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今週の1枚(2011/11/21)



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Essay 542 : 多分、こんな感じなんだろうな 〜「慣れ」という麻薬

 写真はBroadwayのShopping Centreでの一枚。
 なんか、妙にシュールな雰囲気なので撮りました。

 こんな連絡通路にマネキンをポンとおいて意味あんのか?と。さして心そそられるような気もしないのだが(分からんけど)。でも、雰囲気ちょっと異様で、クラフトワークの「ショールーム・ダミエス」という曲を思い出した(テクノの元祖で、ショーウィンドウのマネキン達がいきなり動き出し、ガラスをたたき割って街に出て行くという不気味なコンセプトの曲)。




 最近気づいたことなんですけど、戦時中のことを書いた小説などを読むと、当時の市井の人々の生活感や暮らしぶりが「異様なまでに普通」だったりします。「異様なまでに」です。

 これが、なんとも「すげえな」って感じで、今更ながら驚いています。
 何をそんなに驚いているかといえば、人間というのはどんな状況でも慣れるのだな、ということであり、同時にこうやって「日常」にすがりつくことで、国家の、社会の、ひいては自分自身の「秩序」を守ろうとするのだな、ということです。

 それがどうした?というと、この先、なにかカタストロフィック(破滅的)な事態が生じたとしても、例えば人類が絶滅するとか、そのくらいの出来事が起きたとしても、その場に居合わせた人間の正直な実感というのは、案外といつも同じような、のったりまったりした「日常」のままではなかろうかと。めくるめくようなスペクタルが展開し、非日常的でシュールな世界が炸裂しているのではなく(そういう場所や局面もあろうが)、自分の身の回りでは相も変わらぬ平凡な日常風景のまま推移しているという。

 だって、考えてもみてくださいな。
 どっか遠方で戦争をしてるだけなら、自衛隊のイラク派兵みたいなものかもしれませんが、徴兵制の下では、いつ何時自分に降りかかるかわからないのですよ。単に抽象的な確率ではなく、予め身体検査を受けさせられて甲種合格とか乙種とか分類分けされているのです。もう「準備万端」って感じなのですよ。大学生における就活のような身近な距離で「戦場」があった。赤紙(召集令状)がボンボンとどき、友人も、家族も、そして自分ですらも召還され、兵隊になる。どっかに送られる。対米開戦以後、戦局がヤバくなってきてからは、ちらほらと戦死報告も届くようになったでしょう。徐々にその頻度も増えてくれば、赤紙を貰う=事実上の死刑命令のような感覚を抱いたでしょう。

 ある日、死刑執行の命令書が届く。それは家族かもしれない、恋人かもしれない、自分かもしれない。かなりの確率でそうなる。そんな状況って精神的には地獄といってもいい。だから国民の大多数が恐怖や悲嘆で発狂したり自殺したりしても良さそうなのに、驚嘆すべき秩序正しさで日々の生活が流れていく。配給米を貰い、防空壕を堀り、防災訓練をし、疎開をし、工場で働かされたり、軍事教練をやらされながらも、粛々と物事が進んでいくという。

 これって、すごくないですか?

小松左京の小説から

 ここで小松左京の小説をいくつか紹介します。
 「またか」と思われるでしょうが、またです(^_^)。年々彼の小説を読み返すたびに、「ううむ、、」と唸る頻度が高くなってます。昔の自分は馬鹿だったから分からなかったのですが、自分の知識や考えが進むに連れて、霧に隠れていた巨峰が見えてくるように、この人の偉大さが見えてくる感じです(まあ彼に限らず、誰に対してもそうなのだが)。高校の頃から数えればもう30年以上、何十回と読んでる筈なんだけど、新たな発見がある。「うむむ、この一行はメチャクチャ深いぞ、そうか、そういう意味だったのか」と。それが一冊に数カ所という頻度ではなく、数頁に何カ所もボコボコでてくる。

 左京論はまた別の機会に書くとして(もう一回書いてるが)、ここでは「廃墟の彼方」「くだんのはは」「握りめし」という三作の小説に描かれている日本の戦争末期と戦後の描写を紹介します。

 僕がオーストラリアまで持ってきている文庫本をシコシコとスキャンしたものです。
 最初は手打ちで引用しようと思ったのですが、あまりにも面倒臭いのと、面倒臭い割には読みにくいので、もうスキャンしちゃいます。

 
「廃墟の彼方」


小説01 小説02 小説03 小説04 小説05 小説06
 
 
「くだんのはは」

小説k1 小説k2 小説k3
 
 
「握りめし」

小説n1 小説n2
 
 ちゃんと読んだ方、お疲れさまでした。
 なかなか面白いでしょう?
 じゃあ今回はこのへんで、、で終わりにしてもいいのですが、それじゃあんまりですので、もう少し。

 以上の抜粋は、各小説の「さわり」ですらありません。本編はそれぞれここからグイとねじ曲がります。「廃墟の彼方」は焼け跡が異次元空間につながっているSF的な展開になり、「くだんのはは」は背筋がぞくっとする怪談奇譚になり(この作品は有名)、「握りめし」はこれはSF的な展開は全くなく、戦争の、というよりも飢餓の爪痕が何十年も経ったフラッシュバックのように甦るという純文学になります。いわゆる戦争の悲惨さや戦前戦後の日本人の暮らし向きを書くことが本題では「ない」。それぞれの部分はただの背景描写でしかないです。

 だからこそ、逆に資料価値があると思ったのです。「くだんのはは」(1968年)、「廃墟の彼方」(1968年)、「握りめし」(1973年)という発表時期を考えればわかるように、終戦からまだ20年ちょいしか経っていません。当時においては、敢えて「戦争体験を語る」というほどのこともなく、「つい先日の話」として誰もが共有していた記憶だったでしょう。なにしろ時間的隔たりでいいえば、2011年現在と1990年初頭のバブル時期程度しか離れておらず、今日バブル時期の記憶は一定年齢以上の人には生々しく記憶され共有されているのと同じように、当時における戦争体験もまた「ありふれた話」であったでしょう。

 ということは、作者には戦争の悲惨さを強調しようという格別の意図もないし(単なる背景であってテーマではないし)、またそんなことをしてもリアルな実情を知っている多くの読者は白けるでしょう。だからこそ資料価値があると。しかもその「資料」は、文才豊かな作者によって、平易に、リアルに、そして何よりも淡々と書かれています。

 しかし、それにしても、なんという「淡々」さでしょう。

 例えば「廃墟の彼方」で描かれる戦時中の空襲の様子。
 このあたりの描写は「くだんのはは」と相似形をなしているので、おそらくは作者の実体験をベースにしていると思われるのですが、自宅が焼けてしまった様子を、「道の反対側には国民服に髭をはやした男が一人、薄馬鹿のように口をあけて立っていた。それが父だった」「『とうとう焼けたね』ぼくは出来るだけさりげなく、父に声をかけた」という描写が、悲惨を通り越えてむしろユーモラスに感じられるくらいです。とくに、「焼けてしまえば、それまで焼けずに残っていた方が、かえって悪夢のように思えて夢からさめたような気分」になり、そして級友に「『丸焼けや』と、ぼくは焼けあとを顎でさした。--その声が、なんとなくはずんでひびいてしまうのが、われながら妙な感じだった」という心理の微妙なアヤ。この描写は実際に経験してないと出てこないのではなかろうか。

 あるいは、(10)(握りめし)冒頭に描かれている、お話にもならないような当時の食糧事情。1日二人で一合の外米に青い南瓜を葉っぱや蔓まで入れて食べ、海水で煮たどろっとした海藻が給食に出る。飢餓が、胃の腑だけではなく筋肉や骨格にまで重くぶら下がるような日々になるのですが、だからといって日常のルーティンが崩れるわけでもなく、父子ふたりで黙々と過ごしている。

 空襲にしたって、毎日最低三度、多いときは五度もあり、当たり前のように人が死んでいます。級友でさえ「顔なんて、つぶれてしもてあれへん」という無惨な死に方をするのだけど、もう何の感動もなく聞いているという。また、完全に廃墟になった町を前にして、少年達は打ちひしがれるどころか、嬉々として「探検」に乗り出す。そこではグランドピアノが焼け残っていたり、風呂場で米が炊けていたり、また炭化したり、カラメルのようにひび割れた焼死体を幾らでも発見します。しかし、無惨な死体さえも少年達にとっては探検場におけるアトラクションの一つに過ぎない。

 そして、戦後の闇市の描写においては、「殺人紫蘇糖入り汁粉」「ダニのいるキューバ糖」なんて今からはおよそ想像もできない(僕も出来ない)、健康もクソもないような食い物が並び、そこらへんの裏町で普通に撃ち合いがあったり、強姦や輪姦は当たり前にあったり、「戦争によるのではない死体」も転がっているという。ギトギト脂ぎった人間の欲望丸出しの喧噪が繰り広げられます。

どんなことにも慣れる

 これらの戦前戦後の淡々描写によって何を思うかですが、まず、月並みですが、「人間というのはどんな状況にも慣れる」ということです。

 幾ら「慣れる」とはいっても、これは慣れすぎだろう!?モノには限度があるだろう?と思うのですが、でも慣れる。
 目の前の現実を平然とパクパクと咀嚼してしまう。

 今の感覚では、ほとんど「ありえない」状況においても、人々は黙々と現実に順応する。抗議や暴動が起きるわけでもないし、世をはかなんで自殺者が急増するわけでもない。空襲があった翌朝にはもう電車が動いているように、どんな状況になったとしても、人々は淡々と日常をやりすごしていく。

 そうかかといって何も考えていないわけでもないのですね。
 「くだんのはは」(9)に触れられているように、「山陰かどこかで、二つの赤ん坊が突然口をききはじめ、日本を負けると言った」「銀行は既に敗戦を予期して、財産を逃避させている」「大本営が信州にできる、天皇はもうそこに移られた」とか、デマのような噂が、中学生である主人公の周囲でも語られるようになります。うっすら予感はしている。この種の戦争の帰趨に関する「うわさ」は、まるきりの予兆的な「おはなし」もあれば、かなり正鵠を突いたものもあり、それらは本書で幾つか紹介されています。子供達でさえ、そういう噂をヒソヒソとしていたくらいだったのだから、「これで勝ってるわけないよな」というのは皆も薄々分かっていたのでしょう。

 しかし、again、だからといって何かのアクションにつながるわけでもない。相変わらず唯々諾々と工場で働かされ、空襲があると防空壕に避難する日々を送る。そして唐突に終戦の玉音放送を聞く。政府や軍部が散々言っていた、本土決戦も、一億玉砕も、竹槍特攻も何もないまま、ボケーッと現実を受け入れる。午後の授業が休講になってしまった学生のように、「何もすることがなくなってしまった」という空白になる。

 ほどなくしてギトギトな戦後日本が始まる。「握りめし」(11)の主人公は、無茶苦茶な食生活をしながらも進学し、警官隊と喧嘩したり留置場に入れられたり、お情けで卒業させてもらったり、就職では片端から落ちたりしながらも、それでも何とか居場所を確保し、ふと一息ついて周囲を見回してみたらなんたら景気とやらで世の中が豊かになっていたという。この主人公に限らず、当時は誰も彼もが似たり寄ったりだったのでしょう。

 まるで「急流くだり」のような激動の日々であり、まともな神経だったら発狂してもおかしくないような変化なのだけど、人々は「あっそ」と言わんばかりの無感動さで、その時々の目の前の現実を受け入れていく。慣れていく。本当に、もう、どんな状況にも慣れていく。

 とりあえず思うのは、この偉大な「慣れ」です。
 やれ、体育会系の部活の練習は、最初はしんどいけどすぐに慣れるとか、新入社員の頃は大変だけどすぐに慣れるとか、海外といっても住んでしまえばすぐに慣れるとか、僕らは「慣れる」という偉大な精神傾向を知っています。が、これほどのものとは!これだけの巨大な環境変化は、僕の(おそらくはあなたも)半生にはなかったでしょう。頭では分かっていたけど、改めて考えてみたら凄いです。まあ〜、ね〜、このレベルで慣れることが出来るのだったら、そりゃ仕事とか海外なんか屁みたいなものでしょう。慣れないわけがない。

多分、こんな感じなんだろうな

 第二の感想は、将来どんなことが起きようとも、「多分こんな感じなんだろうな」ということです。

 餓死寸前の食糧事情になろうが、毎日のように周囲に誰かが死のうが、それが現実だったら文句言っても仕方がないから黙々とそれに適応する。その悲惨な日常が「なぜそうなってるか?」を説明する理屈もあります。やれ聖戦であったり、神国であったりするようなことですが、僅か数分間の玉音放送でそれらが全部ひっくり返されたからといって、「俺たちは騙されていた!」という騒ぎにもならない。

 なぜ怒らないのか?思うに、おそらくは「騙されてなかった」からでしょう。
 彼らがその過酷な現実に従っていたのは、日本の戦争に正義性があったり、神州不滅だからではなく、ただ単純に「それが現実だから」だったのでしょう。本音のところでは、そんな理屈を皆が信じ込んでいたわけではない。「どうしようもないから」黙々と従っていただけ。

 ということは、今後、現在の感覚からしたら天変地異レベルの大変動が起ったとしても、いざ自分の目の前で起きてしまえば、我々は、けっこう淡々と咀嚼してしまうと思われます。否応なくその現実に参加させられ、文句を言っても直ちに何がどうなるものではないことが分かれば、我々は全力でその状況に馴染もうとするだろう。転んで反射的に泣きわめいていた幼児が、周囲に誰もおらず、泣くだけ無駄なことを悟るや直ちに泣きやむように、しれっとその現実に参加する。

 この先の日本がどうなるか分かりませんが、仮に福島原発でまさかの大爆発が生じ、東京も含めて東日本が高濃度で被曝した場合、日本は半身不随になります。そして、大量の人々が避難のために西日本に向うことになるけど、西としても大量の被曝者がやってこられたら共倒れになるからおいそれと受け入れられない。箱根や関ヶ原でストップさせ、それに憤激した東側と、あくまで守ろうとする西側とが対立し、やがて現場で偶発的な殺傷事件やら戦闘が起き、日本の内戦が始まったりするかもしれない。「関ヶ原の戦いパート2」が始まる。いや、別にそうなるとは全然思ってないけど、どんな荒唐無稽なことも起きてしまえば、その現実を前提にして人々は動くだろうということです。

 あるいは徐々に経済が衰退し、空洞化が極端に進み、格差社会なんて生ぬるいレベルではなく殆ど「カースト」のような身分社会になるかもしれない。東京や大阪の都心部には麗々しい高層ビルが建ち並ぶけど、その足下には無数のスラム街が形成される。そこでは犯罪がリンチが日常化し、幾つもの暴力集団がシノギを削り、売春がサラリーマンのように一般化し、アンダーグラウンドでは幼児売買と臓器売買。よそ者が迷い込んだらまず間違いなく殺されるか、身ぐるみはがされるスラムが出来る。そして「スラムの子は一生スラム」という「どーしよーもない現実」が構築され、ここから抜け出そうとすればサッカープレーヤーや大相撲の関取になるしかないという。どっかで聞いたような話ですが、今でも「世界の実相」はそんなものだったりするでしょう。金ピカ部分だけ見てれば、さぞや経済成長!って感じだろうけど、社会トータルではそんなものでしょう。だからその後、日本経済が奇跡のV字回復を果しても、スラムは相変わらずスラムのまんまかもしれない。

 はたまたダメダメになった日本を米中露が介入し、事実上併合し、米中露の「(日本)民族自治区」になるかもしれない。しかし、そうなったらそうなったで、大量の資本が流入するので仕事も一気に増え、給料が倍増し、さらに日系は真面目で優秀なので出世しやすいという状況が生じるかもしれない。日本国自体は四分五裂し、かつてのポーランドのように消滅するけど、人々の生活水準は画期的に上がるかもしれない。またそれぞれ自動的に米国籍などを与えられるので、二世、三世になるとネィティブでバイリンガルになり、日本民族は獅子身中の巨大な虫となり、ユダヤや華僑と拮抗する日本閥を形成し、50〜100年後には日系のアメリカ大統領と、日系の中国首席が誕生し、米中露の全てを併合して、かつての神聖ローマ帝国のような大日本国が誕生するかもしれない。荒唐無稽なようでいて、世界史を遡れば、国家なんかアメーバーみたいに激しく連結したり分離したりしてますからね。

 たった数十年前にこういう戦争があり、それを皆がしれっと乗り越えている、という否定できない事実があります。あ、「しれっ」というのは精神的にです。物質的・肉体的には超大変だったのでしょうが、しかしこのような変化によって、精神が完膚無きまでに破壊されて廃人になった人が大量に出たり、殉教的に集団自決があちこちで頻発した、、というわけではない。「ふーん」「やれやれ」くらいの感じでやり過ごしているように見える。そういった事実(=驚天動地の変化がありつつも、精神が破壊されることなく対応している)をもとにして考えれば、今後数十年スパンで何じくらいの規模の変化が起きても不思議ではないですし、同時に何がどうなろうとも、やっぱりしれ〜っと乗り越えているだろうなあ、という気がするのです。そんな誰も彼もが大パニックになって、髪の毛振り乱して半狂乱になり、阿鼻叫喚の地獄図が延々と続く、、、、という感じにはならないのではないか。

なんでしれっと出来るのか

 しかし、それにしてもね、、という気分もあります。
 いくら現実に適応といっても、そんなに適応できるものなのか、あるいは何故そんなに適応できるのか?

 一つには、「どうしようもあるか/ないか」だと思います。変革可能性です。
 騒いだり、文句言ったり、努力をしたりというアクションを起こせば現実が変わると思えば、人はそれをやるでしょう。しかし、何をどうやっても「変わらない」「どうしようもない」と思ったらやらないでしょう。

 平たい言葉でいえば、やりがいのあること、やればやっただけの結果が見込めることには「やる気」が湧くが、幾ら何を頑張っても絶対無理と思えることにはやる気すら湧かない。やる気が湧かなかったらどうするか?ブチブチ言いながらも、現状を受け入れるしかない。そして、考えると不安や不愉快になるようなことは出来るだけ考えないようにする。だって考えたってしょうがないんだもん。他にどうしようもないだろ?と。

 二つ目には、「考えない」「感じない」ということです。

 「考えないように」していると、本当に考えなくなります。また、ツライともイヤだとも感じなくなる。さらに進めば、そもそも外界に対する興味も無くなっていく。

 厳しいトラウマを受けたり、ツライことがあった人は心を閉ざして反応性鬱病になったりするとか言います。詳しい話は専門外なのでわかりませんが、あまりにも現実が辛かったら、現実を受け入れるのを拒否する。窓の外の風景があまりにも悲惨で不愉快だったら、窓のカーテンを下ろして見えなくするようなものです。

 ハッピーで、生命力に満ちあふれている人は、いわゆる「箸が転んでもおかしい」ということで、どんなことにも激しく感動し、リアクションを起こします。しかし、その逆の場合は、精神の弾みがだんだん失われ、伸びきったゴムのようになり無感動になっていくのでしょう。なぜそうなるのか?

 人間(生物)というのは「生存」こそが第一順位のプライオリティを占めますから、とにかく生き残るために全力を尽す。身体も精神も生き残るために最適なように変身する。現実があまりに不快で心が壊れそうになったら、防衛として現実を認知する力を落とすのでしょう。麻酔を打ったように、痛みを感じなくする。無痛覚、無自覚、無感覚にする。一気にゼロにはしないけど、麻酔濃度を適宜調節して、ほどよい頃合いにするのでしょう。

 冒頭で紹介した各小説の淡々とした描写ですが、これは描写が淡々としているだけではなく、登場人物の心理の動きも淡々としているのですね。もう非人間的なまでに淡々としている。級友が空襲で殺されても、全く何も感じなくなっている。飢餓と疲労という肉体的な状況もあるだろうけど、あまりにもしんどい状況が続きすぎると、何かに驚いたり、感動したりという心の弾性値のようなものが減ってくるのでしょう。

 三つ目は、やや重複しますが、安直な正当化、思考能力の劣化、さらに現実逃避という理性面の減退があるのでしょう。大変だ、でもどうしようもない→いや何とかなるさ→なるに決まってるよ→絶対そうなる、という。どう考えてもあれだけボコボコ空襲を受けて攻め込まれている状況で、あれだけの圧倒的な物量を相手に竹槍一本でどうなるものでもないとは思うのだけど、何とかなると思っちゃう、なるに決まってるじゃないか。もう自己催眠のようなものです。冷静な判断が出来ず、肝心なところでポーンとワープしてハッピーな結論に行っちゃう。あるいは、オストリッチ症候群のように、砂地に頭を隠して逃げたと思うように現実逃避に走る。

 その現れ方はケースバイケースだろうけど、冷酷な現実から一歩も退かずに真正面からメンチ切って見つめ、冷静にリスク値や可能性を値踏みし、検証し、次々に実行するということが出来なくなる。そういう意味では、知性というのは強靱な精神力あってこそのものなのでしょう。精神がヒヨワだと、優秀な知性も本領を発揮できない。

 以上の1〜3は適当に思いついたものですが、いずれも心理的な「最適化」のようなものでしょう。「最適」なのかどうかは疑問が残るのですが(^_^)、ともあれ今ある現実に心が適応しようとする。

 今、「現実に適応」という表現を使ってます。一見美しそうな言葉ですけど、別に現実に「対処」しているわけでもないです。あるいは現実と戦っているわけでもない。「適応」とはいいつつ、別の言葉で言えば、現実に打ちひしがれ、現実に負け、現実に盲従しているとも言えます。こう言うと、ヘナチョコなニュアンスが出てきてしまうのだけど、でも、ま、しょうがないときもあります。「なんでこんな時代に生まれたんだ」「なんでこんな国に生まれたんだ」とか文句言っても始まらないし、晴れて欲しい日に豪雨になったりするのも現実。現実を否定するのは現実から逃避してるのと同じことだし、現実を非難しても、それは現実に対処したり、戦ったりしていることにはならない。

 結局、思うのは、「現実との付き合い方」の難しさです。
 どこまで受け入れ、どこで戦い、どこで折り合うか。

いくつか思うこと

 とまあ、つらつら考えていくと、思考はさらに幾つかのことに連なっていくのでした。

@.慣れの恐さ
 自分にとって何か良くないこと、このままではマズイ事態になっていたとしても、それが一定期間継続すると、心身共にそれに「慣れて」いくでしょう。どんなものにでも人は慣れるのですから。

 それはシンドイ状況で心の負担を減らすという麻酔薬的な効能はありますけど、理性や闘志を麻痺させもします。慣れた方が良いことも沢山あるけど、慣れてはいけないこともある。モラルハザードのように、最初は「おかしい!」と思うような異常なことも、次第に感覚が麻痺して何とも思わなくなる。「ま、いっか」になっちゃう。

 日本に徴兵制が復活して、無茶苦茶な戦争をやり始めて、当たり前のように人々が死ぬようになったとしても、いざ現実にそうなったらそうなったで、多分けっこう慣れてしまうと思います。そうなったときの民衆の、そして何よりも自分自身のリアクションを、あんまり信用しすぎない方がいい。「そんな馬鹿な」と思うようなことでも、例えばあなたが将来、バクチで身を持ち崩して会社の金を横領するとか、覚醒剤に手を出して中毒になるとか、「そんな馬鹿な」というような事態でも、いざそうなってしまったら、結構すんなり受け入れてしまうかもしれない。そのときに「グッと踏みとどまって」という英雄的行為をあまり期待しない方がいい。

A.早期発見、早期治療  「ま、いっか」という危険信号
 現実というのは放置しておくとどんどん育ってしまって、巨大怪獣のようになり、「どーしよーも」なくなります。こうなったら手遅れで、あまりにも強大になった現実に太刀打ちできなくなります。頑張って抵抗しようにも強すぎてどうにもならんし、仲間を募ろうにも、皆も現実に打ちひしがれ、魂抜かれたようになってますからアテにならない。

 だから手遅れになる前に、ガンのようにあちこちに転移する前に、「あれ?」と思うようなことは、ちょっと立ち止まって検証して、潰すべきことは潰しておくべき。日常の自分でいうならば、例えば先ほどの「ま、いっか」ですね。このフレーズが出てくる時って、ちょっと黄色信号です。現実に流されて、慣れ始めているときによく言いがちなフレーズ。「問題は、まあ、あるんだけど、面倒臭いからいいことにしよう」という。勿論そうでないときにも言いますが、危険信号になってるときもある。

B.「激動」してても「まったり」感じる
 戦争だ、敗戦だ、人が死んだの生きたの、非常に激動の時代のように思われるのですが、リアルタイムの感覚ではそんなに動いている感じがしないのではないかと思います。他人からみれば、あるいは後世からみれば激動であったとしても、現場の感覚では結構「まったり」しているという。

 「激動」といっても、現実の時間感覚で言えばそんな数秒で何もかもが起きているわけではない。戦時中の配給食糧が徐々に減っていくにしても、数週間、数ヶ月間隔でのポツリポツリとした変化でしょう。「困ったわねえ」とか言いながらも対処できてしまう。積もり積もってとんでもない事態になっているのだけど、実感が湧かない。今の日本は、ここ20年ほど殆ど給料が上がらない、どうかすると下がっているという戦後日本においては、極めつけの「異常事態」が進行しており、これもまた「激動」といっても良いくらいですが、それでも変化はポツポツで、やれ残業手当が減ったとか、ボーナスが少なかったとかそういう感じで、ちょっとしたやりくりで対処できてしまったりします。本質的には全然対処したことになってなかったとしても、取りあえず漏水くらいは防げるからそれで対処した気になってしまうという。

 だから戦前戦後の激動も、リアルタイムの感覚ではそれなりに「まったり」してたような気がするし、今後驚天動地の変化が起きようとも、それもまた結構まったり感じられるのではないかと。

 思うに僕らが「変化」を感じるのは、「直近過去の記憶との変化率」だと思います。昨日と違う出来事が起きたらびっくりする。変化を感じる。大地震が起きたらもの凄い変化を感じ、びっくりします。しかし、起きてしまえば、その後の推移は日ごとにそれほど変わらなくなる。「昨日との変化率」だから、それ自体は徐々に小さくなる。よって変化しているような気がせず、まったりし、そして慣れる。

C.「慣れ」は攻めに向いており、守りにはに向いてないこと
 「慣れ」は現実を受け入れさせる麻薬薬のようなものですが、それだけに「薬は使いよう」です。
 何か新しいことにチャレンジする場合、最初は変化率が激しく「きゃー」と思うのだけど、やっていれば変化率が下がってきて、徐々に慣れる。どんなに厳しい練習もそのうちに慣れるし、鼻唄交りにこなせるようになる。麻酔薬を良い方向に使う場合です。

 しかし、守りに廻ると「慣れ」という精神作用はとても恐いです。異常がないか点検したり、正しい状態を維持しようとする「守り」の局面では、良くない状態が発生しても、それが続くと慣れていってしまう。モラルハザードで述べたように、問題が問題に思えなくなってくる。過労死特急のような無茶な生活をしてても、慣れてしまえばそれを正すキッカケを失う。いわゆる「悪慣れ」というやつで、日本全国津々浦々でコレはあるでしょう。「放射能慣れ」とか。

D.「慣れ」と秩序
 慣れは麻酔系成分をもってますから、精神安定剤にもなります。良い方向に作用すれば秩序維持に役立ちます。
 この話をし出すと長くなるので別稿に譲りますが、「秩序」ってなんだろう?ということです。僕らの精神において「秩序」というのはどう作用しているのか、あるいは僕らの精神傾向のなにが秩序を生んでいるのだろうか。悪慣れだろうが何だろうが、それが慣れて日常になってしまえば、僕らの精神は落ち着く。落ち着くのが良い場合もあるし、良くない場合もあろうのだろうけど、とりあえずは落ち着く。そして市民的理性のようなものを取り戻す。列を作ってちゃんと並ぶし、周囲に気兼ねもするし、モノを貰ったらお金を払おうとする。

 天災時における日本人の秩序正しさは世界でも指折りに優秀ですし、誇るべきことなのですが、しかし喜んでばかりもいられない。秩序形成は、それは色々な理由があるのだろうけど、一つには何か変化があったとしても、直近過去の変化率だけではなく、同一性も見て「基本的には変わってない」と思うから果されるのではないか。変化を知りつつも、「昨日と同じだ」として地に足をつけ、市民的良心を維持する。だから秩序が保たれるのではないか。つまりは「変化酔い」しない。

 これを「変化に強い」とみるか、「変化に鈍感」とみるかですが、むしろ後者の方が強いと思います。だから喜んでばかりもいられない、と。起きてしまった現実に合わせ、心の動揺を抑え、秩序を維持するという意味では長所なのだけど、麻酔が効きすぎて、本当は変化しなければならないとき、変化に正しく対応しなければならないときにその時機を失する短所になって現れもする。大きな変化があったとしても、その意味性を見極める前に、まったりした日常事務に小口分割して対処してしまう。「ゆで蛙」現象ですね。だから両刃の剣なのでしょう。

 これはもう良い悪いの問題ではなく、クセの問題でしょう。ただ、本質的に危ない事態になったとしても、的確にそれを察知できないかもしれない、日常感覚でモノをみていると大きな変化をまるっぽ見逃すかもしれない、ということはキモに銘じておいてもいいと思うのでした。

E.変化の察知の困難さ
 これから驚天動地の出来事が起きたとしても、例えばいきなり戦争がはじまったりしても、僕らの日常の光景は実はそんなに変わって見えない。どうかすると寸分違わず同じに見えたりもするでしょう。宇宙人が攻めてきて、僅か10分で東京が消滅したとしても、あなたが福井県に住んでいたらピンと来ない。TVでは大騒ぎになってるかもしれないけど、あなたの自室は寸分違わずそのままだし、庭に乾していた洗濯物もそのままだし、家の外にでたら相変わらずの国道の風景が広がって、潮騒の音がする。何も変わっていないように見える。

 変化というのは、その場に居合わせないと実はとっても分かりにくいのでしょう。メディアやネットでは大騒ぎするでしょうけど、彼らが大騒ぎするのはいつものことで、殆ど「狼少年」状態だから逆にピンと来ない。TVを消して、ネットを落として、台所にいって、冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んだら、全く何も変わってないように思える。そんなもんだと思うのです。

 現場に居合わせたら、それはピンとくるどころか、ガビーンとなるでしょうが、それもすぐに時の経過と共に日常になっていく。庭の手入れをちょっと怠ったらすぐに繁茂する雑草のように、偉大なる慣れの力で、すぐさま日常性への回帰が起きる。ましてやちょっとずつ長い時間をかけて積み重なっていくような種類の変化の場合、これを的確に察知し、対処するのは、もの凄い観察力、洞察力、そして直感力が要るのでしょう。殆ど不可能レベルに難しいのだと思います。でも難しいからやらなくても良いというものでもないのが、ツライところです。


文責:田村



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