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今週の1枚(2012/04/02)



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Essay 561 :「心」とは〜空気の抜けたラグビーボール

  〜「うつ」をめぐる風景(9)
 写真は、Leichhardt。
 なぜなのでしょうか、こういう何の変哲もない生活感あふれた街角の風景に、妙に心が落ち着くものを感じます。およそ洗練されたとは言いがたく、ゴテゴテと看板を張り出した旧態依然とした商店なのですが、イヤな感じを受けない。黄色と赤というドハデな色遣いも、風景にしっくり収まっていて違和感がない。
 およそ「人工的な冷たい美しさ」の対極にあるような、ちょっとぶきっちょな人間くささ、人の生活や「営み」のナチュラルな暖かみのようなものを感じるからでしょうか。
 今回のエッセイの最後に書いた「何を気持ちいいと感じるか」のヒントがひとつ、ここに転がっているような気がします。



 毎度お馴染みの冒頭の注意書きですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策してます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。


 さて、延々続いているこのシリーズですが、要は「うつ」という個人の精神状態はとってもパーソナルに見えて、じつは客観的な外部環境、特に人間関係や社会構造にかなり影響されているのではないかというのが一点。第二に、世界的に社会と個人の関係が大きく変ろうとしているので、まるで「季節の変わり目に風邪を引く」かのように社会変化によって個人の精神がそれなりに影響をうけることもあるんだろうなということです。平たく言ってしまえば、「なんで”うつ”になったの?」「仕事がないからだよ」みたいな。この社会との関連性が気になるので、「うつ」と題しながらも、普段のエッセイと変らないくらい社会的な話がふんだんに出てくるわけですね。

 第三には「じゃあどうするの?」ですが、これは再三述べているように、社会が今までのように経済的・精神的にアテにならなくなってきた環境変化に応じて、個々人がそれぞれに自立的にやっていくしかないだろうということです。経済的にも、精神的にも。でもって、社会シンクロ率を下げるんだとか、ゲリラになるんだとか書いてきたわけです。

 ここから先、「個としての対処方法」についてもう少し突っこんで書いてみたいと思います。

「こころ」至上主義への異論

 最初に、これは注意書きになるのかも知れないけど、僕は世間の人ほど、人間の「こころ」というものを崇めていないかもしれません。よく「こころが全て」「真ごころが大事」とか言いますし、そのこと自体に異論はないですが、「こころ」こそが森羅万象で最も尊いのだ、という世界観にはあんまり立ってません。「心が傷ついた」とかいう言い方も、実を言うとそんなに好きではないです(あとで書きます)。「あんなもん、どうやったら傷つくんだよ、物体でもないのに」くらいに思ってるキライもあります。その意味で、アンチ”心”至上主義です。

 これは何重にも注釈が必要だと思いますが、まず、心の価値を重視しないなら、じゃあ何を重視するの?お金?権力?ステイタス?どれも違います。それらと比較するなら心が一番価値があるでしょう。その意味では世間一般の言説とそんなに違いはない。じゃあ、他に何があるのさ?というと、そこがちょっと違うところなんです。

 心よりも価値があるのは何か?というと、肉体というか、自然そのものというか、世界そのもののというか。「こころ」などと文学的に表現するからいかにも価値ありげにみえるのですが、僕らが心と呼んでいる現象は、いわゆる「意識」とか「自意識」とか呼ばれるものだと思います。「自分」を構成する様々な部品のうち、自律的にあれこれ考えたり感じたりしている部分です。他に何があるかといえば、過去に何度も書いている「無意識」とか「直感」です。そして物質的には、進化の粋をつくした精妙極まる生体のメカニズムがあります。

 無意識というのは、大脳の記憶領域に浮遊している膨大な過去の記憶群と、記憶どうしのランダムな結びつきとそのパターン、、とでも言えばいいのでしょうか。その膨大さ、パワフルさに比べたら、僕らの自意識などまさに氷山の一角であり、割合でいえば取るに足らない部分しか占めない。その証拠に、全部意識で仕切っているようでいながら、「なんでそれが好きなのか自分でも分からない」「なんであんなことしたのか分からない」ということが多い。特に人生に関わる重大事ほど(誰かを好きになるとか)、理由がよく分からない、説明できない。心の奥の方から、つまりは無意識領域からの導きによって動いている。

 過去のトラウマにせよ、成功体験にせよ、その人だけの個性的な傾向や病というのは、殆どが無意識領域にその源流があるように思います。心の問題が異様に面倒臭くなるのは、ライトで照らしても全然見えない漆黒の闇=巨大な無意識空間に問題があるからでしょう。その意味で心の問題は、おしなべて無意識の問題だといってもいいかもしれない。意識領域で全てが決まるなら、それは殆どパズルやゲームのようなもので、上手下手はあっても、そこに深刻な悩みなんてないのでしょう。さて、僕らが「こころ」と呼んでいるとき、それは自覚できる「意識」のことを言っているのか、コントロール不能、認識不能の「無意識」のことを言っているのか?です。そして、無意識は、大脳の生理作用という生体のメカニズムの一端であり、(HDDの中のデーターのように)半ば客観的に存在しているものです。それは一種の自然界であり、自分の物でありつつも自分の物ではないような不思議な領域です。

 一方、人体のメカニズムの凄さについては言うまでもないでしょう。例えば、複雑極まる免疫機構。数あるシステムのうちの抗体にしても、一つの抗体(リンパ球のB細胞)は一つの病原体しか対応できず、経験した病原体の数だけB細胞を取りそろえているわけですが、その数、おおよそ数百万から数億といいます。「意識」レベルでは、いくら記憶力が良くても数百万は覚えられない。しかし人体はそれを易々とこなし、外敵から身を守り続けている。一秒も休まず。これは人体メカの数百分の一程度の例ですが、信じられないような驚異のメカニズムで僕らの人体は作られています。

 意識の数百倍のスケールを持つだろう無意識、そして数十億年の進化の結晶ともいえる身体、これらに比べてみたら、僕がいま意識している「自意識=こころ」なんて、いかにちっぽけで不完全な存在であるか。

 ただし、ちっぽけだから無価値だと言っているわけではないですよ。誤解無きよう。「至上の存在ではない」と言ってるのです。

心とは空気の抜けたラグビーボールのようなもの

 至上どころか、むしろ「お荷物」に近いとも言えます。
 身体がせっかく痛みやだるさという信号を発しているのに、意識が勝手に根性出したり、ヒロイックな気分に酔ったりして、身体のメンテを台無しにする。無意識の世界から的確なアドバイスが発信されているのにもかかわらず、思いこみや先入観にかられてわざわざ失敗するのは誰?といえば、自意識です。動物達と違って人間は自意識が非常に発達しており、それが人類と動物とを区分けする大きな分水嶺になるのだけど、自意識なんかない方がむしろ動物のように美しく、自然でいられたかもしれず、そんなに手放しで賞賛するほどのものか?という。

 そもそも「価値がある」「大事である」とか、そういうのはぜーんぶ意識世界での話です。無意識も生体メカも、意識世界の価値なんかを超越して存在しています。それは人類が何をどう思おうが、太陽は燃え続け、宇宙のどっかにブラックホールがあるのと同じことです。人間ごときのセコい価値観で推し量れるようなものではない。逆に言えば価値観とか、○○観というもの全て、ひいては僕らが主観的に認識している世界全てが、僕らの自意識の産物です。世界観というのは箱庭的な妄想だと言ってもいい。このあたりになると哲学の認識論やら不可知論に踏み込むのでここで止めますが、ここでは大海原や大平原をセコく区切って、それが世界の全てであると思っている気のいいあんちゃんみたいなのが僕らの「意識」であるということを言っておきたいです。

 さらに続けます。
 僕らの意識は、つまりは「こころ」は、ある意味ではメチャクチャ出来損ないです。意識が支配しているワールドであるから、さぞや理路整然と仕切られているかと思いきや、全然そうではない。それは例えるなら、「空気の抜けたラグビーボール」のようなものです。ヘンな形をしているから蹴っても真っ直ぐ飛ばないし、バウンドの度に方向が変る。しかも空気が抜けているからバウンドすらヘタレ気味。「よし、○○をやろう!」と決意を新たにしても、ちょっとお腹が減ったり、体調がおかしくなったらたちまち意欲は萎えてしまう。何となくやる気が出なかったり、せっかく貴重な学びの機会を得て分かった筈なのにいつの間にか忘れている。あちこちランダムにバウンドしている間に、手段と目的を取り違えたり、つまらない感情によって寄り道したり、どうでもいいようなことにムキになったり、、、とにかく真っ直ぐ飛ばないし、バウンドする度(何かを経験するたび)、考えることが変る変る変る。

 この井の中の蛙の、しかも井戸の中ですら整理整頓できないトホホな存在こそが僕らの自意識であり、「こころ」です。言ってみればしょーもないです。だから「こころ」を金科玉条のように至上命題にすることについては、僕は違和感があります。「それほどのもんかい?」って。

 しかし、無価値であるとか、邪魔であるとは思いません。僕は人間の心が好きです。愛らしいとすら思っている。それは「凄いからエラい」のではなく、「ヘタレだから可愛い」って感じに近いです。人の心はダメダメであり、ダメダメであるからこそ愛らしいのだと。

 ただ、エラくはないぞと。僕らの心なぞ、人体のメカの一端に住まわせてもらっているテナントのようなものであり、大家(人体)が「忙しいからお前は黙ってろ」といえば、たちどころに失神したり、意識不明になったり、睡魔に襲われてシャットダウンするような存在です。そして、「魔界の記憶庫」のような無意識の指示によって、自分でも説明もつかず、統御できない感情や感覚に支配され続けているか弱い存在です。

 最初に言っておきたいのは、人体も無意識も、僕らの裡(うち)なる「大自然」であり、大自然に比べれば、人の自意識や心はそれほどのものではなく、「身の程を知れ」「自然を敬え/適切な畏れを抱け」ということです。意思の力で何事も出来ると思うのは思い上がりも甚だしい。常に「体内自然」と相談し、お伺いをたてろと。人体(からだ)と語り合い、無意識(直感)の声に耳を澄まそうぜ、ということです。

「心が傷ついた」という表現用法

 ところで、先ほど「心が傷ついた」という言い方は、あまり好きではない旨のことを書きましたが、微妙に余談になりつつも、ちょっと書いておきます。その表現そのものに文句はないのですが、その表現が語られる局面において、往々にしてなんとなく甘ったれたニュアンスを感じるからです。濫用、悪用されているというか。

 まず第一に、他人と真剣に会話するときは「傷つく」という比喩的な表現ではなく「もっと正確に言え」って思います。つまり「誰それの○○という言動によって不愉快な気分になった」という形で表現しろと。なぜかといえば、次に続かないからです。確かに非難中傷めいた発言によって不快になったとしても、その批判が正しかったら、その不快は甘受しなくてはならない。政治家がヘンなことをして、国民からボロカスに批判されたとして、「あ〜、そんな言い方して〜、僕ちゃんの心が傷ついちゃった」とか言ってたら変でしょう?つまり、「傷つく」のが正しい場合もある。こちらがアホなことをすれば、それに対する厳しいリアクションは甘受すべきであり、それは犯した罪に対する罰でもある。

 逆に相手の指摘に理由がない場合(甘受すべきではない場合)は、単純に「理不尽な扱い」を受けたわけであり、ここで問題になるのはその「理不尽さ」です。それが承伏できなければ「戦え」です。理不尽かどうかで意見が食い違うときは、とことん議論すればいい。あるいは、ある程度非難されてもしょうがないけど、「そこまで言う(やる)か?」という、罪と罰が著しく均衡を失している場合(ちょっと悪口言っただけでいきなり発砲されたとか)、これは刑事裁判における「量刑不当」であり、その点を主張し、場合によっては論争すればいい。

 いずれにせよ、「こんなに傷ついた」と被害の重大性をことさらにアピールし、相手の反省悔悟を待つ、なんてまどろっこしいことやってないで、ストレートに反撃すればいい。戦うべき時は戦うべし。それが人間関係のまっとーな姿だろ?と思うのだけど違うのか。

 それを「傷ついた」と、「こんなにひどい目に遭わされた」「どうしてくれる」と被害者意識満載で訴えるかのようなニュアンスが「甘ったれてる」という感覚につながるのです。何がどう甘ったれているか?さらに分解すれば、「傷ついた」という結果の重大性によって全ての議論と思考が停止し、それが一種の切り札みたいになっている点です。先生が悪さをした子供に説教しているとき、その子が泣き出したら、「あーあ、泣かしちゃった」ということで、それがどんなに正当な説諭であったとしても「泣かせた」という結果に押し流されるのと似ている。これは「傷ついた」論だけではなく、だれかが死んでしまったら、その死の結果の重大性で全ての議論が止まってしまう風潮にも相通じる。その愚劣さが僕は嫌いです。そしてそれを狙っている(被害者性を押し出すことで自分の過ちを帳消しにしようという魂胆)が透けて見える場合は、その姑息さがキライです。理非曲直は断固として質(ただ)し(事実関係を究明)、糾(ただ)し(悪しき部分を摘示し)、匡(ただ)(良き方向に改める)すべし。以上、国語の試験でした。

 余談の余談ですが、ビジネス的にはこれを逆手に取るテクニックはありますよね。例えば、満座の前で客に謝罪しているときに、客が激高して殴ったりしたら、場の空気は一変してその客を非難する雰囲気になる。だから「一発殴られておけ」「そしたら解決」という。ヤクザに追い込みかけられているときも、一発殴られたら直ちに刑事事件に持って行ける。軽微な怪我でも、それらしい外傷が見えなくても(腹部を強打されたり)、速攻で病院へいき診断書を書いて貰う。どんなに軽くても「全治一週間」にはなりますから(腫れが引いたり、カサブタが取れるまでそのくらいかかるし、外傷は無くても「愁訴」はありうるから)。その診断書をもって刑事告訴です。これは一連のパッケージ手続きのようなもので、民事暴力が盛んな際にはよく使われました。「刑事事件」にしないと警察動かへんしねえ。

 ところで、「相手の反省を待つ」といっても、最初からそんなことが期待できないアホもいるわけですよ。人の身体的欠陥を大声で囃し立て、差別的な言動をことさらにやるような馬鹿どもは、そもそも傷つけるのが目的、虐めるのが楽しいからやっているのであって、いくら「傷ついた」とか訴えたところで実効性がないどころか、面白がってもっとやられる。もちろん「傷ついた」と姑息な被害者戦略に出る人間というのは、そこらへんの力関係には異様に敏感だったりするから、そういう場合には間違っても言わない。言うのは、その種の卑怯なやりかたが通じる相手、つまりは心やさしい善良な市民相手だったりして、そうなると、もうこれはヤクザの因縁にも似てくる。どっちもどっちだと。

 第二に、不愉快な感情を抱いたとしても、それはなぜか?です。何故そんなことを不快に感じるのか?もしかしたら吹っ切った筈の過去の何かがまだわだかまっているのではないか等と、自分で自分のありかたを検証できるからです。それを「傷ついた」で終らせてしまったら、解決の糸口を失う。それに相手の悪気のない一言で傷ついたとしたら、それは自分の世界観の修正のチャンスです。例えば、何かにすごいコンプレックスを抱いている人が、他者からそのことに触れられてぐさっと傷ついたとします。でも相手は全然悪気がないのも分かる。これは、自分がマイナスだと思って引け目に感じていることは、実は世間的にはそんなにマイナスではないのだということを知るチャンス、つまらない劣等感を解消するチャンスでもあります。傷ついてる場合じゃないよ。ラッキーだと思え。

 第三に、誰かの心ない一言で本当に「心が傷ついた」と感じることはあるでしょう。僕にもある。だけど、これは僕独自の意見なのですが、心の中でも一番大事な部分、つまり「魂」とか呼ばれる部分については、これは絶対に外部の力で傷つけることは出来ない、と僕は思う。だから、誰かにイヤなことを言われたとしても、それは単に「不愉快な気分になってるだけ」だと思えばいい。あなたの大事な「魂」はまったくもって無傷です。どうして他人が傷つけることなど出来ようか?How can they possibly〜?構文です。魂が真にダメージを受けるとしたら、それは自分でそれをする場合。いわば自損行為の場合だけであり(悪魔に魂を売り渡すような)、そして魂が毀損される多くの場合は、傷ついたり、壊されたりするのではなく、「腐る」のだと思います。それも内部から。腐蝕する。したがって他人によって自分の魂が傷つけられるのではないかと心配するヒマがあったら、自分が自分の魂を腐らせていないかを点検した方が、ずっと実りは大きいのではなかろーか。

 ということで、他人の言動で心が傷ついたかのように思えるときは、まず単に「不快感を抱いた」だけだと思うべし。次に、その不快の理由が、@他人が間違っている場合、Aこちらに何らかの問題がある場合とに分ける。後者については反省や学びの大事なチャンスなので、ちゃんと受け止める。その不快感は良薬口に苦しの不快感であり、不快ではあるが害ではない。前者の他人がアホの場合ですが、これは(1)戦う、(2)戦うのが不毛(勝てそうもないか、やるだけ馬鹿馬鹿しい)場合には「生きてりゃそーゆーこともあるさ」で流す。この(2)が難しいのですが、言っても分からないアホだったとか、話が通じないとか、ラチが開かないような場合は、人間同士の充実したコミュニケーションが出来ないということであり、だとすればこれは一種の”自然現象”みたいなものです。にわか雨に降られるとか、蚊に刺されるようものです。それは不快だけど、しょうがないよと。ということで、どっかの馬鹿に心ない罵声を浴びせかけられた不快感は、犬のウンコを踏んでしまった不快さと、その本質においては同じです。だって価値的に同じでしょう?

泣き寝入りについて

 ここまで書いてふと思いついたのですが、「泣き寝入り」という言葉はあんまり使わないほうが良いです。このフレーズは刺激性が強く、毒性が強いです。人を無意味な戦闘にかき立てるドラッグみたいな言葉。「理不尽な仕打ちを受けつつも反撃せず我慢する」=「、正義の実現を放棄し、不正がまかり通る」ということで、人をして何らかの激情に点火せしむる作用を持つ。しかしね、そんなことを言えば、蚊に刺されても泣き寝入りだし、雨に降られても、クラゲに刺されても、地震が起きても泣き寝入りするしかないのよね。いわゆる「理不尽な仕打ち」なぞ、この世に掃いて捨てるほどあるのだ。てか、それはそもそも理不尽ではないのだ。自然がそーゆーものであるように、この社会もそーゆーものなのだ。「やり場のない怒り」というのは、机の角に足の小指を強打したときでさえ生じるのだ。

 逆に言えば、こういった「理不尽」が許せないとする心情は、「この世は全て自分の思い通りいくと思っている」という途方もない自己中コドモの心情の裏返しです。だからちょっと気に食わないと泣き叫ぶ。そして弱い者に八つ当たりをする。学校で虐められた鬱憤を、自分の母親に「うるせえ、ババア」と言っては晴らし、その辺の猫を虐めては晴らしているアホと同じである。戦っても状況的に勝てないことは幾らでもある。こちらが二人しかおらず、相手が100人いたらそりゃ負けますって。「強さ」とは状況次第で右にも左にも転ぶような曖昧なものではないと僕は思います。本当の「強さ」とは、嫌なことがあっても、それを他の弱いものに転嫁しないで、自分のところでガッシリ受け止める、その耐性力を言うのでしょう。

 ということで「泣き寝入り」構文で物を考えない方がいいよ、と。本当に「泣き寝入り」なんて文脈でものを考えるべきときは、オノレの存在の全てを賭けて乾坤一擲の大勝負に出るようなときであり、一生にそう何度もあるものではないです。いわば伝家の宝刀であって滅多に抜かなくて良い。普通に納得できずに戦うときは、普通に戦ってればいいのであって、わざわざ泣き寝入りなんて大仰な言葉を使うこともない。また、戦いそれ自体に意味がないとか、戦いが成立しないとか、生産性がない場合、つまりは「いいファイト」ができそうもないときは、肩をシュラッグして「やれやれ」と言っていればいいです。犬のウンコと同じです。それを「泣き寝入り」だと感じるならば、泣き寝入り大いに結構です。もう「趣味は泣き寝入りすることです」くらいになってくださいな。

 そうそう、弁護士をはじめ親身に相談に乗ってくれた人を最大にガッカリさせるメガトン級の言葉もこの泣き寝入りです。どっかのサイトで書いてあったけど、僕もそう思う。難しい状況の中、ありとあらゆることを考え、情報を集め、万策尽して、最高の勝ち点を取ったとしても、「完勝」ってことは普通ありえないです。本来ゼロだったのを50までもっていったというだけで相当なものなんだけど、100じゃない分を「ここが足りない」といい、「結局、泣き寝入りですか?」と言うのは、親身になってやってくれた人に対する、その人のこれまでの努力に対する、この上もない侮辱だと思う。他人にやってもらって当たり前、何でも自分の思い通りにならないと気が済まないアホボン系に多いパターンだけど、自分の最高の味方を失いたかったらこの言葉を使うといいです。その意味からも「泣き寝入り」という言葉は、かなりの殺傷力をもつ劇薬ですので、くれぐれも取り扱いにはご注意を。

 ところで、「心が傷ついた」以外にも、心系の表現、例えば「心が壊れた」「心に穴があいた」「心が折れた」「心が温まる」という体感的・比喩的な表現は多いです。僕は別にそれら全てを目の敵にしているわけでもないし、自分でもよく使います。でも、それらは一種の「文学」なんですよね。だから理性的な会話が求められる局面では不適切だったりもします。「心が折れた」というのも主観的には「ストレス耐性の限界に達した」であり、客観的には「万策尽きた」ということであり、ビジネスや打ち合わせなど理性的な会話が求められる場合には、その状況を緻密に分析し、なぜそれは生じたのか、それは克服すべきことか、対応策はどうするか、そのコストは幾らか、、という形で展開していく必要があるでしょう。だって、そうしないと話が前に進まないのだよね。ということで、これら「こころ」系の表現は、いわば「詩を口ずさんでいる」ようなものなんだろうなって思います。詩が感動的で美しいように、時と場合によっては人に感銘を与えるが、時と場合によっては人をムカつかせもする。クソ忙しい引越の現場で戦場のようになってるところで、「ほ。ここで一句、ご披露しましょう」なんてやったら、「せんでええ!」ってにべもなく言われてしまうでしょう。

主観世界は魔法の世界

 さて、これまで「心なんてこんなもん」と、敢えてぞんざいに扱ったのは、結局のところ僕らの幸福感や価値観も、この「ラグビーボール的な自意識」の転がり方ひとつで変るということを、最初に徹底的に認識しておくべきだと思ったからです。

 客観的に「これが幸福」「これがしあわせのカタチ」なんてものはないです。強いて言えば自然の法則に従っていた方がその感覚に近くはなるでしょうが(食・性・睡眠欲を満たすなど)、それすらも絶対ではないです。食の快楽を犠牲にしてスリムになりたいとか、スポーツで好成績を出すことを優先させる人もいますし、性欲を禁じて宗教的ストイックさに充実感を覚える人もいますから。

 だとしたら、いったいどんな基準で僕らは幸福を感じているのか?というと、これがかなりいい加減です。いっそのこと「デタラメ」と言ってもいいくらい場当たり的だし、周囲の環境に支配&影響されまくりだし、体調や気分によってコロコロ変るし、だから要するにラグビーボールです。それも空気の抜けた。

 これから「個」が自立し、十全たる自我を満足させる(シアワセになる)ためにどうしたらいいかといえば、全てはこのラグビーボールの転がり具合にかかっています。「うつ」とて同じことで、転がり具合がどうも良くないと気分が沈み込むし、不幸感も募る。

 何をもって幸せと感じるか、人の幸福感のありようを、ミもフタもなく言ってしまえば「幸せだと思えば幸せになる」だけのことです。当たり前のことなんだけど、ここに大きなヒントがあるように思います。つまりは主観一つであること。

 そしてもう一つキモに銘じておくべきは、「主観世界は魔法の世界」だということでしょう。これもテッテー的に自覚しておくこと。

 主観というのは、客観法則に従わなくていいから、自分がそう思えばそれでいい。「○○になあれ」と思い、心底そう思いこめたら、客観的に○○になってなくても、それでもOKだという。これは、ものすごい飛び道具であり、その威力はは魔法並みです。「目を瞑(つむ)れば世界が無くなる」と言いますが、主観世界では、全世界を一瞬にして消滅させることもできます。

 「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉あります。ゴミのような鰯の頭も、信仰心によってそれがご神体だと思いこんでしまえば、限りなく尊くてありがたいものに思える、という人の心の不思議さを言い表わした言葉です。主観世界の魔法性をよく掴んでますよね。数々の殉教者も、客観的に見ればひたすらヒドい目に遭わされ、むごたらしく殺されているだけなんだけど、そこに信仰心があり、その行為に意味を見いだせば、それは宗教的法悦にすらなる。もっと身近なところでは、過去においてハシカのように夢中になっていたあんなこと、こんなこと。その時点ではこの上なく価値があるように感じるんだけど、熱が去ってみれば、「なんであんなことに、、」と思う。

 そう、人というのは、意味や価値があると思えたら、どんなことでもやります。同じ物でも、思い方が違えば全く違ったように見えてくる。まるで魔法の杖の一振りでカボチャが馬車になってしまうように。使用済みの古切手で、貨幣単位も違い、およそ客観的な使用価値がゼロであっても、マニアの間では数千万円で取引される。その価値が分からない人にとっては、ただの紙屑に過ぎないものでも、人によっては宝石以上のものに見える。「価値」とはなにか?「思いこみ」です。


 さてこれから、社会(or 世間 or 他人)にそんなに頼れない日々がどんどん広がるわけですが、どの方向に、どうやって生きていくか、そして大事なのはそれでどうやって生計を立てていくかです。つまりは、どうやって自分の人生を成り立たせていくか?です。「成り立つ」かどうか。

 そして、「成り立つ」という判断は、すぐれて主観的なものです。
 「世間様や他人様に比べて」「人並みに」という基準ではなく、自分だけの基準です。メシさえ食えればOKと思うか、こんなもんが食えるか!と雄山ばりに怒り狂うかは、その人の主観。その人の価値観。そして価値観とはすなわち「思いこみの体系」です。

 ここは大事なところだからしつこく言いますが、これまで何度も書いてきたように、社会と個人とがシンクロしていた高度成長あたりまで、僕らがやってきたゲームは、「世間に認められようゲーム」でした。ルールはシンプルで、世間から認められることです。ここでいう「世間」とは、子供の頃は両親であったり、チームに入ればチームメイトや監督であったり、入試や就職であったりします。ときどき「通信簿」が貰えます。例えば結婚式場の席次なんかでも、エラい人ほど前に座るとかそういう席次があったりして、その順番の優劣に人生賭けてる人もいますよね。逆にイエローカードが出される場合もあります。つまりは「後ろ指」ですね。世間様に後ろ指をさされるような生き方だけは、、という。

 要するに皆から「すごいね」と言って貰える回数が多く、拍手の量や時間が1ミリグラムでも多く、そして後ろ指さされたり、世間に対して「恥ずかしい思い」をする時間が1秒で少なかった人の勝ち。その達成度が、あなたの人生の幸福度です。まあ、簡単っちゃ簡単なゲームです。簡単なだけに燃えるんだけど。

 ところが、社会シンクロ率が減ってきた場合、新しいゲームが走り始めます。
 あ、ここで新しい時代とかいっても、そんなに2時限目の算数が終ったから3時限目の社会になりますみたいにガラッとは変りませんよ。同時並行的に進んでいくだけです。そのレシピー割合は、人により、ところにより、様々です。

 で、この新しいゲーム、社会シンクロ率が低く、その分「個」が立っているゲームのルールは何か?といえば、自分がどれだけ満足・納得できたか、「ええ感じやね」と思える瞬間が1秒でも多い人の勝ちというものでしょう。まあ社会や他人との優劣関係は出てこないので「勝ち」というニュアンスは少ないのですが。

 この新ゲームでは、個々人の主観、それも強くてしなやかな主観がモノをいいます。てか主観しかモノを言わない。「あなたにとっては下らないことでも、私にとっては命よりも大事なこと」という。そこまで強烈でなくてもいいかもしれないけど、その主観価値が強ければ強いほど、成り立たせる基軸が見えてくると思います。

 しかし!、これ、難しいですよ〜。
 「思いこみ」って簡単に言うけど、なっかなかそう思いこめるものではないです。それも、第三者の力を借りずに、純粋に自分だけの力で思いこむのは、口で言うほど容易ではない。

 やっぱ他人の意見や、社会のシキタリその他に影響されちゃいますからね。「鰯の頭」云々も、既に世間に存在している宗教に入る場合が多く、その「思いこみ」は自家製ではなく、いわば出来合いのものです。スーパーでお総菜を買ってくるようなものです。そこを自炊しないといけないというのは、想像以上に難しいです。

 難しい反面、自由もあります。他者や世間を説得したり認めて貰う必要はないので、100%自己満足で良いということです。それが他人にも賞賛されることもあるだろうけど、それだって賞賛されることで反射的に自分の幸福感がさらに高まるだけのことで、最終的な集計ゴールはあくまで「自分の満足」です。自己満足で良い、てか自己満足以外に意味はない。「結局自己満足じゃないか」という非難は、幸福・思いこみの足場を、自分以外の世間に求めている分、まだまだ「なりきれて」ないです。

 また問題になるのは、何をどうしたら自分は満足できるのか?です。
 これもまた難問です。意外と分からないものですよ。他人が認めてくれるから何となく自分も釣られて喜んでる、、という場合を除外して、純粋に自分が楽しい、自分だけが楽しい、うれしい、しあわせ〜というのは、どういう場合か?どこをどう押すと自分は「にゃあ」と幸福の声を上げるのか?どこにツボがあるのか?

 したがって、ゲームは「どこに自分の快楽ツボがあるのか、より早く、より多く発見した人の勝ちゲーム」になります。


 えっと、今回はこのあたりで切っておきます。次号に続きます。




文責:田村



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