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今週の1枚(2011/11/07)



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Essay 540 : 失敗の仕方、損の仕方で器量が分かる

 写真は、今年の海辺の造形展(Sculpture by the Sea)
 先日、Bondiに行ったときに、ぶらっと覗いてきました。まだ開始前だったのですが、既に展示もだいぶ済んでいて、ある程度は見ることが出来ました。

 よく晴れていて海が綺麗でした。こう言ってはナンですが、別に彫刻が無くても行く価値はあるな、と。



 どう成功したかよりも、どう失敗したか?
 どう得をしたかよりも、どう損をしたか?

 成功/得よりも失敗や損こそが、その人の人生を雄弁に物語る。形作る。

 成功/得をするよりは失敗/損をした方が良い、などと言っているわけではない。
 失敗には失敗の仕方、損には損の仕方というものがあり、その態様が「その人らしさ」を残酷なくらいクッキリと映しだすということである。

ココ掘れワンワン考

 昔ばなしの「花咲爺さん」では、正直で無欲な善玉夫婦 VS 強欲で邪悪な悪玉夫婦がクッキリ対比して描かれており、強欲爺さん/婆さんは、終始一貫、絵に描いたように失敗しています。

 僕も(おそらくあなたも)うろ覚えの話なので、一応、ストーリーを書いておきます。

 善玉夫婦は、ノラだった白い犬を拾い愛情を込めて育てる。白犬は恩に報いるため、木の下で「ココ掘れワンワン」と叫び、そのとおりに掘ってみたら金銀財宝ザックザクだった。それを見ていた隣家の邪悪夫婦は、犬を拉致し、掘る場所を指示させる。指示通り掘ってみたらゴミばかり。怒った邪悪夫婦はその場で犬を打ち殺してしまうばかりか、悲嘆にくれる善玉夫婦にも悪態をつく。第二幕は、善玉夫婦が犬の墓の隣に、亡き犬を雨風から守るために木を植えるところから始まる。大木に育った頃、夫婦の夢枕に白犬が立ち、木から臼を作るように言う。言われたとおり臼を作って搗いてみたら再び財宝があふれ出した。これをみていた邪悪夫婦が因縁をつけて臼を持ち出し、自分らでやってみたら、汚物ばかりが出てきた。激怒した邪悪夫婦は臼を焼いてしまう。第三幕は、落胆した善玉夫婦は、せめてもの犬の形見として臼の灰を貰い受けて供養しようとしたところ、再び白犬が夢枕に立ち、枯れ木に灰を撒くように言う。言われたとおり撒いてみると「枯れ木に花を咲かせましょう」と美しい花が咲き、通りがかった殿様から褒美を授かる。それをみていた邪悪夫婦が真似をして灰を撒くと、殿様の目に入り、怒った殿様に罰を受けてしまう。

 この寓話の民族学的な解釈は”宗像教授”にも任せて(「宗像教授シリーズ/星野之宣作」は、かなり面白いマンガなのでオススメです)、失敗論で言うと、この隣家の邪悪夫婦は一貫して失敗していますし、損ばかりしています。失敗や損は、「すれば良いというものではない」といういい例証です。失敗や損にも「質」というものがあり、失敗して「ザマミロ」と言われるような失敗と、「惜しい!」と言われる失敗があると。しかし最もポイントになるのは、この「損/失敗の仕方」が隣家夫婦の人となりを如実に物語っているということです。詰まるところ、この人達は、「そーゆー人達」であり「そーゆー人生」を歩んでいる。もう残酷なくらいクッキリとあぶり出してしまう。

 一方、善玉夫婦ですが、彼らは非現実的なまでに善人すぎるのでよく分からんのですが、こうは言えると思います。彼らは得/成功をしていますが、それらは本人達も期待していなかった結果論に過ぎず、成功/得はこの夫婦の人間性なり人生を形作らない。何が形作るのか?といえば、一番最初に野良犬を拾って愛情を込めて育てる行為であり、あるいは墓に木を植えたり、せめて灰だけでもと貰い受けたりする行為です。クールな損得勘定でいえば、野良犬なんか飼っても、エサ代を考えれば赤字であり、いわば「損」です。犬の墓の隣に木を植える行為、灰を貰い受けて供養する行為、いずれも何らの利得には結びつきません。損か得かでいえば損です。しかし、この「敢えて損をする行為」が、彼らの人となりをこれまたクッキリ物語るわけですね。

 勿論、現実社会はこのようにおとぎ話ではなく、正直者や善人が常に報われると言うものではないし、強欲邪悪な者が得をする場合も多い。しかし、ここでは損得の因果法則を言いたいのではなく、成功や利得よりも「どう失敗/損したか」がその人の人生や人格を如実に物語る、という点です。

 この構造は、他の多くの昔話や物語にも共通します。強欲を戒めるという寓話系ではだいたいこのパターンで、「金の斧/銀の斧」もそうだし、橋の上で吠えて骨を落としてしまう犬(イソップ物語)もそうです。失敗の態様が人格・人生を規定するという。つまりは、その種のセコいことを考えてセコい失敗をし続けている、セコい人生を送っているセコい奴だということですな。ゲゲゲの鬼太郎に出てくるネズミ男的な人格であり人生であると。

 この種の話は教訓臭が強いので素直に受け入れられないという、邪悪な魂を持ったあなたのために(^_^)、もうちょい書くと、アンデルセンの「人魚姫」などはいかがでしょうか?あの物語は、魔法の薬を飲み、凄絶な苦痛に耐えながらも王子を恋い慕っていた人魚姫が、ついには果されず、また人魚に戻るために必要とされる王子の血を流すことも良しとせず、人知れず死を選び、海の泡になり天に昇っていくという、ひたすら悲しい恋物語です。ここで人魚姫は恋の成就に失敗します。もう徹底的に失敗してます。しかし、その失敗のありようが人魚姫の人となりを物語っています。ちなみに、この物語は、失恋につぐ失恋であった悲しいアンデルセン本人の人生そのものであるとも言われています。

 何が言いたいかというと、最終的に成功やハッピーエンドに結びつくかどうかは関係なく、またそれが教訓になるかどうかも関係なく、損や失敗の「ありよう」こそがその人の人格や人生の「ありよう」になるということです。

「成功」という現象のわかりにくさ


 これは僕らの日常においても幾らでも類例はあります。例えば、宝くじで1億円当るというのは大きな得であり成功です。でも、「宝くじが当った人」というだけでは、その人の人物像はサッパリ分かりません。ノーベル賞や金メダルを取ったという成功も「すごいんだろうな」とは思うけど、どういう人なのかはよく分からない。

 しかし、失敗や損は、例えば寝坊して大事な試験をパーにしたとか、社内不倫がバレて左遷されたとか、何となくその人の「お人柄」を彷彿とさせます。最も顕著な例は犯罪です。発覚した犯罪というのは、いずれも「失敗」であるわけですが、その事件の詳細を掘り下げるほどに、悲しいくらいにその人の人となりが浮き彫りにされていきます。

 もちろん成功や得もその人らしさが現れているケースは多々あります。しかし失敗・損に比べると見えにくい、分かりにくい。なぜか?この構造は、ある程度説明がつくと思います。

 以下過去のエッセイ「成功の罠」(essay509)と微妙にカブるのですが、ある物事が「成功」という形になるまで、大なり小なり偶然の事情が左右します。それは単純に幸運である場合もあろうし、幸運なんだか不運なんだかよく分からない運命のイタズラみたいな事情もあります。いちいち「成功」とは呼ばないようなルーチン業務はそれほど運に左右されませんが、より大きな成功を目指せば目指すほど、偶然の要素が強くなっていく。起業して成功するためには、大小無数の人との出会いがポイントになるし、時の運も影響します。比喩として適切かどうか分からないのですが、競馬や株においても、鉄板に堅実な買い方をしようとすれば、一般的なセオリーや地道な研究が大事ですが、一発大穴の万馬券を目指すほど運の要素が強くなる。

 この「運」が煙幕になって「成功の実像」を見えにくくします。
 運の要素というのは実に厄介で、同じようにやれば誰でも成功するというものではない。芥川賞を取りました、大ヒット商品になりましたとかいっても、そのタイミングもあるし、場の運もある。いくら同じ作品を投稿しても、たまたま同じ回にもっと優秀な作品があったら落選するわけだし、二匹目のドジョウを狙って大コケする例は世の中には幾らでもある。

 余談ですが、文学賞もいろいろと話題になるのだけど、実際問題、それほど優れた作品かどうか僕にはよく分からない。たまに「今年の芥川賞受章作品」なんぞをパラパラと読むこともありますが、「おお、凄い!納得」というよりは「そんなに言うほど凄いかなあ」というのが正直なところ。確かに1950年代の受章者は、安部公房、遠藤周作、開高健、大江健三郎と錚々たるメンツだったのですが。あなたは直近10年の芥川賞の作家と作品名を言えますか?。芥川賞は太宰治や村上春樹が取れなかった賞であり、逆に言えば彼らの才能を認めなかった賞でもある。石原慎太郎が審査員とかやってるし。何なんだろね?って気もします。

 また成功には、「勝てば官軍」効果というか、結果が良ければそれまでの過程の全てが正当化されたりするのだけど、実際には無駄な事も数多くやってたりする。しかし、成功してしまうと、成功というオーラや後光が輝いてしまって、そのあたりが見えにくくなります。

 実際のビジネスでは、最初はAを目指していたのだけど、ちょっとした出会いや偶然によってBに方向転換し、さらにガビーンという出来事によってCに変化し、結局Dで成功したみたいなことが良くあるのですね。しかし「成功物語」は後付ですから、ともすれば最初からDを目指して一直線に突き進んでいったかのように見えるけど、本当はそうではない。

 スポーツ選手やチームが何かの拍子で大会で大活躍すると、選手育成方法や練習方法が突如として脚光を浴びたり、ブームになったりするけど、どれだけ実像を的確に捉えているのか疑問なしとしません。

 なんかシニカルなこと書いてますが、でも、ほんと脚光を浴びるかどうかって、実際には紙一重だと思うのですよ。本来優勝すべきチームが、まさかの一回戦敗退ってことも普通にあるわけだし。だから、ほんのちょっとの差(殆ど運だと思うが)で、片や大騒ぎになり「成功のメソッド」があれこれ語られ、ちょっとの差で世間の誰も知らず、100%シカトというのが現実でしょう。なんかヘンだなと思うのですね。

 少なくとも、結果的に「成功」した人のプロセスやメソッドが100%正しくて、結果的に成功しなかった人のそれが100%間違っていた、、ということは絶対無いと思います。そういうこともあろうけど、真逆もあるでしょう。メソッドそのものは非成功者の方が普遍性を持ち、有用なのだけど、不運に見舞われてダメだった、成功者のメソッドはあまり良くないんだけどビギナーズラックに恵まれて成功しました、ってこともあります。アテにならない。だけど、「成功」という結果に引っ張られて、そのあたりがよく分からなくなる。

 だから他人の話を聞く場合、どう成功したかではなく、どう失敗したかを聞いた方が良い。そう言えば、その昔「合格者体験談無用論」というのがあって、むしろ不合格者体験談の方が役に立つという。でも実際に多くの合格者体験談は、その内実は不合格体験談になってます。最後の最後に合格するけど、それまでは失意と失敗の嵐であり、優れた語り手ほどその失敗過程の分析に時間を費やす筈です。

 よくちょっとオッチョコチョイな人が「合格・成功の秘訣は?」とか聞いたりするのですが、おそらくその答は「運」だと思います。過去の自分自身の(数少ない)成功例を省みても「たまたま」です。「もし、あそこで違う問題が出たら」とか考えたら、成否はたやすく逆転しただろうし、たまたま合格したから良かったものの、不合格だったとしても何の不思議もないです。僕に限らず、多くの成功者は「成功した」「俺様は正しい」とはあんまり思っておらず、「たまたま信号が青だった」くらいに思ってるケースが多いんじゃないかな。そりゃ大喜びしたりするし、僕もしたけど、それって青だったから喜んでるだけ。宝くじが当って喜んでいるのとその本質は同じ。

 なぜ成功者がそんなにシビアになるかといえば、これは簡単。成功する人(成功しても不思議じゃないくらい実力を高めた人)は、イチから十まで全ての過程、全てのメカニズムに精通し、あらゆるチェックをカマしているわけです。当然、要求水準が高いから、「ああ、ここもダメだ、あそこもダメ!」とダメダメポイントがやたら目について、試験前なんか死にたくなったりしているわけです。もう本人が一番機嫌が悪かったりする。「調子はどう?」と聞かれても「最悪」とブスッとしてる。まあ、テレビ画面とか(タイトルマッチの試合前の取材とか)ではファンサービスもあるから愛想の一つもいうでしょうけど、地味に不機嫌なのが実像だと思うぞ。

 ほんと、真剣にやればやるほど不安が山のように出てくる。試験でも「もし○○が出題されたら死ぬしかない!」とか思ってる。そんな分野が山ほどある。たまたまそこが出題されず、たまたま大失敗も犯さずにすんだから合格したようなものの、「実力ですんなり」なんて到底思えない。逆に、そんなことを思えるような低レベルのことをやってたって仕方がないのだ。というわけで、合格者や成功者の偽らざる心境で言えば「九死に一生を得た」くらいのところだと思います。

 でも、第三者からみると、いかにも成功するべくして成功しているように見えるのですよね。多分、本当に成功ということをしたことがない人ほど、そう見えると思う。ある程度やってきた人は、それこそ「板子一枚下は地獄」というのを骨身に染みて知っているから、そう鵜呑みにはしない。「○○という栄養ドリンクを飲んだから金メダルが取れました」みたいな、みのもんた的な「おはなし」にうつつを抜かしたりはせんでしょう。

 なんかこう書くと成功者をクサしているみたいだけど、別にそんなことはないです。成功者にはぱちぱちと賞賛の拍手を送りたいです。だけど武運拙く結果に結びつかなかった非成功者にも、より温かいまなざしと拍手を送りたいなと思うのです。大事なのは「成功しても不思議ではないレベルにまで実力を高めること」であり、それだけでしょう。最後の最後の成功/失敗の差はほんと「運」でしかないですよ。だからこそ恐く、難しいのですが。

 以上を一言でいえば、成功という現象はとっても分かりにくい、ということです。

 ということは、成功した人の「お人柄」もまた分かりにくい。

 アグレッシブなビジネスを展開しているからさぞかし強引な人格・人生かと思いきや、その実像は臆病な小心者でいつも胃がキリキリしてて、小心者だからこそ時々ブチ切れて死んだ気になって勝負をしてるだけだった、、ということもあります。辛口評論で鳴らしている強面論客の実像が、実は恐ろしいほど気配りの鬼で、腰が低いのを通り越して殆ど茶坊主のようであったという話も読んだことがある。このように成功のパブリックイメージと、その人の実像とはともすればギャップがある。スティーブ・ジョブスは、本人のキャラと成功とが密接にリンクしているように見えるけど、あれだって本当のところはどうなのかは分からないのだ。

失敗のわかりやすさ

 失敗・損の場合は、上に述べた成功にまつわる種々の目くらまし=紙一重の運の要素、成功オーラで目がかすんだり、勝てば官軍的な結果論的賞賛なり=が存在しないから分かりやすいです。何を意図して、どうトライして、どう失敗したか、というのがクリアに分かりやすい。

 まあ、幾ら分かりやすいといっても、それは本当に真実なのか?というと微妙ではあるでしょう。でも少なくとも失敗の場合は、「何が良かったのか」ではなく「何が悪かったのか」という観点で全てを点検するから、いきおいチェックも精密になるし、メカニズム論的にもわかりやすくなります。

 したがって、失敗事例においては、その人の「お人柄」も見えやすい。

 ということは、洞察力のある人が他者を見るとき、いかに成功したかではなく、いかに失敗したか、その失敗にどう対処していったかを見ている、ということです。

 最近、たまたま就職面接のコツのような記事を読んだのですが、採用側としては別に応募者学生の「成功話」「手柄話」を聞いているわけでもなくて、「その人となり」を見ているのだと。シビアに言ってしまえば、学生レベルでの「活躍」「成功」とかいっても、例えば在学中から起業しましたとかいっても、年商数兆円のビジネスをやってる現場からみれば、しょせんは子供の遊びのレベルでしかないし、そんな「成果」を聞きたいわけではない。だから結果的に失敗に終っても全然構わず、どうトライしたのか、どう考えたのかを素直に述べればそれでいいと。

 これは僕もそう思います。僕自身、前の事務所で、事務員さんの採用の面接官(の下っ端)をやったことがあるので何となくわかるのですが、興味の焦点はたった一つ=「どういう人か?」という人物論だけです。法律事務所だから法学部卒が有利とか、ぜーんぜん関係ないです。年齢も前職も関係ない。そんな法則性なぞ、現実には例外が幾らでもあるんだから現場では全く役に立たない。超忙しい事務所だったから、とにかく「使える人」。それだけ。使えない人を雇っちゃったら現場的には自殺行為ですから、こっちも必死です。

 「使える人」の基準が曖昧なんですけど、私企業においては別に基準を明確にしなきゃいけない義理もないです。もっといえば公正公平に採用しなければならない義理もない。しょせんは雇用契約という「商談」であり、契約の諾否の自由は双方が持ち、その結論に理由を述べる必要すらない。それはイチ消費者がこの商品を買うか買わないかは100%本人の気まぐれに任されていると同じです。常に公正な基準でモノを買えというものではない。だから就職は大変なんだけど、でも就職したあとでは、その100%気まぐれな消費者を相手にモノを買わせる仕事をするのだから、こんなところでコケてるようでは話にならないということなのでしょう。

 「使える人」の条件は、まずはこのクソ当たり前の現実を当たり前に理解できてるか、それも理屈ではなく身体生理感覚でわかってるかどうかでしょう。要は「見えてる」かどうか。逆に「使えない人」の条件は、まずもって「なんでもフォーマットに乗せようとする人」でしょう。何かをやろうとする場合、A+B+Cの公式どおりやっておけばいいと思ってる人。世の中それでいいんだったらどんだけ楽か、ですよね。現実は常に違う。顧客甲の場合は3ミリズレるから3ミリ分修正する、顧客乙は28ミリ、しかし顧客丙は3メートルもズレてるから従来のメソッドは全面破棄くらいにして新方式を構築する、、という。九州進出!といっても、福岡県で成功したメソッドが佐賀県で通用するとは限らない。どこが同じでどこが違うか、それを現場の数少ない情報の中からいかに的確に見抜くか、そして修正パッチをいかに当てるか。「使える」というのはそういうことでしょう。

 オフィスのメモ用紙や試し刷りなどに、よく裏紙を使ったりしますが、これもケースバイケース。法律事務所の場合、顧客の個人情報が事務所中に散らばってたりするのですが、誰かの戸籍謄本のコピーなんぞを裏紙に使って、それが他の顧客の手に渡ったりしたら「そーゆー事務所か」と思われてしまう。もう致命的。「現場では自殺行為」というのはそゆことです。しかし、築地のセリ市のような忙しい現場でそんなことをイチイチ手取り足取り教えているヒマはない。僕が仕事に就いた頃ですら、超多忙なボスは忍者みたいに常にいない。もう重要案件の指示を仰ごうにも1日30秒くらいしかチャンスがない。ダーッっと走っていって、トイレとかエレベーターの中でボスをつかまえ「例の○○ですが」でやらんとならん。そんな現場であらゆるパターンを事前に教えることなど不可能。「適宜自分で判断して!」とやるしかないです。それが出来るか出来ないかです。

 要は「ゼロから自分で構築できるか」です。それをこそ知りたい。そして、カンのいい人は既にお気づきかと思いますが、失敗の分析くらい、この能力を養うものはないし、この能力を測るものはない。真剣になればなるほど、「何がいけなかったのか」でゼロから全ての過程を緻密にチェックしていく。そこで思ってもいなかった新しい視点や、新しい価値観がバキバキ開発される。これまでA→Bと思ってたけど、これって単なる思いこみかも?もしかしてAからいきなりCというルートもあるかもしれんな、とかね。

 ゆえに人を見る場合、この人はどういう種類・高さのハードルを設定したか、なぜそう設定したか、それをどうクリアしたか/しなかったか、何がダメだと分析したか、その修正のためにどういう工夫を施したか、、あたりを見ます。一番良く分かりますから。

 逆に言えば自分を語る場合、自己プレゼンをする場合、失敗を基軸に語った方がずっとやりやすいです。失敗や過ちは誰でもやるし、それは大きな問題ではなく、それによって何を学んだかであり、どれだけヴァージョンアップできたかです。さらにいえば、どれだけの自己修復機能があるか?です。この修復機能が強い人は楽です。そりゃ最初は失敗の連続だろうけど、しばらくしたら勝手に学んで、勝手に修復して、いつのまにか出来るようになってるから。「教えなければ出来ない人」「聞いてません、を連発する人」は、基本、使えないです。これは極論で言ってるのではなく、ごく普通にそうだと思う。違うの?

 以上、どう成功したかよりも、どう失敗したかという、失敗の仕方が重要だと思う所以です。

 まあ、プレゼンがどーのとか改まったこと書いてますけど、ごくごく素朴に考えても、「失敗している自分」「ダメダメな自分」の方が、より本当の自分に近いと思いませんか?「ウジウジ悩んで結局決めきれないで、大事なチャンスを逸してしまう自分」とか「すぐに調子に乗って池にドボンとハマる私」とか。「成功した自分」というのは、なんかあんまり自分の事じゃないみたいというか、「まあ、あのときは、たまたま上手くいったけど」と客観的な「事象」にように感じられるけど、失敗は、すごくパーソナルなことに感じられる。自我投影率が高い。

 このHPや日常の仕事においては、常に皆さんに「失敗」を慫慂(しょうよう=オススメ)している私ですが、失敗にも「仕方」があるということです。どんな失敗にもそれなりに栄養分はありますが、可能ならば栄養満点な失敗を。冒頭の強欲夫婦みたいな失敗をしたくはないでしょう?そーゆー失敗した自分は、結局は「そーゆー自分」だということです。

損の仕方

 さて、これが一番の本題です。いかに損をするか。です。

 損の仕方こそが、その人の人格や人生をディープに刻み込みますし、対世間においても強い印象になります。すごい大事。

 豊臣秀吉の出世街道の転機になったのが、信長の越前朝倉攻め→全面撤退の際に、殿(しんがり)軍を買って出たときだといいます。挟み撃ちになって全滅の危機を迎えたとき、敢えて全軍のための最後尾の守りを固める殿軍は、当然のことながら死傷率が高く、ほとんど死地といってもいい。それをわざわざ進んで買って出た時点で、秀吉は男を上げて、皆から一目置かれるようになったそうです。信長の草履取りからはじまって、知略調略に長けていたけど、小男だったので武功も立てられなかった彼は、他の荒武者達からは「おべっか使い」くらいにしか見られず、軽んぜられてたそうです。しかし、このときに死を覚悟した壮絶な忠義ぶりを見せたことで、周囲の見方も変わったそうです。「あの猿めが、男であったわ」と。本気で死を覚悟していたそうですし、死んでも良いくらいに思ってたそうですが、そのくらいの「大損」を買って出たことで、彼は大きな信用と尊敬を得ます。それが後日の天下取りにつながっていく。

 ここまで極端ではなくても、この種の例は日常では幾らでもあります。
 会社でもどこでも、敢えてわざわざ縁の下の力持ちに甘んじたり、手柄を部下に譲ったり、他人の責任まで自分がひっかぶったり、そういう「損」をしている人がいるでしょう。彼らは、不器用だし、世渡りが下手なのかもしれない、時として「馬鹿な奴だ」と侮りを買うかもしれないけど、総じて尊敬や敬慕を得ます。「いや、○○さんは、ほんとエラいよ」と。

 これが後になって効いてくるのですね。周囲から信用を得ている人の言葉は重く、皆も聞きます。「○○さんがそう言うなら、そうなんだろうな」と。また頼み事も通りやすい。「○○さんに頼まれたらイヤとは言えないですよ」と。この信用なり人徳がある/ないでは、人間関係の力学がどれだけ違うか。天地の開きといってもいい。

 逆にセコい得ばっか考えている人は、それなりに周囲に扱われます。コンパの会計になるといつの間にかトイレに逃げてるという古典的な事例も、貰いタバコばっかりしてる奴とか、他人の家にいってトイレットペーパーを勝手に持って帰る奴とか(こっちは高いので良く聞く話)。そういったセコい得を探している人は、周囲からも「そーゆー奴」だと思われる。これ、人間って恐くて、見てないようで見てるからね〜。分からないだろうと思ってるのは本人だけで、そういうことって他人は絶対見逃さないよね。特に日本人は見逃さない。で、「ははん、そーゆー奴か」と思われる、軽侮されると、これが本当に「七生祟る」ってくらい、あとで効いてくる。自分の失敗を部下になすりつけ、部下の手柄を横取りしてる上司だったら、いざというときに人はついてこないでしょう。「誰がいくか」って感じ。

 「損して得取れ」「情けは人のためならず」っていうけど、大きな損得の因果関係ではそういうことはあるのでしょう。巡りめぐってそうなるケースが多い。ビジネスでもあります。てかビジネスでこそ良くあります。起業でもなんでも、規模がデカくなるほど、「何にも言わずにポンと1000万円貸してくれた」みたいな人間的な出来事がないと前に進まないのですが、その根拠になるのが信用であり、その信用はどこから来るか?というと「損の仕方」でしょう。ある人の損の仕方をじっと見ていて、査定しているケースが多い。「あのとき、こいつだけは逃げなかった」「彼が全部ひっかぶって部下を守った」とか。

 結局、「敢えてする損」というのは、その人の価値観や人間性が分かりやすく現れるからでしょう。人間誰しも損はイヤだし、得したいと思う。それが普通。その普通の道理に反しても、尚も譲れない価値があるということで、その人の価値観が分かる。そういう価値観や魂のありよう(正義感や思いやりの深さなど)を、他人は垣間見るのでしょう。

 一方、ここで「敢えて損しておけば、後で得」という「邪念」が入ってたりするケースもありますよね。売名行為みたいな。一概には言えないけど、身近でそういうことが起きたら、結構分かるんじゃないかな。直感的に、オーラ的に、「濁ってるな」ってのが分かりやすいと思う。まあ、本当に正確に分かるかどうかは事例によりけりだろうけど、でも、少なくとも「損をするならピュアにしろ」ってことです。あとの得など期待するな、です。そのほうが間違いが少ない。花咲爺だって、先々の利得を考えてやってるわけでもないし、この種の得というのは、結果的にいつの間にか巡ってきてる時が多い。

 「どういう損をするか」というのは価値観だけではなく、その人の「器」も示します。大きな、ドエライ人なのか、セコい小人物なのか。大損ぶっこいても「わはは、授業料じゃ!」って笑ってる人と、それで死にそうになってる人とでは「器」が違う。器というのは、肝っ玉と言い換えてもいい。

 器が大きいと、他人から慕われるという以上の実質的なメリットがあります。それは大局観です。大きく物事を捉えるから、大きな因果関係が見える。目先のことに一喜一憂せず、大きく考えられる。大体において物事というのは、大きくシンプルに考えた方が間違えないです。将来不透明な時代になりました、いかに生きるべきか?という問いでも、「要は人間と人間がなんかやってることに変わりないんだろ?だったら人に好かれたらいいわけだし、人に好かれるような魅力的な自分になったらいいんじゃないの?」「要は有能だったらいいだけでしょ?」と大きく捉えた方が間違えない。ここで、「このクーポン券、今月末が使用期限だから」なんて目先の損得を幾ら積上げても人生は構築できない。

 物事というのは投資(原因)をしないとリターン(結果)がない。これはもうエネルギー保存の法則のような物理法則でしょう。何らかの原因を作っておかないと結果もでない。大きな結果が欲しかったら大きな原因を作っておくしかない。あったり前のことです。それをビジネスや個人の生活でいえば「投資」になるわけですが、別に投資といってもお金に限った話ではない。修行とか、勉強とか、練習とか、経験とか、悩みとか、そして「失敗」も大きな投資になります。

 お米を6合炊くとします。まず1合炊いて、次にまた1合炊いて、、と合計6回、6合にするくらいならば、最初から6合炊いてしまった方が手間も時間も遙かに早く済みます。そう思って最初から6合ドンと炊ける人と、チビチビ1合ずつしか炊けない人がいる。確かに1合だけなら時間も早く済むけど、1合だけ炊いてもしょうがないのですね。でも最初から6合炊くことにタメライを感じる。かくして「兵力の逐次投入」という最もやってはいけない愚を犯し、時間も金もかかる割には成果が乏しいということになりがちです。

 大きな結果が欲しければ、大きな投資をするしかない。そこでどれだけ「大きな投資」が出来るかです。どこまで持ちこたえられるか、それがその人の器量でしょう。器がデカく、肝っ玉が大きく、大局観のある人は、この因果を大きく捉えることが出来る。「とりあえずこの10年は修行」とポンと割り切れる。その間、極貧だろうが、鳴かず飛ばずであろうが、他人から嘲笑されようが、ぜーんぜん気にしないということが出来る。てか、そもそも器量が大きい人ほど、それを「損」だとは思わないんだろうな。やたら「損した」「騙された」と騒いでいる人って、大体において小物じゃなかろか。

 「人間、辛抱だ」とか言われますが、こういう意味でいうなら分かる。正しい辛抱の出来るひと(器の大きな人)は、例えば、恐ろしい敵の猛攻を受けても、必中の射程距離まで引きつけることが出来る。しかし肝っ玉の小さい人は、恐怖にかられて辛抱できず、射程距離外からバーンと撃ってしまい、当らないのは当然として、「あ、あそこだ」と敵に居場所を教えてしまい、全滅させられてしまう。ありがちですよね。1合だけ先に炊いてしまったのが命取りになるという。

 「器量」とかいうと、ともすれば雲を掴むような話になりがちですが、それを現実レベルで落とし込んで考えると、例えば「どういう損をするか」だと思います。

 損とは器量であり、投資であり、価値観である。「損の質」によってその人の人間性がわかる。それはもう残酷なくらい。


 以上、マトメでいえば、

 @、成功や得は、結果的にそうなったり、運の要素が強いので、そればっか考えていると迷宮に入り込む危険があること

 A、逆に失敗と損というのは分かりやすく、取っつきやすいから、これらをとっかかりにしていった方が間違いが少ない。そして、どういう失敗をするか/どういう損をするか=「失敗の仕方」「損の仕方」というものがあり、失敗や損の「質」にはこだわった方がいいんじゃないか、

 ということです。

 でも、ま、単純に、成功・得話よりも、失敗談や損話って面白いですよね。すごい人間臭いし、取りあえずウケますよね。ということで、いい失敗、いい損をしてください。

 皆が競い合うようにちょっとでも(セコい)得をしよう、(セコい)成功しようとしている社会よりも、皆が競いあって(いい)損をしたがったり、(いい)失敗したがってたりする社会の方が、僕は好きですけどねえ。それってより人間らしく、よりチャレンジングな社会ってことでしょう?楽しそうじゃん。

 究極的なことを言ってしまえば、「良い失敗・損」というのは、そのこと自体が既に「良い成功・得」なんですよね。同じ事なんですよね。


文責:田村



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