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今週の1枚(2012/07/23)



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Essay 577 :「お勉強」的方法論


 写真は、The Rocksの裏手。観光地化したロックスではなく、オーストラリア最古の街並を誇る方です。

 古い街と枯木の並木がいい感じだったので写真を撮ってたら、近くの家でペンキ塗りをしてたお兄ちゃん達に話しかけられ、「俺達も撮ってくれよ」と。「どっから来たの?」「日本だけど」「じゃあ日本に帰ったらネットのブログに俺達ものっけてくれよな」「おっけ」、、ということで載せておきます。

 ちなみに写真でVサインをしたがるのは日本人だけ、みたいなことを時々聞いたりするけど、別にそんなことないと思いますけどね。僕も日本にいるときはVサインするのに陳腐過ぎてなんか抵抗あったけど、こっち来てからは全然抵抗なくなったです。



 過去数回にわたり、やや揶揄気味に「お勉強的方法論」に触れてきましたが、今回はその点について集中的に書きます。

学問、勉強(修行)、そして「お勉強」

 まずはコトバの問題から。
 「学問」と「勉強」、そしていわゆる「"お"勉強」は、僕が愚考するに、全然質が違うものだと思います。

 「学問」というのは、一種のスポーツや趣味のようなもので知的好奇心・興奮に駆られて何事かを考え、研究していくことです。そこでは「何の役に立つのか?」という機能性や、就職に有利とかいう社会的効用は問題ではなく、知りたいからやる、面白いからやるという、純粋に「やる」ことに本質があります。身体を動かすと無条件に快感が発生するのと同じように、「知」にもそれ自体に無条件の快楽がある。言わば「頭のスポーツ」のようなものが「学問」なのでしょう。

 スポーツの中にもレクレーション的に楽しむものもあれば、武道やオリンピックレベルに本格的に「極めていく」ものもあります。知的世界も同じことで、一方ではレクレーション的なパズルとかクイズがあり、他方では本格的に極めようとする「学問」があるということでしょう。そしてスポーツや武道を極めるにつれ、身体修養よりもむしろ精神修養に傾いていくように、学問も究めると「〜道」のように人間修養になっていく。それは孔子の世界における「学問」概念のようなものです。「少年老いやすく学成り難し」の「学」。また、娯楽的なパズルである将棋や囲碁であっても、それをプロレベルに極めていくと「己れとの戦い」という哲学的様相を帯びる。

 余談ですが、最高水準の将棋はもう立派に「学問」と言っても良いだけの内実があると思います。しかし「将棋学」というカタチで言われることは無い。なぜか?といえば、メインの研究者=誰よりも将棋を知悉し、極めているのはプロ棋士達であるところ、彼らは自分らを「学者」だとは思ってないし、学問的な体裁を取ることに興味がないからでしょう。思うにそれが学問であるかどうかというのは、やれ大学で教えているとか、「〜学」というネーミングがあるとか、「〜学会」が開かれているとか、そんな形式的なところに囚われるべきではなく、その本質=人類最高水準の知的体系が構築されているか=だと思います。その意味で将棋は立派な学問だと思う。同じように、学問という形では認識されてなくても、そのレベルと体系を持っているものは世の中に幾らでもあると思います。だからこそ、毎年毎年新しく「〜学」というジャンルが増えているのでしょう。およそ人間の興味の赴くところ「学」あり、です。

 次に「勉強」ですが、これは人生における機能性や滋養性がポイントでしょう。
 機能性というのは、特定の物事を習得するために知識や技術を学ぶことです。ホームページを作っているのだけど納得がいかないので、本格的にJava Scriptを勉強してみるとか。趣味で絵やマンガを描いているけど、どうしても一定水準以上いかないから、本格的にデッサンを勉強してみる。プロの料理人だけど一つ上のレベルに行きたいからイタリアまで行って修行してくるとか。これは学問のような良い意味での遊戯性や道楽性は薄く、そこにあるのは「もっと上手になりたい!」というレベルアップのためのゴリゴリの機能性です。

 ちなみに、対象が「人生」「世間」と広くなっても「勉強」という概念はありえます。例えば、甘い考えで何かを始めて、散々痛い目にあって現実の厳しさを知ったとき、「いい勉強になりました」と言いますが、そゆことですね。パチンコでも株投資でもビギナーの段階で思いっきり損をするのですが、それを「授業料」とか呼んだりもします。いい加減な気持ちで男女の火遊びをして、あとで地獄を見たときも「勉強」「授業料」という文脈で語られます。これらの場合は、学習意図はないんだけど、結果的に何らかの貴重な教訓を学ぶという人生の滋養性みたいな部分がポイントになります。

 しかし、僕やあなたが子供の頃から「お勉強しなさい!」と言われてきた勉強には、学問や勉強のような要素が乏しいです。小中高&大学と、国語をやったり、物理をやったりしているのは、「学問」のように知的好奇心にかられまくってやってるわけでもないし、ハイレベルな技術を身につけるための修行的なものでもない。

 つまりは、「言われたからやってる」という程度のことでしかない。テーマ設定も、その習得方法も、全てカリキュラムのように与えられ、自分で意識的に決めているわけでもない。高校とか大学になると一応「選択科目」というのが登場してくるのだけど、それとてそんなに真剣に主体的に決めているわけでもない。入試も必死にやるんだけど、何か主体的な目的がそこにあるわけでもない。なんで文系なの?数学が苦手だから、なんで理系なの?国語が苦手だから。そもそも何で勉強してるの?と聞かれたら、「そう言われたから」であり、「そこに科目があるから」であり、「そこに試験があるから」だという。

 これが僕の言う「お勉強」であり、過去数回にわたり触れてきた「お勉強的方法論」というのは、学校内での勉強のみならず、人生の主体的な組立てや選択においても、この「お勉強」の発想パターンでやっていることの問題性です。なんで会社に入るの?そこに会社があるからだ、みたいな感じ。

 これは僕を含めて多くの日本人がごく当たり前にやってることなんだけど、でも、それって変じゃないか?ということをこれまで書いてきたわけです。

 「お勉強」的方法論の変さ=非合理性=による悪しき結果というのは、例えばあれだけ頑張ってやっているのに思ったようにリターンを得られないとか、人生の選択肢が限られてしまい、場合によっては途方に暮れるとか、精神的に追い込まれるとか、です。これらは大きなロスといっていい。

 殆ど宗教的にまで信じられているこの「お勉強」的な方法論、いっそ「お勉"教"」と言ってもいいくらいなんだけど、それに異を唱えて噛みついている僕こそ「変」だと思われるでしょう。「何言ってんの?」と。しかし、それでも言いたいですね。ちょっと変わったことを書かないとエッセイが面白くならないというこちら台所事情を別にしても(^^*)、真剣にそう思ってます。学問でも、本当の意味での勉強(修行)でもない「お勉強」なんかやってたって、言われているほど「霊験あらたか」でもないし、それはこれからの時代どんどん効能が薄れると思う。

 では何が悪いのか、そしてどう悪しき結果を導くのか?

「お勉強」によって得られるもの

 「お勉強」というのは、学問のように知的快楽を感じるわけでもないし、勉強修行のように人生に豊かな滋養をもたらすわけでもない。そんなものを何故やるのか?といえば、「将来イイコトがありそうだから」というボヤヤ〜ンとしたものです。このボヤヤンの曖昧さが良きにつけ悪しきにつけ問題です。

 勉強というのはイヤなものです。あなたが勉強が好きでしたか?遊べないし、テレビも見られないし。人間、イヤなことをやるんだったら、何故それをやらねばならないのか?をちゃんと理解したいし、本当にこの方法で良いのか?とか考えたいし、自分の思うようにトライしたいでしょう。当然、「こんなことやって何の意味があるんだよ?」「社会に出てからも役に立たないじゃないか!」などの不満が出てきます。あなたもそう思ったことが一度や二度はあったでしょう。

 でも、「つべこべ言わずにやれ」「ちゃんと勉強しないとダメな大人になっちゃうのよ」と言われ、不承不承やらされる。それでも我を張ってやらなかったり、やっても成績が悪かったら、まるで犯罪者のように非難される。そんなことを小中高の12年間やり続け、大学以降はガミガミ言われることはないものの、もう習性のように勉強するようになってくる。「勉強=善」という方程式が刷り込まれてしまっている。


 この一連の過程で得られるものと失われるものがあります。

 得られるものその1は、社会における「物事のしくみ」であり、それに耐えうるストレス耐性です。世間には問答無用に「やれ!」と強制されることがあり、そこでイチイチ目くじら立ててたら世間を渡っていけないよ、世間は厳しいよってことですね。これは大事です。それが道徳的に麗しいからとかいう価値判断を抜きにして、カラカラにドライな損得勘定でいっても、現実に世の中そうやって廻っているからです。就職したら=他人様からお金を貰おうと思えば=、イヤなことでもやらねばならない。「えー!」ということでもやらねばならない。

 それは「悪しき現実」というよりは、当然の事実でしょう。あなただって逆の立場、例えばお金を払って人を雇ったり、何かを注文したりする場合には同じように思うはずです。例えば引越屋さんに頼んだ場合、引越屋の兄ちゃんが「これ、持ちにくいから運びたくありません」とか言ったりしたら、たまらんでしょう?「おまえ、引越屋なんだから引越作業をしろよ、お前がイヤかどうかなんか関係ねーよ」って言うでしょう。なんだって同じ事です。社会というのは機械のように約束ゴトで廻っているのであり、そこで「イヤだったら約束を破ってもOK」という粋なルールがあったらダメなんですよね。「先生、急患です!」「僕ちゃん、今手術したくない気分なんだよね〜」「それにこの患者の顔キライだしさ〜」とか医者が言ってたら助かる命も助からない。それでいいのか?です。

 社会には個々人の好悪は「圧殺」すべき局面があり、頭ごなしに「やれ」と言われたらやらなきゃならないこともある。「てめーの意見なんか聞いてねえんだよ」と怒鳴られるというのは社会のイロハ。それを身体に叩き込まれるにして学ぶ。これは「躾」などという人格教育以前のレベルの問題で、「大気圏内に住むなら呼吸が出来ないと死んじゃうよ」というレベル。やりたくない勉強や宿題をやらされるのは、そのための練習です。「世間ってそんなもんだよ」ということを知る。これが第一。

 第二に、常識的な基礎知識ですね。30歳になって「日本の首都は鎌倉です」とか言ってたら人格疑われます。「私は」と書くところを「私”わ”」とか書いてたら就職も覚束ない。これは正しくゼネラルな勉強で有意義です。イヤもヘチマもなくこの程度は「知っとけ」レベルです。ただし、その意味でいえば、小学校で十分だと思いますよ。いいとこ中学生まで。もともと明治の頃は小学校(尋常小学校)は3-4年でしかなかった。そこから先は2-4年の高等小学校。1907年に尋常小学校が6年、高等が2年になってます。以後どんどん学歴のインフレ化が進み、高校はほぼ全入状態だわ、大学すら半分以上進学し、さらに大学院生なんか掃いて捨てるほどいます。だけど日本人の学力は逆に低下の一途を辿っているという。何なのそれ?って冗談みたいな事態なわけですが、でも、マジに小中で十分だと思うぞ、学者や高度専門職に就きたいならともかく。

 大体僕を含めてエラそうにしている今の大人だって小学校レベルの学識もマトモに身につけてないでしょう?挑発的な言い方けど、じゃあ、「日本列島では,夏には南東からの風がふき,冬には北西からの風がふきます。このような風のことを何といいますか?」に答えられますか?小学校5年生の社会の問題です。では、「太いストローにどう線(ニクロム線)をまいて、鉄心を入れて電流を流すと、鉄心にクリップがついたり、方位じしんの針の向きが変わったりしました。このように電流が流れたときに鉄心がじ石になるものを何といいますか?」はどうでしょう。これも小学校5年生の理科の問題です。出典はネットでたまたま見つけた栃木県の教育資料です。

 上の解答はそれぞれ季節風と電磁石ですが、世の中出るにあたって、このくらい知ってたら十分じゃないですか?ましてや中学校まで出てたら十分でしょう。中学英語を完璧にこなせたらTOEICでも900点取れるというのに、世の中の大人達は、大真面目に「TOEIC800点を目指そう」とか社内昇進にはTOEIC840点以上とかやってるわけでしょ。いかに皆さん中学のとき勉強してなかったか、中学レベルすらろくに習得できていないかです。そして中学レベルでコケてるくせに学歴だけ学士だの修士だのとインフレ化している不自然さ。

 第三の効用は「その他」と一括りにしますが、クラスという同い年の集団に属し、先生という親以外の大人に日常的に接することで社会性を身につけることです。一種のサロンですね。そこでは社交術を学び、価値観の多様性を学び、初恋など男女の初歩を学び、イジメやシゴキなどを通じて社会のハードな側面を学び、派閥の形成過程とその遊泳術を学ぶ。そしてそれら全てが「僕ってなに?」という自我形成につながっていく。ま、このあたりは教育学とか発達心理学になるのでしょうが、そういう大きな意味はあります。「皆と一緒にいる」ことが教育機会になるということです。不登校の問題は、この機会をまるっぽミスる点にあるのでしょう。

「お勉強」によって失われるもの

 以上は「得られるもの」ですが、「失われるもの」も重大です。一言でいえば主体性が失われる。

 何が問題か。煎じ詰めれば「やることが与えられる」という点でしょう。選ぶにしても「以下のうちから選べ」とこれも選択肢が与えられる。この「与えられる」という構造は、何事に対しても受け身でいることを意味し、そういう環境に一定期間置かれたら人は自分の頭でモノを考えなくなる。考える必要もないし、考えたところで実行できないんだから意味もない。必要も意味もないことを人はやらない。

単なる「手続」としての高校・大学

 特にこの弊害は、高校や大学において強くなると思います。
 上に述べたように、社会において必要なことは小中学校で履修済なんですよね。義務教育が中学までというのは実に正しいと思いますよ。中学くらいまでは、学ぶこともそこそこ新鮮だし、思春期を通じて集団の中で人格形成していける。部活でタテ社会を知り、恋を知り、友情を知る。ガッコに行く意味があるわけです。しかし、高校以上になると段々それも薄れていく。

 僕自身の経験でも高校で何を学んだの?というと心もとないですよ。部活でやってた柔道と、文化祭でガビーンとなったロックバンドと、その他友達に教えて貰った趣味の世界(音楽とかマンガとか)がメインです。勉強の方は、物理とか源氏物語とか常識というよりは教養レベルのことをやったんだけど、まあ、でも自分の進路に関係ない分野は、ほんとに教養レベルですよね。真剣に習得するには専門的すぎるし、難しすぎる。「何のためにやるの?」というのは強く思いました。

 こと勉強に関してありていに言えば、高校というのは大学入試のための予備校的な機能くらいでしかなかった。あるいは「手続き的」なもの。大学に入るためには「高卒資格」が必要だと制度で決まっているから、ダンドリや手続として高校を卒業しましょう、それが意味があるか無いかなんかどうでも良くて、第一には受験資格をゲットすることであり、第二には入試に有利に進むように高度な授業を受けられること、くらいでしょう。

 しかし、その大学に行くのは何故?となると、ここがまた曖昧で、天文少年が「ロケット技術者になるんだ」とキラキラ瞳で思えるような幸福な例外事象は別として、多くの場合は「なんとなく」でしょう。ボヤヤンとした「いい会社」「成功した人生」みたいに到達するプロセスとして大学に行く、それも偏差値ランクの高い大学に行く。だから高校以上になってくると、それはもう「教育」なのか?という疑問が出てくるのですよ。ただの「行政手続」「人生手続」なんじゃないか?って。

 しかし、その無内容さ、空疎さに思春期から青年期に移行する若い魂は悩みますよねえ。僕がラッキーだったのは、毎日地下鉄東西線の門前仲町駅で地下鉄に乗り、茅場町で都営線に乗り換え、、とやってたことです。あの殺人的ラッシュの中、押し合いへし合いしている車内の大人達、サラリーマン達。不機嫌そうに押し黙り、額に不健康な汗を浮かべ、朝っぱらから疲れ切っている人々。まるでホロコーストに輸送されていくユダヤ人のような集団を来る日も来る日も見続けていたことです。「こうなっちゃうんかあ?」と。この「手続」の終着駅はコレだと。

 これは何度も書いてますけど、ほんとにイメージとしては急流をイカダで流されているようなもので、この流れの先にはナイアガラの滝のようなものがあり、そこまでいったら一巻の終り!という。もう真剣に「やべえ!」と思ったもん。養鶏場のプロイラーが処理されるためにベルトコンベアで流されているようなもんだと。絶対この流れから抜け出ないと「死ぬ!」くらいに思った。だから必死に探して、探して、東京地検特捜部という存在を知り、総理大臣の巨大権力にも理屈と正義一本で突っ張れて勝ってしまうというマンガみたいな集団がこの世にあることを知り、「青春の蹉跌」という小説に同感し、「自由のためには力が要る、絶対に必要だ」と、そしてそれは暴力や金力でなくても「知的能力」でも良いことも知り、司法試験を調べ、死ぬほど狭き門であることを知るも、生き残るにはそれしかないと(馬鹿だから直線的に)思いこんだ。

 僕の人生の方法論というかやり方は、ほとんど高校の通学時間に作られたようなものです。だから、高校時代で一番貴重な体験は何かと言えば「通学」かもしれませんね(^^*)。ともあれ、コネも財力もないチンピラが、他人に下げたくもない頭を下げず、理不尽な運の要素が最も少なく、最も公正なプロセスで、最強と言えるだけの力を得る方法は法曹資格だ、司法試験だとなった。で、当時の司法試験には一次と二次試験があり、一次試験は大学の一般教養を履修していれば免除されることも知った。「これだ!」と思った。ここで大学入試の必然性が出てきて、大学入試のための手続としても高校の必然性が出てきた。

 だから大学なんか一次免除さえゲットできれば何処でも良く、入試に使う精力を温存して後の試験に充てようという都合のいい大義名分のもと、受験勉強なんかほとんどやらずに遊び呆けてました。3年になったら喫茶店でTVゲームばっかやってたな。ブロック崩しとか。これまでの趣味の読書力一本で、つまりは国語と日本史(歴史小説)だけで入試はテキトーにクリアって感じです。よく考えたらもっと真面目にやっときゃ良かったかも(^^*)。まあ、ウチの高校は進学校のくせに勉強するのはダサイという妙な下町江戸っ子やせ我慢ダンディズム(ぬるい風呂には入(へえ)れねえ、みたいな)がまだ残ってて、勉強は浪人してからやるものだという無茶苦茶な風潮がありましたね。第一志望は駿台午前部とか。自由だし、制服も無かったし。僕の行く学校というのはそういう所が多いな。好きでしたけどね。

 話を戻して、高校以上になってくると、「お勉強」の意味が変わるというか、小中時代のような濃厚な実質が徐々に薄らぎ、手続的なものになっていくということです。なぜお勉強をするのか?といえば、社会的に成功するための手続だからだ、という。この手続の上手下手で、就職可能性も変わるし、老後の安泰度も変わるし、生涯年収も変わる。だから頑張れ、という。

ハーメルンの笛吹的な催眠

 「お勉強」の問題点は、そこで「そういうもんか」「ふうん」と素直に思ってしまう無批判性にあります。ずっと与えられ続けてきたから、生き方にせよ、選択肢にせよ、他人から与えられるものだと、ついつい思ってしまう。世の中そういうもんだと思ってしまう。でもそれって封建社会ですわ。封建制度の正確は定義は別として、「本人の自由意志と無関係に人生の枠組みがかなりの程度決まってしまう社会」くらいの意味でいえば、まさに封建社会です。百姓の子は百姓、武士の子は武士になる、それしか選択肢が無いという。現代日本に生まれ落ちたら、頑張ってお勉強をして、いい高校いい大学に進み、いい就職をする「しかない」みたいな限定性、そしてその限定性を不思議にも不自然にも理不尽にも思わなくなる、その発想の自由性の萎縮現象です。

 ハーメルンの笛吹によって導かれるネズミのように「そういうもんだ」でゾロゾロと流されていたのが、僕の場合は、たまたま地下鉄通学のサラリーマンのゾンビ顔を見続けることによって、「はっ!」と催眠状態が解けたようなものです。まあ、別にサラリーマンが悪いわけでもないし、実際に自分が弁護士になったらもっと疲れたりしてたわけだし、結局そのとき感じた認識は正しくも何ともなかったわけです。でも、流されまいという意思は出てきた。主体性奪回の契機にはなった。いわゆる「お勉強」はやらなくなったし、どうやって生きていけばいいのか?だけを考え、そのためには何をすべきなのかという発想の基本フォーマットが出来てきた。

 しかし、こんなことは生きるにあたって当然すぎるほど当然なことですよね。自分の足でトコトコ歩いている。時には全力疾走すらしている。しかし、「どこに行くの?」「なんで走ってるの?」と聞かれたら、自分でもよく分からないという。こんな馬鹿な話があるはずない。行き先も理由も分からないまま、歩いたり走ったりしてていいわけないだろと。「システムに従おう」という主体的な決定をして従ってるなら問題ないけど、従ってるという自覚すらないのは問題だろ。そうやって育った日本人が、海外に出て、「What's your dream? = キミの夢はなあに?」「どうなりたいの?何をしたいの?何処に行きたいの?」と矢継ぎ早に聞かれても答えられず、「え?なんで、そんなことが分からないの?」と不思議がられる。

 もっとも、こういう「社会的自我の覚醒」みたいなものは、ガチガチの封建社会下において生じてしまったら不幸でしょうね。今の僕の人格や精神構造のまま北朝鮮で生まれたら、早期に処刑されているか、あるいは人生の目的は亡命だけになるでしょう。戦時下の日本に生まれてもそうだったでしょう。そういうガチガチな社会においては、主体的な「覚醒せる自我」なんてのものは眠らせておいた方が幸せかもしれない。手術の麻酔のように、痛みを感じない方が楽です。しかし、今の日本は、なんだかんだいって自由な社会です。ガチガチではあるけど、そこまでひどくはない。幾らでも自由はあるし、可能性もある。

 この日本社会で催眠状態のままお勉強が良くできて、就職も成功して、出世競争にも打ち勝っていける人は、別に覚醒しなくてもいいでしょう。映画「マトリクス」のようなヴァーチャル世界観だろうが、そこで成功して本人がハッピーだったらそれでも良いです。いみじくも「マトリクス」でも語られているように“Ignorance is bliss.”(無知は幸福である〜英語のコトワザでThomas Gray's の詩が原典)。しかし、そんな成功例はごく一部であり、多くの人々はこの催眠フォーマットのなかで何事かをしくじり、心に傷を負ったり、生きる希望が制限されたりするかもしれない。そして、その苦しみに意味があるのか?と思うのですよ。マトリクスのくせにさ。

 ワケも分からないうちに勝手にレース場に連れてこられ、「頑張って走るんだぞ」と言われ、声援を受け、懸命に走ったけど、ハードルを跳び損ねたらダメ呼ばわりされたり「お前の人生は終った」みたいに言われて、本人もそれを真に受けてガックリする、、、ええんか、それで?と。自分で考えて自分で納得して、挑んで、それでダメだったらそれは仕方がないし、そこには苦い思い以外にも何ほどかの納得も学びもあろう。でも、笛吹催眠でお勉強してそれでダメだったら立つ瀬がない。

 以上は原理的な疑問です。次に時代的な疑問があります。

時代的適合性と不適合性

 このお勉強方法論が通用したのは、過去回に何度も書いたように、高度成長時代の話です。無限に経済が伸び、無限に職場増えるかのように錯覚していた頃。こんな阿呆みたいな錯覚を人はするのか?といえば、する。もう絶対といっていいくらい錯覚する。だってバブルの頃は、不動産に投資すれば絶対儲かる、地価は無限に上がり続ける、NTT放出株を買わない奴は馬鹿だと。なにしろ一般人が株を買うために銀行が融資してたくらいですもん。もう皆さんカンペキに錯覚してた。原発にせよ、津波にせよ、一夜明けたら昨日までの常識が180度変わるなんてことは幾らでもある。それを未来から結果論的に振り返れば「錯覚」になる。だから今この瞬間にも僕らは多くのことを間違え、錯覚しているに違いないです。

 とまれ、経済が拡大する時代では、知的労働者=ホワイトカラーのサラリーマンが大量に欲しいから、大卒をガンガン採用した。ここで何で大卒なの?というと、話は長くなるんだけど、一つはある程度の知的能力が必要であること(専門知識は別にいらないけど)、一つは催眠状態にかかっていて従順に馬車馬のようにやってくれる人格類型が、企業のニーズに適合したわけでしょう。あんまり疑問に持たず、自我も主張せず、言われたまま素直にやってくれて、しかもそこそこ知的事務作業がこなせる人、ということですね。あの頃だって、一人で日本を飛び出して世界を放浪して、アメリカで一旗揚げたとか、芸術の世界で頭角を現したような人は幾らでもいた。でも我が強すぎるので企業には不向き。企業にしても、規格大量生産をやっていれば良かった時代ですから。

 そういう時代には、お勉強さえしてれば、まあまあ何とかなった。そして、まだ戦前の徒弟制度や職人世界、人手のかかる農家は健在だったので、生き方の選択肢がまだ十分にあったのでしょう。当時、都会生活に疲れて「田舎に帰って百姓でもやるか」とか普通に良く言われたもんだし(当時の小説や映画なんかの定番)、町工場やお店を継ぐの継がないのという普通の話もあった。僕が小学生の頃だったか、「庖丁人味平」という料理マンガの先駆けになる作品があって好きだったのですが、そこでは日本一の料理人の息子である主人公が、合格した高校を蹴って料理人になるという決意をしたら、父親は喜ばない。それどころか激怒するシーンがあります。「息子にはきちんと大学を出て、立派な会社に入ってもらいたい、わしの夢だよ」とか言ってるんですよね。今から思えば、日本一のシェフの息子というサラブレッドのような環境だったら、一流のシェフになった方が将来性豊かに思うんだけど、当時の常識は違うんですよね。普通の庶民的な生き方に対して、ワンランク上のオプションとしてサラリーマンがあった。サラリーマンが輝いていた時代ですね。逆に言えば、サラリーマンにならない「普通の生き方」が濃厚にあったということです。

 ところが農機の発展で農業に人手が要らなくなり、町工場は閉鎖され、スーパーやコンビニに押されて個人商店が減ってきてそれまでの「普通の生き方」が薄らいでいき、なんだかよく思い出せなくなっていく。それに反比例して、とにかくサラリーマンになるというパターンはどんどん強くなっていく。今から思えば80年代に既にターニングポイントは来ていたと思うのだけど、でも今までのノリで大学→サラリーマンという潮流が押しも押されもしない本流と化していった。もう選択肢もクソもなく、「しかない」みたいになっていった。親も(教師も)サラリーマンという世代が増えてきたし、大人からして他の選択肢をリアルに実感できない。悲喜劇はこのあたりから始まっていたのだと思います。

 マーケ的に言えば、規格大量生産時代から、多品種少量生産の時代になり、タイアップなどでブームをしかけるメディアミックスや、生産者の顔が見えたり、苦労話がわかるような「物語マーケティング」などあの手この手で売り方を工夫するようになります。作れば売れる時代ではなく、とても細かい作業と創造性が求められるようになった。それでも大卒サラリーマンはよく健闘したと思います。オイルショックになれば省エネ生産方式を極め、公害が社会問題になれば環境に優しい方法を考案するように、なんとかかんとかやってきた。それを支える一億人の肥沃な内需、しかも猫も杓子も金太郎飴で、笛を吹いたら素直に踊る市場があった。ワイドショーで取り上げられたら売れるとかね。

 ところが、時代が変わった。もう繰り返さないけど、国内市場の縮小とグローバリズム、利益極大化のために益々先鋭化するキャピタリズム(資本主義)によって、ホワイトカラー受難の時代になる。求められるのは一握りの超エリートだけという高度成長以前の時代にゆっくり回帰していく。しかし、かつてはあった「普通の生き方」の生活基盤は成長時代にやせ細ってしまい、駅前商店街はシャッター街になっている。

 他方、世界においては、1989年に冷戦が終結して20年以上経過し、春の野に新緑が芽吹いてくるように世界人類は自由化の方向に進んでいるといっていい。喜ばしいことではあります。BRICSをはじめ新興諸国は、どんどん自由に豊かになりつつあります(ちなみにBIRCSの次はトルコが来ているという話があるそうですね)。しかし、それがグローバリズムや大競争を生み、日本を含む先進諸国の長期低落と苦痛を生む。世界大戦でも起きない限り、この流れは今更もう止められはしないでしょう。

 こういった変化の激しい世の中で生き抜いていこうと思ったら、機を見るに敏なることが求められる。融通無碍に、フレキシブルに。あるときは岩にへばりついたコケのように地道に頑張り抜き、あるときはフワリと蝶々のように軽やかに移動する。硬く、柔らかく、どっしりと、しかし迅速に。「風林火山」みたいなものです。世界そのものが平和な戦場みたいになっているのだから、戦場には戦場の原理がある。

 それを可能ならしめるのは、その人間のパースペクティブ(透視図法、立体的な視界)でしょう。「見えている」こと。己がよく見えて、且つ己を取り巻く生存環境がよく見えていること。さらにその視点も超長期、中長期、短期とそれぞれにフォーカスが合わせ、行動原理やプランも3つの視点から立案し、適宜ミックスして判断実行していくこと。そして、それらを貫く中枢原理=セントラル・ドグマ=自分だけの幸福論・究極価値のようなものがドン!と腰を据えて全てを統括すること。

 こういう状況において、笛吹催眠のお勉強方法論で行進していくのは、いかがなものか?自殺行為とまでは言わないけど、戦場において、見えず、聞こえず、動けず、考えずでいたら、そりゃあちょっとマズイんじゃないか。

てんでバラバラと視点フォーカス

 しかし、そこは賢い日本人。僕がごときがあれこれ言うまでもなく、かなりこの種の動きは広まっていると思います。それは折々に触れてそう感じます。この出不精な僕ですら18年前に動いているくらいなんだから、もっと前から動いている人々は沢山いる。田舎不動産を買おうなんて動きは20年以上前からあったし、僕がこちらに来た直後頃から「癒し」という言葉が広まったり、有機栽培が一過性のブームではなく定着してきている。自分の価値観や健康をセントラルドグマとして築こう、見直そうという動きは連綿として続いている。六本木ヒルズのハデな「成功」の陰で、商業的成功を究極目標にはせずに、自分なりこだわりや自己表現としての小さなお店を開いたりする人は沢山いる。成功!という「結果」よりも、その過程にいかに自分らしさが現われているかを考えるとか。

 もっとも真逆な動きも盛んですよね。とにかく楽して金を稼ごうみたいな拝金的風潮や、玉の輿や逆玉狙いという寄生虫的風潮、とにかく安全で安心そうな袋小路に頭を突っこもうというオストリッチ症候群的な風潮、どうしていいのか分からないから膝を抱えてうずくまったり、不安や鬱憤晴らしで誰かを執拗に攻撃したり、時代錯誤のナショナリズムにしがみついてみたり、まあ、いろいろです。

 いずれにせよ、一般的な分かりやすい動きにはなってないですよね。てんでバラバラ。最初は個々人の心の中の不安や思いとして生じ、あれこれの試行錯誤になっているだけ。マスとしては動かないし、動く必要もないから、そういう形では見えないでしょう。でもマスコミは、文字通り「マス」コミだから、マスというフォーマットでしか伝えられない。「〜というのが最近の風潮です」とか「最近若い人を中心に〜という人が増えています」という全体的傾向で伝えようとする特性を持つ。まあ、無理もないです。「今日、隣の山田さんのご主人が会社に辞表を叩きつけてきました。今後のことは家族で相談するそうですが、早くも熱い討論が始まっている模様です」なんてインディビジュアルなことはニュースになりにくい。だからメディアやネット見てても分りにくいでしょう。総括できないし、総括する必要もないんだから。

 「木を見て森を見ず」というけど、これからは三段階フォーカスで、森どころか全体の地形や地層も見る、と同時に木ではなく葉っぱ一枚をじっと見る、そしてズームレンズでその中間の森や木を見る、、という複眼的な見方がいるんじゃなかろか。世界史的な展開も見つつ、個別個人の深層心理や行動を見る、そしてその中間に何らかの関連性があるかどうかを見る。

 こういう見方って、こっちにいた方が見えやすいです。なんせ、200民族ひしめいていて、両隣の家の中で喋ってる言葉が違うんだし、食ってるものも違う。てんでバラバラ。だけど社会としての統一性はある。人間同士のコミュニケーションやコミュニティ意識は今の日本なんかよりも遙かに濃い。でもバラバラ。誰もまとめようという気もないし、その必要もない。ブームも流行もあるんだか無いんだかそれすら分からない。住民票も戸籍もないし、一元管理しない。しかし必要が生じたときは必要な限度でネットワークが走る。災害があれば一日以内に数千人のボランティアが集まる。20年近くもこの環境に生きてくれば、バラバラであることは全然気にならないし、混乱もしない。バラバラでありつつも、それでも大づかみで社会の方向性を掴むことに慣れてくる。

 こっちから日本を見る場合、「最近日本では○○がブーム」系の情報は一切シカトします。長期的どころか中期的にも意味ないから。最初のころは爆発的に流行っていた「たまごっち」を知らずに焦ったもんだけど、しばらくしたら皆も忘れるし、そんなもん知らんでも良いってのがよく分かった。一人一人の心の奥に何が生じているのかを見て、あとは世界の動向を見ればいい。ミクロとマクロだけ押えておけば、あとはその中間にいろいろな仮説補助線を引けばいい。その方が簡単だし、その方が間違えない。なぜなら社会現象というのは、個々の人間の意思や欲望という内発的なエネルギーと、世界の環境とその潮流という外在的なエネルギー、この二つしか動力資源は無いからです。あとは全部力学的な因果の流れでしょ。

仕組まれた日本人論とお勉強症候群

 さて、ここまで書いてきて、自分でも「ははあ、なるほど」と改めて思ったのだけど、お勉強的方法論というのは猫も杓子も的な日本人の特性に絶妙にマッチするのですね。なんでいつまで経ってもこの蜃気楼みたいな幻想から醒めないのかな、なんでいつまで旧態依然とした発想やシステムが滅びないのかな、やたら進度が遅いなと、ちょっと疑問だったのですが、もともとそういう「皆でせーので動く」みたいな発想・行動パターンがあったんだよな、経済的必要性だけではなかったんだよなと。

 だけど、それ自体がニワトリ卵の関係にあるのかもしれないし、本当にそんなに一枚岩的な民族なのか?という疑問も強くある。そう思いこまされているだけじゃないかと。

 これ、実は米豪日本の各日本研究者の論文にあるのですね。外国人の日本研究家が、日本人の特性として「和の精神」や集団主義や協調主義を挙げると、日本の研究者も、そして当時の政府自民党や財界もそれを好んで受け入れたという指摘があるのですよ。別の日本/外国の研究によると、意外と日本人というのは個を主張し、必要があれば協調も乱すし、お上にも楯突く民族だという真逆な研究論文もある。

 例えば、別府晴海氏(スタンフォード大学名誉教授)の指摘によると、1590-1877までの戦国末期から江戸〜明治初頭の百姓一揆の件数は実に全国で5000件を数え、1920-41年の20年間の小作争議の年間平均件数は3274件にもなる。特に昭和恐慌時は年間6000件にもなる(青木虹二氏の労作研究の引用)そうです。「和」どころか年がら年中喧嘩してるという、すごいファイティング・スピリッツあふれる民族だという歴史的統計もあるのですね。でも、そういう面が前面に出過ぎてしまうと、高度成長時の労使協調路線に合わないから、「和」的な日本人論が特に重宝され、喧伝され、結果として僕ら自身もそう思っているという。面白いでしょ?

 まあ、この点は本稿から外れるのでこのくらいで。面白いので、またちょっと考えます。

 以上、お勉強的方法論の原理的なことを書いたんだけど、個別的な症状みたいなものまで筆が進みませんでした。
 例えば、、、、、
 @つい「エスカレーター的なるもの」を探してしまう=パッケージ商品や「〜コース」という言葉に惹かれてしまう
 Aキャリア=職歴ではなく何故か「キャリア=学校」という誤った思いこみが抜けない
 B生きていく基礎技術のうち学校で学べるものはせいぜい30%以下(数字は適当)でしかないことに気づかない
 C自分の人生なのになぜかマス的な発想が抜けきれない
 Dどっかに指示やヒントが転がってないか探す〜どっかに「正解」があると無意識に思っているので、計画→行動がいつのまにか単なる「正解探し」に変質してしまう
 D-2 ネットなどに何らかの「正解らしき」情報があればそれですぐ分かった気になり、批判的検証もしないまま一件落着させ、それ以上自分の目で確かめようともしない。つまりは自分の鑑定眼や判断基準にあまり自信をもっていないし、自分の人生の採点基準は自分の価値観以外にはありえないということがトコトン腑に落ちてない
 E「ほんとにそれでメシが食えるのか」というリアルな見極めを緻密にしようとせず、資格=生計などと短絡的に思いこむ傾向がある
 Fそもそも給料以外の金の稼ぎ方を知らないし、稼いだ体験もない
 Gいい年して未だに理系だの文系だの受験システムをひきずった発想をしてしまう、
 H自分の行為について、どっかで誰かの誉め言葉とか採点とか合否とかそのあたりを期待している、
 Iランキングや”格”などに敏感に反応してしまう、
 J教科書や教室以外の現実の自分の行動から「学び」を抽出する能力が乏しい、つまりは点取り能力はあっても本当の意味での「学習能力」が低い、
 K「勉強すればなんとかなる」と思っている=世の中の事象が全て定量的な変化で生じると思っている

 、、、とか、まあ、いっぱいあります。取りあえず今思いついた分だけ羅列しておきます。気が向いたらまた。




文責:田村



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