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今週の1枚(2012/08/27)



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Essay 582:就活と婚活、そして「海活」〜レンガにしてはいけないもの

定量化社会の問題(3)
 写真は、先週撮ったばかりのManly。もう春って感じで、皆ぞろぞろ出てきている。

 左端には、日本からの修学旅行(らしき)人達もキャッキャ言ってました。なんで日本人ってわかるかというと、「○○さーん」という声がビーチで響きわたっていたからです(^_^)。いやあ、母国語ってのは遠くからでも聞き分けられるものですね。気分はちょっと石川啄木。



 前回からさらに続きます。
 このシリーズも大分長くなってきたので、そろそろシメます。

就活

 前回述べたような「重要なものほど常にファジーである原則」によって、レンガ積み的な定量的攻略法がやりにくい人生上のイベントといえば、就職と結婚でしょう。およそ計量不能な「出会い」というファジー炸裂な要素が中核にあるからです。

 ここ10年〜20年、日本に「シューカツ」とか「コンカツ」とか、まるでトンカツの親戚のような新語が出てきました。既に耳慣れているあなた方には違和感ないかもしれないが、日本を18年前に出てきた僕の耳には「なにそれ?」という違和感があります。勿論その意味するところは1秒で分かるけど、奇妙な違和感は未だにぬぐえない。

 なんで?なんでそういう言い方するの?と。これは言い方の問題ではなく、物事へのアプローチの仕方、発想のフォーマットを意味します。今書いているテーマに結びつけていえば、本来的にアナログ・非定量的に処理すべき物事を、無理矢理定量化し、デジタル的に処理しようとしていることにへの違和感です。

「活動」という表現

 「就職活動」という言葉はずっと前からありました。しかし「シューカツ」と要約されるようになったのは、ここ10−20年のことだと思います。これは単なるコトバの短縮だけではなく、意味内容や属性が変わってきたと思う。その昔の「就職活動」というのは、中高生の「クラブ活動」「課外活動」のようなニュアンスで、そのあたりの行動をひっくるめて漠然とそう表現していた。

 何を言ってるかというと、学生時代の「課外活動」というのは教師やPTAがそう呼んでるだけで、現場の生徒の感覚では別に「課外活動をやる」という意識はなかった。「今日、練習あるから」みたいな感じで、単にやりたいことをやってるだけだった。それは小学生時代の虫取りを「昆虫捕獲活動」とか「野外活動」とかイチイチ認識しなかったのと同じことで、「活動」なんて改まった意識はなかった。

 就職活動といっていた20年以上前も、基本的にこの部活と同じく、時期が来たから「そーゆーもんだ」でやっていた。今だってそうなんだろうけど、「活動」という改まった意識が薄かった。

 ここ(「活動」という改まった感じ)が分かりにくいと思うからもうちょい例を挙げると、学生時代不良やってた連中も、別に「不良活動」「ヤンキー活動をやる」という意識はないだろうし、ナンパするのも「ナンパ活動」なんて思わない。もうちょい普通の例でいえば、大学入試も「受験活動」とは言わないでしょう?「そろそろニューカツ(入試活動)しなきゃね」とかいうと、なんか変な感じがするでしょう?

 妙な違和感というのはそれです。
 その本質は何かというと、「活動」というと、なんとなくプロジェクトみたいな、ダンドリやマニュアル重視の、カッチリした一連のイトナミって感じする。もっと硬い感じがする。「○○訴訟の支援活動」みたいな。さらに言えば、そのダンドリやスケジュールは誰が決めたの?というと、自分ではなく、どっかの第三者、それも「上の方のいる人達」が勝手に決めて「はい、このとおりやってね」とまるで仕事の手順のように指示してくるニュアンスがある。企業の「QC活動」みたいな。少なくとも、自分自身が思うように決めているわけではない。

 ヤンキーも、虫取りも、ナンパも、そして受験も、やるかやらないか決めるのは自分だし、どうやってやるかのダンドリも自分で決める。基本的に自分で決めてるから、そこにはそんな改まった、硬い感じはしない。だから「○○活動」とは呼ばないし、呼ぶとなんとなくファニーな感じがする。昔の就職は、これに似てて「やんなきゃね〜」で基本的には個々人が勝手にやっていた。そこには大きなタイムスケジュールとか、ダンドリとかはあるんだけど、でも、「○○月になったら○○しろ」みたいな手順感覚は比較的少なかった。タイムスケジュールとかダンドリだったら受験だってそうだけど、でも受験はいつからどの程度勉強するか、部活と両立させるか、予備校にどのくらい行くかは個々人の自由だったから、あんまり活動っぽく感じない。「○○になったら」とはよく先生にハッパかけられたけど、あんまり必死にそれを守るという感じでもなかった。

 でも、「シューカツ」と呼ばれるようになってからは、このダンドリ感やプロジェクト感が強くなっていった。と、同時に、個人の主体性みたいなものが徐々に後退していった。

 これまで述べたこととの関連で言えば、カジュアルで非定量的なもの→キッチリした定量レンガというフォーマットの変化があったように思うのです。そしてそれは何故か?といえば、これはニワトリ・タマゴなんだろうけど、非定量的な曖昧さ、「なんとかなるさ」「行き当たりばったり」的な要素を出来るだけ回避し、確実に積みあげていけるレンガ化しようという発想があるような気がするのです。

 そのこと自体は必ずしも悪いことではないですよ。
 でもね、本来非定量で曖昧なものを、無理矢理定量化するところで、大事なものがこぼれ落ちるという致命的な問題はありうる。問題にしたいのはそこです。

 もう一ついえば、そもそもなんでファジーなものを回避してレンガにしたがるのか?といえば、以前に増して不安感が強くなっていて、「なんとかなるさ」という図太さや楽天性が減っていったからでしょう。そしてこれは悪循環で、そうやって何でもかんでも平らに均した道ばかり歩いていると、いよいよレンガが尽きて「えいや!」でジャンプしなければいけない難所に来たら、足がすくんで飛べなくなる。つまりチャンスを逃す。

個々人のタイム感

 ということで------
 「大学三年生になったら就活を始めましょう」なんてのも、目安であり基準であって、この世の真理でもないし、人生の真実でもなんでもないです。「いつ就職すべきか」は、すぐれて個々人の判断に委ねられているのであり、自分の人生や将来を見据えて、「今こそ社会に出ていろいろ揉まれて修行すべきだ」と思えた時点がその人にとってのタイム感でしょう。それは人によって違う。だから、義務教育を終えて高校に入ったけど、どーにもこーにも納得できず、求めているのはむしろ実社会にある、と思えば中退して働けばいい。現にそうしている人はいくらでもいます。で、30歳過ぎてから猛烈に勉強したくなればまた入ればいい。

 逆に学究的生活の面白さに病みつきになり、一生を知的興奮のなかで過したいと思ったとしても、だからこそここで就職するという選択もアリです。このまま一直線で大学に残ったら、いわゆる専門馬鹿、学者馬鹿になってしまいそうで、健全な社会人としての常識感覚と自信を養うためにも、とりあえず5年は地道なサラリーマンで汗を流す。そしてその世界の面白さを知った上で尚も学究への欲望が勝った場合、堂々と再び学の門を叩こうという手もあります。事実、オーストラリアではありふれたパターンでもある。

闇バス

 しかし、こういう議論が、まるで人の苦労も知らない無責任な放言に聞こえてしまうところに、現代の悲劇性(大袈裟な)があるのでしょうね。そんな理想論どおり就職できてる奴なんかいるんかよ?みすみすチャンスを失ったら、お前、責任取ってくれるんかよ?って。

 確かにね。それが正しかろうが何だろうが、世の中そう動いているんだったら、それに従った方が遙かに費用対効果が良い。そう思うならばそうすればいい。別に新卒就職するなと言ってるわけではないし、むしろ個別的なアドバイスとしては、こんな大チャンス(職歴ゼロの無能であるほど就職しやすいという世にも不思議な現象)は、世界的、てか世界"史"的にも珍しいし(じゃないのか?)、もうしばらくしたら消えて無くなるかもしれず、今のウチにやっておこうという選択は大アリですよ。

 ただし、そんなのチャンスがあるから取りあえずやってみるべ、とりあえずホームに電車が来たから乗ってみるという程度のものでしかなく、本道はもっと別のところにあるという大きな位置関係と論理関係だけはハッキリさせておいた方が良いでしょう。

 また戦略的にいってもそうでしょう。
 繰り返しになるけど、ガチガチに世の中が定まっている封建社会ならば、不自由な分だけレールもビシッと定まっているので、レールに乗っていくという戦略は大アリです。ガチ度が強いほど、やればやっただけのリターンがほぼ確実に予想できますからね。武士の子に生まれたらまず間違いなく武士になれた。丁稚から辛抱第一で奉公すれば番頭さんになれた。しかし、今の世の中みたいに「10年後、20年後に日本と世界はどうなってるか?」と言われたら、誰も確信を持って予言できない時代では、「レールはない」と仮定して戦略を立てた方が間違いが少ないでしょう。少なくともレールだけを指針にしてはいけない。

 もちろん部分的にレールがあれば、それに乗るという選択はアリだけど、あくまで部分。乗った後も、油断なく窓外の風景に目を凝らしながら「いつバスから降りるべきか」を常に考えるべきでしょう。乗ってしまえば歩くよりは速いし楽チンだけど、行き先もルートもわからない闇バスみたいなものなのだから、どこに連れて行かれるか分かったものではない。

自分の「納得」

 レールがないという前提で、じゃあ何を基準に決めていけばいいんか?といえば、それは自分でしょう。ここで、いきなり「自分」が出現するのではなく、最初から自分はいるのだし、最初から自分しかいないのだ。

 そもそもですね、いい会社って何が「いい」の?いい大学って何が「いい」の?いい結婚、いい人生って、何がどう「いい」わけ?

 そんなの超簡単で、自分が納得できるかどうかでしょう。好きかどうか、ゴキゲンかどうかでしょう。それしかない。もともとがファジーでしかし絶対的なものなんだから、その判定基準も、自分の心というファジーで絶対的なもので決めればいい。なにも難しいことではない。好きな漫画とか好きな服だったら、ごく自然にそうして決めているでしょうに。

 にも関わらず、定量的なレンガ積みが余りにも長く続くと、その完成度や満足度も定量的になってしまう。「自分」が出てこない。やれ偏差値とか、なんたらランキングで上位に入っているとか、福利厚生施設が整ってるとか、後で述べる婚活だったら年収が○○だとか、身長がどうとか、ブラが○カップだとか、チェックポイントを山ほどかまして、○がいくつ×がいくつ。繰り返すが好きな映画とか好きなケーキだったら間違ってもそんな選び方しないのに。

 さらに、そういったチェックポイントだけでは測れない場合(実は全てがそうだと思うが)、次に出てくる基準は何かといえば、「周囲の評価」ですよね。やれ友達に自慢できるとか、親が安心するとか。友達受け、親受けです。

 おーい、いったいいつになったら真打ちの「自分」が出てくるのだ?

 でも、そんな「自分」勝手に独断で決めたり、あーでもないこーでもないとフラフラしてていいのか?って不安もあるでしょう。「いいのか?」と聞かれたら「いい」と答えます。というか、カウンター戦略としてはむしろ常道でしょう?と。

 自由と不安定は同義です。同じ状況をネガにみれば不安定であり、ポジに見れば自由です。そして世界的に不安定になっているのだから、同時にその分自由になっているのであり、個人としては、それを逆手にとって自由に動いて、攻めていかないとバランスが取れないからです。

 世間や自分の将来の不安定さで神経が病むのも分かります。でも日に日に水没していって面積が少なくなっている陸地にしがみついてたって、ますます不安になるだけでしょう。不安に対抗するのは「不安がる」ことでもないし(当たり前だが)、「安心を求める」ことでもないです。だって安心なんて無いんだもん。ケロリと涼しい顔で言っちゃうけど「そんなもん、ねーよ」です。

 だってさ、天下のJALがああなって、全産業に君臨する帝王のような東電ですらああなっているわけですよ。そして、それでも税金使って助けて、地獄に落ちないことに国民は怒っているわけでしょう。公務員だってもう既に安泰ではなくなっている。この日本に、いまどき、そしてあなたの稼働期間にあるこれから30年-50年の間に(2040〜2060年まで)安泰であり続けらる業種や会社があるか?というと、よう分からんでしょう。あるかもしれないけど、結果論的にそれが分かっても意味がない。今確実に分からなければ、そしてそれが確実にそうならなければ意味がない。だったら、プラクティカル(実務的)には「無い」と考えた方がいいじゃないですか。

 「いい会社/人生=安定度」だとするなら、その「安定」自体がマボロシになりつつあるんだから、もうそれは基準にならないのですよ。それに、安定って100%と思えなかったら不安は消えないよね。安定度30%よりも50%の方が安定性はあるけど、将来的に50%の確率で倒産/リストラする状況を喜べるか?というと、とても喜べないでしょう。だから安定というのは限りなく100%だと思えない限り、意味が乏しい。そして今の世の中100%なんてものがあるんかい?ないでしょ?だったら、それは基準にならんでしょ。

 ということで「レール(安定)はない」と仮定した方が話は早いし、むしろ確実だし、だからこそやるべきことも見えてくるでしょう。レールというのは、どこまでいってもまっすぐ伸びていて、確実だからこそレールなのであって、あのカーブを越えたらもしかしたら無くなっちゃうかもしれないよというのは最初から「レール」とは呼ばないのだ。レールのように見える、レールであって欲しいと願望する何か別のモノです。だからレールもないし、レンガもないし、定量的にやっていっても限界あるでしょうと、同じ事を手を替え品を替え書いているわけですよね。

安定がなければ不安もない。陸上生活→海上生活

 だから「不安がれ」といってるのではなく、「不安がっても意味ないでしょ」ってことです。
 これ、もの凄い逆説なんだけど、「安定がないなら不安もないだろ?」って。

 ここが盤石な陸上だと思えばこそ、大地が揺れたら地震だあ!で不安になる。でもここが最初から海上だと思えば、ちゃぷちゃぷ揺れて当たり前であり、揺れたからといって不安にならんでしょ?と。安定がなければ不安もないというのはそういう意味です。

 もちろん四六時中揺れているから、最初は船酔いもするだろうけど、海上には海上の良さがある。例えば、陸上では途方もない摩擦係数があるから大きなモノを運ぶのも大変だけど、海上だったらすーっと運べるという利点もある。だから道もレールも要らない。海流があるから、時には逆流したり嵐もあるけど、うまく機会をつかめば寝っ転がっていても進んでいってくれる。

 そして皆が安定してて自分一人だけ不安定で海に浮かんでたら、そりゃあ惨めな気分になるかもしれないけど、遅かれ早かれみな水没して海になるなら、別に同じじゃん。隣の鈴木さんも、お向いの田中さんも仲良く海に浮かんでるんだから。もちろん完全水没するとは思わないけど、陸上生活と海上生活がそれぞれに栄えていくでしょう。だから、海にいたとしても「海に落ちた可哀想な人」というわけではない。

 そうなってくれば海的なアクティビティ=それこそ「海活」とでも呼ぶべきだと思うが=が充実してくるのですよ。だって、リストラだのなんだので職の安定性が損なわれてきたからこそ、転職市場や人材会社というニュービジネスが立ち上がっていったんだし、そこで同じように海に浮かんでいる日本人は何百万という単位でいる。

 不安定=自由ってのはそのことです。フラフラ腰が定まらず、あーでもない、こーでもないとするのは、海的に言えばまさに普通の、むしろ定石ともいってもいいやり方でしょう。農耕やってるわけじゃないんだからさ、魚群ポイントを探して河岸を変えるのは当然だし、常に状況が変化しているのだから、試行錯誤してなんぼでしょう。

価値無限大の「納得」

 そして最後に自分の「納得」が得られたら、それでいいわけです。
 「納得」ってデカいです。納得できなかったら、ほんと、人間死んじゃいますよ。ストレスで精神ぶっ壊すか、ストレスでガン細胞が出来るか、はっきりいって生きるか死ぬかくらいの大事なことだと思います。無理やり貨幣価値に換算すれば数億円くらいの価値はある。だって死ぬかもしれないんだからさ。それはあなたの命の値段ですよね。

 それは大袈裟なようで大袈裟じゃないです。かつて他人の離婚や破産やそれぞれを何十何百と見てきた経験でいうならば、人間というのは心底納得できないことは出来ないです。続かないです。それを続かせるには、軍隊とか刑務所とか封建的な身分社会とか、強烈で絶対的で暴力的な強制力がないとダメでしょう。そのくらい強制すれば続く。それは多分、「納得」が「諦め」に化学変化するからだと思うのだけど。でも今の自由な世の中で、諦めへの化学変化はそう生じない。もし生じるとしたら、もうその時点で精神がぶっ壊れているといってもいい。

 ということで、会社やめて世界放浪に出て、世界100カ国に住み、とっかえひっかえ100の仕事をやってきて、最後の最後にもとの職場に戻るというのでも、アリです。そりゃもう全然アリですよ。そこに「納得」があれば、やっただけのことはあるわけであり、おそらく本人も全く後悔してないでしょう。

 以上をキャッチコピー的にまとめてしまえば、この不安定な時代に、僕らが求めるべきは「安定」ではなく「納得」だろ?ってことです。

恋愛とか婚活とか

 次に婚活ですが、「コンカツ定食」のうさん臭さについては、既に3年前にESSAY 416/「婚活」って本当にブームなのか?で述べました。その内容の無さもさることながら、人口比わずか0.5%をブームと呼び、5月2日を「婚活の日」と定め、「仲人士」という資格まで作るという政府や業界やマスコミ主導の「ブーム」性ですね。そのあたりはもう書いたからバッサリ割愛します。

 ここでは、就職と同じ観点で書きます。
 何度も言ってる「重要度が高ければファジー度も高い法則」でいえば、モテるとか、恋人が出来る、結婚相手に巡り会うというのは、ファジーの極致のようなもので、数値化しにくい。出来るわけがない。

 それを無理矢理しようとすれば、デートマニュアルみたいなものが出来て、「ファーストデートは早めに切り上げて爽やかさを演出」とか、”しゃらくさい”話になっていきますよね。そのうち「ファーストキスは、唇が重なり合ってから10-15秒はそのままにしておくこと」とかいう細かな話になっていきかねない。「そういうことじゃないだろう?」って気がするのですが、でもそれに近いことが進んでいる。

フェロモン余談

 書き(読み)疲れたから、ここで息抜き余談を書きます。しょーもな話です。

 昔っからそうですが、プレイボーイとか男性雑誌には定番のチャラい記事があります。「この夏、彼女を絶対ゲットする10の秘訣!」とか書かれてたりして、それをインノセントな青少年が貪り読んだりする。大体は徒労ですよね。ファンタジーだよな。これは女性誌においてもそうで、それがどれだけファンタジーなのかは、女性なら男性誌の特集を、男性なら女性誌の特集を読んでみたら分かります。「彼がグッとくる○○」とか読んでも、「そうかあ!?」って思うし、「彼女を落とす必殺の決めセリフ集」なんてのも「そうかあ?」でしょう。

 夢も希望もなくなることを言えば、大体においてモテる奴は何をやってもモテますよね。男も女も。ダメな奴は何やってもダメで、むしろあれこれ涙ぐましい工夫をすることによって、ダメさ加減が残酷なくらいに浮き上がったりする。モテる奴がラフな格好してたら「ちょっとワイルドでカッコいい」と言われ、モテない奴がそうしていたら「だらしない」「ダサい」といわれる。ブランドスーツでビシッと決めたら、モテる奴は「さすがカッコいい」と言われ、モテない奴は「七五三みたい」と笑われるという。女性の場合だって全く同じ。ああ、悲しい。だから、そういう小手先の部分で決まっているわけではないのだ。でもそう言ってしまうとモノが売れず、現代の消費社会では都合が悪いから、アイテムとかギアとかに神話や付加価値をつけてプロパガンダするんでしょう。

 じゃあどういう部分で決まっているかというと、これはもう本当に動物的なフェロモンの世界でしょ?ルックスもあるけど、ルックスだけでもないよね。ルックス的に必ずしも恵まれているわけでもない人が、意外と健闘してたり。結婚詐欺師って、別に美男美女ってわけでもないんですよね。異性からみてグッとくる人とこない人がいる。

 でも、グッとこない人に対する異性からの「切り捨て」は、これは情け容赦ないですよね。「誰があんなブスと!」と吐き捨てるように言う男もいるし、女性の側も手ひどく「げ〜、死んでもイヤ!」とかバサバサ斬捨て御免!もう大量虐殺ジェノサイドかって感じ。あれは、しかし、控えた方がいいよね。気持ちは分かるけど、言われた方としてはえらい傷つくよね。さすがに本人の前では言わないだろうけど、回りまわって伝わるよね。それに限らず、陰口言うと友達減るぞ。

 ほんでも、それを何と呼ぶかは別としても、「フェロモン」的なるモノはあると思います。これもある人とない人がいるんじゃなくて、出ているときと出てないときのON/OFFがあるのでしょう。またフェロモン波長にも種類があるのでしょう。フェロモンのONは難しいけど(無意識だし)、OFFはしやすいです。話どんどん逸れてるけど、女性は覚えておいた方がいいとは思う。フェロモンオフの技術は護身術になるから。これもオーラとか「気」みたいなファジーな話になっちゃうんだけど、「そういう気にならない/させない」という波長があるんだとしか言いようがない。人間関係のフォーマット設定みたいな。あとは修行して学んでください。まあ経験ですよね。数値化できません。数値化してはいけません。カンが狂うから。

 これって異性だけ考えているから迷宮に入るのであって、やたら子供になつかれる人とか、年長者に受けがいい人とか、犬に好かれる人とか、いるでしょ?多分、それはその方向に好ましい波長を出しているのだと思うのですね。これは結構分析可能だと思いますから、その応用です。

 あと、そもそもモテる必要なんかあるの?って根本的な疑問もあります。
 人生において一人、ないしは時間差でごく少人数いたらいいんでしょ。同時に多数出てきてしまったら、これはこれで面倒臭いですよ。

結婚ってなに?

 ところでなんで結婚したいのかな?それは内縁とか同棲じゃダメなのかな。
 何を言っているかというと、「結婚」という定義も内実も、自分で「いいな」って思うものにすれば良いと思うのです。そのカタチが、世間で言われている結婚とはちょっと違っていても、あるいは法的に認められないものであったとしても、あなたが良ければ、(あなた方面に関しては)はそれで良いのだと思う。

 「あなた方面」とかカッコ書きしたのは、それ以外の「方面」もあるからです。不倫や同性婚のように、世間的に認知されにくく、不愉快なリアクションがあるかもしれないけど、それは世間方面の動向であり、あなた方面の話ではない。あるいは親方面とか、友達方面、仕事方面なんてのもあるでしょう。しかし、どれをどれだけ考慮し、ハカリに載せるかも、けっきょくは自分なんですよね。


 僕が最初に結婚したのは25歳で、ちゃんと籍も入れたけど、あれもお互い法学部同士で民法所定の「対抗要件」的な論理で入れたし、なんかあったときに配偶者という権利は強いことを知っていたし、弁護士になってからは収入もそれなりにあったので税法上の「配偶者控除」を得るというのが実利的な理由です。

 でもって、お互い浮気は完全自由でやってたし、それが当然とすら思ってた。なぜなら、常に相手にとって最高のパートナーであり続けることが当然の義務であり、その義務は実質によってのみ果されるべきであり、それを制度とか法律によって守って貰おうなんて思うこと自体、許し難い人間の堕落に感じたからです。そこで意気投合したので結婚したようなもんです。

 僕と彼女との関係は、まさに両者の間だけで完結しているものであって、それが世間的にどう扱われるかなんか、「知ったこっちゃねえ」「関係ねえ」って感じでした。突っ張ってましたよね。もちろん、対世間工作というか、外交政策のようにクレバーに切り回す必要はあるけど、それは単なる「マネージメント」の話であって、本質には全く関係ないと思ってた。そんなこんなで10年楽しく一緒にやらせてもらって、僕がこっちに来る際に、下校時で家への道が分かれるように、「じゃあ、こっちだから」でバイバイという。感謝こそすれ恨みや憎しみは無いです。多分、相手も無いと思う。

 でも、こういう関係を世間的にいう「結婚」って言うのかな?って不思議に思うこともある。それが疑問になったり不安になったりすることは全くないけど、いわゆる「結婚」って何なのかな?って気がする。あれも人の数だけ色々なカタチがあり、色々な原理があるんだろうと。今のカミさんとの結婚は、一回目とはもう似ても似つかないぐらい運行原理が違うし、もうOSレベルで違う。全っ然別物です。

 だから本当に結婚って何なの?って気がするのですよ。そういう概念を定立することになんかイミあんの?って。

 まあ、世間的法律的にはありますよ。大量一括処理をしなきゃいけないんだから。しかし、こと一回しかない自分の人生にとっては、大切な出会いの一つであり、それを何と呼ぶかとか、どう概念処理するかというのは、どーでもいい事だと思う。

 大事なのは、誰かを好きになること、愛すること、それにまつわるモロモロですべった転んだすることであって、それだけじゃないのか?って。それ以上にベタベタと「付加価値」らしきものをつけると、なにか「濁る」感じがして、それが生理的に不快だったりします。こういう感覚って、自分が若い頃は、若さ故の潔癖性や世間知らずなのかなと思ってたけど、いい歳ぶっこいて未だにそう思っているのだから、そういうことでもないのでしょう。でも、その「濁る感じ」は、子供みたいに「すげーヤダ!」って思います。貴公はそうは思いませぬか?

レンガにしてはいけないものごと

 ということで、そろそろマトメに入っていきます。

 なんというか、本質的にレンガではない/ありえないものを、無理矢理レンガにしてはいけないという気がするのです。「それだけはやっちゃいけない」んじゃないかって。

 仕事にしたって、今やってる”仕事”も、かつてのエッセイ「これって仕事なんかな?」でも書いたけど、よう分からんです。早い話が、今パコパコ書いているこのエッセイも、「なにこれ?仕事なの?」と言われると、自分でもよく分からない。仕事で書いているにしては、あまりにも収益に直結しなさすぎるし、趣味で書いてるとすれば義務感もあるし、よく分からないです。いわゆる「趣味を仕事にしている」というものでもないしね。

 で、よく分からないままにしようと思ってます。なりゆきでこうなってるだけだから、そのなりゆきを大事にしましょと。ファジーなまま、ファジーな感じを大事にして、敢えてカタチにしようとはしない。したくないし、してはイケナイとすら思うのですよ。大事なものは、レンガにしない、してはいけないと。

 シューカツとかコンカツとかいうものに対する違和感もそこにあります。
 婚活もね、「"いい人"探し」みたいな表現だったら素直に流せると思うのだけど、そこに「結婚」というカッチリしたレンガ状の概念が出てくるところに、はて?という気がする。また「活動」という、理路整然とした、マニュアル的、カリキュラム的、定量的なアプローチ発想にも、そういうもんなのかなあ?という気がする。

 あなたの人生のなかで「仕事」をどう位置づけるかはあなたが自由に決めたらいい。勿論決めたとおり現実が動く保障はないし、まず動かないとは思うけど、でも決めるのはキミだ。そして、「就職」というのは、経済収入を目的とした数ある行動(投資などいくらでも方策はある)の中から、特に給与を目的とした継続的雇用契約を結ぶことなんだけど、そんなの全体の中の一つの点に過ぎない。ましてや新卒就職というのは、卒業後最初に行う雇用契約ということであって尚のこと「点」です。

 そこに大きな意味があるとするなら、それはお受験やらなんやら営々とレンガを積み重ねてきた連続的な意味、さらには集大成的な意味があるわけでしょう。レンガ積みそれ自体が悪いわけではないし、レンガ積みだと自覚してやっていて、それが万能でも何でもないことも自覚してやっていて、とりあえず「ここまでやってきたから最後までやっちゃいたい」的な、ジグソーパズルの完成間近感ゆえに燃えるんだったら、それはもうガンガンやればいいです。一生で一度のジャンプ台だもんね。どこまで飛んでK点越えるかどうかやってみるのも一興ですよね。

 でも、それは一興でしかない。それで全てが決まるわけでもないし、決まるほど甘くもない。
 就職というのは、ぶっちゃけた話「どうやってメシ食っていくか」論であり、それはあなたの人生の経済面を大きく規定するでしょう。それは大事なことです。それだけにレンガにしちゃダメでしょう。ダンドリだけにしてはいけない。そこをダンドリにしてしまうと、あなたの人生は、結局をダンドリを踏むことだけになってしまう。それ、楽しいか?
 
 より本質的には、仕事というのは、単なる経済的側面だけでなく、「社会とどう関わっていくか」ということでしょう。警察官として社会に関わっていきたいのか、編集者やジャーナリストとして関わっていきたいのか、農業関係にいきたいのか、動物園の飼育係をやるのか。もうバリーエションは無数にある。この社会のどんな分野、どんな地域、どんな業界へ、どういう進入角度で、どのくらいの強さで、どうアプローチするか。給料が同じだったら何をやっても同じだってもんじゃないでしょ?だから経済活動ではあるのだけど、経済活動なんてチッポケなレベルで留まるものではない。小説家や漫画家が、どんなテーマでどんな話を書くかを決めるくらいの重要度はある。それを「ダンドリ」でやってしまって、いいのか。

 結婚も同じく、「誰と生きていくか」というプライベート部門、非経済的(経済的でもあるが)部門での最重要課題でもあります。要するに「誰と家族になるか」ですからね。で、そんな大事なものをレンガにして良いのか、ダンドリにしていいのか?です。カツ系への違和感は、ダンドリにして「いい」って言っているような気がするから出てくるんでしょうね。

レンガと不安

 ということで、大胆に自分のキャンバスに、テキトーに、ぐぃいいいいいって、思う存分自分の好きな線を引いていけばいいんだけだと思います。

 ああ、しかし、それをしたくても、それを阻む強力な敵がいます。何度も言うけどそれは「不安」です。
 そんなことしていいの?もし失敗したらどうするの?そんなもんで上手くいくの?どうやって成功するのか道筋が全く見えない、、、という不安。

 そりゃ不安でしょうよ。
 生まれてこの方、レンガ積みばっかりやってきて、「お湯を入れて3分」と計量的にやってきたら、「レンガの切れ目が命の切れ目」のように思えても不思議ではない。

 レンガでカッチリ積まれたところにいると、将来的にレンガがなくなるそうになると、居ても立ってもいられないくらい不安になる。「何とかなるべ」とは思えなくなる。非定量原理への感性が摩滅し、その経験も少ないので、そんなアヤフヤで曖昧なものに人生を託するのが恐くて仕方なくなるという。ゆえに「しがみつきコアラ」になると。

 定量化社会の最大の弊害は不安になることだと思います。
 そして、不安は二次災害、三次災害を呼びます。

 不安がゆえに大事なものを見落とす。
 不安がゆえにその一歩が踏み出せず人生の果実を失う。いくらでもひろがっていく。

 そこを無視して、ひたすらレンガ積みだけでやろうとすると、プラスチックのような人生になってしまう。いいんだけど味わいもヒネリもない。それでまた「なんだかな」感を抱く。それってレンガを積んでいるのか、賽の河原で石を積んでいるのか、です。


 でもね、本当に、レンガだけで作るのは不可能ですよ。
 これはもう絶対不可能だと断言してもいい。

 なぜなら、「レンガ」なんかこの世にないんだもん。
 凡庸な成績で、凡庸な進学、就職をし、平凡を絵に描いたような人生を送りましたとかいっても、それは違う。
 「平凡」という名の大学も会社もないし、平凡という名前の個人も存在しない。それなりにみな個性があり、レンガにも実は一つづつ個性がある。そして個性がある時点でそれはもうレンガではないのだ。

 なんだかんだいって、誰も彼もが非定量的な原理に左右されている。適当に思わぬ曲がり角があったり、いい出会いがあったり、あっちこっちヘロヘロしながら進んできているのだ。それでいいのだ。それがダメなら人類はとっくの昔に絶滅しているでしょうよ。なんだかんだいって、皆さん一生に何度かは真っ暗で荒れ狂う海の中をひとりぼっちで船出するような気持ちを味わって、孤独な航海をしてきているのだ。みんな、みんな、海の民なのだわ。

 それをトータルとして把握したとき、英雄伝のようにスペクタクルではないから「平凡な」と謙遜まじりに言っているだけに過ぎないのだと思いますよ。平凡だから簡単だとか、確実だとかいうもんじゃないです。

 誰の人生も定量化も数値化もできない。してはいけないし、出来るわけもない。
 この自分が〜高尚&猥雑・大小さまざまな欲望と煩悩のカタマリのようなこの自分が〜軟弱なんだか頑固なんだか部分によって成分がまるで違うとすら思えるこの不均質な自我がですよ、「お湯を入れて○分」みたいな計量数値で処理できるわけがないではないか。

ところでオーストラリアは

 最後にオーストラリアについて述べます。

 永住権の所でも書いたけど、いまスキルセレクトという新方式になってます。入試→就活と表現したけど、点数さえとれれば良いというものではなく、スポンサーがつくか、つく可能性が高くないと永住権の申請すらできないという制度になってます。ようするに「出会い」というファジーな要素が入ったのです。

 レンガ職人としてはますます厳しい状況です。(あ、本当の意味での"brick layer"=レンガ積み職人は、永住権上の職業リストに載って優遇されてますが)、

 しかし、まあ、これが世界の趨勢ですし、これが本来の姿であるとも言えます。


 ときに、アンクザイアティ・ディスオーダー(Anxiety Disorder=不安神経症)は、オーストラリアでも広がっているといいます。日本だけではないです。

 それでオーストラリア社会が不安神経症になるかというと、地のオージーはそうなるかもしれないけど、移民連中は違うと思いますね。
 なぜなら、僕も含めて移民の連中というのは、わざわざ母国を後にして、大した目算もないまま、「なんとかなるべ♪」というアホみたいな楽天性のもとやってきた連中だからです。ガチガチにレンガ固めて来ている人だっているかもしれないけど、多くは、特に独立移住の一匹狼系は、向こう見ずにポーンと身一つで来ている連中が多い。で、そういうアホアホ楽天人種が、毎年毎年数万人単位で「補充」されているのですから、社会全体としては活力を失わないと思います。


 あと、留学やワーホリで来られる方には、オーストラリアで是非「自由」のなんたるかを満喫してくださいまし。抜けるような青空と、どこまで続く地平線のもと、乏しい懐中を多少気にしつつも、それでものんびり「そしてまた旅は続くのであった」ってしばらくやってると、「安定がないからこそ不安もない」という事の意味がおわかりになると思います。ま、旅をせんでも、シドニー時代でも分かると思うし、カンのいい人は空港におりたった瞬間に分かると思うけど。

 そして、その感覚が今後の人生の「海活」の大きなバックボーンになることでしょう。

 その意味で、永住権を考えるにしても、ワーホリや留学をやって、その健康な楽天性と「海的」なしぶとさと機敏さを身につけてから考えた方が成功率は高くなると思います。まあ、それは過ごし方にもよるとは思うけど、ある程度ちゃんとやってきたら、「出会い」ということの意味も、リアルサイズで感覚的に分かるようになってると思うし、ファジーなものへの取り組み方も抜群に上手くなってる筈です。



文責:田村



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