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今週の1枚(2012/04/09)



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Essay 562 :仕事基準説(経済的成立) と 価値観基準説(人生的成立)

  〜「うつ」をめぐる風景(10)
 写真は、balmainのBallast Point Park。
 向う正面対岸がノースで、真正面あたりにRNH(病院)があるセント・レナーズのあたりですね。右手前に見えるのは、BBQ台ですね。

 ずっと前にこの地区の写真をあげたことがあります。Essay193(2005年01月30日)。そのページの最後に掲示した碑文写真に解説されているように、もともと工業エリアだったこの地域を当時の所有会社が再開発するのに対し、多数の住民や地元の自治体による反対運動をしました。15年にもわたる地道な運動が実って、完全に公共の公園にして買い取り、現在ではBallast point Parkになってます。

 久しぶりに訪れてみたら、なんとも綺麗な公園になってました。綺麗というか、正味のところ殺風景とも言えるのだけど、公的な解説サイトによると、全てリサイクル物を利用して作るとか、アボリジニの遺跡に配慮するとか、アート作品や昔の工場の遺品を残しておくとか、結構凝ってます。

 ここがちょっと本題に絡むのですが、反対運動の趣旨は、こういう眺望の良い絶景ポイントは、富裕なイチ私人が独占すべきではなく、市民全員の共有物にすべきであるということでしょう(アボリジニの遺跡の保護という側面もあるが)。快適な公共空間を増やすということは、つまり貧富の格差による生活快感の格差を出来るだけ無くそうということでもあります。「幸福になるための努力」というのは、例えばこういうことでしょう。
 オーストラリア人って仕事は結構いい加減なくせに、生活の快適さについては心血注いで頑張る。住宅街の道路も出来るだけ袋小路や一方通行にして、「裏道」を潰していき、車輌交通量を減らし、住居地の静穏と子供の安全を守ろうとする。マンションの自治会なんかでも、びっくりするほどコマメに&細かいところまでやります。最近は世知辛くなって公共の美術館や博物館も料金を取るようになってますが、昔は貧富の格差で教育や美術鑑賞機会に差があってはならないということで全部無料だったという話を聞いたこともあります。今でも、シドニーのアートギャラリーは常設展示については入場無料の筈です。今調べたら、1時間のレギュラーガイドツアーも無料です。なんと日本語ツアーもあります(詳しくはココ)。



 毎度お馴染みの冒頭の注意書きですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策してます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

 (承前)
 現在から未来における「新しいゲーム」では、「あなたにとっては詰まらないことでも、私にはとても大切なこと」=自分だけの価値観=をどれだけ確立できるかにかかっている、と僕は思います。「俺はコレじゃあ!」というものを見つけた人の勝ち。

 とは言いながらも、これはとっても難しい。

オリジナルな価値体系

 なんだかんだ言って、これまで生きてきた中で、その社会なり民族なりの価値観が身体に染みついています。日本人だったら、やれ義理人情やら、世間体やら、勤勉美やら、謙譲美やら、安定志向やら、「老後を制する者は天下を制する」的なパースペクティブやら、、、、もうガンジガラメに既存の価値観や世界観が叩き込まれています。

 また、そこから離れて別の道を模索するにせよ、そこには「出来合いの価値体系」が豊富にあります。
 典型的には宗教ですが、別にそれに限りません。学校で勉強が出来なかった人のためには不良カルチャーがあり、それは暴走族から暴力団に至るまで人生単位で価値世界が広がっている。あるいは、世間に中々馴染めない人には、サブカルチャーという価値体系があり、それは19世紀ヨーロッパのデカダンスの昔から、現在の日本のオタク世界まで色々な態様で「反主流派」の世界が展開されている。ほかにも、モテるのがエラい、オシャレだったらエラい、強ければエラい、お金持ってたらエラい、レアなアイテムを持っていたらエラいなんてのもあります。ここ十数年ほど、エコと共生の生き方という価値体系もあります。

 このように、お手本とか出来合のものが山ほどあるのですね。そしてまた、賢い消費者はそれらを賢く選択し、、、という「消費・選択カルチャー」もあります。

 しかし、それらに頼らず、全く自分だけのオリジナルな価値体系を樹立するというのは、口で言うほど楽な作業ではありません。

 この難しさは幾つかのレベルがあると思うのですが、例えば、

  @、そんなオリジナルな価値世界なんか思いつかない、
  A、思いついたところで自分でもそれで良いのか確信が持てない、
  B、確信は持てても今度はそれでどうやって生計を成り立たせるのかが分からない、

 という二重三重のハードルがあります。

 @については、結局、自分の「快楽のツボ」を探すことに尽きるでしょう。「これさえやってればゴキゲン」というものを持つこと。それも沢山もつこと。

 ここで、この「たくさん」というのがミソだと思います。
 なぜなら、好きなことが豊富にあればあるほど人生の楽しい時間が増えるという単純に量的な点もさることながら、第二に、世間や他人の動向にお構いなく、自分だけの好きなものが増えれば増えるほど、自分の判断基準に自信が持てるようになるからA(確信)も得やすい。第三に、好きな物事が沢山あれば、それだけ社会との接点も増えるし、人との出会いも増える。また、好きな物事を幾つか組み合わせることで、生計を成り立たせやすくなるからです。

出会いと「つながり」

 この第三の部分=「好き」と社会との接点=について、もうちょっと敷衍しておきます。

 人間関係で「〜つながり」というのがありますが、ビジネス世界でもこれはあります。ある業種での仕事をうまくやっていきたい。しかしその業界だけの付き合いでは限界がある。とりあえず同業者同士付き合っていても、しょせんはライバル同士だし、お互いに客になってくれるわけではない。そこで集客や営業のために、あるいは自分の業務の幅を広げるために、ロータリークラブに入ったり、商工会議所青年部に入ったり、異業種交流会に出てみたり、創価学会に入ってみたり(あれはビジネス的には異業種交流会だし)、ゴルフやってみたり。そして、その共通母体になるものとして「学閥」があったり、慶応大学三田会があったりするわけですよね。

 しかし、そういう通り一遍なものよりも、よりパーソナルな趣味世界で出会った人というのは、その何倍もディープに親しくなれます。しかもカメラとかテニスなどのメジャーな趣味で出会うよりも、ドマイナーな趣味で出会った方が親しくなりやすい。さらに、自分でも相当のめり込んでいる趣味で出会った方が深くなる傾向があります。

 インドのスポーツで「カバディ」というのがあるのですが、「カバディ、カバディ、、」と連呼しながら鬼ごっこをやるような不思議な競技なのですが、実は日本カバディ協会というのもあるし、アジア競技大会の正式種目にもなっていて、そこそこメジャーだったりします。しかし、世間的にはまだまだマイナー。そんな状況で、カバディの面白さに取り憑かれ、のめり込んで、自分でチームを結成したりしてたら、そこで知り合う人達は世間的な利害打算から離れた純粋の友達になるでしょう。

 何を言ってるかというと、出会いレベルでは出来るだけ利害打算から離れていた方が、逆に強力な実利ベネフィットが得られやすい、という不思議な方程式です。

 この最強のカタチが「竹馬の友」「幼なじみ」です。利害打算も何にもなく、純粋にパーソナルな付き合いをしている友達は、いざというときに助けてくれるし、仕事などでも協力してくれる場合が多い。竹馬系の次に強いのが、部活の仲間とか「同じ釜の飯を食った仲間」です。自分のパーソナルな面が全開になってる局面で出会った人というのは、いい友達になりやすいし、それが転じてビジネスにも役に立つ。ひいては生計を立てる場合のヒントにもなるし、サポーターにもなってくれる。

 ちなみに僕が日本でやっていた異業種交流会も、名刺交換会的な生臭さがキライだったので、出来るだけ純粋に「子供の遊び」みたいにやってました。「交流」というのは、くだらない遊びを思いついては皆でキャッキャと遊んでいるだけです。「基地」作って遊んだり、会社を手作りで作って遊んだり。だからパーソナル全開の世界になったし、初期のメンバーは皆「幼なじみ」みたいな感じになってます。利害打算でやらなかった筈なんだけど、結局その「つながり」で弁護士としての仕事も幾つか来ましたし、オーストラリアに来てからも紹介されたりしてます。また、そのころのつながりがもとで結婚したというカップルも無数にあり、そういえば僕も今のカミさんと知り合ったのはその場でした。あんなに豊穣な人間関係の「場」というのは、その後20年生きてても無かったです。

 これは大きな「教訓」があるように思います。とかく近視眼的に利害を追い求めがちなんだけど、そうやって小さくまとまろうとすると収穫は少ないですよね。役に立たせようなんてこれっぽっちも思わない、自然と思わなくなるような、パーソナル全開の世界が、次につながっていくという。

 つまりは「好きなこと」がとっても大事だということです。結局それが人生を開いていく。
 人間好きなことをやってるときが一番魅力的に輝く。だから人とも仲良くなりやすいし、良質な人間関係が出来る。まず遊べ、楽しめ、そして自分を出せ、ですよね。そういう場が沢山あればあるほどマトリクス的に豊かな関係になっていく。これが「好きなものごとが沢山あると、何かとやりやすい」というメカニズムだと思います。

当たり率数%〜食わず嫌いとの戦い

 そして、「好きなこと」「ゴキゲンなこと」に出会うためには、それこそ膨大な経験が必要です。

 「当たり率数%」というのはどの世界でも共通しているのでしょう。
 例えば、僕が狂ったように音楽聴いてたとき(高校のときとか)は、とにかく手当たり次第に聴いてました。ビートルズからヘビメタまで、現代音楽、クラシック、ジャズ、ジャーマンプログレ、、、もう「全部聴く!」みたいな感じ。漫画とか本とかに凝ってるときも、手当たり次第に読みふける。差別しない。門前払いも足切りもしない。それはもう「先入観との戦い」「食わず嫌いとの戦い」といってもいい。見るからに詰まらなそうなんだけど、とにかく一度は試食してみる。予算の関係で全部は無理でも、直感頼りにジャケ買いを重ねる。

 だって、そうしないと出会えないんだもん。なかなか大当たり!ってのが少なく、せいぜい数%しかないのだけど、それはもう税金みたいなもので、しょうがないのだ。美味しい店を探そうと思えば、常に新規開拓をし、10軒に9軒はガッカリだったりするけど、それでメゲてはいけないのだ。「いいもの」を発掘しようとすれば「発掘税」みたいな税金がかかる。その税率はなんと9割以上なんだけど、一生レベルのゴキゲンを手に入れるためには、そのくらい払わないとならない。また、そのくらい払わないと、自分の価値観(センス)というのは磨かれないし、広がっていかない。

 その意味で、ベストテンやベストセラーという「今売れている」みたいな事だけで探してたら、まず無理だと思いますね。そこそこはいいけどドンピシャはこない。自分だけのハマった!というものには出くわさない。100%不可能という気はないけど、確率は低いだろうなあ。というか、「流行ってる」という情報(雑音)が、直感を鈍らせるのかもしれません。実際、僕のフェバリット系は、大ヒットしたものもあるけど、ぜーんぜんヒットしてないものの方が多いです。それに音楽でも読書でもなんでも、その世界をディープに堪能している人ほど、世間的にはマイナーな好みの作品群を持っているものでしょ?まるで秘密の隠れ家のように。逆にエンジョイ度が浅い人ほど、ベストテン的なレベルから抜けでない。

 オリジナルな価値観を作るための基礎となる「好き」を探すための努力は、これはかなりハードです。でも、手数を惜しんではならないのでしょう。これまでの「お勉強→いい人生」的方法論に匹敵するか、それを凌駕するくらいの努力で探す、なんでもかんでも片端から体験してみる、やってみる、味わってみる、行ってみる、試してみる。

 多くの人はこの努力を舐めてるんじゃないかと僕は思う。いやエラそうな物言いで悪いんだけど、僕自身、オーストラリアに来て、「自分が幸せになるためには絶対手を抜かない」というこちらの人々の姿勢に凄く学んだのです。日本人は仕事には「勤勉」なんだけど、自分オリジナルな幸福の創造については驚くほど勤勉ではない。いっそ「怠惰」といってもいい。怠惰であることに気づきもしないくらい怠惰だと。この「好き」探しでも、お勉強方法論と同等以上のエネルギーを注いでやるのですから、「東大に合格する」「甲子園に出る」くらいのエネルギーを注ぎ込んで探すべきでしょう。そんなにチャラチャラ探してたって簡単に見つかるわけ無いもん。

 神のみぞ知るあなたの天職、あなたのライフワークが、例えば「李朝の青磁」だったらどうするか?「古代インカ帝国のロマン」だったらどうするんだ?もしかしたら海底油田の掘削機器の開発に途方もない天分をもっているかもしれないし、ドイツや北欧の焼酎であるシュナップスの醸造伝統の継承をするかもしれないし、19世紀のフランスの画家ジェロームの鑑賞と紹介に一生を捧げるかもしれないのだ。漫然と職場と自宅と近所のコンビニの「三角ベース生活」だけをしてたら、これらに出会えないではないか。

「成り立つ」ことの意味

 ただ、好きなものが見つかったとして、それで生活がどう成り立つのよ?という問題がありますよね。いくら好きでも、それだけでは食えない、家賃も払えないし、老後も不安だと。

 しかし、これは過去回と重複するけど、「成り立つ」といっても経済的に成り立たせるばかりが能ではないのですよ。人生的に成り立つかどうかです。経済的成立と人生的成立は必ずしも一致しません。ともすれば忘れがちになるのだけど。多くの場合は、気持ちのいい、納得のいく人生を過したい、そのためにはやはりある程度の物質的基盤は必要であり、且つその物質的基盤を整備するにはお金があると何かと都合が良い、だから経済的成功を求めるという、手段→目的関係があります。

 手段→目的関係からしたら、人生上の全ての幸福や喜びを犠牲にして経済的に成り立たせようとするのはナンセンスでしょう。確かに、経済的に成り立たせようとするためには、それ相応の努力が求められるし、それをやる過程で充実感や達成感という人生上の喜びを得られますし、また職務においてもしかりです。というか、ある程度イキイキとして仕事に励んでいる人というのは、別に経済的目的の為だけに仕事をしているわけでもないのですよね。「いやあ、やり甲斐ありますよ!」と顔を輝かせて言った次に、「これで給料が良かったら言うことないんですけどね(笑)」と言ったりするものでしょう。

 経済的成立を目指していると人生的成立も出来ちゃったという幸福な関係があれば、最初からそんなに悩みはないです。しかし、そんな高度成長時代は過去の夢だわ、昨今の日本の行きすぎた管理主義や世界的な資本主義の先鋭化傾向によって仕事自体がかなり詰まらなくなっているし(裁量や”遊び”の幅が減っているとか)、そもそも経済的に成り立たせること自体が難しくなってきています。昔に比べて勝者の数がどんどん減ってるし、勝ったところで楽しくないし、そもそもリングに登れないという。

 ある意味、経済にだけ頼っている(経済成立を求めたら自然と人生も成り立ってしまう)方がずっと楽です。そりゃ競争社会で大変かもしれないけど、競争さえすれば、勝ちさえすればいいんだから楽なもんですよ。何をやればいいのか分からないキツさに比べれば、競争のキツさなんか屁みたいなものだと。勝ちゃあいいんだ、勝ちゃあ。仮に負けても「やるだけやった」という感慨は得られる。

 しかし、そんな頭の悪い方法論だけではやっていけないのが現代から近未来社会の難しさでしょう。そうなってくると、経済的成立と人生的成立との両方を常に睨みながら、微妙な匙加減で調整していく必要が出てくる。昔のようにアクセル全開でGO!という感じではない。ときにはシフトダウンし、時にはハンドル捌きでクリアしていかねばならない。何倍もクレバーにならないと。

二つのパターン

 さて、経済と人生の調整ですが、抽象的に言っていても分かりにくいので、もうちょい噛み砕いて書きます。これには大きく二つのパターンがあると思います。

 @、仕事に人生を乗っけるパターン
 これは好きなことを仕事にするパターンです。趣味やライフスタイルが嵩じて、それ自体が自分のビジネスというか、生き方そのものになるように場合。僕がやってるAPLaCもそれに近いのかもしれませんが、好きでやってるので、かなり自分の趣味性は強いです。「納得できないことはやらない」というクソ我儘なスタンスでやってます。

 しかし、それだけに収入は激減します。おそらくあのまま日本で弁護士やってた場合に比較すれば、生涯年収で軽く億単位で損しているでしょう。一億じゃきかんだろうなあ。でも、それでもいいもんね、と思えるところが@パターンの強いところです。

 大体、給料が安いとか、収入が少ないとかブーブー文句いうのも、イヤなことやってるからでしょう?これが好きなこと、極端な話「これが出来たら死んでもいい」くらいに好きなことだったら、無給でも、あるいは金払ってでもやるもんですわ。繰り返しになるけど、なんで金なの?経済なの?といえば、物質的環境を整えるためだし、なんで物質的環境が必要なの?といえば、最終的には主観的な満足感に奉仕するからでしょう?主観的満足さえ得られたら、お金なんか「死なない程度」で良いということになります。

 まあ、老後の問題とかもありますけど、これについては長くなるけど、かいつまんでいえば、現在の状況で完璧な老後対策はありえないこと(公的部門の財政破綻や長寿化、さらに資産運用の難しさ)が一つ。第二に、より本質的にいえば、好きなことだけやって生きてきた人間が、老後まで何とかしようというのは図々しすぎるという意識もあります。野垂れ死んでもしょうがないよねというか、そう思えるだけの悔いのない生き方はするのが先決でしょう。古来何事かを成し遂げたり、好き放題やった人間の末路は哀れだったりします。文豪として富と世界的名声をほしいままにしたトルストイは、晩年になって失意のドン底で逃避行に走り、名も知らない片田舎の駅舎で死にます。他にも、暗殺されたり、行き倒れたり、自殺したり、公的な半自殺でもある出家をしたり、戦場の露と消えたり。そんなもんです。そうなるともう逆に「戦場に散るは武士の本懐、病床で死ぬは男の恥辱」という妙なダンディズムまで出てきます。言ってみれば死に方なんかどーでもよくて(どうせ死ぬことに変りはないんだから)、大事なのは生き方だと。第三に、老後対策のより根本的な対策は、死ぬまで稼げるシステムを構築することだと思います。資産がどうのというのは「稼げない」という前提での話であり、稼げるなら話は全く違う。それもどっかに勤めて給料を貰う形態ではなく、自営というか「生産手段」を持っていること。それは著作権や特許権などのロイヤリティかもしれないし、賃貸しての資産運用でも、特殊技術や経験があるので死ぬまで仕事の依頼がくるとか。

 A、仕事と人生を完全分離するパターン
 「好きなこと」と仕事が一致しない、好きなことやっててもおよそ商業的生産性が無い場合、もうスパッと割り切っちゃう。これは昔からあります。ボクサーにせよ、ミュージシャンにせよ、アーチストにせよ、登山家にせよ、それだけでは食えない。もう全然食えないから、生計を得るために仕事をする。もうフリーターのような仕事でいいという。100%燃えられるモノを持ってたら、仕事なんか夏休みの学生バイト程度の価値しか占めなくなります。昔はそういうちょっと「特殊な人」だけの専売特許だったけど、現在から将来にかけては、普通の人も同じような生き方を強いられるようになっていくでしょう。

 ただし、このパターンのツラいところは旧来型の社会では評価されないってことです。特に日本のように仕事価値=人生(人格)価値というシンクロ率100%みたいなところでは、フリーター的な仕事をしているだけで「二流の人間」扱いされる場合もあるでしょう。それなりにアゲインストはあるのであり、その逆風を乗り切れるかどうかがポイントになります。「特殊な人」の場合は、一般にそれがありますよね。やってることに確信が持てるし、プライドも自負もある。

 ここで「うつ」と微妙に交差するのですが、同じような経済生活を送っていたとしても、好きなことがある人は強い。割り切れるし、人生を別の局面で燃焼させることができるから。しかし、好きなものがないと、このアゲインストに押し流されてしまいがちでしょう。だから精神健康も微妙に悪化するという。

   @A通じて言えるのは、好きなものを持ってる人の勝ちってことです。「勝ち」という表現は適切ではないのかもしれないのですが、人生を組立てやすい、動かしやすいとは言えるでしょう。

 ちなみにBのパターンというのもあって、これが10年前から僕が目指しているパターンなんですけど、@の仕事の充実や、Aの好きなことの分離もせず、パッとしない日々を送りつつ、しかし充実して幸せになるという。10年以上前のエッセイに書いたのですが、やれ必死に勉強して司法試験やりましたとか、全てを捨てて身一つで海外に行きましたとか、そういう分かりやすい「大技」を出さないと人生が成り立たないというのは、まだまだ精神的にコドモなんじゃないかと思えたのですね。やってしまったら、「なんだ、こんなもん」って気分になる。そんなギミックを使わないと成り立たないようでは、この未熟者!喝!って感じ。だから、ふつ〜に、何ら奇をてらうことなく、何となく生きているだけで、それと同じくらいの幸福感を得るべきだ、得られるはずだと。これ、何もかも諦めて、羊のように去勢されてそうなってたんでは意味ないですよ。やろうと思ったら今この瞬間でも獰猛苛烈なことが出来るんだけど、「でも必要ない」って部分がポイントなんです。

 ただこれは超難しいです。まだまだ成功してないです。ライフワークみたいなもんですね。まあ、このくらい難しくないとやり甲斐もないのですが。これは、もう禅問答の世界というか、「技を極めて天地とひとつになる」という剣の奥義みたいな世界なので、むつかしいですわ。ワザというのは大体において極めていくと哲学的になります。「剣禅一如」です。そして、哲学というのは極めていくと「自然」に至るという。だからBは一応あるんだけど、しかし難しすぎてオプションになりにくい。まあ永遠の努力目標みたいなもので、取りあえずは@とAですね。
 

世代ギャップ〜富と権力の偏在と遅延的移行

 以上、くだくだ書いてきたことや発想は、おそらくは僕よりも上の旧世代、日本人口の上半分は理解しにくいと思います。逆に、下にいけばいくほど感覚的に分かるのではあるまいか。

 なぜなら、人は自分の経験世界に激しく拘束されるからです。過去にたまたまメチャクチャ不味い○○を食べたという一回的な経験事実に、その一生を「○○だけは死んでも食べたくない」と拘束される。初めて告白した女の子に手ひどく嘲笑されようものなら、「け、女なんてもなあ、しょせん」というポリシーで一生を過したりする。逆に、なにかをやってるとき偶然が重なった「神の瞬間」に遭遇し、ゾクッと背筋も鳥肌も立ったら、例えば遊びでサッカーをやっていて嘘みたい綺麗なシュートが打ててしまい、ゴールに突き刺さった快感を知ってしまったら、「あれをもう一度」と思い、のめりこむようになる。たった一回的な事実であっても人生を決めてしまうほどの影響力を持つ。人は「過去の経験の奴隷である」という言葉があったのか無かったのか知らないけど、そういう部分は大いにある。

 だとしたら生まれてこの方数十年、連綿として同じような経験世界をしてきたら、その世界観を時代に合わせてアップデートしよう!とかいっても難しい。相当な知的・精神的腕力がいります。自我崩壊に近いくらいの努力がいる。戦後の成長時代を経験し、誰でもそこそこ就職でき、そして成長時代の職場というのは、ダメダメチームが甲子園に行く「ROOKIES」のような世界だから、とりあえず楽しい。友情、努力、勝利という少年ジャンプの三大要素が全部ある。それを数十年過してしまえば、そこでの世界観は、もはや死ぬまで揺るぎないものになって不思議ではないです。

 ということで、経済的成立と人生的成立が心地よくハーモナイズしている時代を肌身で経験してしまえば、「夢はチャンプになる」という確固たる目的もないくせに、ちゃんと正業につかないでフリーターとかやってるような連中は、弁解の余地なくアホンダラということになるでしょう。

 そしてここ20年ほど(プラスあと20年ほど)過渡期が続くでしょうから、そういう見方もあながち間違ってなかったりもするのだ。ここがややこしいところで、確かにストレス耐性が乏しいとか、メンタル的に打たれ弱いとか、生まれたときから全てが整っているのでゼロからの創造力が弱いとか、そういう側面は確かにある。それはもう、夏の陽射しを浴びていたら自然と肌の色が濃くなるような自然現象であるのだけど、事実は事実としてある。しかし、その旧来型の現実の影に隠れて新しい現実も生じつつあり、二本立てドラマを同時上映しているようなものです。有名な「騙し絵」みたいなもので、白を背景に見ると黒い人の顔に見えて、黒を背景にすると白いグラスに見えるようなもの。同じ現実を見ても、どこにベースを置くかで180度違って見えるという。

 今まで僕が書いてきたようなことも、視点を変えれば、いまどきのヘタレな若い衆に格好な言い訳、逃げ道を与えるだけだという見解もあるでしょうし、僕自身それはよく意識してます。やれ、覇気がないとか、草食だとか、恥の文化を持たないとか、”世間教”に敬虔ならざる不心得な者どもとかあれこれ言われますよね。で、それは半分はちゃんと当ってると思う。ろくに働いたこともない癖に「自分探し」なんてチャンチャラおかしいわ、味噌汁で顔洗って出直してこいって部分も確かにあるのだ。

 しかし、反面においては、働いてさえすればOKさ、良い大学を出てれば安泰さ、経済的成立だけを図っていればいいのさという方法論自体が古く、そして致命的に「甘い」ものになってきているのも事実です。そんな甘っちょろい方法論でやっていけるほど甘っちょろい時代ではなくなっているのだ。食うために何からのカタチで働くのは当然としても、良い大学を出ただけでは全然足りず転職や起業を睨んだ戦略、しかもグローバル視点での個人戦略が必要、経済的成立もいつまでも続く保証なんかない、てか「まず絶対続かない」と思った方が正しいくらいであり、それが今の世界経済の先進国における実情でしょう。従来の基準では100点満点の答案を書いても50点しか取れないリスクを負わねばならない。

 だとしたら生きるための本能に従って、また違ったことを考えて当然でしょう。違うことをやるには、これまでの経験呪縛が少ない方が若い世代の方が身軽に出来ます。というよりも、最初から新しい現実しか知らなかったら、それに最も良く適応できるようになる。大体今の時代に「フリーター」とかニートとかいう用語や概念を使うこと自体、既に時代後れだと言えなくもないです。なぜならこれらは「正社員で当たり前」という古いパラダイムをもとに出てくる概念ですから。江戸時代のパラダイムで、市民やビジネスマンを「町人」「商人」とか言ってるようなものでしょう。

 その人の人間的・社会的成熟度をはかるモノサシとして「仕事基準説」みたいなのがあるとしたら、それ自体が既に古くなっている。新しい「価値観基準説」のような立場に立てば、仕事をしないデメリットは、それだけ経済的収入が減るという物質的な意味だけに限定されるべきであり、その人の人となりを判断する基準は、いかにオリジナルな価値観を持っているか、いかにそれに沿って人生を構築しているかでしょう。

 ところで世代的な認識の違いは、いわゆるジェネレーションギャップというやつですね。これは時の経過と共に人々の暮らし向きが変れば必ず生じる現象です。明治時代には「明治生まれは使い物にならない」と嘆かれたそうですし、昭和になれば「昭和生まれは軟弱だ」と罵倒された。戦国末期や織豊時代には「元亀天正の頃から」という言い回しがあったそうです。そんな昔から槍を振るっていたというのが誇りとされた。

 これはもう、Aという世界に長いこといたらAに馴染み、BにいたらBに馴染むだけのことで、それがタイムラグをもって生じているだけのことです。暗いところからいきなり明るいところに出たら眩しく感じ、明るいところから暗いところに行くと全然見えなくなるという単なる人間生理の問題でしょう。珍しくも何ともない。

 しかしありふれた現象であるということは、それが簡単だということを意味しません。ありふれているけど難しいものは難しい。その難しさは、若い世代を指導する筈の上の世代、それも上になるほどに、新しい環境や発想に馴染めないという問題になって現れます。まあ、それだけだったら、シリアス半分&苦笑半分にお説教を聞いていればいいだけだし、自分の年取ったら同じ事するんだし、ひっくるめて人類の儀式みたいなもんだから笑っていればいいです。

 しかし、笑っていられないのは、権力と富の配分です。大体において一国の富と権力は、その社会の中のもっとも古い層に集中するキライがあります。フランス革命前夜の王族・貴族、江戸末期の幕臣みたいなもので、今の日本でも財閥系大企業やら東電のような明治以来の国策基幹産業やら高級官僚やら。そんな中において、富や権力の配分は、旧来の体制(アンシャンレジューム)に忠誠を誓った人間に対し、その論功行賞のように配分されたりします。つまり新しい時代に適応できない、適応しようとしない人の方が、現実的には多くの利益を得る。世間的には恵まれた暮らしが出来る。しかし、新しい時代に先見の明のある人材、社会にとってもっとも必要とされる人材は、富と権力に恵まれない。冷や飯を食わされ、疎まれ、場合によっては安政の大獄のように処刑される。その矛盾と緊張関係が一定限度を超えて、ブツンと鎖が切れると、その国の中で革命が起きる。

 ここが「成り立たせる」という問題について最大に難しいところだと思います。
 旧体制と新体制と勢力が半分半分だとしても、富と権力は時代後れの旧体制の側にシフトしている。したがって過渡期の一定時期においては、時代遅れの方法論をやった方が現実的には得をする逆説的な期間がしばらく続く、ということです。現在の日本では、お勉強してステイタスを築き、経済的成功を図るという旧式方法論と、自分だけの価値観を基準にゼロから再構築しましょうという新型方法論とが拮抗するのですが、なんだかんだ言っても、お勉強して良い学校行ってた方が結局得なんだという時期がしばらく続くだろうと。

 そのあたりの匙加減が難しいんでしょうね〜。

幾つかの修正原理

 以上は非常にティピカルなモデル論を言ってるだけで、現実は幾つもの修正原理があります。

 一つは世代論で輪切りにしていくことの危うさです。そんなに一概に上の世代が古臭くて、下が進取の気風に溢れているというものではない。就職ランキングなんかをみると、話はむしろ真逆で、下ほどカビが生えてるくらい保守的だったりします。

 もう一つは、二つの新旧方法論があるとしてもこれらは完全に相反するものではない、ということです。よーく見比べていくと、それも細部にわたって見ていけば見ていくほど、かなり重なり合ってます。新だの旧だの言ったところで、しょせんは人間のやることですから、人間普遍の感覚や感情法則にそれほど違いがあるわけではない。だから、現実的に、ボイルダウンして、煮詰めていってカタチにしていけば、その差は思ったほど大きくない。二兎を追う者は一兎をも得ずと言いますが、これはある程度までは二兎を狙える。ただどっちの軸足にするかの差だろうと。

 とかなんとか書いてたら、今回も予定枚数にいってしまいました。
 この修正原理の具体的な内容は、次回に書きます。




文責:田村



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