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今週の1枚(2012/08/06)



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Essay 579 :努力と偶然〜「非定量的原理」について

偶然君は人生のオカズ
 写真は、ウチの近所のLane Cove (north)。
 こちらではごく普通の住宅街の風景なんだけど、いやあ、改めてみると木がデカい。なんかもう「堂々としている」というレベルを超えて「傍若無人」なまでにデーンと生えてます。これはもう「街路樹」なんてものではなく、出来るだけ木を切らないようにして「森の中に町を作る」という発想の違いでしょうね。

 しかし、この樹木のメンテ費用は膨大なモノになるでしょう。枝葉が繁茂して電線にひっかかるから年に2回はハシゴ車にチェンソー持った部隊が切り、ほどなくしてその切り落とした枝木をウッドチップに粉砕する作業車がギヤヤヤン!と凄い音をたてていきます。また年柄年中葉っぱが落ちるからその清掃。さらには地中に広がる根っこが水道管やライフラインを傷つけたりするから適宜処理して、、、という凄い手間暇&お金をかけていると思われます。

 でも、エラいなと思うのは、それでも出来るだけ伐採しようとはしない点です。管理の便宜だけを考えればこんな木々はバシバシ切っていって、小粒の街路樹を植えれば良さそうなんだけど、そうはしない。手間暇かけて金掛けて残す。でも、家の近所の木々がデカいというのは、ただそれだけのことで人々の精神健康にどれだけのメリットを与えるか。これは計り知れないと思います。



 ここのところずっと似たようなテーマで書いてます。
 お勉強して就活して、、、というエスカレーターがあるんだか無いんだかよう分らん時代、しかもこの先もっと分からなくなりそうな時代に、じゃあどうすればええのん?を、あれこれ思いつくまま書いているわけです。「多分こうなるのではなかろーか」という点は沢山あるんだけど、カチッとした体系に収まらないし、無理矢理おさめると矮小化しそうで、それが恐いし。で、考えていくうちに、アレとコレが結びついたりして「ああ、そうか」と思ったりもするのだけど、妙なところが結びついてしまったので、全体像は余計に混沌とするという。

 まあ、広げていけば「世界の仕組」とか「生き方の基本原理」みたいなものが変わっていくんだろうな〜という、途方もなく巨大な話になっていくので、そんなものがまとめられる筈がないだろうって気もする。だから、まあ、ボチボチと書いているという。そもそも綺麗にスカッと全体像が見えて、ダンドリがクリアにならないとダメとかいう発想自体が、旧来の方法論(お勉強的方法論)だという気もするし。

 ブツブツ言っとらんと、とっとと書きます。

お勉強原理=定量的原理の限界

 お勉強的なやり方というのは、レンガを積上げる方法論でしょう。本を読んだり授業を聞いたりして、考え方や原理を学んだり、記憶したり、そして練習問題などの反復を通じて自分のモノとしていく知識・技術習得過程です。これはとっても大事なことで、それこそが「学習」の本質であり、いかに世界がどうなろうともそれは変わらない。

 ただし、それだけでは足りない。時代の変化に関係なく、もともと世の中そんなレンガ積みのような定量あるいは定性的な変化だけで動いているわけではない。「AやったらA分だけ変わる」という「定まった」パターンがない。特に個々人の人生に大きな影響を与える要素というのは、それとは全く原理の違う、いわば「非」定量・質的なファクターよる部分が大であると思われます。

 って抽象的に言っててもわかりにくいですね。
 具体例を挙げます。例えば、すごく分かりやすいところでは、「運/不運」という要素があります。

 運も、多少の範囲であれば、レンガ積みに吸収されるでしょう。「運も実力のうち」といいますが、試験の出題がたまたま得意な範囲か苦手かという運もあろうし、ヤマが当った外れたという運もある。でも、こんなのは、しっかり勉強して盤石な実力をつけていけば潰していけます。勉強不足で実力が足りないからこそ、運の要素に大きく左右されるだけのこと。トーナメントの対戦相手のクジ運なんかも、最終的に優勝できる実力があれば、その過程で誰と当っても大差ないでしょう。これらは運といってもまだまだ定量的な運だといっていい。

運の周期性と付き合い方

 ところが、「ダメなときは何をやってもダメ!」という身も蓋もない場合もあります。これは結構よくある。運には何かしらんけど妙な法則性みたいなものがあり、「運との付き合い方」のようなものがある。

 プロのギャンブラーは、おそらくそのあたりの機微がよく分かっているのでしょう。運という潮の満ち引きをわきまえている。落ち目のときは守りを堅め、妙な希望的観測や射幸心をグッと圧殺し、「忍」の一字でじっと堪える。そして、潮の流れが変わり、いよいよ勝機が来たら一気にドドドと打って出るというメリハリや戦局眼です。

 こういうセンスや技術は、先天的な才能もあるでしょうが、ある程度は努力や経験によって得られるものですから「勉強」といってもいいです。でも「お勉強」ではないでしょう。英単語の記憶のように、100頑張ったら基本的に100の成果が得られるという定量的なレンガではない。100頑張っても20しか得られないときもあれば、500得られるときもあり、なんでそうなるのかは全く分からないし、事前に予測できるものでもないし、強引にコントロールすることも出来ない。だから始末に負えない。

 何となく言えるのは、ある種の周期性があるんだろうなってことくらいです。いいときもあれば、悪いときもあり、一生良いだけとか、悪いだけということはなく、どうも循環しているらしい。古来からこの「運の周期性」はどの民族も着目していて、だからこそ「占い」という試みが行われているのでしょう。何をやってもダメな時期=天中殺とか大殺界とか、上昇宮に火星が入ってきたらどうのこうのとか。すごーく人生に影響を及ぼすし、なんかパターンがあるような気がする。すごくそういう気がする。だけど今ひとつよく分からない。何とかしてその法則性を解明したい!という、奥歯ギリギリ噛みしめるような思いと共に人類は「正解」を欲したのでしょう。

 でも、まあ、結局分からないままですよね。
 いや、これも占い師の方に言わせれば「全て分かる」のかもしれないけど、その原理を実生活に適用するのが難しい。実を言いますと、僕の親父は西洋占星術と四柱推命の資格をもってます(業界資格なんだろうけど)。なんせ数え切れないくらい職業を変えてますのでそのうちの一つ。で、曰くは、原理から個別的な運勢を導き出すのは可能だし、当たりもするんだけど、ではこの人の生活局面のドレがソレに該当するのか?という個別的な「あてはめ」が滅茶苦茶難しいのだそうです。

 お神籤で「小吉」と出て、それが100%正しいと仮定しても、さて今日一日振り返ってどの出来事が「小吉」だったのか?というと、よく分からない。もしかしたらランチタイムに食堂のおばちゃんがコロッケ一個オマケして入れてくれたのが「小吉」だったのかもしれないし、密かに想いを寄せているあの人と、ふと目が合って微笑んで会釈して、ちょっと良い気分〜♪なのがそうなのかもしれないし、応援しているプロ野球のチームが勝ったのがそうなのかもしれないし、あるいは何事もなく無事に一日を終えたことが正しく「吉」なのかもしれないし、「よう分らん」というのはそういうことです。

 この「運の周期性の見切り」というのは、実人生においては、かなり重要な技術だと思います。学校でやってる「お勉強」ではないのだけど、それに匹敵するくらいのウェートを占めるのではないか?

 そして、これを身につけるためには、教科書読んだり予備校通ってもダメで、ひたすら場数を踏むしかないでしょう。それも漫然と数をこなすのではなく、感覚を鋭敏にしていくこと。

 いつもやってることを、何故かその日に限って忘れてしまったとか(車のキーを忘れたとか、携帯の充電を忘れたとか)、なんかしらの「予兆」がある場合があります。常にあるとは限らないけど、予兆のように感じられるときは、身を慎む。多分、科学的(らしき)言い方をすれば、身体のバイオリズムであったり、地磁気や潮汐力が体内数兆個の細胞・神経を走る電子と因果の流れに微妙な影響を与えているとか(月齢と体調とか、なんで女性の生理周期は月齢周期とほぼ同じなのかとか)、統計学的に解析できる非常に複雑な確率周期だったり、高等数学のなんらかのパターンであったりするのかもしれませんが、これはこれで難しすぎて別の意味で「よく分からない」。だもんで、「分かる」という方法論ではなく「感じる」という方法論になるのでしょう。

 このあたりは、ギャンブルやるのが一番の練習になるのかもしれません(^^*)。多分、教室で真面目にお勉強している人よりも、授業をサボってパチンコやったり、麻雀やってた人の方が感覚は鋭敏になっているだろうし、身の処し方も上手だと思います。

 だからといってギャンブルを推奨するわけではないですが、言いたいのは、いわゆる「お勉強」だけが唯一人生において建設的な営為であり、それ以外の行為や時間は単に無駄で有害なわけでもないということです。また単なる休養とか息抜き等という消極的な役割しか担っていないわけでもない。「生きる」ってのは、これで結構かったるい作業であり、それ相応の知識のスキルも必要なのだけど、いわゆるお勉強で履修できるのは全体の中の半分にも及ばないでしょう。まあ、いいとこ30%くらいかな、と。

「非」周期的な運〜出会いなど

 さらに非周期的な運があります。巡り合わせとか、ひょんな偶然とか、過去回で「たまたま教」「直感力」「神の一撃」などの回で力説していたものです。これ以上書くと繰り返しになってしまうのですが、「いいときもあれば悪いときもある」というピリオディカルな原理とはまた違った、ますます何だかよく分からない「神のいたずら」みたいなことがあります。

 たまたまクラスの席が隣り合わせだったことが縁で生涯の友人が出来たとか、たまたま何かの飲み会でテーブルの真向かいに座っていたとか(僕のカミさんの場合)、たまたまラーメン食ってたら有線で「あ、いいじゃん」って曲が流れていてそれが一生のフェバリットとの出会いであったとか、その日に限って気まぐれに違う道で帰ったら、そこで捨て猫を見つけ、「それが僕とミケの出会いだった」とか、いっくらでもあります。

 これは「そーゆーこともあるよね」という例外事象のように見えながら、むしろ物事の原則パターンではないか?

 「物語」は、常に、たまたま&いきなり始まる。
 準備万端整えて、座禅を組んで平常心を練り上げ、心身を清め白装束に着替えて「いざ」と臨んで、こういう運命の出会いに遭遇するというコトなどおよそない。AというダンドリをかませばBという運命が出現するなんて魔方陣みたいなものはない。常に「いきなり」です。「いきなり」以外のパターンはほぼないのかもしれない。

 だって、考えてみて欲しいのですが、あなたの半生を振り返って、まさに人生の伴侶なり、人生を彩るキーポイントになったような物事、それは友人であったり、趣味であったりもするでしょうし、好きな音楽、好きな作家、好きな漫画、好きな風景、好きな生活パターン、好きな食べ物、、、コレがあるから自分の人生は楽しくなってるんだよな、もしコレがなかったらその分だけ確実に詰まらなくなってただろうなって事柄があるでしょう。そして、それらはいずれも仕組まれて出てきたものではないでしょう?全部が全部、おそらくは一つの例外もなく、たまたまの偶然だと思います。

 これは周期的なものではないです。似たようなパターンで何度も繰り返されるようなものではない。寄せては返す波のようなものではなく、ある日ある時、波にのって魔法のランプが浜辺に打ち上げられ、たまたま通りがかった僕はそのランプを拾い上げた、そしたら、、、という種類のものです。

 これらも100%予測不可能、コントロール不可能です。しかし、そういった不可能系の物事によって僕らの人生の支柱打ち立てられている。

 だけど、これ、よく考えたら笑っちゃいますよね。幾ら必死に努力しても、頑張って何事かをやっていても、人生の具体的な「ありよう」は、この種のたまたま系で決まってしまうのであり、誰のどんな人生であっても、基本的に「行きあたりばったり」で着色されていくという。人はそれを「宿命」とか「運命」とか呼ぶのだけど、それは「行きあたりばったり や「たまたまの偶然」の別の名前でしかないでしょう。

 宗教的に言えば、それは全て神の見えざる手で仕組まれていたり、天の指し示す方向なのだという考え方もアリだとは思います。しかし、その神様が何を考えているのか分からない以上、僕らにとっては偶然という形でしか捉えられないことに変りはない。あらかじめ行事日程を事前に情報公開し、プリントにして配ってくれる親切な神さんというのは、あまり聞いたことがないです。

 もっとも、だからといって目標を定め、懸命に努力するのが無駄だとかそんな馬鹿なことを言ってるのではないですよ。それはそれで勿論やる。てか、それ以外に主体的に出来ることなんか何もないんだから、それはそれでやる。全力でやる。だけどそれとは全然関係ない偶然力が働くということです。つまりは、「二つの力」があると。

 その努力ベクトルと偶然ベクトルが干渉しあうとどうなるか?といえば、例えば一生懸命勉強して医者になりました、病に苦しむ多くの人を助けられるようになりましたという大筋は同じでも、偶然力の干渉によって、大学病院で最先端医療を研究しているかもしれないし、どっかのジャングルで地雷で手足を失った人々のためにメスを振るっているかもしれないし、古い城下町かなんかで名物の町医者になってるかもしれない。それは希望や意向もあろうけど、多分に偶然だろう。どんな人と巡り会うか、どんなチャンスに出くわすか。そして、同じ町医者になるにしても、お堀端の旧家に住むのか高層マンションに住むのか、どんな奥さんと子供に囲まれて暮らしているか、たまの休みに何をするか、それは偶然でしょう。誰と出会うか?何に心惹かれるか?

 合コンやらお見合いを経て将来の伴侶に巡り会う。Aを望んでAを得ているのだから、たまたまでも「いきなり」でも無いじゃないかって人がいるかもしれないけど、それは違う。なぜなら合コンで彼女を得ようといっても、個別具体的な「誰」になるかどうかは、そのときになってみなければ分からない。お見合いだって、誰がどういう経緯でどんな話をもってくるかは、自分の手の届かないところの偶然力で決まる。就職だって、就職しようと思って就職している大筋は同じでも、どの会社に入るかは、多分に偶然の作用が大きい。

 ちょっと違うかも知れないけど、書いていて陶芸のことを思い出しました。あれも、よい土を探し、丁寧にこね、ろくろで廻しながら技術の限りを尽して形に仕上げ、釉薬を塗って窯に入れるのだけど、最後の最後の仕上がりは「火という偶然の芸術」で決まる。だから、大雑把な方向性は努力によって決められるし、その成就も努力次第。しかし、そこで得られる最終的な果実=生活の実相なり「ありよう」は、多分に偶然で決まる。

 だからこそ難しく、だからこそ面白い。
 人生には、常に二人三脚のようにこの種の偶然(運・不運)がつきまとう。
 しかし、だからこそ、この偶然力によって、自分の思惑だけでは到底たどり着けない見知らぬ地平に連れて行って貰えるのだ。

 この偶然力を、定量的ではないがゆえに「計算できない」といって毛嫌いするのではなく、それを尊び、それを楽しめってことだと思います。
 大人というのは、人生の偶然性を楽しめるような人、「ほう?そうきますか?」「かー!わっかんねえもんだねえっ!」って面白がれる心のゆとりのある人を言うのでしょう。

 英語でよく、”God works in mysterious ways”(神はミステリアスなやり方で仕事をする=神様ってば、何考えてるのか全然わかんない)って言いますが、それも同じ発想に立っているのだと思う。

非定量原理と、例えば就職活動について

 以上の非定量的な変化、運とか出会いとかそういったものとの付き合い方は、「お勉強」ではないけど、大事な人生勉強になるということでした。

 これはドーン!と強調しておきたいです。

 かといって、「俺は運の対処法を極めた!」ってレベルまで行く必要はないし、そんなの無理でしょ。ただ、「そーゆーことがある」というのを大きく、深く認識しておくことに意味があると思うのですよ。物事というのは、お勉強のように頑張れば何とかなるという定量・定性的な変化だけで成り立っているわけではない、ということ。

 ここを理解し、センシティブ(敏感)になるご利益は図りしれません。
 簡単に言ってしまえば、生きるのが上手になるし、生きやすくなるし、楽にもなる、と思う。

 とりあえず就職や転職が上手く行かないとか、やってもやってもダメって人には、「そんなの気にすんな」です。めちゃくちゃ投げやりなアドバイスに聞こえるかもしれないけど、でも本当にそう思うんだもん。

 多分、それってドツボ期にはまってるんじゃないかな?「ダメなときは何をやってもダメ」という運の衰退期です。パチンコで「今日は全然ダメ!」って日があるけど、それと同じ。ドツボ期って短ければ1-2時間で去るけど(麻雀とか)、長いときは数年くらいあるもんね。偉人の(偉人でなくても誰でも)個人史なんか見てても、「ああ、この時期ドツボだったのね」というのが必ずあるし。

 もちろん構造的にダメであるとか、ダメになるべくしてダメになってる部分もあるから、そこの自己点検や研鑽を積むのは当然のことです。しかし、そんなことは本人が一番苦しんで、一番やってると思うのですよ。それに、それって一見もっともな理由なようで、しかし全ての状況を説明し切れていない。なぜなら、ダメな奴でも就職できたりしているからです。いったい、この世で就職できている人は全員が全員、学業優秀&人格円満&スポーツ万能なのか?という。そんな結婚式での仲人さんの紹介のような人間であるはずがない。てかそんなのはごく一部であり、一部ですらなく、絶無かもしれない。皆、多かれ少なかれ、何かかんかダメな部分はあるのだ。

 それでも尚もスケプティカル(懐疑的)な貴公に問うが、あなたが日常出会ってる「働く=就職に成功した=人達」を思い浮かべたらいい。レストランの無愛想なウェイターにせよ、慇懃無礼な銀行員にせよ、横柄な役所の係員にせよ、彼ら全員、人格円満&学業優秀かあ?バイトでもなんでも今職場にいる人は、周囲の上司同僚部下後輩、全員が全員、品行方正で有能極まる人物ばかりですか?裏表ありすぎるやつとか、嘘ばっかりついてる奴とか、いつまでたっても使えない奴とか、幾らでもいるでしょう。正直いって「たまには素敵な人もいる」くらいじゃないの?

 だとしたら、何で彼らが就職できているか?ですよ。「人格&能力の優劣によって就職の可否が決まる原則」が正しいとするならば、彼らは失敗していなければならない。でも現実は違う。違う以上、この原則は一般論としては正しいにしても、全てを説明しきるほどの大理論ではないってことでしょう。ありていにいえば、ダメダメな人でも職を得られるし、それは何故かと言えば、「ついてたから」or「特に不運ではなかったから」でしょう。じゃあなんであなたがダメなのかといえば、「ついてないから」だと思うのが普通じゃないの?これ、他人事だったらスッと理解出来ると思うのだけど、なまじ自分のことだと、過大に深刻に思ってしまいがち。

 考えてみれば、就職なんか運以外の何物でもないよね。採用枠一人のところに二人応募して、ライバルの一人が自分よりも優秀かどうかなんか偶然以外のなにものでもない。また、優秀かどうかなんか本当にわかるの?というと、これもある程度は分かるにせよ、微妙な事例になると試験官の主観であり、人の主観というのは結局のところ相性とか波長とか偶然だもん。試験官が慎重居士だったら、緻密で謙虚なタイプを好むだろうし、試験官が豪快君だったら陽性オーラ出てるひとを好むでしょう。これも運。

 僕自身、自分の勤めてた法律事務所の事務員さんの採用試験官(補みたいな)ことやったから分かるけど、「ああ、この人いいな」って人が居たとしても、それよりももっとドンピシャの人がたまたま応募してたらそっちになっちゃうんだわ。そのドンピシャが居なかったらまず間違いなく採用になったと思うんだけど、間が悪かったとしかいいようがないという。「ちょっと可哀想ですよね」「でも二人は採用できないしなあ」とか言ってたもんです。そんなもんだよ。重ねて言えば、ドンピシャの人の職歴は法律とはぜーんぜん関係なかった。むしろ不採用になった人の方がキャリアという意味では勝ってた。でも結果が逆転したのは、個性の濃すぎるウチの事務所に「合うかどうか」だったのですよ。でも、それが現場においては一番大事、二番以下なんかどうでもいいってくらい大事なんだけど、それって結局波長の合う合わないでしかなく、運でしょう?

 それに今の時代、いかに新卒採用というスタート地点であろうが、就職なんぞ全人生の比率からすれば10%もないでしょう。5%すら怪しいかな?誰と結婚するか?だって、いいとこ20%くらいだと思うぞ。今どき離婚している人はザラだし、僕のように二回結婚している人も珍しくない。それなのに一回の結婚あたり40%も60%も割り振っていたら、トータルで100%超えちゃうしね。どんな子供に恵まれるかという子供運もあるし、早期ガンになっちゃいましたという健康運にも20%くらい振り分けたいし。「仕事」それ自体は20-30%くらいの比重を占めると思うけど(でも過半数は到底無理だと思う)、最初の就職なんか全仕事人生のとっかかりに過ぎないわけだし。

 現代は、最初の会社の3年以内の離職率がどーのこーのと新聞に書かれるような時代なんだから、新卒なんてまさしく「はじめの一歩」に過ぎないっしょ。わからなかったらとりあえず「七6歩でいいんじゃない?」くらいなもんでしょ。その一歩の成否によって一生安泰だあ!なんてことが「夢幻のごとくなり」ってなってるってことは、逆に、それがダメでもどってことないってことでもある。つまりは最初の一歩の重要性や決定力は年々落ちているってことです。それでも、まあ、ベストは尽すべきですよ。でも、まあ、5%くらいね。あと95%はしっかり残ってますので。

 それにさ、意中の会社に入れたとしても、意中の職場にいける保障はどこにもないですよね。バブルの頃は就職は楽だったんだけど、どの会社も流行の多角経営をバンバンやってたから、「なんでこの会社がこんなことすんの?」みたいな事例は多かった。だから、大手製造業に入った筈なのに、気がついたら温泉リゾート設備で番頭補助みたいなことやらされて、ハッピ着て団体客の世話なんぞをやってたりするのだ。今は本業回帰だからそれは少ないと思うけど、逆に海外シフトが高まってるから、Uターン志向で地元でのんびりと思って入社しても、2年目になったらいきなりホーチミン支店の開設スタッフになってベトナムの屋台でPHO食ってるかもしれんのだ。

 そもそも、職場の良し悪しなんて人間関係の良し悪しに尽き、人の幸福なんか半径3メートルで大体決まると言われているところ、こんなの100%運です。最悪の場合、待っているのは救いのない地獄の日々だったりもするわけですよ。なんせ、運は周期的にやってくるし、その不運の形態が千差万別である以上、どんな形で見舞われるか分かったもんじゃない。仕事的には恵まれたとしても、今度は家庭的にダメになったりもするし。


 だから、、、だから、人生というのはか〜なりかったるいイトナミなのですよね。
 あんなことや、こんなことも乗り越えてマネージしなきゃいけない。ハードルはあるわ、ぬかるみはあるわ、落とし穴もあるわ、時々道に忍者のマキビシが撒かれてたりもするわ、予算目当ての意味なし工事で通行止めになったりもするわ、いきなり地震がやってきてその全てが流されたりもするわです。新卒の就活ごとき、ほんのオードブル、ほんの突き出し。注文したビールが来る前に食べ終えてしまう程度のものでしかないと思うべきでしょ。手を抜けという意味ではなく、仮に良くても慢心せず、仮に悪くても落ち込むこたあないよ、と。だって、メインディッシュは後から後からどんどん出てくるのだから。

 こんなこと書くと人生大変なことばっかりのようだけど、まあそうなんだけど、でも、それと同じだけのイイコトもあるのですよ。思ってみないトラブルに見舞われることもあれば、思ってもみない幸運に恵まれることもある。てか、それを良いと思うか悪いと思うかなんか、その人の主観でしかないのですね。物事というのは、そんな僕らの心のウチとは無関係に、一定の規則性と、一定の「非」規則性で起ってるだけ、それだけ。これはまた後で書きます。

非定量のムニャムニャこそが命

 就職のことばかり書いてしまいました。
 非定量原理は何も就職に限ったことではありません。

 職の話が出たついでに自営業や起業についていえば、起業・自営業を営んでおられる方には「運の周期性」は、実感としておわかりかと思います。いやあ、客が来ないときは、ほんっっとに来ないもんね。「もうダメぽ。。。」という時期が絶対ある。なんかしらんけどダメダメな時期がある。かと思うと、処理しきれないくらい客が押しかけるときもある。で、なんでそうなるのか、これがわかったようで分からない。

 世間のマーケティング理論では、いわばこれらを「おはなし」としてまとめる必要があるので、起承転結を付けて語られますよね。曰く、○○という集客方法がもう古いので、○○をやったところ客数は倍増したとかなんとか。そういう事例も勿論あるだろうけど、そーゆーことばっかりじゃないです。というよりも、そうではない事例、「なんだか分からないけど”波”ってあるよね」みたいなことの方が多いです。

 でもそんなこと言っちゃったら、経営理論やコンサルタントの存在意義がなくなっちゃうから(無くなることはないのだけど)、あまり大々的に語られることもない。また語りたくても「何かわかんないけど」だから語りようもない。

 でも、自分でやったことある人だったら、どなたも実感としてお分かりになると思います。別に起業じゃなくても、自分でブログ持ってる人だったら、やたらアクセスが多いときと、全然ダメってときとがあるでしょうから、その感覚は分かると思います。

 そういえば検索エンジンの順位をあげるSEOがありますが、あれも一時凝りまくってあれこれやったことがありますが、「あんま関係ないかも?」って気もします。まあ、大まかにはあるんだろうけど、そんな細かく一喜一憂するようなことでもない。大雑把にいえば更新をコマメにすると良いのではないかという、別にSEOをやらなくても分かるようなことだったり、SEOをやったから良くなったのか、それともそれをやる過程で頻繁にUPLOADと更新をするから順位が上がっただけなのかもしれないし。


 でも、「お勉強」ばっかりやってると、ついついそこに理屈を求めてしまうのですよね。「なんだか分かんないんだけども、でもそうなる」というムニャムニャしたものが受け入れられないというか、どっかに「正解」があるような気がするのか、無理矢理に理屈に合う「おはなし」を作ろうとしがち。そして、あれこれジタバタ余計なことをして、それが却って致命傷になることもあります。

 この「何かよくわかんねーけど」というモヤモヤ部分が結構大事で、それを理屈や小技で潰しちゃダメだと思うのですよ。

 僕は、自分で言うのも変ですが、子供の頃から人一倍理屈っぽいし、弁護士という職業柄、小理屈作るのは職人芸として得意なんだけど、だからこそ理屈の限界というか、「理屈で侵してはならない聖域」みたいなものがあると強く、強く思います。同じように技術も大事だし、技術を磨くのは良いことだと思います。楽しいですし、僕も好きです。でも、「技術で侵してはならない聖域」というのがあるのだと、これも強く思うのだ。

 例えば、バンドの作曲もそうです。最初に作った衝動一発の荒削りが一番曲として魅力があったりします。でも、あとで聴き直していくと、ココを直したり、あそこを直したりしたくなるのですよ。技術的にいじくりどころ満載ですから。でも、そうやって技術で直していくうちに印象の薄い駄曲になってしまうという。「いいんだけどダメ」という。結局最初のが一番良かったじゃんって。「悪いんだけどいい」方がいい。文章でもそうです。「くどいな」「言葉足らずだな」「くだけすぎ/硬すぎ」と明らかに悪文だったりする部分もあるのだけど、そのくどさがコクになったり、足りない部分が絶妙な間になったりもするのですね。このエッセイでもそうですが、最後の見直しの段階で「ヘンな部分をヘンなまま残す」という匙加減が中々難しいです。
 

非定量的原理は人生のオカズ

 ふにふに書いてたら紙幅が尽きそうです。
 ここからさらに現代日本社会における「非定量的原理の軽視と弊害」という方向に話を進める筈だったのですが。

 備忘録的に書いておくと、例えば、就活や婚活なんて「活」的な発想が流行り、それに僕は違和感を覚えるのですが、全てをレンガで積上げるような息苦しさ、理屈と技術で人生の本当の面白さを潰していく部分が何となく疎ましく感じるのかもしれないとか。同じ予測不能な状態を見てドキドキするとして、不安でドキドキするか、わくわく高揚感でドキドキするのかその違いとか。何もかもが予定通りに進んでいるときは、実は致命的に失敗している場合が多い=予定通り進みそうな面白味もクソもないチマチマした小さな円環を予定調和で閉じているだけ、とか。ところで、オーストラリアの永住権の新システム、スキルセレクトはまさに非定量原理がプロセスにドンと混入したようなものだとか、、、幾らでもあります。


 ここで強引に中間のまとめみたいなものを書けば、世の中や人生には「よくわからない」ムニャムニャした非定量的な要素が絶対あり、それはもう「世の中そんなもんよね〜」とドンと構えていた方が良いだろうってことです。

 もちろんレンガ積みの定量的努力は努力で必死でやるべきであり、ここがダメならそもそも話にならない。良くない点は変えた方がいいし、あれこれ試行錯誤することはとても大事なことです。しかし、レンガさえ積んでおけばいいのさってほど世の中素直じゃない。常に全体を貫く理路整然とした「おはなし」があるとは限らない。単にたまたまそうなってるに過ぎないことも多いし、そこに過剰な意味やら、論理的整合性を求めると全体のデッサンが狂ってくるという恐さがある。

 ある程度結果が予測できるレンガ積みの「お勉強」的な定量的原理と、ある日ある時いきなり始まり、意味も理屈も予測もできない非定量的偶然という二つの原理がある。その配合バランスは時により場合によりバラバラだし、そのブレンド技術こそが人生の「奥義」なのだろうが、まずは「二つある」と思うことでしょう。

 あれこれ頑張って努力すべきことはすべきなのだけど、どんなに頑張っても全てを決められるなどと傲慢なことは思わず、常にいいとこ50%くらいしか予測も予定も出来ないと思い、あとの半分を偶然君のために席を空けておく。偶然君と二人部屋のルームシェアをしているようなものだと。

 偶然君は、大雑把な周期性でハレー彗星のようにドツボを運んできてくれたり、ある日あるときサプライズを持ってきてくれて、なかなか心臓によろしくないのだけど、しかし、その全てが悪いことではない。その半分は良いこともある。思ってもいなかった偶然によって見知らぬ所に運ばれ、思ってみなかった幸運を掴むこともある。

 その割合比率は、誰でも似たようなものだと思うけど、まあ、トントンだと思います。

 なぜなら、まず周期性の運について言えば、それがいいか悪いかというのは本人のその場の主観や価値観による。客観的には、一定のランダム比率で何事かが起きているだけに過ぎない。例えば、明日雨が降るか、晴天になるかというのは、気象条件という無数の偶然と必然が積み重なって発生するのだけど、大雑把に言えば「このくらいのエリアでこの季節だったらこんなもん」という感じで、なんてことない平凡な現象として生じる。しかし、人によって「明日」の意味は違う。明日楽しみにしていた遠足だった人は、雨が降って「なんて不運なんだ!」と思うし、明日は大嫌いな校内マラソン大会で雨天中止を祈って雨乞いをやってるような人にとっては「ラッキー!」です。

 波が寄せて、また波が返す。その繰り返しで物事が起きている。波も、別にテクノのシーケンサーのように規則的にやってるわけではない。幾つかの波が重なって大きめの波になってドッパーン!のときもあれば、小粒の奴が文字通り波状的にやってくるだけのときもある。あんな感じで物事はランダムに、でも大きな周期性や法則性をもって動いているだけに過ぎない。そこに、運だの不運だの「意味づけ」をして一喜一憂しているのは個々の人間の勝手な思惑に過ぎない。そして、その個々人が、個別具体的なある時点で、どんな思惑を抱くか?なんてのも、これもまた純粋に偶然でしかない。ルーレットでたまたまその回に赤に賭けていれば、赤が出たら○で黒だった×、でも黒に賭けていたらその逆。だれがいつどっちに賭けるかなんてのは純粋に偶然であり、純粋に確率の問題でしかない。だから、誰であれ、何事であれ、まあトントンでしょう?と。

 次に非周期的な運についていえば、それが最終的に良かったのか悪かったのかというのは、終ってみないと分からないし、終っても分からないことも多い。例えば、極端な例だと、乗ってたタクシーが追突され手間取って予定していた飛行機に乗り遅れたという時点では、とてつもない不幸に思う。しかし後刻、その乗るはずだった飛行機が墜落して乗客全員絶望とかになったら、とてつもないラッキーボーイだったということになる。そこまで極端ではなくても、それに類する話は幾らでもあるでしょう。意中の異性のハートを射止めてめでたく結婚、幸せの絶頂だったと思いきや、これがとんでもない悪妻悪夫で半年もしたら離婚したくてたまらなくなるかもしれない。意中の会社に入社できずに落ち込んだとしても、3年たってその会社が倒産して路頭に投げ出されているかもしれない。


 ただ大体において言えるのは、適当な不幸は、長い目で見たら大きな幸運になる場合が多いということです。僕自身、司法試験の最後の最後の口述試験で落ちてます。落ちる奴など殆どいない、儀式みたいな最後の関門でコケてます。前にも書いたけど全関西でその年に落ちたのは僕を入れて四人だけだったという。それも、受験生の間で地獄の使者として恐れられている教授と、「意地悪○さん」と仇名されている某教授の凶悪タッグチームの待つ個室で、猫になぶられるネズミのような「人生最悪の20分」といってもいい地獄の時間を過しました。しかし、今思うと、てか1年後には既にそう思っていたけど、「落ちて良かったよ」と。

 なんでか?といえば、あれで憑き物が落ちたんですよ。司法試験だ、生きるか死ぬかじゃあってやってたのが、「あほらし」って思えるようになった。「たかが試験じゃん」って思えるようになった。それに、アホらしくなったので、その反動で「ちょっと遊ぼ」とばかり、昔の友達とかに声かけまくって飲み歩いており、それが縁で一人目のカミさんと付き合うようになりました。わざわざ岐阜から京都まで「出ておいでよ」とか強引に誘ったりして。で、1年後に合格&結婚するまでは遠距離恋愛だったけど、楽しい時期でした。

 また時間的に余裕が出来たので1年間ずっと同じバイトやっていて、毎日「働くおじさん」達の世界に接して、それが凄く良かった。あのまま合格してたらどんな天狗になって、どんなイヤミな奴になってたかと思うと自分でも寒気がします。でも、最後に苦節一年やることにやって、人間的には何倍も成長できたと思うし、くっだらないエリート意識も消えていったし、いわゆる普通の人を心から尊敬できるようにもなった。我執で凝り固まっていたのが解毒された。

 関西で落ちた4人(京大・同志社・立命・関学)が全員集合して週一でゼミをやってましたけど、僕ともう一人が25歳、あとの二人が35歳という面白い組み合わせで、でもその35歳の「大人」の人達にいろいろと薫陶を受けました。同い年の人には刺激を受けたし。あのときの仲間には今でも感謝してます。週一で会うのが楽しみでした。

 翌年の再チャレンジは、もう人生かかった剣ヶ峰で(口述試験不合格者だけ来年もう一回口述だけの追試があり、それもダメならまたゼロから)、人生であのくらい緊張したことはないかもしれない。10日かけて7科目、一科目でも失敗したら地獄行きだから、神経ヤスリにかけられる10日間で4-5キロ痩せる人もザラなんだけど、あの精神的な修羅場でなかなか根性が尽きました。糞度胸もついたし。「馬鹿野郎〜、死んでやらあ!」みたいな。それにその頃はもう、ダメならダメでどっかに駆け落ちしようかなというワクワク妄想があったりして、そっちの方が楽しかったりしてたし。

 でもって、その8年後に全部捨ててポーンとオーストラリアに来ちゃったのも、あの体験があってこそだと思います。「ま、どってこたあねえよ」って腹が括れたんだと思います。「座って半畳、寝て一畳」というのが体感的に腑に落ちたし、あれほどの「不運」でありながら、なんでこんなに楽しいの?みたいな。世の中どうなろうが適当にハッピーになんかなっちゃうもんだよなってのがよく分かったし。ある意味、恐いモノがなくなったというか、無くなりはしないまでも、恐怖幻想みたいなものは消えました。

 とまあ、単に1年足踏みするだけという些細で可愛い「不幸」「不運」によって、そのリターンとして一体どれだけのものを得たのかというと、もう計り知れない。こんなに黒字でいいんだろうか?と不安になるくらい。

 だから、適当な不幸は、長い目で見たらむしろ幸運と呼ぶべきものになったりするってことです。有名なスティーブジョブスの講演録でも、自分の作った会社に追放されるドツボ時期がいかに多くの実りをもたらしたかを強調してますが、僕ごときが言うのはおこがましい限りですが、でも「わかる」気がします。そうなんだよな〜、ほんっと、そうなんだよなって。
 で、何の話かといえば、こういった非定量的な原理によって、僕らの人生は激しく翻弄されるんだけど、その翻弄され率みたいなものは人によってそんなに変わらないってことです。だって、たまたまその時にどう思っていたか=赤に賭けたか黒に賭けたか=という偶然なんだから。そして、その結果が良かったのか悪かったのかというのも最終的にはよく分からんということです。

 だから、終局的に言ってしまえば、運・不運なんて無いんだよな、結局それをどう思うか、どう受け止めるか、どう咀嚼するかという主観の問題に帰着するんだからさ。考えてみれば当たり前の話で、人間の思惑を配慮して波が生じたり、雲が発生したり、地震が起きたりしてるわけではなく、世界は世界の勝手な都合と原理で動いているだけで、その世界にへばりついている個々の人間がそれに勝手に意味づけして一喜一憂しているだけなんだから。

 そして、日々の生活や人生の実相を決める要素の50%は、こういった偶然君であり、それはもう本当に暴力的なまでに決められてしまうのだけど、それがコントロール不能であり且つ主観の問題であるとするなら、もう楽しむっきゃないでしょ?ってことです。かくして非定量的原理というのは、まさに「人生のおかず」みたいなものであり、今日のメニューで何が出てくるかはそのときになってみないと分からない。

 それは忌(い)むべきものにアラズ。嘉(よみ)すべしって感じ。



文責:田村



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