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今週の1枚(2011/12/05)



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Essay 544 : 「夢」も「希望」もなくても、結構生きていけちゃったりする話

 写真は、つい先日訪れたEastwood。
 Northには珍しいアジア色豊かな街で、韓国系中国系が多いので有名。
 久しぶりに行ったのですが、いやあ、相変わらず「地に足の着いたうらびれた雰囲気」でほっとしました(^_^)。妙にお洒落になってたらどうしよう?とか思ってたのですが、サバーブのテイストは健在でした。
 いいなあ、この、どことなく投げやりなクリスマスツリーといい、中華系スーパー(実は店内かなり巨大)の名前がなぜか「SAKURA」だったり。



承前


 前回(生きるための燃料)をUPした後、「あ、そういえば」と思いついた部分があるので、それを書きたいと思います。

 前回は、村上春樹の「アフターダーク」のなかの、「何の変哲もない過去の記憶は生きていく『燃料』になる」という一節を紹介しました。それほどパワフルではないけど、しんどい現実をやり過ごす程度の効用はある、と。では、なぜ記憶にはそんな力があるのか?についてあれこれ考えるに、記憶の再生=過去の自分の再生であり、人(自分)が生きているという事実は、ただそれだけで何らかのパワーを含んでおり、思い出すことでその力を得るのだろうという結びにしました。ここまでが前回。

 ここからさらに広がって、過去の自分だけではなく、過去の自分のいた世界そのものが力をもっているのではないかというのが今回の骨子です。自分だけではなく、自分を取り巻く世界の環境の全てがそうだと。人を「生」に向わせる何らかの養分やエッセンスを含んでいる。キツい状況下には一時的にそれが分からなくなっているけど、過去の記憶をよみがえらせることで、それを再体験し、生きていく燃料を得るのだろう、ということです。

 話が抽象的すぎてさっぱり分かりませんね(笑)。
 順を追ってご説明を。これ、ちょっと「耳寄りな話」だとも思うのですよ。

なぜ生きているの?なぜ自殺しないの?

 これって、「そもそも人はなんで生きてるの?」という話にリンクしていくのでしょう。

 当たり前すぎてイチイチ考えもしなかったのですが、「人はなんで生きてんの?」という問いは「なんで死なないの?」という問いでもあります。

 「生きるためのパワー」というと、ともすれば「愛する人の存在」とか「人生をかけての大仕事」とか、あるいはドロドロした情念(執念やら野望やら)を想起しがちです。いわば「生き甲斐」ですね。

 しかし、そんな「生き甲斐」に燃えている人なんか実数でいえば少ないのではないでしょうか?あなたは今、燃えてますか?そういう一瞬の感情の高揚もあるかもしれないけど、そういうときばかりではない。大多数の人間の大多数の時間というのは、パッとしない日常だったりするでしょう。偏差値49くらいに微妙な、今日一日をトータルで収支決算すると僅かに赤字だ、でも大した赤字でもないから気に病むことはない、、、くらいの感じじゃないかな。

 中にはマイナスが嵩じて、精神的に自己破産しちゃう人、つまり自殺しちゃう人もいます。日本の年間自殺者3万人とかいってよく話題になりますよね。自殺者3万人という数字は確かに深刻な響きがあり、「満員の東京ドームの半分」というレトリックをカマされると、「おお」と浮き足だったりします。が、日本の人口は1億2535万8854人(2010年確定値)もいるのです。12536対3ですから、歩合比率0.023%です。針の先ほどの数でしかない。はっきり言ってこれが他の統計だったら、コンマ2桁の数字など、殆ど誤差レベルか無視されるでしょう。「たった3万人しか自殺してない」という言い方だって出来る。

 じゃあ、自殺者を除いた(マイナス3万人の)1億253"2"万8854人は、生きる喜びに包まれながら、毎日を溌剌として過ごしているのか?というと、別にそんなこともないでしょう。そんな楽しくてたまらない!って人は、どーんなにひいき目に見積もってもせいぜい二人に一人。論者によっては100人に一人、1000人に一人くらいだと言うかもしれない。ましてや宇宙戦艦ヤマトの乗組員のように「燃えるような使命感」に満ちている人など、自殺者と同じ程度にレアな存在かもしれません。

 つまり大多数の人は、そんなに盛り上がって生きてるわけでもない。かといって、自殺するほどでもブルーでもない。そう考えると、燃えるような生き甲斐←→自殺するほどブルー、というのは、紫外線や赤外線のようにスペクトラムの両端にあるエクストリームであり、実際には無視しても構わないくらいの比率でしか存在しないかもしれません。ほんじゃ、圧倒的大多数を構成する本体部分はどうなっているんだ?と素朴に疑問になります。「楽しくも悲しくもない」ってこと?それってどゆこと?

 話を分かりやすくするために、思いっきり逆説的な問い掛けをしますが、この圧倒的大多数の人々=このグループには僕も(そして多分あなたも)も含まれるのですが=は、なんで死なないか?だって、それほど楽しくないんでしょ?「生き甲斐」とか「執念」みたいなものに取り憑かれて生きているわけでもないんでしょ?だったら別に頑張って生きてなくたっていいじゃん、なんで死なないの?なんで自殺しないの?と。あなたはなんで死なないの?僕はなんで死なないんだろう?何で生きているんだろう?。

 ミもフタもなく言ってしまえば、どうもそんな大がかりな生きる喜びとか、生き甲斐とか、使命感とか、そんなものが無くても人は生きていけちゃうようです。「そこそこ楽しい」人が死なないのは分かるけど、世の中には「全っ然楽しくない」という人だって沢山いるわけだし、人生のある時期には誰だってそうなる。でも、だからといって楽しさの「持ち点ゼロ」になったら速攻で死ぬわけではない。自殺者の「死ぬ理由」に打ち勝つだけの「生きる理由」が常にないとダメだというなら、一瞬一瞬においてこの理由が存在し続けねばならず、それがちょっとでも途切れたら、まるで失速した飛行機のように墜落して死んじゃうことになる。でもそうなってない。

 そりゃ自殺に向う足を止めるブレーキは多々ありますよ。自殺方法が面倒臭いとか、痛いとか恐いとか、世間体とか、残された人が悲しむとか、、、、いろいろあるでしょう。でもね、この鬱陶しい現実を「生きていく」ことだって、自殺以上に「面倒臭い」んじゃないですか?自殺者の心理は究極的には分からないけど、全員が「絶望にうちひしがれて」というドラマチックな感じではないと思う。特に中高年の自殺は、僕もトシゴロだからなんとなく分かるけど、「なんかメンド臭くなっちゃったな」みたいなメンタル状況が多いと思うのですよ。僕の友人も自殺しましたけど、彼もおそらくはそんなところだったんじゃないかな。客観的にそんなに何かが致命的に悪くなっていたわけでもない。だから思いっきり寝耳に水だったし。

 また、自殺がいかに恐くて苦痛があろうとも、これから生きていく時間に味わう苦痛と恐怖のトータル量に比べたら、一回ポッキリの自殺の辛さなど取るに足らないではないか。倒産して取引先に罵倒されたり、その筋の人達に拉致されたり、事故を起こせば遺族の前で土下座して水をぶっかけられたり、半生の全てを捧げて育てた自分の子供に「うるせー、クソバアア!」と呼ばれて暴力を振るわれたり、信じていた恋人に預金を全部持ち逃げされたり、悪い冗談のような事故で家族を全て失ったり、自分が失明や半身不随になったり、、、生きるということは、まさに "full of pain" です。日本にいるときは、仕事柄、そんなのばっかり目の前で見てきた。

 こういった「生きる苦しみ」に比べたら、睡眠薬飲んだり、お風呂でリストカットする苦しみなど、苦痛のうちにも入らないでしょう。
 

「なんか」ある

 今日という平均的な一日が「ちょい赤字」で、この先も似たような日が続くとなれば、積もり積もって人生総体の苦痛は途方もない分量になる。日本の赤字国債の累積残高のようにチビチビ赤字が積み上がって膨大なものになる。さらに35歳過ぎたら老眼が始まるように、老化という苦痛も加算される。生きていくだけでもいい加減面倒臭くて苦しいのに、そのうえ日々赤字を垂れ流し、情況はどんどん悪くなる一方なのに、なんでそこまでして生きるの?いいことないじゃん。

 こう書くと、まるで自殺しないのが愚かで理不尽なことみたいだけど、無論そういうことではないです。一回極端に逆サイドに振った方がよく物が見えるからです。ここで何度も叩いて確かめて、浮かび上がってきた事実というのは、やっぱり僕らは「生きる喜び」なんてものを格別に意識しなくても生きていける、ということです。自殺(−)と生き甲斐(+)という力が働かずプラマイゼロ状態だったとしても、それでも生きる方向に進む。生きてしまうんだわ。

 さらに言えばマイナス過剰になっても生きる。世界史のなかでツライ立場に置かれた人々、ホロコーストのユダヤ人のようにただじっと虐殺されるのを待つだけの日々、膨大な数の奴隷や農奴、戦場に駆り出された兵士、過酷な年貢を納めるため生まれてから死ぬまで餓死寸前の日々を送る百姓達、、、でも、彼らが集団自殺したというケースはレアです。集団で逃亡したとか、暴動や一揆を起こしたことは幾らでもあるけど、自殺というのはびっくりするくらい少ない。なぜ彼らは死なないのか。

 だから、「なんか」あるんでしょう。

 だって、「なんか」ないと快楽経済的にも感情力学的にも理屈が合わないじゃないですか。苦痛と快楽の純粋な損得勘定だけでみれば、自殺しなきゃウソだくらいのイキオイですもん。もうどっぷり借金漬けのようなドマイナスになっても、それでも尚も生き続けている、それでも死なないってことは、この損得勘定のバランスシートに間違いがあるということです。残金100万円で120万円使っちゃったら、マイナス20万円の債務超過で破産のはずなんだけど、なぜか知らない間に残高が増えている。だから、なにか重大なものを見落としているとしか思えない。

 では、彼ら、そして僕らの「生」を支えるパワーは何なのでしょう。いつの間にか僕らの預金を補充してくれているのは誰なんでしょう。そんな「足長おじさん」みたいな存在がいるのでしょうか。憂鬱なる日々を、それでも死なずに生きていく「力」は、一体どこからくるのか?そして、それは何なのか?

初期設定

 色んな考え方があるとは思います。やれ守護霊様が励ましてくださっているとか、キリスト教的な精霊のパワーがあるとか。でも、敢えてロマンに走らず、武骨に、ドライに、物理的に言うならば、「初期設定がそうなってるから」ということではないかと思います。つまり「そーゆーことになっているから」という。ここまで引っ張っておいて、「なんじゃそりゃ」と拍子抜けするような話かもしれないけど。ま、聞いて。

 大河が上流から下流にゆっくり流れているようなものです。風力ゼロ、潮汐力ゼロ状態でも、自然に右から左に川が流れているように、自然状態そのものが「生きる」というベクトルに方向付けされている。何にもしなくてプカプカ浮いているだけで、勝手に生きるという方向に流れていく、流されていくのではないか、ということです。

 まあ、考えてみれば当たり前の話で、「生き物」というのは「生きる」からこそ生き物なわけで、生命現象というのは「そーゆーもの」なのでしょう。いちいち理由がないと死んじゃうという面倒臭い現象ではなく、最初からそういうものなのだ。というか、そういうものとして登場したのが生命現象であり、それが現象として確立しているならば、あとはごく自然な物理法則にしたがうだけです。重力という物理法則に従って、水が高いところから低いところに流れるように、なんもせんでも僕らは生きていける。ほっといても生きる方向に進んでいっちゃうからこそ「生物」なのだと。

 一言でいえば、それが「本能だから」ということなんでしょう。こう言ってしまうと、ありきたりで、ある意味投げやりな言い方に聞こえるかもしれないけど、でも、そのことの意味をもっと噛みしめてみる必要があるなと思ったのですよ。

 それに「本能」だけでは説明したことになっていません。およそ動物は自殺しないけど(個体数調整のためのレミングの自殺行進は別として)、人間だけは自殺します。人間というのは本能に逆らうことが出来る。というよりも、本能に逆らう部分に人間「らしさ」があったりもする。攻撃本能や殺戮本能を全開にしてたら犯罪者として罰せられるように、本能に逆らい、調節するところに人間の本質がある。そして、一夫一婦制をケナゲに守ったり、守るフリして裏切ったりなど、本能と秩序のボーダーをうろうろ彷徨っているのも人間「らしさ」の本質だったりする。

 だから「本能」を持ち出しただけで全てが解決するわけではない。年間3万人も自殺するなら、僕もあなたも自殺を選択し、実行することは可能でしょう。決して「ありえない」ことではない。でも、やらない。なぜか?自殺を選択しない人が生きるという生存本能のパワーを受けているのだとしたら、自殺する人はその本能が途切れたことになる。一体その本能を受けるとか、受けないとかいうのはどういうことなのか。日々こうして生きている僕らには、具体的にどういうこととして感じられているのか。もっと詰めて考えてみる必要がある。

生きている喜び

 さて、ここから前回とのつながりに入っていきます。
 そういった本能なり、自然の力というのは、僕らにはどう感じられるのか?そしてそれが、「過去を思い出すことが生きる燃料になる」の答の一部になるような気がします。

 まず、本能的で自然の「生きる力」というのを僕らが「どう感じるか」ですが、「何も感じない」という答もアリなんでしょう。それは僕らが重力や潮汐力の影響を日々感じないのと同じように、です。

 けど、それでも僕らはやっぱり何かは感じていると思います。イチイチ改まって「意識」はしないけど、でも感じている。何を感じているかといえば、「生きる喜び」です。まあ、こういうと大袈裟に響いたり、白ける人もいるだろうけど、それを何倍にも希釈して薄めた感じのもの。数値としては微少ではありながらも、それでも生きる方向に向わせる何か=快感があるのでしょう。

 大事なものだからといって、常にそう意識されるとは限らないです。前回「滋養」のようなものだと書きましたが、栄養分だってそうでしょう。人間の身体には、ビタミンとかカルシウムが必要だと言われているけど、実際の食事でそれがいちいち分かるわけではない。「おーし、カルシウム補充」「ビタミンB2はやっぱり美味い」と分かるわけではない。ありていにいえば、実感ゼロです。何も感じてない。頭でそう考えているだけ。でも、実感されないから存在しないのかというと、そういうことではない。

 それは欠乏したり、変調を来したら一発でわかる。重力だって、高いところに登ったら高所恐怖という形で強烈に重力の力を思い知らされるし、逆に自由落下の絶叫マシンに乗れば、無重力状態の、胃がせり上がるような気持ち悪さという形で感じることが出来る。

 「自然の状態」というのはそういうものなのでしょう。渡辺淳一氏のエッセイだったかに「健康とは何も感じないことだ」というのがありました。人は不健康になったところだけを「感じる」。歯が痛くなれば歯の存在を痛烈に意識し、小指が痛いときは小指の存在を感じる。逆に、何も悪くないときは、何も意識しない。それと同じで、重力にせよ、酸素にせよ、光にせよ、水にせよ、気圧にせよ、、、最適に調整されているときは何も感じない。

 気圧だって標準の一気圧(=1013.25ヘクトパスカル)が変わるほどに健康被害に結びつきます。高山病がそうですし、登山家やアスリートは必ず高地順応をする。大体ゼロ気圧になったら、身体中の血液が沸騰してしまうし、細胞が破裂してしまうし、人間としての原形を保つことすら難しいというのだから、気圧というのは僕らの生命線といってもいい。ほんのちょっとの差でも影響を受ける。僕は頭痛持ちなのですが、低気圧になるとやっぱりキツイです。低気圧になると身体(血管など)が膨れて、それがどっかの神経に触れて頭痛になるらしいのだけど、「あ、きた」というのはあります。オーストラリアは、気温変化も激しいですが、気圧変化も激しいように思います。いつもネットやるときは、気象庁のサイトでリアルタイムの気温変化とともに気圧変化も見るようにしてます(オーストラリアの気象庁のこのページです)。

 地震や落盤で生き埋めになって何日も暗闇で過ごしたり、酸素が欠乏した人にとっては、自然の光や空気というのは、涙が出るほどありがたいでしょう。まさに「生きる喜び」そのものに感じられるでしょう。そこまで極限ではなくても、喉がカラカラのときに飲む水は「干天の慈雨」だし、空腹でぶっ倒れそうな時のゴハンは本当に美味しい。睡眠不足でフラフラなときに、やっとふかふかな布団に突っ伏すことが出来たときの快楽は極楽レベルです。

 そう、生きていることは、「喜び(快楽)に満ちている」ともいえます。ただ、人間バチアタリだから、適当に満たされているときは全然感じないだけです。飢えも、睡眠欲も、適度に満たされているときは、「食欲ない」「眠れない」とか言ったりするのだけど、真剣に3日くらいゼロ状態が続いたら、もう欲も得もなく貪り喰らう。ということは、たった3日分溜めただけでもこの程度の快楽量があるということでしょ?これって相当なものですよ。これだけの歓喜快楽でも、3日均等分割するだけで、もう特に感じなくなるという。しかし感じるかどうかとは関係なく、快楽の総体を得ていることに変りはない。「うおおお!メシだああ!」とまでは感動しないまでも、「いっただきまーす、お、うめえ!」くらいの感動や快楽は受けている。

 朝が来れば太陽が昇って明るくなるのは当たり前で、特に感動も感謝もしない。それどころか「また一日が始まる」といきなりブルーが入ったりします。でも、漆黒の闇に一週間でも閉じこめられたら人間は発狂するといいますから、光というものがどれだけありがたいか。また、目が見えなくなれば視覚というものがどれだけ貴重か分かる。そして可視光線をベースとした視覚的”美”というものも分かる。新緑、紅葉など無限のバリエーションで存在する色彩が、不可思議な形で曲がっている形象が、どれだけ人の心を慰め、励ましていることか。またその感動や喜びがなかったら、アートなんかそもそも存在しない。視覚だけではない。聴覚、味覚、臭覚、触覚、、いくらでも快感の源泉はあるし、アートはある。

 こんな例は幾らでもあるけど、ここで大事なことは、それを自覚するかどうかは本質的には問題ではない、ということです。自覚してもしなくても我々が一秒の途切れもなく重力の支配を受けているように、僕らは日々生きているだけで、結構いろいろなところで快楽を得ている。身体は(そして本当は心も)十分に喜んでいる。

 コレだと思うのですね。知らない間に預金を補充してくれている「足長おじさん」みたいな存在は。要するに自分の周囲の全部、です。この環境全てが、僕らの万年ピーピーいってる預金を補充してくれている。だから、破産しないで済んでいる。先ほどの問い=「なんで自殺しないの?」に対する答もコレで、「死にたくないから」「楽しいから」です。意識として楽しいとは思ってないけど、でも、実はそう感じてる。

 考えてみれば当たり前のこの現実を、そうだと認識できないのは何故か?といえば、人間の意識の視野というのは極端に狭くて粗雑なものだからでしょう。とっても無能だから、いっつもザルのように大事なものを見落としている。だからこそ「失ってみてはじめて分かる」「どれだけ大切だったか分かった」と、コトが起きて手遅れになってから号泣する。そんなに号泣するほど大事なものなら、失う前に気づけよな!とツッコミを入れたくなるんだけど、僕もあなたも、人間の意識というのはその程度の性能なんだからしょーがないです。これはちょっと前に書いた「直感」と被るけど、こんなクソ無能な「意識」に、大事な現実マネージメントなんかおっかなくて任せられません。もっとも、意識のために弁護すれば、自分が無能であるということに気づく程度の性能はある。だからこんなことも書けるのだけど。

記憶と意識

 はい、もうここまで書けば、「記憶が生きる燃料」になるかお分かりでしょう。記憶の場面に登場するその場の環境、これが知らない間に生きる喜びの記憶にもなっているのでしょう。そうとは意識しないけど、過去の何らかのシーンを思い出すことによって、そのときに感じた快感も同時に思い出している。思い出すだけで、預金はまたちゃりんと増えていく。破綻を免れる。そゆことでしょう。

 改まって意識もしないし、感謝もしないし、嬉しくも感じないのだろうけど、僕らが生きていくのを支える「喜び」というものは確かにあり、それはほんの少しではあるけど、毎秒毎秒感じている。今この瞬間にやってる呼吸だって、呼気の一回、吸気の一回ごとに、薄い濃度に希釈されてはいるけど、そこには生きる喜びはあり、良い気持ちにはなっている。ウソだと思うなら、今から1分間息止めましょう。そしてこのまま二度と呼吸はさせないと誰かに宣告されて、本当にそうなってしまうと想像したらいいです。もう呼吸をさせてくれるなら、何にも要らない、全財産でも何でも差し出しますって気分になるでしょう。ということは、全てを投げ打ってでも欲しいものを、今我々は得ているわけでしょ。これ冗談ではなく、呼吸系疾患や手術その他で呼吸に困難を伴うようになれば心底そう思うでしょうよ。当たり前のように呼吸できることがどれだけ幸福なことか。身体や精神が順調に機能して生きているということ、それがどれだけの満足感と快感を与えてくれているものか。

 でも、何度もいうけど、僕らの「意識」は馬鹿だから、あっという間に有り難みを忘れる。「三歩あるくと恩を忘れる」と言いますが、もう猫並、ニワトリ並の健忘ぶりです。でも、心も身体も忘れてないよ。記憶をよみがえらせると、心と身体は喜ぶ。生きる喜びを追体験するから。思い出し笑いでクスクス笑うように、「ああ、いい気持ちだったな」と意識はしなくてもリピートするのでしょう。

 余談ですが、僕らの意識は動体視力に特化しているのかもしれませんね。変化には強い。でも同じ状態が続くとすぐに見えなくなる。こういった生きる喜び、ささやかではあるけど確かな喜びも、続けば分からなくなるけど、逆にそこに変化が伴えば意識でも認知できる。例えば、いつもは都会暮らしの人がたまに自然の多いところに旅行にいけば、「ああ、空気がおいしい」と感じる。ましてや屋久島や白神山地のように樹齢の古い濃密な緑のもと、新鮮な酸素を吸う喜びは格別だと感じる。森林浴という言葉すらあるくらいで、自然環境そのものが強烈な快感を与えてくれる。

 森林浴でいえば、普通の温泉だって相当気持ちいいですよね。適温のお湯に浸かるだけなら自宅の風呂でもいいんだけど、温泉だと格別気持ちいい気がする。まあ、正直にリアルにいえば近所の銭湯とどこが違うの?って場合もあるんだけど、それでも全力でうれしがろうとはするよね。「ああ、極楽」とかわざわざ口に出して言ったりするよね。温泉が極楽だったら、自宅の風呂だって「半極楽」くらいなんだから、もっと常日頃から喜んでも良さそうなんだけど、でも意識は「変化」を楽しみたいんだろうな。意識というのは、マスコミみたいに変化に飛びつき、能書きや、もっともらしいストーリーに飛びつく。要するにアタマが悪いということなんかもしれないけど、心と身体はもっとナチュラルに賢い。賢いというか、騙されにくいのでしょう。

なんでこんなことを思いついたのか?

 さて、前回書いたあと、なんでこのことに気づいたかというと、夕刻、買い出しに出かけたときです。こちらはサマータイムで、日が長く、12月ともなれば8時過ぎてもまだ明るい。暑くもなく寒くもない日は(今年は不順だけど)、本当に気持ちいいんですよね。オーストラリアというのは、家の外が気持ちいいんです。オージーがアウトドア派になるのもわかる。カフェやレストランでも、店内ではなく外の席で食べたりするのを好む。最初は、あんな排気ガス撒き散らす車道の近くでメシ食って美味いのか?と疑問だったけど、自分がやってみると、なるほど気持ちがいいんです。なんでこんなに気持ちがいいのか、カミさんともども分析の最中で、もう何年も「不思議だよね」と言ってて、未だによく分からん。でも、そこに居るだけで気持ちいいってことは確かにある。

 これは本当にオーストラリアに来てから常日頃感じることで、要するに居るだけで気持ちいい。もう満たされた気分になる。自然が多いのか、人々が気持ちいいからか、公園などが整備されていて人口密度が低いからか、いろいろあるのだけど、ともあれ結論としては気持ちが良い。だから物欲もなくなるのだけど(^_^)。

 で、先日の夕刻、買い出しのために家を出て、外の空気に触れ、その何ともいえない気持ちよさに包まれたとき、「あ、これか」と思い至ったのです。そこに存在するだけで既に快楽がある。空気とか、陽射しとか、気温とか、自然とか、色彩とか、空や雲や。それだけでも結構満たされるものなんだな。過去の記憶で思い出すときには、当然光も、温度も、風景もそれとなく思い出しているわけで、それを感じて、燃料にしているじゃないかなと。

 これってオーストラリアが抜群に居心地がいいというわけでもないのだと思う。日本だって気持ちいい空間や環境は沢山あるし、密度比率でいえばオーストラリアの比じゃないくらいにあると思う。ただ、なぜか気づきにくい。オーストラリアにいると、それに気づきやすい。それは住環境なのかもしれないし、仕事や生計の性質に由来するのかもしれないけど、少なくとも僕には気づきやすかった。月があんなに綺麗で、あんなに心奪われるものだなんて、こっちに来るまで迂闊にも気づかなかったぜ、と。

快楽階層

 今書いているのは、とってもベーシックな快楽です。すごく基本的な生きる喜び。生きてることは楽しい。なぜか?生きているからだ、みたいな。禅問答みたいだけど。それが強烈ではないけど、うっすらと、しかし厳然と下地に塗られている。適正な重力、酸素、気圧、自由、栄養、、これらが身体と心を優しく満たすように、ファインチューニングの喜びがある。生き物としてうれしい。これが第一階層。

 その上に、第二階層として色々な事柄が乗っかっていくのでしょう。小さなことなんだけど、良い気持ちになれることは沢山あったりします。単に歩いているだけだって、身体を動かすことは基本的に気持ちいいです。夕焼け空がめっちゃキレイだったとか、帰り道に可愛い猫がいたとか、そんなことでも嬉しい。さらに第三階層として日々の生活のアクティビティが乗っかる。好物のギョーザが美味かったとか、風呂に入って気持ち良かったとか、この週末は思う存分寝るぞ!とか、新しい服を買ってちょっとうれしいとか、楽しみにしているTV番組とか、漫画の新刊が出たとか、立ち寄ったお店の店員さんがいい感じの人だったとか。

 さらにその上の第四階層くらいに、もうちょいイベント的な出来事が乗っかるのでしょう。試験に合格したとか、新規取引が進んだとか、恋愛とか、いわゆる「成功」とか。

 でも、僕らのドンくさい意識君がファローしているのは、おそらく最上階層と、せいぜいその下くらいなのでしょうね。合格したとか、旅行に行って楽しかったとかそのくらい。しかし、本当はその下に、何層にも楽しさと快楽の層はあるのでしょう。そしてこれらの基礎構造がしっかり頑張ってくれているからこそ、僕らは自殺しないで済んでいる。生きていけるんだと思う。

 もうちょい敷衍すれば、僕らが自殺しない本当の理由は、言葉では表現しにくい根源的な死の恐怖があるのでしょう。何となく「死」というと「意識が無くなる」だけみたいに思いがちだけど、それこそ意識君の浅はかな見解で、意識が途切れれば死ぬんだったら、僕らは毎晩寝る度に死んでます。そうじゃない。もっと本質的に恐怖しているものがある。それは何かといえば、この意識されない基盤層に由来するのでしょう。それは例えば死んでしまえば、漆黒の闇のなか、光も、酸素も、気圧も、何もかもが存在しない世界へ突き落とされるのだという動物的な恐怖かもしれない。詰まらないとか楽しくないとかいうレベルではなく、もっと深い深い恐怖だと思う。心と身体は、それが健康なものであればあるほど、その恐怖を正しく察知する。目隠しをされて断崖絶壁に立たされたとき、見えないけども心臓をわしづかみにされるような恐怖を感じるように。

 そういえば、かなり前に読んだ4コマ漫画(「フリテン君」だったけな)で、ぱっとしない中年男が、詰まらなそうな顔で立ち食いソバの店に入り、ソバをすすり、満腹になって店外に出るだけの描写のあと、最後に「夢もチボーもなくても、結構生きていけちゃったりして」とぼそっと呟くというものがありました。これ、かなり秀逸な漫画で、いやあ真理だよなあって印象に残ったので今でも覚えてます。

 ここでいう「夢」「希望」というのは、意識君お得意の最上階層の出来事なのでしょう。しょせんは上っ面のことに過ぎない。だからそんなもんがなくても、立ち食いそばを食べるひとときの、ささやかな満足感で、人は十分に生きていける。

 で、ここが冒頭で書いた「耳寄りな話」なんですね。
 生きるということに、格別な想いも、努力も要らない。何もせんでもいい。ごく普通にしてたら勝手に生きていってしまうから。ある意味、こーんな楽な話はないでしょう?

イチゴショート論

 翻って考えれば、僕らが生き甲斐とか、人生設計とか、キャリアとか色々言ってる事って、最上階層の出来事に過ぎません。まあ、フリルみたいな部分です。デコレーションですね。

 ケーキの上にイチゴを乗せたらイチゴショートになるけど、そのイチゴ部分ですね。代わりにサンタさんの人形を乗せたらクリスマスケーキになるという。どっちを乗せようかな、、、これが「キャリアプラン」と呼ばれるものでしょう。でも、イチゴもサンタ人形も、それだけだったら「ケーキ」ではないです。しかしサンタもイチゴもなくても、ケーキはケーキです。人生ってそーゆーことだと思うのです。本当にそのケーキが美味しいかどうかは、スポンジ部分やクリームの出来なんですよね。ベーシックな部分にかかっている。

 もっとも、イチゴを乗せるのは楽しいです。なかなか上手く乗っからないし、イチゴも中々手に入らないから、ゲームとしては面白い。ムキになるのも分かるし、楽しいです。僕も散々それで遊びました。それ自体が生きる喜びを招きます。だけど、どこまでいってもイチゴはイチゴなんですよね。イチゴが上手く乗らなかったといっても、あるいは乗せるべきイチゴが見つからなかったとしても、だからといって死ぬことはないです。現に、実際に食べるときは、イチゴは取り分けて食べますしね。

 ここでいうイチゴが「夢」「希望」であり、夢や希望がなくたって別に人間普通に生きていけちゃったりするということの意味だと思うのです。そんなもん無くたって、生きていくために必要な喜びは日々得ている。知らないうちに。十分すぎるくらい。

 だとすれば「生きる気力をなくした」というのは、そそっかしい意識君のいつもの早とちりってやつなんでしょう。時代劇番組の冒頭によく出てくる、「親分、てーへんだ!てーへんだ!」って駆け込んでくる人みたいな。だから意識なんぞにマネージさせたら、あぶなっかしくてしょうがないという所以です。

 長くなっちゃったけど、もっかい整理します。
 改まった「生き甲斐」なんか別になくても、人は生きていけます。そんなのデパートの最上階層で催し物やってるようなものですから、無くても構わない。もっとベーシックなところで、十分に生きていくだけの燃料は得られるし、実際今この瞬間にも得ている。

 だから、夢も希望もなくても、No worries, mate. です。あなたの試みや企みがことごとく破局を迎えようが、何をやってもダメダメだろうが、心配するこたないよ。なぜなら、世界があなたをガッシリ支えてくれているから。ステージダイブのオーディエンスのようにしっかり受け止め、立たせてくれる。人間には浮力があるからほっておいても自然に水に浮くように、ほっておいても勝手に生きていけるだけの資質とシステムはしっかり装備されており、そしてそれらは今日も健全に力強く作動している。最初からそういうものとして設計されているのだから。

 ケーキの上のイチゴが上手く乗らなくたって、それはただそれだけのこと。ケーキがケーキではなくなるわけではない。そんなのあったり前のことです。ただし!これはなかなか意識しにくい。意識というのは、視野狭窄で、恩知らずで、もっともらしい説明にすぐに騙されて、変化に飛びつく浮気者だから、それがよく分からない。だからイチゴがころんと倒れたら、それだけで「ああ、、、」と絶望し、ましてやケーキから転がり落ちようものなら、もう死にたくなってしまう。気持ちは分かるし、僕だってそうだ。

 何というか、人間というのは進化の頂点と豪語するだけあって、メカ的にはおっそろしく精妙で、信じられないくらい優秀な乗り物なんだけど、それだけのメカを動かすだけの意識が伴ってない気がする。素人がジェット機を操縦しているみたいな感じ。「あわわ」といって操縦桿をガク引きするから、なんてことないところで失速墜落する。

 こういった状況で、では、何をなすべきか。
 やっぱ、第一、第二、第三の低階層をちゃんと知るべきでしょう。意識するのは難しいかもしれないけど、ある程度は出来る。ほんの数秒、いつもよりも長く見つめているだけで、それが美しく、玄妙で、不可思議であることがわかる。少なくとも糸口のようなものは見えてくる。ゴッホの「ひまわり」は有名だし僕でも知ってるけど、あれだけの天才が、才能と努力の全てを傾けて、なんでムキになってひまわりなんぞを描いたのか、ひまわりのどこにそれだけの美があるのか、それが僕に分かっているわけではない。彼には見えているものが、僕には見えていない。彼に感じられた感動を僕は未だ得ていない。ゴッホのひまわりという絵を見て感動するなら、ひまわりの実物をみたらもっと感動しなければウソなんだけど、そうならない。見過ごしているのだ。みすみす見逃しているのだ。

 それは単に生活を楽しくするだけではなく、上に書いたように、突如として天から降ってくる「人生の本当の苦難」をクリアする力にもなる。相当に激しく、キツイ横波を喰らうわけで、心なんかボキボキに折れるどころか、ミキサーで粉微塵になるくらいでしょうが、それすらをも支えられるように。自分を取り巻く森羅万象からそれだけの力を引き出せるように。これをもうちょっと男の子的にいえば、自分が乗ってるマシン(心身)のポテンシャルを最大限に引き出せるだけのドライビングテクニックを磨いておけ、ということでしょう。タイヤのヘタレ具合から、路面の濡れ具合、風向きなどを常に冷静に頭に入れ、コーナーに突っこむときにカーブのRを予測し、どこまでシフトダウンするか、クリッピングポイントはどこか、どの地点でカウンターを当てるか、立ち上がりのどの地点でアクセルを踏むか、、、これらを瞬時に的確に判断できるように修行しておけということです。

 低層レベルの理解が正確であればあるほど、判断は誤らないし、実行も確実になる。ここが甘いとちょっと横波喰らっただけで横転することになる。やる気満々でスタートしたのはいいけど、ちょっとお腹が減っただけでもう全ての気力を失い、路上にへたり込んで行き倒れてしまう。「生きる」ということ、メカをちゃんと動かすこと、森羅万象を正確に理解することを舐めてるんだわ。

 一方、意識は意識で頑張ればいいです。イチゴショート遊びは、それはそれで懸命にやればいいです。意識というのは厄介なヤンチャ坊主みたいなもので、ほったからしにしておくと何をするか分からん。適当に遊びを与えて、拗ねないように、イジけないようにあやしてあげる必要がある。イチゴゲームは、まあ、適当に健康な遊びなんじゃないでしょうか。レゴみたいに。なんだかんだいって、操縦席に座っているのは意識君なんだから、彼に頑張って貰わないとならない。ダメダメだったら教育しなければならない。

 イチゴゲームだって、やってれば沢山学ぶものはあるし、賢くもなる。だから最上階層でやってる催しもの、やれ成功したとか失敗したとかギャンギャンやってる物事は、ちょっと大きな視点でみれば、あれらは一種の「教材」なんだと思います。適当に面白くて、そして学習に役に立つという。そうやってある程度学んでいけば、イチゴはしょせんイチゴであり、イチゴを百個集めてもケーキになるわけではないということも分かるようになるでしょう。でも、それを心底納得するためには、やっぱり自分でイチゴを乗せてみないとならないんでしょうね。


文責:田村



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