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今週の1枚(2012/09/17)



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Essay 585: 「所有」とはなにか?〜"脱"所有とパブリック・ドメイン

領土問題と境界確定事件
 写真は、Willoughbyの普通の住宅街。
 こちらは太陽光線が強いから、夕陽(朝日も)眩しい。悪い気はしない、てか結構好きです。運転してるとツライけど。

 夕暮れの黄金色に包まれて視界がぼやけると、「たそがれ(黄昏)」の語源である、「あそこにいる人は誰?よく見えない」(誰ぞ彼)を思い出します。
 もっとも、「黄昏」の語義は、夕陽が眩しくて見えないのではなく、暗くてよく見えないという意味であり、時間的には「日没直後」らしいです。でも、イメージ的には黄金色の「黄」という文字が入ってるから、キラめく夕陽って感じですけどね。「黄」の字は、漢語の時刻表現、戌の刻の別名「黄昏/こうこん」(午後7時〜9時)からきていて、別にそんなビジュアルイメージは関係ないそうです。まるっきりの誤解なんだけど、でも、「黄色く昏倒する」(視界が黄金色に染まってホワワ〜ンとなる)という感じで、好きな言葉であり、好きな時刻です。ちなみに、夜明け直前の「まだ暗くて見えない」時間帯は「かはたれ」というらしいです(彼は誰?)。こっちは全然伝わってないですね。




 ネタ探しに新聞などを読んでみますと、尖閣諸島とか竹島とかまだ揉めてるみたいですね。あれも「なんだかなあ」です。政治的な背景であるとか、官製ナショナリズムの胡散臭さとかいろいろあるけど、一番違和感あるのは「土地の所有権」という観念です。個人所有であろうが国の所有であろうが。

人類風情がっ!

 誰も共感してくれないのを承知で書きますが、人類ごときがこの地球を「自分のもの」だと思うこと自体が大間違いというか、つけあがるのも大概にせえって思います。いや、マジでそう思うのですよ、子供の頃からずっと。

 そりゃあ日本にいる頃の仕事では、やれ所有権移転登記がどーしたとか、民法177条の物権変動がこーしたとかやってましたけど、あれも「世を忍ぶ仮の姿」というか、一応そういう「お約束」になってるから、まあそういう前提でやりましょかってくらいのもので、心の底からこの「母なる大地」を、誰か個人(法人・国)が「所有」出来るなんてトンデモ話を信じていたわけではないです。

 悠久なる地球の歴史からすれば、人類の存在なぞごくごく瞬間的なものだし、ちょっと目を離したスキにパンに生えたカビのようなものでしょう。カビ風情が「このパンは俺のものだ」と主張するこの滑稽さ。

 さらにいえば、人類くらい、地球資源を食い荒らし、環境を破壊しまくり、他の生物種を殺しまくり、絶滅に追い込んでる生物種はないでしょう。素直に地球全体の秩序から考えれば、そして美しいモノを破壊することや無辜の生命を奪うことを「善」ではなく「悪」であるという価値判断に立つのであれば、人類というのは存在自体が絶対的な「悪」。もうこれ以上分かりやすい「悪」はないでしょう。史上最悪の害虫と言える。そうなると、また「害虫風情が何をほざくか」とかますます思っちゃうのです。

 あらゆる領土紛争、一般私人における境界紛争や所有権帰属問題は、のぼせあがった人類内部での約束ゴトの世界での争いでしかなく、絶対的な意味での正義も真実も存在しない、というのが僕の素朴な感覚です。

「所有」の罪

 これを突き詰めていくと「所有とは何か?」論になり、資本主義と私的所有の禁止を謳う社会主義との分岐点まで遡り、さらには人間すらも「所有」の対象にした(領民、臣民、農奴)封建主義以前の残酷な社会に遡ります。

 「所有」は多くの人類にとっては福音というよりは、重い重い桎梏であった。
 それを打破し、人類史的に大きな転換点になったのは近代啓蒙思想といわれる時代でしょう。
 その提唱者であったルソーは、例えば、以下のように書き残しています。

 「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宜言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。
 杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、
 『こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地は誰のものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!』
 と、その同胞たちに向かって叫んだ者が仮にあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせたことだろう?」(『人間不平等起源論』)

 いや、なつかしいな、この有名な一節。ルソーは好きだったので、高校の時よく読んでました。

 「所有」。
 おお、なんとおぞましき響きをもつ言葉だろう。
 「所有」の本質は、その排他性と全能性にある。
 「これはおれのモノだ」と宣言し、他者と共有しあう喜びに背を向けし、ひたすら我利のみを貪る排他性。
 「オレのものに何をしようが、オレの勝手だ!」と、あたかも神のごとく振る舞わんとする全能性。
 その卑小なる精神。その幼稚な傲慢さはどうだろう。

 人はペットを所有し、夫は妻を所有し、親は子供を所有し、会社は社員を、国家は国民を所有する。
 口先でこそ「独立対等」などと美辞を並べるが、
 その扱いを第三者に注意されると「口出しするな」と烈火のように怒り、
 腹の底では自分の思い通りになると思っている
 少なくとも思い通りにしたいと思っている。
 それが卑小なる精神というのだ。幼稚な傲慢さというのだ。

 崇高な芸術に何の関心もない下賤な成金が、ただただ金の力だけで、人類の遺産たる名画を所有し、浅ましい虚栄のための装飾として見せびらかす。
 ぶよぶよに肥大した卑小なるエゴ
 銀蠅が飛び回るかのような、ふんぷんたる臭気。

 肉体以外何一つ持たずこの世に生まれ、
 何一つもたずに黄泉に還る存在が、
 たまさか生ある限られた黄金の瞬間に、
 生命の歓喜を味わうこともなく
 いったい何を所有しようというのか?


 なあんてね。

「所有」の限界性〜パブリックドメインと「脱」所有

 それはさておき「所有」ですけど、当たり前の概念のようだけど、実はそれほど当たり前ではないのだ。

 法学部に入ると民法を習い、物権法のところで所有権を習います。所有権は万能の権利、権利の基礎たる権利。その上に抵当権だの、地上権だのという制限物権があると習う。でも、それは実定法解釈学の世界で、さらに奥の院に進むと、法哲学や法社会学があり、そこでは「所有権ってなーに?」という根源的なテーマが語られる。川島武宜先生の名著「所有権法の理論」なんてのもありました。

 私権の基本たる所有権。当たり前の所有権。
 でも、これが考えていくとよく分からなくなっていきます。

 意外と「誰のモノでもない」という領域は多いです。
 太陽も月も、空気も、重力も、時間も、誰のモノでもない。恋人も、子供も、家族も、誰のモノでもない。愛情や情熱という精神傾向も所有の対象にはならない。そして何よりも大事な自分の肉体も魂も所有の対象ではない。所有権とは、限りなく自分に近いが、自分そのものではなく、その対象に排他的・全面的な支配を及ぼせるもの。そんなものがどれだけあるのか?

 実際周囲を振り返っても、カッチリと所有の対象になる物事の方がむしろ圧倒的に少ないとも言えるし、価値的にそれほど重要ではないことが多い。今、手元に「自分のモノ」を全て置いて並べてみましょう。自分の本、自分の服、自分のパソコン、自分のクルマ、自分の家、、、そしてそれら自分のモノ以外の全てを消してみたらどうなるか?まず空気が無くなる。光が無くなる。重力も無くなる。時も止まる。そしてなにより自分が消滅する。

 富士山があります。富士山を富士山として堪能する〜登ってもいいし、眺めても良い〜ためには、別に富士山を「所有」している必要はない。好きなときに眺め、好きなときに登れればそれで十分。しかし、富士山がどっかの金持ちの個人所有に属するとなると、ちょっとカチンとくる。富士山は、現行法のもとでは国有地なのだろうが、ここでいう国有地とはすなわち「誰のモノでもない」ということである。誰かのモノであってもらったら何か心が落ち着かない。

 ところが!調べてみて僕も初めて知ったのですが、富士山というのは8合目以上は私有地だそうです。富士山本宮浅間大社が所有している。そして7合目までは、静岡県側は国有林、山梨県側は県有林らしい。そうか、上は私有地なんだ。ちょっと複雑な気がするが、まあ、でも、神社だったら半分公共って感じがするからいいかってところでしょうか。

 所有とか権利とかいうけど、要は自分の身の回りの生活が成り立つ程度に保証されていれば、それで必要十分といえる。それ以上の部分は、別に所有する必要もないし、時折それを賞味鑑賞できれば良い。だから誰かの所有にも属してもらいたくはない。

 以前、高村薫氏のエッセイを読んでいたら、東京と大阪の海岸線について触れておられた。「ほう?」と思ったのだが、大阪の場合は、大抵の岸壁まで誰もがアクセスできる。しかし東京の岸壁の多くでは、一般人はアクセスできなくなっているとされていた。海岸線には、財閥系の倉庫があったり、コンビナートなどの企業所有、ないし港湾局の管理になっていて、一般人はなかなか海まで直接行けないと。大阪の場合も、私企業や港湾局の所有地であることに変りはないが、閉じられておらず、一般市民が勝手に入れて岸壁まで行けるようになっている(「半眼朴訥」の冒頭のエッセイ「岸壁に立つ」)。

 それが本当かどうか自分の目の確認したわけではないが(本当だろうが)、海や海岸というのは私的所有の対象にすること、さらに一般市民のアクセスを禁止することに違和感はある。プライベートビーチの閉鎖的でリッチな気分というのはたまには良いけど、全ての海岸とその美景が、一部の金持ちだけの専有物になってしまって良いのか?と言われると、NOと言いたい。シドニーでも、海岸の宅地開発を自治体と住民運動で覆し、「海は皆のもの」というということで公園になっている例があります。かつてエッセイの写真でも載せた、BalmainのBalls Parkがそうです。

 このように「みんなのもの」を尊重するという発想は、「パブリック・ドメイン」という発想でもあります。パブリックドメインというと、パソコン系の共有ソフトの意味(PDS)が強いけど、もともとは「社会の公共財産」の意味です。ドメイン(domain)の語義も「土地、地域」という意味で、シドニー新聞SMHの不動産情報セクションは"domain"といいます。ネットアドレスの「ドメイン」もそこから来ている。日本古来にもパブリックドメインはあり、現行民法では「入会(いりあい)地/権」というのがあります。その村で共同利用している場所(薪を取りに行ったり)。

 現代の、極度に発達した資本主義・高度消費社会では、「所有」というのはとても大きな意味を持ちます。なんせ経済活動の多くは売買であり、売買の多くは「所有権移転」ですから、お金儲け=売買=所有権=超大事!って感じに刷り込まれたりするのですが、実は思ってるほど僕らは多くを「所有」しているわけでもないし、僕らの人生の大部分は、自分の魂や恋人がそうであるように「非所有」によって成り立ち、あるいは海や山のように「公共所有」によって成り立っている。

 経済成長が万能の打出の小槌ではなくなり、むしろその弊害の方が目立ってきた現在、「いかに所有を増やすか(所得を増大させるか)」という方法論よりも、「いかに所有しないか」という非所有・反所有・脱所有の発想をもう少し考えてみても良いのではないかと思ったのでした。

境界確定訴訟のおはなし

 さて、ここで、民事裁判の鬼っ子と言われる境界確定訴訟をご紹介します。

 僕が修習生だった頃、指導していただいた裁判官諸氏からも、あるいは弁護士さんからも、「境界事件だけはやりたくないですね」と言っておられた。そのくらい面倒臭く、そのくらいしんどい。まず10年戦争になるし、どういう解決になろうが、シコリ残りまくり。およそ「解決」ということがありえない。

 境界事件というのは、あなたの家の敷地と、隣の家の敷地の境界線が争いになることです。普通は塀などで分かりやすく区分けされてます。土地の売買をするときは、測量図をもとに隣家の人と境界を確認するという手続きがあります。隣の土地が公共の土地(官地)の場合は、自治体との間で官民立会(かんみんりっかい)をし、一般私人のときは「ミンミン(民民)」立会という餃子のような手続をします。だから普通はそんなに争いにならないし、争いを未然に防ぐように制度が出来ている。

感情的な、あまりにも感情的な

 しかし、それでも争いは起きます。お互い住み続けて数十年、当の売買当事者は双方鬼籍に入り、子供や孫の所有になった頃に勃然と紛争が起きる。それぞれが自分の土地だと思ってるところに、相手方が勝手に塀を作って囲い込まれたりすると猛然と腹が立つ。「なんちゅーことさらすんじゃ、この盗人野郎が」くらいの勢いで談判に出かけると、「言いがかりは大概にしてくれ」とケンモホロロの対応。大の大人がほとんどつかみ合いの喧嘩になるような大騒ぎになります。

 これは本当に腹が立つらしく、自分でも当事者になった経験がある知人の弁護士も言っていました。ひょんなことから相続した土地(田舎の田んぼ)で境界争いになったときに、「あんな境界問題とか、いいトシした大人が真っ赤になって、なんちゅーアホなことしとるんやって思うし、自分も事件やっててそう思ってた。しかし、いざ自分が当事者になると、あれは腹立つでえ。ほんま、自分でも信じられんくらい腹が立つんや。なんでこんなに?と思うくらい感情的になってしまうんや」としみじみ述懐していた。

 この感情的なムカつきは、尖閣諸島や竹島でなんとなく分かると思います。とにかく感情が原点であり、感情で終始する種類の問題であり、その究極的な解決は、どっちか一方の死滅でしかない。何をどう解決しても感情のやり場に困る。足して二で割る妥協案でも、到底納得できないくらいに思う。

 もともと境界紛争になるような土地は、利用価値もない、何十年も打ち捨てられ、無視されてきたような土地で生じます。頻繁に活用され、重要な経済価値を持つような場所だったら、そもそも最初の時点で念には念を入れて確認するし、毎日使ってるから問題があったらとっくの昔に生じている。

 紛争にはいろいろなモチベーションがあります。通常の商事民事事件のように経済的利得であったり、離婚事件のように「愛と憎しみと将来設計」であったり。ところが境界事件は、ほとんど経済的には無価値な捨て地で生じるので、その紛争の本質は純粋たる感情です。そしてその感情の内容は何か?といえば「肥大したエゴ」、それだけ。

 所有物というのは心理学的でいう「延長自我」であり、その所有を否定されることは、自我(エゴ)に対する許されざる侵害に感じられる。自分のバイクを誰か他人が乗ってたら、いや単に触っているだけでも、とりあえず腹が立つ。「てめえ、汚ねえ手で俺のバイクに触るんじゃねえ」と。所有=エゴである。だから、ヤクザ社会で兄貴分の恋人に手を出したら命が幾つあっても足りない。「俺のオンナに手を出した」ということで激しく糾弾される。ここでわかるのは、彼らは恋人を「自分の所有物」だと思っていることであり、他人の所有物にたとえ触れるだけでも、その他人のエゴを激しく傷つけるということです。嫉妬心の強い男(女)なんかも、それに近いのかもしれない。エゴが強い。

 かくして境界事件も、プライドの高くエゴの強い者同士のぶつかり合いになる。要するに「ガキの喧嘩」になる。そこが柔和な「大人」同志だったら、「おやそうですか?不思議ですな」「一回費用を出し合って調べてみましょうか」になり、適当なところで手を打つ。でもそういう平和的な解決は、双方が大人でなければならない。片方が大人でも、他方が子供だったら、大人といえどもムカつくので、結局ぐちゃぐちゃの泥沼になる。

 僕が関与した事件もそうで、大阪エリアの高級住宅地。どちらも資産家といっていい豪邸に住み、それぞれに会社役員であったり、リタイアした上場企業の部長サンだったりする。つまりエゴもプライドも巨大。境界事件は、大体が「一家の主人」が主たる闘争者になりますね。たまには家族一丸となって燃えている場合もありますが、他の家族は「もう、いいじゃん、あんなゴミみたいな土地なんか」「ほんとにお父さんは、もう」とどっちらけている場合もある。

 どちらも悠々自適で時間と金はたっぷりあるから、もう退職後のライフワークのように精力的に戦う。裁判の期日では、双方の弁護士が準備書面と呼ばれる、法律的に意味のある事柄と主張を述べた書面を用意するのだけど、お父さん、それでは飽きたらず、期日の度に、膨大な、しかも高級和紙に墨痕も黒々とした達筆の書面を用意し、「これを是非、裁判官殿に読み上げていただきたい」と勤王の志士のようにキッとした面持ちでおっしゃられる。あの、普通の民事裁判では時間を省略するために、「準備書面通り陳述します」と言うだけであり、よほどのことでもないと音吐朗々と読み上げることはない。裁判所が作成する公式の調書にも「準備書面陳述」というハンコが予め作られており、書記官さんはそれをぺたっと押すだけで、そんな和紙の上申書なんか持って行っても、サイズが違うから裁判記録一式に褊綴できないし、裁判所もあからさまに迷惑げ。ああ、どうしよう。

 現場にいって土地を確認したり、測量士さんに依頼して測量をしていても、「すわ!」とばかりに隣の親父さんがスクランブル出動し、「あんた、なんや!」と文句を付ける。これこれこういうわけでと説明しても、「なるほどそうでしたか、どうぞ」とすんなり話が進むことはマレで、多くは公衆の路上で、応援団のような大音量で罵倒の応酬が交されたりもする。むちゃくちゃ言う人もいますよね。「せっかく弁護士になりながら金に目がくらんで、こんな悪党の手先に成り下がるなんて」「人間として恥ずかしいと思わないのか」「親は泣いているぞ」と痛罵されるわけですね。俺の親のことはほっとけ馬鹿野郎と、こっちもかなり喧嘩上等系だから(それは弁護士の資質でもある)止せばいいのに言い返したりする。で、その次はいかに迷惑を被っているかを懇々と説かれる。大体は「落ち葉問題」が定番です。相手の敷地の木の落ち葉がこっちに敷地にはいって迷惑だという。「掃きゃいいんんだろ、掃きゃ、箒どこだ?貸せ」と掃いたこともありますね。測量士さんには「僕がこっちを食い止めてますから、ちゃっちゃと測量をすませちゃってください」と。

 さらに悪罵の対象は限度をしらず拡大し、やれ隣家の奥さんは最近どうも若作りだから、どっかで男をこしらえているに違いないと、「知らぬはダンナばかりなりってやつですよ、可哀想に。あっははは!」と近所に聞こえまくる大声でいうものだから、奥さんも般若のような形相になる。子供にも累が及ぶ。「あそこの長男は、また今年も大学に滑ったそうだし、もう二浪ですよ二浪。いったい何考えてんだか」とか言うし、娘は娘で、髪を染めて、どっかのろくでもない男と覚醒剤やって、最後は場末のアパートでひとりで私生児を産んでという未来はもう確定、と決めつける。これ、相手がいう分にはまだいいんだけど、自分の依頼者がそういう罵言を言いだしたら始末に困る。ヘタに止めようものなら「先生、どっちの味方なんですか」と食ってかかられるし。

 全国の法曹志望の皆さん、これが日本国民の法と権利の最前線です。ね、面白そうでしょう?これが「面白い」と感じられない人は、適性ないから辞めた方がいいです。また、勉強が出来るとか、アタマがいいとか、そういう事は、現場においてはクソの役にも立ちません。20代でありながら60代の依頼者に対し、ときには「じゃかあしい!俺の言うこと聞けえ!」と怒鳴りつけ、叱り飛ばし、承伏させるだけの気魄と人間力が必要です。ま、毎日毎日、現場で3年も揉まれていれば、自然とそのくらいの迫力はつきますけど、それまでが大変ですよね。

 あ、でも、先日、シドニーの新聞でも境界紛争で長年揉め倒している(Pittwaterエリアだったかな)記事が載ってました。もう家族 vs 家族の争いになって、弁護士費用だけで、いくらだったかな2000万円?5000万円?そのくらい遣ってまだ決着がつかないという。しかし、2000万円かあ。それだけ貰えたらやってもいいかも。僕ら30万とか50万でやってましたよ。

散逸しまくる資料

 ほんでもって、数十年間ほったらかしにしていたからこそ、資料も証拠も散逸している。

 場合によっては100年くらい遡らないとならなくなります。田舎の田畑の境界事件なんか、豪快な事例だと、山一個分くらいズレてたりしますから。ろくすっぽメンテもしてないような遠方の田んぼとかね。先代の先代くらい。戦後の農地解放の段階まで遡っても分からず、さらに明治維新の地租改正時代まで遡ってもまだ分からず、もう江戸時代の古文書のような資料をもとにしないと分からない。てか、時代を遡れば遡るほど、膨大な時間の壁の向うで、全ては霧の中で分からない。官製の不動産登記簿にくっついてくる「公図」レベルでは当然わからず、さらにその元とのなった「字絵図(あざえず)」を調べて、近所のお寺さんの住職さんに頼んで、江戸時代の檀家名簿やら、当時の図面を見せてもらったり。でも、これ「図面」というよりも「絵」ですよね。洛中洛外屏風絵みたいな感じで、遠くに山が描かれ、意味があるのかデコレーションなのか木が三本くらいチョコチョコ描かれているという。これで何がわかるというのだあ!って叫びたくなる。

 ほんっとに、日本の土地というのは調べていくと分からなくなるのですよ。また、税金逃れのための「縄延び」なんてのもあるでしょう?って知らないか。実際の土地の広さよりも、公的な記録の方が小さくなってる現象のことです。土地の広さで税金(年貢)がかかるので、要するに「過少申告」をするわけですよ。これを太閤検地の頃からやってるし、さらに人間の考えることなんか一緒だから、日本史の最初の頃の「律令国家の形成」というタイトルで出てくる時代、やれ三世一身の法とか班田収授法とか、墾田永年私財法とかあったでしょ?中学の日本史でやりましたよね。あのころまで遡るという。もう分るわけ無いのだ。もう1000年以上の長きにわたって、わざといい加減に公的データーに記録しているという。

 証人尋問をするといっても、村の長老格を法廷にお招きするのだけど、もう齢90歳を越えていて、耳は遠いわ、すぐ寝るわ。ほんっと大変なときありますよ、証人尋問。「あのですね、聞こえますか?この図面の○○さんちの田んぼですけど、隣の○○さんの田んぼとの境は、あの村外れの一本杉からこっち側のお地蔵さんのところまでを結んだ線にした、という取り決めがあったわけですね?」「はあ?」「だから〜、この図ね、この図、見えますか?」「はあ」「ここの○○さん、あの○○さんってご存知ですよね」「ああ、あの吾平さんの」「それは先代、吾平さんのお父さんに良蔵さんって方がおられましたよね、えーと慶応元年の生まれか、その良蔵さんですね」「ああ、ああ、良蔵さん。あの人はおっかなかったなあ。柿取りに行って怒られました、でも私が取ったんじゃないんですよ本当は」「いや、柿のことはどうでもいいですよ、でね」と延々続くという。

 ○○地方裁判所○○支部。午後1時10分からの証人尋問。窓からは柔らかな小春日和の陽射しが注ぎ込み、皆も真剣に聞き入っているのか or 居眠りしているのか、シンと静まり返った民事法廷では、おじいちゃんの塩辛声が日本昔話のような物語をつむいでいく。で、最後の方で、「ここが境界だったわけですよね」というキメの質問に、頷いたのかYESともNOとも取れるようなおじいちゃんの「あえ」という発声。そこで主尋問をしたやり手の代理人弁護士は、さりげなく書記官や速記官に向かって囁くように「『証人頷く』と調書にご記載願います」と指示するのだ。そこで相手方弁護士は、間髪入れずに「異議あり」猛然と席を蹴って(このタイム感も弁護士の資質の一つ、一呼吸おいたら負けるのだ)、「全然頷いてないじゃないですか!もう一回聞いてくださいよ」とやりあう。やってる間におじいちゃんはスヤスヤと気持ちよさそうに寝込んでしまう。もう起きない。「ちょっと無理のようですね」という他人事のような裁判官の言葉で、その日は終了。

 で、次回は反対尋問ということになるのだだが、異様に手間取るから尋問時間が2時間くらい見越さないとならず、そんなにすぐの法廷の予約が取れない。だから2−3ヶ月先になる。誰もそんなに急いでやりたい事件ではないから、期日は自然と先に入る。しかし、その数ヶ月の間に、証人のとなった愛すべきおじいちゃんは、安らかに天に召されたりするんですよ。そうなると反対尋問ができないまま。反対尋問を経ていない証人尋問を判決の基礎とできるか?という、また面倒臭い訴訟法的な論点が重なるという。

 現場検証もあります。ひきこもりがちの裁判官は、一般にあまり現場検証に乗り気ではないけど、もうどうしようもなくやる場合もある。僕は立ち会ったこと無いけど、可哀想な初老の裁判官さんは、山奥までハイキングさせられ、道なき道を歩かされ、疲労困憊。あげくの果てに、バランスを崩して、斜面をズザザザザ!と滑り落ちていく裁判官。「ああっ!」「○○裁判官!」「大丈夫ですか?」「大変だ」みたいなこともあったそうです。

形成訴訟

 だがしかし、境界事件の本当の恐怖はこれから始まる。
 やっとの思いで裁判を続け、いよいよ判決となっても、裁判官は死ぬほど悩むわけですよ。境界事件がなぜ鬼っ子かと言われると、裁判官泣かせの判決形式だからです。通例の民事裁判は、原告側の主張が、証拠に照らして認められるかどうかを判断すれば良いです。主張を裏付けるに足りる証拠がないと思えば、「原告の請求を棄却する」で終わり。

 ところが境界事件は「形成訴訟」と呼ばれる種類で、裁判官は必ず「境界はココである」という結論を出さないといけない。小難しい法律論はカットするが、「証拠がないからダメ」という方法は採れず、証拠があろうがなかろうが、必ず境界を決めないといけない。事件によっては、ろくすっぽ証拠らしい証拠も出されず「これで決めろというのは絶対無理!」というケースもあるのだけど、でも決めないとならない。これが裁判官のアタマを最大限に悩ませるわけです。

 だから裁判官としては、なるべく判決を書きたくない。そりゃそうだよな。書くのが異様に難しいことが一つと、どういう結論にしたところで、絶対にそれで双方が納得することなどありえないからです。全面的に原告を勝たせたらそりゃ被告が猛然と控訴するのは当然だけど、「中を取って」というパステルトーンの解決をしたところで、今度は両方から猛然と控訴される。なぜなら上述したようにこれはエゴの問題、感情の問題だから、100%勝たないかぎり納得はない。つまり異様にしんどい割には、誰からも感謝されないのがミエミエの仕事なわけで、こんなん誰でもやりたくない。

 それに裁判官世界では、月間何件「落とした(解決した)」かが勤務評定の拠り所になる傾向があり、境界事件のように1件で10件分以上のしんどさを持つ事件に必死こいて判決書いてる労力があったら(しかもまず間違いなく控訴される)、チャッチャともっと易しい普通の手形事件とか貸金事件を落とした方が出世には都合が良い。そこで「和解勧告」になる。「どうでしょう、ここらでひとつ話あってみるというのは?」と。しかし、ここで話し合いでケリがつくくらいだったら最初から揉めてないわけで、和解期日なんか設けても無意味に近いんだけど、双方も代理人弁護士もやることが尽きているし、裁判官の顔を立てるためには、「まあ、無理だとは思いますけど」「努力はしましょう」とブツブツ言いながら和解期日を入れる。そうこうしているうちに転勤になって、面倒な事件は後任者に押しつけて、判決書かずに済むならラッキーですよね。まあ、転勤先でも同じような感じで難件が待ってたりするから同じなんだけど。

 これが境界事件の難しさですが、あまりの鬼っ子ぶりにかねてから問題になっていたところ、2006年から「筆界特定制度」という新しい法手続がデビューしています。これは裁判ではなく、不動産登記法上の制度で、境界が揉めている場合、不動産登記官(筆界特定登記官)が、外部専門家(土地家屋調査士、司法書士、弁護士など)を任命して構成される筆界調査委員に調査を依頼し、その決定を元に登記をするという制度です。

 これで、事物的には、かなり迅速簡易に決着しそうです。しかし「事物的」という限定を付したのは、大きな要素である「感情的」には大した効力はないかも?という危惧があるからですね。筆界特定手続で境界が決まったとしても、それに異議がある人間は、また、いままでの境界確定訴訟を起こすことができます。だから、そこまで感情的にこじれているわけではない、軽い争いくらいだったら筆界手続は有効に稼働するとは思うのだけど、鬼のように揉めまくってる事例においては、やっぱりこの10年戦争は続くのではないかと思われます。

領土問題

 長々境界事件の悲喜こもごもを書きましたが、これって領土問題も全く同じに思うのですよ。

 まず感情が先にあり、感情が全てであること。これが単純に経済的利得や純粋に軍事的なものだったらまだしも解決のしようもあるだけど、感情、それももっとも面倒臭いエゴ感情が絡んでいるだけに、基本的に「解決不能」だという。

 そして感情同志のぶつかりあいは、どこまでいってもエスカレートこそすれ、理解が深まったり、歩み寄ったり、沈静化する見込みは乏しい。罵倒合戦がどんどん強くなり、罵倒がキツくなればなるほど、それまで冷静に傍観していて人ですら「そこまで言うか?」と感情が波だって参戦するようになる。幾つく先はどうなるか?といえば、もう端的にいって戦争しかないですわ。究極的にはどっちか片方の民族や国民が死に絶えるまでやるしかない。ひとりでも生き残ったら、恨みを後世に伝えるから、ジンギスカンがどっかの国(ホラズムだったかな)でやったように完全皆殺し(犬猫まで首を切ったらしい)。そこまで徹底して相手をこの世から消滅させないと本当の意味では終らない。それが「解決」の名に値するのかどうか分からんが(値しないと思うが)、でも、行き着く先はそれっきゃないです。それか、段々マンネリ化し、飽きてきて、自然とダレてきて、沈静化するのを待つか。現実的にそれだろうけど、そんなんだったら最初からやらなきゃいいのだ。

 つまりは完全に不毛。世の中喧嘩の種類はいろいろあるが、ここまで栄養価が低く、ここまで不毛な争いも珍しいというくらい不毛。喧嘩したくてしょうがない人、人を殺したくて溜まらない人だけがやればいいです。それがどうにも不毛だからこそ、ケ小平も「なかったことにする」という大人の解決をし、「揉めるくらいなら爆破して消滅させてしまえ」という話にもなる。正しいよ。

 でもって国際司法裁判所に訴えるのもいいんですけど、「ははあ」と思いましたね。よくやる手だよね。これだけ火を付けてしまったら、もう落し所なんかないから、勢いよくエスカレートするように見せかけて、実はほったらかして逃げる手ですね。どうせ訴えるにも時間がかかるし、こんなの簡単に判決がおりるわけもないし。判決の頃には、どこの国の政権も、自分の代ではないもんね。知ったこっちゃないって。

 それに全ての裁判に通じることだが、訴える側は絶対勝つと思ってやるのだけど、でも結果はそうではない。でも、「もし負けたらどうなる?」っていうと、意外と誰も考えてなかったりする。でも何がどうなるかは分からんよ。どんな事件も、一方当事者の主張だけみてたら、100%絶対正しい、これで勝てなければ嘘だ、と思えるものなのだ。しかし、相手方の主張を読んでみると、「むむ、そんなことがあったのか」という新事実や新理論が出てきて、話は見えなくなってくるものです。だから自分らの主張だけしかベースにおかずに喧嘩に望むというのは、最もやってはいけないことです。喧嘩道セオリーからしたら自殺行為。

 しかし、国際司法裁判所からしたら、おそらくは「面倒臭い事件持ってくるんじゃねーよ」「ただでさえ忙しいんだから」てな感じでしょうね。舌打ちしたいような気分じゃないかなあ。境界事件の配転を受けた裁判官のような気分。

   そして、世界全体から見たら、とりあえずそんなこと知らないでしょうね。興味もないでしょう。僕らがギリシャとトルコとキプロスの長年のグチャグチャに全然興味がないのと同じく。だいたい、世界200カ国の平均的な感覚でいえば、日中韓など北東アジアは、ベスト10にはいるような経済の超優等生ばっか。しょせん金持ちどもの優雅な遊びくらいにしか映ってないんじゃないの?クルド、チェチェン、バスク、ソマリア、東チモール、、、世界ではシリアスな生きるか死ぬかの問題が山ほどあるなか、そんな超豪邸同士の裏庭のフェンスがどーしたこーしたなんて境界紛争なんか、紛争の名にも値しない、どうでもいいって思ってるでしょう。

 中国でも反日デモが盛り上がってるけど、オーストラリアの新聞ではそれほど大きな扱いではない。一応載せている程度だし、その内容も中国政府内部の政権委譲をめぐる水面下の暗闘に焦点が当っている。というか西欧社会では「それどころではない」のでしょう。なぜなら、またぞろキリスト教 VS イスラム教という、伝統の巨人阪神みたいなフェバリットな騒ぎをやってますから。ご承知の方も多いでしょうが、マホメットが女たらしだとかペドフェリアだったとかいう映画に抗議して、アメリカでも、そしてつい先日のシドニーでも抗議デモが起きて、警官隊と激突し血が流れてます。リビアではアメリカ大使が殺されているし、もう世界中のあちこちに広がっている。

 しかしああいう暴力的デモをした時点で、したほうが大局的には大損ぶっこく。こちらの新聞でも誰かが書いてたけど、粗暴な振る舞いに出る連中は、"losers"(負け犬ども)と呼ばれ、軽蔑されるだけではなく、イスラム教は暴力的だという無茶苦茶な偏見と人種差別をさらに助長し、世界に広がる穏健で常識的なムスリム達が日常的に迫害を受けるという。つまり一部の馬鹿どもが、何百倍何千倍もの数の同胞達を苦境に陥れるという。板挟みになった世界各地のイスラム移民社会のリーダー達も大変で、映画は非難しなきゃいけないけど、あくまで平和的にと言わねばならないからどうしても歯切れが悪くなる。

 中国だって全く同じ事で、世界に散らばる中国人がいい迷惑でしょう。ただでさえ煙たがられているのに。あ、これ○○人だからってことではなく、何でもそうですが「強い奴」というのはただそれだけで憎まれるものです。僕らがお金持ちの人や権力者になんとなく軽い反感を抱いてしまうのと同じ。日本が強いときは日本がさんざん叩かれた。アメリカだってそう。その意味でいくと、イギリスとか凄いんですよね。世界最強の大英帝国であったときにも、あんまり強そうに見えない。強そうに見せない、この老獪さ。

 だいたいあの種のドンパチで暴れている連中というのは、どこの社会でも"losers"で、ちょっと前のロンドン暴動もそうだし、その社会で割を食っている(と思っている)他罰的ルサンチマン感情あふれる連中、「喧嘩したくてしょうがない人」でしょ。サッカーのフーリガンであり、成人式で暴れてるようなもの。もっともらしい政治・宗教・思想的なスローガンを唱えてはいるけど、公に暴れられたら何でもいいのだ。学生運動の中にだってそういう連中は結構いただろうし、幕末の「自称志士」だって、その殆どはただのゴロツキでしかなかったというし。

 ただ、注目すべきは、世界中で「溜まってる人達」が静かに増えているんじゃないかということです。社会も、自分の人生も何となく正しい方向に向かっているような気がしない、じゃあ「正しい方向」という突破口があるのかというとそれもよく見えない。見えないまま、毎日毎日少しづつ溜まっていく。コールタールのような黒い、可燃性の毒素が一滴づつ溜まっていく。それが何かの拍子ではけ口をみつけると爆発する。

 ロンドン暴動でもプール付の豪邸のお嬢様が略奪に参加してたり、ずっと前のシドニーのクロヌラ暴動でも普段はそんな暴力沙汰を毛嫌いしているような普通の市民がなんとなく巻き込まれて熱くなっている。一般的には"winners"と呼ばれる人々のなかにも、この「なんだかな」的なコールタールが溜まってる部分が一番気になります。これが臨界点まで溜まってしまったら、もう大戦争でもしないと収まりがつかないかも。なんといっても喧嘩や破壊は害虫たる人類の業みたいなものですから、そこに行く前に「正しい方向」を見つけないと、ちょっとヤバそうって気もします。まあ、今日明日どうなる話でもないですけど。

 ところで、領土問題に戻りますが、ほんと過去の話を言いだしたら、昔は今のようなカタチの国家(19世紀型近代国家)なんか存在しなかったんだし、百年後にはどうなってるかもわからんですよね。今の国家というシステムは賞味期限過ぎてると思うし。それに遡れば遡るほど、誰でも叩けばホコリの出る身体。日本だって北方領土をいう以前に、北海道をアイヌに返さなきゃ。沖縄もね。台湾も高砂族がいたんだし、アメリカもインディアンに返し、南米は全部インディオに返し、オーストラリアもアボリジニ以外全員撤退、インドはムガール帝国、さらにアーリア人はドラビタ人に返すべきだし、ゲルマン民族大移動も移動前に戻るべきだし、そうなるとヒッタイト人、フェニキア人、シュメール人、、、キリがない。

 領土問題を、もし多少なりとも建設的に解決するなら、、、そうですね、もう金持ち国家同士が領土で揉めたら、その時点で自動的に「喧嘩両成敗」。どちらの国からもその地を没収し、国連の直接統治地にして、温暖化で国そのものが沈没するツバルの人達とか、虐殺を待つだけの難民とかの共有地にして上げたらいい。

 それがイヤなら、そしてもうちょっと儲けたいなら、揉めた時点でパブリックドメインにしてしまえばいい。両国の入会地として、双方の関税をゼロにするとか経済特区エリアにして、両国の貿易の中心センターとして栄えさせたらいい。ドメインの運営は両国代表がやるが、それだとまた喧嘩になるから、周辺諸国と、全く利害関係のない遠隔地の国の代表も、持ち回りで運営委員会を構成するようにする。そうやって栄えていけば、どこの領土かなんか誰も気にしなくなる。南極のように、どこの国の所有にも帰属していないけど(1961年の南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結)、それで廻ってるエリアだってあるんだから。

 ここで冒頭に戻るのだが、「所有」という概念は、人間の愚かなエゴを惹き付け、肥大化させる作用がある。どうもそういう化学成分があるようです。ならば、所有に関するトラブルを解決するのは、所有ではなく、非所有であり、脱所有ではないかと思うのですね。

 そういえば、どっかの境界事件だっけな、わずか10センチ幅の境界敷地でギャンギャン揉めている事件で、裁判官が和解の席上で「だったらその境界に20センチ幅の塀を建ててしまえ、費用折半で」という、紛争そのもの押しつぶしてしまう解決があったという記憶があります。この案には双方同意したそうです。実話かどうか確かめる術はないけど、ま、そういうことです。境界や領土紛争の本質は「エゴの保全」でしょう。自分の所有物を増やすという利得的なものではなく、相手のモノになってしまって自分のエゴが傷つく点、保全されない点に問題がある。だから誰のモノでもないという解決もあるのだ。そして、さらに冒頭の、カビ風情が、害虫風情が、、、って話になるのでした。最初っから誰もなにも所有してないのだ。



文責:田村



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