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今週の1枚(2011/12/19)



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Essay 546 :「弱さ」の罪(その2)〜依存症(情報・幸運・お金)

 写真は、Ashifield。
 Ashfieldというと上海系チャイニーズが多いので有名なサバーブです。表通りはゴチャゴチャしていかにも上海(それも一昔前の)って感じですが、シドニーのサバーブの常で一歩入ると閑静な住宅街が広がってます。

 最近どういう偶然か、Ashfiledにシェア先を決めた人が立て続けに4名もおり、このストリートには二人も行ってます。家の立地というのはサバーブもさることながら、ストリート単位で考えるべきところ、このストリートは良いストリートだなと思いました。ストリートごとに表情が違いますよ。それも結構違う。僕が今住んでいるところもストリートが良かったというのが大きいです。そういえば毎年ストリート・パーティーというご近所づきあいもあります。




 前回から続きます。

 人格の核心を「弱さ」に侵されてしまうと、連鎖反応的にありとあらゆる弊害が生じるという話です。その増殖性や波及力の凄まじさから、「精神のガン」みたいなものだと。

 自分を弱者だと(無意識的に)思いこんでいる人は、そうでない人よりも世間が恐く見えるでしょう。サファリパークの猛獣エリアを何かの間違いでバスから降りてしまい一人で歩いているようなもので、不安感でいっぱいになります。弱い自分は攻撃されたらひとたまりもない、一刻も早く"武装”するなり”安全地帯”に逃げ込んで安心したい。それだけを考えるようになりがちです。精神的にアップアップする切迫性、そして何かにすがりたいという依存性が出てくる。これら精神の弱さがさらなる二次災害、三次災害を招く。

 精神的に切迫しているから、じっくり攻略する余裕が無くなる。この特徴は「道に迷う」「マニュアルを読まない」という症状に出てきます。じっくり取り組まずに「勝手な決めつけ」をしがちだからです。この程度だったら可愛いものですが、それが人生レベルに拡大すると、促成栽培的なお手軽なモノばかり求めるから、結局何をやってもモノにならない。スキルが積み上がっていかないから人生が中々組立てられない、という笑ってられない弊害になっていきます。

 また何かを成就するプロセスにおいて当然生じる運の凹凸をじっくり長い目で受け入れることが出来ない。せっかく正道を歩いていてもちょっと不運が続いただけでもうやる気を無くしたり、たまたまのラッキーにしがみついてドツボにハマる。ビギナーズラックでバクチにハマって身上潰すようなものです。

 さらに、じっくり構える心の余裕がないと、発想の飛距離が短く、視野が狭くなりがちです。極めて限られた部分しか思いつかないから選択肢が異様に乏しくなる。だからすぐに八方塞がりになる。また全体構造をすぐに忘れてしまい、何のために何をやっているのか分からなくなり、手段がすぐに目的化する。どうでもいい事にこだわってチャンスを逸したり、それでまた絶望してイヤになったりする。

 前回はここまでですね。まだまだ沢山あります。沢山あるので駆け足で。

情報依存症


 「情報」というやつもクセモノです。
 やたら何でもネットで「情報」を調べようとする習性は、時として弱さの表れでもあると思います。

 「情報を探してなにが悪いの?」というと、落とし穴もあるからです。ここは話せば300頁くらい書けそうな「情報論」になるのですが、結論的にいえば「情報に頼ろうとする依存性」によって成功率が低くなるからです。情報は大事ですが、それに依存するようになったらヤバイぞと。何によらず「依存」している人/場合の成功率はかなり低い。なぜって、@この世に依存できるほど確かなモノなどマレ、A依存=つっかえ棒というのは、それがコケたら全面崩壊するというモロい構造をしている、そしてBこのつっかえ棒はかなり頻繁に外される、C「何かに頼る」という心理が、弱い人をますます弱くする、からです。

 この世に依存できるような情報なんか滅多にないと思います。
 世の中の物事というのは情報化出来ないものもあります。というか、そっちの方がずっと多い。そして、より現実的で、より切実に必要とされることほど情報化しにくい。逆にどーでもいい一般常識的なことは情報化しやすいし、使い勝手も良い。

 例えば、フランス革命は○○年に起きたとか、○○の原子記号はとか、○○県の人口は、新幹線の時刻表などの誰もが知りうるような一般的な情報は、調べやすいし、また使えます。夏休みの自由研究レポートなんぞには非常に使える。通り一遍なことほど情報化しやすいし利用価値もある。

 ところが、「真実はどうなのか?」とギリギリ詰めていくと途端にアフヤヤになっていきます。一般的にそうだと確信されている歴史的な事実でも、最新の研究によれば「実はそうではなかった」ということは幾らでもある。これは科学知識でもなんでもそうです。また専門領域から世間一般の常識などになるほど、「一般にそう思われていること」というのはかなり真実に反している。その昔、興味にまかせてあれこれ調べたり、その業界の人々に話を聞いて廻ったことがありますが、どんな分野の何を調べても、「一般にはそう思われているけど、実は違う」というパターンばっかりで唖然としたことがあります。極論すれば、僕らの常識なんか嘘のカタマリだし、僕らの世界観もかなり虚構だったりします。だから、「そう思われている」レベルでまとめ上げる宿題レポートレベルだったら情報もそれなりに役に立つけど、そこから一歩先に進もうとすると、いきなり水深が深くなって、ズブズブと底なし沼にはまりこむ。

 例えば天気予報を調べるのは簡単ですが、では「100%本当に予報通りになるのか」と言われたら、そこまで信じているわけではない。だから依存していないし、依存出来ない。新幹線の時刻表を調べるのは簡単だけど、じゃあリアルタイムに100%正確にそのとおり動いているのか?といわれたら、今のこの瞬間にも雪が降ったり架線事故が起きてダイヤが乱れている可能性はある。ホットなところでは「今の日本の放射能は正味のところどれだけヤバいのか?」というのも、調べれば幾らでも情報は出てくるのだけど、百家争鳴で結局よく分からない。調べても調べても新たな専門用語や新たな意見が登場して底なし沼になっていく。

 一般的知識ですらそうなのですから、これがパーソナルな情報になるとさらに曖昧です。例えば「今の職場で自分は浮いているか?」というのは、気になる人は気になるでしょうが、こんなもん世界中の文献情報を調べ尽しても答は出てきません。それこそCIAのように給湯室から個人の寝室まで盗聴器を仕掛け、全てのメールを検閲していかないと分からない。いやそれでも「浮いてる」などという微妙に感覚的なものが、どれだけ分かるか疑問です。あるいは、密かに想いを寄せているあの人が自分のことをどう思っているか?なんてことは、およそ世界で最も切実に知りたい「情報」だろうけど、でも分からない。

 一般論とパーソナルの中間的な領域、例えばどこそこのホテルがいいかどうか、レストランが美味いかなんてことも、激しく主観や時と場合に左右されるから、幾ら他人のレビューを読んでも究極的には分からない。「いい」という情報を信じて行ったけど全然だった、、という経験も多いし、通算成績でいえば勝率5割いくかどうかでしょ?僕の経験では3割切ります。五分五分程度の情報に、情報という意味があるのか?

 なぜそうなるのか?これは簡単。一つは人間の意識が把握しているのは、現実に生じた出来事のごく一部でしかないこと。第二に、その僅かばかりに意識した領域ですら、その全てを情報という形にしているわけではないことです。あなたがなぜ今の恋人を選んだのか100%正確に説明できるか?というと、そんなことは誰にも出来ない。おそらくは「何とも形容できない、しかし自分にとっては意味のある偶発感情」の積み重ねの結果でしょうが、その個々の感情を完璧に表現できたら文学者になれる。ましてやその心情を赤裸々に日記やブログに書いて「情報」という形で残すかというと、多くの人は残さないでしょう。書く人もいるだろうけど、書くという段階で微妙に「脚色」が入ったりします。

 以上、現実世界の実相を知れば知るほど、情報というのはそれほど大きな役割を果さないことが分かってきます。一般的な「下調べ」程度には役に立つけど、いよいよ切実にリアルな世界に入っていくほどアテにならなくなっていく。実際にこの世界で何事かを構築したり、達成しようとしている人は、そのことがよく分かっていると思う。もちろん情報は活用するけど、その限界もよくわきまえている。だから「ほどほど」に使うし、ここが大事なのだけど情報に「依存」しない。

 ところが、弱さゆえに切迫性と依存性を抱えている人は、情報にも依存しようとする。恐いから、不安だから。早く知って安心したいから。で、依存してはいけないものに依存しようとするから、現場においては致命的な齟齬が生じ、ムチャクチャになる。

 思うに、この世の中の殆どのこと、特に僕ら個々人が生涯に遭遇する90%以上の局面は「現場でなんとかする」「出たとこ勝負」という、荒っぽくもいい加減な方法論でやっていくしかないです。予め入念に調べ上げて情報武装して、、という方法論が通用するのは、実際問題ほとんどない。例えば競馬でも株でも、「入念に調べて」という作業をするのだけど、それで上手くいくなら苦労はいらない。「入念に準備」という意味では法廷活動が最も近いとは思うけど、それでも予想もしてない証拠が飛び出してきたり、裁判官の気まぐれによって、どっか〜ん!てことがよくある。

 でも、心の核心が弱い人は、この「現場で臨機応変に何とかする」ということに苦手意識を持っている。「自分にそんなことが出来るのか」「もしダメだったらどうするのか」と不安になっていく。だから最初に情報でガチガチに鉄板で固めておきたいと思う。「依存」というのは弱者特有の心理状態です。最初から依存できないと思えば、人は「しっかりしなくちゃ」と覚悟して強くなるけど、依存しちゃうと自分の足で立とうと思わなくなる。だからいよいよ不測の事態に対応できなくなる。

 僕が日頃お世話している海外ワーホリなんてのも、あれは一種の人生の縮図だと思いますが、その殆どが「現場処理」です。事前にバッパー宿を予約してたとしても、行ってみたら予約が入ってなかった、、なんてのはザラです。本来なら「あっそ」とクールに受け止め、そこから交渉を始めたり、別の宿を紹介して貰ったり、速やかにプランBに移行したりすべきなのですが、そういう現場処理が当然のように必要なんだと最初から覚悟している人と、そうでない人では現場における対応能力は雲泥の差があります。ここがダメだと容易にパニックになって二次災害、三次災害を引き起こす(どっかに財布を置き忘れてきたり、焦って道に飛び出して事故に遭ったり)。

情報の弊害

 他にも情報弊害は山ほどあります。
 例えば、情報に頼るあまり、情報に載ってないことは視界から外れることです。ガイドブックに載ってないところには行かなくなるし、ネットで紹介されていないアクティビティはやらなくなる。ワーホリでも僕が「ワーホリ定食」と揶揄気味に言うような、ありきたりなパターンしか発想できなくなる。もともと弱い人は視野が狭く、その狭さ故にどんどん人生を誤るというのは前述しましたが、ここで情報に頼ろうとすることで、さらに視野が狭くなる。

 あなたという存在はこの世に二つとない絶対無比のオリジナルですから、あなたがあなたらしくあろうとするほど、あなたのオリジナリティが何かしら反映されていなければ嘘でしょう。その方が身に馴染むし、幸福感に繋がりやすい。それは重大な局面になればなるほどそうです。借りてきた人生みたいなことをやってても、どっかしら身の丈に合わず、違和感があるでしょう。100%何から何までオリジナルである必要はないけど、必ずやどこかには、あなただけのオリジナルな方法論や発想を織り込んだ方がいい。つまりはおよそ前例のない=すなわち情報になりえない=エッセンスをどっかで入れないとならないってことです。情報依存は、この大事なエッセンスを開発、選択、投入する機会を逸しかねない。

 あるいは、抱えている切迫性ゆえにじっくり構えて大きく理解というのがしにくいから、お手軽な「一口メモ」みたいなものに飛びつこうとする。群盲撫象というコトバがあります。目の見えない人が象の尻尾だけ触って、「象というのは蛇みたいなものだ」と思い、耳だけ触った人が「象は紙みたいだ」と思う。そんな断片だけ理解しても意味が無いどころか有害だというコトワザです。情報というのは、とりわけネットの情報というのはこの群盲撫象式の断片情報がやたら出回っている。

 実戦的に役に立つのは原理原則であり、構造理解です。「なんでこうなってるの?」という大きな仕組みやカラクリをうすらボンヤリとでもいいから理解してるかしてないかは、現場における推論や直感の大きなヘルプになる。でも、原理原則〜なんてのは時間がかかる「じっくり型」が苦手な人は、どうしても「ひとことで理解できる」ようなものばかりに飛びつく。しかしこんな「一知半解」以下の断片情報を頭の中にバランス悪く詰め込めば、世界観が異様に偏ってきて、次のミスを誘発するのは火を見るよりも明らかです。無茶苦茶な眼鏡をかけてバッターボックスに立つようなものです。ときとして情報の内容よりも、情報発信者の悪意という人間的な醜悪さだけがべったり心に残ったりして、精神的に汚染されたりもするし、もともと恐く見えている世間が益々恐く見えるようになり、、、という悪循環が加速する。

 さらに、情報というのは収集するよりも、吟味、分析するという過程こそが大事です。学校情報でも「良かった」と絶賛している人が何故そう言うか?です。もしかしたら、通学中に素敵な彼氏が見つかってラブラブだから何もかもが素晴らしく見えているだけかもしれない。逆に、レベル3、4という中級クラスはマンネリとブレイクスルーまでの道のりの長さで、誰しもフラストレーションがたまる時期ですから、人によっては「何かのせい」にしたくなる。八つ当たりのように悪く言う人だっている。ある発言(情報)は、どういう個性の人間がどういう背景で発したものかを知らねば、本当の価値は分からない。

 今日本では裁判員制度が軌道に乗ってきているようですが、多くの人が参加され、裁判の実際を体験されるといいと思います。そこでは、人の証言というのが、びっくりするほど食い違い、びっくりするほどアテにならない、ということを目の当たりにするでしょう。Aさんの話だけを聞いていれば完璧なA型世界が展開されるのだけど、Bさんの話をきくと、異次元世界のようなB型世界になる。同じ事でも人によってこれほど見え方が違うものなのか、そして「本当のこと」というのは一体どこにあるのか?それこそが情報の吟味分析という工程です。
 だから結局のところ、情報というのは大雑把な背景知識程度で足りるし、そこで留めておくのが賢いです。でも、小手先断片に目を奪われ、背景知識が逆におろそかになる人も多いです。オーストラリアは南半球で季節が逆なるなんてのは、誰でも知ってる背景知識なんだけど、実際に来るまで実感がない人も多いです。冬だとわかっていながら夏服しかもってこないで、現地で風邪をひくとか。ほんと、知ってるけど使いこなせてない。情報活用能力がなければ情報を集めて意味がないでしょう。

 だから下調べ以上に具体的なことは「現場でなんとかしろ」です。出来ますって!だって今までだって出来ていたではないか?中学高校の生活だって、入念に情報を収集して準備してたわけでもあるまい。たまたま同じクラスになって、たまたま席が近くて、たまたま波長が合う友達に出合って、、とか、出たとこ勝負でワイワイやってきたではないか。今振り返って、あれをどうすれば良かったのか?新学期前の春休みに職員室に忍び込んでクラス分けリストをマイクロフィルムにおさめ、クラスメートになる人達のプロフィールを興信所を使って徹底的に調べ上げ、「まず○○さんと友達になろう」と計画を立てれば良かったとでもいうのか?

 群盲撫象式は情報というものに不可避的につきまとう問題ですが、これを簡単に解決する方法があります。現実にその目で象さんを見ることです。もう0.5秒で「象とはこういうもの」と理解できますから。見たり体験すれば済むようなことで情報を集めても、不正確だし時間の無駄。

明瞭性と簡易性

 なにごとかを成就するためには、数え切れないくらい多くの現場を、自分の判断を頼りにアドリブで乗り越えながら、長い道のりを歩かねばなりません。単一技術の習得だけだったらまだしも一本道ですが、これが「起業して成功する」「海外で暮す」とかになると、無数の想定外の現場を踏まねばなりません。これって結構「強く」ないと出来なさそうな感じがします(ほんとは別にそんなことないのだが)。

 本当の意味で自信が持てない弱い人は、無意識的にもそこを回避しようとします。一つは現場処理という自分の全人格が試される局面を嫌い、なるべく過程が明瞭で確実なものだけを選ぼうとします。もう一つは、出来るだけ近道をしたいということです。そんなに長いこと続けていられる余裕がないので、手っ取り早く、簡単にできそうなものを優先する。つまり明確で、簡単なものです。

 まずもってこれが過ちの始まりでしょう。明瞭で簡単な物を目指して何が悪いかといえば、第一に、そんなモノ滅多に存在しないことです。商業広告などでは、いかにも明瞭で簡単に成功するかのようなことが書かれていたりしますが、それは広告。モテない君も、この不思議な香水を付けたら、たちまち女の子が群がってくるぞ、みたいなことがあるわけがない。これは極端な例ですけど、煎じ詰めれば「そういうことでしょ?」という。勉強も何もせず、ただ海外にいるだけで英語がペラペラになるぞなんても、今日から国際人だ!なんてのも大いなる嘘ですよね。要するに第一の弊害は、騙されるというか(まあ、騙されたいんだろうけど)、投下資本に対するリターンが異様に少ないこと。淡い期待を突き動かされて無駄なことばっかりやっていくから、お金も気力もそして若さもすり減っていくこと。

 第二に、選択肢が無くなってしまうという点です。安全確実&簡単なんて無理難題の二大条件をかけて検索すれば、出てくる選択肢なんか本当に限られた数になってしまう。第三に、これは第一と重複するかもしれないけど、宣伝では安全確実簡単と書いているけど、実際にやってみたら、安全でも、確実でも、簡単でもないってことは幾らでもある。〜かのように訴えるだけであり、そんなのはちょっと考えれば分かるんだけど、でもそれしか求めてないから、多少の疑問には目をつむってしまう。

 多分昨今の資格ブームというのもこの系統に近いのではないかと思われます。資格があると「何かと有利」で「安全確実」なように思いがちなんだけど、本当にこれさえ持っていれば食うに困らない、どこでも就職できる!なんて資格はびっくりするほど少ないです。弁護士ですら今は食えない時代なのに。やっぱり資格に加えて、それ相応の実力と経験、そして営業力が必要ですが、実力と経験と営業力があったら資格なんか無くても食っていけます。一般の就職は「出たとこ勝負」のファジー性がありますが、それこそが王道でしょう。それに資格を生かしてビジネスをやるにしても、日々の仕事の現場はまさに出たとこ勝負の極致のようなものですよ。救命病棟で待機しているお医者さんのことを考えたら分かると思います。

 ほんとのコツはその逆にあるのでしょう。出来るだけ明瞭ではなく曖昧なもの。「○○士/師になる」とかいう形ではなく、「他人の笑顔に接していたい」「人のしあわせを作りたい」くらいに抽象的な方がいい。このくらい曖昧な基準だと選択肢が非常に広くなります。要は職種ではなく、その仕事のやり方一つですから、間口は広くなります。また本質的な基準でやってるからハマったときの充実感はケタ違いで、「あれ、こんな筈では」ということが少ない。テーマがぶれなければ、何をやっても全部栄養になるし、積み上がっていくから無駄が少ない。

ラッキー症候群

 そして、お約束のように出てくるのがラッキーとお金です。

 弱い人ほど「運のよしあし」を言いたがる傾向がある。理由は簡単、負け癖がついてるからでしょう。

 勝ち癖の付いている人は、成功までの道筋がなんとなく皮膚感覚でわかる。「大体ゴールまでに3回くらいピンチになって、最後の一回が一番ドツボにきついんだけど、そこをクリアすると何とかなる」とかね。でもって「ほらね」と出来る。独立開業でも「最初の3年間は無収入になると思え」と言われたりしますし、最初から多少の凹凸は織り込み済みです。これまで成功歴の多い人は、そのあたりの感覚やパターンが分かる。だから細かなことで一喜一憂せず軸線がブレないでやっていける。

 僕がお世話しているシェア探しで、歴代最高の1日の見学件数は15件です。25歳の物静かな女性でしたが、彼女は大学卒業して単身バリ島に渡り、3年かかって死ぬほど苦労して自分のビジネスを立ち上げてます。彼女には分かっているのでしょう、成功するまでのカンドコロが。目先のことに一喜一憂せず、必要なことをマシンのようにやり続けるだけ。彼女は15件見たけどそのどれにもせず、さらに数日納得いくまで探して決めました。

 しかし、今まで見てきたように、弱い人は元来が成功しにくい方法論でやってるから成功体験が少ない。成功歴がないと、ちょっとダメだと不安で堪えきれなくなる。シェアでも3〜4件ダメなところが続くともうイヤになる。これが「負け癖」です。心臓に悪いグレーゾーンが延々続くんだけど、「ああ、やっぱダメかも」と早めに判断してしまう。そのカンドコロがなかなか分からない。だから開業してもあれこれ手を出して軸線がブレブレになって、インパクトも訴求力も弱っていく。

 そうなってくると、自分一人の力だけで上手くいくような気がしなくなってくる。自力だけでは足りない、その足りない部分を何かで補足しなきゃと思う。その補足部分が「依存」になって出てくる。そしてもっともお手軽な依存は「幸運」です。幸運に依存するようになっていく。

 それだけならまだしも、他人の成功を学ぶこともせず、あれは運が良かったからだと思うようになるし、自分の失敗も運が悪かったからだと運のせいにするようになる。また、日常生活においても「いいこと=ラッキーな出来事」みたいになる。しかし、ラッキーのような貴方任せの他力本願イベントが「いいこと」のメインディッシュになるようではマズイでしょう。なんだか幸運に頼らず自力で「いいこと」を産み出せないみたいじゃないか。

 運に対する過剰な心理傾斜は、自力だけで道を切り開いていく自信のなさ=弱さ=の裏返しだと思います。

お金への過剰傾斜

 お金についてもしかりです。お金お金と気にし過ぎるのは、総じて弱い系の人に共通するどうも特徴みたいです。ワーホリさんでも、いろいろ武者修行を積んで逞しくなればなるほどお金のことを言わなくなる。これはもう殆ど例外なくそうなります。残金100ドル切っても割と呑気に構えていられる人も結構います。

 一方ではお金に対して異様に放漫財政な人=バクチの借金が嵩んで身動きが取れなくなるような弱いパターンもあります。いずれも共通点は、金銭に対する適正な距離感がつかめてないという点です。

 常に心理的にアップアップしている「弱い」人が、安定確実なもの、すなわちお金を頼りにするようになるのは分かります。むしろ当然かもしれない。お金というのは、100円出せば100円の物が買えるわけで、ある意味ではこのくらい確実なものはないです。

 それに、これまで散々見てきたように失敗がちの方法論でやっているから、人生史において金銭(消費)以上に「豊かな出来事」というのも相対的に少なくなろうし、そうなれば益々お金の主観的価値があがる。逆に多方面にわたって豊かな人生をエンジョイしている人だったら、お金は大切だけど、本当に楽しいことはお金では買えないよねと金銭の限界もわきまえているし、ワンノブゼムの道具に過ぎないと思える。しかし、消費以外のアクティビティが貧しい情況においては、何と言ってもやっぱりお金が一番よね、という考え方にもなるでしょう。

 また、弱い人は総じて稼ぎが悪いという問題もあります。しっかり統計取ったわけではないのだけど、大抵の場合自滅パターンになるので、普通の人よりは要領の悪い稼ぎ方になってると思われます。「要領が悪い」というのは、伝統芸のように昔からある「自宅で高収入」系の宣伝に乗せられたり、今で言えばアフィリエイトやFXとか。トータルの労力を考えたら、普通にバイトしている方がずっとマシなんだけど、素晴らしい成功話に目がくらんだりするのかもしれない。でも、そこで「目が眩む」という現象が出てきた時点でもう赤信号です。なぜなら「次は絶対大穴が」「今度こそ確実」とか言いながらバクチにのめり込んで身を滅ぼすパターンに近づいてきているから。いつもは安全確実で簡単なことしか興味がないのに、一攫千金的なモードになると、手の平返したように、リスキーで非常に労力のかかることをやる。

 いずれにせよ、結果として「お金にはさんざん苦労する」というパターンに陥りがちです。実家が裕福とかいろいろな事情があるから一概には言えないけど、彼らが一番確実だと思う「お金」ですら、それなりに気苦労が絶えない。もともと普通よりも稼ぐのが上手ではないのに、普通よりもお金に対する精神的な依存度が高いのですから大変な話です。だからますますお金に対して愛憎入り混じった複合観念(=こだわり)が強くなる。

 こうなると何もかもが裏目裏目に出ていくのですね。そういうタイプの人って、普通の人から見てそれほどラブリーな感じがしませんから、人間関係も不毛になりがちです。お金への執着が強いから、払った痛みも人一倍強い。だから「高い金払ったのに」「こっちは客だぞ」みたいな物言いばかりになる。100円しか払ってないのに、500円も1000円分も見返りを求めようとする。他人からしてもらったことはノーカウントで、自分の痛みだけを主張する、、という、まあ、一言でいえば「ヤな奴」になってしまいがちだと。一般に職場、友人、男女間でも、ある程度のジェネラシティ(気前の良さ)みたいなものが潤滑油として必要なんですけど(おごりとか、プレゼントとか)、そこがキーキー軋み始めると、ちょっとしんどいです。でもって他人は信じられないから、ますますお金に、、、、、という。

 そもそも、もっと根っこのところに「弱さ」意識があるのでしょう。
 こんな「弱い自分」に人並以上にお金が稼げるわけはないとか、心の芯の部分で思ってしまうのかもしれません。根っこが普通に強い人は、普通の人が普通にやってることなら自分にも絶対出来るはずだと思っている。もう確信している。その確信が強いから、現実にそうならなくたってそんなに動じない。「ほお、やってみると意外と難しいもんだな」くらいの感じでパニクらない。逆に「おーし、燃えてきたぞ」でやりきっちゃう。ブレずに集中して労力と時間をかけるし、ケチらず初期投資もするから、大抵の場合はそこそこのレベルには成功する。で、「ほらね、出来たじゃん」で益々強くなっていく。

その他の症状

 きりがないのでまとめてやっちゃいますが、えーとあと何が残ってたかな、「保守的」「自分に対する決めつけ」「苦手領域への絶対回避」「プライド高い」「被害者意識」などですね。なんか、もう分かりますよね?

 「弱い」というのは、何かが客観的に無能であるとかそういうことじゃなくて、主観的に自分でそう思っていることであり、且つその弱さの痛覚が敏感なのでしょう。弱いところを触られると痛い。誰でも痛いけど、普通の人よりも痛いと感じる。音痴カラオケで大笑いされても、音痴の愛嬌で頭をかいていればいいのに、すっごいトラウマになったりする。だから全力で回避したいと思う。苦手なこと、恥をかきそうなことは極力避ける。

 そこで「自分の決めつけ」が生じる。「ワタシって○○だから」という決めつけをするのは、痛いところを触らないための予防線でしょう。苦手領域を回避するのもそう。苦手!と宣言してもう触ろうともしない。プライドや虚栄心が強いのも防衛意識のなせるワザでしょうね。ダメな自分を立たせるためのつっかえ棒として何かが必要で、それが学歴などのプライドになってる場合がよくある。まあプライドに依存しているわけですな。また、「この俺が○○なんか出来るか」というレトリックで言い訳をかまして、苦手なことやプライドが通用しないフィールドに出て行って恥をかきたくないという計算もあると思います。無能な奴ほどプライドが高いっていうけど、ほんまやね。ちなみに昔のコトワザでいえば「稔るほどこうべ(頭)を垂れる稲穂かな」です。

 弱い→恐い、から、まず防衛が先に立つ。とにかく防衛。攻撃的になるときもあるけど、それも「攻撃は最大の防御」的なそれ。とにかく一番弱そうな奴を一緒にいじめておけば、仲間内で自分がいじめられる心配はないみたいな攻撃の仕方ね。 防衛する側として世界はどうあって欲しいかといえば、固定的で同じパターンで廻っていてほしいです。受け損なう心配がないから。千変万化するような流動的な局面だと困るわけです。どこで何をすればいいのか準備もできないし、結局、弱い人が一番苦手な部分、「全人格的なアドリブ対応」「出たとこ勝負」をしなければならなくなる。この自信が絶対的に無いから、なるべく世間は固定していてほしい。自分の手に余るものであって欲しくない。だから人は、能力が落ちてくるにしたがって、例えば老化するにしたがって保守的になりがち。弱い人は若くても保守的な人が多い。

 あと、弱いと思ってるんだから被害者意識が強くなるのは当然でしょう。打たれ強い人と打たれ弱い人とでは打たれたときの痛みが違う。だから恨みも違う。

 そこからさらに一歩踏み込んで世間に対する甘えのようなものが出てくると話はかなりヤバくなってきます。弱い人は、こんな弱い自分が強い連中と五分の条件で戦うのは不公平だとか思ったりする。だから世間や国家は自分に対して、もっと良くしてくれて当然だくらいにも思う。「やってもらって当然」という甘えが出てくる。

 「甘え」というのは、世間と自分とを分けるセンターライン=この線からあっちは向うの責任、こっちは自分の責任という線を、一般に自分に都合良く引きすぎている状態を言うと思う。モンスターペアレンツなんか典型的だけど、「甘ったれるのもたいがいにせえ!」みたいな主張を平然という。平然というのは(戦略でもブラフでもなく)、それが正義だと思ってるからでしょうし、センターラインの引き方を間違っているのでしょう。

 余談なんか書いているヒマはないのだけど、過保護教育というのはヤバいです。なぜなら子供にこのセンターラインを誤って教えるからです。ここが間違って大人になったら、も〜大変でっせ〜。至るところで苦労するし、本人には理不尽に感じられる不当な扱いを受け続ける一生になる。また、「○○ちゃんは弱いからやらなくていいの」みたいな文脈で、心の中心に弱者意識を刷り込むというリスクもなきしもあらず。もしそこまでやってしまったら、過保護というのはある種の、いや最悪に近い虐待行為だと思います。子供の予防接種でガン細胞を埋め込んでいるようなものなんだから。

 そうそう「失敗の分析論が大雑把すぎ」という問題もご近所さんです。前回述べたように全体構造が見えてないから失敗を分析してもよく分かるわけがないし、そもそも緻密にゆっくり時間を掛けて考えるのに慣れてないことから、「運が悪かった」「騙された」「もうこの街がキライ(東京がキライ、田舎はヤダ、海外はイヤだ)」的な他罰的なものになる。つまりは被害者意識満載の総括になりがち。そうなると、ますます「世間は恐い」と思う。かくして「ふりだしに戻る」で「恐怖体質」がより強化され悪循環になる。もう一つ、「私は何をやっても上手くいかない」という自分の中の「弱者意識」が強化され、これも同じく悪循環になる。そんなことを物心ついてからずっとやっていれば、そりゃあ大変でしょう。

 これでもかと書いてますが、こんなの幾らでも書けます。失敗のパターンや構造なんか、びっくりするくらい簡単でシンプルなのですが、愚かな僕らは常にそれをやっているので、”失敗現象”のバリエーションは数十どころか数百パターンくらいあると思う。類例や描写は幾らでも書けます。もう本が何冊でも書けるくらい。

 いずれにせよ「成功したら奇跡」というくらい何から何までダメダメな方法論でやってるから、成功率が異様に低い。滅多にいいことがない、生きてて楽しくない。これがまたトラウマになり、さらに第三次災害、四次災害を招く、もう加速度をつけて転落していくよね。それまでのダメダメ方法論で得た世界観や人生訓なんて(人生は金が全てなどの依存主義とか)、そもそもが腐ってるからスッパリ捨てればいいんだけど、そうもいかない。

じゃあ「弱い」人はどうすればいいか

 もうシメますが、「どうすればいい?」って、ここまで読んだ時点でもう弱くないんじゃないんですか?パターンや構造理解が出来てしまえば、話はシンプルだと思います。

 それに、そもそもあなたは弱くないです。本当に「弱い」人というのはそんなに居ない。まずもって自分が弱いという自己規定を改めればいいというか、自分は本当は結構強いんだということに気づけばいいのでしょう。これって精神的に気持ちいい作業だから、やりやすいと思うけど。

 何度も書きますが、「弱さ」というのは客観的な能力の優劣ではないですよ。また上位半分が強くて下位半分が弱いなんて相対評価で決まるものでもない。仮に世界大会で銀メダルを取ったとしても、金メダルを逃したことで「俺はここ一番で弱い」「運に見放されている」とクヨクヨするのを「弱い」というのです。逆に最下位だったとしても「世界のヒノキ舞台に立てたぞ!」と思える人は強い。だから力の優劣でも席次でもないのだ。

 ここでいう弱さというのは、弱くもないのに弱いと思うことです。前回冒頭でも書いたけど、弱い自分を「悪い意味で」受け入れることです。人は誰しも大なり小なり弱いものですし、強弱なんか相対的なものなんだけど、ことさらに、必要以上の自分を弱く規定することです。なんのために?例えば、楽するために、ですかね。「私、料理は苦手」と宣言すればやらないで済ませられると思ってるという。そこが「悪い意味で」です。

 「俺なんかにできるわけがない」と思う弱さがあるけど、でも心の底から本気でそう思ってるの?という。そういうことにしておいてイヤなことをやらないで済ませようとか、しんどいことから逃げようとか、楽をしようとか、ズルさや怠慢根性があるんじゃないの?と。だって、近所の生意気な小学生に、「お前みたいな奴に出来るわけねーだろ、ばーか!」って面と向って言われたらムカつくんじゃない?「おっしゃるとおりです」ってうなだれるかって。

 どんな人でも心の底では「この俺が本気をだせば」と密かに思ってる部分はあるのではないか。心の底の底まで破壊されていたら、それはもう精神医学とかそっちの領域だと思うけど、そこまでいってる人はマレでしょう。で、「本気を出せば」と思ってるなら、出せよ、早く、その本気を、です。出し惜しみしてるんじゃないよと。

 弱い自分を「いい意味で」受け入れるのは大事なことです。まあ、受け入れた時点でもう弱くないんだけど。「私は英語がヘタクソだ!」と。それは認めようと。だが、それがどうした?と。ヘタはヘタなりに、上手な人と同じくらい楽しんでいるぞと。大変だけど。いつまでもヘタなままじゃないよ、やってりゃそのうち多少は上手くなるかも、とか。

 それに何もかもが万能に出来る必要なんかないし、そんな人いないし。たった一点でいいから急所と思えるところを乗り越えればいい。いや乗り越える必要もない。ゴロリと車輪を半回転でもさせればいい。全ては関連し、循環しているから、悪循環から好循環に転換できればいい。そのキッカケがつかめればいい。ちょっとでも良い方向に動いたなら、それは動いたのであり、今日動いたなら明日も動く。1ミリでもいいから動いているうちに、少しづつ加速が付き、美味しい雪だるま効果が出てくる。そういう経験を一つでもすればいいし、大抵の人は既にそんなことを幾つもやっているだろうから、思い出すだけでいいです。

 細い、細い、絹糸のように細くていいから、自分の納得のいくパターンを作ることだと思います。どこも曲がってない。どこも逃げてない。どこも誤魔化してない。いかに短かろうが、いかにショボかろうが、でも真っ直ぐという。10年かかろうが、20年かかろうが、それが一つ出来たらいいと思うのだ。黄金の原型ができるから。一個できたら、あとはガッコンガッコン大量生産すればいい。

 まあ、ね、言うのは簡単ですし、やるのは大変ですけど。でも、みすみすダメな方法論に走って、あんまり楽しくないまま、コンスタントに大損し続けている人生の大変さに比べたら、それほど大変なことだとも思えないのですが。



文責:田村



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