
 例えば今でも覚えているけど、大学の頃、「取得時効は正義か」論について友達と激論しました。
 他人の土地に住み続けて10年、20年経ったら自分のモノになってしまうという取得時効。そんなのアリか?と。1週間住んでたら不法占拠、犯罪者として訴追されるのに、10年住んだら自分のモノになるっておかしくないか?そこで「いろんな場合」を考えて激論になります。おかしい説は、時効取得する人間を悪者に捉えます。例えば、遺産分割などで本人も知らない遠く離れた土地を相続することがあります。あまりにも離れているから監視も出来ないし、そもそも忘れてしまう。それをいいことに悪知恵の発達した奴が我が物顔に住み続け20年たったら(この場合は悪意占有だから20年)自分のモノになる。そんなことが許されて良い筈はないと。

 でも、逆に地主の方を悪くイメージすることもできるのですね。昔からの土地持ちで、数万ヘクタールの土地を持ち、資産数百億。そこにどっかの悪徳不動産屋が、その地主の土地を誰かに売りつける。マジメを絵に描いたような勤勉な家族が騙されて買わされる。でも家族はやっとマイホームだと思って楽しく幸せに住んでいる。それを何十年もたってから、金持ち地主が「俺の土地だからでてけ」いえるか?と。言わせていいのか?

 で、激論になる。「大体、自分の土地なのに10年も20年も行ったことがないなんて金持ちを税金で保護してやる必要があるんか?」「そんな不在地主が30年後50年後、あるいは孫子の代の200年後に出ていけと言えてしまうのはおかしい。200年間一回も使わなかった、行きもしなかった奴を何故に保護してやる必要がある?」「地球資源の有効利用という意味からしても、使いもせずに何十年もほったらかしにしてるくらいなら、どっかの真面目な家族が幸福になるために土地は使われるべきだ」

 「しかし、遺産分割によってワケもわからん田舎の山林を相続してしまうこともあるのだ。親戚のオジサンに「とりあえずハンコだけ押せ」と言われて押してしまう場合もある。別にそいつが金持ちであるとか守銭奴でなくても、知らない土地を知らない間に所有するということは意外とあるのだ」「そもそもオマエ、金持ちであることは「違法」「犯罪」なのか」「最初から本家の土地であることを知りながら、当主が世間知らずの善人であることをいいことに、勝手に土地を使いまくって自分のものにしてしまうという狡っ辛いハイエナみたいな連中も山ほどいるんだ」

 感情的に激するのは、土地を取られる地主を可哀想なキャラとして事例設定するか、占拠している人を愛すべきキャラに設定するかというかという、事例におけるたまたまのキャラ設定の差でしかない。問題は、地主、占有者どちらも憎々しげ or 可哀想な場合がまぜこぜになっており、それを「いかなる場合においても」もっとも公平で妥当なのはどれか?という論なのだと。

 このように、一般解は「あらゆる場合」を想定します。
 ある局面におけるある感情だけをモチベーションにして動いたり、決めたりするのは厳禁です。極悪非道で誰もが死刑当然と思う事例だけを考えれば死刑は存続すべきだけど、冤罪事件を調べていき、無実の人間がこんなにもたやすく有罪にさせられるのかということ、さらには実際にそれで無実の人間を死刑にしてしまった事例が現実にあることを知ると、「むむ」とも思う。そして実際に裁判の現場に立ち、あるいは年を取って経験を積むにしたがって、人間の記憶というのがいかに間違いに満ちているか、印象というものがいかに頼りないものか、人間の認識力というのがいかに限界があるのかを知るにつれ、軽々にモノが言えなくなる。

 政治も法律も、「皆」のことをやるわけですから、「こいつのことはシカトしてもいい」という領域はあってはならない。理論がスッキリ通る場面だけを対象にし、それとは真逆になりそうだったり、曖昧になりそうな事例は無視!ってことは出来ない。だから悩ましい。

 職場で「うつ」の人に対してどう対処したらいいかにしても、そんなもん甘ったれてるだけだからビシバシいけばいいんじゃい!って言う人もいるし、そう思えるような場合もあるだろうけど、でも本当に辛くて幾らムチで叩いても意味がない事例もまた多く、そんなに一概に言えるわけもない。女性を口説くときも、「押しの一手」という方法論もあるのだけど、ヘタにやりすぎたらただのストーカーやセクハラでしかなかったりもする。でもそこを配慮しすぎると「煮え切らない男」とレッテルを貼られる。ああ、どうしたらいいんだあ、という。

 このように一般解は難しい。
 それは「あらゆること」の恐さであり、難しさです。

「あらゆること」の難しさとリーダーの難しさ

 だから、思うのですけど、そこからリーダー論の難しさが出てくるのでしょうね。
 あまりに歯切れの良い政治家は信用出来ないです。バサバサ切り捨てれば、つまり視野を狭くして「あらゆる領域」を減らせば、言うことは自然とシャキシャキしてきます。快刀乱麻。例えば、エロマンガなんかこの世にあって良いわけはない、断固撲滅すべきだ、性犯罪を助長するのだと言うのは簡単。「明快で力強い主張」です。同じように、働かざる者食うべからず、福祉は大幅にカットすべきだ!というのも、結婚しない奴、子供を作らない奴は非国民だ!というのも「明快で力強い」主張になる。

 しかし、一人ひとりの生きている現実について細やかな目を注いでいない視野の狭さ、注ごうとしない傲慢さは問題でしょう。視野を狭くして、都合の悪いものを切り捨ててればいいんだったら、どんな馬鹿でもシャキシャキ明快論は言える。切り捨てたくないからこそ、歯切れが悪くなる。

 これも大学の頃、ある教授が言ってたのを覚えています。口の中でムニャムニャ言ってて、歯切れが悪くて、なんだかよく分からないことを困った顔をしながらボソボソいってる教授の方が「本物」だと。なぜなら彼の優秀すぎる頭脳は、同時に数十のありとあらゆる事例をシュミレーションしながら高速度に回転している。だから迂闊に結論が出せない。逆に「AはBに決まっとる」なんて明快に言うような奴は、「たいていはバカですよ」と。そのときは「なるほど」と思いながら、講義室で皆と一緒にアハハと笑っていたけど、いや、でも、それから30年世間を生きてきて思うのは、ほんまにそうやってことです。先生、いいこと教えていただきました。

 しかし、政治家とか上司、リーダーになると、もぐもぐやっててもダメなんですよね。選挙民や部下にアピールしない。わかりやすい言葉で明確に力強く言わなければならない。だからこそリーダーというのは難しい。明快に力強く言えないことを、明快に力強く言わないとならないという、絶対矛盾の難題を最初から背負うのだから。

 ほんでもって、一方では、そこから部下や有権者の「戦い」が始まるのだと思います。
 あの「明快さ」は本物か偽物か。単なる「冷たい明快さ」かどうかを見極めること。あの優柔不断さは、どこから来るのか。それをどれだけ見抜くことができるかどうかの「戦い」ですよね。構成員が無能だと、無能なリーダーを選び、そしてそのしっぺ返しを受ける。これはもう物理法則みたいなもので、無能な人は、無能な仲間、無能な会社、無能な配偶者を選び、そのしっぺ返しを食らう。物理法則だけに血も涙もなくすげー残酷。しかし、それもまた一般解の一つでしょう。

特殊解B

 一般解(一般法則)→個別事例へのあてはめが特殊解Aですが、一般解の法則性があてはまらないのが特殊解Bです。

 この特殊解Bは、「この世の真理」という一般解に負けず劣らず重要だと思います。
 なぜなら、全ての事例は「個別事例」だからです。「国民」という名前の人間はおらず、具体的にはそれぞれに個性を持った人々です。「カイシャ」という名前の企業はなく、「シゴト」という名の仕事はなく、「コイビト」という名の恋人はいない。この世の全ては個々バラバラの存在によって成り立っている。

 そして、今ここで考えたり悩んでいるしている「自分」そのものが究極的な「個」であり「特殊」です。
 思いっきり力任せのことを言ってしまえば、世界が、いや全宇宙がどうなろうが、自分さえハッピーだったらそれでいいのだ。また自分の死は全宇宙の消滅に等しい。全宇宙の運命という質量無限大のものに匹敵する最強の存在が「個」であるという、この凄まじい主観現実がある以上、その個の原理によって司られる特殊解は、一般解に匹敵するだけのパワーを持ちます。客観 VS 主観みたいな感じ。

 さて、現代の日本社会の「一般解」は以下のような感じでしょう。
 人生をハッピーに過すには経済的基盤が不可欠であり、その資力を稼ぐために最も広く活用されている方法論は給与所得者になることであり、そしてそのトータルとしての給与の多寡と安定性を考えれば大企業に入った方が多くの結果を望め、そして大企業ほどいわゆる高偏差値の有名大学の出身者を採用する傾向がある。ここまでが「一般解」であり、だから頑張って勉強していい大学に入ろう、これまでの成績や自分の特性を考えれば国立は諦めて私立文系一本に絞った方が成功率は高くなるだろうというのが「特殊解A」です。これは分かりますよね。生まれてからこんなことばっかり考えてきたし、考えさせられてきたし。お馴染みでしょう。

 ところが、そういう一般解に全く無頓着な人、価値も興味も感じない人もいます。ボクシングで世界チャンプになること、ロックスターになること、プロの将棋指しになること、宗教的な世界に魅力を感じる人、常に何かにトキメキを感じているかどうかが重要でそれ以外は全て枝葉末節と思う人、、、いろいろです。

 僕らは誰でも特殊性を持ってます。個性ですね。その個性原理と、一般解原理とが衝突してすり合せをするわけですが、一般論をメインに置きつつ、個性はその微修正に出てくるだけなら特殊解Aになり、一般原理を圧倒するほど個性原理が強い場合は特殊解Bになると思われます。つまり、進学→就職という一般解路線で行くのだけど、数学は苦手だから文系かなという個性による修正選択を施すのが特殊解Aであり、「進学?んなことやってる暇はない」とばかりに中学卒業と同時に奨励会にはいってプロ棋士への道に進む人が特殊解B(まあ奨励会というルートが設定されているだけ、特殊解A的でもあるのだけど)。

 突き詰めていってしまえば、こと自分自身の人生設計に関しては、一般解など無いです。全ては自分という「特殊な個」に終始するのですから、全ては「ワタシはどう思うか」という特殊解Bに終始する筈です。一般/世間的にはどうか、皆はどうしているのかというのは、原理的に自分の価値選択に影響を及ぼす筈がない。でも、そこまで強靱な自分だけの価値原理を持ってる人は少ないので、一般解のあてはめという特殊解Aになるのが通常でしょう。

 小学校の頃、悪さをしては先生に怒られて、よく「何でこんなことしたんだ?」「皆がやってたからです」「ほな、皆が死んだらオマエも死ぬんか?」みたいな説教を食らいます。でも「皆が死んだら自分も死ぬ」という荒唐無稽な話も、実際には幾らでもある。戦争がそうです。赤紙一枚で徴兵され、みすみす死ぬに決まってるような戦地に送られるのは誰だってイヤに決まってるんだけど、でも「皆がそうしている」からイヤとは言えずに行ってしまう。死んでしまう。一般解が強すぎるから特殊解Bを圧殺してしまう事例です。

 日本では良くある話です。近未来に東京で大地震が起きる可能性が少なからずあると言います。だからといって民族大移動のように東京がもぬけの空になるわけでもない。引っ越しする人もいるけど、多くは放射能禍を避けてのことでしょう。でも、僕個人が素朴に思うのは、30年後にガンになるかもしれない放射能よりは、数年後にもっと直接的に死ぬかもしれない地震の方がリスク値としてはかなり高いです。じゃなんで皆さん首都圏にいるのか?だけど、仕事もあるし、家もあるし、軽々に動けない。それはよく分かります。でもね、今、この地上に自分しか住んでなかったらどうします?わざわざそんな危険地帯にいるか?あるいは皆が我も我もと脱出し、今東京には1000人くらいしか残ってなかったら、それでも居続けますか?つまりは「みんな」という一般解的な要素があなたの意思決定にどれだけの影響を及ぼしているか?です。

一般解と特殊解のダイナミズム

 次に思ったのは、これは一般解、これは特殊解と明確に割り切れるものでもないってことです。視点を一つポンと変えるだけで、一般解になったり特殊解になったりする。また、一つの局面に対処する場合でも、一般解と特殊解A・Bを臨機応変に使い分け、レシピー配分をきめて同時使用しなければならない。これが難しいし、この相互乗入れやフィードバックのダイナミズムです。

相互乗入れ

 今、日本では恒久的に原発を廃止することに経済界が難色を示しています。しかし、多数の国民は廃止を望んでいる。さて、一般=特殊でいえば、原発だけに焦点を絞るのは特殊解です。とにかく安全であれば、放射能禍が無くなればよいと。しかし一般解では「あらゆること」を考えるので、確かにそれで原発系の安全は高まるけど、別の局面が問題になる。電力供給の問題で空洞化が進むとか、それで経済が沈滞し相乗効果になっていったら失業率は高まり、生活は苦しくなる一方。現在でさえ自殺者3万人。若年自殺ばかりがマスコミに取り上げられるが実数的には中高年自殺の方が圧倒的に数倍差で多く、そして生活困窮を理由にする場合が多い。だから景気が悪くなる=死人が増えるということであり、人を殺してでも「安全」なのがいいのか?その安全って何よ?という問題がある。また、将来的な国防を考えれば、中国はおろか北朝鮮だって核兵器もってるわけで、日本だって対抗上発電はやめるにしても核設備だけは持ち続けた方が良いのではないか、一回全面廃棄したら、将来的にまたやるといっても十年×数兆円の手間暇がかかる。

 しかし、視点を変えたら真逆にも言えます。上で述べた一般解は、「今現在の日本」という特殊状況を前提にした解なのであって、もっと長期的なスパンでいえば、ここで目先の経済利益に振り回されて国家百年の大計を誤ってはならない、「危険だけどしょうがない」と言っていちいち現実に譲っていたら、ズルズル土俵を割ってしまうのだ。念仏のように「シカタガナイ」と唱えてどんどん不本意な社会になっていくこと、もうそういうことは終わりにしようぜ。過渡期は大変かもしれないけど、乗りきってしまえば50年100年と原発のない社会体制が構築できるのであり、そのメリットこそが一般解であり、単に現時点だけの不都合をあげつらう方が特殊解である。それは人類全体の進歩というより大きな一般解にも貢献する。一方、国防で核兵器が有用だといっても、それはもう冷戦時代でさんざん経験済であり、何も生まないという不毛性も立証済ではないか。過渡期の経済的困窮は相互に助け合うという方法を徹底的に極め、また兵器に依らざるクレバーな国際交渉などをこの際徹底的に学んでおくことが、100年後の日本の礎になるという一般解になるのだと。

環境や武器としての一般解

 非常に個性や我が強い人、僕などもそうなのかもしれませんが、そういう人は特殊解B一本で生きていけます。世間でどう言われようが皆がどうしようが「我関せず」ですから。自分がどう思うか?が全てであると。

 しかし、特殊解Bが強ければ強いほど、またそれを打ち出して生きていこうとする人ほど、面白い逆転現象が起きるような気がします。つまり特殊解が強い人ほど、一般解にも又強くなる。全員がそうとは言えないにしても、そういう人は多いし、またそうなる理屈もある。

 なぜか?特殊解B世界というのは、一般解という外在エネルギーではなく自前のエンジンで動く世界です。川に流されるのではなく、四駆のようにどこでもゴゴゴと進んでいける。しかし、だからといって無人の野を行くように自由に行けるわけもなく、あちこちで世間の壁にぶつかる。我を通せば通すほどぶつかる。中には理解され、支援される場合もあるが、無視され、敵視され、差別されることも多い。とってもやりにくいです。

 ゆえに特殊解という「我」を貫こうと思ったら、それなりにクレバーにならざるを得ない。一般解というルートマップに精通している必要が出てくる。そこでの一般解は、自分の行き先を決める指導原理ではなく、自分の進路の自然環境のようなものになっていきます。「ジャングルの地図」みたいに、あそこに行くと綺麗な飲み水がゲットできるが、ワニとピラニアがいるので注意しなければならないとか。一般解を、突き放して客観的に眺め、深く正確に理解しようとする。一般解の理解度が深いほど無駄な衝突も避けられるし、途中の地点まで一般ルートでいけるなら流れに身を任せてエネルギーの節約もできる。

 人生において仕事にさほどの価値を置かず、他のアクティビティに価値を見いだす人がいます。いわゆる世間的な成功や収入には興味がなく、自分の世界を切り開いて行きたいという。そういう人は、仕事にやり甲斐を求めませんから、仕事なんかなんだって良い筈です。でも、だからこそ世界経済の動向や日本の産業構造やビジネスシーンに深い理解があった方が良い。なぜなら、その方が効率的に稼げるからです。そこでは、仕事は生活や自分の世界を成り立たせるための資金稼ぎ以上の意味はないのですから、効率こそが問題になる。そこで効率の悪い稼ぎ方をしてたら、稼ぐだけで力尽きてしまい、自分の世界を構築する資力も労力もなくなってしまう。

 その対象をよく研究し、理解することと、それに価値を置くこととは、ぜーんぜん別次元の話です。むしろ価値を置かないからこそ、しっかり知悉して、最小時間・労力で最大リターンを得るようにしなければならない。「ねばらならない」ということはないけど、そうした方が合理的ではある。

 逆にいえば、世間的にはいわゆる一般解そのもののようなエリートコースに乗って順風満帆に高収入を稼ぎ出しているような人が、実は特殊解B型バリバリだったりすることは、意外とよくあります。彼や彼女の価値世界では、いずれ田舎で牧場をやるのが夢とか、心にキズを負った子供達の力になるようなことをするのが、本当の自分の「特殊解」である。だけど、そのためにはまとまった財産がいるし、あるいは政財界にそれなりにコネが必要だから、「仕方なく」「最も合理的だから」今の仕事をしています、という。

 これは分かります。僕自身もまたそれに近かったから。弁護士になることが最終目的ではなく、他人や世間にあれこれ干渉されるのが大嫌いだったから、どういう場合に世間は干渉するのかという一般法則=法律をこの際徹底的に極めてやれというのが原点にあった、というのは過去のエッセイでも何度か書きました。「特殊解Bを貫くために一般解を知る」という表現で意識したわけではないですが、発想は同じです。

 それが嵩じて、このエッセイでも、何らかの現象を見て、何らかの法則性を無理やりにでも抽出して、あでーもないこーでもないと考えるという話が多いです。もう「一般解マニア」みたいなものですね。それもこれも自分が特殊解B型だからかもしれません。特殊解型人間にとって、一般解のストックというのは、そのまま財産にも武器にもなりますから。

 一般解マニアからすると、「一般にそう思われていること」と「一般解」とは微妙に違うように思います。一般解というのは、客観的な事物の法則性であり、皆がどう思うかということとは関係ない。世間がまるっぽ誤解している法則性(一般解)も結構多い。「○○という誤解が広まっている」とか「意外にも〜」なんて言われている事柄はそうでしょう。

 ただし、「世間で○○と思われていること」自体が(例えその内容が誤解であろうとも)、一つの一般解になる場合もあり、話はややこしいです。例えば純粋科学的には、どこにもそんな根拠はないのに皆が誤解している場合。この際、わかりやすくするために荒唐無稽な事例を挙げますが、例えば、「アレルギーを予防するには、玄関に大きなダルマを置いておくと良い」と皆が思っているような場合。理系的・科学的な一般解としては、それは迷信であり大間違いなのですが、文系的・社会的な一般解としては必ずしも無視できない。ホテルや旅館などでは、馬鹿馬鹿しくても玄関に巨大なダルマを設置して「アレルギー対策にも万全の配慮をしています」と謳った方が客は来るし、謳わないと売れないという現実があったりします。政治家でも「全ての小学校にダルマを置く」という公約をした候補者が当選したりもします。

 ここにおいて、理系的客観的な一般解としては、ダルマなんか置いても無意味というのを知らねばならないが、同時に「世間がどう思うか」ということもビジネスや社会のリアクションを計算する場合にはキッチリ要素に組み込まなければならないという微妙な作業をする必要があります。このあたり、非常にややこしいのですが、一般解マニアとしては美味しいところでもあります。

 他にも色々思いついたのですが、長くなったので、このくらいでおひらきにします。


文責:田村



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