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今週の1枚(2012/09/03)



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Essay 583: 「トロール」と「卑怯」について

ネットいじめと「絶対に反撃されない立場」
 写真は、Darlinghurst。すでに陽射しは春。ちらほら新緑も見えてきました。電柱に貼ってあるのは、今週末の地方選のポスター。



覆面ギタリストとネットの恐さ

 You tubeで好きな曲名やアーチストで検索していると、アマチュアのギタリストの自己撮りプレイ動画に出くわします。それぞれがカメラに向かってご自慢の腕前を披露するわけですね。アップするだけあって流石に上手で、「うめ〜!」とか「やっぱ練習だよなあ」と何を今更のことを思いつつ見ているわけですが、ふと「あれ?」と思うのですね。覆面をして弾いている人達が多いことです。

 「覆面」というかタオルで口の周囲を多い、サングラスをかけ、帽子をかぶりという、いわゆる昔のデモルックです。その昔、故・忌野清志郎先生が、あえてミエミエの「謎のバンド」を演出した「タイマーズ」みたいな覆面。

 と言っても知らない人の方が多いでしょうが、いきなり脱線するけど、あれは面白かったですね。名前が「大麻's」だもん。一応 "timers" と、大麻じゃないよタイマーだよってコトにしてるけど、「タイマーズのテーマ」という曲で「タイマが大好き〜♪」といけしゃあしゃあと歌ってるし、しかもそれを生放送のTVで歌うし。さらに打ち合わせ無視でいきなりFM東京を罵倒する歌を歌い始め(彼の曲を放送禁止処分にしたことへの抗議で)「FM東京、腐ったラジオ!このオ○ンコ野郎」とやるし、司会の古館伊知郎氏もその場で死んでました。僕はたまたま偶然生放送で見たのですが、「おお、やってるやってる!」と喜んでました。今見たら、未だに沢山You Tubeにアップされてましたので、ご興味のある方はどぞ。曲の最後の「ざまあみやがれってんだ」がカッコいい。

 いい歳ぶっこいて、こんなこと書いてケケケと喜んでいる私も私でございますが、しかし、ロックというのはそういうもんでしょう。「言いたいことを言う」だけではなく、そのリアクションも全部覚悟して、ほとんどぶっ殺される覚悟で言う。「馬鹿野郎、死んでやらあ!」的な。そこには言いたいこと言えずに生かさせてもらう位なら、言いたいこと言って殺された方がマシだという価値観が根っこにあります。かなり切羽詰まった音楽ジャンルですね。でも、思うに芸術なんか大体そうじゃないか。クラシックだって一聴すれば優美な「お芸術」っぽいけど、作ってる連中はかなり切羽詰まってたと思う。テクニックだけでチャッチャと作ったという気がしないんですけど。

 以上脱線終わり。って伏線でもあるんだけど。

 で、話は覆面に戻りますが、覆面してギター弾いてる人達がいる。なんで?と思った。素顔を晒すのはなんかモンダイがあるのか。顔を隠したいけど、自分の腕前は披露したい。ふむ、分かるような気もするが、しかし、あのアルカイダみたいな覆面、ちょっと異様な感じがする。そして覆面組はなぜか日本人に多いような気がする(喋ってないからわからないけど、部屋撮りが多いから背景の部屋の感じとか)。他の国の素人さん達は、普通に顔出ししてる人が多いけど。なんで、ニッポンでは皆、アルカイダになってますか?

 今の日本でネットで実名や素顔を出して何か言うのはNGなのでしょうか?そんな風潮があるわけですか?

 そんなこと言ったら、僕などは、素顔はおろか、実名も、住所も、電話番号も、生年月日まで書いてますけど。あかんのですかね。日本にいるときからカウントすれば、もう20年以上それでやってますが、何か不都合があったことはないです。

 でも、不都合がある場合も多いのでしょうね。

 ということで、話は、ネットで匿名であれこれ騒いでる人達のことになるのですが、ちょっと前の大津のいじめ事件でのネット騒ぎもそうだし、直近ではシドニーでもTV番組のパーソナリティのブログ(Tweetだったかな)が炎上して緊急入院したことが報道されています。検索すればすぐに出てきますが、例えばExpert says Dawson broke the first rule of social media: don't feed the trollsなど。

 ネットの匿名性をいいことに、日頃言えないような罵倒や憎悪を他人にぶつける腐った連中は、80年代後半のパソコン通信黎明期からいました。フォーラムなんかにも出没してて、通称「困ったちゃん」と言われてた。筒井康隆氏の「朝のガスパール」という当時の実験的なネット小説にも「罵倒が慫慂されている」とでてきています。

 このこと自体は、「どこにでも馬鹿はいるもんだ」という別に目新しくもない話です。当時は人口の1%以下くらいしかネットをやっておらず(面倒臭いし、金かかるし=僕もいっとき月の電話料金が15万円近くいったことがある)、局地的な話だったところが、最近はやれスマホの普及だ、ソーシャルメディアだで、誰も彼もがネットをやるようになったので、その影響も段々大きくなっていったのでしょう。

 そんなこんなでネットで「晒され」、罵倒の集中砲火を浴びるのを恐れるがあまり、ギターの腕前を披露するという本来的になんら恥ずかしいことではなく、それどころか誇らしげな(だからUPするんだろうけど)ことでも、アルカイダ覆面をしないとならないのでしょうね。それはそれで分かる。

 分かるんだけど、分かればいいんか?という気もする。
 それってヘンじゃないか、世の中歪んでないかって気もする。

ネット・トロール

 幾つかの切り口はあるのですが、まずネットだけに限定して言えば、オーストラリアでも結構問題になっていて、「いたずら」とか「アホ」とかいうレベルをこえて、れっきとした「犯罪」だとする動きが出ています。いわゆるサイバー・クライムの一ジャンルとしてカウントしようという。

 "cyber bullying"(ネットでのいじめ)とか、サイバーハラスメントとか色々な言われ方がします。

 "verval abuse"(言葉での攻撃行為)の一種なのでしょうが、かつてシドニーの治安統計を調べてて、「ほう」と思ったことがあります。直接的な暴力でもなく、また脅迫罪にもならないような「野卑、粗暴、侮辱的な振る舞い&口頭での表現」は犯罪としたカウントされるのみならず、結構な数の検挙者いるのですね。治安の章で引用した統計表でも、"offensive conduct(攻撃的な言動)""offensive language(攻撃的な言語)"で検挙されている数は、シドニーシティだけでも、年間それぞれ1261人と527人います。

 ちなみに英語圏で生活してて戸惑うのが、やたら "F**k" とか多用する人がいる反面、 "Language!" と強い非難を浴びることも多いという矛盾した状況です。バックパッカーや若い人達のカジュアルな世界では、"f***"なんて「一秒に一回言う」くらいの人もいる一方で、そんなことを口走ろうものなら、もう人間としての全ての権利を剥奪されちゃうくらい恐い局面もある。ある程度はわかるんだけど、その仕切りが日本語よりも細かくデリケートなような気がします。これが上級英語の難しいところですね。まあ、日本語と同じなのかもしれないけど、よく知らないから日本語と同じかどうかもわからない。

 例えば、ある局面では、"kids"って言ったら、"No, children"と冷静に訂正されたことがあります。そりゃ確かにキッズはスラングに近いけど、そんなNGか?って、それはその人の趣味かもしれないし、一般的なことかもしれないし、その境目はどこにあるのかというカンドコロが中々分かりません。勉強と経験あるのみですね。ただ、そのあたりの見切りもできないまま、映画や音楽で覚えた日本人的には「カッコいい」言い回しをヘタに使ってると、「野卑な言動」"offensive language"としてしっぺ返しを食らうリスクはあります。

 ということで、もともと「言葉遣い」にはうるさい文化土壌があるからか、ネット上であろうとも、こういう"verbal attacks"はやはり放置できないという感じになるのかもしれません。

 上の記事でも、野党党首はなんらかの法規制が必要だというし、"New South Wales Police Minister Mike Gallacher has called for trolls to be "dragged out of their mothers' basement and put before a court""(NSW州の警察大臣は、こういうことする馬鹿どもを「ママの地下室から引きずり出して、法廷に立たせてやる」と述べた)。


 ところで、ネットでこの種の愚かしいことをやる人々のことを、最近ではトロール"trolls"というようです。トロールというのは、北欧伝説で洞穴などに住む巨人・小人の意味が原義ですが、そこから転じて「浮浪者」、さらに転じて「イヤな奴」になり、さらにこのネット場面においては薄暗がりに棲息しているような、ちょっとバケモノ的に気持悪い奴らってニュアンスなんでしょうね。ただの「馬鹿」だけではなく、それに「気持ち悪い」というニュアンスが付加されているような気がする。そうでなければ、一般名詞の "idiots" で済むし。

 ちなみに、トロールというと漁船を思いつくのですが、あちらの方は"trawl"です。底引き網のことです。スペルが違う。発音はほとんど同じ。辞書によれば、trawlはトロールとローが長母音だけど、trollの方は「トロウル」と二重母音(おう)になるようです。パッと聴いて、区別できる自信は、ないです。

 で、この動きから直ちに何かの結論は出てこないのですが、しかし、世間において、「困ったもんだ」「馬鹿が!」という単なる「なげかわしい」という感情的なリアクションだけではなく、「ふむ、ではどうする?」という頭脳的な対策の方向に潮の流れが変わりつつあるかな?と感じました。

サイバー・クライム

 ネットの問題は、とりあえず「表現の自由」とガチでぶつかってしまうので、昔からのバトルフィールドで、規制をし過ぎたら検閲国家・思想警察を認めることになってしまい、それはそれで問題です。ここでの合言葉は「北朝鮮みたいになりたいのか?」とか良く言われますよね。まずもって、そういう難しい土壌がベースにある。

 次に「サイバー・クライム」と一口でいっても、そのバリエーションはかなり豊富です。
 国家間のスパイ合戦もそうだし、ハッカー集団アノニマスの存在、さらにアサンジのWikleaks系の問題、中東での民主化加速ツールになったと言われるプラス面もあります。さらにテロ対策、国際的なネット詐欺(ex ウィルスでクレジットカードの個人情報などを抜き取り悪用するなど)、ネットポルノの規制(オーストラリアではペデフェリア規制が厳しく、よく自宅のPCを押収されて検挙されている)、違法ダウンロードと著作権絡みの問題などなど、論議されている領域はとてもとても広い。

 ところで、入試や就職試験で、「ネットと規制についての現状を説明し、あなたの考えを述べよ(所要時間1時間)」なんて問題を出すと、難問ではあるが、難問であるだけに受験者の実力(社会問題に対する視野の広さ、知識の的確さ、問題洞察力、論理構成力&表現力)などがよく分かるかもしれません。大体、論文試験って、一行問題が一番よく分かる。出す方は楽なんだけど、書かされる方はたまったもんじゃないよね。「生きがいについて」「日本人らしさとは何か」「現代日本で政治はその職責を果していると思うか?何故そう思うか?」とか。出題したり採点するのは面白そうだけど、書くのは大変そうだな。

 さて、サイバークライムですが、今これらを全て論じるのは無理なんだけど、おおまかに言って、国家権力が最大限に取り締まろうとしても取り締まれない部分をネットに認めるべきか?という問題があります。ネットに「聖域」を認めるべきか論。その聖域は、弾圧的な社会においては草の根民主主義の最後の砦になるだろう。しかし、その聖域を悪用して犯罪が行われることもあるだろう。どっちを取るか?これはえらく難しい問題です。

 例えば、技術的には全てのネット活動をトレースできるようにしておく。一旦思想警察方向にハンドルを切り、その上で、国がマズイ方向にいかないような安全弁、それは民主制の堅持であったり、より具体的には捜査機関がサーバー記録や通信記録を押収する際の捜査令状の発布です。これは今でもそうなんだけど、より安全弁をかける。例えば令状の妥当性について、今やってる準抗告レベル(それすら不十分であるが)よりももっと実質的に担保できるように、検察審査会のような第三機関によるチェックをかますとか。令状でいえば、例えば日本裁判官ネットワークで掲載されていた「ある勾留却下」では、現場の令状を出す裁判官の苦悩がリアルに描かれていました。かなり真剣に取り組んでいる人もいるわけで(その苦労が実らない不毛な現実もあるわけで)、そのあたり現場での地味な活動をどれだけ担保するかでしょうね。

 もっとも、技術の進展は日々凄まじく、昨日で出来なかったことが今日出来るようになる。プロフェッショナルなテロ集団や犯罪集団は日々こういった技術の研鑽に励み、かたや取り締まる各国の情報部や公安警察の方も同じように頑張ってる。最前線は熾烈を極めるイタチごっこをやっているものと思われます。だから技術論でいえば、「聖域」とかいう方が愚かしいのかもしれません。誰かがそんな「聖域」を決めることなんか技術的に出来ないだろうし、「聖域」は日々あるいは時間単位、秒単位で出来たり/消滅したりしているのかもしれない。それはもう極限にプロの世界で、僕などが想像できる範囲を超えています。

 逆に言えば、捜査側の能力を最大限投入すれば、この種のソーシャルメディアやブログでの「迷惑レベルを通り越えた犯罪行為」をトラックダウンすることは、そーんなに不可能ではないと思います。通り一遍の捜査だったら犯人特定は難しいだろうけど、もし当局が100%本気出したら、結構なところまでいくんじゃないか。だって公安警察、すごいですよ、舐めてはいけない。その昔は極左集団のリストとか作ってたりしたけど(検察修習のときちらっと見せてもらったことがある)、極秘レベルの奥の院ではどこまで調べているのか見当がつかない。

 ネットでなんかトロール的に悪さをしようといっても、単にサーバー変えたり、ネットカフェでやればわからないだろうってレベルではダメだと思う。捜査機関がムキになったら、地引き網的に対象者が何万人だろうが何十万人だろうが本気で潰していくし、その辛抱強さというのは人間離れしている。しかもその気があれば何年にもわたってやるし。

 それに刑事独特のカンというのがあって、ネットとかログとかではなく、「そういうことをしそうな人」というのを表の社会からあぶり出していくのがめちゃくちゃ上手い。職場で浮いてる人とか、居酒屋でのふとした会話とか、関係者の話を聞くだけで、あるいは対面していときの「目の逸らし方」一つで、なんとなくピンとくるというカンが凄い(そこが凄くないと刑事になれないけど)。だから、普段は真面目な人が、一回ポッキリ魔が差してやるなら分からないかもしれないけど、トロール系の連中って常習的にやってるだろうから、アクセス記録などから分析していけば生活パターンなども見えてくるでしょうし、書いている内容や誤字、クセなどからプロファイリングもできるでしょう。刑事ドラマや科学捜査などで「ココまで出来る」みたいなことをやってますが、ああいうドラマの取材などで、捜査機関が正直に全ての手の内を晒すとも思いにくいのですね。「ここまでは出来ない」と思わせておいて、実は出来るのでした、みたいな。

 技術レベルでいえば、いったい何処まで出来るのか僕ごときには全くわかりません。想像するに、かなりのところまでは出来るんじゃないかなって気がします。ソーシャルメディアなんか特にそうだけど、もともと顧客情報やマーケ情報を収集するのが本当の目的だったりするから、どこに住んでるどういった人間がどんなことをしてるかって相当筒抜けでしょう。毎回クッキー消してるくらいでは追いつかないかも。

 そういえばiPhoneだっけな、携帯で撮影した写真をそのままアップロードしたりすると、どこでいつ撮った写真かもばれてしまうという。画像ファイルにはEXIFと呼ばれる付帯情報があり、これは普通のデジカメなんかにもついてきます。ビューワーで見る分にはわからないけど、プロパティを開くと出てくる。撮影年月日とか、撮影したカメラの種類、撮影したときの絞り値がfいくつなんて条件まで出てくる画像もある。僕も自分で撮った昔の写真の記憶喚起のためにEXIFを見ることがあります。で、iPhoneなどは、さらにジオタグと呼ばれるGPS情報が画像に刻み込まれるから、画像を見たら撮影場所もGPS的にモロバレになるという。正直に生きている人はいいだろうけど、サボリや浮気の証拠になったりするのでお気をつけ下さいまし。

 しかし、こんなのは一般公開されている普通の情報に過ぎません。僕ですら知ってるくらいなんだから。
 もし、一般的に知られていない、まず分からないように高度な暗号処理で隠されていたらどうする?ってことですよね。まあ、ネットで悪さするのにスマホを使う馬鹿もいないとは思うのだけど。でも場所的な問題でいえば、ネカフェは防犯カメラあるしログ取られてるかもしれないし、かといって自宅でやるのは微妙に危険だし。いざ真剣に悪さをしようと思うと、これで結構難しいです。

、さらに、普通のPC、普通のサーバーにおいても、これからメーカーと当局が協力してそういう仕掛けをするかもしれない。こっちの新聞にも書いてありましたが、要は交通事故と同じように考えろと。事故を防ぐために取締りもやるが、事故が起きにくい車を作る。悪さがしにくいパソコンやネットサービスにするという。さらに何やってもいいんだったら、当局がウィルスをばらまくという手だってありますよね。例えば、真剣に違法ダウンロードを潰したかったらオトリのコンテンツファイルを大量にUPしておき、それをダウンロードするとスパイウィルスが動きだし、静かにPC内部の情報を当局に送率付けるという。

本気になるかどうか

 しかしながら、サイバー犯罪は沢山起きているし、今日もいじめられたり、晒されたり、脅迫されたり、騙されたり、ウィルス送りつけられたりしている人があとを断たない。じゃあ捜査機関は無力じゃないかって思うのだけど、テロ組織相手にあそこまでやってる連中が無力なんてことはない筈で、要は本気でやるかどうかでしょう。

 今はブログやツィートが炎上しようが警察がまともに動いてくれる気配もないし、学校のいじめ問題についても血眼になって必死にやってるという感じでもない。それは何故か、なぜ本気でやらないか?

 当局が本気でやるかやらないかは、税金をどれだけ投入できるか問題に還元されるわけで、つまりは有権者である世の中の人々が(つまり僕らが)、どう思うかどう感じるかにかかっているわけでしょう。

 そして、冒頭で述べたように、「け、馬鹿どもが」と感情的に吐き捨てるだけではなく、ふと真顔になって「いい加減、マジになんとかしたほうがいいんじゃないか?」って気になるかどうか、その潮の流れがちょっとづつ変わってきているような気がするな、というのが今回の話です。

 ネットいじめによって(併用して)自殺にまで追い込まれたという気の毒なケースは、日本のみならず、世界各国で生じてきています。アメリカでもそうだし、オーストラリアでもそうです。特に学校でのソーシャルメディアを使ったイジメは、親御さんとか心配になっている方も増えてきているでしょうし、もっと有効な対策はないか?というのを真剣に考える人も多いのではないでしょうか?でも、ネット系のイジメって証拠が残るから、普通のイジメよりも、その気になったら対処しやすいとは思う。体育館裏に呼び出され一発ボコられましたなんてのは、口裏合わされたら証拠がわかりにくいし、教科書隠されたりとかいうのも誰がやったかわかりにくいけど、ネットは全部記録残りますからね。

 ただ、捜査も凶悪事件ほど熱意をもってやられることはないし、事前救済策も乏しい。ネット系の企業群もそれほど協力的でもない。だけど、これらは皆が本気になったらかなりの程度変えられるでしょう。別にいきなり完全検閲国家にならなくてもやれることは幾らでもある。

 この種の問題が人々の関心を呼べば呼ぶほど立候補する政治家も意見を求められるし、公約に盛り込むようにもなろうし、当選して何もしなかったらボロカス言われるから、人気取りのためであろうが何だろうがとにかくやる。犯人逮捕をした警察は社会の注目と賞賛を浴び、逮捕した警察官は表彰され、署長は手柄片手にご栄転になれば、警察もやる。同時にサーバーも機敏に対処しない会社は公的に非難され、また管理人のいない掲示板を作るようなことも技術的に出来なくし、アフリカのサーバーをプロクシで使ってもそれでもトレースできるように国連レベルで相互条約をし、その協力を先進国の経済援助の見返りにし、検索システムでも被害者の削除請求があったら今のように知らんぷりさせない、知らんぷりした会社は「ひどい会社」だと皆が思えば、人気商売だから無視もできない。

 学校に限らずいじめというのは、マズイと思ったら、とっとと逃げるが勝ちです。だから転校を容易にするシステム改編、さらにネットで永遠に追いかけてこられるのを防ぐためにも、一時的に改名や別名を名乗ることを簡易な手続きで認めること、家庭の事情で転校や引越がままならない場合に備えて、無料でいける一時的な避難村みたいなシェルターを作るとか(NPOとかやる人達もいそうだし)。

 要は皆が「その気になるか」どうかだと思います。「困ったもんだ」とか「なげかわしい」とか悲憤慷慨しているだけではなく、「もっとなんか出来るんじゃないか」と真剣に思うこと、そして出来るところから動いていくこと、それによってかなりの程度防げるとは思います。もちろん100%は無理かもしれないけど、一人で救えたらやっただけのことはあったわけだしね。

 そういった潮の流れみたいなものが、少しづつ変わりつつあるかな〜ということでした。

卑怯

 次に全く視点を変えて、別の話をします。
 なぜ、こういうネット・トロールの連中がムカつくのか?であり、いじめの記事などを目にしたときに僕らはイヤ〜な気持ちになるのかです。何がそんなにイヤなのか。どういう要素がイヤなのか。

 僕が思うに、それは卑怯さだと思います。
 ここでいう「卑怯」とは、@立場の非対等性、A目的の不当性(卑しさ)、が二本柱になります。

非対等性

 非対等性というのは、「絶対に反撃されない」という状況です。
 武蔵と小次郎が巌流島で対決しても、「卑怯」とかイヤな気分にはなりません。ボクシングの試合で殴り合いをしていても卑怯感は全くない。

 しかし力の強い人間が弱い人間を、あるいは多数の人間が一人の人間を一方的に攻撃しているのをみると「ひどいな」というイヤな気持ちになる。なぜなら、両者は全然対等ではなく、近い将来それが対等になる見込みもない。万が一にも弱者が反撃する恐れもないのをいいことに、強者が弱者を思う存分いたぶっている。その構図にイヤな気分になる。

 このパターンは、職場でのいじめや各ハラスメントも同じだし、人質とか弱味を握って人を言いなりにしようとする行為も同じです。権力を傘にきた木っ端役人が憎々しげなのも同じ非対等性があるし、面と向かっては到底言えないようなことを、匿名であることをいいことに言いたい放題いうトロールもまさにそうです。

 逆にボクシングとか相撲が全くイヤな気にならないのは、100%対等だからです。自分は相手を殴る自由を得るけど、全く同じレベルで相手から殴られる可能性もある。両者がそれを納得してやっている。いわゆる「正々堂々」としているから、そこには卑怯感は全くない。清々しくさえある。しかし、両者対等でやる筈のタイマン喧嘩に、加勢を求めたら「卑怯」呼ばわりされるし、一人だけ拳銃を持ち出すなど強力な武器を使うだけでも「卑怯」だと思われる。

目的の卑しさ

 Aの目的の不当性というのは、目的の卑しさといってもいいです。
 非対等な上命下服の関係にあったとしても、力の強い者(上司上官教師など)がその力を行使するにあたり正当な目的でやる場合は、卑怯感はないです。火事の現場や戦場で、リーダー的立場にある人間が、部下に対して、お前はコレしろ、お前はアレしろと命令しますが、「くそ、一方的に言いやがって」という話にはならない。そこで「皆で仲良く話し合って」なんて悠長なことやってる余裕はないし、機能的組織や指揮命令というのは元々そういうものだからです。端的な話、親子関係なんか子供が大きくなるまでは完全な非対等関係ですが、だからこそ躾とか教育が出来る。

 この世の人間関係において(特に学校を出てから社会に入れば)、「全く対等」というケースの方がレアなのであり、なんらかの形で強弱・上下の関係はある。先輩後輩にしても、お客さんとの関係にしても。そこで非対等なのは全てダメとか言ってたら世の中廻らない。だから非対等性だけではなく、その力関係の「悪用」が問題であり、その悪用パターンのうち、特に目的が「卑しい」場合に「卑怯」だと感じるのだと思います。

 「卑しい」というのは、立場を利用してセクハラしまくるとか、弱い人間をいたぶること自体に何らかの黒い快感やら嗜虐心を満足させるということです。立場を利用して大金を稼ぐとか、目的が、不当ではあるが微妙に卑しくない場合、これも一種の卑しさなんだろうけど、卑しいというよりも「不正」「強欲」など、よりドンピシャな表現があるような場合は、卑怯というよりも、端的に「ズルい」「悪い」って感じがする。

 やっぱ「卑怯」な感じがするのは、他人が不幸に落ちていくのを見ると気持ちがいいとかいう、欲望それ自体がいかなる意味でも正当化できない、なんともいえない人格的に腐った感じがするものでしょう。パワハラなども、単に指導とか愛の鞭を越えて、気に食わないから叩く、さらに倒錯してきて気に入ってるから叩く(泣いてる顔を見るのが好きとか)になってくるにつれ卑怯感は強まる。この「いたぶる」感じが気に食わない。

 セクハラなんかでも、性欲それ自体は誰にでもあるけど、「正々堂々」口説くのではなく立場を利用するところに卑怯感がある。そして、力関係の利用も、単に口説きのキッカケ程度(ちょっと飲みに行こうかと誘う程度)で、そこから先は対等の関係で口説くならまだし罪は軽いが、絶対に反撃されないのをいいことに、舌なめずりするようにいたぶっていく嗜虐さが許されざる卑怯さに感じる。

「卑」+「怯」

 いじめが卑怯なのは、この非対等性と目的の卑しさでしょう。弱い人間が泣き崩れ、人格的に壊れていくのを見て快感を感じるという、人間的に許されざる動機や目的がある。同じようにネット・トロールの阿呆どもも、絶対に自分だとはバレないという安心感から、面と向かっては到底言えないような罵声を他人に浴びせかけ、困惑し、壊れていくさまをみて快感を感じる。

 そんなことをしても一銭も儲からないし、もちろん誰にも自慢できないし、何の得にもならないんだけど、ただただ他人を不幸に追い込むことが楽しくてしようがない劣悪な人格。「卑怯」の「卑」は卑しさであり、人間性が劣化していることですよね。だから「卑劣」とも言います。

 「怯」は「おびえ」「ひるみ」です。
 何に怯えるかといえば、本来の完全対等になったらそんなこと出来ない、いじめでも相手が自分と同じくらい強かったり、武器を持ちだしてきたら殺されてしまうかもしれない、明るいところ、出るところにでたら自分の卑しさ陋劣さが全て暴かれ、非難に曝され人間として生きていけなくなるということへの「怯え」でしょう。

卑怯との戦い

 もう一つ思うのは、世の中、卑怯なゴミ人間とそうでない立派な人間の二種類がいるのではなく、そんな分かりやすい善玉悪玉デジタル世界観は嘘だということです。同じ人間でも卑怯になったり立派になったりする。同じ人間が、生まれてから死ぬまで一秒の休みもなく立派であり続けられるものではないと思うし(中にはいるかもしれないが)、絶えず卑怯であり続けられるものでもないでしょう。

 僕らだって、知らないうちに卑怯なことをやってたりする。
 @絶対に反撃されない+A目的が陋劣というの状況は、意外に多いです。@は政治や公的なことを批判するのは、外野席でヤジを飛ばしているようなもので、まず絶対に反撃されない。同じような罵倒まがいの批判を、絶対に反撃「される」相手に言えるか?恐い自分の上司に言えるか、今にも殴りかかってきそうな暴力団員の前で言えるか?もし、そういった恐い人相手に言えないことを言ってるんだったら、それは「反撃されない」という立場にアグラをかいているのではないか。また、Aの卑しい目的にしても、一見美辞麗句と正義で取り繕っているけど、一枚皮をめくれば、単なる鬱憤晴らしであったり、嫉妬であったり、なんからの黒い欲望があるのではないか。100%無いと言えるか?

 イジメ事件に限らず、マスコミの報道やネットの反応を見ているうちに段々と口の中が苦くなってくることがありますが、結局はコレだと思います。正義や正論に名を借りたただのイジメじゃないか、卑怯じゃないかと。同じように、「絶対に反論できない正義/正論」を振りかざすのも卑怯だと思います。

 だから問題は、まず自分が卑怯な振る舞いをしているのではないか?を検証するのが第一。これ、いつもの結論ですけど、世の中良くしたいんだったら、まず自分が良くなれ、ですよね。自分に関しては100%管理可能なんだから、自分すらもろくすっぽ統御出来ない奴が、他人様のあれこれに口出しするなんておこがましいでしょ。

 第二に、これも全ての社会論に共通すると思うのですが、どうしたら人の良い部分を引き出せるのか、どうしたら人の悪い、ダークな部分を引き出さないように出来るのか、です。古今東西、どんな民族も集団リンチみたいなことをやってきている。後から考えたら信じられないような残虐で、愚かしいことをしている。だいたいにおいて、どんな人にも、嗜虐的な黒い愉悦はあるのであり、「いじめ」というのは誰がやっても楽しいのだ。それがイケナイことであることと、楽しいこととは矛盾しない。むしろイケナイことの方が楽しかったりもする。また、人は容易に自分を誤魔化すから、これはイジメではなく、正義の鉄槌なのだみたいな自己正当化をするする。

 だから「私はそんな卑劣な振る舞いはしない!」とか断言しちゃってる人を、僕はあまり信じない。「ああ、もしかしたら私もやってるかも」と自省する人の方を信じる。なぜなら、いじめにせよ、トロールにせよ、そういうことの誘惑性や快楽性を知ってるかどうか、人間の弱さや変化性を知っているかどうかってのは大きなポイントだと思うのです。反対に、絶対にそういうことはしない善玉人間と、そんなことばっかりやってる悪玉人間がいるんだというパキパキ二元論でいる人こそが、実は危ないと思う。なぜならその発想は、「こいつは悪玉だからいじめてもいいんだ」というレトリックにつながり易いからです。いじめの心理って大体それだもん。

 

反撃されるリスクを負うからこそ言う

 第三に、「絶対に反撃されない」という状況を可能な限り作らないこと、そういう状況にセンシティブになることだと思います。

 他人を罵倒するなら、同じだけのリスクで罵倒される。他人を晒すなら自分も晒される。全く同等のリアクション、場合によっては同等以上のキツいリアクションを予想し、覚悟し、それでも言う、行うからこそ説得力が生じる。

 そして冒頭に戻るんだけど、キヨシローがカッコ良かったのは、FM東京をボロカス罵倒するわけなんだけど、それに対するリアクションをきっちり覚悟しているからです。プロのミュージシャンで、音楽だけでメシを食っていて、ラジオ局やメディア業界に対して喧嘩を売るのがどれだけリスキーなことか。自殺行為といってもいい。どんなビッグネームであろうが無傷で済むはずがない。ヘタすれば完全に干されるかもしれない。あんな冗談みたいな”変装”してたって本人であるのは最初から分かるだろうしね。でも、それでも喧嘩売るわけでしょ?絶対に反撃されないどころか、100倍返しで反撃されるかもしれない、多分されるだろう、それでも気にくわねえもんは気にくわねえんだよ!と突っ張るところがロックであり、口先だけではなく本当にやるからこそ説得力が生じる。

 翻って、「世間に対してモノを言う」というのはそういうことだとも思うのです。舌禍事件、筆禍事件で、官憲に弾圧されるなど、こんなこと言ったら無傷では済まないだろうな、不快で不利益なリアクションがあるだろうな、でも言いたい、言うぞ!という気合と潔さがあるから、その言論に魂が通い、感銘力が生じる。

 絶対に反撃されない立場で何事かを言うのは、外野席でヤジを飛ばしているのと同じく、腰が引けてるから騒がしい割にはあまり効果ないんじゃないか。権力者にせよ、なんにせよ、「本当に強い奴」「この世を動かす力を持ってる奴」ってのはそのあたりはよく見切るでしょう。脅威になりそうな狼か、無害な羊の群れか。クビになるとか、商売に差し支えるとか、就職で不利になるとか、村八分になるとか、現実社会の「力」を目の前に示されながら、それでも本気で攻め込んでくるのか、ただ陰で言ってるだけなのか。

 「絶対に反撃されない立場」であれこれ言うのは、自分よりも強い者に対しては無力であったりするけど、自分よりも弱い人間に対しては残酷なくらい強力であり、一人の人間の命を奪うことすら出来る。

 ゆえにこの立場は、本質的に弱いものいじめの構造を持つだけではなく、人間が潜在的に持っている加虐心を起動させる危険なスポットにもなりうる。「よってたかって」「多勢に無勢」「いたぶるように」など、絶対に反撃させる心配がないからこそ初めて言おうという動機が出てくる場合がある。そして、そういうお気楽で無責任な立場ゆえに発生したモチベーションというのは、往々にして低劣な方向に流れる。無責任なデマであったり、心ない中傷であったり、言いっぱなしの無理難題であったり。それは人を陋劣なレベルに堕落させ、卑怯化する悪魔的なスポットでもある。

  自分が何かを言ったり行ったりする場合、それは「絶対に反撃されない」立場でやっているのかどうか、まずもって自分で検証してみる必要があるでしょう。相手に対して、実名も住所も全て晒して、現実的に不利益なリアクションが予想されても、それでも尚かつ言いたいことか?と。世間で「署名運動」というものがあるのは、実名住所を明かすというリスクを犯しても良いという人がこれだけいる、という点に意味があるからでしょう。

 次にそこまでのリスクを犯してまで言いたくはないとするなら、別に言わなくてもいいんじゃないか?リスクを犯す場合に比べて言い方やトーンが違うのであれば、もしかして自分は卑怯なことをしようとしているんじゃないか?と検証する。

 そして他者の言動を見るときも、反撃されない安全な立場での物言いなのか、リスクを踏む覚悟のある芯の通ったものなのか。なにかというと他人の悪口・陰口ばっかり延々喋り続ける人と一緒にいると、段々うんざりしてくるのは、要はその人の卑劣さや堕落した人間性が鼻についてくるのでしょう。心が汚染されるというか、排気ガスを吸わされているような気がしてきて、ついつい「そんなに言いたいんだったら、本人に言えば?」とか言ってしまうという。同じように、上司であるとか、客であるとか、反撃されないポジションをいいことにネチネチいやみを言い続ける人間とか見ていると、ムカついてきて一発ぶん殴りたくなるとか。

 ということで、「絶対に反撃されない」構図かどうかをチェックするのは、結構大事だと思います。
 まず自分自身において、その構図に寄りかかった物言いをしていないか、自分が卑怯な人間になってないか。
 第二に、役職その他でどうしても絶対に反撃されないポジションに立ってしまうことが多々ありますが、そういうときこそ細心の注意を払え、ですよね。
 第三に、他人を見る場合、リスクを負ってやっている人なのか、リスクから逃げている奴なのか、つまりそいつが卑怯な人間かどうかを見分ける一つの基準になるということです。

 最後に、トロールにせよ、弱いものいじめにせよ、本当にハッピーな人はそんなことせんでしょう。しようという気にならないし、してる暇もないし。

 そういう卑劣なことをする人って、とりあえずムカつくから復讐したくなるのだけど、長い目でみたら復讐する必要もないんでしょうね。そいつの生活や人生において十分に報いは受けている。誰にも相手にされないから猫をいじめてみたり、職場で上からプレッシャーをかけられ、私生活でも行き詰まっているから部下にネチネチいやみを言ってみたり。

 それに一般に卑怯な人間って嫌われます。あなただって卑怯な人と友達になりたくはないでしょう。僕もイヤだ。そして改まって卑怯であるとかないとか言葉にしてイチイチ思ったりはしないけど、何となくイヤな感じを受ける。好きになれない。だから、卑怯なことやってると人生の豊かな出会いを恒常的にミスることになり、その不遇感がさらに卑劣な行為に向かわせるという悪魔のループがある。何のことはない、先に地獄にいってるのはそっちだったりする。

 そして一番恐いのは、なにか卑怯なことをしてしまったら、それが自己認識になって刻み込まれることです。「私はこんなにイヤな人間なんだ」という、自己暗示というか、事実なだけに暗示よりもタチが悪い。そんな認識を自我の中核、魂のDNAみたいな部分に組み込んでしまったら、あとあと苦労しそうですよね。セルフ・ディストラクション=自己破壊の遺伝子だから、まさにガン細胞みたいなものです。それが一番恐いです。遅効性だし、死ぬまでまとわりつくし。いじめられるのも大概ツライとは思いますが、いじめる側の地獄度に比べたらまだマシだって気もします。


文責:田村



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