1. Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の1枚(2012/01/23)



写真をクリックすると大画面になります



Essay 551 :「無理」をする心理 〜その快感と陥穽

 写真はノースのArtarmon駅裏。
 日系のお店が並んでいるので在住日本人には有名ですが、写真中央部分の表示に注目です。

 kiss and ride

と書いてあります。一瞬「なにそれ?」と思うのですが、「ああ、なるほど」とすぐに分かります。駅や学校など、送り迎えをする車の乗降のために短時間停車しても良いエリアのことです。各自治体や小学校付近、駅などで時々みかけます。
 「乗降のための短時間停車可能エリア」という意味ですが、それを「キス&ライド(乗る)」と表現するあたりが「らしいな〜」と。言うまでもなく「キス」というのは降りる場合、「じゃ、行ってくるね」というにチュッとやるわけですね。洋画なんかでも良く出てくるシーンです。"See you Dad.""Hey, you forget kiss""Love you Dad""Love you too"とかやってますよね。アレです。




 年を取ると「お達者ばなし」に花が咲きます。
 「いやあ、最近、朝が早くなっちゃって」「肩凝りががひどくて」「めっきり酒に弱くなっちゃって」「細かい字がねえ」とか、同年輩どうしで、顔をしかめつつも妙に嬉々とした感じでお喋りしたりするわけです。

 僕の場合もやりたいのですが、日常的に接する世代が20代メインということもあり、なかなか機会がありません。同い年のカミさんとも話すのですが、こうも毎日顔をつきあわせていると、「今日は朝から頭が痛くて、、」「そうか、食欲は?」みたいな「刻々と変わる最新データーを共有」という実務レベルの話になっちゃって、どうも「最近めっきり」というアバウトで罪もない世間話になりにくいです。

 しょうがないからエッセイで書くかといっても、こんな老人の繰り言みたいなことを、わざわざネットにアクセスして読みたい人などいないだろうし、気分が暗くもなるでしょう。

 ほんでも、そこから得たこと、何らかの知恵らしきものは書いてもバチが当らないだろう、読みに来てくれた人にもなにほどかの”お土産”くらいは渡せるだろうと思って書きます。

年を取るとドン臭くなる!

 加齢によって運動神経や反射神経、バランス感覚が悪くなるのでしょうか、日常的にはドン臭くなります。”ぶっきちょ”になる。

 英語でいうと”クラムジー”ですね。”clumsy”です。
 辞書をひくと「不器用な」「ぎこちない」という具合に載ってますが、日本語の日常口語により即していえば、「ドン臭い」というのがより近いと思います。例えば、車のキーをポーンと投げられた場合、「サンキュー」とバシッと受け取るはずが、受け損なって「ああっ」とボロリと落とすような感じ。食卓で手を伸ばして皿を取ろうとしたら、肘で醤油の小瓶を押し倒してしまい、テーブルが大変なことになってしまうような感じ。何となく分かると思います。それが「クラムジー」です。英語ではよく使います。

 年を取るとクラムジーになるのですね。
 これは、もう、自分で愕然としますね。「え、なんで?」って思います。野球でイージーなフライをぽろりとエラーしてしまい、自分でも信じられないような感じ。

 これ30代くらいからも始まるのでしょうが、目立つのは40代になってからです。で、どんどん進行する。ヤバイです。
 運動神経が末端レベルで甘くなってくるのでしょうか。キータッチやギターの運指などは日頃からやりつけているからそれほど劣化しませんが、ふとした日常動作で出てくる。掴んだ筈のキーがつかめていないとか、両手が塞がってるときに財布を取り出すような作業が心なしかモタモタしてくる、などなど。

 自分的に許せないレベルに達した頃から、徐々に「対応策」を嵩じるようになります。生活態度を変える、さらには頭の中の事務処理のOSを変化させるわけです。

 どうやるかは以下に述べますが、しかし、これをやって思ったのは、「なぜ若い頃からこうやらなかったかなあ?」ってことです。別に老化対策としてではなく「生きる基本」として大事じゃないかと。最初からこうやっていれば、ワタシの人生はもう少しスムースに流れていたのではないか。

無理をしてしまう心理

 僕はもともとアバウトな性格で、子供の頃からそれで失敗ばっかりしています。早とちり、そそっかしい、おっちょこちょい、、、と、あらゆる「称号」を欲しいままにしてきた私でございます。それでも、まあ、何とかなっていた。今から考えると、何とかなってなかったんですけど、それほど深刻には思わなかった。テキトーに、どうにか、力づくにでも押し込んで帳尻合わせてたりしましたし、アバウトな人間の特性として帳尻を合わせるのだけは上手だったりしましたから。

 また、その大雑把さが爽快でもあったのですね。「えーい、もう面倒くせえや!」「なんでもかんでもブチ込んじゃえ」みたいな大雑把なやり方が、勢いがあって、好ましい感じもしたわけです。男の子にありがちなタイプですな。

 ま、それは今でもそう感じる部分は残ってるのだけど、それだけじゃダメだよな〜と。

 具体例を挙げます。

 山ほど買物をしてきたとき(こちらの買物はつい量が多くなりがち)、5個も7個もある買物の袋を持ち、片手で車のキーを閉め、携帯ペットボトルを持ち、さらに郵便受けから郵便物を取り出し、、、なんてやってると、途中で崩壊したりします。全部の指に一本づつ袋なんぞをひっかけているから、やってるつもりでも引っかかりが浅かったりして、それでも尚かつ脇の下でペットボトルを押さえ込み、口まで使って郵便物やキーを咥え、それでまた無理な体勢で玄関のドアを開けようとします。これが無理目なことやってるから、なかなか鍵穴に入らない。また、咥えている物体が視界を邪魔するからよく見えない。イライラする。とかなんとかやってるうちに、ついにひっかかりの浅い指からビニール袋がつるりと脱落し、下に落ち、「あ、やば」とバランスを崩すもんだから、さらにドドドと、、、。でもって、卵とか割れちゃったりするんですよね。似たようなご経験をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。

 昔はそんな感じで強引にやってたんですけど、段々と、「阿呆か、俺は!」という気分になってきましたた。

 「買物の際の荷物の搬入は、一回で全てを完了させなければならない」
 なんて法律があるわけでもない。

 別に二回に分ければいいんですよね。
 それに、玄関の鍵を開けるときは、一回荷物を下ろして、ゆとりをもって鍵を開ければいいわけです。その方が結局はるかに早く物事が済む。

 だけどそれはしたくない。
 なんだかしらないけど「それをしたら負けだと思ってる」自分がいる。

 なんでそう思うの?なにが負けなのさ?と

 「阿呆やん、それ?」と冷静に思えるようになったのですね、だんだんと。
 失敗率が高まるにつれ、自分のやってる行為の愚劣さが露骨に浮き彫りになっていくのですね。
 そして、なぜかしらそう思いこんでいる自分の頭の固さ、馬鹿さ加減も見えてくる。

 なんで俺はこんなに馬鹿なんだろう?と反省すると、やはりそこには何らかの心理的な理由が潜んでいることに気づきました。
 いくつかの要因があると思います。順次書きます。

「効率性」の仮面をかぶった単なるナマケ心

 二回に分けて荷物を運ぶよりは一回で済ませてしまった方が「効率的」である、玄関のドアの前でイチイチ荷物を下ろして鍵を開けて、また荷物を拾い上げて、、という手間をかけるのは「効率が悪い」という発想があります。

 なるほどそうかもしれません。小さな10個の袋を一袋づつ10往復していたら効率も悪いでしょう。しかし、「効率」というのは、そうやった方がより迅速、確実に事務処理が進むという客観的な構造あっての話です。

 しかしながら、問題の場合は、実はそうではないのですね。
 10個の買物袋を一回で済ませようとした方が時間が掛かる。なにしろ両手の指にそれぞれに荷物を引っかけて、、なんてやってると却って時間が掛かる。「せーの」で全部持ち上げようとしたら、指のひっかかりの甘い袋がズルッとずれたり、それを補正するためにまた持ち直したり、、なんてやってるヒマがあったら、適量をひっつかんでチャッチャと二回に分けた方がずっと早かったりします。

 また、上に書いたように、無理をするから失敗率も高い。
 夢中になって悪戦苦闘しているから車の中に携帯電話などを置き忘れてきたりするのですよ。一段落してコーヒーを飲みながら「あれ?」と気づいて、また舌打ちしながらガレージまで降りていくという。だったらゆとりをもって作業して、最後に「えーと、忘れ物はないかな」と1秒チェックした方が遙かにマシです。

 いつだったか、止せばいいのにそんな無理をしているから、いつの間か持っていたはずの車のキーが見あたらなくなって、必死になって探し回ったことがあります。結果的には車の近くの地面に落ちていたのですが、それを探す無駄な時間は相当なものです。精神健康にもよろしくない。

 だから、「効率がいい」とか言っているけど、客観的には大嘘で、実は効率悪々の場合が多いのだ。

 そして、ここが肝心なんだけど、本人も薄々そのこと(実は効率が悪いこと)に気づいているのだ。しかし、見て見ぬふりをするというか、あんまりそういうことは詰めて考えようとしない。

 結局、効率なんか大した根拠になっていないのでしょう。
 「効率」という大義名分を使って誤魔化しているのだけです。何を誤魔化すのか?といえば、「怠け心」でしょう。物ぐさ根性です。要は、面倒臭いだけなのだ。はい、先日ちょっと話題に出た「面倒臭い」ですが、また出てきましたね。

 二回に分けて二往復するとか、ドアの前で荷物を下ろして、、、という作業が、とにかくかったるい。大した作業量でもないし、時間がそれほどかかるわけでもないのだけど、「あーもー、面倒くせえなあ」って気分になる。出来れば一回で済ませてしまいたいと思う。一回で済ませるための準備なり、不安定な実行プロセス、高い失敗率と失敗後の後始末、、、これらを考えたら、一回で済ませようとする方がよっぽど「面倒臭い」のだけど、なぜかそうは思えない。二往復すること、ドアの前で一旦荷物を置くこと、もうそのことだけが途方もなく面倒臭く感じられ、面倒臭いという感情に支配され、振り回される。
 

メンタルの弱さが痴呆化をまねくこと


 イヤなことは早く済ませてしまいたい、省力化してやってしまいたいという心理があり、それは当然のことだし、別に悪いことではないです。
 しかし、「どうやったら一番早く済むか」「どうすれば本当に効率的なのか」を突き詰めて考えることすらイヤがったり、面倒臭がったりする心理も又あります。

 なぜそうなるのか?
 ひとつには、イヤな物事に対して、逃げ腰・及び腰になっているからでしょう。

 例えばこんな事例。
 ゴキブリの死骸を発見して、「げ!」と思い、ティッシュでくるんで庭先に捨てようとする。でもイヤで溜まらないからティッシュで包んだときの掴みが甘い。だからティッシュを持ち上げるとポロリと落ちたりして「きゃー!」となる。益々イヤになるけど、放置するわけにもいかないから、気を取り直して再度挑戦。しかし、基本、逃げ腰だからやっぱり掴みが甘い、、、また「きゃー!」。

 何のことはない、結局苦痛を引き伸ばしているだけなのだ。自分で自分を拷問にかけているようなものです。
 最初から腹を据えて「やるっきゃない!」「イヤなことなんだから一発で済ませるぞ!」「押忍!」と気合をいれて、むんずと掴めば一番早いのだ。それがイヤなら頭を使う。勿体ないけど出来るだけ触感が伝わらないようにティッシュの量を増やす。ティッシュの他に手袋もはめる。あるいは下方の支えが甘いから上から「掴む」というイヤな作業をしなければならない、ならば、下方から持ち上げるような、ちょっと固めの厚紙などを探してきて、これを下方から滑らせ、上からティッシュを被せればよいのではないか?という発想に至り、よさげな紙を物色すればいい。

 人間は頭が良いのだ。既に数十年前に月面まで辿り着き、1秒に数兆回どころか京単位の計算ができるコンピューターを作れるほどに頭が良い。ゴキちゃん対策ごときどうってことない筈なのだ。でも、頭が回らない。アホになってる。痴呆化です。なぜか?面倒臭いから、イヤだからです。

 ここから先はいつも言ってるのと同じ事だけど、「面倒臭い」「イヤだ」と感じるときは、どっかしから「(イヤなことに正面から向き合いたくないという)メンタルの弱さ」があると疑った方が良いということですね。

 これと同じ構造で、何によらず「楽しよう」と思い始めたら痴呆化のはじまりですよね。「楽をしたい」と思いながらも、楽をするためにはどうした良いかと物事の構造原理を緻密に考え、本当の効率を追い求めるわけでもない。ただただ「しんどいのイヤ」という感情にだけ振り回され、それ以上物事を考えられなくなる。そうなったら、その成功率はハトロン紙のように薄いです。なぜ成功しないか?簡単です。アホだからです。

 典型的なのは、「一日わずか3分のエクササイズで」という謳い文句の「こんなに簡単!「ラクラクなんたら」ってやつです。まず絶対といって良いほどダメでしょう。誤解しないで欲しいのは、商品やプラグラムがダメなのではなく、ユーザーがダメだから、もっといえば「人間」がダメだからです。ちょっと考えてみたら分かるんだけど、その「1日3分」が難しいんですよ。極論すれば1日1秒だって難しい。何が難しいかというと、「それを思い出して→やる気になって→実際にやるまで」の過程が途方もなく難しいんです。

 その難所を潜り抜けて実際に動き始めてしまえば、あとはもう3分だろうが20分だろうが大差ないです。3分も続けてたら、(これも何度も紹介している大脳生理学の”脳の作業性興奮”によって)気分が盛り上げって、むしろ3分で打ち切る方が辛くなる。だから、やるときは滅茶苦茶やるけど、やらないときは完全にゼロになるというのが人間の自然の行動パターンです。そうじゃないすか?

 「毎日何かをやる」「やり続ける」というのは非常に難しい。そしてその難しさは「3分」とかいう量的な問題ではない。「ゼロ→やる」という無から有を生じさせる質的な部分にあるのだ。だから、「3分」がいかに簡単そうに見えてもそれは錯覚であり、その錯覚に気づかない消費者がアホだということであり、なんでそんなにアホになるのか?といえば、とにかく楽をしたい、しんどいのイヤというヘタレ・メンタルが、物事を真剣に考えるのを阻害するからでしょう。つまりは痴呆化。

 ちなみに「1日3分」というのが一番難しいのかもしれません。「1日20分」とか1時間の方がまだ続くような気がする。あるいは時間を決めない。なぜかといえば、一旦やり始めてしまえば面白くなるから、あとは勝手にやります。そして、ある程度のボリュームをやった方が達成感はあるし、また物事の上達進度も速いから「お、○○になった!」というモチベーションも湧きやすい。その意味で最も長続きするのは「朝から晩までそればっかり」という状態かもしれません。もう没頭状態になるからハイになる。周囲がいくら「もうやめたら」「もう寝たら」と忠告しても聞く耳持たずにやり続ける。難しいことは案外続くけど、簡単なことは続かない。むしろ「簡単だから」続かないと言ってもいいかも。

 閑話休題。というわけで、玄関先で卵を割ったり、這いつくばって車のキーを探し回ってたりしている僕は痴呆化の罠にはまっていたわけです。それに気づいた。

無理をする快感と中毒


 「えーい、いっちゃえ〜!」というイケイケ気分はいいもんです。無茶をやることの爽快感ってのは確かにあります。弾みがつくしね。

 子供のころは、元気だけが取柄!みたいな感じでガンガンぶっ飛ばします。それが楽しい。特に男の子なんかそうでしょう。僕も典型的な男の子だったと思うし、調子に乗ってぶっ飛ばしてはガツン!の繰り返し。年がら年中怪我してて、いったい何針縫ったことやら。しまいには傷の手当もお手の物になってきて、小学校高学年くらいになったら、本当は縫うべき傷でも「大したことないから」とかいって、適当に直しちゃいましたね。今でもそこがひきっつってるけど。

 日本で仕事しているときも超忙しかったです。深夜零時を過ぎてから緊急事態で呼び出しがかかったり、マジに元旦から仕事してた年もあります。なんかで読んだけど、アメリカで一番売れっ子弁護士は、数時間の外出のあと事務所に帰ると、クライアントからの電話が170本入ってて、彼は秘書に次々に電話をかけさせ、用件を聴き、一件あたり数秒から十数秒ベースでテキパキと指示回答を与えていたとか。僕のような凡人は到底そこまではいきませんが、帰ってきたら電話が十数本なんてことは普通にあります。今はのんびりしたものですが、それでもちょっと間をおくとヘルプメールが山積してることもあります。

 ともあれ、このように多忙にしていると、それ自体でハイになっていきます。子供の頃のようにイケイケ気分のランナーズハイですね。そういう場合は出来なさそうなことも勢いで出来ちゃったりします。それがまた気持ち良く、嬉しい。高速で回転しているコマのようにキリキリ動き、その全てを裁いている自分が気持ち良い。

 しかし、世の中、イケイケの乗りだけでは、どうにもならない物事もあります。壁その1です。
 
 難しい試験とかになってくるとそうですね。僕の頃の司法試験は「頑張る」という方法論だけではまず絶対に無理でしたから、体力気力の限界まで頑張るのは当然の前提、言わば誰にでも出来る初歩的なことで、さてその上に自分だけのオリジナルをどう積み上げるか、日本中のライバル達は思いつかないけど俺だけが思いついたみたいな部分(そんなに滅多にないけど)、それが問われるわけです。だから時には立ち止まって、沈思黙考。ハチワンダイバーのごとく(って知らんか)、深海の奥深くまで素潜りしなければならない時期もきます。

 壁その2は、だんだん無理をする自分に酔ってきたり、中毒になっていくことです。
 ワーカホリックというのは、しんどいから問題なのではなく、楽しいから問題なのですね。快楽物質が出続けているから止められなくなっていく。そうなると弊害の方が段々大きくなっていきます。

 体調管理が出来なくなるとか、ライフワークバランスが狂うとかは一般に言われていますが、仕事そのもののクオリティも落ちてくるのです。これは恐いな〜と思いましたね。仕事を完遂するために必要な速度だからということでやってるうちはいいんだけど、そのうちスピード狂のようになってきて、高速でぶっ飛ばすことや快感追求そのものが目的にすりかわっていってしまう。そうなると質が落ちてくるのですね。

 実務は試験以上にハードで、結果と質が全ての世界です。当然のことながら「一生懸命頑張りました!」なんて寝言みたいな言い訳は通用しません。ガンバリズムに酔いしれて、ノリノリで徹夜して起案をぶっ書いたとしても、質が落ちてたらボスやクライアントからぶっ飛ばされます(ました)。「上滑りしとる!書き直し!」とかね。

 壁その3は、体調などの物理的な限界です。
 無理の効く若い頃ですら、意識があるうちは絶対に病欠できないという現場の厳しさに打ちのめされました。39度以上の熱を出して直前に点滴打って、法廷に出たこともあります。天井グルグルで、それでも2時間ぶっとーしの証人尋問。死ぬかと思った。でもってあとでボスからこっぴどく叱責されて。「言い訳がきかない」というのはこーゆーことなのね、と裁判所のトイレの便器を抱きしめながら、思いしらされました。根性限界説です。

 それが年を取ってくるとさらに無理が効かなくなります。
 いっくら万全の体調管理をしていたとしても、来るときは来る。一ヶ月のうち数日間はまるで使い物にならないという体調不良になる。女性と違って男性には生理はないけど、バイオリズムというのは男性にだってあるから、ピリオディカル(周期的)な変調というものに敏感にならざるをえないです。もっとも未だに法則性がつかめてないのですね。「おし、いこう!」となったときにいきなり足もとすくわれるから溜まらんです。出発!となったとき、車のバッテリーが上がってエンジンがかからないようなものです。「げげ」って思いますよね、もうしまいには腹立ってきますよね。つまり、根性限界説の次には、慎重限界説がきます。いくら慎重にやって万全を尽しても、ダメなときはダメという原則です。きびしーです。

 ということで、無理をするのは確かに楽しいのですが、それが本質的に「無理」である以上、やはり四方に壁はあり、イケイケで突っ走ってビターン!と壁にぺちゃんこにされます。ありとあらゆるパターンで「無理なことは無理なのね」と思いしらされる。しかし、人間というのは、なかなか懲りないのですね。これだけ散々無理をしてひどい目にあいつつも、それでも「どうかな、これ一遍に運べるかな〜?ちょっと無理かな?えーい、いっちゃえ〜!」で失敗している今日この頃なわけですね。

 逆に言えば、それだけ「無理をする快感」というのは強いのでしょう。そして、それほどまでに強い無理快感を冷却させるほどに、加齢によるドン臭化の進行は深刻だということです。

クレバーになる快感

 なんかこう書くと、「どんどんダメになっていく話」みたいで気分が下降曲線を描いて気が滅入るかもしれません。すみませんね。

 でも、本意はその逆です。
 「必要に迫られてどんどん賢くなっていく」という喜ばしい話なんです。まあ、真実賢くなっているのかどうかは定かではありませんが、そうなる可能性はあるし、そうであろうと思っている、思えるようになったというのは確かです。基本的にイイコトなんですよ。

 だって、状況がアゲインストなれば、自分がクレバーになって対処していく以外に方法はないですから。
 雨が降ったら傘をさせばいいんです。ただ、それだけのことです。

 で、今、学んでいるのは、これまでだったら一回で持てた荷物も積極的に分割執行した方がいいとかいう些細なレベルでの調整です。
 でも、こーゆーことって馬鹿に出来ないのですよ。
 若い頃は、無理してもボスに怒られたり、トイレで吐いてればいいだけですから楽なもんです。しかし年取ってくると被害が甚大になっていくのですね。(前にも書いたけど)ちょっとした無理がギックリ腰を招くなど、もう目も当てられません。もう直ったかな〜とちょっとでも油断すると再発、くせになってしまうから三度、、こうなるともう生活態度そのものを根本的に改めるようになります。無理被害の巨大化に伴って、対策もより抜本的なものになる。

 イケイケとか、勢いとか、気合とか、それらは子供の頃から好きだから今でも好きです。気持ちいいもんね。「うおりゃ!」と成し遂げたときは、一本背負がキレイに決まったときのようなゾクっとする快感が背骨を走る。よく分かるし、今でもある。

 違うのは、その効用、使い所が精密になっていったということです。その限界もわかるようになってくるし、それに頼っちゃイケナイ場合もわかるようになる。「ファイト〜、いっぱぁつ!」もいいけど、のべつまくなしそればっかというのもアホですわね。単に大雑把なだけ、単にガサツで、粗野なだけって場合もあるし。これだけモグラ叩きのようにボコボコやられてたら、いくら僕でも多少は分かるようになります。まだまだ全然だけど、それでも日々、些細な調整や思案を重ねて精密になっていける。

 「イイコトなんですよ〜」とかいっても、それって無理矢理ハッピーエンドに言ってるんじゃないか?と疑り深い貴方に、幾つかの効用を示しましょう。

★効率が本当によくなる

 これは言うまでもないですよね。「無理をすること」自体が時間のムダなんですから。

 冬の夜に寝てて、どうも布団と毛布がしっくりいかない。寝返り打ったりしている過程で、どうも中の毛布のタテヨコが変になっていると感じるときがあります。でもって、引っ張ったり、足で蹴ったりして”調整”をしようとするのですが、どうもしっくりいかない。足先が微妙に足りなくて気持ち悪い。それでもウダウダ調整作業をするけどラチが開かない。大昔の話ですが、一緒に寝ていた女性が、「こういうのはもう起きてやっちゃえばいいのよ、10秒で済むんだから」で、がばっと起きて立ち上がり、全ての上掛けを一回除去して改めてかけ直すという”抜本的な対処”をしたことがあります。本当に10秒かからず完了し、非常に寝心地もよくなり、僕はそのとき「この人、エラいわ」と尊敬したのでした。

 同じようにトイレに行きたいけど寒いから我慢する、、というパターンもありますね。僕も昔はそうでしたけど、今はもう思った瞬間起きていくようにしてます。我慢してても抜本的な解決にならないし、それで眠りが浅くなったら疲労回復もままならないし、将来膀胱炎になったらアホの上塗りです。また、我慢して寝てて「なかなかトイレが見つからない夢」なんぞを見てたらもっとアホです(見るけど)。結論がイッコしかない物事は、もうやるっきゃないんだから、一秒でも早くやる。それだけ。

 この種のことは、本当に日常の家事であれ、事務であれ、至るところが修行の場です。例えば皿洗いの方法。景気よく水を出して皿に跳ね返って周囲がビシャビシャになったり、スポンジにたっぷり洗剤をつけるのはいいけど、目についた順に、いきなり油まみれの皿から洗うもんだから一発でスポンジに油が移り、あとはそれで洗っても油をこすりつけるようなものになったり。また洗ってる最中にも水を出しっぱなしにしてるからスポンジの洗剤成分が溶解して拡散し、洗浄力が落ちる。だから、最初に温水で全ての食器の表面を除去し、しかるのちに水を止め、最も油分の少ない食器から多い食器という順番に洗う。それをするために二つ以上のスポンジを用意し、古いボロボロのスポンジは洗剤も付けず、もっぱら付着した残存物をこそぎ落とす作業に使い、新しいスポンジの方に洗剤を付け油分の分解をはかる。これらを手際よくやるためには、シンクに洗い物を置くにしても置き方というものがあり、さらに遡ってテーブルから食器を運ぶ際においても論理的な順番というのが導き出される、、、などなど。これ、考えてくと結構面白いんですよね。主婦・主夫の方だったら当然のようにこなしておられるのでしょうが、いい練習になります。

 こういうことの積み重ねの結果としてどうなるかというと、達人の「空気投げ」みたいになるのでしょうね。最小限の動きで最大限の効果を発揮するという。身体をわずかに左に開いたと思ったら、もう相手が勝手に転がっているという。効率性の極致です。

 まあ、それは「おはなし」にしてもですね、水泳の上手い人とか憧れちゃいます。僕はドヘタなのでばしゃばしゃやってるけど全然進まない、殆ど犬かきのような感じ。でも上手な人は、本当にゆっくりしたストロークで、舞のように美しいんだけど、滅茶苦茶速い!そういえば、小学生の頃、止せばいいのにバタフライの練習をしようとして(やり方も知らんのに)、散々バタバタやってるんだけど1メートルも進まないという。しまいには溺れていると勘違いされて、監視員のお兄ちゃんに”救助”されてしまったことがあります。これは実話です。今でも情けなくてよく覚えています。

★メンタル力の鍛錬

 夜中のトイレと同じように、ムダな試みをムダと見抜き、面倒臭い気持ちを殺すには、相応の精神の強靱さが必要です。大体、無茶をする場合というのは、前にみたように、どっかしらに「逃げ」があったりするので、そこで逃げない!というのは、いい鍛錬になります。ま、言うは易しなんだけど。これが鍛錬その1。

 ただし、無理目なんけど一気に行かねばならない場合もあります。「断じて行えば鬼神もこれを避く」という言葉が示すように、気合パワーが、念力みたいになって、本当に現実をねじ曲げてしまう場合もあります。だから、「無理でしょ、そんなもん」としれっとしてるばかりが能ではないし、飛躍ができない。氷のようにクールでいながら、「勝機!」と思ったら1秒でアドレナリンをぶわっと全開にさせ、一瞬にして「炎の男」に変身する(^_^)。その見極め、その瞬発力。

 こう表現するとマンガチックですけど、でも、株屋さんとかそうでしょう。相場の電光掲示板をじっと見つめながら、「おし、買い!」と毎秒毎秒決断を迫られる。盛り上がっていてはダメなんだけど、盛り上がらなくてもダメ。セリの仲買人、麻雀のリーチ、、、なんでもそうですが、氷と炎を同居させ瞬時に切り替えるメンタル力。

 なんせ年取るとエネルギーの無駄遣いは許されませんからね〜。ピンポイントを見抜く洞察力が大事。ここ一番で燃焼させ、一気に勝負を決める。これが鍛錬その2。

 その3は、多分ダメだろうし、また念力パワーも期待できないんだけど、それでもやるべき場合もあることです。「遊び心」ですね。無茶やること、それ自体が楽しいってことも多々あり、効率性とか勝負性だけで物事決めるべきではないです。そればっかやってても楽しくないし。

 これら@ABの使い分けというのは、けっこう難しいですよね。相互に思いっきり矛盾しているし。
 でも、それだけに面白いです。難しいことは大体面白いですから。

★優しくなれる

 徒然草という古典エッセイに「友達にしたくない奴」の類型として「やたら健康な奴」というのが出てきます。健康すぎる人は、病弱な人の辛さが分らない。本人は「元気がよい」「活発」とか思ってるのだけど、他人からみたら単に粗野でデリカシーがないだけに映るという。

 自分がだんだんヘロヘロになってくると、そのあたり自然に他人に優しくなれるような気がします。別の言い方をすると、元気な奴は視野が狭いんでしょうね。モノトーンでやっていっちゃうし、それでやっていけちゃうから視界も狭いし、技のバリエーションも少ない。

 他にも多々あるのでしょうが、このくらいにしておきます。
 で、思うんですよね。なんでこれをもっと前からやっておかなかったかなあ、って。今頃わかったって、、、という。ま、そんなもんなんでしょうけどね〜。



文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る