1. Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の1枚(2012/05/14)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 567 :マスコット・トラブルと幸福差分論

  〜「自分のかたち」「世界のかたち」
 写真は、つい数日前に撮った近所のArtarmon駅裏の公園。晩秋・初冬のうららかな土曜日の午後。
 インド系とおぼしきお兄ちゃん達がけっこう真剣にクリケットやってて、その周囲では散歩の犬が鎖を解かれて全力で走り回っているという。
 空は秋空。文学的修辞でよく言われる「刷毛で書いたような雲」がぽっかり。「刷毛」というよりも、油絵のペイントナイフですね。シュッシュと。

 いやあ、のどか〜〜〜。寿命のびそう。
 本当に寿命が伸びているのかどうかは分からんけど(天命だろうし)、でもオーストラリアに来て18年、寿命というタイムスパンの伸張はともかく、人生総量に対するゴキゲン時間の比率は増えたとは思います。最初にこっちに来たとき「ああ、今頃日本のみんなは頑張って仕事してんだろうなあ、ごめんなさい」って思ったもんだけど、今でも思う。こっちでも一応仕事してるんだけどさ。「一応」がつくという。


まいど〜!


 なにか特定の物事に悩まされる。
 「あー、もー、またかよ!」という。
 誰であれ、そういうことの一つや二つはあるでしょう。
 特定の時期に集中的に悩まされることもあるし、あるいは何らかの形で一生ずっと悩まされるということもある。

 トラブルの内容は、本当に人それぞれです。

 やってもやっても英語が上手にならないとか、思い出したように故障する自分のパソコンや自家用車とか、起業したビジネスが軌道に乗りかけてはコケそうになる綱渡りの連続だとか、部下や上司など職場の人間関係に恵まれないとか、腰痛や偏頭痛などの持病、あるいは生まれつきの体質、はたまた「この飽きっぽい性格をなんとかしなければ」と一生思いながら死んでいくとか、親や配偶者との関係、さらには背が低いとか容貌が気に食わないとか、、、、

 僕であれ、あなたであれ、なにか一つくらいはあるでしょう。
 「ひとつ」なんて慎ましい話ではなく、リストアップしていけば2ダースくらいあったり、売るほどあったり(誰も買わないだろうけど)。

 いやあ、大変ですよね。
 Aがようやく収まったと思ったら、Bがグズつきだして、なだめるのに悪戦苦闘している間に、Cがぶお〜っと火を噴いて「うぎゃー」となってると、今度は直したばかりのAが再発するという。

 大体において、僕らの生活で出てくるトラブルというのは、「毎度おなじみ」なものが多いです。全く初めての本邦初公開!斬新な新感覚!ってことは少ない。顔なじみのトラブルが、「まいど〜」と入れ替り立ちかわり訪れる。

 「あーもー、またかよ!?」「もうイヤ!」と、手に持っていたペンを投げつけたくなったり、パソコンを打っ叩きたくなったり、、、

 あ、ここで思い出した。
 面白いビデオ→がありますので紹介しましょう。知ってる人も多いとは思いますが。

 いやあ、しかし、こういう気分になるときは誰にでもあるでしょう。僕でもあります。ここまではせんけど。

 ちなみにこの種のビデオは山ほどあります。
 動画の上のタイトルをクリックするとYouTubeの本家に行けますが、そこには似たようなビデオがあなたのお越しをまってます。

 日本と海外の職場環境や労働慣行の違いとか色々言われますし、そうなんだろうけど、しかしなあ、これらを見る限り、エブリディ・ライフで人間のやることって、そんなに違いはないのでしょうねえ。

 そんで、それがどうした?というと、今回の論旨は簡単です。

 そういったトラブルは、あなたの人生を彩る伴侶であり、うんざりと嫌うばっかりが能ではなく、180度反転して、いっそのことペットのように、マスコットのように思ってしまえばいいよってことです。

 なぜかといえば、それは「自分のかたち」であり、「世界のかたち」なのだから。
 そして、もしそういうことが全くなくなった状態=全てのトラブルから解放され、完璧に満たされてしまったとしたら、そこには大いなる「虚無」があるだけなんじゃないか。大袈裟にいえば、殆ど死んでいるのと変らないんじゃないか?と。

 まーた、何をワケのわからん禅問答のようなことを?とお思いでしょうが、まあ、聞いて。

幸福差分論


 人間の意思、意欲、ひいては幸福感というのは、「理想の状態 −(マイナス) 現状」という「差分」によって発生すると思います。

 「こうなったらいいなあ」と思うのは、現状がそうなってないからこそ出てくる感情でしょう。お金が足りなくて、欲しいものも買えない、嫌な仕事もしなくてはいけないからこそ、お金が欲しいと思う。お腹が空いてペコペコだからこそ何か食べたいと思うし、一人で寂しく感じるからこそ誰かにそばに居て欲しいと思う。

 「あそこまで行けば今よりももっと良くなる」という改善可能性こそが「希望」の元であり、意欲の原点です。「あそこ」まで行ったところで「今と大して変らんよ」というのがアリアリと見えてしまったら希望も意欲も失う。「〜したい」という欲求は、「〜ではない」という現状の欠落感によって生じる。

 誰でも知ってる英単語で"want"がありますが、一般に知られているのは動詞形(want to)で「〜したい」「欲する」という意味です。しかし、これが名詞になると「欠乏」という意味になります。"want of water"といえば「水への欲求」ではなく「水不足」です。受験でよく出るよね。でも、これ、同じことなんですよね。欠落しているからこそ意欲が生じる。欠乏=欲望です。深いよね。

 人間の希望や生きる意欲というのは、第一に「理想の状態に対して○○が足りない」という欠落、落差という現状認識を原点とします。しかし、この時点ではまだ点火されていない燃料のようなもので、それだけでは人は動かない。第二に点火行為が必要です。それは、その落差を縮めていくことが可能であるという見込みです。うまくやれば「出来るんじゃないか?」という未来予測。これが点火行為です。それまで無理無理って思ってたことが、「もしかして?」と思うようになり、心が動く。着火する。そして第三に、充実感や幸福感というのは、その落差が埋まっていくという実感でしょう。「おお、本当に前に進んだぞ!縮まったぞ!」という感覚、これこそが幸せの本質であるという。

 「幸福差分論」って僕は勝手に名付けてますが、@差分の認識→A差分短縮の可能性→B差分短縮の実感 という3段階ステップ方式で、人間というのは他愛なく喜んだり悲しんだりしているのだ、と。

 人生や生活上の諸問題というのは、上の@〜Bのどっかの過程が問題がある場合が多いのではないでしょうか。

 例えば、@でいえば、差分の存在に気づかない。これはありがちですね。「こんな具合にのびのび楽しく生きていくことが出来るのか」「こんなにもまぶしく充実している人生というのはアリなのか」ということを知らなかったら、差分の存在にも気づかないから、意欲も希望もわかない。これは見聞を増やせ、視野を広げろ、なんでもやってみろ、旅をしろということで古来散々言われています。Aにおいては、「できっこない」と諦めていることです。本当は出来るんだけど、出来ないと思ってるから意欲が湧かない。自分はダメな人間だというセルフ・エスティームの低さとか、そのあたりが問題になります。Bでありがちなのは、差分が縮まっていることに気づかないという。客観的に幸福になっているのに、自分でそれに気づかないことです。

 ちょっと前にやってた「うつ」なんかも、差分が見当たらない、あるいは差分はあれど可能性を信じられないことで、外界への好奇心を失い、狭い世界に閉じこもり、意欲を失い、ついには意識も拡散し、人格すらも解体していく。

 ときに刑務所の受刑者などの場合は、一見そうなりそうで実はならないのは、「あと○日で出所」という確かな差分短縮が日々あるからでしょう。終身刑でも、作業の進捗やら、今日の晩飯やらなんかの変化がある。禅寺のお坊さんも、めっちゃ単調な生活をしているようで、「悟りに至る」という「巨大な差分」が眼前に横たわっているし、そうでなくても日々の作務や、季節や自然のうつろいに差分を感じ、生き生きと過す事が出来る。要は「差分」の見つけ方なのでしょう。

差分ゼロの虚無

 そして、差分が完全に埋め尽くされ、真っ平らになってしまったらどうなるか?というと、途方もない巨大な幸福感に包まれるかといえば、話は逆で、なにやら茫漠とした虚脱感や虚無感に包まれる。「燃え尽き症候群」とか言われたりするのもこの一派なのでしょうが、やることがなくなっちゃってホヨヨンとしてしまう。差分ゼロというのは意欲・希望ゼロということですから、もう燃やすモノが無くなってしまう。

 幸福とは差分欠落が埋まりつつある現在進行形なのでしょう。ゆえに幸福と欠落とは矛盾しない。それどころか一定の欠落は、幸福の必須アミノ酸のようなものでしょう。欠落なくして幸福なし、です。

 経験的にもそうですよね。なにごとかを達成したとき、そのゴールの瞬間に幸福感のピークがくるのではないです。野球でいえば4対0でリードされていて、5回の裏で2点返して「おおっ!」となったときがまず嬉しい。次に、7回の裏で一気に3点取って逆転したときにピークに達します。最後の9回の表の守備は、これで3アウトとれば勝ちということで、うれしいのはうれしいけど、なんか残務整理というか仕事みたいになっていき、試合終了時は「やれやれ」という「仕事からの解放感」みたいな嬉しさでしかない。

 つまり、幸福感というのは、ゴールに到達し差分がゼロになった瞬間ではなく、ゴールに向かって一気に距離を短縮した瞬間にピークになるという特質を有する。差分を短縮した距離に比例し、差分を燃焼した量に比例する。だから差分がゼロになると燃料もゼロになるからあんまり嬉しくない。そりゃ嬉しいんだろうけど、なんか事後手続のように喜んでるだけみたいな感じ。

 これが差分ゼロ虚無論ですが、本当に360度、全ての視界がシームレスの、段差ゼロの、ツルツル真っ平らになってしまうと、もう生きていく気力がなくなってしまうんじゃないかな。広大な宇宙空間にぽっかり孤独に浮遊しているようなもので、あっちに行こうが、こっちに行こうが何の変化もないってことになったら、これは厳しいです。行動意欲がなくなるし、そもそも考える意欲、ひいては意識や人格そのものが解体してしまうかもしれない。拘禁性ノイローゼとか、人を音も光も何もない漆黒の空間に閉じこめておいたら、あっという間に発狂するとか言いますが、そんな感じ。

 ここで、どーんと飛躍した余談です。人間=生き物=生命活動というのは、基本的に「変化を食って生きてる」みたいなところがあるのでしょう。変化すること=生きることみたいな。なにかの本で読んだのですが、生物、とくに人間などの高等生物の生体組織、生体の分子結合というのは脆いそうです。すぐ影響され、すぐ変化し、遺伝子異常もわりとよく起きる。だから畸形も生じるし、ウィルスの侵襲にも弱い。なんでもっと強くなれないの?分子間結合をガッシリできないの?というと、もしそこを強固にしてしまったら、生物というのは鉱物になってしまうそうです。

 生きるというのは、このグラグラで不安定な状態を言うのであって、不安定ですぐ変るからこそ呼吸や排泄など新陳代謝のメンテナンスもいるし、だからこそ環境にも適応できるし、進化もする。「なるほどね」と思ったものですが、確かに生物というのは変化を食って生きているのであり、もし変化が全くなくなったら、もう死ぬしかない、死んでるのと同じなのかもしれません。以上、余談でした。
 ほんで!話はまだ続くのですが、なにごとか目的を達成してしまって、一見すると差分ゼロ状態になってしまうことがあります。進学、就職、結婚、だいたい思ってたとおりになりました、やれやれ一安心、これで文句を言ってはバチがあたるでしょうという、ある種の頂上登頂感覚になってしまうことがあります。さあ、もう差分はないぞという。本当は幾らでもあるんだけど、とりあえず思いつかないという。まずは満足しなきゃねという。

 そうなると人間、妙なところに差分を求めようとすることがあります。もう無理矢理作ろうとする。「欲には限りがない」ってやつです。これはもう「差分のための差分」だから、あんまり健康なことではないです。功成り名を遂げて資産も地位も得たとしても、今度は名声が欲しいとか、名誉が欲しいとか、でもって部下に命じて文化勲章狙いのあれこれ策略を弄するようになる。このあたりは、あんまり一般に知られていないのかもしれないけど(大企業に勤めている人や近くにいる人だったら知ってるだろうが)、かーなりイジこいというか、あさましいとすら言われていますね。「勲一等でないとダメだ」と側近達にハッパかけたり。

 一方では、「ないものねだり」も始めるようになる。欠落差分が自分に関することならまだ良いのですが、他人に求めるようになると、ただの理不尽なワガママ野郎になるだけです。優しい伴侶に恵まれているのに「なんか物足りなくて」とか言い出すようになる。「やさしく」と「グイグイ引っ張って」というのは、本来性質的に両立しにくかったりするんだけど、妙なところで「差分」を設定しようとするから、話がややこしくなる。結果的に、せっかくの幸福を自分の手で叩き壊すことになる。ありがち。源氏物語なんかまさにソレで、せっかく紫の上という最愛の伴侶がいるにも関わらず、トチ狂った光源氏が女三宮の降嫁を受け、掌中の幸福を自分でグチャグチャに壊してしまう。

 これも結局は差分の見つけ方がヘタクソだということになるのでしょうね。

理想の揺籃期と差分設定

 この差分ゼロ問題は、@の差分設定の問題にも連なってきます。「どこに差分を見いだすか/設定するか」問題です。このグランドデザインを間違えると、人生もまた大きくトチ狂ってくるんでしょうねえ。でもって、その差分の視点が、いわゆるその人の価値観ということにもなるのでしょう。

 しかしながら、本当のことを言えば、差分ゼロなんかありえないです。
 人間のやるべきこと、やれることなんか無限にあり、だから差分も無限にあります。必死になって這い上がって頂上にたどり着いた時点で、そこが新たなステージのドン底であることを知るものです。最初の差分設定が正しかったら、ゴールに達すると自然と新しいスタートに切り替わる筈。昔のファミコンみたいなもので、1面をクリアすると”ちゃらら〜ん♪”とファンファーレが鳴って、しれっと2面が出てくる。

 司法試験をやってるときは、合格さえすれば人生バラ色と思ったものですが、必死に這い上がって辿り着いてみれば、そこは次のステージのスタート地点。プロの法曹界の中では最下層のパシリでしかない。経験ゼロ・能力最弱の無能を絵に描いたようなスライム的な存在でしかない。かくして受験時代にはついぞ感じたことがなかった胃がモミクチャにされるようなストレスとともに修行の日々が始まり、何とか若葉マークが取れたと思ったら、今度は法曹それ自体が広い日本社会の1%にも満たない限られた世界&視界に過ぎないことを思い知らされ、より広い世間を知りたいと思う。でもって、のべ千人以上の人達と出会って話して教えてもらっているうちに、この日本自体が広い地球のごく限られた一部に過ぎないことを知る。もうキリがないし、差分は永遠に続く。もう自動的に次から次へと出てくる。

 もし自動的に次の差分が登場しなかったら、なんかおかしいと思った方がいいです。
 多くの場合は、最初の差分設定それ自体がズレていたりするのでしょうね。例えば、本当にやりたいことをやってない。それが差分だ、それがゴールだと「思いこまされてきただけ」とか。そういう場合は、そもそものスタート地点が間違ってるのでしょう。「自分がどう素晴らしくなれるのか」というのを最初に考えてない。「正しい差分=正しい欠落感」というのは、正しい理想設定によってのみ生じる。

 正しい理想設定は、古今東西、無限に存在する理想に触れないと出てこない。「こんなふうに生きてみたい」「こんな世の中にしたい」「あんな人になりたい」というモデルは、それころ河原の石ころのように無限にあるのだけど、なぜか見てこない、考えてこなかった。

 なぜ考えてこなかったの?といえば、一つにはそれを育む機会もなかったし、それに背を向けたりしてきたからでしょう。ゆりかごを揺らすような物事の原初的な育み時期のことを「揺籃(ようらん)期」と言いますが、十分に揺籃してこなかった。

 例えば、理想的な人物や状況に出くわしたり、理想を熱く語り合えるような環境(友達とか)が乏しかったなど。多くは学生時代などですが、部活などで「すげー先輩」や「バケモンみたいなライバル」に出会わなかったとか、大学時代の下宿で夜通し議論したりとか。「お前は本質的に人間に絶望している。人間に絶望している奴に法を語る資格はない!」「いや、本当の意味で絶望しなければダメだ。クソ甘ったるい理想で事を始めたら、必ず訪れる挫折に打ち砕かれる。拗ねて上目遣いに世間を見て卑屈に生きていくだけになるんだ」「それって今のお前じゃん」「なんだと、もういっぺん言ってみろ!」なあんて、真っ青なトマトのようなクソ青い議論をして、酔っぱらった挙句つかみ合い喧嘩をしたりとか。よくやったけどね。若気のなんたらってやつですね。

 人間は=自分は、どこまで素晴らしくなれるのか、どこまで素晴らしい生活がありうるのか、そのあたりのグチャグチャの羊水まみれの時期をちゃんとやってこなかったんじゃねーの?という。それで人に言われるまま競走馬のように走ってるんじゃ、理想設定がヘッポコだから、ゴールに着いてもファンファーレは鳴らないし、自動的に次のステージも始まらない。だから、無理矢理、歪んだ形で差分をデッチ上げるようになる。

自分のかたち、世界のかたち

 さて、以上は、人生レベルでの差分という、いわばマクロ差分の話でした。
 マクロがあれば、当然ミクロもある。以下、この差分原則と冒頭で述べた「毎度トラブル」との接点を書きます。

 ミクロな日常生活においては、「差分ゼロ」「全てが完璧」なんて状態は、まあ、普通そんなにないです。
 大体いつだって、どっか身体の調子は悪いし、容姿容貌でどっかしら問題はありーのだし、金は常に足りないし、常に一人くらいはイヤな野郎が周囲にいたりするもんです。それでなくてもパソコンは意味なくフリーズするし、さっきのオジサンのように「だー、もー!」とダンダンやってたりするもんです。

 そして、誰でも「まいど!」のトラブルの一つや二つ、10や20は抱えてるもんです。僕でもある。ちょっと目を離すと、虫歯は痛くなるわ(なりました)、クルマのバッテリーは上がるわ(あがりました)、サイトのアクセスは落ちるわ(すぐ落ちます)、昔買い込んできたものの賞味期限が過ぎてしまっているわ(過ぎました)、ついに冷蔵庫が寿命で壊れるわ(買い換えました)、、、、細かく数えていけば、毎週なんかあるよね。シャワールームの蛍光灯のトランスフォーマーが壊れたり。「今週のスペシャル!」みたいなもんで、なんか起きる。

 でもね、そうやって「あーもー」ってやってることが生きるってことなんだろうなって、ちょびっと達観らしきものも芽生えてます。不愉快なんだけど、その適度な不愉快こそが「生き味」みたいなもんだろうって。

 だから僕はこういったことをマスコット・トラブルと呼びたいです。思いつきのネーミングなんだけど、嫌うばっかりではなく、好きになれとは言わないまでも、「やれやれ」と苦笑し、軽く手をあげて「よお、また会ったな」と言えという。

 なぜなら、それらのトラブルは、ある意味では「自分のかたち」でもあるからです。
 自分というのは完璧からはほど遠い、凸凹のある人間です。Aは上手だけどBはドヘタ、Cは器用にこなすけどDは無頓着だという。その自分のダメダメな部分、凸凹の「凹」が、ちょうど金型のように、ハンコのように、現実世界に押印されたときにトラブルが生じる。そそっかしいという自分の凹が、財布を忘れて立ち往生!という現実世界での結果を生じる。雄型と雌型のようなものです。自分が凹だから、現実世界に凸が生じる。歯磨きがいー加減で、定期検診を受けないといういい加減な凹があるから、虫歯→痛い→大出費という現実世界の凸が生じる(今年にはいって1000ドル以上ぶっ飛びました)。だからそのあたりのトラブルは、まさに「自分のかたち」なんだろうなって。

 それと同時にこれらのトラブルは「世界のかたち」でもあるからです。
 現実世界にも凸凹があります。自然に四季があり、万物は流転するんだから、あって当然。生物は老化し、腐蝕し、摩耗し、生成される。雨の日もあれば晴れの日もあるし、美しい風景の時もあれば、天地晦冥の地獄絵図みたいなときもある。同じようなことが続くときもあれば、中々発生しないときもある。この不均質で、ランダムな回転木馬のようなものこそ、この世界のありようであり、世界のかたちです。だから、全然バスが来ない日もあるし、バッテリーが放電したり、コレストロールがたまったり、山火事が起きたり、パソコンがフリーズしたりもするもする。

 だもんで、この種のトラブルはあって当然であり、それは自分自身がこの世界に現実に生きている証明のようなものです。一概に嫌っちゃダメよと。それは生きていく上でのマスコットのようなものでしょう?と。

 ここに幸福そのものような家族がいます。大自然のフトコロに抱かれて幸せに暮らしましたとさ---という生活があったとしても、日々の生活では、やれ水を汲んでこないとならないとか、柵の木が腐ってきたからやりかえるとか、ペンキが剥げてきたとか、冬に備えて薪を沢山とってきて、ベーコンのような乾燥食糧をもっと作らなきゃとか、子供がハシカになったとか、子育てをめぐって夫婦喧嘩したり仲直りしたりとか、トラブルややるべきことなんか、次から次へと自然に出てくる。そして、山ほどある「やること」を一つ一つやっていくことが、生きることなんだろうなって。

 そして、これら小さな欠落群が、小さな差分群をうみ、それらを一つひとつ解消していく作業に、ささやかな、しかし確かな幸福がある。金がない!ってピンチも、収入を得たら「ほっ」とする。イヤな仕事も、週末になれば解放感というご褒美がある。壊れたPCも、修理して、手間暇かけて再インストールすれば、「うほ〜、サクサク動くぞ」という喜びがある。

マクロ差分とミクロ差分

 で、それが何か?といえば、これだって立派な「差分」だと思うのです。

 パソコンの修理なんて、「理想」と呼ぶほど晴れがましいものではないけど、それでも「あるべき状態−現実」とのギャップ差分は存在するし、その差分が埋まることに確かな喜びも感じる。

 その差分は、それが一生レベルのマクロであろうが、数分単位のミクロであろうが、結局同じ事だろう?と思うのです。

 問題は規模の大小ではなく、質でしょう。
 その差分が、「自分のかたち」「世界のかたち」を忠実にきりとっていて、ナチュラルでオーガニックだったら、その差分解消には確実な喜びが伴うもんだと思う。自分が○○であるからこそ●●という差分が生じ、世界の形象が△△であるからこそ▲▲という差分が生じる。凸凹した自分を、凸凹した世界にぶつけてみて、そこで生じたあれこれのギャップや隙間が「差分」になり、それに取り組むことが「生きる」ってことでしょう。

 だからそれは規模が問題なのではない。
 それに巨大なマクロ差分は、無数の小さなミクロ差分によって成立している。

 ここに巨大な差分〜例えば理想社会を作るために自分が総理大臣になって世直しをするんだあ!という大望を抱いてやってる人がいます。しかし千里の道も一歩からで、最初は地味なビラ配りから始まり、シンポジウムや公聴会を主催したりします。そこでは細々とした事務作業があり、例えば仕出し弁当の数が注文よりも少なかったといっては電話をかけて追加を督促したり、ビラ印刷の調子が悪くてプリンターを修理に出したり、予約していた会場が勝手にキャンセルされていたり、ついつい感情が高ぶってキツイことを言うから部下がついてこず、なかなか腹心のスタッフが育たなかったり、日々のミクロでは、「だーもー、またかよ!」でパソコンをダンダン!やってるような出来事で埋め尽くされている。

 そういうダンダン!トラブルはなぜ生じるのかといえば、結局は「そーゆー自分だから」です。一方、じゃあなんで総理大臣になりたいの?といえば、これもそーゆー自分だからです。感情豊かで正義感が強く、不正や欠落が許せないからこそ世直しをしようと思うのであり、緻密な事務作業よりも大雑把で骨太な理想を追う方が性に合っているという性格があり、だからこそ、その人間的魅力と熱意に支持者が集まり、だからこそ感情が先走って細かな事務作業の詰めを誤り、部下が離反する。原因は常に同じ。そーゆー自分だからであり、それは即ち「自分のかたち」なのだ。大きなマクロ差分を埋めることは、瞬間瞬間に小さなミクロをチマチマ埋める作業によってのみ可能になるのだし、それらの基礎構造は本質的に同じなのだ。

 より地味でリアルな設定をいえば、例えば子供の頃から何でも器用に出来たから親が「いい子」といって褒めてくれる。親が喜ぶのが嬉しくて、また褒めてもらうのが嬉しくて、努めてそう振る舞うようになる。しかし、それは主体性の無さや、他人の顔色をうかがうというデメリットにもつながる。やがて、他人に罵倒されようが「私はコレでいく!」という確固たる自分を持ちたいと思うようになる。それは大きなマクロ差分になり人生のテーマになるけど、中々そう出来ない。あらゆる局面でついつい他人の顔色を見てしまう。進学、就職、結婚という大きな局面でも相手の喜ぶ顔を第一に目指してしまうし、日々の職場や結婚生活というミクロでも、意に反することでも相手が喜ぶならと思って引き受けて、いつも後悔している。それは他者の幸せを願うという優しい心情の表れでもあるけど、自分というものをギラギラ真っ白に発光させて生きるということを未だかつて一度もしていないという忸怩たる思いにもつながる。かくしてマクロにおいても、日々のミクロにおいても、同質の問題が生じ、「あーもー、また!」と思う。

 他者への優しさという凸は、自己主張の弱さという凹と表裏一体の関係になる。その凸凹ゆえに、そういうマクロなテーマが出てくるし、そういうミクロな日常になる。そこでは、他者への思いやりはそのまま崩さず、且つより自分というものを打ち出していくという止揚・発展的な差分解消が目指されたりするのだけど、そのタスクは一生モノでもあり、且つ日常的でもある。同じ事なのだ。ミクロ的実質の伴わないマクロなど存在しないのだ。僕の知り合いに、50年にわたる長い長い親との確執をついに乗り越え、解消したというリアル「暗夜行路」のような人もいますが、そのプロセスは、電話で喧嘩しちゃガチャ切り→悶々というミクロの積み重ねでした。

 これは世界のかたちのマクロ/ミクロも同じでしょう。
 一分単位の物事も、百年単位の物事も同じ。幼稚園児が砂場で山をつくり、やがて山の自重と摩擦係数によって山が崩れることも、どっかの山里で土砂崩れが起きるのも原理は同じ。テーブルにものが当ってカップからコーヒーがこぼれることも、どっかの地震によって大津波が起きるのも原理は同じ。「世界のかたち」の本質は変らない。

差分の質〜正しく世界と自分のかたちを反映しているのか?

 だとしたら、規模は問題ではない。
 ゆえに、ここで問われるべきは、質でしょう。
 あなたが日々直面しているトラブルは、ただしく自分のありようをかたどった、ナチュラルでオーガニックなものであるのか。あるいは世界のありようを正しく反映しているのか。ちゃんと正しい差分になっているのか。

 そういう自分であるからこそ、そういう理想を抱き、その差分を縮めようとする。そういう日々を送っているからこそ、その差分は細かなトラブルとして実体化する。そして、そういう凸凹な自分を、同じように凸凹起伏に富んだ世界にぶつけることで、複雑微妙な変化を生じる。それに向き合い、それに取り組むこと、それが生きるってことなのだけど、ちゃんとそうなっているのか?

 ヘンテコな思いこみをさせられてヘンテコな差分を設定してないか。らしくないことをやっていて、「自分のかたち」が出てないのではないか。あるいは、妙に過保護であるとか、妙にネガティブな奴らばっかりが周囲にいるとか、世界のかたちが歪んでないか。ナチュラルでオーガニックではなく、妙な添加物や保存剤だらけの変な環境で変な生き方をしてないかどうか。その質の検証こそが大事だと思います。

 ま、「検証」といっても、そんな大袈裟な話ではなく、直感的にピンとくると思いますよ。「なんかズレてる」って。Tシャツを後ろ前に着ているような、背骨がズレてるような。そこが合ってたら〜これはビシッ!と幻聴音が聞こえるくらい、正しくハマったときは分かる〜、どんなトラブルがあったとしても、そりゃあ腹は立つだろうけど、心のどっかでは納得してると思う。「まあ、そうだよなあ」「しょうがないよね」って。

 さて、そこがOKだとしたら(世界と自分のカタチがちゃんと出ているなら)、「だーもー、またかよ!」というイライラ事例は、それが「またかよ」と思う反復性を持つほどに、それが本質的であることを示唆します。「毎度お馴染み」であるトラブルは、なぜそれが「毎度お馴染み」なのか?です。もしかしたら、それがあなたのかたちをより強く反映し、一生レベルでテーマになりうるマスコット・トラブルだからなのかもしれません。

 「だーもー」と怒るなとは言いませんが、怒った次の瞬間には「ったく、もう、はは」と笑いなはれ。「まーた、お前かよ!」って。それはあなたのかたちであり、世界のかたちであり、あなたの存在証明たるマスコットなのだと。腐れ縁の差分相棒なのだ、と。




文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る